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浪漫談義  作者: 海室
9/11

個と群を結びつける楔のこと

 国家、民族、宗教、それらが形成する社会。現代を生きる人間のうちで、これらのいずれにも属さないものはない。国家を追われ放浪を続ける民族も数多存在するが、彼らは無論出自たる民族社会が存在し、そして信仰する神の存在がある。これは人類誕生から幾万年経過し、人類が合理的に生きるうえで形成された叡智であり、また社会性動物たる人類が、『群れ』を人類らしく言い換えた概念でもあろう。

 ドラゴンは先祖たる爬虫類の性質を色濃く残しており、本来は群れる動物ではない。彼らが信仰する宗教もまた存在しない。現代の人間社会に迎合する彼らは、その合理性故に群生を選んでいるが、傍から見ればただ一か所に集まっているだけのように見えおよそ群生を成しえているように見えないというのが人類の観点である。しかしそんな彼らでも、出征地域ごとに品種が分かれており、それが人類における人種の役割を果たしている。

 人間においても、ドラゴンにおいても属目が存在する。しかしそれを本質的に失わずとも、実質的に失ってしまったものは一体どうなるのであろうか。



 年を越し、あっという間に数週間の一月の中旬。冬将軍が本領発揮と言わんばかりに猛威を振るう東京都は江戸川区葛西の街の片隅のアパートで、本日も一人の人間と一頭のドラゴンは怠惰を貪っていた。

 土曜日の朝十時、本日の最低気温が氷点下になることを伝える点けっぱなしのテレビの音声に交じり、バイクのエンジン音が遠ざかっていく。ベッドの上で布団を被ったままスマートフォンを眺める榎本武士は、小さくなったエンジン音の進行方向に視線を向けた。視界に入ったのは部屋の白壁だけだった。

 エンジン音が消えると同時に、玄関扉が閉まる音が響いた。居間に同居人であるドラゴンの逢川綾が右手に持った封筒に朱い瞳を落としながら入ってくる。

「鍵締めろよ」

「いやすぐ出るし」

 武士の一言に綾は封筒に目を落としたまま答えた。

「アヤ宛て?」

「いや、タケと連名。国際便。開けていい?」

 武士は綾に向けて布団から出した左手を振って開けるように促してみせた。綾はそれを視認すると、赤と青のストライプで縁取られている封筒の頭を破り始めた。

「つか先ず誰からよ? 俺宛に国際便なんか来ないと思うけど」

「過去に台湾から小包が届いたことはあったと思うけどね」

 綾はそう言いながら破りかけの封筒を裏返し、差出人を確認した。

「中川先輩だ」

「中川? あー」

 武士はスマートフォンの側面のボタンを押下しスリープモードに切り替え、布団を被ったまま視線を天井に向けた。視界に入ってきたのはやはり白い天井だった。

「アヤの大学の先輩」

「そうそう」

「で、台湾から?」

「違うよ。あの人アメリカに行ってたんだもん」

 台湾じゃねえのかと呟く武士を尻目に、綾は紅い瞳を部屋の左端に向ける。武士が台湾の通販で購入した漫画が入っていた繁体字の印字された箱がつぶされることなく転がっていた。

「中川さんって、俺がアヤと一緒に少し飲んだだけの人じゃん。なんで連名なの」

 武士は布団からはい出し、眼鏡をかけていない目を細めて綾の手の封筒を凝視する。乱視の武士のぼやけた視界にうっすらと英字が見て取れた。正真正銘アメリカからの郵便物らしい。

「ま、中身見りゃわかるでしょ」

 綾は二枚程度と思しき折られた紙を大きな手ながら器用に封筒から取り出し、破り終えた封筒はこたつテーブルに放り投げた。内容物がまだあるのか、空中に舞うことなくゆっくり卓上に着地する。

「飲みの誘いかねえ」

「まさか、アメリカから……」

 そう相槌を打ちながら紙面の文字を左右に動きながら追う綾の朱い二重の大きな瞳が、言葉とともにぴたりと止まった。

「これ、遺書だ」

「は?」

「中川先輩、自殺しちゃった」

 綾の一言に、ただでさえ寒い部屋が寒さを増した。



 中川は京都府生まれの色黒の痩せた人間の男だった。武士が綾の紹介で出会ったのは四年ほど前、インターカレッジサークルの会合でだった。細い髪は痛んでボサボサで、目の下に隈をたたえたその姿は、一年の浪人生活を終えたため綾と武士より二つ年上で、ひとつ上の学年であったことを差し引いても、非常に年を取って見えた。

 陰険な人だな、というのが武士の第一印象だった。しかしいざ発言してみると、関西訛りのその声は大きくはないものの張りはあり、比較的饒舌ではあった。声だけ聞いていると、武士が高校生時代に懇意にしていた野球部員を想わせた。綾とは親し気で、綾と会話をしているときはとりわけ饒舌で、より声に張りがあった。

「この後飲みに行けへん? 僕と、逢川さんと榎本君で」

 綾と懇意にしていた武士は、自然に中川とも懇意になった。見た目の陰険さは第一印象のみで、その関西弁もあってか少ない会話で武士もすぐに打ち解けた仲になれた。

「他は誘います?」

「ええねん、さんにんで」

 中川はそう言って武士ににかっと歯を見せた。色黒の肌と対照的に歯並びがよく白い歯は、健康的で輝いて見えた。

 サークル活動が終わった後、さんにんで目的の安居酒屋を目指した。今回の会合は綾の大学のキャンパスで行われた。都心から離れたその町は、まだそこまで暗くなっていない蒸し暑い七月の18時でも閑散としており、非常に時間が経過していたものではないかと錯覚させた。

 街の閑散度合いから予想通り、飛び込んだ全国チェーンの居酒屋は数分の待ち時間もなくすんなり席に通された。襖が立てられ、簡易的な個室化した座敷席の座布団に腰を落ち着けると、お通しの枝豆を持ってきたアルバイトの人間の女性店員に、武士は人数分のビールと灰皿を頼んだ。

「あ、灰皿もう一つで」

 テーブルをはさんだ向こう側から中川は右手を小さく挙げて付け加えた。

「煙草吸うんですね」

 綾はスマートフォンを机の上に置きながら言う。

「逢川さんの前では吸ゥたことあらへんからなあ」

 中川も綾に倣って、ネイビーブルーのスマートフォンと日章旗のように真っ赤な丸があしらわれたアメリカ産の煙草をテーブルの上に並べて置いた。

「吸わなきゃやってられませんよね」

「大学生の身分でこれやもんなあ。しゃーない」

 中川は苦笑しながら武士の一言に返答した。

「現時点でこれやのに、社会とやらに出たらえらい目に遭ってまうなあ……と、あんまり湿っぽい話は抜きにして、湿度上げるならアルコールも入ってた方がええやろ」

 中川が左手親指を立てて手を左に傾けてみせる。彼のクセであった。それを合図にしたかのように、先ほどの女性店員が人数分のビールジョッキを持って現れた。大学近郊の店にしては他に客が少ないらしく、待ち時間もほとんどなかった。

「ほな、乾杯しょうか」

 全員の目の前にジョッキが置かれたことを確認すると、中川は微笑をたたえつつそういった。それを合図にさんにんはジョッキを持ち上げて静かにかち合わせ、夏の暑さに乾いた喉に冷えたビールを一息に流し込んだ。

「そういえばサークルの飲み会もこのあとあったらしいじゃないですか。そっちじゃダメだったんですか」

 一息に飲み終えた武士が口を開く。中川は武士を見ると、半分ほどビールの残ったジョッキをテーブルに置いた。

「騒がしいのニガテやねん」

「それはアタシも同意見。十人以上で飲んだら会話らしい会話もできないったら。大所帯の飲み会が嫌いなわけじゃないんだけども」

 武士の隣から、同じく一息にビールを飲み終えた綾がお通しの枝豆を咀嚼しながら答えた。

「関西の方って、結構騒がしいの好きなイメージでしたけど」

 武士も同様に枝豆を口に放り込みながら言った。綾の大学は大規模でかつ知名度も高い国立大学で、全国単位の受験者も多い。一方で武士は単科私立大学で西日本の人間はほとんど見ない。修学旅行で京都に一度行ったきりで近畿圏とは縁がない武士にとって、関西弁話者はテレビに登壇する芸人のような者が多いイメージを勝手に抱いていた。

「関西も人多いで。まあそら東京には劣るけどな。せやからみんながみんな芸人ちゃうし、阪神ファンでもないんや」

 大阪モンは知らんけどなと中川は一笑しながら、咥えた煙草に着火した。

「すみません。偏見でしたね」

「しゃーない。そういうもんやで」

 中川は苦笑しながら紫煙を天井に吹き上げた。

「しかし榎本君も騒がしいのは苦手やろ?」

 中川の質問に武士はそうですね、と相槌を打った。

「静かにふたりで飲むことも多いしね」

 綾は枝豆を食べ終え、メニュー表を見ながら次に注文するものを探しながら言った。

「じゃあ僕の見込み通りやな。今夜はゆっくり静かに過ごそうや」

 陰キャラ同士でなと付け加えた中川に、武士は笑ってみせた。それを遮るように綾がたこわさとポテトフライとエイヒレかなと言った。



 アルコールが血中に回るのと同時に、さんにんはとりとめのない話で盛り上がった。大学の専攻や最近読んだ本の感想、故郷の話や家族、友人の話など。

「かなわんなあ。お酒弱ゥて……」

 中川は話の途中に何度かそうつぶやいた。実際その通りで三杯目のビールで浅黒い顔はほんのり赤く火照っていた。

「俺もそこまで強くないです。対するアヤは強いし食うのって」

 そう言って隣に座る綾に目を向けると、日本酒のとっくりを三本開けて焼きそばを独り占めしている綾が咀嚼を続けながらぼんやりと部屋の明かりを見上げていた。

「本題に移らない」

 綾は咀嚼していたものを嚥下すると橙の灯を見上げながらつぶやくように言った。

「このくらいのとりとめのない話なら、騒がしい中でもできるでしょう。なんかアタシらに伝えたいことがあるんじゃないですか?」

 綾はそう言いながら、まっすぐと紅の瞳を中川に投げかけた。赤ら顔の中川の顔から微笑が消える。

「逢川さん、鋭いやろ?」

「俺の前では鉛のようににぶちんですよ」

「先輩がわかりやすいだけですよ。それにドラゴンって概してこんなもんだよ」

 綾がそう言いながらカシスオレンジをぐいと飲むのを見ながら、武士は煙草を咥えて着火した。橙の灯に向かって白い煙が細く舞い上がるのを見ながら、そういえば中川は酒に酔いつつも自分のことの核心に触れていないのはもとより、友人や家族の話も全くしていないのでは、と、酔った頭で考えた。

「せやな、そろそろ本題入ろか。あんまり長居しても榎本君帰られへんなるし」

「明日講義ないんで、終電なくなったらアヤの家に泊まりますよ」

 ドラゴンの友達は性別気にせんでええなと言いながら、中川は着ている灰色のポロシャツの襟を両手で引っ張りながら言った。

「僕ゥ、卒業したら海外に出よう思うとるねん」

 いいですね、と、武士は付け加えた。中川の大学での専攻は英米文学で、ニューヨークへの留学経験もあるらしい。綾をしてかなり流暢な英語を話すとのことで、海外就職も妥当なのだろうと武士は思った。

「まあさっきは言いそびれたけども、僕家族仲あんまりよくもないし、お察し通り友達も多くなくてなあ」

 綾の家は家族仲がよくない。かくいう武士も胸を張ってよいと言える関係は築けていない。また綾にしても武士にしても、お互いを除き深く関わる友人もそう沢山いない。先ほどは酒の勢いにかまけて一方的に武士が愚痴のように語ったが、現代を生きる人間もドラゴンも概してそういうものだろうと考えた。

「親元離れてまあ楽にはなりましたよね」

「せやけど友達おらんのは辛い」

 中川はいつの間にか着火していた煙草を口元から離し、ふうっと紫煙を巻き上げた。武士もそれに倣った。

「ところで君ら、宗教ってどう思う?」

 話の一貫性のなさに、武士と綾は顔を見合わせた。綾は今度は炒飯を自身のもとに手繰り寄せて、それを独り占めしていたようで口元にご飯粒を付けたまま咀嚼していた。

「酒に酔ってるんですか」

「あの、宗教勧誘は結構ですので」

「いや、ちゃうねん。酒には酔っとるけど宗教勧誘ではない」

 中川は少し慌てた様子で、両手を胸の前で小さく振りながら武士と綾の同時の順番の発言を制して見せた。

「僕以上にできのええ弟がおってなァ、対する僕は高校も地元一番のええとこ行ったけど落ちぶれてなア。学校にも家にも居場所なかったんや。いっつも独りぼっちやったんや、僕」

 中川は口から離した煙草が細い煙を上げるのをぼんやりと眺めながら言った。

「そんな僕の居場所は、近所の神社やってなあ」

 中川はそう言いながらポロシャツの胸ポケットから、お守りを取り出した。紫の布には中川が生まれ育ったであろう町名を冠した稲荷神社の名前が縫い込まれていた。

「僕の友達は、家族は、神様やってんなアとここまで来て思うわけや」

 武士は煙草を灰皿に押し付けた。綾は相変わらず炒飯を咀嚼し続けている。

「君らはなんで東京へ?」

「家から近いけど、通える距離じゃなかったから」

 炒飯を嚥下した綾が即答する。武士は灰皿の上でもみ消されて曲がった吸い殻を見ながら少し考え「俺もそうですかね」と、答えた。

「僕は逃げなんや。京都に精神的にいれなかったからやな。そんで逃げてきた東京でも、やっぱり居場所がないんやと悟ったんや。また、逃げるんやな」

 逃げてばっかりやな、僕。と、中川は苦笑した。

「いや逃げじゃないでしょ。立派な選択肢の一つだと思いますよ。ここまで来るのにも、ここから先に行くのにも、中川さんは努力したし、努力続けるはずです。新天地を求めて動くのはいいことだと思いますよ」

 武士は中川をまっすぐ見据えて一息に言った。

「いいんじゃないですか。逃げても。水のないところでは魚は生きられないわけですし。水のある所に行くわけでしょ。先ず生きることが生命体にとって肝要ですよ」

 綾はテーブルの真ん中に鎮座していたミートスパゲッティを引き寄せながら言った。武士と綾の顔を交互に見た中川は、赤ら顔に微笑をたたえた。

「逃げても逃げても、僕は自分の育った街を、境遇を忘れたくない。宗教の使い方として間違ってるかもやけど、このお稲荷さんのお守りが僕と地元を紐づけるライフラインなんやと思ってる。これが僕にとっての宗教なんや」

 中川は稲荷神社のお守りを橙の灯に掲げながら言った。どこか、夢を見ているように見えた。

「命綱ってやつですか」

「まあ、せやな」

 中川の返答を聞いて、武士は氷の解けて味の薄くなったハイボールを一口煽った。

「宗教は」

 綾がスパゲッティを嚥下して、ミートソースで赤く染まった突き出した口を開く。

「人間が安寧を求めるために作り出した社会規範の一つですから、先輩のその考え方は間違いではないと思いますよ。現に安寧してるわけでしょう。アタシはドラゴンなんでよくわかんないんですけど」

「イスラム教徒もどこにいてもモスクの方向いてお祈りするしな」

 武士はそう言いながら、再びハイボールを啜った。ハイボールはほとんど水の味しかしなかった。

「肯定してもらいたかったんかなァ……僕ゥ……」

 中川は灰皿の上で相変わらず細い紫煙を上げる煙草をぼんやり見つめながらつぶやくように言った。

「思った事言っただけですよ」

 綾はフォークでスパゲティを巻きながら同じく呟くように言った。

「ツレないなあ逢川さんは。でもおおきになァ……」

 中川はそう言うと、にかっと白い歯を見せて笑ってみせた。前歯には先ほどエイヒレのマヨネーズにかけた七味唐辛子が付着していた。そして中川は再び稲荷神社のお守りを頭上のぼんやりとした灯に掲げて見せた。紫色の生地に金色の糸で縫い込まれた神社の名前が光を鈍く反射し、輝いて見えた。

 さんにんのとりとめのない会話は時間が許さずとも続いた。すっかり時間を経た閑散とした夜の街から、薄暗い住宅街へ向かっていく千鳥足の中川の背中はしかし孤独に見えた。武士は終電を逃し、綾のアパートに一晩御厄介になった。蒸し暑い、三年ほど前の七月の出来事であった。



「中川先輩な、二週間前に亡くなったんやで」

 こたつテーブルの上に置かれた綾のワインレッドのスマートホンがしゃがれた関西弁を発した。画面にはでかでかと白い文字で『ホリ』と表示されていた。綾の大学時代の同期で、中川の地元の後輩だ。武士ともインターカレッジのつながりで比較的懇意にしていた間柄だった。

 卒業後地元の京都で就職し、働くホリのもとに中川の訃報が届いたのは今日から数日前だったという。それも風のうわさであった。       

小中学生時代はいじめられっ子で、そのトラウマか高校でもホリの他人付き合いらしい人付き合いがなかった中川は、すっかり地元との縁が切れてしまっていたらしい。

 そしていつぞやの酒の席で中川が漏らした通り、家族仲は相当悪く、中川は勘当状態だったとのことだった。

 ホリをしてこれも風のうわさであるが、中川の遺体は日本に戻ることなくアメリカで荼毘に付され、無縁仏となり海へと散っていったらしい。

「噂話やから尾ひれついてセンセーショナルになってもーてるけども、まあ先輩は少なくとも京都には帰ってこれてへんやろな」

 ホリは電話越しでささやくように言うと、小さく鼻を啜った。

「海に流されたなら、海流伝いで日本に戻れるんじゃないの?」

「俺らの地元の京田辺は内陸市や」

 ホリの即答に、綾はスマホを挟んで隣に座る武士の顔を無表情で見上げた。

「じゃあこの稲荷神社のお守りは、先輩が代わりに返しておいてくれって俺らに託したわけか」

 武士はスマートフォンに並べられている中川のお守りを見ながらつぶやいた。お守りは初めて見たときよりもくたびれており、白い紐は黒く薄汚れ、紫色の生地もくたびれていた。

「そのお稲荷さんなら俺の家からほど近いところにあるわ。郵送してくれたら俺が代わりに返納しとくけど?」

「ああ、うん、じゃあお願い……」

「いや、待って」

 ホリの提案に綾が即答しようとすると、武士が左腕を遮るように綾の前に出した。

「俺らに昔そういう話して、こうやってお守り最後に送ってくれたのも、中川さんに最後に託されたお願いなのかもしれない」

 武士の一言に相槌を打つように、電話越しのホリが鼻を啜った。

「俺らが中川さんを京都に連れ帰るよ」

 電話越しのホリがもう一度鼻を啜り、うんうんと呟いた。

「せやな、失言やったな。付き合い長い俺にもそんな話してくれへんかったし、郵便事故に近い形でも長旅を経て君らのところに届いた中川先輩の命綱や。先輩の、最後の執念みたいな感じやったんちゃうかな」

 武士はホリのそんな一言を聞きながら、綾の方に目をやった。綾も武士を見つめていたらしく、頬杖をついた彼女の紅の瞳と視線が交じった。

「アヤ、いいよな」

「アタシドラゴンだからそういうのよくわからないけども、中川先輩の頼みとあらば……」

 綾は瞳を閉じて静かにそう返した。出不精の綾はとにかく長距離の外出を避けたがる習性があるが、即一念発起したあたり武士の知らない範囲で中川に世話になったのだろう。

「中川先輩を京都に連れてかえったげて」

 ホリのしゃがれた声は、若干涙声が混じっていた。

「京都に来たら連絡頂戴。久々に君らと会いたなった」

「中川さんの話をしようか」

「じゃあ京都で」

 武士と綾の交互の応答に、ホリは返答するように鼻を啜ると一方的に電話を切った。

「花粉にしては早いかな」

 綾はスマートフォンの側面のスイッチを押してスリープモードに切り替えながらつぶやいた。

「違うよ。ホリは泣いてたんだよ」

 武士は綾と視線を交わさず、まっすぐ玄関口を見ながら言った。綾はふうんと鼻を鳴らした。

「友達はいない、つながりはないみたいなことをさんざん言ってたけど、涙を流してくれる人はいたんだね」

「案外美人薄命ってやつだったのかもしれない」

 武士は中川のお守りを右手に握りしめながら言った。



 午前14時に東京を経った東海道新幹線のぞみ号は、二時間後には早くも愛知県を抜けて滋賀県内を疾走していた。車両の先頭に位置している電光板が、米原駅を通過した旨のテロップを流した。名古屋を過ぎてからというものの、車窓から流れる景色は一面の田園風景だった。雲ひとつない快晴の冬空も、16時を過ぎると西日に輝いてきていた。青空に輝く西日は遮るもののない田園風景を見下ろしながら、新幹線内に陽光を差し込み続けた。

 車窓側の席に座った綾は、物憂げな瞳を500ml缶を挟んだ車窓の向こう側の田園風景に向けていた。背中の一対の巨大な翼と、尻から伸びる太い尻尾が邪魔なのか、尻尾を背後に回して前に傾くように着席する綾は、人間と比べて大柄であることもあってかなり窮屈そうであった。

「田んぼなんか見てて面白くないでしょ。地元帰ったら見れるもんだし」

「アタシの地元、山間で棚田だからこのあたりのそれとは違った風景だけどね」

 武士の一言に、綾は窓を流れる風景に目をやったまま答えた。

「それよか遺書の方が面白くないでしょ」

「遺書を面白いなんて言うやつの気が知れんな」

 武士はそう言いながら手に持った中川の手紙を眺めながら言った。

 中川の手紙、もとい遺書はB5のコピー用紙二枚つづりだった。中川の書く字は細かく、存外達筆だった。武士はそれを見ながら小学生時代の女子クラスメイトのノートをぼんやり思い出していた。

 内容は世間への絶望などの後ろめいた内容ではなく、卒業式で代表が答辞として読むような前向きな内容が美麗な表現でもったいぶって長々とつづってあり、文面から一抹の寂しさと不安と同時に自身が旅立つ黄泉の国への希望を見出すことがくみ取ることができた。

 表現技法に中川の教養の高さを伺いつつも、ところどころに記載されていた自身らへの謝罪のような内容に彼の人柄の穏やかさと後悔をも見出すことができた。

「そんだけの文章書ける頭があったのに、周囲に助力を求めるっていう基本的なことは思いつかなかったんだね」

 水臭いね、と言いながら綾は車窓を眺めながらビールを一口含んだ。

「人間は追い込まれるとこんなもんだよ」

「弱いね、人間は」

 綾は相変わらず車窓の外を眺め続けていた。武士はそれを一瞥すると、中川の手紙を畳んで、赤と青のストライプ縁の封筒にしまった。

「手紙のどこにもお守りを返してなんて書いてなかったけども」

「お守りってのは基本的に年一の使い捨てだよ。それをわざわざ遺書と一緒に送り付けてくるんだから何とかしてくれってことだろう」

 武士はそう言いながら足元に置いていた小さな肩掛け鞄を持ち上げ、そこに封筒をしまい込んだ。武士が休暇を取れず土日のみでの東京京都間の往復。観光するつもりは全くなかったので、ふたりの荷物は実に少なかった。

「感傷的な行間の読み方をしたわけではないと」

「いや、感傷的だったよ。アヤみたいな理解してたらホリにお守り郵送してたろうに」

「難しいね」

「伸ばしていきゃいい」

 綾は武士の返答を聞くと、ビールをもう一口含んだ。

「結局そこには明言されてないからわからないんだけどさ、中川先輩はなんで自殺しちゃったわけ?」

 綾の疑問に、武士はふと綾の方を見た。綾と視線が交わる。

「俺の推測だけどさ、多分日本、ひいては地元の京都に未練が断てなかったんじゃないかなあと」

「ホリの話聞く限りだと結構散々な目に遭ったってのに?」

綾は小さく首を傾げる。

「群れないドラゴンにはわからんかもだが、人間ってのは自分のルーツのある共同体を大切に思うもんだからね」

「タケが卒業しても未練たらしく大学に顔出してるのもそれか」

 武士は右握りこぶしを口の前に当てて小さく咳払いをした。

「所属共同体を鞍替えするのはチャンスだよ。心機一転しちゃえばよかったのに。どこにいようが自分は自分なわけでしょ」

「お茶漬けナショナリズム」

 武士の放った一言に、綾は口につけたビール缶を傾ける右手を止める。

「三島由紀夫の」

「そう。話が早くて助かる」

 武士は新幹線の天井を仰ぎ見た。車両を照らす車内灯は、いつぞや仰ぎ見た居酒屋のものと同じく、オレンジ色で、少し明るかった。

「日本社会や日本文化を否定しながら、心底ではお茶漬けに飛びついちゃうほど俯瞰的にものを見れてないって思想でしょ? 中川先輩にはそういうナショナリスト的な側面はなかったと思うけど……」

「用法は間違っているが、中川先輩は自分が過ごした日本社会を、アメリカ社会と比較し続けてずっと劣等感を抱いていたんだよ。その日本社会ってのが、中川さん自身であり、中川さんの人となりの基幹をなしていた信仰なんだよ」

 武士は右手に握っていた稲荷神社のお守りを、綾の鼻先に突き付けてみせた。綾の鼻から漏れた吐息が、お守りを揺れ動かした。

「なるほど、命綱が楔にもなっていたわけね」

「まあでもそれを選んだのは中川さんなわけだ」

 綾は鼻をふうんと鳴らしながら、ビール缶を左右に小さく振ってみせた。水音がない。いつの間にやらすべて飲み干してしまっていたようだ。

「中川さんが依り代にしていたものが中川さんの命を奪ったなんて言いたくねえし、他に依り代を用意できなかった中川さんをどうこう言うべきでもない。亡くなってしまったんだ。これで終わりだよ。俺たちは中川さんの魂をふるさとに連れて帰ってあげるだけさ」

「ロマンチストには過ぎた結果論だね」

「死んだら残るのは生きてた時の結果だけだよ。あとは白い骨と、黒い遺灰だけだ」

 武士がそう言い終えると同時に、車内放送の前座を務める小気味の良い、しかしながらどことなく哀愁を感じさせる音楽が流れた。その音楽に続き、機械音声の女性が間もなく列車が京都駅に到着する旨を伝えた。



 中川は自分は京都の田舎生まれだとしばしば綾に漏らしていたという。中川の地元であるJR西日本の駅は、京都駅を起点に一時間程度の時間を有した。

 新幹線の駅があり、企業ビルや大手量販店が立ち並ぶ京都府の玄関口たる京都駅から遠ざかるにつれ、背の高い建物は姿を消し、一帯はどんどん田園風景になっていく。根っからの田舎者の武士は、京都といえば都会で京都府全体が都会であるという認識を持っていたが、かつて東京都心から桧原村へ向かった際に似たような光景を目にしたことを思い出し、認識を改めることとなった。

 ふたりが降り立った中川の地元駅は、急行電車が止まらないこともさることながら、日の平均乗降者数が二千人にも満たない小さな駅だった。

 一見すると公衆便所にも見えなくもない、かろうじて自動改札機の設置されている駅舎を出ると、駅前ロータリーに薄汚れたワンボックスの軽自動車を背に立っている作業着の人間の男がこちらに手を大きく振っていた。ホリである。武士と綾はホリに右手を振り返した。

「久しいな。長旅ご苦労さん」

 ホリはそう言いながら中川と同じようににかっと歯を見せて笑った。目が笑っていなかったのは、やはり中川の死を心のどこかに引っ掛けているからだろうか。

「つーか、結構田舎だな」

「せやねん。せっかく京都まで足労してもろたのに見るもんなんもあらへん。申し訳ない限りや」

 短く刈り込んだ頭を右手でかきながら言うホリに、別に観光で来たわけじゃないしと武士は付け加える。

「ていうかホリ変わってないね。アタシドラゴンだから人間の細かい変化なんか気づかないけども」

「数年で誰にでもわかる変化を遂げるのは、よっぽど人生になんかあったときやで」

 ホリはそう言う。武士がホリと知り合ったのは大学二回生の時だったが、身長170センチにもみたない小柄な男で、短髪で色黒、目は大きい様はまるで猿のようだった。目の前のホリは作業着を着ている以外は初めて出会った時と全く変わらない。

「かくいう逢川さんも、榎本もなーんにもかわってへん。あ、榎本は少し痩せたか?」

「毎日見てるからあんま変化気づかないよな」

「ま、アタシは人間の変化には全然気づかないわけだけども」

 武士と綾は顔を見合わせる。綾は背中の翼を小さく動かした。

「この町もな、俺が大学進学のために東京へ行ったときとなんにも変わってへんのや。地元の人らひっくるめてな。俺も変わらんし、君らも変わらん。中川先輩も、また酒飲んで変わらずアホな話できると思ってたんやけどもなあ」

 ホリはぼんやりと空を見上げながらひとりごちるように言った。一月のせっかちな空は、既に茜色に染まりつつあった。

「カンニン。ちょっと湿っぽくなってもーたな。目的地まで行こか。乗って乗って」

 ホリは我に返ったようにそう言うと、右手で車を示しふたりを誘導した。ホリは車の先頭を迂回するように運転席に回った。武士は助手席の扉を開け、綾はスライドドアを開けて後ろの座席に乗り込んだ。

「最寄り駅やー言うても、まあ俺らは高校通うためにここまでバス使こうたかな。まあ京都や京都や言うても不便でな。ドライブ付きおうてもらうで」

 ホリはそう話しながらエンジンキーを回した。軽自動車がその錆と泥で薄汚れた白い車体を震わせ、苦しそうなエンジンのうなりを上げた。



 京田辺市は京都市や大阪市の典型的なベッドタウンで、車を飛ばしても都心ではしばしば目にするオフィスビルや商業施設、果ては鉄道駅といったものの類はほとんど見られなかった。代わりに一面に広がるは名産品の茶畑と、点在するは近郊農家の田畑であった。ホリはこの地で、こういった近郊農家や茶農家を支える農協の職員をしており、本日も仕事の帰りだったという。

「まあ地元のカネで東京に出してもろたさかいに、地元貢献せなアカンなあって思とったら農協のオッサンになっとったわけや」

「地元っても、お金出したのは親御さんでしょ?」

「ウチも茶農家でな、まあ地元で出してもろたカネみたいなもんや」

「あれだよ、ホリとこの地をつなぐ命綱みてえなもんだよ」

 ホリと綾の会話に嘴を突っ込んだ武士に、ふうんと鼻を鳴らして返答する綾の姿がバックミラー越しに確認できた。綾はドラゴンとしてみるとそう大柄な方ではないが、太い尻尾と一対の翼が体積を増幅させており、尻尾を隣の席に投げ出して後部座席を一頭で人間二人分専有していた。綾はおくびにも出さないが、やはり窮屈そうであった。

「俺と綾は地元出てきて東京に住んじまってるから、爪の垢を煎じて飲むべきだな」

「まあ考え方は人それぞれやんか。人によっては俺は東京で負けて帰ってきたようにも見えるやろしな」

「自分の所属するコミュニティとの結びつきが、どれほどのものかってのがこういう時に試されるわけね」

 武士はホリと会話しながらドアミラーをちらと見た。後部座席の綾が右手側の車窓から茶畑に沈む夕日をぼんやり眺めていた。

「左側見てみィ」

 ホリの唐突な一言に、武士は左手の車窓に目をやった。畑が開けた先に、坪数にして三〇〇はあるであろう大きな戸建てが前方に見えた。

「中川先輩の実家やで」

「でかい家だな……」

 接近するにつれ、その大きさをまじまじと理解させられる様に武士は驚嘆の声を漏らした。武士の地元も田舎であるが故に土地が余っており、かつ余った金で大概大きな戸建てを実家として持つことができているが、その武士から見ても中川の生家は非常に大きかった。

「中川家はここいらの名士でな、親父さんも市内おろか京都府内でも結構ええ立場におる人なんや。弟がそれ継ぐために京都の大学院に行っとるわ」

 さんにんを乗せた汚れた軽トラックが広大な中川家の正面を通り過ぎた。石造りの門構えには確かに『中川』の表札がかかっていた。

「ホンマは長男に地位を継がせたかったんやろうけどな。保険に作っといた弟のがようできとったと。世知辛い話やな」

「親は子を選べないわけね」

 武士は正面口を通り過ぎてもなかなか視界から消えない中川家の冬ながらも緑色の垣根を見ながらつぶやいた。

「中川先輩、弟おったのは知っとった?」

「一度話題に上がったきりだな」

「まあ家族や家の話せん人やったしな。俺弟とも顔見知りやけども、弟も兄貴の話はついぞしたことないな」

 武士は視線を運転席のホリに移すと、ホリは正面を見ながら何かを思案する表情をしていた。横顔が、夕陽に照らされて赤くなっていた。

「兄弟は他人の始まりとはよう言ったもんよ」

 ホリは相変わらず正面を見ながら言った。

「同性間の兄弟には多いかな。俺は大阪に行った兄貴が何しとるやらわからんし、結婚したらしい義姉の顔も知らんもん」

「姉妹もそんなもんだよ。アタシもアメリカ留学行った妹が一体何してるやらよくわからないし」

 先ほどから黙っていた綾がようやっと口を開いた。武士がバックミラーを確認すると、相変わらず右側の車窓から茶畑を眺めている綾の顔を夕陽が赤く照らしているのが視認できた。

「性別違ってもそんなもんだぞ。俺も妹がここ京都府の大学に行っているが、何してるかとかどこに住んでるかもわからねえ」

 武士はとうとう視界から垣根が消失した車窓から流れる風景を見ながら言った。遠巻きに茶色の山が見え、頭上を橙の雲が流れていく。

「今回は妹さんに会いに行くんか?」

「連絡手段ねえんだもん」

 武士は妹との仲はさして悪くはない。しかし夏と冬に毎度泊りにやってくる綾の日本国内にいるふたりめの妹の汐ほど、きょうだい仲はよくはない。中川ほどの隔たりはないが、兄たる武士と比してよくできた妹に対し、武士は劣等感を薄く抱いており、どことなく距離を置いて生きてきた。連絡手段がないのもそんな理由からだった。

 視界の正面をゆっくり流れる山を見ながら武士は妹の顔を思い出していた。最後に顔を見たのは六年ほど前か。ろくすっぽ化粧もしていなかったが、妹も何だかんだ女なので顔が変わっているかもしれない。そんなことをぼんやり考えていると、ホリが急ブレーキをかけて武士は顔を左に向けたまま前につんのめった。

「すまんすまん」

 ホリは慣性でシートの背もたれに背中をぶつけた武士に謝罪する。ホリに視線を向けると、同じくつんのめった綾が運転席と助手席の間から口吻の間延びした顔を突き出していた。

「ホンドギツネ」

 綾は相変わらず助手席と運転席の間から顔を突き出したまま言った。それを合図に正面を見ると、一頭の狐が道路の真ん中でこちらを一瞥し、残りの距離を小走りで駆けて左側の茂みに消えていくのが見えた。ホリは狐がいなくなるのを確認すると、再びアクセルを踏み、古びた車のオンボロエンジンに拍車をかけた。

「狐はきょうだいで育って、半年ちょっとで親離れして散り散りになるんだよ」

 車が進みだしても相変わらず顔を突き出したままの綾が正面を見ながら言う。

「狐はアタシらみたいに連絡手段なんかないし、野生の世界はシビアだから、血を分けたきょうだいの生死もわからない。文明が進化する一方で、アタシらは動物としては原点回帰してるのかもね」

「それはかりそめの家族制度をドラゴンに強要した人間への恨み節か?」

 武士はそう言いながら綾の口吻を右手で軽くはたいた。綾は迷惑そうに眼を瞑った。

「タケやホリに恨み節ぶつけたってどうにもならないし、家族制度は合理的だと思うけどね」

 二発目、綾の口吻をはたこうと振り下ろした武士の右手が、綾のにゅっと伸びてきた左手に掴まれた。存外強い力だったので武士は小さく呻きを漏らした。

「家族制度をはじめとした人間の社会制度は合理的やけども、そっから外れたらしようがないいうんもあるけどな」

「ま、俺らは外れてるかもだが、外れ者同士でまたコミュニティを形成するのさ。江戸の町はそういうもんだったんだぜ?」

「その究極系がアメリカ社会やけども、結局はそれを形成するのは人間やドラゴンやからなァ」

「どう足掻いても人間はドラゴンになれないし逆もまた然り」

 ホリの武士に対する返答に、綾は前部シートの間から顔を突き出したまま付け加えた。

「全部を全部受け入れるあの世って世界が、最高のコミュニティなのかもしれない」

 武士はつぶやきながら、前に回していた肩掛け鞄のポケットを開いて、中川のお守りを取り出した。そしてそれをフロントガラスから見える京都の冬の夕空に翳してみせる。稲荷神社の名前の金色の刺繍が、小さくきらきら輝いた。

 一月の空は全くせっかちで、西日は茶畑の向こう側の茶色の山にほとんど沈みかかっていた。



 お守りの神社に到着したのは冬場の太陽がすっかり山むこうに沈み去った17時を過ぎた頃だった。武士と綾が下車した駅は市内の東寄りで、そこからさらに西の端っこまで車を走らせた。中川の生家は駅寄りだったので、少年の頃の中川はずいぶん長い距離を神社に向かったのだなあと想わされた。

 小さい神社だと中川も、果てはホリも繰り返していたのだが、ホリが神社所有の6台ほど駐車できる駐車場に車を止めて数分ほど歩いた先に朱色の鳥居を構えた長い、苔むした石段がさんにんの目前に現れた。

「小さいとはお言葉じゃねえか」

 武士は右手に握った中川のお守りと、鳥居の中央に係る『神額』に書かれた神社の名前を見比べながら言った。

「そら伏見稲荷と比べたらどこも小さいで」

「あそこと比べるの無粋だろ」

「ここも伏見系やしな」

 ホリはそう言うと神額を指示した。額の一番上の方には、神社の鎮護森からはみ出した木陰に阻まれながら小さな字で『伏見』の二文字が並んでいた。京都市は伏見区に存在する『伏見稲荷大社』の分社であることを示している。伏見系は稲荷信仰の中で最も大きな派閥であり、北は北海道から南は九州にまで広く分社が点在しており、その数は屋内に祀る座敷稲荷を含めると最早数えきれない数にまで膨れがっているという。

 武士とホリは鳥居の前でお辞儀をし、左端に寄って鳥居をくぐり石段を登り始めた。綾はそんな二人を背後から眺めながら、鳥居をちらと見上げて頭も下げずそのあとに続いた。

「関東だと伏見系でも小さいところが多かったぞ」

「あそこいらは江戸時代に村単位で誘致した神社多いからな。数は多いけど歴史はそこまで長くない。せやから小さいところが多いんや」

 こっちではこの規模の神社でも小さいんやと付け加えたホリに、武士はふうんと鼻を鳴らしてみせた。

「ウチの近所のお稲荷様は犬小屋みたいな祠に白狐の焼き物を並べたお社だったな」

「狛狐もいないし、賽銭箱もお社の中に組み込まれてた」

「まあ鳥居も赤くないところもあるし、村単位やとそんなもんやろな。大事なのは信じる心やな。」

「信じてた中川先輩は救われなかったけどね」

 石段で縦一列に並んでいても弾んでいたさんにんの会話は、一番下流を上っていた綾の一言によって静まることとなった。

「そういやお守りの返納はどうすりゃいいんだ? この規模なら社務所もあるだろうし」

「社務所もあるし、敷地内に神主様も住んではるけど、今夜はお焚き上げがあるんや」

 ホリがそう言いながら石段を駆けあがり、武士に並ぶと顔を上に向ける。太陽が沈んだばかりの紫色の空が、まだそこに夕陽が残っているかのようにオレンジ色に染まっているのが最上段の両端を挟む一対の狛狐石像の間から見て取れた。

「1月も結構終わりに近づいてるのに、まだお焚き上げしてるんだな」

「伏見さんに行くのがしんどい人や、遠出でけへんジジババに向けてやな。地元貢献や」

 ホリがそう言い終えると同時に、二人は石段の頂上に右足を着けた。数歩進んで、対の狛狐に挟まれた石段の頂上の二つ目の鳥居をくぐった。綾も背後から遅れて二人に続いた。

 石段の長さの割に、境内はそこまで広くはなかった。こじんまりとした土地に所狭しと、左側手前に手水杜、その奥に社務所兼神主の自宅と思しき平屋の建物。右側には町の名前がを頂いた公民館代わりの小屋と、その奥には神輿をしまい込んでいるであろう小柄なガレージがあった。

 砂利道を割るように正面には石畳がまっすぐ伸びており、その最後には社務所より少し大きいばかりの本殿が鎮座していた。確かに中川やホリが小さいと言った理由がわかった。関東の局所に点在している神社よりは大きいが、初詣に参拝客がこぞってやってくるような一般的な神社と比べるとずっと小さい。

 武士とホリは手水杜に入り、作法通りの清めを行った。柄杓を手に取り、右手、左手、左手で水を掬って口を漱ぎ、最後に柄杓を傾けて残った水で持ち手を清める。背後を振り返ると、手水杜の欄干から針金ハンガーに、神社の名前がプリントされた白い手ぬぐいがぶら下がっている。武士とホリは順番に手を拭った。

 綾はその様子を石畳の上から朱い瞳だけをこちらに向けて眺めていた。

「手を清めなよ」

「寒いからヤダ」

 武士の一言に綾は目だけを向けながら即答する。

「ていうかアヤ、鳥居くぐるときも一礼してなかったじゃん」

 武士は綾の元に駆けよる。

「アタシの頭は重いから下げたら上げるの億劫なんだよ」

「またそんなこと言って。ルールだよ。神様の御前だぞ」

「ヒトの神様はドラゴンはもとより人間も救わないんだから」

「おいおい、言い方が悪いぞ」

「お稲荷さんは救う神様ちゃうし、信仰は人それぞれやしなあ」

 武士と綾の元にホリが悠然と割って入った。

「アタシには信仰がないんだけどもね」

「信仰がないっちゅうのも信仰ってことでひとつ」

 ホリはそう言いながら左手で本殿の方に手のひらを向けて見せた。

 さんにんは石段の上を肩を並べて歩み始めた。あっという間もなく本殿の前に到着する。

「賽銭は小銭がいい。音を立てて神様に気づいてもらうんだ」

 武士はそう言いながら握りしめていた十円玉を賽銭箱に投げ込む。ステンレス製の網目をくぐり、賽銭箱に落ちた小銭は甲高い金属音を立てた。

「宗教法人だってお金は要るんだから金額大きいほうが嬉しいでしょうに」

 綾はそう言いつつも、武士より金額は高い百円玉を賽銭箱に投げ込んだ。それと同時に苦笑したホリも小銭を投げ込んだので、鉄を打つ甲高い音が二回響いた。

「俺は間取って五十円や」

 ホリがそう言うと同時に、さんにんは深々と首を二度垂れた。二度目に頭を上げると同時に柏手を二回打つ。破裂音が寒空に三つ、大きく響いた。そして瞳を閉じて、小さく頭を下げた。

 最初に瞳を開けて、一礼で締めくくったのは武士だった。右隣を見るとホリと綾が合掌したまま瞳を閉じている。鳥居前では頭を下げなかったうえ、手水もしなかった綾が何故か本殿前では正しい作法で参拝したのか。武士のそんな疑問は、正面の御神体を見て氷解した。

 畳の奥まった本殿の間には、木彫りの目つきの悪い白狐に挟まれて銅鏡が立てられていた。稲荷神社の御神体である。その御前に備えられた一升の酒瓶は、比較的高価な銘柄であったため、その信仰の厚さを自ずと伺えた。何だかんだ綾もヒトの神様に圧倒されたんだろうなと武士は邪推しておいた。

「おう、ホリさんところのボンやないか」

 背後から人間の壮年男性の声が響く。振り返ってみれば神主装束の胡麻塩頭の人間の男性が笑顔で立っていた。袴の色は紫色に紫の紋入り。地位の高さが一目でわかったので、恐らくこの神社の神主であろう。

「ああ、神主様。お邪魔しとります。もうボンなんて呼ばれる年齢でもないですけどもね」

「ワシから見たらここいらの坊主はみんなボンやで」

 神主はそう言うと呵々と高らかに笑った。

「今日は友達も一緒か」

「はい。大学時代の友人で関東から足労もらいました」

 ホリに紹介された武士と綾は同時に小さく会釈した。

「なんもない街でカンニンなあ」

「いえ、本日の目的地はこちらなので」

「ホンマかァ! ウチも有名になってもうたんか。えらいこっちゃでェ」

 神主は武士の返答に再び呵々と笑いながら大声で返した。

「参拝が終わったんやったらこっちでお焚き上げやっとるから、なんか焚き上げてほしいもんあったら持っといで」

 神主はそう言い残すと、本殿から見て境内左側、小さなガレージの後ろ側に歩いて行った。

「お守りをさ、元の場所に持って帰ってこれたんだ。空の上の中川さんに伝えねえとな」

 武士は懐からお守りを取り出すと、呟くように言った。それを横で聞いたホリは小さく頷く。

 ふたりの背中を見ていた綾は、ふと頭上の空に視線を上げた。黒い空が、境内から舞い上がる炎でうっすらと橙に染まっていた。その様は、ここにだけ終わらない夕焼けがとどまっているかのようであった。



 ガレージの裏手の空きスペースまで進むと、そこには神主が焚き上げを目前に一人で立っていた。神社の規模もそう大きくはなく、かつ初詣シーズンもすっかり過ぎた今、焚き上げの火はずいぶん小さく、バーベキューの後の残り火で焚火をしているかのように見えた。

「今年のお焚き上げは今日明日で終わりやな」

 神主はゆらゆら揺れる炎をぼんやり見つめながら言った。

「なんや、昔のこと思い出すなあ」

 神主は相変わらず炎を眺めていた。額や目じり、鼻筋に皺をたたえ、年季の入ったその顔は炎の橙で照らされており、落ちくぼんだ瞳には風で小さく揺れる焔が映し出されていた。

「中川さんのとこのボン、長男の方や。ようウチに来てくれて、こうやって遅めのお焚き上げするときにはいつも来てくれとったんや。炎がきれいやーなんや言うてな。終わりまでずっとおったんやで」

 中川先輩のことやな、と、ホリは武士と綾に耳打ちするように言った。

「最後にボンが来たのが十年くらい前やったかな。そん時に東京行くとか今生の別れやなんや言われたんやな。関東からのボンとドラゴンの嬢ちゃん見て思い出したわ」

「嬢ちゃんだって。神主様ドラゴンの年齢わかるんだね」

「神主様、男はボンで女は嬢ちゃんやから、基本」

「こらヨシユキ、ワシは職業柄ドラゴンともぎょうさん会うてきたんや。おおよその年齢と個体差はわかるで」

 振り返っていたずらっぽい笑顔で言った神主にホリは苦笑いで返答してみせる。お前ヨシユキって名前なんだなと言う武士に、ホリは神主に向けていた苦笑いをそのまま隣にいる武士に向けてみせた。

「しかし中川さんとこのボン、ホンマに音沙汰がのうなってもうてなあ。なんや弟の方は正月に会うたけど、なんや兄貴は死んだだのなんだのろくでもない冗談言いくさりおってな……」

 神主は炎に向き直りながら、最後はしりすぼみになりながらも言った。神主は俯いていた。

「どこで何しとるんやろな。あのボンは」

「中川さんは、京都府にいます」

 沈んだ声で言う神主に、武士は咄嗟に返答した。神主はちらりと武士を振り返る。

「中川さんは京都に帰って来てます」

 武士は一呼吸置くとそう続けた。神主は視線を空に向けたが、再び武士を見てにっこり笑った。

「そうか。込み入ったことは聞かんし、近いうちにまた会えるとは思うとらんけど、帰ってこれたんやったら御の字やな」

 神主は笑いながら言ったが、傍で静かに燃え上がる焚き上げの火に陰ったためか、どことなく含みのある笑顔を浮かべていた。

「お焚き上げ、するんやろ?」

 神主はそう言い残すと、武士たちに背を向けて再び焚火に向かった。さんにんもそれに続いて焚火に歩み寄った。

「ほら、返したって」

 神主を挟んで焚火に向かった武士に、ホリは耳打ちするような小さな声で言った。

「ここからじゃ届かないよ。もっと近くに寄らないと」

 武士はウィンドブレイカーの右ポケットから中川のお守りを取り出しながら焚火に一歩踏みだす。ホリは先駆けて数歩前進し、武士に背中を見せる形になった。

 するとホリに倣って前進してきた綾が、武士の右手からお守りを瞬時に奪い去った。

「あっ」

 武士の素っ頓狂な感嘆詞を背に、綾は焚火に歩み寄りながら太い右腕を振りかぶってお守りを投擲した。

 お守りには木札が入っており、大きさの割にそこそこの重量があった。綾の手を離れたお守りは、オレンジ色に染まりながらもうっすらオリオン座の浮かんだ夜空に弧を描いて舞い上がり、ゆっくりと焚火の中に落下した。小さいながらも勢いのあった炎は手のひらサイズのお守りを瞬く間に飲み込み、入れ替わりに小さな火の粉を数個夜空に舞い上げた。

「中川先輩……」

 舞い上がった火の粉は、ホリの涙声を巻き込んで冬空に消えていった。神主は身じろぎもせず炎に向かい合っていた。

 武士は更に一歩前に踏み出し、綾と肩を並べた。

「おかえりなさい、中川先輩……」

 綾は夜空に突き出した口吻を向けて、呟くように言った。武士は綾に視線を向ける。綾の朱色の瞳は、炎光を反射してきらきらと輝いていた。

 焚き上げの炎は煌々と燃え続けた。それは灯の少ない境内で、最も大きな篝火であった。

 焚火は薪を糧にして、かすかな破裂音とともにまた火の粉を夜空に舞い上げた。舞い上がった火の粉はやや大きく、京都の上空へとゆったり高度を上げていった。そして境内の遥か上空にたどり着くと、吹き消されるが如く音もなくふっと消えた。


fin

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