向こう岸のミルクと蜂蜜のこと
新天地。人間は誰しもそれを目指した。新天地に安寧があると信じて。それは川を渡るが如く。渡った向こう岸に、幸せが待つと信じて……。
それは長からぬ迫害を受けたドラゴンたちも同じであった。彼らもまた、新天地を目指し、その短く太い脚を動かし、背中の一対の翼を羽ばたかせ、そこを目指した。世界は冷たく、体は冷える。だが暖かい心を燃料に、脚を動かして……。
*
「こげよマイケル」
顔にかかる黒ぶちの眼鏡の位置を人差し指で調整しながら、榎本武士がそう投げかける。一言を投げかけられたのは一頭のドラゴン。3メートルほど離れた先に、赤い夕暮れの空を反射する海を臨んで逆光をめいっぱい受けていた逢川綾は、紅い瞳を武士に投げかえした。
2月の葛西臨海公園は全く寒い。それもこれも、臨海公園の名の通り、東京湾に面しているからだ。山の冬と海の冬は本質的に寒さが異なる。山岳地方からやってきたため、海の寒さに慣れていない武士は、綿がたくさん詰められたジャンパーを着て着ぶくれし、細い首元を膨張させている緑色のマフラーに口元を沈めた。
「歌ってたら、暖かくなると思ってさ」
綾は踵を返して、武士の方へと向かってきた。武士は自身の座っている、風雨ですっかり風化した木製ベンチの左端に寄り、綾の座るスペースを開けた。
「アヤって結構歌うまいよね」
「そーぉ? 普通だと思うけど」
綾は太い尻尾を振り上げ、武士の隣にどかりと大きな尻を下ろした。
ドラゴンは概して体が大きい。それ故に、肺活量と声量が人間のそれを凌駕し、非常によい声音で歌う。昨今はテレビ番組などを見ると、ドラゴンの歌手も多々見かけるようになってきた。
綾はそう大きい方ではないと本人談であるが、中肉中背の武士より、背丈だけでも頭二つ分ほど大きい。故にその声量もほかのドラゴンのそれに劣らない。また綾はその巨体に反して存外細い声をしているので、息の長いソプラノを発することができた。
「アヤって留学経験あったっけ?」
「カナダのモリオントールに半年くらいかな」
綾は目前より少し離れた海を眺めながら返答した。武士もそれに倣う。時刻にして16時。コンクリートの岩肌が無骨に晒される人口浜の遥か向こうで、早くも日が東京湾に沈む準備を始めている。
「歌とかさ、こういう形で発声しとかないと忘れちゃうんだよね。そこはアタシらもおんなじ」
「そこそこ綺麗な発音で歌えてたのは、普段の努力の成果か」
「自己満足だよね。ぶっちゃけ英語なくても何とかなるもんだし。この国ではそれが顕著」
漣の音が小さく寒空に響いた。綾の白い吐息が、あっという間もなく蒸発していく。
「向こう岸に行かずともミルクも蜂蜜もここにはあるんだよ」
ほうっと、武士は白い息を漏らした。それと同時に一陣の潮風が東京湾のはるか向こうから吹き、二人を冷気に包んだ。
「さっむ」
綾はぶるぶるっと身震いした。ドラゴンは爬虫類という印象が強いが、先進国地域、とりわけ日本のような寒暖差のはっきりしている地域の種の身体構造は鳥類のそれに近い。体温の維持は、哺乳類である人間と同じである。
「じゃあ何で厚着してこなかったの」
武士は呆れたように綾を頭から足元まで見渡した。綾の装備している防寒具は、太く長い首に巻いたワインレッドのマフラーだけで、それ以外はいつも通りの全裸である。
「潮風を感じたかったからかな」
綾はそう言いながら、左隣の武士に身を預けてきた。
「重いよ」
「生地がウィンドブレーカーだから、引っ付いても熱は得られないね」
「他人依存はやめなよ。自分の体温で何とかするんだ」
綾はふっと笑いながら、武士から身を離した。
*
「熱を発生させるには、対価が必要」
「全く。俺ら恒温動物は発熱機みたいなもんで」
武士のそんな返答を聞き流しつつ、綾は武士の背後に左手を回し、置いてあった、葛西臨海公園駅前のコンビニエンスストアのロゴマークが描かれたビニール袋を掴んだ。
「対価であるぞ」
綾はコンビニのビニール袋に右手を突っ込むと、500mlの缶のビールを取り出した。
「熱は得られるがな、代償がでかい」
「はい、パス」
綾は手に取ったビール缶を、武士のぼやくような発言を聞き流しつつ投げつけた。それを武士は咄嗟に出した右手で間一髪捉える。
「発熱機も使い続けてたら痛むじゃん。でもメンテすればまた使えるようになる」
「健康に生きろと」
「ま、アタシが言ってもあんまり説得力ないかもだけども」
綾はそう言い終えると、ビニール袋から頭だけを出したビール缶のプルタブを起こした。缶に閉じ込められた気体が、待ちわびた自由を歓喜するかの如くプシュっと音を立て、寒空に吸い込まれていった。
綾は缶に大口をつけて、顎を茜色に染まり始めた空に高らかに掲げた。ビールが綾の喉を通り、その一口毎に喉頭隆起が上下に動く。綾を横目に武士もプルタブを起こすが、綾が缶を投げたためか、今一つ覇気のない音とともに泡が噴出した。武士は慌てて缶口と接吻した。
「やっぱりお酒はあったかくなるよ。下手な暖房器具や防寒具よりずっといい」
「肝臓が悲鳴上げてるだけだよ」
武士はぽつりとそう言うと、一口ビールを啜った。真冬の寒空の下喉を潤すには、些か冷たすぎるように感じた。
「あれ、タケ元気なくない? 寒いから?」
「それもあるが、煮え切らないことがあってさ」
「肝臓付近の血液は煮えたぎってるくせにさ」
綾のそんな一言に、武士はふっと白い息を巻き上げて苦笑してみせた。そしてつぶやくように続けた。
「いやさあ、転職しようと思うんだよ」
「転職」
「アヤには相談しようとは思ってたんだけども」
武士は俯いて見せたが、綾のアハハという笑い声に再び頭を上げざるを得なくなった。
「転職ごときでそんなにウジウジしてたわけ?」
「ほらお前、勤め人じゃねえからそうやって言うだろ。だから相談しようか悩んでたんだよ」
再び頭を垂れる武士を、紅い横目で眺めながら綾はビールを二口喉に流し込んだ。
「思うに、タケは二つ勘違いをしてる」
綾は缶口から口吻を放して言った。武士は頭を上げる。缶の淵と綾の口吻から唾液の橋が架かるのが赤い空を背景に視認できた。
「一つは、アタシは勤め人以前に人でないこと。ドラゴンだよ」
「そうですね」
武士は再び首を垂れた。
「二つ目は、タケが今踏ん切りつかないでいるのは、自分の中で勘違いをしているから」
は? と、言いながら武士は顔を上げた。側面が赤色に染まった雲を、綾はぼんやり眺めていた。
「次行くところは実は決まってるんでしょ」
「よくわかったな。今いる現場の人に声かけられてるんだよ。一緒にやらないかって」
綾は小さく頷いた。武士はそれを横目で見ながら、安い散髪屋で整髪したため切り揃っていない前髪を右手でかき上げ、茜色の雲の走る空を見上げた。
「タケのことだから、危険牌をあえて振るようなことはしないでしょ。行くところ決まってなかったらそもそも転職なんか考えてないはず」
「世代柄ってやつかな。当たりはずれでかい業界だし、何より経歴に傷をつけるわけにはいかない」
「だから声かかってるところに応じるか迷っていると」
うん、と、武士は小さく返答しながら綾の顔を見た。綾はビールを口に押し当て、二口喉に流し込んだ。
「今の会社は給料もよくない。賞与も保証もない。今声かけてくれてる人は、その両方を出すって言ってくれてるんだ」
「行けばいいじゃん? そこ」
「それが本当の保証はどこにもねえんだよ」
「あー、そこだね。タケの勘違いポイント」
ビール缶に口をつけ、三口目を喉に流し込もうとした武士は、それを押しとどめて綾を横目で見つめた。
「保証がないことに恐れてるんじゃなくて、新しい環境に飛び込むことを恐れてるんじゃないの?」
綾は夕陽と同じ茜色の瞳を武士に投げかけてきた。武士はその視線を自身の眼で捉えると、首を小さく左右に振りつつ深くため息をついた。武士の口からゆっくりと吹き上がった白い吐息は、煙草の副流煙のようであった。
「向こう岸には、ミルクと蜂蜜がある保証も母ちゃんがいる保証もなくてさ」
「ただこちら側にそれらがないのは確定」
綾はそう言い終えると同時に、ビール缶と口吻を空高く掲げた。顎を下すと同時に、右手に持った缶を小さく左右に振って見せる。どうやら飲み干したようだ。
「ヨルダン川は深く険しいけど、それに見合った何かが向こう岸にはあるはずだよ。船は漕がねば進まない」
武士は綾の一言を聞き流しつつ、綾に倣って口につけたビール缶を赤い空に掲げた。紫がかった雲が美しいと思ったのも束の間、缶に残っていたビールは存外多く、洪水のように口内になだれ込んできた内容物に武士はむせ返ることとなった。
*
冬場の太陽の足は実に早い。先ほどまでほんのり紅潮していた空も、ほとんどと言っていいほど茜色に染まっていた。より深い茜色に染まった雲は、帰宅を急ぐ子供のように速足ではるか海の向こう側へ駆けていく。
そんな雲が駆けていく姿を反射した、同じく紅く染まった海に向かって二人組が駆けていくのが視認できた。年のほど20代と少しといった風采の、短髪の男二人組。真っ赤な原色のジャンパーを着て、ジーパンを履いた男と、同じくジーパンの、黒色のジャンパーを着た男だった。
人工干潟である『西なぎさ』を臨む、葛西臨海公園の内側の海岸堤防は、低いコンクリートの堤防と、乱雑に埋め込まれた岩肌の二層構造になっている。コンクリートの堤防を駆け下り、露わになった岩肌まで到達すると、唐突に男二人は、ジーパンの裾をめくりあげ、靴と靴下を脱ぎ、氷のように冷たいであろう海水に、その素足をそっと入れた。
「中国人か」
あいや、という悲鳴に笑い声が続いた。武士は沈みつつある夕陽を背景に、逆光で影となり果てている二人組を眺めながらつぶやいた。
「カニかフジツボでも捕ってるのかね」
「この時期はさすがにいないでしょ」
綾も同じ方向を眺めながら言う。武士は聴力こそ平均的であるが、典型的近視で矯正視力もさして高くないため、人影はぼんやりとしか視認できなかった。一方で綾は、概ねのドラゴンの例に漏れず、聴力と視力が非常に高い水準にあるため、武士よりはっきりと二人組の姿と会話が確認できているはずだ。
「ま、北京語の素養はないから聞こえたところで理解できないんだけども」
綾は武士の心を読んだかのようにそう言い、武士に向かって口吻から舌をいたずらっぽく出してみせた。
「海向こうの故郷に、海伝いに交信をかけてるのかな」
「まさかぁ。ただやることないから遊んでるだけでしょ」
綾は笑いながら、空になったビール缶をコンビニのビニール袋に突っ込みながら言った。
「浪漫のないやつ」
「ドラゴンに浪漫は理解できませんよぉだ」
綾の持つビニール袋に、同じく空のビール缶をねじ込む武士に綾は再び長い舌を口吻の先から出してみせた。
「ただでも、海向こうからやってきた彼らには、海はやはり母国につながる大切なものであることは間違いないのは確かかも」
堤防で赤いジャンバーの男が蹴り上げた冷たい水しぶきが、夕陽の陽光を捕まえて反射した。投げかけられた星屑のような光が、綾の瞳に映り込むのが見えた。武士はほうと白い息を吐く。
「でも彼らがミルクと蜂蜜を見つけるのは時間が少しかかるかもね」
「陸上でも旅は続くわけか」
「旅は死ぬまで終わらない」
うん、と言いながら綾は風化で色あせたベンチから腰を上げた。
「向こう岸、行ってみようか?」
首をかしげる武士に、綾は右腕を前方に上げて対象物を指示して見せる。綾の右手人差し指の、人間のそれより鋭利な鉤爪の示すのは、緑色の芝生を挟んだその向こう側。斜張橋が、赤い陽光を受けていた。
「17時に閉鎖じゃねえか」
武士は斜張橋、『なぎさ橋』に視線を投げつつ言った。
「ちょっとだけだから」
綾は武士に向き直って、合掌してみせた。
「しゃーねーな」
「そうこなくちゃね」
武士は腰をゆっくりとベンチから上げると、綾と並んで、『なぎさ橋』へ向かって歩みだした。沈みつつある夕陽の逆光を受ける綾と武士の背中を、二人組の男のくしゃみの声だけが追いかけていった。
*
『なぎさ橋』は、葛西臨海公園と、沖合に浮かぶ人口干潟島の『西なぎさ』を結ぶ、本公園のシンボルである。夕陽の靄の先のはるか向こうに薄くぼんやりと見える、江東区と大田区を結ぶ『東京ゲートブリッジ』と比するとはるかに見劣りし、かつ長い橋ではない。
しかし夕暮れの雲を突くように支柱が空をめがけて悠然と立ち、ケーブルを両端に垂らすその姿は、まるで公園を守護する巨人のようであり、シンボルと呼ぶにはふさわしい代物だった。
「ああ、寒いよ」
不意に東側から吹いた潮風に、綾は両腕で自分の体を抱きしめて立ち止まった。これで三度目。ようやっと『なぎさ橋』の半分を過ぎたところだった。
「橋を渡りきる前につまみ出されっちまうぞ」
時刻は16時15分頃。二人と入れ違いに、『西なぎさ』から公園へ、本日の思い出を語り合いながら戻っていく人と、ドラゴンとすれ違っていく。
「防御本能だし」
綾はそう言いながら、少し開いてしまった武士との距離を小走りで詰めた。
「ところでタケのその帽子、何なの?」
綾は武士の帽子を指しながら言う。ベンチに座っていたときは、潮風に攫われないよう尻の下に敷いていた帽子だ。そう重くもない武士の体重でもあっさり潰れて、かつ被る前に形を整えたはずが、その甲斐がない程度に皺が寄っている、黄土色と茶色がベースのデジタル迷彩、所謂デザート迷彩のチューリップハット。おおよそ冬に似つかわしくない帽子である。
「あれでしょ、西葛西駅前の安い店で買ったやつでしょ。前に行ったとき見たよそれ」
「そうだ。おしゃれだろ」
「よくわかんないけど、センスはよくないと思う」
いつもは釣り用ベストを羽織って街を歩いている綾に指摘を受けてしまった武士は、帽子の鍔をもって、目元にぐいと引き下げた。
「さあ、上陸だ」
いつの間にやら先を行っていた綾が、両手を翼のように広げながら右足を唐突に表れた砂地につける。武士もそんな綾を眺めながら、それに続いた。
葛西臨海公園沖の干潟は、軒並み三日月型をしている。上空から見ると、まるで一度に三日月が密集して昇っているかのようで実に異様な光景である。一般人に開放されているのは『西なぎさ』のみで、他二つの『東なぎさ』および『三日月干潟』は鳥類保護のため立ち入り禁止となっている。鳥類保護という自然保護の大義名分の下に、人類と鳥獣は本質的に相いれないという皮肉のアンチテーゼが込められているようであった。
『西なぎさ』は葛西臨海公園に背を向け、東京湾に両腕を広げるように鎮座している。おおよそ人の侵入を歓迎しているとは言い難いこの島に上陸した二人は、橋の傍に位置する案内所と便所の小さな建物を右手に歩みを進めた。
建造物が視界の隅から消えると、一面に広がったのは夕焼けに焼かれる赤い砂浜と、東京湾だった。開放時間である17時を目前に控えた海岸からは、まばらに残った人が、ドラゴンが『なぎさ橋』を渡るためにこちらに向かって、砂に足跡を残し残し向かってきていた。
海岸のはるか向こうの、赤く輝きながら波打つ東京湾を眺めて立ち尽くす綾と武士にすれ違う者は、ある者は人間の、ドラゴンの親子であったり、カップルであったり、友人連れであったり、話す言語は日本語であったり、中国語であったり。しかし一様に夕焼けの赤に照らされた顔は晴れ晴れしく、言語は違えど思い出話をしているのがわかった。
綾と武士は海向こうに沈む夕日に吸い込まれるように速足に歩みを進めた。帰路につく人々に紛れてふたりとすれ違った、黄色い野球帽の管理人が「17時に閉鎖ですよ」とかけた声に、武士は右手を軽く振って応じてみせた。
『西なぎさ』は、三日月型が物語る通り、横向き、東西にはそれなりの広さを誇っているが、南北、縦向きにはさほど広くはない。場所によっては芝生になっているため、栄養価を含んでいると思しき黒ずんだ砂に足を取られつつも、数分足らずで海を目前に臨むことができた。
東京湾は近年の環境改善活動により、徐々に成果が反映はされつつも、古来からの急激な都市開発につけられた傷跡はまだ癒え切っておらず、そうきれいな海ではない。しかし、そんな都市近郊湾でも、砂浜と、夕陽というアクセントをつけるだけで、一枚の絵画の様相を醸すことができるという点から、自然というのは大いなる画伯であると武士はぼんやりと思った。
「この海は、未来に続いているわけか」
武士の一言に、電子カメラのシャッター音が返事をした。綾が夕陽をスマートフォンのカメラに収めていたのだ。
「東京湾だからほとんどどん詰まりだよ」
「そうかよ」
綾はスマートフォンをワインレッドのマフラーと首の隙間に挟み込みながら、ふふっと息を漏らした。
「ただ、ほとんどどん詰まりって事実も船を漕ぎださなきゃわからなかったことだし、何より全くのどん詰まりじゃないから抜け出す隙間もある」
「やってみなきゃわからねえと」
「そ。ミルクも蜂蜜も案外ワンチャンあるかもだよ」
そんな綾の一言を遮るように「17時閉鎖ですので、そろそろお戻りください」という声が響く。背後を振り向くと、先ほどすれ違った管理人と思しき人影が頭上で右手を振っている。夕陽の逆光が陰って表情の程はよく見えない。
「行こうか」
綾の一言に促され、武士は小さく頷いた。武士たちのほかにも、東京湾に沈む夕日が名残惜しい人やドラゴンがまばらにいたようで、ぽつぽつと『なぎさ橋』に向かう後姿が見えた。
「満足したか?」
「それ、アタシの台詞ね。タケは満足したの?」
武士は考え込むように、視線を空に走らせた。視界に薄紫色の雲が入ってきた。そして小さく、ああと呟くと綾に視線を戻した。
「ちなみに、アタシはいつもあらゆることに満足している」
綾はそう言いながら武士を横切り、『なぎさ橋』へ向かって足を踏み出した。
「ああ、やってやるともさ」
武士は胸に持ってきた拳を握りしめ、小さくつぶやいた。すっかり武士と距離を開け、浜のこんもり砂が盛られた部分まで来ていた綾がこちらを振り変える。振り返ったその顔は、逆光に陰ってよく見えない。
「今行く」
武士はそう言いながら小走りで綾の元に駆けていった。
武士の背中を照らす夕陽の逆光は、『なぎさ橋』へ走るその背中を追いかけていく。逆光に照らされた武士の影は、赤色の海に離れるにつれ小さくなっていった。
*
ふたりが『なぎさ橋』を渡り始めるころには、『西なぎさ』へ上陸する以前よりずいぶん人が減っていた。当時すれ違った人やドラゴンは、今頃葛西臨海公園駅や駐車場から各々が帰る場所へ向かっていることだろう。
「空が暗くなってきたね」
綾は立ち止まって空を見上げた。それと同時に、背後の海向こうから冷えた潮風が一陣橋を横切った。綾と武士は自身の肩を両手で抱いて縮こまった。
「風も強くなってきたじゃん。考えてみりゃ海の上だしな」
武士はそう言いながら、風にあおられて後方にずれたチューリップハットの鍔を右手でつまんで元に戻した。それを合図にふたりは再び歩み始める。
「ていうかその帽子、飛ばされない? 大丈夫?」
「平気だよ。紐もついてるし」
綾の一言に、武士は帽子の際から頼りなく垂れ下がり、反対側に潜っている黒い長い紐を右手でつまみながら返した。
「まあ、安物の帽子だし飛ばされても文句はないよね」
橋の真ん中を過ぎた辺り、なんだとと武士が言い返そうとしたその時に、再び一陣の冷たい潮風が橋を横切った。
「あっ」
武士の素っ頓狂な短い悲鳴よりも早く、たるんだ紐が武士の頤を掴むこともなく潮風が頭からチューリップハットを奪い去った。安物の薄っぺらい材質の帽子は、薄紫の雲が走る空に舞い上がるのにそう時間を要さなかった。
武士が右手を虚空に伸ばすより先に、ワインレッドのマフラーを解き、地面に投げ落とした綾が、首とそれとの間に挟んでいたスマートフォンが落下すると同時に橋の欄干に右足を掛けて跳びあがった。
普段は扇風機程度の用途しかなしえない、冬には冷たい外気に当たる面積を増やすだけの無用の長物と化した背中の一対の翼を羽ばたかせて、綾は薄紫の空に浮かび上がる。3メートルほど綾の肥え太った巨体が浮き上がり、突き出した右手に武士のチューリップハットの鍔が握られた。安心したのもつかの間、宙に浮きあがるのがそもそも数年ぶりの、出不精の綾が空中遊泳を維持できるはずもなく、そのまま真っ逆さまに真冬の海へ落下していった。
どぼん、という漫画のような水音とともに、高い水しぶきが舞い上がった。その音を聞きつけた、橋にちらほら残っていた家路の人々とドラゴンが武士の周りにわらわらと集まりだした。
「飛べるじゃん」
橋の下で水面に顔を出し、ぷうっと海水を口から噴き出した綾に、武士は身を案じるより先に大声でそう投げかけた。
「一瞬浮いただけだよ。ああ冷たい」
綾は大声でそう返答しつつ、海水をすっかり吸って重くなったチューリップハットを数本角の伸びる自身の頭に乗せた。
「大丈夫ですか?」
騒ぎを聞きつけた、橋の入り口に立っている老齢の警備員が駆けてきて欄干から身を乗り出した。綾は警備員の一言に右手を振って応じた。
「飛べないけど、泳げるドラゴンです」
綾のそんな一言に、野次馬はどっと笑った。それを合図に、再び各々の帰路に戻っていく。
「とりあえず岸まで泳げよ」
綾のマフラーとスマートフォンを拾い、右手に持った武士は葛西臨海公園側の岸を目指して歩き始めた。
「向こう岸には、温かいミルクが待っているぜ」
「とんだ潮水だよ。しょっぱい」
綾はそう言いながら武士と同方向に泳ぎ始めた。武士は綾が泳ぐ姿は初めて見たが、トカゲのように体をくねらせて泳ぐかと思いきや人間と同じ平泳ぎを始めたのだった。長めの首を水面から突き出し、首を出し、尻尾を着いて来させた綾は、ドラゴンというより亀のような水性爬虫類のそれに近かった。
飛べないが泳げるドラゴンと豪語しただけあり、綾の泳ぐスピードは存外速かった。大股に歩いていた武士も、終いには小走りで綾と並走することとなり、そんな調子で武士が橋を渡りきるのと綾が無骨な岩肌の岸にたどりついたのはほぼ同時だった。
「ありがとう、助かったよ」
武士はそう言いながら、濡れたチューリップハットを右手に持って振り回し水気を切る綾に駆け寄った。
「冷たくて険しかったけど、魂が熱かったおかげで上陸できたよ」
綾はそう言いながら武士の寝ぐせの立ったままの頭にチューリップハットを被せた。帽子は水気を切り切れておらず、海水を吸った安物の生地はよれてほのかに重たいうえに覇気がなく、かつ帽紐も冷たい水を滴らせていた。
唐突に綾が肩幅に脚を開き、頭を低くしたかと思いきや、雨天日の犬よろしく全身を勢いよく震わせた。四方八方に綾の体にまとわりついていた海水が飛び散り、無論、武士にもその一端が襲い掛かった。武士は綾のマフラーとスマートフォンを持ったままの右手で顔を防御した。
「身を案じなかったお返しだよ」
綾はいたずらっぽく口吻の先から舌を出したものの、付着していた潮水の味に顔を顰めることとなった。
「わんりね。温かいミルクをごちそうしよう」
武士のそんな一言をかき消すかのように、17時を告げる東京都の防災無線が流れ始めた。
東京23区の防災無線は『ゆうやけこやけ』。夕闇に沈みゆく、太陽を見送るかの如く、染み入るようにゆったりとした速度で23区の空を駆けていく。
綾と武士は放送を聞きながら、目前の海に向き直った。太陽にも2月の寒さは堪えるのか、既に海面から突き出た頭は半分以上没していた。ふとそのまま泳がした武士の目線の先に、渡る者がいなくなった『なぎさ橋』の鉄門を閉める、先ほど綾を気遣った警備員の姿が赤い逆光を受けて入ってきた。
「変わらない日常は尊いけど」
綾は沈む太陽を臨みながら言う。やはり逆光で表情は見えない。
「新天地にある新しいものを受け入れないのは、不幸だと思うし、変わらない日常以上に、新しいものも尊いと思う」
武士はゆっくりと踵を返し、綾の背後に立った。綾の背中の大きな一対の翼は未だ濡れており、夕陽の光を受けてキラキラと星のように光を反射していた。
「新天地にて日常が失われるということもないしな」
ぶしゅん! 綾が首を勢いよく横に振りかぶってくしゃみをした。その音に武士の呼応の言葉尻がかき消されてしまう。綾は鼻をすする音で返答した。
防災無線の『ゆうやけこやけ』は、最後の一小節が非常にゆっくりとした調子になる。それは、今日一日を名残惜しんでいるかのようであった。
夕日は沈んでいく。名残惜しむ防災無線に見送られながら。綾と武士はほとんど海に沈んだ夕日を後ろ目に見ながら、ゆっくりと背を向けた。
*
「ミルクより銭湯がいいな。おごってくれるんでしょ」
本気にしていたのかよ、と、武士は綾に表情で訴えかけた。
入浴料を出すつもりはなかったものの、銭湯には寄っていくつもりであった。水場付近にいたため芯まで冷え切った体を温めたかったことはもとより、潮水が乾いてすっかり磯の香しい香りを放っている綾をそのままアパートに入れたくなかったということが大きな理由である。
「向こう岸には、蜂蜜とミルク。こちら側には温かい風呂」
磯のにおいを放ちながら嘯く綾を尻目に、武士はスマートフォンの地図アプリのGPS機能を起動する。画面上部の検索バーに『銭湯』を打ち込むと、検索ボタンを右親指で叩く。数秒待たずに、徒歩5分圏内に2つのピンが打ち込まれた。
「さて、母ちゃんに会いに行くか」
「はぁ?」
唐突ににこやかに言い放った武士に、綾は目をひそめてみせた。
「アタシらのお母さんは山の上でしょうが」
高らかに笑いながら先を征く武士の背中に、投げかけながら綾はそのあとに続いた。
時は17時30分。2月の空は墨を垂らしたかの如く、すっかり黒一色であった。そんな暗がりの中、葛西臨海公園のメインモニュメントである、観覧車が虹色の光を照射されながら、一人の人間と一頭のドラゴンの背中を見守っていた。新天地へ向かう、若い背中を見送りながら……。
向こう岸には ハレルヤ
しあわせ待つよ ハレルヤ
fin