二三四
二、三部分は再掲(まとめていた文章の関係で)
四部分はピクシブにも同じものを掲載
二三四
七月十一日
七月十一日のことであった。ござが水に浸っている。この水は洪水で部屋に闖入のものであり、三日経ては腐っていた。水の腐った臭いがする。できるだけ苦しむといい。足を出し、手が伸びた。手が、伸びたと思ったと思わないうちに伸びていった足首を掴んだ。ござが水に浸っている。ござが水の腐った臭いを放っている。ビニール袋もである。水の腐った臭いを放っている。誰も見ていない。誰も見ていない。できるだけ苦しむといいなあ。できるだけ苦しむだろうなあ。伸びたと思えばわっと言ううちに伸びていった。カッとなって楕円のホール外側の廊下に皆が集まって先生が何か話しているではないか。チョコ豆腐のカツ。ビニール袋もある。ござが水に浸っている。誰も見ていない。誰も見ていない。楕円の。誰も見ていない。手が伸びた。ポスターが並んでこっちを誰も見ていない。ござが水に浸っている。誰かのスニフが聞こえる。誰かのスニフが聞こえる。誰も見ていない。できるだけ苦しむといい。できるだけ苦しむだろうなあ。ござビニール袋がある。水の腐った臭いチョコ豆腐のカツをひなっている。(聞こえる)……………………………………曲が始まらない。〜〜いんに、しょう。いんに、しょう。〜……………………………………曲が始まらない。だろうなあ。できるだけ苦しむといい。この水は不落の水の腐った臭いを放っている。僕がソファに座った瞬間にだ、だれかのスニフがする。だれかのスニフがきこえる。誰かのスニフが見つめてくる。ソファは、ソファに座った瞬間にに誰かのスニフが聞いんに、しょう、いんに、しょう、いんに、しょう、いん、いん、いん、しょう、しょう、しょう、いんに、しょう、いんに、しょう、いんに、しょう、いん、いん、いん、しょう、しょう、しょう、いんに、しょう、いんに、しょう、いんに、しょう、いん、いん、いん、しょう、しょう、しょう、いんに、いんに、いんに、いんに、いんに、いんに、いんに、いんに、しょう、しょう、しょう、しょう、いん、いん、いん、いん、いんに、しょう、いんに、しょう、いんに、しょう、いん、いん、いん、しょう、しょう、しょう、いんに、しょう、いんに、しょう、いんに、しょう、いん、いん、いん、しょう、しょう、しょう、いんに、しょう、いんに、しょう、いんに、しょう、いん、いん、いん、しょう、しょう、しょう、いんに、いんに、いんに、いんに、いんに、いんに、いんに、いんに、しょう、しょう、しょう、しょう、いん、いん、いん、いん、いん、しょう、しょう、しょう、しょう、しょう、しょう、しょう、しょう、いん、いん、しょう、しょう、しょう、しょう、しょう、しょう、しょう、しょう、いん、なるべるなるべくくふくるしたしむといいなかやあこえる。わござからが水に浸っている。水の腐った臭いがする。誰も見ていない。伸びたと思えば伸びていっまた足首を掴んだ足首を放っている。**。**。誰かのスニフが聞こえる。水の腐った臭いがする。誰も見ていない。できるだけ苦しむといい。nh, nh, nんふh. nh, nh, nh, nh.んふnh〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜できるだけ。(スッ)(スッ)七月十一日のことであっま。ま誰も始まらない。誰も始まれない。伸びたと思えばが水に浸っているできた。**。**。「そこで終わったのですねチャンチャンチャンチャン/\」誰も見ていない………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………(聞こえる。誰かが窓からスッと手と顔を一瞬か二瞬目があった瞬間に時計が止まり黒い誰かが見ている。)なるべく苦しむといい…………………………………………………………曲が始まらない。なるべく苦しむといいできるだけ苦しむだろうなあ。字面ある。なるべく苦しむといいなあ。誰も見ていない。誰も見ていない。なるべく苦しむといいなあ。
僕の名前はね、キヌユキ、衣に、千。シンジさんとミドリさんは僕を預かってくれている寡夫婦。子供を自転車に載せたまま子供を壁に地面に天井にひきすり潰してわかくしたんだって。シンジさんとミドリさんは僕の義理のちちはは。夢ではないんだ。緑色の内側が原色の筒とっても大きな大きな筒の中横に倒してに立って走ることができる。ずっと続いていて、終わりがない。何も見えなかったんだ。何も見えていない。後ろは白かった。ずっと。ずーっと。ぼーっとしてたら「はしれ!」ぼーっとしてたら「はしれ!」なるべく苦しむといいなあ。文面にありて。字面に。曲が始まらない。水のござの腐った臭いがする。は僕を預かってくれている夫婦と手と顔を黒い男が窓から見ている。手と伸ばして一瞬か二瞬か三瞬して男がすぐ顔を引っ込めて黒い側黒い影がさったいった。シンジさんのこえがして、ミドリさんのこえもしてクロイーのことまでもクロイーやことも思い出して、シンジさんが「はしれ!」!「はしれ!」!「はしれ!」!「はしれ」!「はしれ!」! (なんだもう雲が空を覆っているじゃないかどうりで涼しいわけだ。いや暑いな。窓から。水の洪水が先刻闖入してきたもので、だいぶ経ては腐った臭いを放っている。まどから禿頭の黒いかげのおとこかが見つめてくる手を添えて、誰かが窓からスッと手をにじり寄せて誰かのスニフ、苦しむだろうなあいいなあ誰かのスニフが見つめてくる聞こえる)やびひービニール「はしれ」!「はしれ! 」。クロイー、大好きだよ。僕も男の子だしきみも男の子なんだけどだけど大好きだよ。大好きだよ。きみがちいさくてもふもふでかわいいものがすきだって言うと大好きだよ。きみがちいさくてもふもふでかわいいものがすきだっていうときみもいっぱい可愛くて大好きなんだ。心臓が横隔膜が胸の壁がトルソーの皮が生のはりつめた胴が破裂して飛び出そうになるんだ。どきとぎするんだ。どきどきするんだ。きみが僕に笑うと抱き締めたくなるんだ。胸がくすぐったくなって叫びたくなるんだ。たまにキヌユキ好きだよそれが友達としての好きだよってわかってるのに苦しくなるんだきみが他の人と話しているのを見るとそいつを岩の壁に轢きすりつぶしたくなるだそこに生まれないはずののぞみシンジさんとミドリさんがのりうつってそうさせたのかな。まだむけてもいないような勃起したおちんちんが破裂しそうになるまで君のことを風呂場でおもって、ゆるいシャワーをあてながらゆっくりゆっくりひつりのさきから解いていくと、白みがかった黄色いおうどいろの老廃物にぎっしりつつまれた、それでいて血がいっぱい集まって赤くろくさえなっている中の亀頭が露出して表れるんだ。ゆるいシャワーをあてていくとそのかすを解いていっていよいよきみへの欲望が表層に浮き出てくるんだ。陰茎は血管が紫色に太くあらあれるあらわれる。鈴口はもうとっくに剥けた皮をさびしがって、すっかり閉じてしまってひくひく泣いている。その鈴口のさきからにじみだしてきるさくるるああ、ああ、ああ、これはシャワーの水ではない。クロイー、クロイー、クロイー、ああ、ああ、あああ、あ、クロイー、クロイー、クロイー、はあ、はあ、はあ、はあ、これがカウパーだよ。カウパー液だよ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、クロイー、はあ、はあ、クロイー。ねえ、きみの顔がうかぶ。うかんではまなたあぐしゃぐしゃになってとけきえそうになるんだ。でもなんとか目を振り絞ってきみのと体験を思い出すんだ。あああ、塩素にぬれた夏の午後。広いプールに浮かんだね。きみのスパッツ、水着があせに張り付いて、ねえキヌユキ、このままずっと浮かんでたいね。シャープ、シャープ、ああシシヤープ、シャープン尖って欲望は、ますます研がれてあおぐろく、雲ひひとつ、ないまっさらのあおぞらを、焦がすくらいの劣情が、ひっしにきみにばれぬよう、わらってきみと、うかんでたいね。太陽高く、のぼるとき、チャイムの叫ぶと、先生呼んで、集めてカード、さしだして、ぼくたちは、目寄せ手をよせ足を寄せ、しめしあわせて更衣室、たれもいぬまにきがえたふたり。あらわになった、きみの鼠径部、くぎ付けに、脇の下にはねばついた、みのりが萌えて、はりついた。はだえの毛穴、立ち昇る、こい香りには、もうすっかり、やられてしまってまたあかく、赤くなったかおうつむいて、下半身。ふとももの、わずかに稜線えがいてゆくは、うすい筋肉想像させる。それにならって生えるは脂肪、白脂の玉が、ごとくあり。パンツのふくらみ覗いてみれば、うかぶはかわい、らしい茎。それのかたちになってはり、ついたパンツを脱ごうとするは、奇妙な間と間でつながれた、ふたりだけのはなぞのに、顔赤くした、かわいいクロイー。僕はすっかりのぼせてしまい、ずっとクロイーながめてた。こきこきいう、パンツすっかり、おとしてしまい、足の間にくるまって、クロイーの、それがかわいい、かおだした。まだしろく、厚い包皮にかくされた、秘匿の宝石、かくされたままあらわになって、さきっぽの、ちょっとだけ赤く、なった口。ああなんて、かわいいんでしょう、ああクロイー、しゃぶってあげたいいますぐに。くちびると、舌、のどつけて、あたたかく、むかえいれては、やわらかく、かつなめらかに、かつはげしく。舐め回す。きみのはじめて。きみの精通。解いてあげたいいますぐに。
執念おさえ、ねばついた視線、ばれぬよう、必死発止とおしかくし、ぬれた背中をふいてやる。どうしたの、おなかいたいのぐあいでも、わるいならすぐ、保健室、連れて行くからいってよね。ああクロイー、なんでそんなにやさしいの、きみのせなかのしずくをなぜる。くすぐったいよ、もうやめて、キヌユキったら、ねえ! ごめん。からかいたく、なっただけだよ、ねえごめん。あやまるからさ、こっちむいてよねえクロイー。バア! わあ! うそだよおどろかしてごめん。もうすっかり、おそくなったね、もうかえろ。さきにでるからあとからきてね。ああクロイー、口を放つまえまでとめて、ロッカー目をやり見つけるは、クロイーの、濃紺海パンああなんで、なんでそんなにずるいこと、やってのけるのねえクロイー、わざとなの? わざとやったのねえクロイー、ホントは気づいているんでしょ? あのまぶしい、笑顔は嘘なのホントのことを、いってほしいよ、ねえ……、クロイー、嘘でもいいから持っていく。もっていく。バッグに隠してオナニーを、この世で一番気持ちのいい、ああ、クロイー、ぼくだけの時間。
僕はかれのパンツを持ち帰って来たのをやっと思い出すんだ。塩素も落ちてしまったからだはぬれているが、素早く水滴だけ落として二階の自分の部屋に行ってああ、見つけたクロイー、ちゃんとジップロックにいれねえらていれてある。水着バッグのタオルの中にひたかくして真っ赤な顔でかえったんだ。先生はねえきぬゆきくん、具合でも悪いの? いえ、だいじょうぶです。家に帰って寝ればすぐなおりますから、あらそうなの。おだいじにね。ああ、ジップロックに口と鼻をあてておもいっきり中の蜜を吸い込む。全身があしのつけねからゆれからだがしびれぴりぴりと感動が押し寄せて、ひざががくがく笑ってへたりこんだ。女の子ずわりのまま腰をへこへこ上にうごかした。裸のおちんぽが上を向いてびくびくこしから太ももから鼠径部からくすっったく、つさくすぐったくかつ気持ちよく暑く血液がこみ上げて、おちんぽの全長にその気持ちよさが凝縮一気に凝縮された。そしていった。はじめての精通の射精の感覚はあたまがまっしろになってしまった。風呂場から持ってきたバスタオルで全身をふいてドライヤーも済ませてしまってからまたクロイーの海パンでオナニーしようと考えた。クロイーの剥けていないおちんぽをやわらかく支えてくれるクロッチに僕の亀頭をあてがって筒は他の縫製で包み込んだ。不思議とそれを上下にこすることができた。体に染み付いていた。ずっと昔からやってきたことのように思われた。
ビニール袋に張り付いた水滴が腐って酸っぱいニオイがするんだよね。おんなしだと思うよ。全部。パティーがやったこと全部ビニール袋とおんなしだよ。こんなこと言うのもなんだけど時効だから言うね。不落町にいるパトパイアレへっていうやつを追うといい。パティーって呼ばれてる。そいつが市崎レオを殺した。
緑色の巨大な筒が屋根に乗ってるアトリエにいるんだ。不落町で一番目立つところ。筒は異界との出入り口だってウワサだけれどパティー以外だれも実態を見たことはない。町中の人がアトリエを取り壊そうと署名を集めて、実際規定数を満たしたんだけどなんでか取り消されちゃったんだってさ。不落町に落ち込んだ暗い影が窓からさしてアヤシイウワサはたえない。
まあ、そんなに気負わずにやっていければいいと思うよ。気負わずにね。どうせ大したことは起きない。レオの復讐はたしかに果たされるだろうけど絶えない。信条のようにはどんどんきみをおいつめてくる。それがきみの疲労。
もっと自分の心を開け放してみたらいいとも思う。そんなにでもないけど。九時に迎えが来るからね。がんばって。
不落町の駅を出ると、夏ではない熱気が深く深く覆っていた。この町はおかしい。町民もパティーも尋常の真正のものではない信念を抱え込んでもやもやさせている。信号の先に筒が見えた。アトリエだ。
チャイムはならなかった。彼女は至るところに借金を作っているとミカリから聞いたので、催促人を装えば怪しく思われはしないだろう。一体どうやってレオを隠したのだろう。精々山までだろうことは想像がいった遠くには山がみえる。どこにでもあるような田舎の遠景だ。
声を張り上げて彼女をわざわざ呼ばなければならなかった。
「すいません! パティーさん! いますか!」
すぐにドタドタと足音がよく響いた。それに合わせて家全体が共振しているかのごとくグラグラと音波に合わせてそれを増幅させる。扉の前に立っているだけでも倒れそうなほどに足音が襲ってきた。この家の作りがアトリエの中でも普通のものではないらしいことも容易に想像できた。なぜこんな作りにしているのだろう。大方借金取りを追い返す対策だろう。人嫌いも合わさってかこの家の悪意が巨大な強制で歌っているだろうことを肌で感じた。パティーはドアを開けて、半ば発狂しているかのごとく顔を青くして来た。目をかっぴらいて髪はぼさぼさのままだった。気づくと轟音は去っていた。
「だれ?」
「ケイラの友達です。金を返してほしいと」
「ああ。入って」
ケイラという人物は今さっき思いついたもので、通じるかわからなかったが、彼女自身その莫大な借金の行方がわからなくなっているのだろう。いつもこうして見知らぬ誰かを招くにはなれているようだった。ドアを開けたときの焦ったような所作は完全にそれと切り離して考えることができた。パティーは玄関のすぐ左のドアを引いて開け、応接間に通してくれた。長いソファと、子供でも座れないような幅の狭いシングルソファがあった。まだ耳の奥に足音が残っていて、頭の中でバタバタ騒いでいたのでパティーがまだなにか伝えようとしていることはわかったものの聞き取ることはできなかった。彼女は僕をソファにかけるよう目配せしてから、自分もその狭いチェアに座ろうとした。一体どうやって座るのか検討もつかなかったが、彼女は尻を乗せるところに足をかけて、背中を預けるところの上に腰掛けた。二つのソファはちょうど対面して、パティーが僕を見下ろす形になる。運ばれたわけでも準備されたわけでもなさそうなのに、挟んだテーブルには藍色の液体が八分まで満たされたティーカップが二つ在り、手のひらもないような小さい皿にはクランペットまで重なっていた。
「うるさくてゴメンなさいネ。飼ってるものが多くて。借金に売ろうとするのは人間のやることじゃないって思ってるからほったらかしにさせてるの。私のペットは不定形もいるから。あの、えー、私の行動をいちいち反映しなきゃ気がすまないのよ。まあ、迷惑してるわよね近所の人は。このアトリエの上に緑色の筒が乗っかってたでしょ? 私はあれをデムデレエの泉って呼んでるんだけど、あれからどんどん降って湧いてきてこのアトリエに住み着いちゃってるのよ。正直私でさえ管理しきれないくらい。泉が来る前はもっと平和で、ちゃんと私自身の仕事ができてたんだけど、あれになってからはもうお手上げよ。グリーンアイモンスターを飼うのに、ああ、泉から出てきたやつね。略してジェム。そいつらを飼うのに大枚はたいて環境を整えなきゃいけなくて、結局周りの人らに借金作っちゃったのよ。ちょうどあなたみたいに、私の知らない人が毎日催促しにやって来るのよ。やってらんないわもう。自分でももう最初に飼い始めたときの情動を忘れちゃったわ。なんで飼ってるのかもう思い出せない。で、あなた名前なんていうの?」
パティーは口早に言い終えると茶を一気に飲み下して、真正面に僕を見下ろして答えを待った。
「市崎です」
その名前を聞いた瞬間に彼女のこめかみがピクリと痙攣したのを僕は見逃さなかった。ただ単に疲れているだけかもしれないが、その他にも一瞬か二瞬まっすぐだった視線をずらした。僕は目だけはいいので見逃しようがない。
「イチサキサン……ネ……ええと、まあ、知らないケド……多分ケイラの友達よね? きっとそうよ。そうじゃなきゃ困るわ。まあ、困るのは向こうなんだけど。いくら貸してたっけ?」
当てよう。階上から低音が響いてくる。共振がまだ残っているのだろうか。耳抜きが耳の中でさらに響いて気持ち悪くなってくる。
「ゴ、……五万」
「それだけでいいの? 利息とかは? まあケイラはそんなやつじゃないか。ただでさえ私に会いたくないからこうやって私の知らないあいつの知り合い呼んでこさせて相手させてるんでしょ? きついわそれ。ちょっとどころじゃなく。もってくるわね五万。五万で本当にいいならね」
「ええ……、ええ」
パティーは高いソファから飛び降りて出ていった。ポケットの携帯が鳴った。パティーにばれないかと思ったがそもそもばれても何も問題はない。ミカリからだった。「どう?」どうもこうもないので無視することにした。
パティーは服を着替えて戻ってきた。蛍光色のオレンジとマゼンタのワンピースドレスを二枚重ねて着ていた。二枚はシースルーになっており、黒のブラジャーとパンティーが見えていた。そして今気づいた。パティーは屋内でブーツを履いている。背が高く黒い皮革のブーツだった。たしかにそれに着替えたと気づいたのだが、その前は何を着ていたかすっかり忘れてしまった。左手には裸の一万円札が五枚握られていた。トールソファの足程もないテーブルに、パティーはそれを叩きつけた。
「ほら。間に合うでしょ。これに懲りたらもう二度と来ないことね」
「ええ……」
僕は返事だか感嘆だか判然としない声を出して、言われるがままに受け取ってしまった。このまま帰っていいのか? いいはずがない。そのまま言を継がないでいると、パティーはトールソファに登って座り直した。そのまま僕に向けて言った。
「あなたミカリのことは知ってるわよね?」
「ええ、まあ」
「よかった。あのね。あいつに伝えてほしいことがあるの」
「なんでも」
「うん。それでね、あのー、……あいつに、この家のジェムを追い払って貰いたいって思ってるの」
「返していない借金は山ほどあるのに?」
「だからよ。ミカリに後始末付けてもらおうっておもってるの」
「あんまりじゃあないですか?」
「まあ、うん。あんまりよね。あんまりだとは思うんだけど、もうあいつしか頼れる人がいないの。自分では侵略されるがままにするしかないし、町の人たちは私をキチガイ扱いしてるし、それにこのまま増え続けたらいつか大変なことになるんじゃあないかっておもってて、だから最低でも話がまだわかるあいつに頼むしかないのよ」
パティーはもう僕に出ていってほしそうに、目をしぱしぱさせながらあたりを見回していた。しばらくの沈黙のあと、口を開いたのはパティーの方だった。すっかりスマホに目を落としてしまい、僕の方を見ないで言った。
「そうだ、……えーと、私がシャワー浴びてるところ見たい?」
僕はもうすっかりまいってしまって、彼女のさせるままにしようとした。
シャワー室では香がたかれていた。乳香の匂いに目が痛くなったので、まともに視界を捉えられなかった。これではシャワーを浴びる意味がないと僕が言うと、「だって私の毛穴から出る私のにおいを外に出したくないもの」こちらを見ないでパティーがこたえた。
パティーが浴槽に立ち、僕が向かいのスペースに立って、彼女がシャワーを浴びる様子を見ていた。香の煙が霧になって彼女を隠していたが、パティーが換気扇をつけてくれたので、やっと彼女を見ることができた。
部屋から出ていく公害のような煙はとりあえず気にしないことにした。
彼女はネットに入れた石鹸で、ずさんにすねをかき回し始めた。数秒も立たないうちに、彼女の下半身はみるみる泡に包まれ、とうとうなにをしているか、またわからなくなってしまった。
「自分で作ったのよ。この石鹸。水晶植物で」
「は?」
「ヤ、やっぱいいわ。気にしないで」
彼女は石鹸を置くと、シャワーで下半身を流し始めた。それがすっかり終わってしまうと、今度は二個目の石鹸を撮って上半身をこすり始めた。柔らかい泡が円い関節や肌を包んだ。今度はそこまで泡を立てないらしい。彼女の長い髪にはシャワーを入れないようで、上半身を流してしまうと、水滴を手で払って落としていた。ぺしゃりぺしゃりと体を手でなでていく。
そのときに確かに心の中に生まれた思いがあった。それがずっと深くなった。この街が彼女を内包することなどできない!
いつも犬の散歩に通る公園があるんだけど、遠くの方に……あの……いつも……紙芝居屋さんがいるんだけど、……今日は、決めつけて、あの……、奇術師そのものがいたんだ。奇術師、シルクハットに黒革ステッキ、燕尾服の肩から塩を吹いていて、あって、まあ、見目に、汚かったけど、子供は見ないからね。それで、空いている方の手にハムスターを握ってて、何するかなーって見てた。それで、まあ、子供は大勢いたんだけど、そのおじさんだけが妙に浮世離れして見えたっていうか、実際に色彩が浮いてた。てかおじさんも浮いてた。それで、あの、はの、まあ、あのもはのもないんだけど、で、ハムスター。おじさんのてのひらの上のハムスター、ハムちゃん、ハム子、ハム丸。ハム丸はキリキリなきながらおじさんの手のウォーキングマシンでせかせか動いてた。進んでた。おじさんは、それを片手でしてた。子どもたちはどよめいてた。多分あそこにいないとわかってて、みせられてるってわかってて、歓声でなくしきりにさけんでたんだと思う。それで、そのおじさんは何を思ったか、いきなり腕と上身と空気を抱え込むような格好になって体中に力を入れて半分うずくまった。それで、その天頂にある右手のハム丸が、えー、おじさんが、そのハム丸をギュウッと握り込んで見えなくしてしまった。みんな叫声が抑えきれなくて身を乗り出し/\もっと見せてと騒いでいた。僕もとうとう我慢ならなくなって、どうしようもなくおじさんとハム丸の行方が気になった。それで、おじさんはハッっと声を上げて子供をしずめたかと思うとハム丸がピキーーーーーーーと一声叫んだ。公園じゅうに、日照りの強い空じゅうに、しじまをやぶるように衝動を打ち上げた。おじさんは直ぐになおってスックと立つと、また身をかがめて子どもたちに右手をひらいて見せていた。僕も見たくて、身を乗り出しておじさんの右手をのぞいた。おじさんはあせをびっしょりかいて、肉と肉のすきまから湧き出すようにあとから/\湧いてきて、もう見てられなかったけど身を振り絞っておじさんの右手を見た。おじさんの右手にはハム丸のケツ毛と、絵の具のように小さく小さくこびりついたハム丸の血と、まだその生気を残していて、今にもおじさんのゆびに噛みつきそうな前歯が、かれらだけがおじさんの手のひらに、シェフがメインディッシュのプレートをデザインするように点点と設置されていた。前もって準備されていたかのように錯覚させられたけどもあれはたしかに本当のことだった。そして、ああ、そこで、風が、吹いたんだ。ピウと強いつむじ風の片鱗がやってきて、おじさんは、それに乗じて一声、ハッハッハ! と高く笑っておじさんもいっしょに飛んでいった。ふと、おじさんの残りがないか視点を前に持っていくと、おじさんのくちびるだけが中空に浮いていて、おじさんのくちびるだけがハッハッハッハッハッハッハッハいつまでも笑っていた。みんな帰っていた。気づかなかったので一緒に風に連れて行かれたのかもしれなかったがそれもわからなかったが、夕方だった。犬の名前はジークンパ。
十字
メ「それで、ジェイに見てほしいんだけど」
ジ「なにを?」
メ「タトゥー。イブの膝裏に十字があるんだって」
ジ「クロス(十字架)?」
メ「いや、ただの十字」
ジ「なんでそんなこと知ってるの? それに本当にあるの?」
メ「あの娘が言ってたから」
ジ「それじゃあその場で見せてもらえばよかったじゃん」
メ「あなたに見てほしいのよ」
ジ「なんだってそんなことに」
メ「どうしてもお願いしたいの」
ジ「まあ、いいけど、俺がどうやって頼めばいいんだよ」
メ「ちゃんと話は通してあるから。メルに」
ジ「じゃあ俺が伝えれば見せてくれるんだな」
メ「そう。あと写真も撮ってきてね。証拠に」
ジ「わかったよ」
中略
ジ「で、こういう話なんだけど」
イ「うん。今見せるね」
ジ「ここで? 人いるけど」
イ「それがいいんだって。メルが言ってた」
ジ「まあ、そういうことなら」
パシャ
イ「なんにも思わないの」
ジ「まあ、うん、少しは」
イ「どういうふうに思ったかちゃんと口に出して私に言ってみせて」
ジ「ええと、ええ、まあ、うん。どうして彫ったのかなあとか、まあ、あとは、ええ、少し、えっちだなあって、うん。」(黙ったままこちらをじっと見て聴いていた)
イ「へえ」
ジ「へえ。って」
イ「うん」
ジ「もうなんだよ」
イ「んふふ」
ジ「まあ、いいや(俺が言うことか?)」
イ「じゃあいこ」
ジ「どこに」
イ「ひま?」
ジ「うん、まあ、暇だけど」
イ「じゃあ私と一緒についてきて」
中略
イ「パティーのことは知ってる?」
ジ「まあ、うん。パトパイアレへ。イブの友達。俺も会ったことないけど」
イ「私も会ったことない。彼女が待ってるって」
ジ「それでここに? メルから?」
イ「うん」
パ「ごめんね。うちに呼ぼうと思ったんだけどワイファイ調子悪くてこっちにしちゃった」
ジ「こっちって?」
パ「今いるとこが実家。ほんとは私のアパートの部屋にする予定だったの。イブイアと、ジェフだよね? それにはじめまして。私パトパイアレへって言うんだ。ってもう知ってるよね。パティーって呼んで」
ジ「はじめまして」
イ「はじめまして。メルからいろいろ聞いてたからそんな感じしないけど」
パ「あはは! そうだよね。メルったらあなた達のことずっと私に相談してくれてたんだよ。ふたりを付き合わせたいって」
ジ「え?」
パ「うん。ふたりは恋人になるの」
ジ「え、あ、え、えと、ええ」
イ「私はいいよ」
桃の皮
最初は女みたいなやつだと思った。隣の席に座った姿が妙に大人びて見えた。こちらの視線に気づいて、流し目を送ってきたときなどはこちらが赤面させられた。ついた頬から見える下顎のフェイスラインはスラッとしたレディアスを描いていた。エラが張っていない。かといってアデノイド顔貌的でもない。僕は授業中、集中がフイになるとついついかれの横顔ばかり見つめてしまう。ただ頬のラインだけがすっくり奇麗に収まっていた。
かれは僕をおちょくるのを楽しみに学校に来ているとしか思えなかった。授業の殆どの時間を寝て過ごす。まるで話を聞いていない。かと思えば、僕がかけられているときなどは声をひそめて答えを告げたりする。テストで学年十位以内にやすやすと入る。生徒の人数が多いのでたまにスカートとパンストを穿いてきては僕を驚かせる。たいていは誰にもバレない。そっけない態度をとってクラスメイトと話し込む。挙句の果てには無視をする。主にそうした日は帰りの時間にべったりとくっついてくる。かれの奔放な態度に僕が気を引かれないわけがなかった。
(パーカー枕カバー、桃の皮の香り、嗅げば嗅ぐほど切なくなって思い切り吸い込みたくなる香り
湯治
痔を治そうと思った。まず公園に行った。かれの考えるところ、湯治へ旅ゆく大変と公園へ足かける大変は同じである。それと同時に、何重もの徒労がかれを癒やすだろうと信じてやまなかった。
犬も連れていくことにした。かふかふとドッグフードを食んでいるうしろすがたを見て、あいつもまた同じ労を要していると考えたからであった。
「ロイク! 散歩に行くぞ」
かれはその『散歩』という語が持つ一定の容量に、痔の足労が収まるとは思えなかった。しかし一回放った言葉が二体間に成立してしまった以上それを取り消すことはできなかった(あるいはそう信じ込んで錯覚していた)。犬はぐるぐるとうなって、歯をむき出しにしてよろこんでいた。
メディテーションはこのようにして始まった。公園につくと、子供らが中年のじじいにむらがっていた。紙芝居でも読むらしい。しかしかれの目にしてうつった中年男は燕尾服、シルクハットと炭色のスラックスにその身を包まれており、片手には革張りのステッキ、もう片方には茶白のハムスターを握っていた。かれはその光景を公園の入口、自転車止めのフェンスに腰掛けて、遠くから眺めることにした。
男は不格好な丈を翻して子供たちを見下ろしながら足を揃えた。「このハムスターをご覧なさい。よおく、よおくですよ。今からこの子をまたたく間に消してみせましょう」小さき子供たちの耳を刺すような喧騒の中で、低く、よく通る声で言った。
かと思うと、男はエイッと短く叫んだ。同時に上身を、なにかさらに大きなものを包み込むかのように勢いよく縮めた。子供たちは全員それを受けてしんとだまって男を見た。しばらく経ったか、時間を忘れてしまった。三十秒ほど経ったのかもしれなかった。男はぬうと起き上がると、腰をかがめて、ハムスターを持っていた方の手のひらをガバリと開き、子どもたちに向けた。ハムスターはこつぜんと消えていた。子供たちは先程までのきんきんした騒ぎをすっかりやめてしまって、そのうちざわざわと張り詰めた空気がかれらの中にただよった。
そのときだった。いきなり強い風がピウと吹いたので、ずっと入り口から見ていたかれも思わず身をかがめて目を守った。子供たちもそうしたことだろう。見上げると、男はその姿を消していた。男のくちびるは残っていただろうか。そうでなければ風の来る直前に聞こえていた、今も聞こえている男のあのたか笑いがしばらく残っていはしないだろう。
○
犬が鼻を鳴らした。かれは最初それを無視したが、そのあともしきりに犬が立ち止まるのでやっとわずかに鼻を撫でた。濡れている。一度犬を戻してからまたでかけ直すことにした。紐に指の汚れをなすりつけた。それでもかれのなかにある不安といらだちはなくならなかった。
もう昼を回ったところだが、温泉街へ電車で行くとしてつく頃には丁度いい時間帯になっているだろう。ホテルへ予約の電話をいれるのはどうしてもおっくうでできなかったのでしなかった。かれは電話が苦手だった。かけるのももちろんだが、なにより電話が震え、頭が縮んでしまうようなコール音が鳴り響いてかかってくるのを大の苦手としていた。おれの旅なのだからおれが不快に思うような要素は少ないほうがいい。髪と服とをなおして、また玄関を出た。
○
駅は空いていた。かれは休暇を取っていたので、わざわざ休みの日の人でが激しいときに出てくる必要はないのであった。切符を買ってホームへ降りた。
日はよく出ていた。陽光がカーテンを作って差してくる。それになにより、かれは日に照らされてにおい立つホームレスらに目を奪われた。ホームレスらは朝昼と寝て、夜にどこへともなく歩き回るのである。ホームレスの不潔にかれは身震いした。
時計が回るのが遅くなったように感じた午後の日照に、はたして電車は来た。かれは、空いてはいたがまばらになっている人びとを抜けて乗り込んだ。
車内にもいた。室温があまり車外と変わらなかったのでにおいは気にならなかった。その中のひとりがこちらを見る。動物のような動物に近づいていた視線だ。うちの犬でさえあんな目はしない。かれが無視して携帯をいじってみせると、そのホームレスはやがて席を外した。今度はかれがそのホームレスを見た。赤いバンダナを腰からさげていたので、かれはそいつを思考の中で赤バンと名付けた。赤バンは走る電車の中で席を移動している。向かいの長椅子にかけている大学生くらいの青年ふたりになにか口ばしっているようである。
「みなさん、見えますか、ええ。見えませんね、ええ。携帯っていうのは便利なものですからね、存分にお使いくださいね。ええ。もちろん。好きなだけつかって好きなだけ消費すればいいんです。あなたたちは。ええ、ええ。電話してくださいね。ここに、警察に電話してくださいね。ええ。警察に電話してもあまり意味はありませんがね。ええ。警察っていうのはだめになっちまったんだ。みんなだめになっちまったんだ。ええ、警察署に、電話してくださいね。ああ、ああ、ああ! 日本だ! だめになっちまったんだ。みなさん。これが、これが悪い日本ですよ。今すぐ電話してくださいね。聞こえませんでしたか? 今すぐ電話してください。これが悪い日本ですよ。悪い日本ですよ! 警察っていうのはだめになっちまったんだ。警察っていうのはだめになっちまったんだ! みなさん、今すぐ電話してください。これが悪い日本ですよ! 聞こえませんでしたか? これが悪い日本ですよ! 電話してくださいね! 悪い日本だ! 日本はだめになっちまったんだ! 聞こえませんでしたか! 日本がだめになってるんです! 聞こえませんでしたか! 電話してくださいね! 今すぐ電話してくださいね! ええ」
青年たちは最初それを無視していたが、やがて片方が立って、赤バンに抗議した。それに感化されたのか、もう片方も立ち上がってふたりで攻撃し始めた。止めるものは誰もいなかった。そのうち最初の青年が赤バンの腹を殴った。赤バンが反撃すると思われたが、後ずさりしてなにをか謝っているようであった。これではあべこべである。赤バンをひざまずかせたふたりはそのあとも蹴ったり殴ったりを繰り返し、ついに赤バンは足と額とをくっつけて奇妙な体勢のまま動かなくなった。赤バンをたおしたふたりはまた元通りに座ってふたりして携帯をいじり始めた。かれはふたりの怒りの矛先がこちらに向かぬようにとりあえず隣の車両に移動した。まだ自分の目で今しがた見たものが信じられない。狐につままれたようである。
○
終点が近づいた。かれには車内に立ち込めるむずむずをしたたか感ずることができた。乗客は準備を始める。そのうち速度がゆるくなって駅が近づく。まっさきにかれはドアに立って構えた。なに急ぐことなく自然に出たものだった。しかし宿へはしばらく歩く。ゆっくり行こうではないか。かれはそう思いなおして筋肉を弛緩させた。そのせいでドアランプが光った一瞬か二瞬を見逃し、乗客の顰蹙を買った。買ったはいいもののどこに売りつけるでもなく、かと言って自分で消費するにもしのびなかった。かれはそそくさとドアを抜けた。そして、車内のむずむずした雰囲気がかれをそうさせたのだと責任を転嫁した。しかし買った顰蹙はデンプンとなって心に煮凝った。
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駅を出て道なりにまっすぐ下りるとガスタンクがある。遠くから望んだときにはタンクの影に隠れてホテルは見えない。ホテルは立地を恨まなかったのだろうか。ホテルの後だろうか。とにもかくにも、かれは龍倫池リボンホテルとある看板を見つけた。予約を入れようが入れまいが入ろうと決めたものだったのでいちいち悩む必要はなかった。受付は意外とスムーズに進み、一室を入手することができた。かれはカードキーをつまみながらエレベーターの中に立つ。電話一つでくよくよ悩むのは無駄だったのかもしれないと簡単な結論に達した。そして、思い悩んでいた頃の自分をないがしろにして安全な消極的感情を棄て、危険な積極的理性に落ち着いてしまった。部屋の前に立つ頃には野蛮な勇敢を手にしていた。
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魚と虫は似ている。かれらは移動するために生きている。体の形がそうさせている。目的に進化したのではない。かれらの退屈を思うたびぞっとする。レコード屋に行ってチャールズ・マンソンのテープを買おうとした。店員は、「これ、かざりものですから。見せておくだけで、売ろうなんて考えてませんでしたから」渋い顔をしていた。僕は、「いえ、これが聞きたかったものですから。みつけて、あなたに聞いて買ってもいいかと聞いただけですから」店員はそれをさえぎって、「じゃあこう言ってもみましょうか。あなたには売りたくない」僕は大声で「それならいいんです」店を出た。彼女はずっと僕のそばでずっとそれを聞いていた。「座ってなら利き手でギターが弾ける。利き手じゃないほうでは立ってうまく弾ける。立ってでしか利き手じゃないほうではうまく弾けない。立ってギターを弾くなら、利き手じゃないほうではとってもうまく弾ける」と言った。僕は、「僕はずっと龍倫池が森の中にある未開地域だと思っていたんだけど違うんだね」言った。「真ん中にはちゃんとビルがある。真ん中だからビルがあるのかも。ビルがあるところを真ん中にしたのかも」僕はあまりに長い時間をかけてそれを言ったため、駅の前についてしまった。彼女はもっと話したそうにしていた。僕は表情を無視して別れた。頭の中で会話を済ませて彼女もそうしていたので音に出す必要はなかった。音に出たのはそれぞれ違う物事についてだった。それでもそれらは根っこのほうでちゃんとつながっていた。当然だった。それで会話をしていたのだから。レコード屋に入りなおした。店員は代わっていた。グレッグ・コックかリチャード・トンプソンを買うかで迷ったが、迷っている中途でガセネタを見つけたのでそれを買って駅から部屋に帰った。代わった店員はなにも渋らなかった。僕はどちらかというとガセネタを渋る店員が好きだったので、かれにもそうなってほしいと願った。悪い日本がだ!
国に興味がなかったら働けない。僕はみずからの怠惰のために、甘んじて自分のサーカムスタンスに依存していることをよしとしている。国だ。社会は、自分がたとえそう思っていなくとも国のためにはたらいている。うごいている。挙動をとっている。町人は自分が国のために働いていることを思うことはしない。おのずから政治を帯びてくる話をしたがる人間はいない。心の奥にくにを芽生えさせることすらしない。押し隠している。その押し隠しているということすら自分では認識していない。だが仕事を出る。そしてすぐにあれが嫌だこれが気に入らないなどと政治の話をし始める。心に思っていることを押し隠していることすら気づいてないためにだ。かれらの会話は信用で成り立っている。口裏合わせてうまくやっている。子供の時から興味関心、疑問を抱かないような教育を入手してきたからである。僕のような精神障害、社会不適合、ボーダーはその教育に肉体的な悩みを獲得し、すぐにドロップアウトする。すると僕は精神的社会信用に合わせて生活する能力を持たなくなる。その能力が育たないので当たり前のことである。生活においての齟齬や瑕疵などが積み重なり、僕はは真ににっちもさっちもいかなくなっていることを自覚する。
僕は国に興味がない。いだかなければならないし、自分の考えを持たなければならないのがまずなによりも優先されることはわかってはいる。理性的な悩みを悩むことで、僕は自分の怠惰を膨らませている。原因がわかっていてなおも対処しない。龍倫池区は僕のような人間をその選民意識によって排除しようとする。自分の親もである。生活の悩みは悩むべきではないのである。僕は自分の選択に酔っていた。自分の選択に惑わされていた。自分の選択に錯覚していた。国に興味がなければ働くことができない。働くために動くことすらできない。生きるための挙動をとることすらしない。それらはすべて自分のあやまちで、自分のせいである。『国のために』。その言葉は政治的意味をなんら帯びてなどはまったくいない。
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僕のために描かれた絵を他人に見られることに嫌悪感を抱くようになったのは一六の夏のことだった。多くの人が僕のための絵を描き、また多くの人が僕のための絵を見た。僕はフェイスにまみえるたびに初めて僕のために描かれた絵を他人に見られたときのことを思い出す。かれはその絵を見て、その絵と僕を強い嫌悪でもって拒絶した。その絵と僕に向けた、怒りと否定の言葉をあらわにして、隠すことすらいとわなかった。僕はそのときにはじめて、僕のために描かれた絵を他人が見ることに対してトラウマが発現した。僕は千枚の絵の半分を焼き払い、半分を倉庫の奥深くにしまい込んで、それから僕のための絵を受け取ることを拒絶した。
僕のために描かれた絵は僕の家の玄関の前に積もり壁を造った。それでも僕が受け取らないので、使用人は自分の目隠しをはずさぬまま、その絵を黒いカーテンで包んで、絵を焼くためだけに作られた巨大な焼却炉へと何回も運ばなければならなかった。
僕のために描かれた絵には必ず僕の肉体が描かれてあった。そのどれもに、本来描かれるべき人体のパーツが欠けているか盛られてあった。単眼の僕のバストアップ、八本の足で砂を掻いて走る僕の下半身、指先に僕の顔のパーツがべたべた張り付いている転がった片腕。僕はその絵を見るとき、恐怖で見たのではなかった。必ずそこにはおのずからそうであるものではないものの動きが見えてくる。僕はそれを見ようとしていた。トラウマができてからは絵を見なくなった。
トラウマ以前に、僕に向けられた自然ではないもの(業)の動きは見えなかった。とうとう僕は絵の中の挙動を見出すことができなかった。今なら見えるかもしれないと思ったときに、絵に対するトラウマが、事件に起因するトラウマと僕が絵を見るための動機をうやむやにしてしまい、僕が絵を見なくなった理由にすり替わっていたことに気づいた。そして、僕は絵を見ることから逃げていたことに気がついた。僕は絵を見てもいいのだと思った。僕は使用人の目隠しと倉庫の鍵を解いた。
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命名において、この国のルールがあった。
名字を先に言い、下に名前がくる。下の名前は二つにわけられる。父母どちらかの名前を受け継いでから(父から受けるのが一般的である)、子は新しい名前を受ける。一例を挙げてみよう。僕のフルネームは荷甘枯アポロイビヤという。荷甘枯が名字、アポロが父から受けた名、そしてイビヤが新たに名付けられた名。名字は漢字でも英語や他の言語でもいいし、名前も同じだ。ユエリンは、弁谷光由林。弁谷が名字、光が父から受けた名前、由林が名付けられた名前。ユエリンの父の光と言う名前も、ユエリンの祖父母から名付けられた名前である。僕の父であるアポロも同様である。ユエリンの父は祖父から彪、祖父母から光を受けた。僕の父は祖父からメルホア、祖父母からアポロを受けた。
もちろんこれは戸籍に登録する際の、実生活で使う名前であり、インターネット、SNSに登録するとき、かれらは自由に名前を決めている。
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ホテルのドアを開けたかれは女のような顔の男が後ろの男に後背立位を受けている図に出くわした。かれは部屋を間違えたと最初に思った。次に女が男に立ちバックされている姿を見た。次にその二人の裸をみとめた。最後に女のような男の股間に二〇センチメートルはあろうかという陰茎がぶら下がっているのを認識しようとした。かれはそれを拒んで、ひとなりに羞恥し、固まってしまった視線と視線と視線をふりきってドアを閉めようとこころみた。女の男は「ちがう、ちがう、ちがうんだ、ちがうんだよ」と言った。後ろの男はなおも固まっている。おそらく女の男に挿入したままであろう。かれは「あ、ええ」と言った。次に後ろの男が「閉めてくれ!」と叫んだ。女の男はそれを無視してかれを手招いた。かれは自分の足が今まさにホテルの一室に侵入していくのを止めることができなかった。
「だから誤解なんだ。いや、なんていうか、誤解ではないな。勘違い? 君は部屋を間違えただけなんでしょ?」
三人はベッドに座っている。かれは女の男の隣、女の男はかれの隣、後ろの男は二つ目のベッドに座っていた。
女の男はかれに言う。
「まあ、あのー、なんていうか、ここは『そういうこと』をするホテルではないんだけど、たまたまほかが空いてなかったから、しょうがなく、使っちゃったんだ。変なもの見せちゃってごめんね」
かれは口を開けなかった。今しがた見たものの衝撃が大きすぎる。
「うん、まあ、変な『もの』だよね。僕、『ついてる』から。なんてね。アハハ!」
笑い声が部屋内の空気を締めつける。
「あれ? 僕変なこと言った? あは、あはは。な、なんで黙るの? あ、てか、最初から一言も喋ってなかったか」
かれは勇気を出して聞いてみることにした。
「痛くないの?」
女の男は驚いたような顔をした。
「え? なにが? あ、あれ、ね。あれは痛くないよ。うん。気持ちよくもないけど。ねえ、さっきキャンキャン鳴いてたの、あれ演技だからね」
女の男は後ろの男(今は真向かいに座っている)に向かって言った。後ろの男は先程から口の中でなにをかつぶやいていたが、いきなり声を大きくした。
「うるさい! こんなことになるなら最初から断ってたぞ! 評価も最低のやつをサイトに書き込んでやる。お前は指名が取れなくなって今におまんまの食い上げになるだろうな。ああそうともさ。俺はお前の穴が好きだよ! 体も好きだよ! でも誰かに見られちまったらもう一緒にはいれねえよ!」
「そう。僕だってあんたみたいなのはお断りだよ。それに僕はあの店で一番人気で、君が想像できないくらい本指名を取ってるんだ。だから君みたいなのがひとり減っても全然問題ない。むしろ厄介者がいなくなってくれてせいせいするよ」
女の男がそう言い返すと、後ろの男は服を素早く着戻し、僕を突き飛ばして部屋から出ていった。
「ごめんね。こういうトラブルみたいなの結構多くてさ。それにあいつのプライドのためにさっき言わなかったけど、前戯とかしないから痛くて痛くてしょうがなかったんだ。グリースも持ってきてなかったみたいだし、僕もちょうど切らしてたし」
「え?」
「アナルセックスがだよ。きみはそう聞いたんじゃなかった?」
「うん」
かれは女の男のその言動から受け取れるアーティチュードのようなものから、自分のための確信とさらなる勇気とを感じた。
「でもね、あーあ、あいつで今月のノルマギリギリだったんだけどな。あ、ちなみにさっきの評判がどうとかもウソね。ホントはクビ寸前」
「そうなんですか」
「あ、タメ語でいいよ。えーと」
「ユソノ。本当はユソノノーカだけど、言いにくいから」
「そっか。僕はキヌユキ。見てのとおり、いわゆるふたなりだよ。男の娘とも言うのかな。これからよろしくね。僕の友達のユソノ」
「え?」
「え、じゃなくてさ。こっちは勝手に仕事現場を覗かれたんだよ? しかもいかにも風俗とか行ったことなさそうな陰気で暗いやつに」
「いや、まあ、行ったことはないけど。それをあんたにあれこれ言われる筋合いはないっていうか」
「ユキ」
「あ、はい。ユキ」
「ユソノ。物事は取り引きだよね?」
「そうなのかな」
「ああもうじれったい。もう単刀直入に言うね。僕を連れ出して」
「なんで? え?」
「連れ出して、って言ったの。ユソノ。君にはいま使命が課せられたんだ。ホテルの部屋を『偶然』間違えて、僕の客との現場を見て、気まずい空気のなか誤解を解いて、今ちょうど自己紹介し終わったところ。こんな流れでさ、僕を救って連れてってくれる理由にならないわけないよね? くだらない身の上話までしたんだ! 今度は君の番だよ! 僕を連れてってよ!」
かれはうすうす感づいていた。そしてユキに自分がどこか救われていることも、認めたくはないが、心の底で確信していた。唐突で、話のつながりが見えてこないことが、『つながり』なのだと確信をもって啖呵を切ることができた。
「わかった。ユキ。僕がなにをしたらいいかわからないけど、君の助けになるなら、僕はその救済を負う」
「よかった。必ずそう言ってくれると思ってた」
夕まぐれが鳥のように帯を作って飛んでいく。窓の外の黒暗は早い。二人は隣に座りあっていた。
「ところで、君の親御さんはずいぶん変な名前を君に付けたね」
「ユキだって……」
「ああ、この名前は源氏名だよ。本当の名前は教えない。僕にとっての呪いなんだ。だからこの先も教えることはない。本当の名前は」
「地雷だった?」
「ぜんぜん?」
「そうなんだ」
「そうだ! なにか忘れてると思った! 温泉だよ!」
「へ?」
「お、ん、せ、ん! 一緒にお風呂に入りに行こう? 龍倫池は温泉街なんだよ」
「ユキってここには住んでないの?」
「うん。派遣で滞在してるだけ」
「風俗に派遣があるの?」
「それがあるのだよユソノノーカくん。なにもうちの業界は怪しくて暗くて深い河ばかりではないんだよ? もっとフラットでニュートラルなパースペクティブを持ちたまえ! アハハハハ!」
「あはは……」
「一緒に入れるね。僕は男だから」
ユキは上目でユソノを見つめた。ユソノはたじろいで、初めて含羞をもって見つめ返した。
「そういうこと考えられずに済むのかな? キヌユキは楽しみだなあ」
○
男風呂には誰もいない。時間帯がそうさせたのかもしれなかった。もうすっかり暮れ落ちていた。そこが温泉でも銭湯でも、脱衣所に立つとユソノはいつもわくわくした。匂いだ。脱衣時に立つ毛穴の匂い。裸のソープが洗い流されるときに生じる芳香。硫黄の臭い。サウナの、鼻の中に毛を押し込まれるような匂い。シャンプー、リンスの匂い、それらがまた洗い流されほどけていって、ドライヤーで乾かされるときにまた匂い立つ。そのすべての匂いが渾然となって、かれを特別な体験の屋内へ招きこむその瞬間を愛していた。
ユソノはユキのことを意識し始めていた。そうでなくともかれのアナルセックスを間近で見たのだからいやでも想起させられてくる。一緒になって近くで服を脱ぐころには、ユソノはユキをまともに見ることができなくなってしまっていた。
「そんなに恥ずかしがらなくていい。僕の中に男性性を見出そうとすることで正気を保とうとしなくてもいい。自分はストレートなんだということを何度も胸のうちに繰り返さなくてもいいんだよ。だからこっちを見てごらん。ユソノ」
ユキの肉体はほとんど女性を擁していた。しかしそのなかに男性の肉体を認めることもできた。二つのいいところがちょうどよく混ぜ合わされたようだった。ユソノはユキの女性性に精悍な頼もしさを、男性性に燃えるような情欲をそれぞれ思うことができた。視線を下げると目に飛び込まんとする男根ばかりがグロテスクに美しい。勃起せずともユソノのサイズを優に超している。それ以外にも、狭いが突っ張っている円やかな肩。あばらから腰までの緩やかな稜線。一見薄く見えるが、しっかりと柔らかに張っている肉づき。なにより、人形のように綺麗とも整っているとも言えないが、全体で見たときにこれほど美しい顔はないと思われる顔つき。ユソノの性癖の圏内に収まりきるとも収まらない量感の器量だった。美しいことはもちろんだが、もし街の百人にこの顔を見せれば、気に入る人は五人かそこらだろう。ユソノはその五人の中だ。ユソノはそれらの要素を一瞬か二瞬考えたのちに、思い切り勃起してしまった。ユキに抱きついて、今すぐその肉づきのいい腰に自分の腰を犬のようにこすりつけて射精したい欲望にかられた。
「ああ、ね。うん。ユソノ。その目だよ。みんなが僕をその目で見る。僕を懇意にしてくれていた本指のみんなもそうだった。僕の魅力に取り憑かれてしまった子たち。今はもうやめたから君だけのものだよ。君が、ユソノノーカが、僕を、キヌユキを。自由にしていいんだよ」
ユソノの愛していた匂いはキヌユキの毛穴の匂いに取り込まれた。
「それと、また嘘をついちゃったね。僕のお尻の穴は便利になっていてね。女性器とおんなじような使い勝手で、しかも面倒くさいあれこれのことは考えなくていいように『つくられて』るんだ。女性器および子宮置換手術の応用さ。まだ公にはなっていない技術の検体になる代わりに風俗に務めることになってた。無論、今になっては昔の話だけどね。あ、大きい方どうしてるのとか、聞かないでね? 恥ずかしいから」
ユソノはもうユキに射精すること以外はなにも考えられなくなっていた。ユキに後ろから抱きつき、腰をめちゃくちゃに振り込んでいる。自分の勃起したものをユキの腰に押し付け、射精を寸止めする快感を何度も何度も味わいながらいまにも射精しそうに腰と陰茎をびくつかせている真っ最中である。
「僕といちどしてしまったらもう戻れないけど、もう聞こえてないみたいだし、断る理由もないよね?」
ユキはそう言うと、ユソノの勃起した陰茎を自分の穴に導いてやり、かれの射精をうながした。ユソノはその瞬間体中を震えさせ、だらしなく腰を振りながら、何度も何度もびくついて射精し続けた。
「えへへ。ホテルはいい迷惑だよね。ホント」
二人は誰もいない湯にしばらく浸かった。
○
ユソノは自分の痔が自分によって治されたのではなく、ユキの力によって果たして完治したのだと信じることができた。部屋に戻るとシーツは直されていた。そのときにユソノがしたのではないことがかれにはわかっていたが、湯でのセックスをシーツだけが目撃していたことをかれは恥じた。
「ねえ、ユソノ。僕にはわかるんだ。僕はここにいちゃいけない。それは君との時間を拒絶しているわけではなくて、この世界から逃げたいという意味なんだ。僕は僕がここにいちゃいけないってことが本能として理解できて、それを実行したいって思ってる。だから偶然を待った。君を待った。僕は今までずっと状況のさせるままにしてきた。今度は僕の番だ。僕が、僕ばっかりがわりを食うのはもう終わりなんだ。君が、ユソノが、ユソノノーカが僕を連れ去ってほしい。僕だけじゃ絶対に無理だ。君一人でも無理だ。君もずっと僕と同じようにしてきたから。でも二人だったら? 二人だったらこのループから抜け出せるんじゃないかって気がしてるんだ。ループ? ループ。ループ……? ループってなんだ? 僕はずっと繰り返してきたのか? 一六から一八歳の一番感じやすく狂いやすい最悪の時期に? 最悪の形で? 最悪のループを? 回っていたのか? ああ、でも、ユソノがいてくれるから、僕にはユソノがついてきてくれる。それだけが確かなんだ。ユソノが僕の救世主なんだ。ユソノが僕のファム・ファタールなんだ。ユソノが僕のリリジョンなんだ。それは君にとっての僕でも同じなんだ。相互に求めあっている。ずっと自分を誰かに救ってもらいたくて求めあっていたんだ。もうもとの生活には戻らなくていい。ユソノ。大好きだよ。ユソノだってユキ大好きだよって言ってるんだ。ああ、一緒になってループを抜け出そう。今ならできる。今この瞬間になら抜け出せる。今しかないんだ。その瞬間を逃したらもう次はない。ねえ、ちょっとだけなら誰も気づかないよ。僕たちだけでずるしちゃおうよ。僕たちだけなんだ。ループを抜け出せているのは。他のみんなはループに取り残されたまま。誰にも知られずに、また、誰もが自分自身のループにはまっていることに気づかずに、ループを、抜け出そう。ほら、ああ、ああ、ね、できた。ループが解けていくよ。今に僕たち二人は救われる。理性のループに感性たる死が勝った瞬間なんだ。今が! そう! 今このときが! ずっと損してきたんだ……ちょっとくらい……僕たちだけでいい思いを……しちゃおうよ。できているんだ。ほら。ああ、祈れるよ。僕今日初めて恥じらいをもって、僕たち二人のために祈れるよ」
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蛮勇を持ってかれはホテルのドアを開けた。番号を見ずにあやまたず自室の扉を開いたことに、ひとり喜んだ。そして胸のすくような思いがして、小さな冷蔵庫を蹴った。ふと窓を見る。涙が溶け出している。かれはすべてを理解したような気になった。かれは思った。涙の空に隠れて泣いたのなら、誰にも気づかれることなく泣けるであろう。そして誰にも気づかれることのなかったことに気づくことができるのかもしれない。ループだ。かれはその瞬間に自分のループを断ち切ってユキに会おうとした。荷物からカミソリを取り出した。手首のどこを切ればいいか知らなかったので、なん本もめちゃくちゃにねじ込んだ。それからズボンを留めるベルトで首をドアノブに繋ぎ、自分のした、正しいドアノブをひねるというあやまちを思い返した。涙の空の下に許しをこいながら、かれは自分の首をくくって吊った。ほんの数秒後に頭痛が来る。かれはこれをループから逃すまいとする理性の最後の抵抗だと理解した。ユソノノーカは自分を覆う瓦礫の天を蹴るようにして頭上に足が飛び出そうとするのを止めることができなかった。その動きが緩やかになっていくのも認識しながら止めることができなかった。涙の空に自分の体が届かないこともわかっていながらなにもできなかった。キヌユキ。僕ユソノノーカはループから抜け出すことができなかったんだ。でもいいんだ。僕たち二人はもうたどり着いていた。だから今この瞬間の僕はなにも抵抗しなくていい。いいんだ。僕たちが相互に求めていたとしても、相互になにか積極的に行動を起こそうとしなくてもよかったんだ。それでいいんだ。キヌユキ。ユソノノーカ。大好きだよ僕たち二人はループを抜け出すことができているよ。ここでは幸せとか苦しいとか関係ないんだ。どこにあるとかなぜあるとかも考えなくていい。あるんだから。有が無い。無が無い。幸せでもない。苦しくもない。相互にただ相互に相互に消極的に受動的に僕たち二人は祈る。それがなにかしているというわけでもない。なにもしていないというわけでもない。だから安心していいんだよキヌユキ、ユソノノーカ。僕たち二人はもう溶けあっているんだ。気づいているんだ。だから大丈夫だよ。大丈夫。大好きだよ。大好き。
○
ユエリンが僕に対して口を開いてくれたのは、出会ってから二回夏を繰り返したあとだった。口癖は『私は生きるのが下手だから』だった。ユエリンは僕との会話の最後に必ずそれを付け加えることを忘れたことはなかった。
ユエリンは僕との会話をカウンセリングととらえていたのかもしれない。メッセージで予定を取り付けて、週に何回か、僕たちは必ず会った。ユエリンは僕と会ってくれることを、少なくともいやがってはいなかった。いまのところは会う直前で引き返したりすることもない。カウンセリングとは言ったものの、こうして話をしてくれることを、社会への矯正措置とは受け取らなかった。ユエリンが僕との言葉を重ねるたび、感性に錆びた歯車を理性の棒やすりで磨きたてられる感覚に襲われることはないと告白してくれてからは、カウンセリングもよりいっそう進んだように思えた。
今日も同じことを同じ場所で話す。これまでもそうだった。正確に言えば、ユエリンはある時点で、今まで続けて話してきた自分のことをそれ以上進めることをやめてしまった。もうその状態になってから三年がたとうとしている。僕は積極的にユエリンのストーリーの扉をこじ開けるような真似はしたくなかった。僕はこれ以上、ユエリンとの対話で、ユエリンが社会に戻ろうとする挙動を取ることがなかったとしても、ユエリンを追い詰めたくはなかった。ユエリンは今まで僕と一緒に続けてきた物語を終わりにしたくなかったのだ。
ユエリンが来た。僕と一緒に向かう場所は僕のアパートの部屋だった。最初はカフェ、病院の共同スペース、ペアの満喫や図書館などに入り浸って話してきたが、やがてユエリンが一番落ち着けるところ―――僕の部屋―――をまた告白してくれた。それからはずっとユエリンが出てきて、僕の部屋でカウンセリングを続けている。僕の部屋以外は、いつまでも落ち着ける場所ではなかったし、そもそも迷惑になりかかる場合が多かったので、僕もこれには助かっていた。
「イビヤ」
ユエリンが僕の名前を呼ぶ。親しみと、あくまでも冗談の範囲内での侮りをもって僕の名前を言い放つ。視線を加えた筋肉の移動で解決できるくらいの柔らかさを含んだその言葉は、ユエリンがもうあまり僕との会話に緊張をもって、積極的に取り組んではいないことをしかと示した。僕は今日この瞬間、五二四回目のカウンセリングを始めようとしていた。ユエリンが同じ話しか話さなくなってから四一四回目だった。僕はここに確信している。僕はユエリンの社会復帰を望んでいない。僕イビヤは、ユエリンと永遠に会話していたい。
○
「私の推しが配信しないのよ。おかしい話だと思わない? もうツイッチの最後の配信から三ヶ月にもなるのよ」
「僕も一緒に観てる人だよね。カルボランドラムちゃんだっけ?」
「そうよ。ラムちゃん。まあ標準時間がまるっきり違うから、私がすっかり寝てるときに配信してるのはまだわかるわ。でも最近その時間にも配信してないのよ! なんど夜ふかしして木曜の四時を待ったことか……」
「ツイッターの個人アカウントも監視してるんだけど、あの子ったらいっつもメンヘラになって、『配信したらみんなは見てくれるかな……』『配信したら迷惑じゃないかな……』とか、ながなが語りながらずーっと悩んでるんだから。そういうところが私に似て好きなんだけどね」
「相互フォロワーの人も洗いざらい探してみたのよ。誰かがラムちゃんの心に刺さってとれないわだかまりの原因になってるんじゃないかって思って。ラムちゃんのアンキシエティーは、私が予想するところによると、ソーシャルシーンでのアイデンティティーの崩壊を憂いているのよね。それで、なにか個人的で重大な修羅場の事件があの子の周りで巻き起こってるって当たりをつけた感じね。そこで今度は私のほうが心配になり始めて、今は彼女のアカウントとタイムラインを追うのをやめてるけど。生活の侵害にもなりかねないからね」
「個人的ないさかいに首を突っ込むのは懸命ではないね。まず最初にあちらに迷惑がかかる。君がラムちゃんを傷つける加害者になりかねなかったんだよ? それに、情報に曝露して一番ダメージを受けるのはこちらだからね」
「うん。知ってる。だからこそラムちゃんのことが心配なのよ。私は心配だわ」
「それは杞憂だよ。だれかを積極的に傷つけようとするアンチ的おこないよりよっぽど甚大な被害を招きやすい。ソーシャルシーンにおいての立場なんてものは、自分たちが思ってるよりも案外もろくて崩れやすい、かきわりの蜃気楼なんだよ。でもね、喉元過ぎればっていうでしょ? いままで身を置いていた状況がいかにバカらしかったなんてものは自分が身を引いてみなければわからないし、実際引いてみたらそれはすっごく小さな心配となって余裕に繋がりはするだろうけれども、当人が陥っているデプレッションは、その一瞬間、当人において最大の、人生をかけた重圧となってかれらを襲うんだ。だから自分が今その場にいないからといって、そのかれらをないがしろにするなんてことはあっちゃあいけないんだよ」
「ねえ」
「どうしたの」
「こんな話になるってわかってて、私この話をしたのかしら」
「怒ってる?」
「ないわ。もう……」
まだ同じ内容には入っていなかった。いつもこうして雑談から始まる。口を切りだすのはユエリンがいつも最初だった。それらは一見関係のない事柄だった。ユエリンが語ることとユエリンが関わりを持ち始めるのは、ユエリンが心の奥では自分の置かれている状況の解決を望んでいることのなによりの証拠だった。
「僕の友達ね……いまでもよく会うんだけど、最近、ていうかずっと前から一人称を『俺』にしているんだ。その前はワタシ、だったんだ。すごい成長だと思わない? 僕はすっごく思う。それでだいぶ失敗してきたみたいだし、いまさら完全に馴染めるのかどうか自分自身も薄く疑問に思い続けてるらしいけど、少なくとも絶対にちょっぴりだけは無駄なんかじゃないって思えてるみたいなんだ。イビヤ俺成長できたかなってずっとなんかいも聞いてくれるんだ。僕はあの子がその質問をする前に確かな自信を手に入れ始めているのを知ってるから、いつもこう返すんだ。うん成長できてるよだから大丈夫大丈夫だよ」
まだ早いが、いつもユエリンを連れて酒と食料品を買いに行く。今日は買いためておいたものを二人は飲み始めてしまったので行く必要がなかった。
「僕はね、ユエリン。これも友達なんだけど、自分自身の言動にがんじがらめになってしまった子を知ってるんだ。ひどく衰弱していた。憔悴しきっていた。自分の奥底に活動している感性的な分子をとめどなく溢れさせてしまう人間。奥底。僕はいま奥底という言葉を使った。それがそういう使われ方で使われているのを知っているし、だれも疑問にも思わないし、だいいち思ったとしても意に介さないような小さなものだけど、その瞬間に奥も底も無駄になってしまうという、その言葉がフイになる瞬間が嫌で口をあまり開かない。そんな言葉を口惜しむ感覚が僕を縛り付ける。本当は言葉なんて惜しむものじゃないのに、本当はあの配信者みたいに、体力が続く限りは半日以上だって話し続けていられるはずなのに、その感覚だけがこの身を縛り付けて舌を凍らせ、視線とその筋肉がぎこちなくなってしまう。そのときに本当に言葉の意味が失われ始めるのをなによりも悔しく思っている、自分は言葉を大事にしているはずなのに、胸にしまい込んでおいたはずの言がどんどん抜け落ちていくんだ。ぽとりぽとりって音が聞こえてるんだ。そのたびに自分は卑屈になることによって自分の存在の玉座を汚すことなく、危なげなく、何事も率先して起こさず何事にも真先に反応せずに過ごして生きてきたことを、プレッシャーとして知覚していることを自覚して認識していることを行動に起こそうともすらせず、万象におびえていることをいやがおうでも認めざるを得なくなることがなによりも苦しいんだ。自分の存在が危うくなって、なくなりそうになると、必死に予防線を何重にも無意識のうちに張り始めるのもやめてしまいたいんだ。でもそれをしたら、最初からまともなんかではさらさらないのに、今度こそ感性に飲まれて、普通の考えをもった人間なんかじゃいられなくなるんだ。そんな子。それが僕なんだ。うん。友達っていうのは僕自身のこと。ユエリンだって、ラムちゃんだってそうなんだよ」
自分がバラバラになっていることをただ一心に信じきれたら! すべての責任をバラバラの自分に分け隔てて負うことができたら! そう願わない、アンキシエティーを抱えた人間はいないだろう。だからラムちゃんは、自分にカルボランドラムという名を受けた。ノリテ・テ・バスタルデス・カルボランドラム。これらのろくでなしにあなたがうちのめされることのないように。ラムちゃんはラムちゃんに、自分自身に名付けたんだ。
なにも進んではいないしなにも変わってはいないんだ。もっと自分自身についての話をしよう。もっと自分たちが身近に感じられてもっと自分たちの心に火が灯るような話がしたい。冷たくてパッシブな思考は肉体を単なる枠にしかできない。僕はそう言った。黙ってユエリンは聞いていた。ユエリンは菓子パンの包装紙をやぶって、チョコパウンドケーキをほおばって飲みこんだ。ユエリンは僕の話を聞いていた。その黙っている時間が返答だった。ユエリンはツイッチのアカウントを持っていた。最初は視聴にのみ使っていたが、そのうち自分でも配信するようになった。僕もそうしていた。ラムちゃんのフォロワーは五〇万人を超えていた。僕たちがラムちゃんに影響を受けなかったといえば嘘になる。カリスマを持った人間の配信するのを聞ききながら、僕たちが次第に配信の適性みたいなものを身に着けたつもりにならなかったといえばそれも嘘になる。すぐ飽きてしまってそれからぱたりとみずから配信するとは言わなくなったが。
ユエリンを僕の部屋に泊めることにした。ユエリンは飲めない酒を飲んで寝た。僕は、布団をかけてそのまま寝させるには忍びなかったので、抱きかかえてベッドに移してそこで寝させた。テーブルにうつむいて眠るユエリンをそのまま寝させるには、僕は貧しすぎた。僕は眠れなかった。四時を回ってラムちゃんが配信を付けた。僕はそれをみながら酔いを覚ましていった。酒に酔っていなければあんな話はできないとなんど思ったことか僕はすっかり忘れてしまった。徹夜明けの克明さと酔いの覚めてくるのに合わせて、酔っていたことをすら僕は忘れる。
○
「サイボーグ手術についてどう思う?」
十一時過ぎに目が覚めた。ユエリンは狭く低いキッチンに立っていた。僕はそう聞いた。
「サイボーグ置換手術でしょ? 施術を受けた人間は膝の裏に小さい十字を刻まれるやつ。あれ義務だって知ったの最近よ。いままで会ってきた女の子の膝の裏みてなにそれ変なタトゥーって思ってたんだけど被施術だったんだってしってからは見る目変わった気がする」
「手術が出てきてから若さの認識がガラッと変わったよね」
「イビヤは被施術のことどう思うの」
「べつに。どうも思わないかなあ。積極的な義手とも違うみたいだし。被施術のかれらを心身ともに障害者だとはまったく思わない」
「だよね」
ユエリンは料理をやめて冷蔵庫から取り出した缶チューハイを片手であけてテーブルまでやってきた。飲み終わるとそのままソファに横になった。
イビヤイコールミカリ
それはいったいどんな楽器だったろう。ギタロフォンでもなくキーマンドリンでもなくキーチータでもなく大正琴でもなくマクソフォンでもなくハンマーダルシマーでもなかった。でもタイプライターのような木板のおもてを剥がして弦を張ってハンマーと鍵を付けて弦を全部同じ音にしてハムバッカーを幅に合うように四つか五つくらいつけてジャックからシールドをアンプリファイヤーとスピーカーに通して弦を生爪が剥がれるくらい掻きむしると気持ちよかった。血まみれの、骨がむき出しになった手は痛くなかった。僕はぬるい手を首にかざした。癖だった。恥ずかしくなるといつも勝手に腕が動いて手が首をしめた。くちびるがかわいて死んだ皮が落ちた。スタジオの時間が過ぎた。うん。家に帰りましょう。家は体を洗っていないときの濡れた犬のような匂いと病気の独特の土のような匂いがした。いつもの匂いだ。僕の部屋だ。自分の住んでいるアパートが嫌いなのではなかった。自分が住んでいるときの自分を嫌いになりたくはなかったし、それで不安になりたくなかったので安普請とは言わなかった。僕が安心を手に入れるのが家の中だけだった。苦労するのが不安だった。行動するのが不安だった。楽に流されることだった。自分から行動するのが不安だった。それをしなければならない段になっても不安だった。自分から行動しなかった。自分の怠惰のためにできていないのだと思いこんでそれだけを答えだと思い込んだ。でも本当だった。環境が変わるのが嫌だった。自分の履歴が消えていくのが嫌だった。社会に必要なことをするたびにたまらなく不安になった。でも社会を憎まなかった。他人を憎まなかった。状況を憎まなかった。ただなにもできないだけだった。僕は職を持たないまま親の仕送りでごみを拾い集めてその中にある大量の楽器で音楽をするようになった。音を鳴らすだけだった。たわむれにスタジオを借りてみたりなどした。なにも食べないままホームセンターに行って器材をそろえて配線を直した。親戚からもらったパソコンにつないでオーディオインターフェースから音を出した。音を出すだけで音楽とは言えなかった。でも僕は音楽にならないまま音を鳴らした。それが音楽だとは思わなかった。でも音を鳴らしていた。自分で消費しただけだった。眠って起きたら怠惰な自分以外の世界が全部変わってほしいとだけは思った。憎みはしなかった。でもそれが憎むことだった。変わってほしい。僕は変わらなかった。なにもしなかった。そして、社会は価値魔法社会になった。皆はアクティブにポジティブに独立して孤立してひとりひとり生きるようになった。不労がなされたのであった。僕はなにもしなかった。でも価値魔法社会があった。ずっと前からあったらしい。僕は価値魔法社会の中にいた。僕は不労幸福を手にした。僕の願いがかなったのだ。僕はもっと願うようにした。僕は一九を過ぎるまでそのまま音を鳴らしていた。ある時点で、不労から帰ってくると、僕の部屋に女性がいた。玄関の扉を開けると、かまちに体育座りをして僕を見つめていた。僕ではなく帰ってきた人によって開くはずの扉を見ていたのだろう。女性はミカリと名のり、自分をミカリさんと呼ぶように僕に言った。僕は言葉を継げなかったし言を口出せなかったので会話とは言えないが、それがミカリさんとの初めての会話だった。願った僕は自分を世話してくれる女性を手に入れた。初めての会話のとき、僕は口に出さなかったが、かまちは僕の癖――靴を脱がないままかまちにあがる癖――でいつも汚れているので上がったり座らないほうがいいと言うべきだった。でも僕は口を開かなかった。ミカリさんはそれだけ言うと僕を見ないで部屋に入っていった。僕はミカリさんの家に招かれるかのようにそろりそろりと部屋に入った。ミカリさんは勝手に冷蔵庫を開けて勝手に缶チューハイを取って勝手に僕のパーソナルスペースに座り込んで勝手にプルタブを引いて勝手に飲んだ。ミカリさんは自分の家だと言わんばかりになめらかにその動作をこなした。僕はいまいる自分のこの部屋がミカリさんの家だと思うことにした。僕も座って酒を飲んだ。価値魔法社会によって既存の法は消えた。不労によって僕らはなにをしてもいいことになっていた。それそのものも、それを縛ることも、それを開放することも、恥じることも、ひけらかすことも意味をなさない。ミカリさんは価値魔法社会について僕に教えに来たという。人びとの価値観(ミカリさんは価値観という便利な語をあまり使いたくなさそうに目をそむけ、それでもはばかるようにして使った)は価値魔法社会によって完全に破壊されて再構築されている。本当の意味で自分しか信じれなくなった世界のなか、僕が願ったことは罪になるらしい。かなってしまう願いは犯罪だという。だからミカリさんは本当は僕を捕まえなくてはいけないという。それが唯一の法だから。でもあまりに願いそして叶う人間が多すぎるため問題にされないという。ミカリさんは警察ですかと僕が聞くと、警察もなにも全部なくなってしまったと言った。だから裁くのはただの人がただの人に向かってしか機能しない。でも実際にそんなだいそれたことをする人間はいない。もちろん私もキミを捕まえようなんて気はまったくない。だって世の中には便利に侵された人間がたくさんいるからね。しかもお互いが孤立しあって生きることができているからなおさらなんだ。誰もが誰もを捕まえようとしない。だってそれをしたら迷惑でしょう? だからなにもしない。価値魔法社会に生きる人たちは便利の上に脳停止しながら生きているんだ。私もキミも。誰もかれもがなんだよ。僕はミカリさんが現れた因果と理由がわからなくなってしまった。ミカリさんは缶を指で挟んで潰しながら言った。ミカリさんの手がアルミ缶を食べる四足動物の口に見えた。私はね。キミの名前もわからないけど、キミになにかしてあげたらなって思ってるんだ。だからキミの前に現れた。だからキミが望めばなんでもしてあげられるし、なんでもする。でも私がこれからいっぱい教えることは聞かなくてはいけないよ。価値魔法社会は人間一人ひとりの中にあるんだ。私がキミの先生だよ。キミの意識の中にある価値魔法社会を認知してほしいんだ。私はキミが願ったと思ったから来たんだ。でもパッシブに願い続けるのは今日で終わりだよ。価値魔法社会の中にあってはじめてキミは行動するんだ。私はキミの、社会の目で見ればほんのくだらないただの啓蒙者。便宜の代弁者。対立する人間の鼻をあかせるような立派な啓発者。キーパーソンあるいはビウェア・パーソン。キミが考えはじめて、行動しはじめて、はじめて私はキミのためになれる。人は目標がなきゃ少しも行動できないからね。キミも。いまこう思わなかったかい? 世の中に転がっている自己啓発となにも変わらないじゃないか。でも私はここにいるんだ。肉体として在る。私ができることで私が『ねがう』ことには、キミにも肉体性を獲得してもらいたい。それだけなんだ。私はキミにものごとを勧めることしかできない。キミがやってはじめてなせることだからね。キミにいろいろ教えてあげる。
でもまず私のことからはなさなきゃね。
○
ミカリさんは自分のことと社会のことと僕のことを話してから先に寝た。僕も寝た。起きるとミカリさんはいなくなっていた。僕はいったんミカリさんのことを考えないようにした。また必要になったら現れてきてくれる気がした。
楽器の名前は僕の好きなひとの名前にしよう。イビヤ。今日からこの楽器はイビヤだ。イビヤは西暦で百世紀を過ぎてから生まれたので生まれた頃から価値魔法社会にあった。その前もきょうとなにも変わらない社会だったらしい。ただ価値魔法が増えて価値魔法社会ができただけで世界はなにも進んでないらしい。そんな世界にイビヤは『珠のような生を受けた』らしい。イビヤが言っていた。イビヤがイビヤの話をするたびに僕は嬉しくなった。心拍数が上がってもっとイビヤといっしょにいたいと思った。イビヤ。イビヤと知り合ったのはいつ頃だったろう。中学生の時だ。クラスが変わって、もう僕が前のクラスでいじられなくなったとひと息ついて席に座ったときだ。イビヤはもう僕の隣に座っていて、ほお杖をついて僕を見ていた。僕によって座られるだろう椅子の上の空間を見ていたのだろう。僕が視線に気づくとかれははにかんだ。それで好きになった。僕はもう誰からも相手にされなくなっていた。僕は安心半分、このクラスで孤立したような思いがした。でもイビヤは僕に笑いかけてくれた。それだけでクラスにいる理由ができたと思った。イビヤはおそらく僕のことを本当は迷惑に思っていたんじゃないかと考え返した回数は数え切れない。厄介で曲者なのがイビヤで、それを好きになるのが僕だった。最初で最後の声が放たれた瞬間から、イビヤと僕のあいだに会話は生まれることはなかった。いまこの瞬間まで。ただイビヤだけが思わせぶりな態度をとって僕が困り果てるのを見ながら楽しんでいた。僕は自分から行動を起こさない奥手な自分をあきらめていた。イビヤのさせるままにした。僕はそれで勝手にその気になっていればいいのだ。そう思い続けてしばらく経ったある日にイビヤはいつもの僕の思っていることを見透かすような目でこう言いのけた。
『キミの書いた文章が読みたいな』
僕は音楽の他に文章も書いていた。僕は始めて自分から行動を起こした。放課後、教室に皆が残って話されているあの時間に読んでもらうことにして、その旨をイビヤに伝えた。イビヤは喜んでいた。どんな顔をしてどんな喜び方をしたのかは忘れてしまった。僕は文章を書き付けているスマホを渡してイビヤがそれを読むのを見ながら泣いていた。イビヤは僕が泣いていたのに気づいていただろう。
「自分の書いた文章で人が泣いたらキミはどう思う?」
「自分の技術が足りてないと思って、自分に憤りを感じる。分かりやすい行動によって発露される感想をいやらしいと思って、それを引き出してしまった自分を恥じる」
「じゃあなんでキミはいま泣いているの?」
「わかんない。僕は自分がいま一番恥ずかしいよ」
イビヤはだまってスマホを掲げて僕の文章を読んでいた。僕は隣りに座って窓にかかる葉を見ていた。桜は青くなって終わっていた。一階なのでその窓の下からごんずいが植えてあるのも見える。役に立たない葉や花などはなぜあんなにも綺麗でいて、人を殺しそうなのだろう。桜が終わるとごんずいの、鬼の目玉のような―――鬼の顔面を、水を満たしたバケツにしばらくつけてふやかしたあと、まぶたからめりっと剥がしたような―――花が咲く。一人で見る花は虫を見るようでぞっとしなかったけど、イビヤの隣で見る花はよかった。色が急に無力化されたように見えて、そこではじめて僕は花を見ることができた。暑かった。イビヤと二人きりだったからなのもあるが、それよりもこの湿った気温が僕を暑くさせた。イビヤの方を見るともう読み終わっていた。手持ち無沙汰に、僕に気遣ってほしいわけでもなく、ただスマホを持ってぼんやりとしていた。そして花を見ている僕を見て、「あのごんずいの赤いやつは花じゃなくて実だよ」と教えてくれた。僕がいままで小中高一貫校で見てきた花は実だった。
未来旅行
ねえ、あの、目を見せてください。ああ、ひどい目だ。誰からも愛されなかったと感じながら生きてきたんでしょうね。うん。未来旅行に行ってみませんか。いまなら帰ってこれますから。ええ。もちろんですとも。お代はいただきませんし、たいしたこたおきませんて。はあ、それじゃあ、行ってみるだけ行ってみましょうか。九十年代のケツに証拠を突きつけて、誇っていまに帰ってこれる旅です。
視線を集中させながら焦点が繁く替えられると、眼球が左右に痙攣する。その高速のメトロノームをテンポとしたピアノ曲がある。田口典游の『柔道家』である。九十年代末に一度だけ演奏されたことがある。一度しか演奏されなかった曲は忘れられる。現代クラシックの常であった。その時の演奏家が憂佛陸画腺一といい、ごんずいの実のような目を持った妾を持っていた。かの女の名前は讀猫。そこが防音室であろうとコンサート会場であろうと、柔道家の最初のE音を聴き取れる、数少ない優秀な人間のひとりであった。讀猫はいつも腺一にこう言った。「あたしは鬼の子なんですよ。ほら。目が小さくて黒目しかないでしょう。目のまわりにはいつも赤みがさしているでしょう。鬼の証なんですよ。これが」
腺一はいつもこう返す。「よみ。おまえはいつも冗談をいう。おまえが本当に鬼の子なわけがないだろう。もし本当にそうだったら、いまごろおまえはおれを喰ってるよ」讀猫が最後にこう返して、いつもの会話は終わる。「あら、本当に本当にそうかしら。あなただってわかってたら食べないわ」
結局腺一は柔道家を演奏したあとピアノをやめた。入っていたバンドサークルで、かれは讀猫と、もうひとりを誘ってバンドを組んだ。そのバンドが、サークル内でニルヴァーナとザ・スミスとマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのパクリだと騒がれた、『俗弓』(ぞくゆみ)である。腺一はパクリだといわれたが、かれはパクリだとは全く思っていなかった。むしろ先達の模倣はあってしかるべきだと考えていた。しかし風評のせいでバンドはサークルの立場を追われた。事態に窮した腺一は柔道家をパクって、二〇〇〇年八月に最後のシングルを発表した。それがのちに思考上の未来旅行のもととなった、『出産―ザット・ダイヤモンド・マタ・ハリ―』である。
大学を卒業した腺一は俗弓を続けるか、就職するかの瀬戸際に立たされることになる。一応親の前で悩むフリをした腺一は俗弓を続けることにした。さいわい最後のはずのシングルが売れ、バンド活動を軌道へ乗せることには成功していたし、なにより腺一はライブをやることが楽しくてしかたがなかった。俗弓は一時的にノイズへと移行したが(このときのとある知人の評に言われたところでは、『ザ・レヴォネッツとスピーディー・オーテイッツの劣化版の完全下位互換である。飛躍した造語たちが、花のためにそのマラソンの終わるときと、実と花を混同したワンダラーが水をかぶるだろう瞬間にきらめけば、ランナーは葉脈に散開するだろう。裸のラリーズの名前を出すのすらおこがましく、言葉に表すに極めて浅ましい』)、もうひとりのメンバーであったエル・クルーエルのアイデアで、ブラック・サバスとヴェルヴェット・アンダーグラウンドに回帰してからは、マイナー好きからも、メジャー連中からも相手にされなくなった(このときは人間椅子と中学生棺桶のパクリだと言われた)。腺一と讀猫はエルエルが好きだったので解雇するなどの選択肢は、はなから頭になかった。ひとりひとりがアーティストとしてソロ活動できる能力を持っていながらである。最終的に腺一は二〇一五年一月に俗弓を解散した。腺一はソロでスペイン語圏とポルトガル語圏とロシアのポスト・パンクと、ポエトリー・リーディングをパクりながらアルバムを数枚発表するかたわら、月刊誌に詩を投稿しながら暮らしていた。まだ讀猫と共にいた。讀猫は就職して、腺一を養いながらも、自身もYouTubeで趣味のイラストを題材にした動画を投稿した。エルエルは自ら新しいバンドを組んで活動を続けた。最新のアルバムである、『アメリカはポルノ映画の作り方を知らない』では腺一と讀猫がリーディングで参加している。
腺一は音楽活動を完全に諦めたわけではなかった。ある日のことであった。腺一はネットニュースのトレンドにあがっていた記事を見つけた。突如彗星のごとく現れた期待のダークホースである、メジャーデビューが決定した高校生二人組バンドデュオのユーロ・ルッキーとかなんとか、とにかくそういう内容だった。腺一は音楽サブスクリプションサービスアプリでルッキーを探して聴いてみた。文字通り電撃が走ってからすぐにルッキーと連絡が取れないか試してみた。ツイッターに記載されてあったメールアドレスに連絡すると、一週間後に返ってきた。その次の日に、俗弓再結成と、ユーロ・ルッキーとのフューチャリングが決定した。
ユーロ・ルッキーは、ロイヤル・ブラッド、ハイリー・サスペクト、クレオパトリックなどの現代風の白っぽいノリでジュブナイルを歌っていた。バンド名のルッキーはクレオパトリックのボーカル・ギターの名前と、グレート・ビッグ・シーの曲名から取られたという(のちに腺一が島村に聞いたことだが、ユーロラックのもじりでもあるらしい。メディアではユーロ・ラッキーと何回も間違われているようだが、仙谷はおそらく訂正を求める学生バンド時代のファンと、TVで見て初めて知ったにわかファンとの論争を計算したうえでバンド名をつけた)。その後すぐ腺一とルッキーのボーカル・ギターである島村はビニールで『侵害ハンター大宇宙大外天狗刈り』(通称『天狗』)を発表した。ストリーミングやCDが出なかったことも相まって、一時は話題になった。腺一のレコードに固執する性質が島村の心を打ったらしく、ふたりは立て続けにシングルやEPを出した。そのときのライナーは、俗弓のノイズ期を酷評した、腺一の知人である高畑芥無司がつとめた。
しかし、腺一と島村の路線ををこころよく思わなかったものがいた。ルッキーのドラムスである仙谷だった。島村の言うことには、仙谷は昔からひねくれた人間だったらしい。現在でもメジャーで活躍している米村健治(余談だが、腺一は米村と飲んだことがある。そのとき腺一は米村だと知らないで飲んだ)に向けた、『あのミュージシャンは世界で一番ひねくれている。ヘラまで掘らないとギターリフの元ネタは出てこないし、おそらくはヘラを聴いて中高生時代を過ごし、ギターを弾くにおいてネジ曲がった根性を身に着けたのだろう。私は人気になりたいが、あんなミュージシャンになるなら評価を受けないでもいい』はツイッターでの仙谷の言らしい。腺一は、少年期にラウド系にかたむかず、他のジャンルで速さを求めた米村のアーティチュードは評価されてもいいなと思った。
仙谷はツイッターにて腺一のことをこうも言った。「社会において卑屈に寝っ転がってことなかれ主義をなによりの心の拠り所とし、こと創作においてはやにわに社交的になり、他者をあらゆる形で侵害しようとする。カルチャーを作ろうとしていない。創作に取り掛かるときの問題意識もない。バックボーンもない。リアルさも標榜する俗さもイディオムもない。作るものが途端にイヤらしく感ぜられるようになるのは当然である。私はかれのような人間とモノを作りたくない」
腺一はこれを見たとき、高畑より効いた。高畑はまだマシだと思った。そして日本の音楽を精神面で進んでいると思い直した。それと同時に仙谷のことを幼いと思ったが、聞き分けのない右も左も分からないような子供としてかれを見るのではなく、一人の、自分の意見を持ち始めた人間として向き合わねばならぬと感を深くしてからは、自身の態度を改め、ピンク・ガイを堂々とパクり、全身タイツにハリガタスティックとミニロケットの弾頭のような棒を持ち、ステージに立った。そのときの主題となった曲が、かの有名な、ビルボードを席巻した『シノワズリ・ペーパー・ムーンとマニエリスム・パイプ・ドリーム』である。腺一がキャラクターとして消費されるようになると仙谷と腺一はよりを戻した。島村は最初から腺一の味方であった。かといって仙谷と気まずくなるようなことはなかったという。
腺一は自らのプロジェクトに島村と仙谷をまねこうと思った。コライトによる、未来あるバンドの私有化は物議を醸した。というより叩かれすぎて一曲のシングルのみ発表して立ち消えとなった(二〇二〇年の『飛行機事故』)。腺一の感ずるところ、子供のままの状況がそのまま変わらず人を喰ったような態度を持って育ちくさった結果だろうと結論づけた。
ちょうどその頃、和製インキュバスと巷で騒がれていたキング・ツルマシラが、きらびやかな流行りのバンドであった。加えて、八助の『雷魚〜くににかえったらたよりをください〜』がメジャーの話題を席巻していた。仙谷はそれらをも痛烈にツイッターで批判した。それが若気の至りと捉えられ、仙谷の言動は一大ネットミームとなったが、また別の話である。
島村の談によれば、高校生のバンド界隈で仙谷は鼻つまみものであったらしい。ツイッターの前アカウントでは内輪ネタをこねくり回したようなくだらないツイートにかまけており、勉強もせず曲もかかず、リル・コールサックという名義を使用してヴェイパーウェイヴやニンテンドーコア系列のジャンルの曲を作っていたようだ(そのカルチャーは名前と曲調、サンプリング元だけ知っており、カルチャーなどはなからみとめないで作っていた)。界隈では評判の芸人として名高かったと島村は言う。島村は仙谷と昔からの親友であり、仙谷のリアルライフの居場所と仙谷をつなぎとめていた唯一の存在であると自分で言っていた。
○
腺一は、大学生の頃、自分を藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件のフロントマンの生まれ変わりだと信じていた。そしてルースターズやガセネタやフリクションの当時の音こそ知らなかったが、その潮流を知って感じていた。腺一は一九九五年の夏に台温府龍倫知区拭苔で起こった、台温つづら折りたたみ殺人事件の裁判を傍聴したことがある。人気でなかなか予約が取れないと思いこんでいたものだから、予約のあまりにも簡単に取れたことに拍子抜けし、当日の気合の入りようを職員に注意された。実際見に行ってみると案外こんなものかと、殺人事件に抱かれるようなストックホルム・シンドローム的な美しい誤解と幻想は解けた。そしてもし、未来旅行が一般にひろくなされるようになったら、腺一はこの折りたたみ殺人事件を解決しようと思った。自分が抱いていた思いをそのままに維持していたかったのだろう。今(二〇二一年)にして思えば、そんなこともあったなと自分の中で飲み下せる程度のことだったが、その頃の腺一には我慢がならなかった。
それともう一つ、腺一が解決したい過去の出来事があった。
○
誤解を恐れずに書くと、その今には二つの世界が同時に存在している。エルエルが死んで、生まれ変わりのライライが腺一と知り合いになる世界。そしてもう一つが、エルエルが死なず、昔のような関係が今でも続いている世界。腺一は、一応迷うふりをしたあげく、この二つの世界の同時存在を選んだ。エルエルが死んだことと、折りたたみ殺人事件は関係がないが、腺一は自分のエゴのためにエルエルを救うだけではなく、社会に向けて外目だけの英雄になろうとしたので、折りたたみ殺人事件も解決することを選んだ。
腺一は大学を留年し、二〇〇〇年に卒業すると同時にダイヤモンド・マタ・ハリを発表するまで未来旅行の方法を考え込んだ。結局マタ・ハリが出るまで達成はできないのだが、一つだけ、未来につながるような啓示があった。
腺一は九九年の八月一五日の深夜二時に夢を見る。木組みの通風孔を這いずったり上ったり下ったりしながらほうほうの体で開けた部屋に顔を出す。随分広く誰もいない。古い畳の匂いと、ほこりの匂い―――ぶどう味の駄菓子の匂い―――がしたことをよく覚えている。そのまま奥を見ると、見上げるほどの巨大な仏像がすわっていた(ちなみに俗弓の二枚目である『仏像ゴールド』はこの体験から来ている。ジャケットの、仏像をアップで移して金色の肌しか写っていない画像はエルエルの案である)。急に恐ろしくなって狭い通風孔に顔を引っ込めた瞬間に夢から覚めた。ずいぶん汗をかいていて、体は硬直していた。あれは典游が生霊となって枕元に立って見せた夢だろうとなぜか納得がいった。そういえばピアノをやめてから典游に会っていない。典游は腺一が五歳から大学生活を半ば過ぎてピアノをやめるまで、音楽原体験の師匠であった。幼いときは気づかなかったが、典游の自宅兼教室に通いに行くといつもローリング・ストーンズがかかっていた。典游は授業を始める前、いつも脱線として、少しではあるがいろいろ話してくれた。コックさんの絵描き歌や流行の据え置きゲーム機の話、壁一面に揃った漫画雑誌を紐解けば、いつのまにか授業の時間をとうに過ぎていことさえままあった。迎えに来た母に叱られながら、母は遊び好きでお茶目な先生をたしなめ、帰ったことは昨日のことのように思い出せる。ピアノをやめる寸前の大学生のころ聞いた話によると、非常勤の音楽の教師として通っていた高校では、脱線好きとしてその悪名を教員、生徒間に知らしめていたらしい。
ともかく、その夢に立った典游に会いに行こうと思い立ってからは早かった。故郷(というには大げさすぎる)への切符を取って電車に揺られながら実家の生ぬるい風を思った。思ったまもなく着いてしまった。実家へ形だけの一時的な帰還を言いつたえ、すぐ典游のもとへ向かった。末期の咽喉がんが進行していてベッドの上に痩せていた。挨拶もそうそう夢の次第を伝え、腺一は柔道家のリメイクの許可を貰った。弾丸で帰った腺一は帰りを待っていた讀猫に言われた。
「書き置きもなしに出ていくなんてひどいじゃない。あたしてっきり愛想をつかされたのかと思っちゃった。でも腺一は一人で生きていくなんてできやしない怠け者だから帰ってくるって思ってたわ」
「田口先生に会ってきたんだ。夢枕に立たれたら帰るしかなかったからね。教えないで帰って悪かった」
「いいのよ。あなたとあたしの仲じゃない」
そのとき腺一は、せいぜいこの関係は仲止まりなのかと思ったが、言葉のあやであるとも思ったしそもそも讀猫がそんな意味で言ったのではなかったことははなからわかっていた。なのでわざわざ口に出すことはしなかった。それが答えだった。
マタ・ハリには二つのデモ版がある。一つが完成版に繋がった『拭苔版』であり、そしてもう一つが俗弓のノイズ期に腺一が仲良くなったグループであるペルパリポレロの当時のメンバーの一人だった、生涯ハード・マス・ロッカーのスタニン・コスエとフューチャリングした『ノイズ版』である。未来旅行にはこの二つのデモ版が必要不可欠であったのだが、当時の腺一にはわかるはずもなく、拭苔版を完成版として発表してしまった。実際未来旅行をする段になってテープを探し出すのにだいぶ苦労した。
そして二〇〇〇年八月にマタ・ハリが発表される。知人にも一通り聴かせたが、思うような反応はなかった。いいと言ってくれたのは讀猫とエルエルだけだった。未来旅行のもととはなれど、発表したあとになってからやっと気づいたもので、腺一にはマタ・ハリが未来旅行につながるなど夢にも思わなかった。讀猫に言われて気づいたのだ。讀猫は腺一と共にマタ・ハリの歌詞を夢の内容から書いたのだが、以下の内容のようである。
坐ってた広い仏堂で見えない仏像を
黄色い耳かきに体育座りで
坐ってた白い海浜公園
連れと一緒に見たひとの踊りを見て知った
ブリッジにかけて、そのころのポップ曲などでは見られなかったコード進行(いまでは一般的に使われている)がある。柔道家のラインをベースとギターとキーボードで取っていくと、偶発的にそうなってしまったものだが、讀猫にはこれが引っかかっていたらしい。讀猫は音楽理論を知らなかったので、似たような歌詞をもつ他のバンドの曲を洗いざらい探してみた。すると、サム・クリンジワーシー・コラプテッド・スピッターズの『ウィ・ア・サムシング,スー』にあった。連絡を取り、音源を聴かせると、デモ版を催促されたので二つとも聴かせた。参加していたギターのコスエを見抜き、前ライブのサポートに来てくれたんだよと話してくれた。一度だけだったが、コスエはそれを自慢して自分のブログにいつまでも記載しているらしい。日本の有名なバンドでもそうしていただろう。コスエは自分のYouTubeチャンネルを持っているようで、自分の集めた真空管や靴やジャケットを紹介していた。二〇〇六年あたりの競艇場での動画に腺一が映っていたが、腺一は気づかないで偶然会ったらしい。讀猫は腺一をとがめはしたがあまり気にしなかった。
本来スピッターズは未来旅行に関係ないのだが、そのときの腺一にはわかるはずもなく、わざわざスウェーデンまでスピッターズに会いに行ったが成果が得られるはずもなく徒労に終わった。
スピッターズが関係ないとさとった腺一は、マタ・ハリを見つめ直す。マタ・ハリをサンプリングして数曲作ったが、真に迫らないとして頓挫した。コンピレーションの『メキシコ・シティ・TV・ニュース』にてその未発表音源が収録されている。スピッターズとはまだ交友関係を続けている。直近では、スピッターズのボーカルのソロツアーで腺一が参加している。
○
二〇一六年四月にエルエルが死んだ。自殺だった。その日に腺一はエルエルに会っていた。収録の帰りに、エルエルは缶コーラを片手の中指で開けながら言った。
『僕は作品を世に残して、それで死ぬ。みんなは働いてくれればそれでいい。世に残るか残らないかはどうでもいい。世に向けた作品がそれだけで意味をなす』
思わせぶりでもなんでもなかった。目はまっすぐ夕日を見ていた。沈む速度に歩く速度がはやくなった。すぐ目が慣れなくなって暗きは追ってきた。腺一は文字通り言葉通りなにも返すことができなかった。その日にエルエルが死ぬと確信した。
一体なにを返せたろう。思い返さない夜はなかった。腺一は思った。もし未来旅行でエルエルとまた会ったとしても、おれはなにも返すことができないだろう。あの場でエルエルを引き留める方法はなかったろう。帰りにブックオフでエルエルに漫画を選ばせた。士読用游と川原正敏と菊地秀行を買ってきた。一緒に読もうと思った。それが最後になるのかもしれないとも思ったが、それ以外になにも思いつかなかった。エルエルが死んでからは曲も詩も文章もなにも作れなかった。頭の中で出てくるイメージは見たままのものでしかないし、スケッチすらできなかった。書きかけの文章と作りかけのデモと友人だけを心残りにして自分も自殺しようと思った。そのあと一週間悩んだ。悩んでから、自分の書いたもので自分が救われたような気持ちになってほしいと勝手に願うようになったので、死ぬのはやめた。代わりに未来旅行でエルエルを救おうと思った。その時ならできる気がした。そして今も。実際に行った時も。できる気がした。未来に行って、一万年後の腺一に、腺一はたずねる。生きていたはずのエルエルを救う。腺一は二〇二〇年の四月に未来旅行を決行した。
計画はこうだった。まず二〇二〇年四月から、それぞれマタ・ハリが出た日とエルエルが自殺した日の一万年後に行く。そして未来を帯びた過去をエルエルがいたはずの生活に全て一つずつ書き換える。二〇二〇年四月に戻ってくると、少なくとも一万年後先まではエルエルが生きている世界線が存在することになる。これでエルエルは救えたことになる。
もう一つ忘れてはいけないのが折りたたみ殺人事件だ。二〇二〇年四月にエルエルを救ったあとに、予備の世界線としてもう一つ一万年後先の未来結果を残さなくてはいけない。それに加えて、腺一の社会評価を少しだけでも人びとに見直させるきっかけにもなる。同じ方法で未来を帯びた過去を書き換えると、その世界線で奇妙なパラドックスがいくつか起こった。代表的なものを二つ上げる。腺一は事件とその裁判の詳しい日付を覚えていなかったので、事件が解決した未来結果を全て夏(とだけ覚えていた)と関連付けて置換してしまった。これにより本来同じ時期に夏が続くはずの季節が入れ代わり、夏が冬、冬が夏になってしまった。もう一つは、事件によって死ぬはずだった房内登希子という人物とエルエルがどこかのポイントで入り交じることになり、その結果としてライライが生まれ変わりとして存在することになってしまった。この場合エルエルはその世界線から消えてしまう。どうやっても事件の解決とエルエルが同時に存在できないことに気がついた腺一はライライの存在を受け入れ、もう一度ライライと出会い、その世界線の自分を過ごさせることに決めた。その世界線ではエルエルは死んだことになっているが、マタ・ハリによるエルエルが生存する世界線と、事件解決のための世界線は同時に存在できる。これにより腺一は、エルエルと事件の解決を、腺一が生きる世界線において同時に存在させることに成功した。
○
帰ってきた腺一は、朝から買い物に行って帰ってこないエルエルを待った。どうやら讀猫と共に行ったらしい。せっかちな自分とは違い、リビングのテーブルの上に書き置きがある。
「エルエルと買い物に行ってきます。しばらくかかるかもしれないから待つのなら夜まで待って 讀猫」
これを眺めながら待った。本当に自分が救ったのだ。エルエルを。腺一はエルエルを救った。エルエルはこのことを知らない。知っていたとしても知らないとしても腺一にはどうでいいことだった。エルエルの気持ちは救った際に変わってしまった。だから今本当にエルエルが死にたいと思っていても本当に思っていなくとも、腺一にはエルエルに侵害を及ぼすことができないのであった。部屋のライトに書き置きを透かした。同時に存在するエルエルとライライの文字が重なって浮いた。悲しくはないし嬉しくもなかったが自分が離れた。そして涙が出た。腺一にはなぜ今自分が涙を流しているのかがすっかりわかっていた。事件の謎ももはやどうでもいい。解決したのだから。同時存在もなにもかも。今そこにあるのだから。どうでもよかった。ずっと止められない涙は流れた。
鍵の音と二人の足音と二人の気配がわかった。エルエルとライライは言った。
「やっほー。帰ってきたよ」
腺一は鼻水も一緒に流した。
双子武者
昼から深夜にかけて映画を三本見た。つまらないものばかりだった。一本目はドキュメンタリーで、コスエと名乗るギタリストとその関係者によって半年の間撮られたというライブ記録がたれ流されていた。ノイズ系らしく、自室のスピーカーがなん度も落ちたので音量を場面ごとに調節しながら鑑賞しなければならなかった。会話のない時間が多く、その会話の内容も音量もよく聞こえない要領を得ないものだったのでどっと疲れてしまった。最後に見ればいいとも思った。ただ劇中、『自分が情報を取り入れるときに邪魔で必要のないものをノイズと呼んで扱うことはしない。俺はそもそもノイズが好きだ。それに本来その邪魔だと思ったものも、のちのち必要になるかもしれない』というセリフだけが気になった。悪い意味でもいい意味でもなかった。二本目はホラー恋愛物だった。主人公のアルモモという人物が転校してきた三人の宇宙人に恋悩まされるといったもので、少女たちは入れ代わり立ち代わり主人公にアプローチするのだが誰とも結ばれず終わってしまったので拍子抜けした。少女たちは宇宙人であると同時に倒錯性癖を抱いた異常者であった。同じ星から主人公の住む星に降り立ち、主人公を通して地球に住む人間がどんな存在であるか確認しようとしたのだという。主人公からしてみればたまったものではない。問題は性差であった。主人公は小学生の少女ではあるのだが、映画を見る限り男か女かよくわからなかった。会話の内容から推測してやっとわかったくらいなのである。それを小学生を参照して変身した宇宙人が取り巻くのだから、最終的にはよくわからなくなってしまった。主人公は不登校になり、自分が部屋から出なくてもよい言い訳を古本や哲学書を読み漁り自分の中で育ててしまう。見終わったときには当然だとも思った。三本目は知り合いから動画データでもらったもので、台温県の学生が三人ほど集まって映画サークルで自主制作したというものだった。台温県といえば温泉と酒で有名な県である。湯と酒なんてどの県にもあると思うのだが、その県はそれを唯一ともいえる誇りにしているのだそうだ。ともかくその県にある大学の映画サークルはその筋では有名なカルト映画を崇めるサークルとしてその名をはせているとその知り合いは言っていた。かれがどこからその動画データを入手することができたのかについては聞かないでおくことにした。聞いても誰も得しないと思った。内容はあまり印象に残らなかったし、インパクトだけの画がえんえんと続いて胸焼けしてしまうようで後半は流し見していた(不登校で学校に行っても給食中にぷらぷら出ていってしまう癖を持った少年アキツが夢の中で給食中になると学校をあらゆるシチュエーションで飛び出し続けるようになってしまうという内容)が、サウンドトラックが少し自分の気を引いた。オノ・ヨーコのライジング・ミクシスをさらにリミックスしたヴェイパーウェイヴ風のトラックが劇を通して流れていた。スタッフロールを見て音楽担当であるYBBBという名前をみとめて検索すると、ディスコグとサウンドクラウドとバンドキャンプにて同名のトラックメーカーが見つかった。いまでも聴けるようだった。ヴェイパーウェイヴ風と言うべきか、そもそも普通のヴェイパーウェイヴを作っていた。ノイズやコア系の色も入っており、なかには一トラックで十時間を越える曲もあった。ソウアースラットやマシン・ガール、オダクセラニア、ニンジャ・マクティッツなどが類似のトラックメーカーに該当していた。ラストシーンだけがサウンドとともに脳裏に焼き付いた気がした。少年アキツは現実の中での学校を飛び出し、いまだおさまらない動悸を手のひらで支えながら自室の机に突っ伏して寝てしまう。アキツは夢の中でも学校を飛び出す。走り出した手足は弧を描きカーブに差し掛かるとそのカーブよりも大きく曲がろうとしてとうとう地面と垂直になってしまう。ほうほうの体で自室に入ると今度はベッドに倒れ込む。夢の中で眠り目覚めようとしても金縛りの自分を無理やり起こすようで手応えがまったくない。手を中空に伸ばす幻覚の感触だけが空を切っていた。ここで目覚めてしまうのがツメが甘いと感じた。起きるアキツはげっぷをした。暗転とともにそのげっぷと『クルシイ』のオノ・ヨーコの『苦しい』がループする。いつまでも終わらないので映像の具合が悪いのかと思って残り時間を見るとあと四〇〇分あった。ばかばかしい。友達に感想を送ろうと思ったがやめた。夜になっていたので寝た。変な夢は見なかった。朝四時頃に起きるとかけてもいないのにラジオがかかっていた。知らない曲が流れていた。「ラジオネーム西さんさんからのリクエスト曲で本日はお別れしましょう。リル・コールサック、フューチャリング、ママリー・ソハットで『ベイビーズ・ファースト』」
ミーン女のスーが電話をかけてきた。会いたいそれだけだった。黒目がちな目をしていた。小学校の頃校庭にゴンズイが植えてあった。その実に似ている。鬼の目だ。スーと会うといつも小学校のころを思い出す。かの女の籾糠堆肥のような体臭が登下校中をも思い出させたのかもしれない。とにかく会ったら会ったで付き合うのだが、どことなくおっくうでならなかった。電話しながら切ろうと思った。結局十時に駅前で待ち合わせることになってしまった。とんだ時間にかけてきたものである。目も覚めてしまったし、しょうがないからしたくを整えることにした。
スーがデパートでウインドウ・ショッピングがしたいというので付き合ってやった。二階奥の化粧品売り場では『ニューズ・フォー・ルル』が流れていた。スーはルルという友達が笑える失敗をしたと語ってくれた。ルルが知り合って日が浅い、あまり親しくはない知人を家に招いた際、ルルが調子に乗って、AIスピーカーに『ニューズ・フォー・ルル』を流せと言った。するとジョン・ゾーン演奏の録音が流れてルルは恥ずかしい思いをしたとスーは言った。最近のAIはジョン・コルトレーンとジョン・ゾーンの違いもわからないみたいよ。ばかばかしいと思った。その前に自分でゾーンを聴いていたからそれが記憶されたんじゃないかと言うと、スーはケタケタ笑ってそうかもしれないねと言った。服売り場に行ってもなにも買わなかった。そればかりかやけに長い。日がすっかり高くなってしまった。コーヒーを二人で買って歩いて飲んで捨てた。暇になったらまた呼ぶよと言ってスーは帰った。いったいどんな時間だったんだろう。はなから楽しもうと思ってなければ楽しくなるはずはなかった。カップ麺を食べて寝なおすことにした。
次に赤谷英一から電話がきた。おそらくは昨日見た映画と同じようにあと一本くるであろう。英一は新しい車を見せにくるという。価値魔法力で動く省エネ車。とんだおとぎ話だと思っていたが最近よく流れているCMで大大的に宣伝されているのを見た。時代は進歩したのだとそのとき思った。それが確信に変わったのは英一が車を下の駐車場にわざわざ止めに来た瞬間だった。昼でもまばゆいばかりの乳灰色の閃光をたたえてなめらかに停車する車体は日本製のそれとは到底思えなかった。あとで英一に聞いたが、あの閃光は運転中に必ず出るものだという。消すことはできないが色を変えたりはできるようで、一番目立たないこれにしたと言っていた。黒は夜道などではかえって目立ってしまうらしい。目立つなら事故防止にいいとも思って言ったのだが、むにゃむにゃ言うばかりでなんだか要領を得なかった。新しい要素につられて買ってしまったのかと言ったあとで少し後悔した。おまえはデリカシーに欠ける男だなあと英一は言った。出したコーヒーも飲まないで車に乗ってさっさと帰ってしまった。近辺の魔力供給スタンドを探してみたが駅の近くに一軒のみだった。しかもそのスタンドも新車を購入した人びとで毎日ごった返してまともに給魔できないという。これではわざわざ魔力車を買った意味がないのも、英一がどこかゲンナリした様子だったのも、わからなくはなかった。
英一は一発屋といわれたシンガーだった。事実そうだった。英一も自分のことを一発屋だと思い込み、冤罪の服役によって自分の音楽人生が絶たれたことを疑わなかった。二〇〇七年にアルポナールからリリースされた『いってくるよ〜くにに帰ったらたよりをください〜』は一一六万本売れた。それがかれの音楽人生の頂点だった。同じ事務所に所属していた元原康生と親しかったかれは、元原が囲っていた少年を元原が殺した罪をもみ消すために、事務所から罪を着せられ逮捕されることになる。普通そんなことが通るはずがないと思うのだが、事務所は元原の風評のために莫大な賄賂を掴ませたらしい。それから十年後の二〇一六年の二月に発行された週刊誌『週間十風』に当時事務所で働いていた職員による内部告発が掲載され、アルポナールは潰れた。英一は無罪放免され、補償金八四〇〇万円を事務所に請求したが、その時すでにアルポナールは自己破産しており、支払い能力がないとして二〇二一年の今も全額は支払われていない。なん回も弁護士に相談したが、このまま踏み倒されるのかもしれないと思うと怒りがおさまらず、めちゃくちゃになってしまった人生をやめようにもやめられないと愚痴をこぼしていたのを聞いたことがある。小児性愛が精神異常であり、蔑まれるべき悪として扱われていたのはまだわかるが、元原のイメージのためにそこまでするかと思った。英一を切り捨て、元原をとる理由がはたしてあのときのアルポナールにあったのかと疑問に思う。英一の人気に嫉妬した元原がかれをおとしめようとしたのだろうか? 今となってはわからないし調べるつもりもない。
ある夜、居酒屋で一人飲んでいる英一を見かけたことがある。今にして思えば話しかけて一緒に飲めばよかったのだが、その時の元原に接する自分の態度にいたずら心が芽生えていたのもあり、通路を挟んで並ぶテーブル席から背中を眺めるようにして英一を観察することにした。二一時に入って三時間ほど過ぎたところで、英一は二人組の男に話しかけられた。
『あの、すみません。赤谷英一さんですよね。『いってくるよ』の。ボクファンなんです。みんないってくるよばかり取り上げていて、赤谷さんのほんとうの魅力に気がついてないと思うんです。初期のアルバムではあの加藤我将が全編プロデュースした『夏に捨てた妾よ』も好きですし、アフターいってくるよのシングル達が名曲揃いなのもボク知ってるんです。でもやっぱり一番好きなのはデビューシングルの『めかくしさん』なんですよね。ボクみたいなやつがおこがましいかもしれませんが、あのことがあってから人びとは英ちゃんを見なくなりました。でもボクらはいつまでも英ちゃんを応援しているんです。想っているひとがいることをどうか忘れないでください。ボクは英ちゃんの新曲をいつまでも楽しみに待っているんですから』
二人のうち背が小さく肉が太めで童顔の濃紺のネクタイをした方の男が英一に向かって、上のような英一への愛を一時間以上語っていた。英一は『ありがとう。あんな事件があったのに嫌いにならないでくれたキミのようなファンには本当に感謝しています』というような内容のことを言ってから、童顔が持っていたはがきにサインを書いて会計を済ませて出ていった。出ていくとき私と目があったような気がしたが、話しかけられなかったので気のせいだったのかもしれない。あるいは聞き疲れて話す気力がなくなっていたのかもしれなかった。
一六年四月に引退し、音楽業界とたもとを分かたった後、英一は対人恐怖症になった。かれの家に通い詰め、話を聞いてやり、人びとのイメージが冷めて忘れ去られてから、かれが外を出歩けるようにまでその症状を寛解させたのは私だった。英一は私に感謝してもしきれないと会うたびに言う。元原はアルポナールが消えるとともに姿を消した。元原の消息は分からないが、私が観測できないだけでふたりとも幸せになったのだろう。英一が音楽の道を目指さなければこんなことは起きなかったのだろうかとたまに思う。車を見せに来てからしばらく会っていないが、英一は今なにをしているのだろう。私がこんなことをとりとめもなく思うのはおせっかいなのかもしれない。
つぎに英一の姿を見たのはユーチューブのライブ配信でだった。アコギを抱えて『めかくしさん』を歌っていた。私を含めて八人しか見ていなかった。時代遅れのシンガーの末路にはお似合いである。私は二〇〇九年からバンド活動のかたわら当時から今までユーチューブに動画を投稿し続けているコスエに英一のインターネット上に存在する音源と、英一がいずれガンに伏せるだろう病床に手渡されたアコギの音階練習を送りつけた。コスエはそれをサンプリングし、ザック・ヒルとの共同制作として『双子武者』をリリースした。一万年後の仮想未来に、その七インチ版は残っている。本当に幸せになったのだろうか? あの日ユーチューブのライブ配信を視聴していた私は今病室に英一を寝かしている。風が強く窓をきしませて向こうの雲が引けると晴れていた。私は英一にアコギを抱えさせるとあのときのようにめかくしさんを弾かせた。
大学図書館ラウンジ前
一
大学図書館ラウンジ前にショッピングカートが十台並べられて、その上に裸の女が十人座ったり寝たりしていた。いつだったか風俗街で見たショーウィンドウそのままだった。ここに通う美大生の展示だという。まばらに集まっていた野次馬が写真を撮ったり呆けて眺めていた。その中の一人が下半身を露出してその陰部をしたたかこすりはじめたので、これも展示かとおもいながら眺めていると、警備員に捕まって連れて行かれていた。カートの端にポツンと置かれていたCDプレーヤーからポリスのロクサンヌが小さい音で流れていた。CDプレーヤーには題名が書かれたプレートが立てかけられていた。『厚みと祈り(a Thicc Chick, a Prayer)』。
展示のために駐車場は貸しきられ、車両の出入りは制限されていた。普段から交通が激しい道路に面していたので、かれらはその近くの陸上競技場の巨大な駐車場の使用を余儀なくされていた。これを作ったのはだれとひとに聞くと、蒲生修一だよと言われた。私の友達である。私はラウンジの自動ドアから出てくる修一をつかまえて問うた。『なんでこれを作ったの?』修一ははにかんで言った。
「友達に羽生ってやつがいるんだけどさ、おまえも話したことあるかもしれないけど、こないだ胎内巡りに行ったのよ。ふたりで。それで真っ暗なみちを手つないで渡ってたんだけど、手だけつないでほかはなにも見えないからさ、ここにはふたりしかいないんじゃないかって気にもなってくるわけよ。そしたらたってきちゃったんだ。もうどうしようもなくて手すりに寄りかかってた羽生のおしり―――もちろんズボンは履いてたぜ―――におちんちんを押し付けて、竜大、もうガマンできないよっておねだりしたんだ。そしたら羽生は俺に、髪伸びてないかって聞くわけよ。それで俺がうん伸びてるよって言ったらさ、帰ってきたあと部屋んなかで俺の髪を切ってくれたんだよ。下に新聞紙引いて、ゴミ袋にハサミで穴あけたやつ俺にかぶらせてさ。俺は羽生に髪切られながら、こういうわけよ。これ詩にしていいかってね。羽生は、俺と修一の名前を出さないなら別にいいよって言ったんだ。いつもそれでネットに上げるやつを話題にのぼされて変なウワサ立てられるんだだから出さないならいいよ。で、俺がこれを作ったってわけ」
意味がわからなかった。「なんで詩がカートの上に乗った女の裸体になるわけ?」私は頭にのぼった疑問のうちわずかしかきけなかった。
「最初はそう書いてたんだけど、そのうち自分の肉体じゃないことに気づいたからかな。女は精神で考えであって、男は肉体で動きであったから。考えの言葉が自分の肉体ではなく、向こうの所有物だったんだ。だから俺は言葉にしておくよりも見えはすれども触れはしないものに替えたほうがいいっておもったんだ」
「もう卒業した大学でしょ? わざわざ場所借りてまで展示するものだった?」
「夢に出てきたんだよ。だからそのまま。見えるものがパンチラインを隠し持つ。そのことには俺しか気づかない」
「みんな迷惑してるよ」
「明日には取り払う。女の子たちは風邪をひくし、利用者は終日迷惑させられるけどそれでもいい」
「わかれたの?」
「うん」
夕方だった。昼は晴れていた。見上げると、視界の端にあった雲がみるみるうちに育っていた。
二(両手に薔薇)
身をよじってペッティングから抜け出した。僕はもうすでにしてやれることと甘んじてされることへの意欲を失っていた。
両手に薔薇、片方は頭痛 もう片方は
真ん中の不能のために してやれることもしてやれず
真ん中がいないときに ふたりはそのつぼみをひらこうとする
「精神の性癖のためにからだを動かさなきゃならないのはもうゴメンだよ」
もう片方は 真ん中に付き合いきれなくなって
もう片方は 真ん中がのぞく扉の奥で
もう片方は もう片方と
肉体のためにその股をひらくことにする
もうゴメンだよ、もうゴメンだ
精神性癖のために股をひらくのはもうゴメンだよ
ただ動く肉のためにあるのもゴメンなんだけどね
常に文章の上でその股をひらき 不能のためにセックスをする
真ん中がそう書くあいだ ぼくらはまるっきり肉になっている
ぼくらは真ん中が書く文章だけでのみ肉であって、ぼくらはその肉のかけらとかけらでしか繋がりを持つことができない!
そんなのお断りだよ 甘んじて受け入れていたこともとたんにその色を失う
片方は かすかな全能感
もう片方は それにともなうけいれん
真ん中は 柔らかな嫉妬のために腐る
けれども、ぼくらは記号であることを守るために息を止めるそれを破る
人がいないあいだ
読猫はかつて、シェイクスピアやポーの詩集を読んだだけで相手の鼻をあかせると思い込んでいた。玄関で靴をつっかけながら編犬はいった。
「図書館にフローシャをみにいってくる。あと曼荼羅もかいてくるよ」
読猫は返事をしなかった。若い曼荼羅作家には孤独が必要なのをわかってしないのである。コピー用紙を四畳半ぶん貼り合わせて筆ペンでかいていた。ネットで売るらしい。おおよそ仕事とも作家ともよべる活動ではなかったが、かれ自身は自分のことを作家とよんでいた。出てかくぶんはその断片を持っていくのだった。図面はかれの頭のなかにあるらしい。かれは生まれつき両目の視力をおおかた奪われていた。赤ん坊のころかろうじて経験した、かれの親がその記憶のために握らせたクレヨンと、幼児用ベッドの柵と天井がかれに音楽のみちではなく絵をえらばせた。読猫は編犬の過去をときどきこうして考える。編犬のかく曼荼羅を売った金で暮らしている身である以上、かれのことをまるで自分が保護者かのようにおもったりすることに引け目を感じていたが、世話しているのは自分なのだから変に納得してしまっていた。そしてかれの将来について考えるというようなことをたやすく考えてしまうようなことも読猫にはできた。
本当は自分の腰まであるスピーカーと、電子レンジくらい大きいアンプでレコードを毎日流したかったのだが、編犬の鼓膜を破ってしまえばかれは自分のもとから去ってしまうだろうという憂いのもと、読猫は大音量で音楽をきくのをさけ、自分のノートパソコンからヘッドホンできくまでにとどめていた。編犬がああやって出てしまえば、いつものように音楽をきくことができる。読猫はHave A Nice LifeのDeathconsciousnessか、SewerslvtのSkitzofrenia Simulationを流すかでしばらく迷ったあと、Deathconsciousnessのほうをプレーヤーに落として針をかけた。そのあとレコードの棚に目を落としてDusterのStratosphereとNick DrakeのPink MoonとNeutral Milk HotelのIn the Aeroplane Over the Seaと太陽肛門スパパーンの円谷幸吉と人間を目ざとくみつけてしまったので、もっと悩めばよかったとおもいながらしばらくだまって座り込んできいていた。
お酒は死ぬ気で飲みましょう
日をまたいでバンド名を考えていた。仙谷は酔いのまわった舌で愚にもつかないようなことをぺらぺら管巻いていた。
「雷が落ちてほしいよな。俺の部屋じゃなくておまえの部屋に。おまえはそのとき呼んでいたデリヘルとつながったまま焼け焦げるのさ。ステキすぎるだろ。結局それなんだよな」
仙谷がいつもこうして冗談のような物言いをするとき、僕は笑っていいのか、なにか気の利いたことでも言えばいいのか迷ってしまう。
「アラビアン・ナイトだよねそれ。なにに書いてあったんだっけ?」
「『命売ります』か、『蓼食う虫』だった気がする。もう覚えてないわ」
「好きだったの?」
「いや。どっちかって言ったら『蓼食う虫』だけど」
「へえ。バンド名決まった?」
「YBBB」
「なんの略?」
「イエロー・ブラック・バウンダリー・ベース。かっこいいだろ? 意味はないけどさ」
「いいね」
仙谷がバリトンギター、僕がドラム、シンセサイザー、サンプラーだった。場合によって仙谷はベース、ギターに持ち替える。僕は基本的にドラムを叩いているのだが、ハードでやかましい曲をやるときには、傍らに並べた機器のためにせわしく動き回らなければならなかった。仙谷は曲によって立ったままタムを叩いていた。僕はハイハットを二つ立てていたので、タムを仙谷のほうに移動させれば多少はスペースの節約になっていた。ドラム類を使わないときには僕も立ってシンセを弾いていた。
「島村、いまさあなん缶目?」
「わかんないよ」カーテンの外が白い。
わなわなライコ
ひとりの考えの中でだけ饒舌な僕は初めて現実に意味を持つようになる。その三日前のことだった。僕は、やはり、あいつに会わずして考えの加速を止められはできないような気がして会った。あいつは変わらない顔して僕の首すじをまさぐってつねった。僕はそのまま開始されるペッティングから身をよじって逃げ出したい気持ちにかられた。僕は我慢した。逃避するという考えをもった時点でそれは実行したことになる。自分を知っている人らの内から自分の痕跡を消すという行いのもと、自分が存在していることのなによりの証拠を作り出した僕は逃げられないような気がしたからだ。気がするだけで口に出したことはないが、ぼんやりと思っている思索のうちひとつでも口に出したり書いたりしたらそれが現実の下に現れてしまうような気がしてならなかった。
「ライコ、今日泊まっていけ」
ウガヤはそう言った。僕には僕の体の震えを止めることができない気がして了承した。ウガヤは初めてその場に腰を落ち着けて、僕に缶チューハイを持ってくるように言った。僕は左手にかれのを、右手に自分のを持って運ぶ過程で、自分の缶を親指と人差し指と薬指でつまみ、プルタブを中指でこじ開けた。もう片方にする気にはなれなかった。
「俺のもしてくれよ」僕はした。
ウガヤは先の続きをはじめた。
「ライコの髪ってトロトロだよな。なんかしてんの?」
「ドンキのプチプラ」
「あのクッキーの箱みたいなやつか」
「うん」僕が体の震えを止められないので、ウガヤは「寒いのか」と聞いた。僕は寒くないと答えた。
そしてウガヤは僕を押し倒した。僕はする気になれなかった。僕たちがあやふやなまま考えているようなことは、必ずしも正しいタイミングに、必ずしも正しい雰囲気でかたちにならないような気がした。全部現実にはしたくなかった。
赤い風船ふくらんで
道行く人を驚かす
赤い風船ひとたびわれて
道行くみなは腰抜かす
赤い風船かたちも失せぬ
赤い風船時間は止まる
そのとき時間が止まったような気がした。僕は現実にしたくなかった。ミカリさんが来てくれなければ僕はあのままくさっていた。ミカリさんはウガヤの部屋の扉を蹴って突入してくると、ウガヤの耳をひっつかんでそのまま窓に放り投げた。窓に頭から突っ込むかたちになったので、窓はずたずたに割れてウガヤの顔を貫いていた。ミカリさんは僕を固く抱きしめた。僕は自分の思索から抜け出せないとそのとき強く思った。僕はこのまま、自分の思索の内ですら自分の本分が成就しないであろうことを考える。自分の心の内壁にささくれだった棘が食い込んだときの忸怩たる思いはいまでもありありとよみがえらせることができるようである。
「帰ろっか。僕たちが思い出せる限りのその場所に」
ミカリさんはそう言って僕を連れ出した。僕は自転車の後部座席で、ミカリさんのいい匂いがする背中をぼんやり眺めながら、すっかり暖かくなってしまった朱色の空の下を帰った。僕は自分の帰る場所を思い出せなかったが、ミカリさんはこう言った。
「誰しも自分に与えられた役割を果たさなければならないと思うようなことはあれども、必ずしもかたちになるわけじゃない。それは自分を侵害してくる障害でも同じなのは、いましがた自分が体験してきたものを見るに明らかだろうけど、自分でもそうなんだってことを忘れちゃいけない。ライコのやったことはおおむね当たっていたけれども、道筋をああ違えてしまえば、自分の中では正しいと思いこんでおり、またまわりも自明の理として定義されているようなことでも簡単に覆されてしまう。それがたいてい自分を侵害してくるものによって粛々と行われてしまう。きみはある時点で逃げなきゃいけなかったんだ。大丈夫。それは僕とライコのなかでは全然正しいよ」
僕はあまり意味がわからなかったので聞き流した。そしてあらためてたずねた。
「僕は自分の居場所をみつけられる?」
「うん。できるさ。きみが思春期の感じやすい年に思考停止できる、おあつらえむきのブロマンス的感情に酔っていたことはだれもが忘れる。でもそれは衆人のあいだで認知的不協和によって培われた偏見によるきみに向けられた軽蔑ではないんだよ。実際に同性愛が認められてなんかいないって思っている気でいるのはきみだけなんだ。だれもかもがことを乗り越えて、肉体として存在できているんだ。その点できみが思い悩むことなんかなにもないし、それできみ自身が気を悪くしたり、まわりから同情されているなんて思っているのは浅はかで大きな間違いなんだ。まわりはきみを同性愛嫌悪によって軽蔑したのではなく、一時の気の迷いによって身を許したその手落ちを嘆いているんだと思うよ。かつて自分がしたそれを振り返り自己嫌悪に陥るそれと同じさ。それもじき間違いになるんだけどね。でもきみの関係の中できみが実際に危害を加えられているのなら、僕は救わなきゃいけない。きみのいかんにかかわらず。きみはウガヤにDVを受けていた」
ウガヤの名を聞いた僕は身を固くした。それを受け取ったミカリさんは、
「ごめんね。名前出さないほうが良かったね」と言いしばらく黙った。
僕はそのまま口をひらけなかったので、機を見ながらミカリさんはまた喋り始めた。
「話を戻すけど、一時的に与えられた、その瞬間だけは自分の本分と思える不安は、特定の状態にあって急速に育っていく。きみは自分を侵害してくるひとのことを思うようになる。それは簡単にいわゆるあこがれであり、性愛感情では全くないなんてことも、まわりからそこはかとなく示唆される。でも一瞬の感情に満たされている自分にとっては、それをとっくに抜け出してしまって、あまつさえその瞬間を知らず知らずのうちにないがしろにしているまわりの言葉はどうしても信じられなくなる。侵害する人に話しかけられたりしたときは胸がざわざわして、どきどきして眠れなくなんかなったりしながらも、その思いはやがて行いのもとに正当化されはじめる。常に葛藤と懊悩のもとにありながら、この先限りない充足感に襲われるようになるきみは、DVとモラハラにも同時にさいなまれながら、それを自分の本分を達成させるための道の、そのひとすじひとすじだと誤解していく。それは同性愛の中にあってより顕著だ。その人を恋うる気持ちと、その人に言い責められている苦しみは、鏡写しのようによく似ており、またその人に殴られるときの遊離感は、その人を好きになっていく動悸にも、その恋を悩む倦怠感にも似る。DVがない期間きみは全身の五感を鈍らせ、物思いにふけるようになり、いかなる活動もきみを満たすことなんてできなくなる。そしていよいよその人が離れようとするときの喪失感は、夜中に日中の怠慢を取り戻そうとするときの心の底にある浅はかな焦りそのままなんだ。きみは人体電気にショートしてしまったんだよ。それが悪いわけじゃない。きみをこうまでに惑わせてしまったみんなが悪いんだ。だれがきみを責められるもんか。そもそも責める責めないどうこうの話じゃないんだ。ただ、すでにやってしまったことと、これからやろうとしていることへのカウンセリングは続けなきゃいけない」
僕は泣いていた。なぜ泣くのだろうか。なにもわからなかった。ミカリさんの背中に震えながらよりかかると、ミカリさんは自転車の速度を緩めた。僕は自分の震えるのをまだ止められない。このまま一生止められないのかもしれないと思うたび、その震えが増していくような気がしてまた震えた。その震えを少しずつ取り戻そうとするたびに、詮ない焦りを生み、どうでもいいことだとわかってはいるのに震えてしまう。
「ごめんね。ちょっと休憩しようね」
ミカリさんはそう言って、次の信号までまた黙った。どこに行っているのか見当もつかなかった。日はいつまで経っても落ちないような気がした。僕がこう思えば日は落ちないのだろう。言葉にしてしまえばすぐに暗くなってしまうような気がした。
「まだ話さなきゃいけないことがあるから、もうちょっとがんばろうね」
ミカリさんはそう言ってまた限りのなく思えるような話に戻った。
「ちょっと言葉が強くなってしまうけど、きみは最初友達付き合いからはじめようなんて甘いこと考えてたんだろう。自分とはあまり合わないし、近づかれると気圧される。けれど話していて楽しくないわけじゃないし、ときには冗談なんかいいあえたりする。先輩後輩の付き合いまがいの関係でも友達ができればそれで良かったんだろう。でもなんで自分をすり減らすことになっても、まだきみはひとりきりの自分を信じれず、かえりみもせず、いたわってやれなかったんだ? いいんだ。答えたりなんかしなくていい。あいつに侵害されるくらいなら僕がきみを救ったほうがどれだけきみのためになるか。きみは同年代の人たちとも、まったく対等な関係を作ることができないでいた。下に威張り散らかし、上に頭を下げてやっと真ん中に自分がいれたんだ。そんな付き合い方を続けていれば同年代の人とも対等な関係なんて作れるわけないさ。きみは自分からなにかするのに向いてないんだ。でももういい。帰る場所はやっと見つかったし、きみはそこで三日くらい考え直せば、自分が遠ざけていた治療へ目を向けられるかもしれない。落ち込んでいる人に向けるカウンセリングは説教であり、一方的な叱責でしかない。言われている側はなにくそとか思ったり、自分は一生どこかずれたまま暮らしていかなきゃいけなくて、教えられる説教は自分をむりやり矯正して社会に強制的に戻させる拷問でしかないとも思う。それでいいんだ。僕はきみを受け入れている。僕はきみを見下してもないし見上げてもない。どこか心の根っこにある差別意識はもとから消せないんだ。自分から見る相手にそれはある。だからそれは自分からなにかすることで消せるものじゃなくて、治せるものじゃない。だからなにもできなかったとしても、最初には信用することが必要なんだ。信用で精神的な差別は消える。少なくとも僕はそう信じている。まあ。これからきみは僕ときみでしかないから他の人がどう思おうと関係ないんだけどね」
僕はもう打ちのめされてしまって、どうしても泣きやめなかった。ミカリさんは僕をまだ見てくれる。僕は自分のやったことで落ち込み、助けられている。いま僕は自転車の後部座席に座っている。ミカリさんは自転車を止めて、同じマンションに帰ってきた。帰る場所はウガヤの部屋ではなく、二階にあるミカリさんの部屋だった。僕はそこに閉じこもり、ミカリさんとしばらく暮らすことに決めたのだった。
それが三日前のことだった。現実は僕が見る限り僕の手の届く範囲でしかないけど、たしかに僕はここに存在しているように思える。思ったり、気がするだけでじゅうぶんなんだとミカリさんは言っていた。僕もそう思った。僕は存在した。