マヨイ道
現在
今の、僕の状況を端的に表す言葉を見繕うとするならば、『迷子』という言葉が一番しっくりくるのだろうか。いや、大学二年生の男を『子』と表現するのはいささか無理がるようにも思える。では『迷い人』だろうか。いや、それも何か違う気がする。よく知っている道で前後不覚に陥り、立ち往生しているこの状況を表現するなら、やはり『迷い人』ではなく『迷子』という表現の方がより状況を捉えている気がする。
「はあ……」
自然とため息が漏れた。それは迷子となった大学二年生のため息だった。
ただ単に、空間認知能力が欠如していた、方向感覚が著しく悪い、そんな理由で迷子となるのなら、いたしかたないし、それなりに対処法も見えてくるだろうけれど、今のこの状況は、方向感覚とか、道を覚えられないという次元の問題ではなかった。
そもそも、僕は方向感覚に関しては優れている方であると自負している。もちろん地図も読めし、頭の中で地図を描くことだって出来る。今までの人生で、道に迷うという体験もゼロではないが、極めて稀な体験と言える程度には、僕の方向感覚には自信を持っていた。
「あっ……」
はっとして、僕は思い出した。この『迷子』と似た状況に陥りかけた事が合ったのだ。しかも、今から二カ月程度過去、というか最近の出来ごとだった。その時は、迷子未遂で終わったけれど、状況は似ている。なぜ、今までそんな最近の出来ごとを忘れていたのだろうか。自然と、僕はあの二か月前の不可解な体験を思い出していた。
あれはちょうど、定期試験が近くなり、レポート課題に煮詰まっていた、梅雨の終り、7月の事だった。
二か月前
入学の際、学校が推奨モデルとしていたノートパソコンを開いて、ワードを起動する。決められた書式にページを設定して、日付、学籍番号、氏名を入力。中央揃えにしてフォントサイズを適当に大きくして『西ヨーロッパ地域文化論 レポート課題』と打ち込む。ここまでは順調だった。むしろ、ここまでしか順調ではなかった。
講義の半分を代返してもらい、残りの半分は出席していても寝ているだけだった。そんな受講態度で、レポートが書けると思っていたのがそもそもおこがましい話しだった。
しかも、課題の内容が、「授業で扱ったテーマから2つ選び、講義の内容を簡単にまとめたうえで、自らの意見を論じよ」だった。まじめに受講した学生にしか単位をやらないという教授の意思が見え隠れする設問だ。それでも、ノートを借りたり、要点を聞いたりして、上手く立ち回れば、レポートは書けそうだが、残念ながら僕は上手く立ち回る努力すら怠っていた。そもそも、レポート課題がある事すら失念していたのだ。努力なんて行えるはずもなかった。
レポート提出前日にレポートの存在を思い出した事は幸か不幸か、たぶん、後者だと僕は思う。ただ、思い出した以上は最善を尽くさなくてはいけない。少なくとも単位は欲しいのだ。
講義を受けていた友人に電話して、テーマと大まかな解説を施してもらった。後は適当にそれらしい事を書けば、たぶん、可はもらえるはずだ。気づくと日付が変わって、深夜の1時半ごろになっていた。僕小腹が減ったのでアパートを出て、近くのコンビニへと向かう事にした。レポートはまだ3分の1が終わった程度だった。
大学進学と同時に、4階建の割と新し目の鉄筋コンクリート製のこのアパートに住み始めて、一年と3カ月ほどが経過していた。初めの頃はよくわからなかった周りの地理も今やだいぶ詳しくなっていた。
近所のコンビニまでは歩いて5分ほどで、アパート前の道をまっすぐ行くだけだった。何度となく利用している道で、目をつぶっていても辿りつける自信があった。しかし、アパートを出てすぐに異変に気がついた。
コンビニの姿が見えない。
普段ならば歩いて1〜2分もしない間にコンビニを視認出来るはずなのに、それが出来なかった。
それに、どこをどう見ても、辺りには見覚えのない景色が広がっていた。
おかしい。
それどころか、街灯、住宅の明かり、車、そんな普段見かけるものも見ることが出来ない。
完全な暗闇だった。
普段ならば少し離れた大通りから聞こえてくる車の音や漏れてくるネオンの光も確認する事が出来ない。
引っ越してくる前の田舎ならいざ知れず、都内でのこの状況は明らかに異質だった。
大停電でも起きたのかとも思ったが、そうでは無かった。そもそも、建物や車、そのものが無いのだ。
コンビニがあるはずの方向に歩きながら辺りを確認していたが、この異質な状況に一抹の不安を覚えて、僕はとりあえず、来た道を引き返すことにした。
振り返えると、それはいつも見る道だった。
見覚えのある建物、街灯、何事も無かったようにそこにあった。遠くから車のクラクションが聞こえてきた。
正直、何が起こっているのか理解できなかった。
恐る恐る、先ほどの進行方向に目を向ける。
100メートルほど手前、はっきりとコンビニの姿が見えていた。
現在2
結局、あの体験が何だったのかは謎のままだった。あの日、結局気味が悪くて、コンビニには行かなかった。そのあとも、どうにもレポートに取り組む気になれず、結局、西ヨーロッパ地域文化論は当然の棄却として不可という評価をいただいた。
そして今、僕はあれと同じような状況に陥っている。
続いて思い出すのは今から2〜3時間前の事。
現在より少し前
「おい!合コンするぞ。合コン!今夜10時に俺んちに集合な!」
そんな電話があって、友人のアパートに行くと、そこには友人の他によく知る女とよく知らない女がいて、テーブルの上には缶ビール、酎ハイ、ジュースと安いつまみが置いてあった。
「色々、ツッコみたい事があるんですが」
僕が言うとこの部屋の家主の友人はドーゾと言った。
「合コンって相手、西野かい!」
「合コンって言った方が楽しさが増すだろ?」
「その後のガッカり感で台無しだよ!」
そういうと、奥でスラムダンクの17巻を読んでいた西野麻子はマンガから顔を上げて、ガッカリってなんだーせっかく来てやったのにーそれにちゃんとゲストもいるんだぞーと声を上げた。
西野は大学の同じ学部で、一年生の頃からつるんでいる、いわゆる女友達だ。さばさばとした性格のせいか、身なりや外見は完ぺきに女なのに何故かあまり女を感じさせない不思議なやつだ。男女、後輩先輩関係なく友達が多いらしく、西野と構内を歩いていると、よく色々な人とあいさつを交わしている光景を目にする事がある。交友関係が広いのに、なぜか俺達と一緒にいる事が多い。何故かはよくわからないけれど、わざわざ聞くことでも無いので、本人に聞いたことはなかった。西野とはよく一緒に飲んでいるので、たぶん、「合コン」と言ってきたのは、西野のいうゲストによる所が大きいのだろう。
西野の横でカイジの3巻を手に持って、僕が部屋に入ってからは、マンガから顔を上げてこちらを見ている女性、名前は知らない。同じ学部の学生である事は知っている。正直、いつも前の席でまじめに講義を聞いている人という事しか知らない。たぶん、話したことは無かったと思う、むしろ、西野とも知り合いだったことに驚いた。黒髪のストレートで、細身な体型、小顔で日本人形がそのまま成長したような人だ。美人ではあるが、どこか近寄りがたい印象があった。そんな人が友人いわくの「合コン」に来るなんてあまり信じられなかった。
僕は、「どーも」と切れの悪い挨拶をそのゲストにした。はじめましてだけれど、はじめましてというほど、はじめましてではない。正直気まずかった。
ゲストは、こんばんはと言って、ようやくカイジの方に視線を落とした。
僕は思い出したように友人に向き直って、思い出したようにツッコんだ。
「てっか宅飲みかい!」
やっぱり、どこか切れが悪い。
「金ねーもん。まぁいいじゃん。とにかく座れ」
そういって友人は着席を促して、マンガを読んでいた女子二人も、それにならってテーブルに着いた。
友人と僕はビールを、西野は缶チューハイのカシスオレンジを、そして、ゲストはコップに注いだ、オレンジジュースを手に取っていた。それを見て友人は始まりの挨拶を始めた。
「はいっという訳で、クニムネさんとは初めての飲み会になるわけですが、まぁなんていうか、お疲れーーー!」
テンションだけで突っ走った挨拶だった。そして、目の前の女の子はクニムネさんというらしいことがようやく分かった。たぶん、国宗さんだろう。と頭の中で漢字を当てはめた。僕も友人にならってお疲れーと言って、ビールを口にした。
1〜2時間が過ぎた。適度に酔いも回って、テストがどうとか、8月になにしたとか、もうすぐで学校が始まるとか、まあくだらない話をして、それなりに盛り上がっていた。国宗さんは基本的には自分からはしゃべらなかったけれど、話を振られれば答えていたし、西野とも楽しそうに話をしていた。特に彼女と何かを話した訳では無かったけれど、近寄りがたいという印象は和らいではいた。
ちょうどそのころ、つまみが切れて、西野が「男ども、つまみが足りんぞ!今すぐ買ってこーい!」と言い出した。
僕はどこのバカ殿だよと言いながら、友人を視線を合わせた。友人もその視線の意味を理解しているようで、音頭をとる必要はなさそうだった。
「「ジャンケン、ポン!」」
二人同時に掛け声を出し、結果、負けたのは僕だった。
現在3
この友人のアパートは以前から何度も遊びに来ているし、辺りの地形もだいたいは把握していた。近くのコンビニの場所も分かっていた。アパートの前の道をまっすぐ行くだけ、途中ちょっとした坂になっていて、そこを登れば、コンビニがある。サルでも辿りつけるほど、わかりやすい道順だった。
しばらく歩くと、それは何の前兆も無かった。気づいたら僕は全く知らない場所に立っていた。ふと、振り返ると、友人のアパートは消えていたし、辺りの見覚えのある建物もすべて消えていた。
辺りを見回してもやはり、完ぺきに見覚えの無い場所だった。これは、なんなんだ?僕は混乱した。僕はいつ『迷子』になったんだ?
とりあえず落ち着こう。そう自分に言い聞かせるように、静かに深く息を吐く。
「はぁ……」
深呼吸のつもりがため息をついてしまった。辺りを見回しながら以前遭遇した『迷子未遂』の事を思い出していると、前とは少し状況が違う事に気がついた。
急に前後不覚になったのは一緒だけれども、今の状況が少し違う。以前は気づいたら何も視えない聞こえない暗闇のなかにいたのだけれど、今はそうではない。街灯の明かりがある。遠くで車の音が聞こえる。ただ、どこだかわからないというだけ。そういう意味では今の状況は本当に正真正銘の意味で『迷子』に近いかもしれない。
「そうだ……ただの迷子だこれは……」
自分に言い聞かせるように一言つぶやくと、滝のように言い訳がついて出てきた。そもそも通い慣れたとは言えここは自分の日常的な生活範囲では無い。間違えることもあるだろう。それに今日はお酒も入っている。そもそも昼間の街のイメージと夜のイメージが違うことだってあるだろう。きっとぼんやりしてただけだ。そうに違いない。
なんとか自分を言いくるめて、その先に行けばコンビニがあると思っていた方向に足を進めた。正直に言うと、踵を返して家に逃げ帰って、お使いも出来ない能なしだと思われる事が嫌だった。その理由が迷子になって不気味だったからじゃさすがに立つ瀬がない。自分の中のやばいと思う気持ちにそっと蓋をして、今は酔っていると自己暗示をかけて歩き出した。
しばらく道なりに歩いていると、目の前に緩やかな坂が見えた。相変わらず周りの景色に見覚えは無いけれど、友人の宅からコンビニまでの記憶していた道順と同じだ。記憶によれば坂を上がった右手に、青を基調としたコンビニが見えるはずだ。
坂を登ると、その先の右手には確かにコンビニがあった。しかしそれは青を基調としたローソンでは無く、緑と赤とオレンジのストライプが煌々と光るセブン・イレブンだった。記憶違いをしていたかと思ったけれど、確かにここはローソンで、ポイントカードを出した事を覚えていた。セブン・イレブンのポイントカードを僕は所有していない。
しかし、ここに来たのは夏休みに入る少し前、約二ヶ月前になる。二ヶ月もあればコンビニがつぶれ、新しいコンビニが入ることだってあるように思える。実際、コンビニの跡地にコンビニができることは珍しい事ではない。僕は営業するセブン・イレブンを見て、ふと胸をなでおろしていた。不可解な現象が続き、自分の見ている世界がひどく曖昧なものになりかけていた時に、自分のよく知るモノが普通に営業している、正常な世界がしっかりと回っているという確証が得られた気がした。この一連の不可解な体験は、世界がおかしいのでは無く、自分の注意不足や疲れから来る勘違いだったのだと思えた。
店内に入ってもおかしな点は無く、ごく普通のセブン・イレブンだった。一押しスイーツとして濃厚フロマージュが大々的に展開されている。店員も普通のおじさんで、後ろを向いたおじさんに呼びかけると、顔の凹凸が無いのっぺらぼうだったという古典的なオチも無く、フロマージュやスナック菓子やつまみなどを小気味良いリズムで袋に入れて、つつがなくレジ業務を行なっていた。
代金を支払い店を出て、坂道を戻ろうとするとふと、さっき来た坂道から直線、その道の先はどこへ続くのだろうかと気になった。坂道を登ってコンビニに来ることは何度もあったけれど、その先に進んだ事はなかった。ここはどうやら坂の終着点ではなく、中腹にある平地のようで、坂道を登って、コンビニの辺りで一旦平坦にはなるものの、その先はまた緩やかな坂道が続いていた。おそらく住宅街しか無いだろうなという予想はついていたけれど、何故だか坂の向こうが気になって、気づけば僕は友人宅とは逆方向、足を踏み入れた事のない奥の坂道へと歩みを進めようとしていた。それはまるで、見えざる手に背中をぐっと押されたような、自分の意志とは違う意志で体を動かしているような感覚だったけれど、不快感や不安感は無かった。そして、足を一歩踏み出した時、唐突に声が聞こえた。
「やめといた方がいい。それ以上行くと戻れなくなるよ」
不意に声をかけられて振り向くと、コンビニ横、歩道と車道の境界にある縁石に立って、「よっ」と言いながらバランスを取っている人影が視界に入り込んできた。コンビニを出たときは人影なんて見えなかったはずなのになんて思いながら声の主であろう人影を注視していると、影はゆっくりと近づいてきて次第に輪郭をはっきりとさせた。そこには見覚えのある、水色のふわりとしたワンピースと華奢な腕と足、そして印象的な長い黒髪と小さな顔が見えた。
「国宗さん……?」
「やあ」
まるで級友と街でばったり遭遇したかのように、挨拶を交わしてきた。何故だかすこし楽しそうだ。
「え?どうしたの?買い出しの追加?だったら携帯に連絡してくれたら
「携帯、アパートだよ」
ぱっと思いついた彼女がここにいる理由を述べようとすると、彼女は僕の言葉を途中で遮って言った。反射的にジーンズの左前ポケットのいつも携帯を入れている場所を触ると、そこに携帯の感触は無かった。今まで気づかなかったけどどうやら携帯を置き忘れて出てきたようだ。
「本当だ。ごめん。全然気づかなかった」
「気にしないでいいよ。それに買い出しのために来たわけじゃないし」
そう言いながら彼女は「ほっ」っと言って縁石から歩道へと小さくジャンプして、僕の前へと着地した。買い出しの追加じゃないとすると益々理由が見えてこない。
「え?どういうこと?」
それにさっきの戻れなくなるというのは……と続けて言いそうになるのをぐっと堪えた。
「心配になったから」
彼女は僕より頭半分ほど背が低いため、向い合っていると自然と上目づかいになっていて、目をそらすという事をせずにじっと僕の双眸を見つめていた。まるで何かを訴えかけているようにも感じたけれど、何を訴えかけているのかはわからなかった。怪訝そうにしながら僕は言う。
「心配って、買い出しを?小学生じゃないんだから……」
「でも、迷子になった」
『迷子』という言葉に思わず声がつまった。僕のさっきまでの状況を見ていたというのだろうか。恥ずかしさと共に、見ていたのなら声をかけてくれればいいのにという八つ当たりのような感情が芽生える。
「えっ……もしかしてさっきの見てたの?やだな。見てたんなら声かけてくれたらいいのに」
「ずっと見ていたわけじゃないよ。それに、見つけてすぐ、声はかけたじゃない」
「はい?声をかけたって今じゃん」
「うん。そうだよ」
どうにも要領を得ない。彼女の言いたい事がまるで見えてこなかった。まさか酔っているのかと思ったけど、彼女は今日、アルコールを口にしていないのを思い出して考えを改めた。そして、沈黙を破ったのは彼女だった。
「君は今、絶賛迷子中だ。しかもとびきり危険な場所での迷子。でも、正直に言って、自覚症状はあるんでしょ?
「……」
「まあいいや、とりあえず帰ろうか。話は歩きながらでもできるよ」
そう言って彼女はくるりと反対方向を向いて歩き出した。正直、何が何やらわからなくなっていた。先程僕が、そしておそらく彼女が登ってきたであろう坂道に向かって歩く彼女についていく。気づけば彼女はまた縁石の上に登ってバランスをとっている。車の来る気配は無かった。
「端的に言えばそうだね、神隠し、それが今の君の状況に一番即した表現だよ
「神隠しって、山とか神社とかで人が突然消えるとかいうあれ?」
「そうそう、それ。君の場合はそれが街中で起こった。というだけの話」
「へぇそうなんだ。と言えない程度には僕も現代の普通の大学生なんだけど」
「神隠しと言えば昔の迷信というイメージが強いかもしれないけど、今でも日常的に発生している怪奇現象なんだよね。私達からすればポピュラーともベタとも言える」
ポピュラーならどのあたりが『怪奇』現象なんだろう。なんというか色々突っ込みどころが多すぎて反応に困る。とりあえず、
「もしかして、国宗さんって中二?」
「ん?君と同じ大学ニ年生だけど?」
「そうですね……」
とぼとぼと坂を下る。坂道で縁石の上でバランスを取るのは難しいのか、はたまた飽きてしまったのか国宗さんは、今は普通に歩道を歩いている。相変わらず人気は無いけれど、いたって普通の住宅街だ。ただ、見慣れないという一点を除けば何もおかしい場所では無かった。
「ここをまっすぐ行けば、直樹のアパートに着く」
「そうだね」
「これが神隠しなの?」
「神隠し寸前だったね。あのまま奥に進んでいたらきっと君は戻ってくる事は出来なかったと思うよ
坂を三分の二ほど下り終えた。横に並ぶ国宗さんの顔をちらりと窺う。突拍子もない事を言って僕のリアクションを楽しんでいる風にも、中二病的キャラになりきっている感じにも見えなかった。だったら……
少し話に乗ってみるかと思い立って、僕は続けた。
「じゃあ、国宗さんは命の恩人って事だ。感謝しないと」
「別に感謝なんていらないよ。恩を着せる気も謝礼を要求する気も無いから」
「国宗さんは良い人だね
「別に良い人じゃないよ。良い人なら事前に神隠しに遭わないようにしているでしょ?」
「そんな事できるの?」
「できるよ。インフルエンザの予防接種と同じ、現象を知れば、自ずとある程度の対策はできる」
そういう物なのかとぼんやり考えていると、ふと一つ疑問が生まれた。
「え?ちょっと待って、と言うことは国宗さんは僕がこの国宗さん曰くの神隠しに遭うとわかってたってこと?」
遭う前提が無いと、予防接種の喩え話はおかしい。
「七月のテスト期間前、同じような事になったんでしょ?」
なんでそれを知ってるんだ?と声に出そうと思ったら、国宗さんが続けて話した。
「次の日食堂で、直樹くんと麻子ちゃんに話してたでしょ?それがたまたま耳に入ったの」
たしかにあの日の次の日、二人にあの不可解な現象を話して聞かせたのは事実だった。もっとも、レポート出せなかった言い訳にしてはイマイチ。面白くも無いし意味わかんないしとか、現実と夢が区別ついて無い可哀想な人だったなんて……とか散々な言われ方をしてあしらわれただけだった。自分でも上手く消化できていなかったし、要領を得ない話だと思っていた。僕も他の人からそんな話を聞かされていたらきっと二人のようなリアクションを取っていたと思う。まさかあの時、あの話を聴いていて、しかも話を信じていた人がいるなんて思いもしなかった。ちなみに麻子とは西野の名前だ。西野を名前で呼ぶ程度には友人関係が本当にあったのかと少し驚いた。僕は西野が一方的に馴れ馴れしく国宗さんを友達扱いしているのだと漠然思っていたのだ。
「一度神隠しに遭遇した人はね、また神隠しに遭遇する可能性が高くなるの」
「それはなぜ?」
「実は明確な理由はわかってないんだけど、一度あちら側に近づくと、こちら側との境界がぼやけて曖昧になるからだと私は思ってる
ひどく抽象的な説明でイマイチ頭に入ってこない。というか、あまりちゃんと説明する気があるとも思えなかった。一度怪我をした所は怪我をしやすくなるとか、そういう話に近いのだろうか。
気づけば坂を下り終えていた。もうしばらくすると僕が前後不覚になった場所に差し掛かるだろう。
「でも、前に起こった事を知っているのならわかると思うけど、今の状況と前の状況は似ているけれど違う。確かに前に遭遇したあの現象は現実離れしているし、あのまま行けば神隠しに遭うと言われれば納得してしまいそうになる程度には不可解だったけれど、今、この状況はそれこそただちょっと迷っただけだ。それを神隠しだと言われても正直、どう反応していいかわからないよ」
そう言って横を歩く国宗さんの横顔を覗くと、彼女は僕の言葉をゆっくりと咀嚼するように頭を揺らしていた。
「交通事故ってあるでしょ?日本中、それこそ世界中で毎日のように事故が起こっている。でも、どれ一つとして全く同じ交通事故は無いじゃない?場所や時間、人や車、何か一つでも変わればそれは全く別の事故になる。けれど、交通事故には変わりない。交通事故として処理される。それと神隠しも似ていてね、同じ人が遭遇しても、場所や時間が違えば現象の発生の仕方は変わってくる。けれど、それは神隠しであることに変わりはない。一つとして同じ交通事故は無かったとしても、事故の分類分けはできる。追突事故だとか、交差点の信号無視だとか、それと同じでね、神隠しも幾つかのパターンが存在するの。そして、事故が起こりやすい場所、事故を起こりやすい人がいるように、神隠しが起こりやすい場所、遭遇しやすい人というのも存在する
なんだかいいように言いくるめられている気がする。
「仮に国宗さんの言うことを信じるとして、それでも僕が神隠しに遭っているという事にはならないんじゃない?今も普通に買い物をしているし、前の出来事だってただ寝ぼけていただけかもしれない
「そうだね。たしかに私は君が神隠しに遭っているという事を示してはいないね
そう言うと国宗さんは黙って歩いた。続いて言葉を発する気配はなく、彼女はぽつりぽつりと所々に配置された街灯の隙間から見える星空を眺めていた。思いの外多くの星が光っているのが見える。まるで夜の散歩をただ楽しんでいるという感じだ。散歩の間の暇つぶしでからかわれたのかとも思い始めた頃、国宗さんは急に立ち止まり、後ろを振り返ると、まるで神社のお参りのようにパンッと音を立てて両手を胸の前で合わせる柏手を打つような仕草をした。ぼんやりと国宗さんの後ろ姿を眺めていると、彼女はくるりとこちらに向きなおして言った。
「おかえりなさい」
言われて咄嗟に辺りを見回すと、見覚えのあるビル、見覚えのある看板、見覚えのあるアパートそんな当たり前のはずの光景が視線の先にあった。紛れもなく、僕の知っている、直樹のアパートの前の道だ。先程まで何度も確認しても見覚えの無かった道を歩いていたのに、いつの間にかよく知る道になっていた。
僕はさっきまで国宗さんが柏手を打っていた方向へと体を向けた、そこは先程までとは違い、確かに見覚えのある道が続いて、奥には坂が見える。先程まで歩いていた道と大まかな作りは似ているけれどディテールの部分で先程まで歩いていた道との違いが明確だ。ただただ頭が混乱している。ここの道は等間隔、それもわりと近い間隔で街灯が煌々と光っている。住宅街とは言え東京の道だ。街灯の下で夜空を見上げても数えるほどしか星を確認することはできない。当たり前の事だ。そんな事はわかりきっている。だとしたら、僕はどこで綺麗な星空を眺めたというんだ。
「何を……した?」
気づけば僕は国宗さんを睨むように見つめながら言葉を発していた。この混乱を国宗さんにぶつけて平静を取り戻したかったのかもしれない。けれど僕に睨まれた国宗はさっきまでと変わらない様子で続けた。
「別に何もしてないよ。ただ、感謝の意を表しただけ」
「感謝?」
「昔から神隠しはね、神様が通る道に迷い込んでしまうものだと言われていたの。神様の道だから、迷い込んで出られなくなってしまう人もいるし、思わぬところに偶然出たり放り出されたりする事がある。だから、神様の道をきちんと出ることができたら感謝するの。通していただいてありがとうございました。無事に返していただいてありがとうございましたってね。まぁ昔ながらの形式的なものだから、あまり気にしなくていいよ。ぶっちゃけそれをしてどうこうって事でもないし
「僕は、さっきまでどこにいた……」
「さぁ?たぶん、見た感じ日本のどこかじゃない?ていうか、君は確かめる術があるんじゃない。まさか割り勘の買い出しなのにレシート貰わないなんて気の利かない人じゃないでしょ?」
言われて、左手に持っていたレジ袋に放り込んだレシートを探してまじまじと見つめた。セブン・イレブンという名称が一番上に印字されていて、そのすぐ下に店名が書かれているのがすぐにわかった。
「新岩国御庄店……」
「岩国っていうと、広島だっけ?山口県?とりあえずそのあたりだよね。たしか」
山口県です。という言葉が出てこなかった。僕は東京に住んでいる。今も東京の友人のアパートで飲み会をしていた。なのになぜ山口県のコンビニのレシートがこんな所にあるんだ。こんな状況で国宗さんはどうして平気な顔をしていられるんだ。僕は知らぬ間に彼女の顔を見つめていた。
「そんなに怖がらなくてもいいよ」
国宗はにやりと笑って言った。初めて見た明確な笑顔だったけれど、あまり素敵とは言いがたい表情だ。そして、僕は国宗さんに対して今、恐れの感情を抱いていた事に気がついた。
「国宗さんって何者?」
「君と同じ大学ニ年生。ただ、怪奇現象に首を突っ込むのが好きで、首の突っ込み方を多少心得ているだけです。いや、今回は前の神隠しの話を聴ければいいやと思ってたんだけど、思わぬ体験が出来て楽しかったです
「なんというか、聞きたい事がたくさん出てきたんですが」
「まぁ答えてあげられる部分は答えてあげてもいいけど、また今度にしない?早く戻らないと二人に心配かけちゃう
続けてにやりとした表情を崩さずに国宗さんは言う。
「それに、ミステリアスな女性の方が素敵でしょ?」
思わず鼻で笑ってしまった。一呼吸置いてから僕は口を開く。
「やっぱり国宗さんって中二だ」
※
「おおおおおっせーよぉぉぉぉ!」
直樹のアパートの玄関を開け、廊下を通って部屋の扉を開けた時、直樹の第一声がそれだった。
「は?」
「遅いよ!おつかい一つにどんだけ時間かけてんだよ!国宗さんも追いかけて行ったきり帰ってこないし、完全に時間差の抜け駆けかと思ったぞ!」
「は?」
奇っ怪な現象に巻き込まれたとは言え、それでもアパートを出てから三十分は経過していないはずだ。多少遅かったとは言え、その言い草には疑問が残った。
「遅いしケータイ置きっぱだししょうがないから俺が買い出し行ったんだぞ!じゃんけん勝ったのに!どこのコンビニ行ってたんだよ!」
「ちょっと待って、今何時?」
そう言いながら壁にかかっているアナログの時計に目をやった。すると僕が家を出てから、少なくとも二時間半以上が経過しているという事になる時間を短針と長針は示している。たぶん、間違っているのが直樹や壁掛け時計では無く、僕の体に流れている時間の感覚なのだろうと思う程度には僕も学習を積んだようだ。にしても、時間の事は聴いていないと後ろにつっ立っている国宗に抗議の視線を送ると、一瞬だけにやりとあの可愛くない笑顔を覗かせると、後はここで初めて会った時のようなどこかつまらなさそうな顔へと戻っていた。
「それってセブン・イレブン?この辺ってセブン・イレブンあったっけ?」
僕が左手に持つコンビニ袋に気づいた西野が缶チュウハイ片手に声を出す。「無い無い。どこまで行ってたんだよ」と直樹が西野に同調して僕に問いかけてくる。
ちょっと山口県まで
心のなかで問いかけに答えながら、財布にしまったあのレシートの事を思いながら僕は笑いをこらえた。
最後まで読んで下さった方、本当にすみませんでした。
未完です。
どうしても時間がなく、未完のまま投稿することになりました。投稿をやめようかとも思ったのですが、登録した限りは、どんなに無様な形であれ、投稿するのが、筋
であると思ったので、投稿しました。
必ず、近いうちに続きを書きます。あぁ自分の力不足が嫌になる。
あと、この話オカルト板のほんのり怖い話スレを見て、印象に残っていた話を参考にさせていただきました。