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「歯の爆発」


「これは僕の、あくまで妄想癖と捉えてくれて構わないんだけど、時々右だか左だかの奥歯にさ、『小型爆弾』が……、埋められている気がするんだ。僕の寝ている間に、背の高い宇宙人がやってきたりして。もしかしたら僕の、痔核のはみ出ている肛門――よく化膿してただれるから、座ると痛いんだ――に、極小のICチップだって埋め込んでいるかわからない。そんな気がするんだ。そして、かれらにストレスが溜まるかどうかわからないけど、そうなったときには手首のスイッチを押して僕の頭が爆発するのを遠巻きに眺めているんだ。そんな気がする。でもなんでそんなことする必要があるんだろう? マイ、どう思う?」

 トモユキは学食の半分残ったカレーライスを、もう食べたくなさそうにスプーンでかき回しながらもてあそんでいた。さっきからずっとかれの舌先のせわしなく動くのを聞くともなく聞いていた。耳にバンソーコーでも貼って遮断したいくらいだ。でも、もしそうしたら今度は「耳にケガしてるの? いいかい、頭に近い部分にケガしたときはね……」などと講釈垂れてくるのに違いない。だからトモユキが饒舌になるときは、いつも極まって表情のない冷たい機械になってかれの話を聞き流すのであった。今日に至っては、食堂って空調が効きすぎているから寒い、早く移動したいな。とか考えながら。

「なるほどね」

 私は携帯を弄りながら適当に相槌を打った。それと同時にこうも思った。今してることってカレーライスとオンナシじゃないかしら。かれにとっての手なぐさみはスマートフォンではなくて、あるいはスプーンにかき混ぜられるライスアンドカリーよね?

 「だから、『なるほどね』じゃなくて。マイはどう思うのかって具体的なことを聞いているんだけど」

 アーア、また始まった。シラフでこれなんだから酔っ払ったら一体どうなっちゃうのかしらね。適当に返事した私も私で悪いんだけど。

 私は席を立ってかれを無視しながら、パンキョーの教室に向かった。午後はこれだけ。これが終わったら直ぐに帰って、思いっきり熱いシャワー浴びるんだから。

 帰り道、トモユキが後ろから「もう帰り?」と投げかけてきた。もうまともな返答ができないくらいかれに対して疲弊していた。もうカンベンして、もうウンザリ。

 「今日は私、イロイロなこと考えちゃうわ」

 そう言い残して駅に向かった。トモユキはそれ以上何も言ってこなかった。追ってきはしなかった。いつもは、子犬のようでさえあったのに。それが少し寂しくなって、かれにそっけない返答をしたのを自らのうちに恥じた。

 トモユキは発達障害のケがあるのかもしれない。なぜだかはわからないし、ああいったまどろっこしい性格をした人に向けて、一概に発達のだの精神のだの障害と切り捨てるのは間違いかもしれない。何も根拠はないにもかかわらず、それでも私はかれを注意欠陥多動性障害に代表される、『病気』だと信じて疑わなかった。だってメンドくさいんだもの。かれ。



「番号」


 ナワに署名を求めるために待ち合わせた駅の西出口は夏の中だった。署名と言っても、簡単な形式のプリントに番号と名前を書き、ハンコを捺すのみで、他には何もいらなかった。

 「やあやあ、遅くなった遅くなった。アガツマくんはいつついたの?」

 「二時前にはいた。遅すぎる」

 ナワはこの暑い日だというのに毛糸のセーターにロングスカートを穿いていた。バカかこの人は。

 「遅れてごめん! ここじゃ何だし、ファミレスでも行こっか?」

 「まあ」

 話しづらい人だなとは思っていた。こういう外向的な性格は、私のような陰気な人間には合わないと思っているし実際そうである。付き合いづらい。

 西口を出て、正面見える交差点を直進する。信号機を渡って、特徴的な緑色のドアの前までついた。昼時だったが、名前を書いて待たずとも、席に座れた。

 「ハンコとかは持ってきたんだけどさ、番号持ってないんだ私。どうしたらいい?」

 想定していなかった。学園に入学していれば誰でも持てるものだし、なかったとしても第三事務室まで行けば先週、再発行の受付をしてくれたはずである。

 「なくした訳とかじゃなく最初から?」

 『ご注文いかがなさいますか?』

 「うん。ドリンクバー二つ」

 『ドリンクバーがお二つ。ご注文繰り返します。ドリンクバーがお二つでよろしかったでしょうか?』

 「はい」

 『かしこまりました。少々お待ちくださいませ』

 何もいま呼ばなくても良いのにと思ったが口に出すのはやめてそのまま話を続けた。

 「それで、どうして今まで番号を発行せずにいられたの?」

 「そんなに出席してる訳じゃなかったから、アハハ!」

 笑ってる場合ではない。笑ってごまかそうとしている、そういう苦しげな声だった。

 「でも署名には君の名前が必要なんだよ。他に都合がつく人いなかったし、期限は明日までだし。」

 「今から発行できないの?」

 「正当な理由があれば、今日でも事務室の窓口まで行けば手に入る。今から行けば間に合う」

 「じゃあ行ってきていい? アガツマくんには待っててもらうことになるけど」

 私の答えを待つことなく、近くにいた店員にその旨を伝えて出ていった。すぐ終わると思っていた私がバカだったのかもしれない。まあ今日署名を貰えれば明日の締め切りまでには間に合うからいいかと思いながら、ドリンクを取りに行った。



「信条」


 この間理容店で髪を切ってもらった。私は信条のように髪型を守っているのだが、少なくともまた家に引きこもって伸びるのを待つことにはならなかった。


 ○


 「いい髪質だね。どんなふうに?」

 私は店員に、自分の写真を見せた。今日が初めての店だった。ストレートを肩に着かないくらいのミディアムショートに切りそろえ、片方は刈り上げ、もう片方は顔の半分を隠すようにセットされた写真を見て、「よく似合ってる」店員は云った。

 こぢんまりとした店内には散髪スペースの他に、セッションバーを模したフラットスペースがあり、ギター、アンプ、シンセサイザーが立っている。一瞥しただけでもずらりと楽器の多さがよく分かった。ギターはフェンダーとマクマルのストラト、ギブソンとグレッチの箱、黒雲のモズライト、イーストウッドのバックランド、ギルドとシーガルのアコギ、テイラーとタカミネのエレアコ、ヤマハとゴダンのナイロンだった。ベースがジャズ、プレシジョン、スプロ、ファーノ、アリアプロiiに、アンプは種々雑多なものが数点あるだけで、竿と数が合わないのは各々持ち込んでいるからだろうか。キーボードはヤマハのものだった。



「コリオグラフィー」


 僕の体に水の流れていることを感じていた。僕の体にある水分。血流として、胃液として、尿として、あるいは細胞の間をぬって流れている体液として、その動きを如実に感じていた。どこか心地よくあり、またどこかむずがゆくもあった。ベッドにこうして横たわっているときでさえも流れを感じていた。僕はさっきから眠れないでいるのだ。僕は明け方キッチンに立って水を飲みに行くだろう。僕は自分の未来の行動を予測できた。間違いようのない事実として確信していたのだ。コップになみなみと注がれた水道水を飲む時、そのガラス質にこびりついた、なまぐさく、カビの生えたような臭いが、注がれた水の一粒一粒にまで染み込んでいき、口中に流し込んだ水の味に思わず倒れ込んで吐いてしまうことまでもが僕の運命として決まっていた。全ては僕一人の、人間の人生という巨大な演劇の上だった。僕が振り付けをこなしている。僕の舌や腕が、蛇口が、シンクが、この家が、母が、父が、道路が、皆振り付けをこなしている。一体何のために?

 倒れ込んだ僕はどうなってしまうのだろう? タイルの床が抜けて、僕を真っ逆さまに落っことしてしまったとしたら? 下に続く暗闇の晴れることがないとしたら?



ヒューマンレース

 うつ病を患っていた友人が先週自殺した。僕に書き置きを残して。『my clue is fucking dope』裏面にはかれの名前があった。濱崎長人。葬式はすぐ行われた。僕の他にはかれの親族のみだった。若いのにえらいねエあんた泣きもしないで、あんただけが学校で唯一の友達だってイッツモ言ってたのよ。つきなみな感想だけれども、世界は彼に対してあまりにも残酷だった。どう残酷だったんだろう。彼は老後と、未知を常に恐れていた。いつも僕にこんなようなことを云っていた。「俺は年を取りたくない。醜悪な老後を迎えたくない。そして、この二つは重複していないんだ、わかるか? お前にそれが」僕には全くわからなかった。その二つは全然同じような意味にしか捉えられないし、見方を変えようとも思わなかった。でも今ではかれの云っていたことの全てがわかったような気になっていた。

 かれはギターを弾いていた。誰に披露するでもなかったし、する必要もないと二人は思っていたけれども、ある時点で、かれから数分のデモが送られてきた。これを僕は、かれの表現が自分自身の中で終わらなくなっただろうことを意味しているのだろうと捉えた。あるいは、終わりにしたくなかったのかもしれない。僕はそのデモを手がかりにして曲を作った。編曲のイロハを僕は掴んでいたし、こうしてメロディーをひとつひとつピンセットでつまむような作業はとても楽しかった。かれとの時間は特別になった。音楽が僕とかれの仲をより深めていった。音楽は二人の心の拠りどころとなった。僕は完成した曲と、自分一人で作った数曲を彼と共に聴いた。それから、その日のうちにテープをあるレコード会社へ送った。それがつい二ヶ月前。かれとの最初で最後の共同作業になった。

 話は変わるが、僕は読者の存在を強く意識している。こうして早足で友人の顛末を記し、読者の眼前にこの身をさらけ出すような、危険な真似をしたのは他でもないその友人のためだった。かれが生前、常々老後を恐れるような発言をしていたのは、かれがロックに人生を捧げたからではない。うつに追い詰められたわけでもない。それらが要因になったのはほんの少しだけだった。

 かれは人類と戦っていた。かといって地球に存在する七十数億人もの人類を敵に回したわけではない。かれは自分の中にある、人類じみた観念、教養、この地上に根を生やした、有害なあらゆる考えと戦っていた。自分がそれよりはるかに劣っていることを認めていたからだった。それらを捨て去ろうとした。それらとは全く違う形を取った、一人にして成り立つコミュニティそのものになろうとした。

 「なあ、俺はさ、他のあらゆる事物より自分が劣っていることを自覚したんだ、前にも云っただろ?」

 「うん」その日は厚い雲が覆った冬の初めだった。昼になると教室からは、クラスの皆がぞろぞろ繰り出してくる。購買へパンを買いに行く者もいた。かと思えば屋上に向かう階段へ帯作ってへらへら話している女子の二三人もいた。教室の扉から出ていく、その様子を見るともなく僕は見ていた。要するに最初から話半分でかれの口が回るのを聞いていた。教室には二人以外誰もいなかった。

 「俺は頭も悪いし、体もあまり動かせない、お前以外のやつとはまともに話せやしないわけだ。俺は元から社会生活に向いていないんだよ」

 「そうだね」

 「だからさ、俺の頭の中だけで成り立つコミュニティに閉じこもろうと思うんだ」

 「どんな」

 「その中では俺が俺を神と崇めているんだ。実際俺は神なんだ。その宗教を根幹にして、俺の感情の反射が俺のパワーそのものになる、強大なコミュニティが形成されている」

 「抽象的だね」

 「なんとなく理解していればいい。そこではこんなくだらない学校だの会社勤めだの何だのを一緒くたにしたあらゆる社会理念は通用しないし、する必要すらない。俺一人いれば成り立つわけだから金も、エネルギーも、それに付随する七面倒臭い仕組みもいらない。一度はこんな自由考えたことあるんじゃないか?」

 「あるけど、この社会では生きられなくなる」

 「だからこそいいんだ。地球にある日本の、こんな狭苦しく、息苦しい人生に何を執着する必要がある?」

 「じゃあどうするつもり」

 「もうわかってるだろ。死ぬんだよ。死ぬことがこの世界に存在する人類との戦いをやめない証そのものなんだよ」

 「君は人類に敵なんていないってことを自覚したほうがいい。社会はそんなに敵意をむき出しにしているわけじゃない。それに似たような考えはいっぱいあるんだから、君がその宗教に入れば済む話じゃない?」

 「馬鹿だなお前は、俺はな、どうせその宗教コミュニティの中でさえ忌避されるんだ。それに、誰が云ったことか俺が知るか。それが誰からの剽窃であれ、俺が言ったことにだけ意味が生まれるんだ。排他的だったのは今までだってそうだった。預かり所、幼稚園、小学校、中学校、そして高校の人らでさえ俺を見放した、全てが去っていった。お前だけなんだよこんな話をするのは」

 「君をずっと悩ましてるその発達障害のせいかな。でも彼女だっていたでしょ」

 「そうかもしれない。でも直ぐ別れた。ユイは俺を、一時は同等の存在だと見なしたものの、俺の発達障害が露呈すると離れていった。彼女の属するコミュニティが俺を底辺扱いした」

 「そう思うのは高校生によくあることだよ。僕だって」

 「思春期に認められるような心の不安定性とは違うんだってはっきりわかるんだ。物心がついたときからなんだ。お前にはわからなくていい。それでも話すのはお前しかいないからだ。俺には」

 「でも君には、音楽がある」

 「こうして吐き出していなけりゃ、今頃それをロックに昇華していたよ」

 「そうかな。その苦しみがもう少しで芸術になりそうなんだけど」

 「お前は達観してるんだな」

 「そうだね」

 教室の扉が、ガラガラ音を立てた。ひょこっと彫りの深い顔をした科学部の顧問が顔を出した。枯れた声で「国原、ちょっと来い」

 僕は「ちょっと行ってくる」とだけ言い残してその場を離れた。もう昼食の時間は過ぎていた。クラスメイトが大勢帰ってくるのに合わせて、かれは机に突っ伏して寝たフリをしていた。今思い返してみても可哀想なことをしたと思った。

 気がつくと放課後だった。同じような日を過ごしているとすぐこうなってしまう。濱崎はすでに帰ってしまっただろうか。追いかけようと、姉から借りたリカンベントを漕いだ。つい昨日自転車のチェーンを壊していた。これしかないからと、今朝姉は言い残して急いで駅に向かった。

 周りの視線が痛い。この滑稽なシーンを作っている僕を必死に客観視しながら、濱崎の内的宗教はこんな状況も気にならなくなるのだろうかと、ふと考えていた。校舎からまっすぐ伸びた道のずっと向こうに濱崎の背中が見えた気がした。



ダフニはそれをいたく気に入ったようで

 ダフニはそれをいたく気に入ったようで、一日中部屋にこもっていじっているときもあった。彼女の三の誕生日に買い与えた目覚まし時計はその実際をなしていなかったと言える。私の人差し指くらいの小さなスクリュードライバーはダフニの剣となって、家にある機械類は、ほとんどバッタバッタと斬り伏せられてしまった。帰って来た私は、彼女をきつく叱り、テレビやら冷蔵庫やらを元通りにするのに二週間はかかった。ちょうどこの間読んだストーンオーシャンという漫画の登場人物のようだ、とそのとき思った。

 ある朝、彼女を幼稚園に連れて行こうと、朝の準備をしていた時のことだった。

 「もうヨーグルト食べたくない」彼女は言った。「もうお腹いっぱい」

 私は洗い物のキッチンから、「朝ごはん食べないと元気でないよ」と叫ぶように言った。

 「ダフニもう元気いっぱいだもん」

 「ホントに?」

 「うん」

 「じゃあ車の中で寝ない?」

 「寝ないもん」

 結局碗にたっぷり残していたし、車の中ではうとうとしていた。着く頃にはだいぶ危なげに頭を揺らしていたので、起こすのに手間だった。

 「それじゃあ、よろしくおねがいしますね」教諭にそう言い残して私は急いで車を走らせた。



サイフォンはかとかと音を立てていた

 サイフォンはかとかと音を立てていた。今朝コーヒーを沸かそうと思って沸かしたものだ。眺めていると、昨日のことを思い出した。

 僕は中庭のベンチの端に腰掛けて、弁当を食べていた。湿った海苔が、うまく箸に切れてくれないので、やきもきしていると、隣半人分開けて、誰かが座ってきた。まあ今は昼時だから外でランチを取る奴もいるだろう丁度僕のようにと思ってちらりと顔を見てみると、長江さんだった。僕は長江さんが好きだった。だからといって、下心をもって彼女にむやみやたらに話しかけることはしなかった。事務的な連絡のみにとどめていた。他のクラスメイトらは心の鍵を開け放して、愚にもつかないようなことをべらべら喋っているがそうではない。僕は彼女との間を神聖に取り持とうと、表情や声を作りに作り、彼女の、僕に対する心証を傷つけないように立ち回っていた。彼女は、僕が好いていたのを気づいていたに違いない。彼女が僕にかける言葉は、周りの人とは違う意味を持って聴こえるように思えたし、その気遣いが僕の抱えている感情と同じように、僕には感じられたからだ。僕たちの間は言葉に出すようなことはないものの、暗黙の了解をもって成り立っていた。

 僕の方が早く食べ終わった。せめて彼女を一人にさせようと、ベンチを立つと、「待って待って」長江さんは小さな野鳥がさえずるように僕を呼び止めた。その声が僕の耳をいたく打った。冷や汗は背中を撫で、心臓がと鳴った。体中が熱を帯びて赤らんでくるのがはっきり分かった。普通の人間が、応答するような時間をとうに過ぎてなお、立ち止まって振り返らない僕に、長江さんは続けて声をかけた。その声に一塵の不思議も感じられなかった。

 「座ったら」

 僕は黙ったまま彼女の言うとおりにした。長江さんはとうとう僕のすぐそばまで腰を寄せてしまった。長い時間をかけて、僕は口を開いて、うんと答えた。

 「怖いものってある?」彼女はきいた。

 「怖いもの……巨大なものかな」僕はやっとのことで落ち着き始めた胸をなでて言った。

 「巨大なもの?」

 「うん。ハリケーンとか、太陽の塔とか」

 「なんで?」

 「なんでだろう、根本まで歩いていくのに途方もない時間がかかるからだとおもう」

 「へえ。私はね、シュークリーム」

 「どうして?」

 彼女は僕の質問には答えなかった。数秒たってからまた話し始めた。

 「よくわからないけど、怖いものは怖いの。授業中、暇なときにシュークリームの落書きをするんだけどね、一個だけにしようと思っても何個も何個も増え続けるの。それが怖いのかな」

 僕の隣の席は彼女だったので、よく彼女がそうしていたことを思い出した。そして、その行為を可愛らしいとおもったことも。

 「ねえ、土曜日どこ行こうか」彼女は弁当を食べ終えてからそう言った。僕は答えを出すのに、また数十秒は要したが、「図書館」と答えた。


 *


 図書館とは何をするところだろう。机に向かって一心不乱に勉強する者もいれば、テーブルに本を広げて、たったの一文も読み進められないで何度も読み返している者もいれば、効きすぎた空調にくしゃみをする者もいる。僕からしてみれば、図書館は名だたる文豪の全集を読む場所でしかなかった。ではなぜデートスポットにここを選んだのだろう。答えは出なかった。他人からの問いかけに対して、僕は答えるのに時間が必要だが、自分の問いに答えを出すには永遠とも言うべき時間を必要とした。

 市立図書館の壁と床と天井は新しげで、五十年も前に建てられてから、一度も改装すらしていないとは思えないほど現代的だった。奥まった一角に全集を連ねた棚がある。僕は紅葉の全集をすべて読みたいと思って休みの日には幾度となく挑んでいるのだが、途中の数巻がいつも誰かに貸し出されていて、結局最後まで読まずに他の文壇を読んでしまっていた。

 「私一度も来たことない」長江さんは周りの健啖な読書家に注意を払いながらつぶやいた。僕が誘わなければ一生ここへは来ることなく生涯を終えていただろう。自分の背丈が二人分あっても届かない所へ陳列された涙香の翻訳集は、彼女にとって暗号文に思えるかもしれない。彼女は唖然としていた。僕が巨大物を見るときのような目でハードカバーの林をぐるりと見た。そうしているときの彼女は山中の妖精のように見えた。

 「あんなに分厚い本読めるの」

 「読んでる途中は、もうこんな本読みたくないと思ってる。中断してスマートフォンをいじりたくなってしまう。でもそうさせないのが面白いところなんだ」僕は加えて、何もあんな本から始める必要はない、ただ本棚に整列している薄い現代小説とか、ライトノベルから読んでみるのもいいかもしれないということを説明した。

 「分厚いということは重要じゃないんだ。もちろん薄いということも。飽きさせない展開はそれを薄くさせ得るし、冗長な描写はそれを紙でできた迷宮にさせる」

 僕は、自分の発した対してうまくもない比喩と、それをきいてよくわからないような顔をしている長江さんと、饒舌な声色が広い室内のしじまを破ったことに対して大いに恥じた。まさに紙で作られた迷宮に迷い込んでしまったような気持ちになった。それを気にする様子もなく、遠くから薄い壁を切り裂きながら長江さんは私をゴールへと導いた。

 「なんか私が読める本取ってくるね」



大きな手のひらの男

 あの牡蠣色の、ひときわ大きな客船の、身体を小さな部屋の窓から見ると、いつも寒気がしたものです。あいつがざあざあと白波立てて、その巨駆をちびりとでも動かし、余程は離れていないような、それでも実際離れているコンクリートの地面が、わずかな船の移動に対してすら、より大きくあいつを離すのが恐ろしかったのをよく覚えています。あいつから見れば小さい、私から見ればその何倍も大きな差が恐ろしいものだったのです。私はあのとき五歳でした。

 いつの日か、乾いた風の鳴っている、曇り空だった港の上、母は云いました。

 「あれはフェリーと云って、海を渡って旅行する人を、なん人も運ぶ船なのよ」

 父を見送った手を、私の肩に載せてささやくように、私にだけ聴こえるような声音で云いました。私も、母と同じように手を振って父を見送りました。

 「お父さんはどこへゆくの? かえってくる?」その日母は私に、父が行ってしまう理由を告げず、連れ出しました。私は、なぜ教えてくれないのかという疑問と、暖かな笑顔を絶やしたことはなかった父が、いなくなってしまう喪失感に、ひどく悲しくなりました。あごを上げて、そう聞きました。

 「お父さんはね、遠くへゆくのよ、遠い遠い国へ」

 「遠くへ? 帰って来てくれるよね?」母の震えた声は私をたいそう不安にさせました。

 「ええ、大丈夫よ……。それでもね、ええ……エ……、きっと帰ってきてくださるわ」

 「本当?」母の声はだんだんか細く、もう聴き取れないくらい小さくなっていました。それに合わせるように、どんどん港からは船が離れていきます。悲しくなった私は、そう声を絞り出しました。

 「エエ……エエ……本当に……」母は最後には泣き出して、言葉を言い終えることができませんでした。私もつられて涙をこぼしました。なぜか、自分を外から見ているような、そんな感覚がありました。本当はこんな悲しいことなんて起こっちゃいない。映画かドラマの、私は女優なのだと。そう信じ込もうとしていました。

 フェリーは轟音をぎりぎりと響かせて、絵本で見た、巣へ戻って行くヒグマのように去りました。その後ろ姿が見えなくなるまで、私はぶんぶんと、船の大きさ、人びとの大きさ、悲しみの大きさにも負けず手を振ろうとしましたが、大泣きしていたこともあってか、数分経って疲れ切って、母の足下に座り込んでしまいました。母におぶさった帰り道、自宅のドアをくぐり、食事を済ませ、自室のベッドに仰向けになるまで一言も発しませんでした。

 父は帰って来ませんでした。その理由も、そもそも行くことになった理由すらもわかりません。生きているか死んでいるかそれさえも。あれ以来母は家を空けがちになり、来る日にはついに蒸発して行方知れずとなりました。その時には、あまり衝撃を受けませんでした。父が行ってから母と私の間には、会話という会話は生まれませんでした。ほとんど、と言っていいのかもしれません。

 それから、しかるべき方法と過程があったのでしょう、私は母方の祖母の下へ預けられました。幼稚園を出て、小学校を出て、中学を卒業したあとも、祖父母は、私を高校に行かせてくれました。


 ○


 「午後から対バンあるからさ、シマムラもきなよ。チケット高いけどさ」ナワは僕に向かって、親しげにそう云った。事実親しいのであって、友人の中では一番付き合いが長かった。

 「ああ、うん」僕は声のした方を見なかった。僕は半年前に辞めていた。バンドの話がある度に気まずい思いをした。仲たがいしたわけでもなかった。しかしそれを察してか、ナワはわざと明るい声色で云うのだった。

 セッティングの手伝いに行くのもいいかもしれないな。いや、裏方に通してくれるだろうか、荷物入れくらいなら行けるだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら学校を出た。

 駅から学校は九百メートルそこらある。その駅からライブハウスへは少し歩けば着く。ナワはすでに借り物のトラックに三人分の機材を積んでいた。いつもそうだった。マンションの大家から黒色のトラックを借りて、くすんだ緑色のほろを付けて走らせるのだ。昔はその荷台に僕のギターケースも載せられていた。

 「シマムラ、客に頼むのもあれだけど手伝ってくれ」

 運転手はギターボーカルのウチダだった。自ら頼む必要もなかったようだった。手際よく、ウチダと、僕と、ドラムのタキでハウスに運び込んでいく。ギターのナワが、「来た来た。お前が抜けてから初めてここに来たんじゃないか?」と僕に聞いた。

 「うん……そうだね」チケット代は二千五百円もした。このくらい取らなければやっていけないのは理解しているし、多くの人間がそこに携わっているからには当然なのだろうが、それでも高校生の財布を凍えさせるには十分だった。

 「十九時半から俺らの番だからさ」ナワはそう云って、ウチダ、タキと共に楽屋に消えていく。僕はジュースでも頼んで暇をつぶすことにした。出されたジュースは氷が、ところ狭しと詰められ、液体の入る余地がなさそうだったが、一応三口分くらいは注がれていた。ハウスの名前は『ノイジー・エイハブ』。安直な名付けだなと、昔を思い出していた。と言っても半年以前の頃をだが。

 「エステティック・ルッキーはどう?」あの頃は良かった。ウチダではなくそこには僕がいた。シマムラ、それ良いよ! めっちゃいい! と二人は僕のことを褒めてくれた。今にして思えばライブハウスとそう変わらないネーミングセンスだ。かと言って変えることもしなかった後になって解散するまで、エステティック・ルッキーだった。僕はなぜ抜けたか、簡単だ。ウチダの彼女を寝取ったのだ。ほどなく許してくれた。四人となった今でも話題に上げることは控えてくれているが、当初は酷かったものだ。僕は思い切り殴られた鼻を骨折して、左肘の先を、よく研いであった包丁で切り落とされた。彼女とは大学を卒業するまで性交を、キスをすら控えていたので、それを無下にした僕の、彼女とのセックスは彼の怒りを買うのに十分だったろう。その後二人共、別の彼女、女友達を見つけてライブに呼んでは内輪話で盛り上がったものだが。バンドマン然とした貞操観念はこの出来事があってからよく育てられた。

 ライブが終わって十時になっていた。ナワは云っていなかったが、僕たちのバンドはトリを飾った。僕は、ああおれが抜けてもこのバンドはやっていけるのだなと、心のなかで図々しくもそう唱えた。裏口からスタッフが停める駐車場へ、機材を積み込みに行った。

 ナワが借りたトラックの荷台には、僕と同学年だろうか、妙に大人びた背の高い痩せぎすの男が腰掛けて足を揺らしながらタバコをふかしていた。僕はびっくりして立ち止まった。男がつまんでいるタバコを持つ手は、僕の手より一回り大きいようだった。それだけが不思議と気になった。男はこちらのうろたえている様子を見て声をかけてきた。

 「聞こえてたよ。あれ君たちのバンドだった? すごいいい曲だね。誰が書いたの?」

 まず謝れと僕は思ったが、機嫌を損ねてもいけないと思い(損ねるべきはこちらなのだが、男の抱える雰囲気に圧倒されてしまった)、あの曲は自分が書いたこと、自分は昔そのバンドのメンバーだったがもう関わっていないこと、そして今はアシストメンバーを努めているだけだということ、大体そんな内容のことを、ごく流暢に返答した。そして自分たちの曲を褒めてくれたことも感謝した。

 「そうだったんだね。イヤイヤゴメンゴメン」

 男はそう言って、なおも続けた。僕の喋る暇を与えず、まくし立てた。

 「喫煙スペースあるよね? タバコの続きしたいんだけど」

 「案内してあげようか。君って二年だよね?」

 「そうだよ。ああ、俺、二年五組のセンゴクね。よろしく」

 なんだか扱いにくいやつだと僕は思った。馬が合わない。僕も自己紹介した。

 「一組のシマムラ。よろしく。珍しい名字だね」

 「それ、今までになん回も」

 「なんか、ごめん」

 「いいよいいよ、慣れてる。仙人の仙に、山あり谷ありの谷ね」宙に、その漢字を指でなぞった。

 「へえ」僕はそれを見て、うなずいたかどうかは思い出せないが、なんだかわからないような曖昧な返答をした。

 こんなようなことをぺらぺらと喋りながら喫煙スペースまで歩いた。ライブハウスに入ると、僕とセンゴクをメンバーが迎え入れた。センゴクを喫煙スペースまで送ってから、ナワが云った。

 「シマムラ、さっきの奴なんなんだ?」

 「色々あったんだよ」

 面倒くさいから説明しないでもいいかとも思ったが、あまりナワがしつこいので結局全部最初から話した。カウンタースペースにはもうスタッフすらいない。

 「アイツをさ、ウチのベースに加えないか?」

 「エステティック・ルッキーに?」

 「うん」

 「センゴクを?」

 「もちろん」

 僕はあまりいい気はしなかった。色々あって加えることになった。そこに僕の意見はあまり通らなかった。もうメンバーではないからかもしれない。でも話だけでも聞いてもらいたかった。この不信感を共有したかった。

 かれは神から与えられたような類まれなる才能を遺憾なく発揮して、ソロライブツアーを決行することになるのだが、それはまた別の話である。

 別の話ではあるが、僕はかれを迎え入れたその夜に、バンドを乗っ取られた気がした。かれの存在からは、人たらしのような、あまり気持ちのいいものではない空気を感じたからである。僕はそういう人、周りの関係者を否応なしに、むしろ好意的に取り込んでしまう人間を何よりも恐れていた。僕がかれを恐れるとともに、一番最初に話したはずの僕を、シマムラは、しらずしらずのうちに恐れ、避けるようになっていた。少なくとも僕の目からはそう見えた。

 バンドとは一度でもそんな関係ができてしまうと、そこから瓦解していくもので、最後のツアーから二日で解散してしまった。センゴクが売り上げを持って蒸発したのだ。まるで結婚詐欺だ。彼女を作っていないのはセンゴクだけだったが、僕をのぞいて誰もが、かれに懐いており、また誰もが、かれの恋人同然だという自覚さえあったようだ。だからこそかれ一人がメンバーの目を盗み、ツアーに関わってくれた数々の人びとを裏切って、去っていくことができた。僕はその頃、すでにエステティック・ルッキーには関わっていず、メンバーと決別していたので、噂にのみ聞いていたことだった。

 そして今である。あれからまた数年経って、今はバンドだのライブだの、そういうごちゃごちゃした喧騒からは離れて大学生活をしている。話を整理すると大体こうである。僕がバンドに入っていたのは中学一年の春から高校一年の秋まで。そこから半年たって僕が抜けて、ウチダが加入する。まだ僕とルッキーのメンバー間の友好は続いていた。センゴクが現れたライブの日がその二三週間後で、高校二年の八月からは、めきめきとバンドの実力を伸ばしていったようだった。僕にはかれらの活躍など知る由もなかった。

 最後のツアーが三年の冬である。思えば、ただの高校生の集まりにしてはメディアの関心をよく引いたものだったし、その割には短命だったような気もする。大学までバンドの空気を引きずってもそれはそれでおかしいものだが。あの時は、高校生の時は時間が永遠のように思えた。周りからすれば、いわゆる『バカ高校』の中で、僕たちの生活は、バンドは、楽しいものとなった。同時に、人生で一番最悪な出来事ともなった。僕はセンゴクを、うらむべきだったのだろうか? 僕が青春を頓挫する原因となったかれを?

 すでに、うらみ憎しむ必要はもうないと、僕はわかっていた。だからこそ今こうしてぬくぬくと大学生活に、普通の人間になろうとすることができているというものである。


 ○


 港の一件から、私は人を信じることができなくなりました。あの日、港の上、別れを惜しんでいた家族連れは、なにも私達ばかりではありませんでした。それでも、港に集まった人びとは、その船出に未知と期待を預けて、喜んでさえいました。そんなかれらが私達に向ける目は恐ろしいものでした。一体なにが悲しくて泣いているのだ、こんなにも船出は喜ばしいことであるのに! そう蔑みの目を向けて、笑いものにしました。今にして考えてみればそう大したイベントではなかったはずなのに、当時の私はそれが世界のすべてで、これほど大きな事件はないと思いこんでいたのです。だからこそ、あの時私達を笑い者にしたかれらを許すことはできなかったのです。

 高校ではできるだけ、周りの注意を引くことなく過ごそうと努めました。もうあんな思いはしたくない。私は人を憎むとともに恐れ、忌避していました。クラスメイトは私をほとんどいないものとして扱いました。そうした方がお互いにとって、少なくとも悪い結果を生むことはないと、双方が認識していました。無視されるのは苦ではありませんでした。それが元々当たり前なのであって、決して一人だからといって周りの目に耐えられず、鬱になってしまうことなどはありえませんでした。周りがどのようにして、根暗で印象の悪い私を、わかりやすく避けて腫れ物扱いにしたかは、想像に難くありませんが、詳しく描写するのははばかられます。学校は勉強をする場所として割り切っていた自分にとっては、おかしないちゃもんや、因縁などをかけられない限りは、平和に過ごせると考えていました。しかしそんな生活は、やすやすと破れてしまいました。

 センゴク、という人がいました。かれは私と同じ組で、ムードメーカー的存在でした。カーストの頂点に立ち、それでいて誰にでも分け隔てなく接していた人でした。

 「イチダさん、現国のノート貸してくれない? 提出しなきゃいけないから写させてほしいんだけど」

 あくまで優しく、そうセンゴク君は訪ねてきました(イチダというのは私の名字です)。放課後、幾人かがテスト期間の勉強のため居残り、せわしなくノートにペンを滑らせていた時でした。学校生活全般に最低限必要な事柄だけを事務連絡として、クラスメイトとは話していたので、その頼みにも答えることができました。国語だけは大の得意で、既に問題の傾向は掴み、テスト範囲の学習も終えていました。

 「あ、はい。テストが終わったら返してくださいね」

 挙動不審になることもなく無事に返答を返したその時でした。

 「大丈夫、俺イチダさんの分もノート提出しておくから」

 想定外の返答で、私は黙りこくってしまいました。センゴク君は自分の席に戻っていきました。気にしてはいないようでした。

 全教科のテストを終えた次の日の放課後、玄関を出ようとしたところ、またセンゴク君に話しかけられました。

 「今日一緒帰らない?」

 私は無視しようとしましたが、ノートのこともあってか、センゴク君のなすがままに手を繋がれて下校路を一緒に歩きました。今までにない経験に、私は混乱して、気が動転してしまい、次の瞬間には自分の部屋にいました。なんだか掴み所がない人だ、そう思いました。それと同時に、この人になら気を許せると思いました。私は自分が根暗の弾かれ者なのは分かっていました。それでもカースト最上位のかれに恋してしまったことを自分の中に認めていました。それが釣り合うはずもないことも。センゴク君からは私のことを知人としてしか見ていないことも全てわかっていました。ノートのことも、今日一緒に帰ったことも、全てセンゴク君の気まぐれなのだと思い込もうとしました。事実そうなのだから認めるべきだ。そう考えを巡らせながら、いつしか私は眠っていました。


 ○


 あれから大した沙汰もありませんでした。かれからは。心にしまいました。かれを好いてしまったことを。もう枯れ果ててしまったものであって、かれは私のことなど頭にないのです、どうせ。それでも、高校を卒業するまで、私の恋慕は止むどころか、小さな心に収まりきらないほど増大していました。なにがそうさせたのかは分かりませんでした。分かろうとしていなかっただけかもしれません。それに気づかないふりをしていただけなのかもしれませんでした。

 卒業式を終えてからでした。また一緒に帰らない? 私にとっては永遠の、かれにとっては一瞬だったろう、あの過ぎ去った日のように、そうかれは私を誘いました。かれはこの日を待っていたのかもしれません。あるいは私も。



デムデレエの冒険

 僕達は付き合ってすぐ、引っ越した。仕事がある日、彼女は六時に家を出て、帰ってくるのは零時を過ぎた。一般職ではないこと、比較的すぐ帰ってこれることを僕に教えてくれた。そして性的なサービスでないことも。それは僕にとって重要だった。あなたは働かなくてもいいわ。私に養われていればいいの。昔話をしていい? するなと言われてもするけど。私のお父さんね、私が四歳のとき頭がおかしくなっちゃって、毎朝トイレのドアノブにバカでかい声で話しかけ続けたり、部屋の隅を指差して監視カメラがあるとか云ったり、頭にアルミホイル巻きつけて頭痛の原因になる電磁波を防ごうとしてたの。ねえ、毎日インターネットとかでバカにされてるけど、本当にそれをしてたんだよ。それこそキチガイそのものみたいに。まあ本当にキチガイなんだけど。歯茎を包丁でえぐったこともあったな。盗聴器が埋め込まれてるって。台所の床にに血がダラダラ流れて、お母さんは発狂して、うずくまるお父さんの背中をずっと、抱えた椅子で叩いてた。そのうち自分で切り盛りしてたラーメン屋をやめることになったの。貯金がどんどん崩れていって、水道も電気も止められたことだってあったのに、そんな状況にあってもタバコをずっと吸っててさ、気づいた頃には喉頭がんがもう助からないくらいまで進行してて、ゼイゼイ云いながら病院の臭いベッドの上で死んだの。その時私なんて感じたと思う? 誰にでも存在する、現実から目を背けるための防衛反応とかそういうちゃちなものじゃあ断じてなくて、本当に、「この人は私の人生に必要じゃなかったんだ」って思ったの。四歳よ。四歳。


 ○


 だから僕は働かなくてもよかった。昼間はネットサーフィンをして暇を潰した。週末、夕飯の後、彼女はいつも一万円札が数枚入った封筒をテーブルに置く。その封筒は、彼女が僕にそうやって小遣いを渡すとき、使い回されていた。だから角が毛羽立って破けていたり、折れ癖がついていたりした。

 僕らはそうやって暮らしていた。あまりに安定していたので、もし、人類が火星に引っ越した際、狭苦しい金属製の集合住宅の中に詰め込まれたとしても、うまくやっていけそうだと僕は思った。また、彼女はこう例えた。もし私達がジャングルの奥深く、大木の上で葉っぱを敷いて眠らなきゃいけないときでも、うまくやっていけそうね。セックスをしたって、気まぐれな木のたわみは私達を落っことしたりしないの。僕はテレビに流れていた映画を消して、二階の自室に続く階段を登っていった。今ある暮らしを噛みしめて、ゆっくり味わうかのように。少なくとも二人が出会う前よりは幸せだった。

 床について直ぐ寝てしまった。ファイト・クラブの夢を見た。僕はスーパーの店員で、ファイト・クラブの存在を最近知ったばかりだった。刺激を得たいと考えて、バーの地下室に向かった。そうすることだけが、この典型的で、怠惰な生活を打破するとばかり思い込んでいた。あながち間違いではなかったけれども。

 シーンが少し飛んで、僕は、自分の体躯を軽く超えるレスラー然とした大男と対峙していた。僕と男を、すでに汗と血をだらだら流した十数人が一斉に取り囲んだ。かれの大幅なすり足で距離を詰められた僕は、まず鼻を思い切り殴られた。まるでライターで熱したナイフに裂かれたようだった。僕が距離を詰められたのではなく、かれが自分の間合いに、僕を入れたと言ったほうが正確だった。顔の真中に血が集まり、熱がこもるのを感じた。男は返す握りこぶしで、今度はみぞおちを殴った。僕は両手で腹を抑えてかがもうとしたが、あまりの痛みに、身を折って倒れ込んでしまった。周りからすれば、腹のど真ん中を殴られ、せむしのようになった僕がノックアウトされたように見えただろう。そこで夢はフェイドアウトした。

 汗でパジャマがびしょびしょに濡れてしまった。洗濯機に放りこんで、シャワーを浴びた。風呂場の時計を見ると、朝の十一時だった。

 僕はなぜこんな夢を見たのだろうと少し考え込んだ。キッチンに立って、トースターに煙り立つ食パンを眺めながら一分そこら経ったとき、昨夜消したテレビがファイト・クラブを流していたのを思い出した。その時は意識していなかったが、深層心理にそのシーンが焼き付けられたのだ。そんな結論に至った。他の可能性があるとすれば、それはこの暮らしがあまりに安全すぎるので、しらずしらずの内に劇的な体験を求めるようになっていたかもしれないということだった。


 ○


 僕は、彼女から頼まれた本を探していた。『ディムドオの冒険』といい、文庫本にして九十ページ足らずの短編だった。しかし実のところその所在は杳として知れなかった。彼女から聞かされた限りでは、ロイック・ディムドオという男が、特別な装丁のなされた書物を探しに旅へ赴くという話だと云う。名字はDimdoreとつづり、日本語訳の表記でディムドオというのだ。そして妙なのが、主人公と著者の名前が同じだということだった。その点を踏まえて近辺の図書館の自伝を検索したことがあるが、一編たりとも見つけることができなかった。どうやらそういうわけでもないらしい。そもそも海外の品、それも極めて珍しい物だというのに日本語に訳されているというのもおかしな話だ。彼女が祖父から譲り受けたあと紛失したというその本は、今の彼女の知る限り他にどんな形であれ流通されてすらいなかったようだ。自費出版の同人誌とすれば話はつくが、それでも彼女はその本が、少なくとも何某社の文庫本の形で祖父の書斎に存在していたことを主張した。

 彼女は思いついた出版社に、次々とはがきを送っていた。今日も届けるつもりでリビングのテーブルに置きっぱなしになっていた何枚かを見つけた。『ディムドオの冒険』を探しています。既に貴社以外にも複数の社へはがきを送付しております。もし何か情報がありましたら下記の番号へ連絡お待ちしております云々。あらすじや、その本について自分が覚えていることなどを書き連ねて放置されていた。僕はすぐ隣りにある小さな郵便局へ、はがきを届けに行こうと考えた。僕にできることはこれくらいしかない。自分の情報網ではもう探し尽くしたと諦めていた。

 郵便局は閉まっていた。僕は週に一日かれらの定休日があることを思い出し、だから彼女ははがきを持っていかなかったのだろうと正解を導き出したような気がした。空は快晴だったので、建物の白と、りんごのようなポストのコントラストに目が痛くなった。このポストはこうやって休んでいるとき、太陽光をその身に息の詰まるほど浴びるだろう。またその一方で、自分の口をパカパカ開閉してがむしゃら働かなければならないとき、そうして溜め込んだエネルギーを吐き出すものだと考えた。僕はそんな充電中のりんごに向けて、建物と同じくらい光を反射しているはがきを差し込んだ。

 「今はこうやって少ない休みを有効に使おうとしてるんだ。また別の日に来てよ」

 ポストにそう言われて突っ返されるのも面白いなと思いながら僕は自分の肩まで食べさせた。外から見ているときはそう思わなかったものの、随分と空間のぽっかりとしていて、またひんやりとしているのには驚いた。はがきは、すこん、すこん、とその腹の中を叩きながら、やがて自分の落ち着く場所を見つけたようだった。このポストの中には、今僕たちしか入っていないんだ。そう言って、同じようにひんやりとしたテーブルの上の静止を思い出していたようだった。

 局から家へ少し戻ると自販機がある。コーラを買おうとかがんだときだった。

 「ちょっとお、さっき投函されましたよねエ!」

 耳に刺さる高域を含んだ奇妙な発言が僕の背をぴしゃりと打った。

 「はい」

 「休みの日に困んだよね、受け付けてないから」

 「そうですか」

 「そおですかじゃなくてさ、めんどくさいのよ色々。こっちも事務で忙しいのにイ今増やされるともっと大変になンだよねエ」

 「置いとけばいいんじゃ」

 「単純な話じゃないのよ」

 「はあ」

 そうだったか? そんなに郵便の仕事が大変だったろうか。普通はがきであればポストにほっとけばいいものを。忙しいのは局の中だけでポストの中身ではないだろう。僕は無視して自販機からコーラを取り出すと、そのまま家に帰った。あれ以上叫んでは来なかった。何だったのだろう。コーラの缶をちらりと見ると、なぜだかそのやっかみを思い出すような気持ちになった。飲む気になれなかったので歩道の脇に捨てた。次の日通りかかれば誰かしらが取っていくか、花束や缶コーヒーが増えているかのどちらかだろう。


 ○


 家に帰って洗濯物を取り込んだ。交代制の夕食当番は僕をしめしていた。休憩してから、僕はパスタを作ろう。そう声に出してみた。だみ声がリビングに響く。夕方の窓から煙が目に染みる。紫の煙だ。あるいはヘイズだろうか。タバコのいわゆる紫煙ではなく、毒霧じみた蛍光色を呈していた。それは毒ガスだった。僕はソファに力抜いてもたれて、眠るにはいささか不自然な姿勢で気絶した。

 僕は入り組んだ路地を抜けていく。誰かしらから逃げているのだ。夢を見ていることは、なぜか自覚できた。昼間郵便局で見たポスタルだ。いやただの職員だろうか。どうでもいい。トラヴィス・スコットのカルーセルが流れる服屋に滑り込むようにして這入った。もしくは窓ガラスを割って飛び込んだ。夢に音は流れない。それが通常だったが店内にのみ、律動的な曲が僕をリズムに溺れさせんとばかりに流れていた。僕は体を浮かした。足が床につかず前に進もうとするとドローンのように不安定に飛行していく。そうこうしているうちに天井に背中がついてしまった。それでも棚を掴んでレジに向かうと、なぜかその横に本が陳列されていた。ああ、探していた本だな、あれがディムドオの冒険だなと思いながら手を伸ばした。思うように手が届かない。それはそうだここは夢だと思いながら手に入れたい気持ちと手が届かない現実? 夢? に翻弄されながら、はたしてポスタルが息きれぎれ走ってきた。

 まずい捕まってしまうと思ったその時、映画のシーンが変わるように僕たちは瞬間移動して仄暗い路地に出た。もう空は夕を過ぎていた。うまく走れず、もがく足先に金網の柵が立っていた。背後にはポスタル、僕がそのまま網に突っ込むと、頭から網へとすり抜けていった。全身が溶けたチーズのようになって通り抜けていった。ポスタルは金網を殴り、無音の怒号が響いていた。何も振動させられなかったがそれでも響いていた。

 口中に残った金網のさびは針になって舌や頬に食い込んだ。流れる汗は火となって肌を焼いた。それでも僕は逃げ続けていた。



「ボイセンベリー」


 バクリイとボイセンは果物をしたたか腹を痛めるほど食べたあと、たらいいっぱいくらいの下痢をして、そのあとにお守りのようにセロリをひとかけたべたあと朝釣りに行くのが大好きでした。今日もイカを狙って山ほどさくらんぼを食べている途中でした。午前十二時をすぎると通販番組くらいしか暇を潰せるものはなくなっていきます。そのチャンネルではちょうど果物の特集を組んでいました。ふたりはつぎに食べようかとしている果物がなくなっていることに気がつくと、いつの間にやらテレビに見入っていました。

 バクリイが言います。

 「ねえ、ボイセン。このボイセンベリーっていう果物は君の名字から取られてるのかい?」

 ボイセンは返します。

 「わからないよ。でも不思議だね。僕と同じ名字の果物があるなんて」

 バクリイは合点がいったかのように目を見開いて何度か頷くと言いました。

 「もしかして、君の先祖はこのベリーから君の一族の名字を決めたんじゃないのかい?」

 「僕もそう思う」

 二人はその奇妙な一致に、狐につままれた心持ちで、なおもテレビを眺め、次に食べる果物を心のうちにボイセンベリーに決めたところでした。空は白んで、空に入ろうとしている白鳥がけたたましく、その空を打つように鳴いています。



再現


 森の中には、僕たちがおこした焚き火がある。指をソースに突っ込んだような暗闇だった。炎しか見えなかった。わずかに、隣に守衛さんと少女の顔と手だけがぼんやりと見えた。男性ひとりと女性ひとりを、僕はなんと呼称すればいいかわからなかったが、とにかくかれらは、自分たちがおこしたその火にあたっていた。

 少女は言った。

 「もうすぐあなたは私たちがやっていることをするようになって、私は解放される。わかりにくい? なんて言ったらいいかな、私がそれをしなくても良くなって、ここからいなくなるの」

 僕はまだわからなかった。守衛さんは、火に手をかざして、黙っていた。僕は言った。

 「守衛さんはどうなるの?」

 少女は、僕の方を見ないで言った。

 「私にもわからない」



街の善と女人の悪

 また短い午睡から覚めてしまった。もう何度も試みては途切れている。原色に近い、目に映る部屋は私に郷愁の念を思い起こさせた。いつもそうだった。雪は薄く積もっていた。携帯を手にとった。まどかから着信が来ていたことに気づいた。『明日の十時にここを出る』メッセージの時刻は昨日の夜を指していた。つまり今日である。私もそう決めていた。時計を見ると九時半を回ったところだった。

 話はこうで、私は父の親戚の買ったマンションに連れのマドカと間借りして暮らしていた。かねてより私達を嫌っていた中学時代からの悪人ラシフが私達を部屋の外から鍵掛けた。その上から大きな板で張り合わせて、窓は溶接したらしい。一階だったので窓から出ようとすればできたのもしれない。しかし開かないとわかったときには思ったがこれにはぞっとしなかった。

 ラシフもこの室内にいるのか知れなかったが毎朝リビングの飯台には書き置きが残されていた。あなた達は一生ここから出られません。それはボクが扉を閉めるまでもなく決まりきっていた事なのです。なにが決まりきっていただ思い上がりもはなはだしい。

 それに頭痛がする。明らかに寝過ぎであるということにやっと気付いた。私はふすま戸一つ隔てた隣の部屋で寝ているまどかを起こそうと思った。

 「まどか、まどか」私達はもしお互いがおかしくなり、人ならぬものの声が聞こえ、それが自身を呼んでいるような錯覚に惑わされるのを防ぐため名前を呼ぶときは二回呼んでいた。返事はなかった。彼女はまだ寝ていた。返事したくないのだろうか。そんなはずはない。まどかと私は必ず返事することを決めていた。

 私は戸を開けた。彼女の姿はなかった。ラシフが隠したのだろうか? かれは私達をこの部屋の中にとどめておきたかったはずだった。そんなことはありえない。部屋中の容れ物をひっくり返した。押入れの中にうずくまって彼女は寝息を立てていた。私は彼女を叩いて起こした。声を上げてまどかをとがめた。

 「なんでこんなことしたの? 心配になるじゃない!」

 「ウン……ウ……わかんない。なんでこんなことしたんだろ。ラシフ君がしたのかな」

 「そうだとしてあなたは自分で出ようとしなかったの!?」

 「わかんない。寝てるときだったから」

 「起きれたでしょう?」

 「ねえ、リタ、ラシフ君が悪いことしてるって私思ってない」

 「そんな……そんなことあるわけ無いでしょう……」

 言い争いになるのが嫌だったのでコーヒーを作りにキッチンに立った。彼女が別の人間になってしまったように感じられた。ラシフが私の寝ている隙に彼女によく似た人間を入れ替えておいたのだろうか? かれにそんなことが出来はしないだろう。私がラシフを下に見ているのもあるが、かれ自身の能力も実際足りないのだ。私達をここに閉じ込めることだけで精一杯だろうにこれ以上何ができるのだろうか。

 ラシフはまどかと付き合っていた。私たち三人はよくつるんでそこら中遊び回っていた。ラシフの父の金は腐るほどあった。職業は教えてくれなかったが、今まで誰かに因縁をつけられたことなど一度もなかったので、後ろめたいことをして作った金ではないことは想像できた。だから金のことでいちゃもんをつけに二人を閉じ込めたのではなさそうだった。

 他に心当たりがあることといえば、数週間前に私とラシフがケンカしたことだった。本当にくだらないきっかけだった。せめて、早くまどかと結婚してあげてとか言っていればここに閉じ込められる理由が正当性のあるものになったろう。その時ラシフは赤のブラジャーを買ってきたのだった。私はかれにまどかの嫌いな色が赤だということを教えていた。私の勘違いでもなかった。かれは知っていて買ったのだろうか。かれが下着を買ってきたことも許せなかったし、それが赤色だったのも理解できなかった。



ア・ワナ・テイキ・ュー・ハイヤー

 博士に呼ばれて離れに来たはいいものの、ドアを開けてみれば真暗な空気が占めているばかりで何も見えない。燃料が残り少なくなっているので、手伝いをするついでに補給したかった。

 「あの、来ましたけど」

 「ああ、うん……じき日が沈む。それまでに三人分だ。三人分やらにゃならん。何をかって、この間話した大道芸人像の胃袋の表面に本能を削るとかなんとかっていうあれさ、あれをやらにゃ。だから今からちっとばかし無重力になる。お前の踏むドアのすぐ先は金網の足場になっているから下が見れる。おっと、電気をつけてなかったな。そら……ついた」

 僕はすでに一歩踏み出していたのであしうらの感触に金網をすぐに感じ取ることができた。ほどなくしてそのあしうらから力が抜けていくようだ。その『無感触』は脚をつたっていき、胸へ首へと違和感が占めていく。そして僕の体が宙に浮いたかと思うと、天井の中心へと吸い寄せられていった。この離れは外見よりかなり大きい。僕の発射から十数秒かかって天井に背中がついてしまった。

 「ああ、疑似恒星だ。それがないと像は活性化しないからな。まるで本当に惑星のようだろう。ようだろうとも!」博士は空を切りながら泳ぐ僕を見て言った。「心配いらない、向こう側、こっち側に着くから。歩く手間がはぶけていいだろう?」

 僕はただわずかに口の中で返答をつぶやくことしかできなかった。「ええ」

 博士側に着いた僕は起き上がれなかった。また不自然に力がかかってまたドア側に突き飛ばされるかもしれなかったから。まだ僕は無重力になれていないんだ。博士は僕を助けようともしないで、それぞれ三つの台座に精神病棟の患者のようにがっちり固定されている三人のクラウンを見て言った。

 「わかりやすいように像に名前をつけたんだ。右の胸が開けたシャツ着てるのががスライ、スライより少しだけ身長が低いやつがフレディ、スライとよく似てるだろ? そして左の白ハットがラリーだ。」

 「博士、すぐ作業なんか終わって出荷してしまうっていうのに、なんで名前なんかつけたんですか? こいつらは養豚場の豚みたいなもんだっていっつも言ってたのに? それに僕には名前をつけないんですね? 博士の世話ロボットだっていうのに?」

 自分でも、びっくりするくらいすらすら文句が出た。博士は、「わかってる。自分でもなんでつけたんだか、気まぐれってやつかな? お前にも名前がほしいならつけてやろう。私はいらないと思ってたんだがな。お前の名前はタイキだ」

 「ええ……ええ、それでいいです」僕はなんてことを言っているのだろう。自分がバカみたいじゃないか? 博士に忠誠を誓うのではなかったか? なぜだ? そもそも僕はなんでここにいるんだ? 一体全体誰に向けられた誓いなんだそれは? 部屋の中心にギラギラ光っている恒星がなければ僕だって指一本動かせないんだぞ?

 「タイキ、動かしてくれ。台座をだ。すぐ処置する」

 台座と、その上に乗っかっているスライを隔てて、僕の向こう側に博士が立った。小さなネームプレートバッヂには、かれのイニシャルが刻まれている。アルファベットは見えなかったし、そもそもどんな名前かも忘れてしまった。別に博士とだけ呼べばいいのだから、名前を覚えなくてもいいわけである。ひとの名前を覚えるのが苦手な僕にとって、召使いという立場は気楽だった。それに満足できるかは別として。

 「うん、そっちだ。階段を降りて恒星の脇に作業台がある。メンテナンスワークベンチと分解用の作業台は別なんだ」博士はあくまでスライの体にのみ気を配らせて言った。

 やっとのことでスライをワークベンチに縛り付けた。かれの体博士の手によって稼働を停止されてはいるものの、恒星によって体内の活性はとめどなく働いている。その開きっぱなしのまぶたはあくまで代謝を続けてはいるものの、瞳は乾ききってひび割れていた。こんな目に見つめられるとき、僕は「冷ややかな視線」とだけ形容するにはあまりに不遜であった。博士の技術を持ってしても、人間の機能をすべてロボットとして代替するにはあと一歩届かなかったとでも言うのだろうか。じゃあなぜ付けた? 他にいくらでもまぶたに代わるロボット的機能を追加できたのではないか? そんな考えがよぎったが、僕は博士の言葉を思い出した。

 「私は性格を持たない人間がほしい。そのために今まで尽力してきた。私はな、人間の機能を全て忠実に再現したロボットがほしいんだ。クラウンの像をいじってそれを売ることは人間ロボットにつながるんだ。お前は何も言わず、性格を持たないロボットとして私の力になってくれればいいんだ。大道芸人像のノウハウとお前のAIがあればそれに近づくんだ。だが今は資金が足りない。私の言っていることがわかったか? そして、余計なことを考えるようになったお前が、どれだけ私の夢の実現の妨げになっているかということも?」





 博士はスライを載せたワークベンチに向かって、作業に取り掛かりながら、僕の方を見ないで言った。『本能を削り出す』とは一体どんな仕事なんだろう。僕は気になったが覗こうとはしなかった。今の博士にとっては、スライ達をいかにさばき切って目標への資金を集めるかが重要だった。

 「お前のAIとクラウン達の技術があれば私は夢を叶えられるんだ。ああ、だが最初は、お前を作った時は、お前は私の命令にのみしたがって動いてくれるものとばかり信じ込んでいた。名前を呼ぶんだったな、マイクだったか?」

 「タイキです」

 「そうだ。タイキ。」

 博士はそれきり、黙ってワークベンチに向かって作業を続けていた。僕は『本能』とは何なのかがやはり気になった。

 「あの、博士」スライの部品がかちゃかちゃと擦れ合うのみの、静かな空間を僕の声が破った。

 「うん?」

 「本能を削り出す、ってなんです?」

 「ああ、スライ達が、擬似臓器を持っているのはわかるだろう? その中の胃の内壁にエングレイブを施すんだ。その模様がかれらに「本能」を生じさせる」

 「本能って?」

 「その名の通り、我ら人間、タイキは違うか、とにかく我ら人間が、もともと持っている、目的へ向かう意思のことだよ」

 僕は寝かされているスライを見て、さらに階段の上の工事現場のような足場から見えるフレディとラリーにも視線を向けた。かれらは、僕に比べて、人間にずっと近い形をして入るものの、博士が僕に仕込んだプロトタイプ本能のかけらも持っていない。それを思うと、僕は、クラウンに向けた複雑な思いが増していくのを抑えきれそうもなかった。例えば、何も知らない人間がクラウンと僕とを見比べたとしよう。かれはまずファースト・インプレッションで、クラウンらの方に近しい感情を抱くだろう。そしてそのうちの一人に、こう語りかける。「ねえ、お昼何食べた?」スライは答える。「あなたは、今日七月五日の午後十二時十六分にオムライス、オートミールクッキー、そしてコップ一杯の水を摂取しました」かれは返す。「僕のことじゃなくてさ、君は何を食べたんだい?」スライは固まる。数十秒立ってこう答える。「SLY一二二三は今日十二時〇〇分に精製オイル一リットルを補給致しました」「ねえ、今何年何月何日何時何分何秒?」「アフター・ミロク暦の十三世紀七月五日午後十三時〇一分です」



 ダフキスは顔を洗い終えて、タオルを首にかけ、ソファに腰を落ち着けて言った。僕はその隣に座っていた。テレビ画面には七十年代の映画が小さい音量で流れていた。それを見ながらずっとうとうとしていたので、僕は彼女が言ったことの半分はうまく聞き取れなかった。

 「ねえ、物事は……変わりゆく。あなたもそう思ってる。私も。あなたとずっと一緒にいられるなんて思ってない。それが怖いの。全てに固執して、全てを知ろうとして、全てが自分たちのものになった気がして、今までやってきたことが全部無駄になっちゃうのが怖い。終わりが迫ってくるんじゃなくて、私たちの方から近づいていってるんじゃあないかしら。別れようだなんてそんなものじゃあなくて、もっと怖いもの。私たちが何よりも恐れていた、何よりも待ち望んでいなかったもの。」



やきいも

 「チイ君、焼き芋全然焼けてない。栗だよこれ、栗みたい」

 「そうかな」



佐倉君もCCFX好きなの?

うん、昔から自分の中に流れていた気がして

そうなんだ

僕、ギターやってるんだけど、かれらはすっごく叙情的で、『The One To Wait』なんかのリフエイジは夕焼けに交わした約束を思い出すんだ。交わしたことなんてないのに

佐倉君、佐倉君は……ええと、リスナーでありたい? それとも批評家でありたい?

全然……、僕は、自分が批評家だなんて思ったことないよ。でも、どうして?

楽器を触ったことがあるだけで自分が他のリスナーより優れている気になってる人なんてゴミだから、そんなことかけらも思わないほうがいい

ごめん。

こっちこそ、ごめん、……言いすぎた。

永江さん。

へ?

今何時?

6時

約束しよう

うん

指きりげんまん

何を約束するの?

わからない。けど、しよう

いいわよ



 僕の住んでいるアパートの一室からは公園が見え、その中央には

少女の裸像が見えた。リリスと名付けられたその立像の足の甲は、撫でると恋が叶うといわれた。偶然を装って通りがかった、目の落ちくぼんだある少年などは、彼女を前にして赤面し、わずかに撫でて去ったのも、僕は見かけたことがあった。

 大阪にあるビリケン像は幸運を呼び寄せるとして、観光客などに撫でられ、あしうらがへこんでいるらしい。僕はその像の哀れな処遇とリリスとを関連させずにはいられなかった。彼女もまた足の甲がへこんでおり、まるで象かサイかに踏まれた跡が、そのまま治らないでいるかのようだった。

 僕はその像を一日の初めに必ず見ることを日課としていた。いつかリリスが撤去されてしまうのではないかと、見るたびに思っていた。わずかな心配が僕を早くに目覚めさせていた。



リリト(主人公。頭が弱い)

ライライ(リリトの親友。リリトの頭のできがよくないのを理解して個性のひとつとして認めている)

パスカル(ふたりと同じクラス。ライライのことが好き)

フラー先生(リリトのクラスの担任。他の子達よりおくれているリリトを心配している)

アーヒー先生(学校付属病院の精神科のカウンセラー)

 リリトはあまり頭のできがよくなかった。この前ライライが犬を飼いたいといったときも、じゃあ名前はパスカルにしなきゃあね、といった。ライライはちょうど、昨日行ったパーティーのことで、パスカルという文字がきらいだったので、これには腹を立てた。「ちょっと、パスカルって昨日のパーティーで酔って私を殴ったやつの名前でしょ!? なんでそんなことがいけしゃあしゃあと言えるのかしら」でもリリトは頭のできがよくないので、自分が今しがたパスカルと口に出したことと、昨日のパーティーのことが、関わりを持つようには思えなかった。リリトからすれば昨日のパーティーで騒いでるひとがいたから記憶にのこっていたひとの名前であっただけであった。「どういうこと?」「どういうこともネズミもタラコもないわよ。あたしはパスカルって言葉がきらいなの。今私とってもかわいいワンワンちゃんのことを思い浮かべてるのに、パスカルなんて言葉が頭に入ってきたらいやになるでしょ?」「そうかな」「そうよ」リリトには理解できなかった。

 今日になってリリトは公園まで散歩に行こうと思った。しかし公園までのみちのりを散歩して、そこで終わってしまうことを「散歩」と考えるのか、公園の、あの青いベンチに座り込んで歩き過ぎていく人びとを小一時間ながめることを散歩と考えるのかわからなかった。なのでそれについてしばらく考えていた。考えているうちに昼が過ぎた。そしてお母さんがご飯と呼んだ。リリトは夕食をとることにした。夕食を食べようと思ったら散歩のことはかき消えた。

 あくる朝学校についたらパスカルがライライに謝っていた。隣の席で聞こえた。「この前のパーティーではごめん。ぼくどうかしてたんだ。その時のこともおぼえてないんだ。いつの間にか朝になってた。友達から聞いたんだ。本当にごめん」「いいわよ。大した傷にもならなかったし」リリトは、自分は今ふたりの会話に入っていないので黙っていようと思った。でもどうしても喉にひっついて離れなかったので、その場の状況にそぐわない変なことをいってしまった。「あのさ、でも、これからパスカルは犬と気が合わないだろうね」教室のみんなは黙っていた。

 私って頭の中にこびりついた言葉のイメージがどうしても離れなくて、そのうちそのことについてそこにいるみんなに共有したくてたまらなくなるんだわ。どうしましょう。考えてもこたえは出なかった。でもその「考えたがこたえが出なかった」ことがどうしても信じられなくて、それでもうなっていた。その実頭の中はまっさらのキャンパスになにも描かれない描こうともされないまま、今考えようとしていることと反対の方向を向いていた。

 放課後になってリリトとライライはふたりで帰っていた。「ねえライライ、もうパスカルって言葉はきらいじゃあないの?」「ないわよ。あ、わたし向こうのアイスクリーム屋さんでクランベリーヨーグルト味買って帰るから。またね」「うん。またね」リリトには理解できなかった。なんで前はきらいだったのに今はきらいじゃあないのだろう? 考えてもわからなかった。

 ある日先生はリリトをひとり職員室に呼ぼうとした。「アティヤさん。話すことがあるので、今日の放課後に職員室まで来てくださいね」「フラー先生、なにを話すの?」「来てからでないと教えられません。とにかく忘れずに来てくださいね」リリトには理解できなかった。なにを話すことがいたからあるというのだろう? 私なにかわるいことしたかしら? ばつがわるい気持ちになって、これからおこられるのではないかという考えだけが頭の中を占めて、それだけで気持ちがわるくなって吐きそうになった。「ねえライライ、私なにかわるいことしたかなあ?」「さあ。知らないわよそんなの。強いていえば空気が読めないこととかかしら」「なにそれ」「私もしらない」

 職員室室の前までやってきたはいいものの、職員室の前の廊下はうす暗く、入りづらい雰囲気がただよっていて、通りがかる生徒を、扉が食べてしまうのではないかという気持ちにさえなった。つまりリリトは入るのが、とてもじゃないが怖くて怖くてできなかった。ちょうどフラー先生が入るところだったので、やっとのことで声をかけて、彼女のデスクまでついていくことができた。もし彼女がすでに職員室に入って仕事の続きをしていたとしたら、リリトは一生入ることができずに、廊下でしばらくまごまごした後に、逃げるように帰っていたことであろう。フラー先生は自分のデスクに掛けた。そして、おそらくはリリトを怖がらせたくなかったのだろう、こちらを見てはいたが、どこか神妙な面持ちで、つぶやくようにしていった。「アティヤさん。今度の日曜日は空いているかしら?」「はい。空いています。フラー先生。でも朝は礼拝があって、午後からは出歩かないようにお母さんから言われてるので、午後はダメです」「そうね……、お母さんにいって礼拝はお休みしなさい。それと、お母さんにもついてきてもらわないといけないの。そのことも含めてお母さんにいってもいいかしら?」「はい。大丈夫です。フラー先生」「実はね、あなたとはなしたいってお医者さんがいるの。大丈夫よ。かんたんな受け答えと、ちょっとしたテストを受けるだけだから。心配しなくてもいいわ。あなたのためを想ってこそ、こんなことをいうのよ。受けてくれるわね?」「はい。わかりました」

 リリトは職員室をあとにした「失礼しました」。ばたん。





 「お母さん。学校から電話きた?」「ええ。来たわよ。日曜日の14時から診察があるって」「診察? はなしてテストを受けるだけじゃあないの?」「そうね……」母はそれ以上なにもいわなかった。そのはなしは、けむに巻かれてうやむやになったまま、土曜日の夕食が済んでしまった。

 お母さんはなんで詳しいことをはなさないのだろう。私は病気なんかじゃないのに。そりゃあ、ほかの人より頭が回らないのはわかるけど。それにしたって、自分のことを個性としてみとめてくれたらよかったのに。なにも病院に行くなんて大ごとにしなくてもいいのに。リリトの心中には、わがままな感情がうまれていた。ちょうど、盲目の人なんかがいだく、自己中心的な感情とおなじだった。決してそれ自体がわるいわけではない。障害を持った人びとが、それと同時にいだいてしかるべき感情であり、個性だった。ただ、リリトの場合は、彼女をとり巻いている、ほとんどの人たちがそれを、わかりやすく差別しているだけのことだった。それも、単純にやっかんで、のけものにするよりも、もっとひどいやり方だった。

 ライライにメールしよう。もう土曜日の午前一時だった。『いったほうがいいのかな それともだだをこねて拒むのがいいのかな』『あなたのことを考えていうけど、いったほうがいいわよ』『そうだよね』『そんなこといってる時点で自分の中で決まってたんじゃない』『うん』……そこで途切れた。もう寝ようと思った。寝ようと思って布団を首までひっぱってみても眠れなかった。あたりまえといえばあたりまえだった。眠れるわけがなかった。目を閉じてみても、胸のざわざわが強くなるばかりでどうしようもなかった。寝返りをうって横を向くと少しだけ涙が流れた。鼻がくすぐったかった。拭うのもわずらわしかった。いつのまにか、それが乾くまでには眠りに落ちることができた。

 土曜日の昼は間違いなく訪れた。服を着て階段を降りると、母は化粧台に向かって丹念に粉をはたいていた。今度は口紅に取り掛かりながら「リリト、行くわよ」と、こちらも見ずに言った。「お母さん。病院に行くだけなのにそんなにメイクする必要あるの?」「その後集まりに向かなきゃならないのよ」「そう…………」「準備終わったの?」「うん、……終わった」「そう。なら行くわよ」





 待合室の空気は薄く感じた。苦しい。他の人は、せわしなくざわざわ動き回っていたし、人と人との椅子の間隔は狭く、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた室内にうごめいている人びとからは、何をしでかすかわからない生理的嫌悪をひどく感じさせられた。いやだ。全部いやだ。隣のキチガイがこっちをみてにやにやしてるのも。退屈で意味のない知能テストと長いアンケートを取られるのも。先生に変な病名をつけられて、眠くなる薬をもらうのも。お母さんがそれを毎夜私に飲ますようにするのも。学校で私の立場が不安定になって、フォームクラス教室でも、移動中の廊下でも、誰とも話せなくなって、距離が離れていくのも。全部が予想できる。それが全てなんだ。私の一人生に突然にそびえる絶壁なんだ。逃げ出さなきゃ。リリトはズボンのポケットから携帯をのぞかせて時間を見た。十三時三十分をわずかに過ぎたばかりだった。受付の時間まではあと十分は掛かりそうだった。逃げ出したい。長椅子を立って、トイレに行くと母に言う。そして、見られていないうちに入り口のドアから逃げ出す。一度そのことを考えてしまったら脳内はそれが占めるばかりで、他のことはもうすっかり考えられなくなった。

「お母さん、ちょっとお腹が痛いから、トイレ行ってくるね」

 早口でそう言い終わらないうちにきびすを返してトイレに向かった。一二分経ってから周りを見回して外に出た。

 それからは焦りと開放感にかられながら道路を走り抜けた。私みたいな子供がそこらを歩き回っていたら誰かに声をかけられて連れて行かれるかもしれない。どうしよう。どこに行けばいいんだろう。なにもわからなかったがそれでも走り続けていた。

 そうだ。ライライは? ライライに連絡しよう。もうあの子しか頼れる人はいない。



「それは案外まちがいでもない……」………………______

 スキーをしていたのかナイフを握っていたのかわからなくなってしまった。さっきから自分のものではない声がして、思考が散らかってしまった。そして夢から覚めたとき、木から揺れ落ちた雪塊に飲まれたのか、冷ややかな金属の舌が首を舐めたのかわからなくなってしまった。自分は、見当違いの方向に滑っていくスキー板を外そうと躍起になっていたのかもしれないし、自分の考えとは反対に向かってくる左手を突き放そうとしていたのかもしれなかった。どちらにせよ伸びをしてしまったら夢はかき消えてしまうもので、もう普段の生活にはなんら関与しているところがなくなってしまった。横を向いて寝ていたので涙が乾いて張り付いていた。手で拭うと目やにも一緒に取れてやっと目がはっきりしてきた。

 長い休みだった。そして長かった。砂漠に投げ出されたような気がした。点検に出したトレモロ皿を取りに行くのも面倒くさくなった。このまま行ってしまわないようにそれを忘れようとしたところで電話が鳴った。修理屋からだった。トレモロ皿の点検が終わりましたので取りに来てください。それとも郵送にしますか。その場合は手数料もかかりますが。とかいった内容だった。うんうんと曖昧な返事をして、明日には郵便で届くことになった。

 暮らしの中に、シンボルを設定し、それを追い求め続けるのは難しいことではなかった。僕の場合はそれがスキー板とナイフだった。最初に音があれば、わけはない。最初に音を置くこと。それが重要だった。その最初の音がどこで生まれたかを考えるときがあった。しばらく考えて、アウストラロピテクス・アフリカヌスのコミュニティが生み出したリズム、声や打擲音がそれだと悟った。今を生きる、僕を含めたすべての人間はそれを模倣していたのだ。すべての音楽は原始人に始まった。それに乗じて音を置くことのなんと簡単なことか。音の次にはシンボルがあった。構造としては至極単純なものだった。

 夢の内容はこうだった。起きてすぐ、紙にアウトラインを書き留めたので、大部分は忘れずに済んだ。





 まず最初にスキーをしていた。一緒に来ていた友達はむしろスキーよりも、その後に続く麻雀を楽しみにしていた。そして後日の施星祭をも心のうちに置いて離さなかった。どこか上の空で早く帰りたいとは口に出さなかったが、落ち着きのない動作に現れていた焦燥は僕すら急がせた。

「あと一回上級者コースを滑ったら帰ろう。そして帰って朝まで麻雀しよう」



 今しがた中級者コースを滑ってきたばかりなのに、息せき切って叫ぶように言う市崎に、僕はあきれながらうなずいた。すぐに終わらせて帰ろう。僕もそう思った。

「巻田も行くだろ?」

 僕はそれに答えた。

「うん……ああ」

 リフトが長く感じた。うさぎの足跡が真下に見えた。中間を過ぎたリフトと同じくらい高い樹の根本まで続いていた。

「そういえば」

 市崎がつぶやいた。

 「なんでも、こういうかんかんに晴れた日だと、昼すぎから雪崩がおきやすくなるらしい。まあもう帰るから関係はないが」

 言い終わらないうちに足板が雪面に付いた。もうすっかり慣れてしまって、二人はプールに戻ってゆくアシカのように滑っていった。

 さっきうさぎが隠れた木の枝だった。溶けた水気を含んだ雪塊が、頭を垂れる稲穂のようにしだれこんでいた。そして僕の足はコントロールを失った。雪が凍ってスケートリンクのようになった面に、不自然にかかった力は、そのまま僕を滑らせる運動になった。

 僕に向かって落下してきた雪塊の下敷きに僕はなった。なったと思えばうっすら夢から覚めて、僕はぼんやりと目を開けた。カーテンを掛けていない窓からは、うす水色の早朝が流れ込んでいた。心臓は固く胸を打っていた。それがなぜだか少し心地よかった。こういうときはたいてい、また目を閉じて直前の夢をたどるように思索にふければ、その夢の続きを見ることができた。だが僕はそうしないであえてメモ帳とペンを取って、思い出せる限りの単語や短文を書き連ねた。こんな夢を見るのは珍しかった。自分が切迫の縁に立たされるような夢。



二〇五五年、夏至の昼、私は母が云ったことを覚えていた。『大通りの写真家には近づくな。親戚のある人は、かれに誘拐された。二階の物置に閉じ込められてどうなったかしれない』昼食の時間にそぐわない珍奇な話は、私の中で一大事件にまで発展した。

 それから母はその話をしなかった。わざわざ聞くのもなんだか馬鹿らしくて、自分の頭にだけとどめておいた。

 ある人とは一体誰なんだろう。この思索だけが頭をよぎって解決させはしなかった。親戚はあまりにもたくさんいたので、誰が行方不明で誰が生活に存在しているかは、私のあずかり知らぬところだった。

 事件がその時期に発生したわけでもなかったのに、毎年夏至になるとなんとなく写真家のことを思い出さずにはいられなかった。

 そうして二〇六〇年の春に、とうとう事件を、自分で探偵しようと発起するまでに至ったのであった。



 昨日ゴミ捨て場にレスリーが捨ててあった。期日とは全くずれていた。それでいて誰も気にする様子はなかった。最初に捨て置かれてから動かした跡すらないようだった。そのまま野外に打ち捨てておくには巨大なものを一体誰が捨てていけるだろうか? そのうえ一体誰が気にしないでいられるだろうか? その時持ち帰ろうか一瞬か二瞬か三瞬くらいして、結局レスリーを前にして小一時間考えてしまった。それでやめにした。しかし結局、今朝になって気になってきてしまったので、取りに戻ることにした。

 変わらず、レスリーはただ在った。自分の住んでいる、そして他の人間生活のねちっこさが密集している団地の俗っぽさというか、俗そのものの空気には、似ても似つかなかった。スピーカーも大概俗だが、なんにせよ環境に生活に合っていない。さあ、持って帰ろう。しかし、その家体を持ち上げているときでさえ、これでなにを増幅させようかなどという問いに、答えは出ないままであった。台車にはちょうど立った。

 コンクリートとアスファルトのコントラストに陽光が照った。見ると、朝早くだというのにもうあんなに日が高い。そうだ。誰かに見られてはいないだろうか。自分の今やっていることは泥棒であり、通行人に見られたらそれこそ通報されてしまう。朝出るときはそんな考え微塵もなかったが、今になってやっと気づいた。見回してみれば誰もいなかった。大方子供を学校に出したあと、家人は居中の雑務に身をやつしているだろう。主人などはあくせく仕事に取り組んでいる時間帯であった。そこで私はゆうゆうとレスリーを自室に運んでいくのに遠慮はしなくて済むわけであった。

 部屋の続きにレスリーの在らんことを。

 わかったネエ・ほんとにわかった。

 病気になった

誰もかからない病気に

それがなんなのか知りたくなってしまう病気

そうなってしまったらもう終わりだ

揚揚と旗をかかげられて、その標的を榜される

そうなってしまったらもう終わりだ

終わりであった

ごくごくミニマムな生活に属している、ごくごくミニマムな体力

見つけてしまったらもう終わりだ

手に入れてしまったらもう終わりだ




幽霊農歌(模範作業員のための特別労働)

 ンガロノーカは腐った屋根の木板をけやぶった。なぜそうしたのかは自分でもわからなかった。ただ晴れ間が歪んで落ちこんできた。それを見ることで、突発的に起こした自分の行動を、不思議と納得がいった。

 この状況を打破したかったのかもしれない。味のしないガムをかみ続けることを強制されるようなこの状況を。耐えきれなくなって無意識のうちに行動に出したのかもしれなかった。窓をあけて空を見た。雲はまばらに走って逃げていくようで、陽光に眉間がちぢんで痛くなった。

『解決の光すら見えないほど遠く、手が届きそうなほど近い。いや、やっぱり遠い』

 昨日、仕事仲間のゼッカが、終業間近につぶやいたひとことであった。ノーカはこれをただの冗談と捉えた。そして今しがた落とした木片と考え合わせて、この状況から抜け出すヒントを得た。阻害するものを無為に破壊しようとするのではなく、それを受け入れてから広がる可能性のなかで、活路こそを見い出せばよいのだった。考えてみれば当然で簡単なことだった。

 木片は、低い天井にぽっかりと空いた穴から降ってきたようにベッドの上にあった。ベッドシーツには不健康な色をした土や小石すら広がっていた。屋上の畑からわずかに逃げてきたようだ。サボテンすら育つまい。大家がここで何を育てているかは見たことがないので知らなかった。見に行こうという気すら起きなかった。バラックは仕事場からずっと伸びていて、いつもぎりぎりで行けば間に合っていた。ただ毎日同じ時間に起きるには大変ストレスだった。それだけである。

 最上階にあるノーカの部屋は、家賃と修理代が他より数分高かった。今月の家賃とあわせて二六〇〇円。自分で建材を買ってきて治すよりは安く済んだが、余暇とシャワー代、それに食費から抜かなければ今のノーカには出せなかった。それだけである。それさえ我慢すればいい。

ノーカは今しがた起こった、いや起こした事件がなにか重要に思えてならなかった。ただの逃避行動ではない。もっと何かこの世界の根幹をなせる甚大な時点に違いないと信じ込んだ。起こるべくして起き、在るべくして在る歴史的なポイントであった。ノーカはそして、ここからまた新しく歩き始めなければならぬと思った。社会の歯車を回すミニチュア人形になるべきだと自分をいましめた。

 ノーカは仕事の時間をみとめた。すでに時刻は過ぎていたがまだ間に合うだろう。





 仕事場の人びとには焦りが浮かんでいた。いつもそうである。ノーカは出勤カード欄の『ンガロ』に印をつけた。

 ほどなくリーダーがやってきてノーカを叱責した。

「ンガロ! 今月で五度目の遅刻だぞ! 何回やれば気が済むんだ!」

 相手にはしたくなかった。だが目線を合わせずにノーカはつぶやくようにして言った。

「ええ。わかっています……アクチ場長。」

 したくもない仕事にやってきて、言いたくもない上司に従うこと。ここではすべてがノーカのしたいことと反対であった。

 しかしたったひとつだけ、ノーカの気が安らぐものがあった。仲間だ。仕事にあくせく身をやつすこの場では、仲間がなによりの心の拠り所であった。仕事服に着替えるため更衣室に入ると、その中の一人が嬉しそうに話しかけてきた。短髪にいつも汗かいている、目の大きい男。ゼッカだった。かれは、この現場には似つかわしくないような笑顔で、沸き立つ感情を抑えきれないようにしてこう言った。

「ああ、ノーカ、おはよう、その、朗報だぞ! 俺とお前で馬に乗れるんだ。支部の現場で仕事ができるんだ! いつもと違うことができるんだぞ!」

 二人には、いや、ここの作業員全員にとっても、文字通りまたとない機会であり、僥倖であった。

「そうか。ゼッカ、じゃあ仕事服に着替えてからお前のところに行けばいいな?」

「うん。そうだ。ここの出口にアクチ場長といるから、準備ができたらすぐ来てくれ。それにしても、ああ! 楽しみだ! いつもここでの仕事は気が狂いそうだったもんなあ。」

 ゼッカは、はやる肩を隠そうともせず行った。

 更衣室では他の仕事仲間の視線が、ノーカの背に張り付いていた。ノーカはその状況をまざまざと見せられ、また見られていることに不服を思った。なにも自分で選んだことではないし、進んで取り組もうと息せいているのではまったくない。もうすっかり自分の動作に馴れている、その硬いつなぎの生地は汗ばんだ体をじっとりとなぜて、ますますノーカの不快を強くした。一言も放たずに更衣室をあとにした。





「ンガロ! 早くしろ! 置いていくぞ!」

 アクチ場長の喧声が、まだ完全に目覚めてはいないノーカの耳をいたく打った。陽はますます高く強くなっていた。傍らに見ると、ゼッカとアクチ場長は、自分の背を頭二つ抜くかと思われる巨体の馬にまたがっていた。その二匹とも、陽光にその紅い毛並みはますます輝き、その中でよりいっそう濃いたてがみが萌えていた。またがる二人の、そのたるみきった肉体を包む淡い抹茶色のつなぎとは似ても似つかなかった。乗り方はもうずっと前に講習を受けたきりであったが、それを支えとして本部での作業をこなしていたので、脳内でのシュミレーションは完璧に近かった。乗馬に連なる支部での特別作業は、本部に働く誰もが憧れの的としてその思慕を深くしていた。

 他にも四五組の乗馬が見えた。支部から来るものであった。成績の特に優秀なノーカとゼッカの二人を一組として特別作業のため迎えに来ていた。

「今乗ります」

 ノーカはその憧念を気付かれないように、つとめて鉄面皮を守りながら、アクチ場長とゼッカの後方に立っていた一匹の手綱を引きとどめ、あぶみに足をかけた。



 佐久間がそうさせた。

 農場は昔は広く、窓から眺めるに見渡せぬ絶景を擁した。佐久間がそうさせたのであった。佐久間はその農場で四足の『牛』と呼ばれる動物を百匹飼っていた。ただ私が見たところでは牛になぞ到底見えなかった。例えるなら、イルカに足を生やさせ、その頭をつづめてへちゃむくれにしたような動物であった。佐久間はそのおぞましい動物を牛だ牛だといいながら飼っていた。佐久間がそうさせたのであった。今では農場はすっかり森林鳥人のコミュニティに追われており、一周百メートルもないような狭い庭に堕していた。牛も減っており、つがいの一二組を残してはすべてが死に絶えていた。佐久間は酪農で食う道を諦めた。森林鳥人がそうさせた。ああ、佐久間がそうさせたのであった。森林鳥人がそうさせたのであった。佐久間がそうさせたのであった。森林鳥人がそうさせたのであった。





 佐久間と共に暮らしていた私は、そのことがあってから、去年居をわかたった。今もそこで暮らしていた。

 実を言うとソファに寝ては暮らし、テレビをつけっぱなしにして仕事に行き、着るものも食べるものも同じ、ルーティンとなった反復作業をおこなう今の暮らしにすらすっかり飽きていた。なにか変わったことが起きないかとつねづね思索をめぐらしながら日々の工程を済ませるのであった。自分が他の人間よりも一等高尚な考え方をしていると信じ込んでおり、またそれが優れているものだと信じ込んでいた。それに応じた暮らしもできるはずだと思ってやまなかった。しかしそれでも状況は変わらなかった。

 私の通う飴工場ではフロアが工程ごとに分かれていた。そして年齢、性別、一日にできる作業量、人種その他の項目がだいたい似かよった工員をフロアに配分し、作業するものであった。寮と自宅通いを選ぶこともでき、糊口するに精いっぱいの困窮者はそのほとんどが住み込みで働いていた。

 工程ごとに給与の格差が離れているというわけでもなく、工員のすべてが同じような明細をおのおの持っていた。差をつけるのは、ボーナスや年功に応じたわずかばかりの昇給のみであった。

 ただひとつだけ問題があるとすれば、それは私のフロアのフロアリーダーが森林鳥人であることだけであった。かれはその人種をいつわり、上位数パーセントの上級鳥人ですら職にあぶれるその立場をも偽らんとしていた。実際、違法整形の施術を受けたものはほとんど人間と見分けがつかないのであった。そうやって人間社会にたくみに潜り込んでいる鳥人は決して少なくない。この工場ですらそのリーダー以外にもいるはずなのであった。かれらは自分の立場をひた隠しにして、この人間社会で成り上がろうと企んでいるのであった。かれらのさせるままにしていたらすっかりこの堕落した社会はその亀裂を深くし、最後には崩落してしまう。今に鳥人に破壊されるに違いないのであった。

 多くの怠惰な人間はその擬態した鳥人を見分けるすべを持たなかった。ただひとり私だけが気づいていた。

 最初にその萌芽を探し当てたのはつい先週のことであった。リーダーのクロイーは私を事務所に呼びつけ、ある相談を持ちかけてきた。

 「」



………デピントさんからのおたよりです。『いやはや、こんばんは。まさか西さんがさきに為してしまうなんて私は思わなかったです。ええ。あるひとつの命題を決めてから、一番早いのがかれっていうのはまえまえからききはなしていたことではあるんですが、まさかこんなに早いとは。ですがこの話題は筆上に追いきれません。また機会があれば、西さんの歌、聴きたいですねえ。あ、かれがまえ出演したときに話していた、自分の中で大変参考になさったというあの歌をリクエストしたいと思います』

 下のスペースに『林田章成/幽霊農歌〜そこにあるはずのない郷愁がぼくを部屋の隅においやる〜』と書き記されていた。僕はそれを読み上げた。

 「それでは、デピントさんからのリクエスト。林田章成で、幽霊農歌」………………

 曲が始まらない。



 二つのボートと二人の男(世俗から逃れて隠れ湖月に枕する男と陽に焼けた腕をさらして未知なる大海に立ち向かう男のたとえ話)

 海を見ていた。流木のきれぎれ、ペットボトル、菓子を包むアルミの包装紙などが遠く遠く帯になって刺さっている砂浜から続いてきた、荒い石の階段と小道。その先っぽが一段高くなって、海を見渡せる屋根付きテーブルベンチが何個か連なって立っていた。私はそこで、ひとり座り込んで海を眺めていた。陽は無制限に空から降って、もう白砂とは呼べないような、きたならしい緑色の砂浜を、影すら作らず照らしていた。今ちょうど影が逃げていって、ようやく全身を照らしたようだ。上からだとよく見えた。あの陽光は尽きないのだろうか。雲が遮っているときでさえ、見えはしないが続いている。そもそも全部が夜を忘れているだけなんだろう。だからあんなに無責任になれる。無責任に地を照らせる。

 屋根の影が涼しかった。ベンチに横になってみれば、とりとめのない思索がばらばらに浮かんでは消えていく。横を見た。日光が眉間をぎゅうぎゅうちぢめて痛くなった。砂浜遠くに、黄色の海パンだけを身に着けた二つほどの男児が、小さなプラスチックのスコップをしっかと掴んだ腕を上下にパタパタ振りながら、考えより肉体が先に進むような足を出し足を出し進んでいた。かれの腰まである砂山を轢き崩してもなお、その歩みをやめなかった。そのまま見続けていると目がにじんで、かれの姿がぼやけた。男児は私の視界から逃げていって、とうとう見えなくなった。ともすれば砂浜を過ぎ、潮の匂いが染みついた街を過ぎ、駅を過ぎて、その後ろに待ち受けるビル街をも破壊しつくすだろう。かりそめの憩いの場所を破壊する救世主そのものだった。私はその男児に声をかけようと思った。座り直して考え直しもした。幅の広い石階段を見た。男児が勢いそのまま駆け上がってくるのが見える。私は立ち上がって、今に転ぶであろうその小さな体を扶けに走り向かった。





「お姉ちゃんはひとりできてるの」少年はベンチの隣に座って、私が買ってあげたペットボトルのコーラを開けながら、こちらを見ないで言った。

「うん」私はかれの横顔を眺めながらつぶやいた。

「きみは、きみもひとりで」私は続けた。少年はペットボトルの口を自分の口に近づけた。その所作がどうにも尋常のものとは思えなかった。初老の紳士が男児の皮を着ているかのようだった。私は、少年がそのひとくちを飲み下してしまうまで返答を待った。

「うん。海に行きたくなって、抜け出してきた。あの家。お母さんがぼくをいっつも塾へと追いたてるんだ。」

「へえ」

「砂でできたお城を作りたくて、バケツに水とスコップで砂をかき集めてたんだけど、作ってるうちにお山になっちゃったんだ」

「うんうん」次はどんなことを言うのだろうと待ったが、まだ名前すら聞いていないことを思い出した。

「あ、少年くん。名前を聞いてもいいかな」

「ベンセイ。弁舌の弁に、成り立つの成、お姉ちゃんは」

「そうなんだ。私の名前はね、ハラクサ。そのままお腹の漢字と、牧草の草」

「へんな名前」

「きみだって」

 私はそこで奇妙なことに気づいた。さっき遠くに眺めていた少年は二歳を過ぎたばかりのような幼子だったが、今こうして隣に座っている少年をまじまじと見れば、二歳にしては妙に大人びているではないか。ともすれば四五歳の身体のようにも見えた。

 ベンセイはそんな私の視線を察してか、臆せずこう言ってのけた。

「あ、ハラクサさん。僕、そういう視線気づいちゃうんだ。僕のことさっき見てたでしょ、それで、今ここにいる僕が、より年を重ねているように見えて混乱してるんでしょ」

「う……うん」

「僕ね、身体と精神が気分によって変わってくるんだ。そういう体質なの。元気が有り余って、文字通り子供みたいに遊びたいときは、より幼くなる。落ち着いてきたときは少しだけ歳を取る。まあ、だいたい普通の人間にして二歳から十一歳くらいまでなら変われるよ」

「驚いたね」

「ふふ、そうでしょ」

 そこまでいい終えてしまうと、ベンセイは一口しか飲んでいないコーラを机の上に置いて立った。

「もう行くの」私は、自分が少し寂しさを覚えているのに内心どきどきした。

「うん。お姉ちゃんこれ飲んでいいよ。実を言うと喉乾いてなかったんだ。さっき自分で買って飲んだの。あ、ちゃんとゴミ箱に捨てたよ。 あんなことするわけないじゃん」

 ベンセイはゴミのベルト帯へと目を向けながらそう言った。そして、スムースに私の眼前をすり抜けていった。眠たくなる潮の匂いの中に、ミルクのようにたしかに濃い汗の匂いと、まだ開ききってはいないが、その毛穴のひとつひとつから立ち昇る、いつまでも鼻を押し付けて嗅いでいたくなるような、くせになる匂いを嗅ぎ取ることができた。かれのぶしつけに投げ出して振り歩く瞬間の腕の根本の隙間、薄くなった肉とはだえの腋の重なりが、しわをつくっていた。その奥の潮風にわずかに揺れる、柔らかに青く萌える春草すらつぶさに見えた。

 


「ア・ワナ・テイキ・ュー・ハイヤー」

 博士に呼ばれて離れの研究小屋に来たはいいものの、ドアを開けてみれば真暗な空気が占めているばかりで何も見えない。バッテリーが残り少なくなっているので、手伝いをするついでに充電したかった。

 「あの、来ましたけど」

 「ああ、うん……じき日が沈む。それまでに三人分だ。三人分やらにゃならん。何をかって、この間話した大道芸人像の胃袋の表面に本能を削るとかなんとかっていうあれさ、あれをやらにゃ。スイッチをつけたから、ちっとばかし無重力になる。お前の踏むドアのすぐ先は金網の足場になっているから下が見れる。おっと、電気もつけないとな。そら……ついた」

 僕はすでに一歩踏み出していたのであしうらの感触に金網をすぐに感じ取ることができた。ほどなくしてそのあしうらから力が抜けていくようだ。その倦怠感は脚をつたっていき、胸へ首へと占めていく。そして僕の体が宙に浮いたかと思うと、天井の中心へと吸い寄せられていった。この離れの中は、外見よりかなり大きい。僕の発射から十数秒かかって、天井に背中がついていた。真下を見ると目を焼かんばかりの光を放つ巨大な球体が自転していた。

 「ああ、疑似恒星だ。それがないと像は活性化しないからな。起動するときにいつも無重力になるのが不便なんだが、まるで本当に惑星のようだろう。ようだろうとも!」博士は、空を切りながら泳ぐ僕を見て言った。「心配いらない、向こう側、こっち側に着くから。歩く手間がはぶけていいだろう?」

 僕はただわずかに口の中で返答をつぶやくことしかできなかった。「ええ」

 博士側に着いた僕は起き上がれなかった。また不自然に力がかかってまたドア側に突き飛ばされるかもしれなかったから。まだ僕は無重力に慣れていなかった。博士は僕を助けようともしないで、それぞれ三つの台座に精神病棟の患者のようにがっちり固定されている三人のクラウンを見て言った。

 「わかりやすいように像に名前をつけたんだ。向かって右がスライ、真ん中がフレディ、スライとよく似てるだろ? そして左のローズだ。こいつだけは女の子なんだ」

 「博士、すぐ作業なんか終わって出荷してしまうっていうのに、なんで名前なんかつけたんですか? こいつらは養豚場の豚みたいなもんだっていっつも言ってたのに? それに僕には名前をつけないんですね? 博士の世話ロボットだっていうのに?」

 自分でも、びっくりするくらいすらすら文句が出た。博士は、「わかってる。自分でもなんでつけたんだか、気まぐれってやつかな? お前にも名前がほしいならつけてやろう。私はいらないと思ってたんだがな。お前の名前はタイキだ」

 「ええ……ええ、それでいいです」僕はなんてことを言っているのだろう。自分がバカみたいじゃないか? 博士に忠誠を誓うのではなかったか? なぜだ? そもそも僕はなんでここにいるんだ? 一体全体誰に向けられた誓いなんだそれは? 部屋の中心にギラギラ光っている恒星がなければ僕だって指一本動かせないんだぞ?

 「タイキ、動かしてくれ。台座をだ。すぐ処置する」

 台座と、その上に乗っかっているスライを隔てて、僕の向こう側に博士が立った。小さなネームプレートバッヂには、かれのイニシャルが刻まれている。アルファベットは見えなかったし、そもそもどんな名前かも忘れてしまった。別に博士とだけ呼べばいいのだから、名前を覚えなくてもいいわけである。ひとの名前を覚えるのが苦手な僕にとって、召使いという立場は気楽だった。それに満足できるかは別として。

 「うん、そっちだ。階段を降りて恒星の脇に作業台がある。メンテナンスワークベンチと分解用の作業台は別なんだ」博士はあくまでスライの体にのみ気を配らせて言った。

 やっとのことでスライをワークベンチに縛り付けた。かれの体博士の手によって稼働を停止されてはいるものの、恒星によって体内の活性はとめどなく働いている。その開きっぱなしのまぶたはあくまで代謝を続けてはいるものの、瞳は乾ききってひび割れていた。こんな目に見つめられるとき、僕は「冷ややかな視線」とだけ形容するにはあまりに不遜であった。博士の技術を持ってしても、人間の機能をすべてロボットとして代替するにはあと一歩届かなかったとでも言うのだろうか。じゃあなぜ付けた? 他にいくらでもまぶたに代わるロボット的機能を追加できたのではないか? そんな考えがよぎったが、僕は博士の言葉を思い出した。

 「私は性格を持たない人間がほしい。そのために今まで尽力してきた。私はな、人間の機能を全て忠実に再現したロボットがほしいんだ。クラウンの像をいじってそれを売ることは人間ロボットにつながるんだ。お前は何も言わず、性格を持たないロボットとして私の力になってくれればいいんだ。大道芸人像のノウハウとお前のAIがあればそれに近づくんだ。だが今は資金が足りない。私の言っていることがわかったか? そして、余計なことを考えるようになったお前が、どれだけ私の夢の実現の妨げになっているかということも?」





 博士はスライを載せたワークベンチに向かって、作業に取り掛かりながら、僕の方を見ないで言った。『本能を削り出す』とは一体どんな仕事なんだろう。僕は気になったが覗こうとはしなかった。今の博士にとっては、スライ達をいかにさばき切って目標への資金を集めるかが重要だった。

 「お前のAIとクラウン達の技術があれば私は夢を叶えられるんだ。ああ、だが最初は、お前を作った時は、お前は私の命令にのみしたがって動いてくれるものとばかり信じ込んでいた。名前を呼ぶんだったな、マイクだったか?」

 「タイキです」

 「そうだ。タイキ」

 博士はそれきり、黙ってワークベンチに向かって作業を続けていた。僕は『本能』とは何なのかがやはり気になった。

 「あの、博士」スライの部品がかちゃかちゃと擦れ合うのみの、静かな空間を僕の声が破った。

 「うん?」

 「本能を削り出す、ってなんですか?」

 「ああ、スライ達が、擬似臓器を持っているのはわかるだろう? その中の胃の内壁にエングレイブを施すんだ。その模様がかれらに「本能」を生じさせる」

 「本能って?」

 「その名の通り、我ら人間、タイキは違うが、とにかく我ら人間がもともと持っている、目的へ向かう意思のことだよ」

 僕は寝かされているスライを見て、さらに階段の上の工事現場のような足場から見えるフレディとローズにも視線を向けた。かれらは、僕に比べて、人間にずっと近い形をして入るものの、博士が僕に仕込んだプロトタイプ本能のかけらも持っていない。それを思うと、僕は、クラウンに向けた複雑な思いが増していくのを抑えきれそうもなかった。

 例えば、何も知らない人間がクラウンと僕とを見比べたとしよう。かれはまずファースト・インプレッションで、クラウンらの方に近しい感情を抱くだろう。そしてそのうちのひとりに、こう語りかける。「ねえ、お昼何食べた?」スライは答える。「あなたは、今日七月五日の午後十二時十六分にオムライス、オートミールクッキー、そしてコップ一杯の水を摂取しました」かれは返す。「僕のことじゃなくてさ、君は何を食べたんだい?」スライは固まる。数十秒立ってこう答える。「SLY一二二三は今日十二時〇〇分に充電致しました」「ねえ、今何年何月何日何時何分何秒?」「アフター・ミロク暦の十二四一年、七月五日、午後十三時〇一分です」

 僕は本能を持っているという点でスライ達に勝っている。しかし外見はかれらの方が人間に近い。僕はかれらにジェラシーを抱けばいいのか、優越感を抱けばいいのかわからなかった。





 「タイキ、スライの処置が終わった。上に運ぶぞ」「はい」僕はさっきと同じようにスライを載せた台座の一方を抱えて階段を上がっていった。博士は、もう一方を支えながらも、うつむいて思考を続けていたようだ。

 「博士、前を向かないと危ないですよ」

 「うん……うむ……そうだな」

 全く我関せずの様子である。ともかくもスライをもとの位置に戻すことはできた。

 ローズとフレディのふたりにも博士は、同じ処置を施し終わった。油汗を顔に浮かばせていた。博士はワークベンチを離れ、コンピュータデスクの近くに据えてあるソファに大きな音を立てて腰を落ち着けると言った。

 「三人を出荷したら、エングレイブをお前に施す。体にも手を入れて人間とそう変わらないような外見にする」

 僕は前から抱いていたコンプレックスが寛解していくようだった。

 「しかし気をつけてほしいことがある。お前にその手術をしたとしても、私の夢は終わっていないということだ」

 「どういう意味ですか?」

 「お前が性格を持たない人間になれたというわけではないということだ」

 「それがなんだってんですか? 博士のお世話ロボットとして、廃棄を迎えるまでの人生が花開いたんですよ? それが私のために、博士のためにならないってんなら何になるんですか?」

 「落ち着け。タイキ」

 「やっと人間になれるんです。快く迎え入れてくれればいいんじゃないんですか?」

 「落ち着いてくれ。何も嫌なわけじゃあない。それとも今すぐ処置を施してほしいか? 人間の形に寄せた素体も準備してあるんだ」

 「博士がそうしてくれるなら、ぜひ」

 博士が、コンピュータデスクの疑似恒星を停止するレバーに手を掛けたのが見えた。その瞬間に、僕の視界は暗転していき、体中の力が抜け、僕は前のめりに倒れていった。





 この室内にはソファが三つあった。一つは、入ってすぐの充電スペースの近く。二つ目がコンピュータデスクの近く。そして三つ目がワークベンチの近くだった。博士は充電スペースの近くにあるソファに座っていた。

 目を覚ました僕はその隣に座らされていた。

 「お前に言わなければならない話がまだある。まず一つ目だ。お前はもう充電する必要はない。この充電機能は世話ロボットプロトタイプや初期ロットのクラウンロボットにのみ必要なもので、後エングレイブ期では必要ないのだ。スライ達三人は必要だったがな。それが最後の世代だ。じゃあ何を動力にして動くのかという話だが、ああ、詳しい説明は省いて簡単に説明すると、人間と同じだ。食物を食べてそれを動力源にする。しかも変換効率は人間の比じゃあない。九九・九パーセントだ。出力を上げれば空だって飛べるし、山だって崩せる。回路をオミットしてあるがな。必要じゃあないだろう? 必要になるときが来るかはわからないか。あったとしてもお前のその能力が出る幕はないだろう。

 そもそも世話とクラウンの違いを今まで説明していなかったな。これも簡単に説明しよう。世話ロボットはその名の通り人間の世話をする。犬の散歩から、後期高齢者の介護もお手の物さ。クラウンは、これも文字通り、人々の娯楽用だな。機能は完全に世話ロボットとは分けているんだ。私は作っていないが、性風俗用のセクサロイドもクラウンに含まれる。かれらが大道芸人と呼ばれているのは俗称だな。

 胃の表面にエングレイブを施すというのも、あれは人間と同じような胃としての機能を果たしているだけで、そのまんま人間の機能をロボット用にしたわけではない。もともと、そこには腹部のパネルを開けてバッテリーを充電していたんだ。改造後では、食物を入れてエネルギーに変換する機構を搭載した。その証としてエングレイブを施すわけだ。

 二つ目だ。お前にエングレイブを施したはいいものの、まだ完全に私の目指す「性格を持たない人間」になったわけではない。まだ研究途中なんだ。エングレイブも、完全にはその機能のすべてを果たしているというわけではない。また、別で研究していた本能がお前の中で完全に育ったとも言いがたい。実はエングレイブと本能が競合を起こしてお前が動作不能になるんじゃないかと危惧していたんだ。一度にすべて刻み終わったわけではないがな。今いる三人のクラウンを出荷したら研究も終わりに近づく。もう一つ種明かしをしなければならないな。出荷したクラウンたちがどこに行くかわかるか? この研究をかねてから支援してくれている、デムデレエという研究者がいる。かれのもとへ送ったクラウンは、私が合わせて送った製図のもとに特別な処理をしてもらう。デムデレエとは研究を共有していた部分があったし、その処理はかれにしかできないからだ。それが終わったらようやっとお前を完全体にすることができる」

 僕は自分の意識がはっきりと覚めていくのを感じながら話を聴いていた。そして僕は言った。

 「じゃあ僕はまだ博士のもとを離れてはいけないのですね?」

 博士は驚いたような顔をした。

 「離れたいか?」

 「はい。今気づいたんです。クラウンの処理を通すにつれ、博士の手伝いを続けるにつれ、今までの世話を施すにつれ、僕はここにいるべきじゃあないってことに」

 「私がお前にそんな気持ちを起こさせるようなことを少しでも匂わせたか? いや、責めているわけではない。むしろお前が出ていくというのなら、その意志を尊重しようという気さえある。私の信念を達成できるのなら、お前を失っても、私はそれを受け入れよう」

 「博士、僕は……僕は、ここを出ていきたいです。でもどこへ行ったらいいんでしょうか。博士の目的を果たしたら僕はもう必要ないだろうし、今出ていっても、どこか行くあてもありません」

 「お前は世話ロボットなんだから、どこかホスピスにでも入れてもらったらどうかね」

 僕と博士が、途方も無い話を続けているのにいらいらしたのだろうか、あるいは僕をあわれに思ったのだろうか、博士は立ってクラウンに向かった。そして出荷の準備を始めた。

 「手伝います」

 「いや……いい、いいんだ。お前はこれをしなくてもいい」

 「最後になりますから……」

 「いいんだ」

 僕はそれ以上言葉を出せなかった。身じろぎひとつできなかった。

 博士は言った。

 「お前は自由だ」

 その瞬間、研究室のドアが叩かれた。それもかなり激しく何回も叩かれたので、ドアは今にも開きそうに外の光を漏らしていた。

 「誰だろう……私から運ぶから迎えはいらないと言ったはずだが」

 博士は準備をやめて扉へ向かった。

 「デムデレエか? 迎えはいらないぞ!」

 わずかにドアノブを引いた隙間から手が伸びて、むりやり博士ごと押し倒したかと思うと、その男はクラウンの三人が寝かせられているベッドに向かっていった。僕は叫ぶ間もなくかれを止めようとしたが、自分の力がこんなにも無いとは思わなかった。片手で弾き飛ばされそこで意識を失った。





 「タイキ、起きてくれ、タイキ」

 博士の声が聞こえた……。体は動かないが目は覚めた。博士は、顔を上げなかった。ソファに短く腰掛けていた。クラウンはいなかった。そして恒星だけが光っていた。

 「ああ、お前には話していないことばかりだった。デムデレエとはあるときから連絡が途絶えていたんだ。裏切られたんだ。かれの差し金だ。誰にでもわかる。デムデレエは、あいつは、私との共同研究を自分ひとりのものにしようとしたんだ。こんなことになるなら、最初からクラウンの設計図のコピーなんか渡さなきゃよかったんだ。はなから信用なんてしていなかったさ。そして起きちまったんだ。ことが。もう終わりだ。今来た奴は、私とお前を気絶させてからクラウンとエングレイブの製図を全部持っていった。外に何人かいたんだろう」

 「博士。僕が行きます」

 「お前は自由なんだ!」博士は立ち上がって怒鳴った。

 僕は言った。

 「じゃあデムデレエからクラウンと製図を取り返して来ても構いませんね?」

 博士は言った。そしてソファに浅く座ると、うつむいて顔をあげなかった。

 「ああ、もう……、もう勝手にしてくれ」

 僕は背を向けて研究所を出ようとした。すると拘束ベッドから物音がした。クラウンの起動音だった。

 「博士!」

 それはローズだった。スライとフレディが連れ去られていく衝撃に起動したのだろう、ベッドの下にうまく隠れて、やりすごしていた。

 「ローズ!」博士は叫んだ。

 「ローズ、ああ、ああ、すまない、お前にこんなことするつもりじゃあなかったんだ。許してくれ、こんなことになるなんて思ってなかった」

 ローズは博士に介抱されてソファに座った。そして口をひらいた。

 「博士……、大丈夫よ。気にしてないわ。ぜんぜん。きっとなにかの間違いよ。そうであってほしいわ……」

 「ローズ。残念だが悲劇は起きちまったんだ。スライとフレディはもういないんだ。せいぜいデムデレエの実験台にされてしまいにゃスクラップさ。もう、ふたりのことは忘れるんだ」

 僕はまだ諦められなかった。「博士。それは違います。必ず僕が取り返しに行きます」

 「すまない。お前にも……、お前に挨拶すらしてやれないで、すまない。本当にすまない」

 「いいんです。博士の研究のためを思えばこそですから」

 僕は意を決していよいよ出ていこうとした。別れの悲しみにひたっている場合ではなかった。

 ローズが立ち上がった。「あの、お世話ロボットさん。私も行きます」

 「ローズ! やめるんだ。タイキには行かせてやれ……」

 「僕はひとりで行きます」

 「そんなのダメだわ! あたしが兄さんたちを助けに行かないで誰が行くっていうの! タイキ、さん、なにもあなたひとりが全部背負わなくたっていいのよ。なに、私結構体力あるんだから! 大丈夫よ。ふたりを助けに行きましょう」

 博士は、「そこまで言うなら……、タイキ、連れて行ってやりなさい。どうせ研究は中止だ」そう言ってワークショップをあさり始めた。

 そうして僕は研究所を出た。脱出でも、開放でもなかった。僕のなかに、目的と、『本能』が初めて生まれた。





 啖呵を切って出てきたはいいものの、どこに行けばいいかわからなかった。ただ西日に目が痛かった。バッテリーは満タンだった。博士が替えのバッテリーをもたせてくれた。ローズと分け合えて三年は過ごせるくらいだった。

 僕たちはとりあえず歩き出した。ローズが先を行った。

 振り向いて、「タイキ、これからどうするの?」ローズはつぶやくようにして言った。僕はなにも答えられなかった。ローズは、その沈黙を紡ごうと、しばらく喋っていた。

 「はあ、なんでデムデレエの使いは私を連れて行かなかったんだろ。必要なかったのかな。それとも私だけが女性をサンプリングしていたから差別したのかな。あーあ、どうせ女なんて劣ってますよーだ。モルモットにすらなりゃしない。

 あー、デムデレエってさ、博士を羨んでたのかな。それがあまりあまって憎しみに変わったちゃったとか。大体そんな感じじゃあない? そうだ。前博士から聞いたんだけどね。あ、ごめん、そういえばさ、博士の名前知ってる? バブーンっていうんだってさ。バブーン・ヘイズルーフ。デムデレエはね、デムデレエ・アーヒー。博士は自分の名前嫌いだから、私達に博士って呼ぶように言ったの。意外とそういうところあるのよ、博士って。

 それでね、博士とデムデレエは学生の時大親友だったのよ。今とは別の、全然関係ない共同研究をしてて、ときには勝負事まがいの対決とかしちゃってさ、しのぎを削ってたんだって。それでお互いを高めていって、周りの人からみてもあの二人の友情はホンモノだって認められてたの。それが今こんなことになっちゃうなんてね。ありそうな話じゃあない? 崩れるときは一瞬で崩れて、今までの関係とは真逆になってしまう。どこにでもある話よ。珍しいものではないよね。

 博士は、今現在社会に普及しているクラウンを、もう一歩先のステージへと昇華させようとして、学会に論文を提出したの。私達三人兄弟を作るための、タイキという本能を持ち、性格を持たない人間ロボットを作るためのね。それが学会の逆鱗に触れたのね。なんでかは知らないけど。博士は追放されて、兄家族の屋敷の使用人になったの。まあそこで諦めず奮起したことで、離れの研究所を作らせて、そこで研究の続きをするに至ったんだけどね。知ってた? 兄家族との立場は、今は逆転しているそうよ。

 デムデレエといえば、バブーン博士の論文騒動で立場を追われて、ほとんどその権威をなくすにまで至ったの。かれが恨むのも当然ね。誰が悪者だってわけではないんだけど」

 そこまで聞いて、質問したいこと、もっと話させたままで聞きたいことはあったが、僕は引き止めて言った。

 「なんでそんなに博士のことについて、僕たちのことについて知っているの?」

IWTYH設定

 僕を作った博士は兄の家族の母屋の離れに研究所をこしらえさせて、住まわされていた。町で一番大きい母屋は、博士の先祖の大地主の屋敷跡を、そこに住むことになった博士の兄家族がいいように改装したのだという。博士だけは兄家族に追われて離れで暮らしていた。出ていけばいいのにといつも思っていたが、離れの研究所を移転するのがめんどくさいと、いつも返された。博士とその話をするときはいつも、あからさまに不機嫌そうになって、切り上げようとするので、厄介がられていることに対して、いくばくかの後ろめたさは感じていたようだった。しかしそんな生活をしていても、ついぞ資金に困ったことはないと博士が言っていたので、すみかを追われるような仕打ちを受けても、かれはのんびりと暮らしているのだろう。かれの先祖が一代にして築いた財産は、今まさに博士の研究によって食いつぶされんとしていたかのように、僕には思えた。ところが財産は博士の兄家族がすべて管理しており、それを元手にして大金を稼いでいるというのであった。そして博士に、月々にいくらか研究のための資金を提供していたのであった。

 「力の木」が生える森では森林長人のコミュニティが発達した→その子孫が森へと戻ろうとする病気(信じられていたもの)が蔓延→力の木で作ったくびきだけがかれら子孫をその場につなぎとめておける唯一の方法だった。

 クラウンを回収しにチューイのもとから遣わされてきたと騙る集団に抵抗むなしく3人のクラウンが連れ去られてしまう、博士(バブーン博士)は念の為出力の回路のオミットを外し、タイキに3人を連れ戻しに行かせる、謎の集団は3人を各地にばらまき、一人一人が行き着いた土地を支配することを目的としていた、デムデレエ博士(デムデレエ博士)に聞いたところ、集団には覚えがなく、そういえば研究のライバルにチューイと言う男が街のごろつきに徒党を組ませ組合を結成していたはずだと言う情報が聞けたばかりだった

 デムデレエ博士が裏切ってクラウンの人間たる技術を盗もうと送り込む

毒牛はスライの体を改造して牛と合体させた一体を契機として、集団がそれを他の牛に感染させた、感染速度は極めて早く、村の周りに放牧させていた牛の巣全体に感染する

 ある村は毒を持つ牛(人間の持つような歯が生えている、よくゲップをする、すがた形が似ているため便宜をはかって毒牛と呼ばれている、そのげっぷを聞いたりその匂いを嗅いだりするとその毒に感染する)の感染によってその機能を停止していた、ある時訪れた旅人が感染しなかったため、ロボットだということを知らずに奇跡の子とたたえては彼を毒牛の待つ巣へと送り込み、帰ってきたかれが毒牛の性質を持ち帰り感染した疾病が変化し街に感染し、悪化の末に体内の血が増幅して人々は緩やかに浮き、最後には爆発する、街は騒然とするものの、ロボットの愛する人だけには血清を使い、彼女の体が浮いてはいるものの、血の雨が降る中、村から脱出する

 タイキは三人を探しに行くという「目的を手に入れる」、その経験を通して「本能」を手に入れる

バブーン・ヘイズルーフ(Baboon Hazeroof)

デムデレエ・アーヒー(Demdere Arhe)

タイキ2999(Taiki2999)

スライ3002(Sly3002)

フレディ3003(Freddy3003)

ローズ3004(Rose3004)



リリーはあまり頭のできがよくなかった(仮題)

 リリーはあまり頭のできがよくなかった。この前ライライが犬を飼いたいといったときも、じゃあ名前はパスカルにしなきゃあね、といった。ライライはちょうど、昨日行ったパーティーのことで、パスカルという文字がきらいだったので、これには腹を立てた。「ちょっと、パスカルって昨日のパーティーで酔って私を殴ったやつの名前でしょ!? なんでそんなことがいけしゃあしゃあと言えるのかしら」でもリリーは頭のできがよくないので、自分が今しがたパスカルと口に出したことと、昨日のパーティーのことが、関わりを持つようには思えなかった。リリーからすれば昨日のパーティーで騒いでるひとがいたから記憶にのこっていたひとの名前であっただけであった。「どういうこと?」「どういうこともネズミもタラコもないわよ。あたしはパスカルって言葉がきらいなの。今私とってもかわいいワンワンちゃんのことを思い浮かべてたのに、パスカルなんて言葉が頭に入ってきたらいやになるでしょ?」「そうかな」「そうよ」リリーには理解できなかった。

 今日になってリリーは公園まで散歩に行こうと思った。しかし公園までのみちのりを歩き回って、そこで終わってしまうことを「散歩」と考えるのか、公園の、あの青いベンチに座り込んで歩き過ぎていく人びとを小一時間ながめることを散歩と考えるのかわからなかった。なのでそれについてしばらく考えていた。考えているうちに昼が過ぎた。そしてお母さんがご飯と呼んだ。リリーは夕食をとることにした。夕食を食べようと思ったら散歩のことはかき消えた。

 あくる朝学校についたらパスカルがライライに謝っていた。隣の席で聞こえた。「この前のパーティーではごめん。ぼくどうかしてたんだ。その時のこともおぼえてないんだ。いつの間にか朝になってた。友達から聞いたんだ。本当にごめん」「いいわよ。大した傷にもならなかったし」リリーは、自分は今ふたりの会話に入っていないので黙っていようと思った。でもどうしても喉にひっついて離れなかったので、その場の状況にそぐわない変なことをいってしまった。「あのさ、でも、これからパスカルは犬と気が合わないだろうね」教室のみんなは黙っていた。

 私って頭の中にこびりついた言葉のイメージがどうしても離れなくて、そのうちそのことについてそこにいるみんなに共有したくてたまらなくなるんだわ。どうしましょう。考えてもこたえは出なかった。でもその「考えたがこたえが出なかった」ことがどうしても信じられなくて、それでもうなっていた。その実頭の中はまっさらのキャンパスになにも描かれない描こうともされないまま、今考えようとしていることと反対の方向を向いていた。

 放課後になってリリーとライライはふたりで帰っていた。「ねえライライ、もうパスカルって言葉はきらいじゃあないの?」「ないわよ。あ、わたし向こうのアイスクリーム屋さんでクランベリーヨーグルト味買って帰るから。またね」「うん。またね」リリーには理解できなかった。なんで前はきらいだったのに今はきらいじゃあないのだろう? 考えてもわからなかった。

 ある日先生はリリーをひとり職員室に呼ぼうとした。「ドマクワネンさん。話すことがあるので、今日の放課後に職員室まで来てくださいね」「フラー先生、なにを話すの?」「来てからでないと教えられません。とにかく忘れずに来てくださいね」リリーには理解できなかった。なにを話すことがいたからあるというのだろう? 私なにかわるいことしたかしら? ばつがわるい気持ちになって、これからおこられるのではないかという考えだけが頭の中を占めて、それだけで気持ちがわるくなって吐きそうになった。「ねえライライ、私なにかわるいことしたかなあ?」「さあ。知らないわよそんなの。強いていえば空気が読めないこととかかしら」「なにそれ」「私もしらない」

 職員室室の前までやってきたはいいものの、職員室の前の廊下はうす暗く、入りづらい雰囲気がただよっていて、通りがかる生徒を、扉が食べてしまうのではないかという気持ちにさえなった。つまりリリーは入るのが、とてもじゃないが怖くて怖くてできなかった。ちょうどフラー先生が入るところだったので、やっとのことで声をかけて、彼女のデスクまでついていくことができた。もし彼女がすでに職員室に入って仕事の続きをしていたとしたら、リリーは一生入ることができずに、廊下でしばらくまごまごした後に、逃げるように帰っていたことであろう。フラー先生は自分のデスクに掛けた。そして、おそらくはリリーを怖がらせたくなかったのだろう、こちらを見てはいたが、どこか神妙な面持ちで、つぶやくようにしていった。「ドマクワネンさん。今度の日曜日は空いているかしら?」「はい。空いています。フラー先生。でも朝は礼拝があって、午後からは出歩かないようにお母さんから言われてるので、午後はダメです」「そうね……、お母さんにいって礼拝はお休みしなさい。それと、お母さんにもついてきてもらわないといけないの。そのことも含めてお母さんにいってもいいかしら?」「はい。大丈夫です。フラー先生」「実はね、あなたとはなしたいってお医者さんがいるの。大丈夫よ。かんたんな受け答えと、ちょっとしたテストを受けるだけだから。心配しなくてもいいわ。あなたのためを想ってこそ、こんなことをいうのよ。受けてくれるわね?」「はい。わかりました」

 リリーは職員室をあとにした「失礼しました」。ばたん。





 「お母さん。学校から電話きた?」「ええ。来たわよ。日曜日の14時から診察があるって」「診察? はなしてテストを受けるだけじゃあないの?」「そうね……」母はそれ以上なにもいわなかった。そのはなしは、けむに巻かれてうやむやになったまま、土曜日の夕食が済んでしまった。

 お母さんはなんで詳しいことをはなさないのだろう。私は病気なんかじゃないのに。そりゃあ、ほかの人より頭が回らないのはわかるけど。それにしたって、自分のことを個性としてみとめてくれたらよかったのに。なにも病院に行くなんて大ごとにしなくてもいいのに。リリーの心中には、わがままな感情がうまれていた。ちょうど、盲目の人なんかがいだく、自己中心的な感情とおなじだった。決してそれ自体がわるいわけではない。障害を持った人びとが、それと同時にいだいてしかるべき感情であり、個性だった。ただ、リリーの場合は、彼女をとり巻いている、ほとんどの人たちがそれを、わかりやすく差別しているだけのことだった。それも、単純にやっかんで、のけものにするよりも、もっとひどいやり方だった。

 ライライにメールしよう。もう土曜日の午前一時だった。『いったほうがいいのかな それともだだをこねて拒むのがいいのかな』『あなたのことを考えていうけど、いったほうがいいわよ』『そうだよね』『そんなこといってる時点で自分の中で決まってたんじゃない』『うん』……そこで途切れた。もう寝ようと思った。寝ようと思って布団を首までひっぱってみても眠れなかった。あたりまえといえばあたりまえだった。眠れるわけがなかった。目を閉じてみても、胸のざわざわが強くなるばかりでどうしようもなかった。寝返りをうって横を向くと少しだけ涙が流れた。鼻がくすぐったかった。拭うのもわずらわしかった。いつのまにか、それが乾くまでには眠りに落ちることができた。

 土曜日の昼は間違いなく訪れた。服を着て階段を降りると、母は化粧台に向かって丹念に粉をはたいていた。今度は口紅に取り掛かりながら「リリー、行くわよ」と、こちらも見ずに言った。「お母さん。病院に行くだけなのにそんなにメイクする必要あるの?」「その後集まりに向かなきゃならないのよ」「そう…………」「準備終わったの?」「うん、……終わった」「そう。なら行くわよ」





 待合室の空気は薄く感じた。苦しい。他の人は、せわしなくざわざわ動き回っていたし、人と人との椅子の間隔は狭く、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた室内にうごめいている人びとからは、何をしでかすかわからない生理的嫌悪をひどく感じさせられた。いやだ。全部いやだ。隣のキチガイがこっちをみてにやにやしてるのも。退屈で意味のない知能テストと長いアンケートを取られるのも。先生に変な病名をつけられて、眠くなる薬をもらうのも。お母さんがそれを毎夜私に飲ますようにするのも。学校で私の立場が不安定になって、フォームクラス教室でも、移動中の廊下でも、誰とも話せなくなって、距離が離れていくのも。全部が予想できる。それが全てなんだ。私の一人生に突然にそびえる絶壁なんだ。逃げ出さなきゃ。リリーはズボンのポケットから携帯をのぞかせて時間を見た。十三時三十分をわずかに過ぎたばかりだった。受付の時間まではあと十分は掛かりそうだった。逃げ出したい。長椅子を立って、トイレに行くと母に言う。そして、見られていないうちに入り口のドアから逃げ出す。一度そのことを考えてしまったら脳内はそれが占めるばかりで、他のことはもうすっかり考えられなくなった。

「お母さん、ちょっとお腹が痛いから、トイレ行ってくるね」

 早口でそう言い終わらないうちにきびすを返してトイレに向かった。一二分経ってから周りを見回して外に出た。

 それからは焦りと開放感にかられながら道路を走り抜けた。私みたいな子供が、ひとりでそこらを歩き回っていたら誰かに声をかけられて連れて行かれるかもしれない。どうしよう。どこに行けばいいんだろう。なにもわからなかったがそれでも走り続けていた。

 そうだ。ライライは? ライライに連絡しよう。もうあの子しか頼れる人はいない。携帯のバッテリーも残りわずかしかない。誰もが私を追い詰めて、さいなんで来るような気がして、路地の陰に隠れてライライに電話を掛けた。応答が来るまでの時間が永遠にも感じた。

「もしもし? リリー? どうしたの?」

「ライライ、ねえ、ライライ、助けて。今病院から抜け出してきて、お母さんが追いかけに来るかもしれないから。助けて」

「だ……、大丈夫よ。リリー。まず……まず落ち着いて。今あなたがどんな状況にあるかわからないけど、まず深呼吸して。息を吸って。大丈夫よ。私がついてるわ」

 少し安心したのか、リリーはその小さい肺にいっぱいの空気を取り込もうと息を吸った。呼吸が苦しくてなかなかうまくはいかなかったがなんとか吐けた。

「う……、うん。はあ、はあ。ライライ、た、助けて。今すぐ迎えに来てほしいの。お願い!」

 リリーは半狂乱になって叫ぶように言った。

「あー……、えと、わかったわ。私もあなたに何ができるかわからないけど、説明は後でいいわ。今どこにいるの?」

 リリーは裏路地から身を出して、辺りを見回した。多くの人が青い顔をして、靴をめいっぱい鳴らして早足で行き交っていた。その誰もが気難しそうな額をくちゃくちゃにしかめて……、人じゃない。建物だ。建物を見るんだ。そうだ。ここには昔来たことがあった。大きな飴屋さんがあるところ。アクリル板越しに、たくさんの色彩の、スライムみたいな飴のかたまりを手で捏ねたり、それを伸ばしては、ぎらぎら光る金属のへらでサクサク切り分けたり、店員さんたちはそれをリズミカルにこなしながら、大きな声で歌なんか歌ってたっけ。それがゆえもしれず怖くて、お母さんの服の端を掴んで、お母さんのうしろに隠れてたんだ。

 リリーはやっとのことで呼吸を落ち着けて、それでいてやっとのことで落ち着きを取り戻しながら言った。それでもまだ心臓は打っていたし、舌はもつれて、喉は乾ききっていた。

「ええと、えーと、あの、大きな飴屋さんがあるところ。看板が赤と緑の。わかる? 行ったことある?」

「赤と緑の飴屋さん? あの……、ええと……、ああ! もしかしてパパ・ストーン・ドーム? それなら私も行ったことあるわ。ジャン=ピエール・モッキーのサウンドトラックとか、エルヴィス・プレスリーとかポール・アンカのクリスマスのレコードとかがずっと流れてて、店員さんがそれに合わせて歌ってるんだよね。うん。わかった。今すぐ行くわ。だから落ち着いて、そこで待っててね」

「うん。待ってるね」

 そう言って、リリーは電話を切った。

 周りの人たちが、リリーのことをいちいち見ているかどうかなどは知らないが、こうして所在なさげにたたずんでいる子供を見れば、すぐに家出してきたか、あるいは、なにかから逃げているのかして、まごまごしている子供であるということはすぐに判断がつくだろう。リリーも、少数の、「わるい考え」を持った大人が、想像もしたくないほどおぞましいやり方で自分のことをおとしいれるだろうことは、すぐに予想がついた。だが、リリーは考えた。私だってもう十七だ。もう子供扱いされるような年齢でもないし、もしもの時はしかるべき手段で自衛する覚悟もできている。それに、今日は休日だ。私みたいなそのへんのガキが、外をほっつき歩いて、遊びに出かけるなんて、この街では少しも不思議ではない。だから堂々としていれば誰からも怪しく思われない。

 だから、とりあえず、パパ・ストーン・ドームの中に入ろう。あそこはもちろん飴を売ってはいるが、簡単なカフェだって経営しているじゃあないか。席に座ってコーヒーの一つでも頼んで待っていればいいんだ。ああ彼女は休日の午後にちょっと休憩しに来ただけなんだな。誰もがそう思って疑わないはずだ。

 店内は冷房がきいていて、寒いくらいだった。だがライライが来てくれるという安心感と、少なくとも外からは見つからないだろうことを考え合わせると、いくらか気が楽になった。ここでは、思い出の飴の味を楽しみに来ている壮年の紳士も、テラス席で新聞をめくっていたし、昔の私みたいな幼い子供だって、みんなにとって一番暇な時間である土曜日の倦怠感が満たしている店内の空気を鋭敏に感じ取ってむずがり、今にも泣き出しそうにしていた。

 カフェブースの受付近くの店員に近づいて、私は座るんだという意志をほのめかせていると、店員は素早く対応した。

 「こちらの席へどうぞ」

 なるべく奥の席に座ろうと思った。それと、できるだけ窓から離れた席へ。私は席のことと同時に、あともう少しのところで忘れてしまいそうだった条件を付け加えた。

 「すみません。なるべく奥の席の方で、窓から離れたところでお願いします。それと、あの、あとから友達がもうひとり来ますので、私の席に案内してください」

 店員は気にする素振りも見せずに応対した。一連の流れは双方の目を合わせずに、かつスムーズに進んだ。そのほうが幾分ましだったが。だが、案内するまでに、私より少し年上らしい男の店員はペラペラ喋り通していた。暇だったんだろう。誰にとってもこんなに残酷なことなんてないのに。

 「かしこまりました。お友達が来るんだね。うちのキャンディは格別だよ。スーパーに売ってるような、甘ったるくて歯が折れそうな工業製品のオイルじみたジョー・ブレイカーなんか目じゃないさ。誰もがうちのペパーミント味を求めにくるんだよ。あんまり好きじゃないかな? でもパパ・ストーン・ドームのキャンディは一味違うよ。そうだ。今月のおすすめはね、郊外にあるコナーズ農場で取れた、新鮮な無農薬ボイセンベリーを使ったロータス・バンデリーリョなんだ。注文が決まったらボタンを押してくれよ」

 「あ、じゃあ、アイスコーヒーひとつ」

 「友達の分もいるかい?」

 「ええ、はい。お願いします」

 「オーケー。それじゃあ、アイスコーヒーが二つだね」

 俗っぽい話し方も、そのうっとうしいまでの修飾だらけの舌上には、心底うんざりした。どうせ何も考えてないやつが書いたマニュアルを伝えられて、何も考えてないやつが反射で様々なことを話しているに過ぎないんだ。だいたいなんだ。ボイセンベリーを使ってるのにロータスが味の名前に入ってくるだろうか? 子供のときはこの店のほとんどが謎に包まれていて、私はその謎たる未知に恐怖していたんだろうけど、今になってしてみればこんなに単純明快で吐き気のするものはない。

 ライライは三十分もあればつくだろう。手を付けていない、グラスに汗をかいてすっかりぬるくなってしまったコーヒーを眺めながら、BGMを聞いているにも少し飽きがきていた。

 BGMはすっかり様変わりしていて、外装の、季節外れのクリスマスカラーには似ても似つかないような、それでいて、愚にもつかない音楽が流れていた。これだって工業製品じゃあないか。なんだっけ……ええと、そうだ。マック・デマーコの、『グッバイ・ウィーケンド』。店員たちは、もはや歌ってすらいなかった。さすがに五十年代から七十年代のクリスマスレコードを流して、狂ったように皓歌を繰り返すのにも限界がきたのかもしれない。

 ―――――ボク自身の人生をどんなふうにねじ曲げるか、ボクに言わないでくれ……

      ボク自身の人生だから……

      ときどきイヤになるけど、控えめに言ってボクは元気だって言えるよ……

      ボクの人生で嫌なことがあったとしても、キミが口を出す権利なんてないんだ。

      ハニー、時間を無駄にしていることに気づきなよ、……―――――

 なんだ。今の私の状況にぴったり同じじゃあないか。結局私も、この街を取り巻く俗っぽい事物から抜け出せないんだ。抑圧への反発を常に抱いていることも、俗っぽい精神性から逃げ出すところのないじゃあないか。そうやって嫌になることそのものが俗じゃあないか。子供っぽい考えの、とりとめもなく巡らせるにも程度があるじゃあないか!

 思索に集中していた。気づくと曲は変わっていた。ロディ・フレイムの『サーフ』。曲を追いかけているのにももう飽きたので、それ以上は耳には入ってこなかった。

 窓に目をやった。一人の女の子がひどくあせった様子でかけてくるのが見えた。ライライだ。私は立ってかけよるにもなんだかばつがわるい気がして、どぎまぎしながら椅子に浅くかけていた。

 ライライは店内に入り、ごく簡単そうに店員と何語か交わすと、私をみとめて歩み寄った。

 「リリー。ごめんね! 遅くなっちゃって」

 「うん。大丈夫。そんなに待ってなかったから。呼んだ私も私だから……」

 「そんなことないよ。勇気を出して逃げてきてくれたんだね。私リリーの様子が前からすこしおかしかったの気づいてたのよ。いつかあふれちゃうんじゃないかって」

リリー設定

 リリト(主人公。頭が弱い)

ライライ(リリトの親友。リリトの頭のできがよくないのを理解して個性のひとつとして認めている)

パスカル(ふたりと同じクラス。ライライのことが好き)

フラー先生(リリトのクラスの担任。他の子達よりおくれているリリトを心配している)

アーヒー先生(学校付属病院の精神科の医師兼カウンセラー)、日本に逃げる

 日本に着いて、空港を出た時に初めて感じた、奇妙な匂い(農場を経営していた生家で過ごしたときに毎日嗅いでいた、肥料が発酵した匂いと、日本料理店で嗅いだことのある、醤油が指についた時の匂いが混ざった)を嗅ぐ、(龍神信仰の新興宗教)、独身の男性に匿われる


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