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浪漫談義  作者: 海室
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高次的な愛の表現のこと

 コミックマーケット。毎年8月、東京ビッグサイトにて開催される自費出版の大型即売会である。その規模は世界一の名を欲しいがままにしており、日本中の同人誌ファンだけでなく、東アジア、果ては欧州や北米からも足労するファンが存在するほどである。処処の問題提起はなされている一方で、コミケは今日も日本の、否、世界の愛好家たちの心をつかむ一大祭典として君臨し続けている。

 コミックマーケット開催地、有明のビッグサイトよりりんかい線を乗り継いでおよそ数十分、このコミケに出陣するうえで最高のロケーションである葛西の街に居を構える榎本武士(えのもとたけし)も、コミケに心踊らされ大量散財を余儀なくされた愛好家の端くれである。

 8月中旬、蝉の鳴き声も遠くなり、コミケの思い出もいよいよひと夏の走馬燈として残暑とともに昇華されようとしつつある土曜日、武士は冷房のかかった葛西の安アパート『サイオパレス葛西』の一室で、同人誌たちに囲まれ満足げにベッドに寝そべっていた。ちなみに戦利品、もといコミケで得た同人誌たちは、成人向けと一般向けの峻別を行った程度で一切中身は確認していない。上毛の山奥から、東京の葛西に上京してきた頃からの武士の日課だ。

「武士さん、幸せそうですね」

 ベッドに寝そべる武士の傍らから女声が響く。同人誌即売会に月の給料のおおよそと現を抜かす武士に恋人などという高尚なものは存在しない。この女声も、近年武士の年単位の日課と化したもののひとつである。

 武士が興奮の冷めやらぬ熱い視線を向けた先には、一頭のドラゴンがいた。雌のドラゴン。赤い二重の瞳は丸っこく、口吻も短い。そして頭頂部から後ろ向きに伸びる角も短め。比較的小型のドラゴンである。

 トイレの水洗音が小さく響く。短い廊下を歩き切ったもう一頭のドラゴンが狭い居間に顔を出す。口吻は長く、赤い二重は切れ長。角も長い。武士とこの狭いアパートを共有する逢川綾(おうかわあや)である。

(うしお)ちゃんも幸せだろ?」

「そうですね。この時期は実に」

 武士が視線を向けたまま、自分のベットの斜め前、こたつテーブルの前に、腰掛けている小型のドラゴンに言う。汐とよばれたドラゴンは口角を上げ、牙を見せながら返事をする。

「幸せすぎて、この通りアヤお姉ちゃんと武士さん二人だけで既に身動き取るのも精一杯の部屋に長居してしまうほど」

「こらウッシー、人間は見栄っ張りなんだから狭いとかボロいとか小さいとかマイナスニュアンスなことは言ったらダメだってアタシ言ったはずだよ」

 綾は淡々と汐に注意を促した。汐は綾の妹なのだ。

「俺はない見栄は張らないし、汐ちゃんの言ってることは事実だから怒らないよ。俺で人間との接し方覚えてくれたらいいから」

 武士は苦笑しながら二頭のドラゴンに言った。

「それにアヤはもっと酷いこと言うんだぜ?」

「えっ、マジですか?」

「事実無根なことを言わない。それにアタシがタケに言うことは事実」

 どっちだよ、という武士の台詞を尻目に綾はこたつテーブルを挟んで汐のちょうど向かい側、自身の布団の敷かれたパーソナルスペースに腰を落ち着けた。等間隔に並べてみると、汐は綾より一回りばかり小さい。人間の目から見るとドラゴンの個体判別は困難であるため、おおよそ体の大小で判別するしかないと言われてはいるものの、小さい単位で見てみると綾の方が口吻と角が長い、汐の方が目が大きい、綾の方が肥っているなどの差異が見られる。身体的特徴が個性と呼べるなら、武士は個性でドラゴンの個体判別ができているのであろう。

「タケがまぁた同人誌増やしたからまた部屋が狭くなるよ」

「アヤのスペースは侵してないだろ」

 武士は成人向けと一般向けに分けた同人誌の山の多い方、つまり成人向けの山の頂を平手で叩きながら言った。

「まあでも、適度に整理はしなくちゃとは思ってるよ。汐ちゃんも適度に片付けたほうがいいよ」

「たまにはタケもらしいこと言うじゃん。ウッシーもあの山の中から出ていくわけでしょ。片付けとかないとお母さんうるさいよ」

「ああ、ですね」

 汐は綾と武士を交互に見た。

「買った本は整理できても、やっぱり作った本は整理しづらいですよね。私の年齢的に当分はやりそうですし、今この瞬間も創作意欲が湧いているわけですしね」

 ほほう、と、納得したように息を漏らした武士は、ふと綾の方を見た。綾は歯牙にもかけない様子で汐の顔を眺めていた。



「そういえば汐ちゃん新刊出してたよね。今回はどれくらい売れたの?」

「完売ですね」

 武士の質問に、汐はスマートフォンに目を落としながら言った。

 汐がコミックマーケットに来たのは、武士のように同人誌を買うばかりでなく、自身の才能の表現物の頒布、つまるところ自費出版物の販売をメインにやってきたのだ。

「すげえじゃん。エロでもないのに売り切るって相当実力あるよ」

「私は未成年なんで、エロは描けませんし、なにより私のジャンルは女性向けなんでエロ一辺倒じゃなくても十分勝負できるんですよ」

 汐は相変わらずスマートフォンを見ながら淡々と言った。汐の年齢は17歳。武士や綾とは8つ離れている高校二年生だ。故に成人向け発行物が頒布できないだけでなく、収入もないため今回の出版費や交通費、購入物の自宅への送料はすべて姉である綾が出資している。この葛西の狭いアパートに身を寄せているのも、綾が宿代わりに場所を提供したからである。

「まあでも、次はお誕生日席もらえるんじゃないでしょうかね」

「すげえ」

 汐はスマートフォンから顔を上げて、同時に口角も上げてみせた。お誕生日席とは、同じジャンルを取り扱うサークルの塊を島と呼んでおり、その島の両突端のことをそう呼んでいる。お誕生日会の特等席の位置であることが由来である。

「ウッシー、でもその前にやることがあるんじゃないの?」

「ああ、勉強だな? 逢川家の看板に泥を塗るわけにもいかないだろうし」

 汐に変わって即答した武士を、茫然とした様子の綾と汐姉妹の視線が突き刺した。

「ああ、それに関しては大丈夫だよ。ウッシーはウチでは暫定一番の出来だから」

「アヤより出来がいいのかよ」

 綾の最終学歴は東京の国立大学である。現在の職業もフリーライターで、非常に潤沢な収入を得ている。そのため毎年の汐のコミックマーケットの資金繰りだけでなく、武士と折衷している家賃の半分と光熱費を払い、また自宅にも仕送りをしているらしい。肩書だけでなく実績をも伴う、札付きのエリートだ。

「アヤお姉ちゃんはせっかく国立に入れたのにダメになったってお母さん先週も嘆いてたよ。何で官僚にならないのって」

「お母さんは昔気質なんだよ。官僚なんてなったところでちっとも面白くないじゃん」

 逢川姉妹の会話の次元の高さに、武士は辟易した様子で頭を掻きむしってみせた。

「で、そんだけできてさ、まだやることあるの?」

 武士の質問を合図に、綾は目の前のこたつテーブル上に置かれた、愛用のリンゴの意匠がなされたラップトップパソコンを開いて太い指でキーボードを叩き始めた。

「これ」

 綾の見せてきた画面には、昨今流行りの140字のメッセージのみが投稿できるSNSのユーザー名検索結果が表示されていた。

 検索バーの中には、汐のペンネームである『ケイガ』と、全角スペースを入れて汐が主催するサークル名である『たいど☆すたー』。ヘッダーを挟み、その下には検索結果である140字以内の投稿の数々。

『ケイガ先生は絵はいいんだけど心理描写に不満』

『たいど☆すたーは大人しくイラスト集にでも移行すべき』

『ケイガ氏はドラゴンらしいので、人の心理描写に弱いのは妥当』

『たいど☆すたー、次話がまともなのじゃなかったら買わない』

「とんだ言われようだな」

 綾がスクロールバーを下ろし続けるのを尻目に、武士は汐にそう投げかけた。

「いえ、真っ当な評価です。自分の改善点もわかるので逆にありがたい限りですね」

 汐はスマートフォンの画面を武士に向けながら首を左右に振った。視力の低い武士には、眼鏡をかけている今でも小さな画面に映る内容はよく視認できなかったが、先ほどから熱心にスマートフォンを眺めていたのは、どうやらエゴサーチをかけて投稿内容を追っていたようだ。

「絵は努力次第でなんとでもなるものなんですよ。でも心理描写がどうしても……」

 汐は再び顔を左右に振ると、こたつテーブルに額を打ち付けた。

「ジャンルなんだっけ?」

「BLですね。ボーイズラブ。今回は最近流行りの作品で新刊出しました」

 ああ、と、武士は小さく感嘆詞を漏らして納得した。ボーイズラブは男性同士の高次的な精神的結びつきを愛として捉えたもの。読者層が女性中心というだけあって、詳細な心理描写は避けられない。

 一方でドラゴンという生き物は、知能こそ高かれど感受性を著しく欠き、言わずもがな精神構造は人間のそれとは異なる。人間同士の高尚な精神的な愛の描写というものは、その高い知能で理屈こそ理解出来れど肌や心で感じることはできない。

「BLは心だからなあ……」

 武士はため息をつくように漏らした。その視線の先では、アパートの築年数に似つかわしくない真新しいエアコンが静かにうなりを上げていた。

「ドラゴンって心あるの?」

「考えたこともないね」

 綾の一言に汐が間髪入れず相槌を打った。

「いや、あるでしょ、心」

 武士の一言に、顎を上げて口吻を低い天井に向けたままの綾と汐が、紅い瞳だけを向けてきた。まったく同じポーズに同じタイミングに同じ動作。血がつながっているんだなあと武士はぼんやり思う。

「怒ったり、笑ったり、楽しんだり。アヤも汐ちゃんもするでしょ? 心のなしえるものだよ」

「怒るのは防衛機制。笑うのはコミュニケーションだね」

 綾は口吻を天井に向けたまま答えた。

「ただ楽しいって感情はなるほどって思いました。私は一種義務感のものを感じながらやってますけど、その義務に重きを感じたことはないですし」

 汐は口吻を下ろして首を縦に二度三度振ってみせた。

「ただ好きって感情はわかんないですね」

 汐は小首をかしげて、小さく唸ってみせた。エアコンの起動音が汐のそれに被り、狭い部屋に低く響き渡った。



「おなかへった」

 そう言うが早い、綾はこたつテーブルの上に無造作に放り投げられていた黒色の長い革財布を右手に取って立ち上がった。

「アヤ、俺はビールとポテチ。あとおにぎり適当に二つ」

「お姉ちゃん、私は牛乳と菓子パン二つで」

 さしずめコンビニに行くのだろうと踏んで、綾に注文を投げてよこした武士に汐が便乗する。

「まだ明るいのに飲むの」

 時刻は14時と半刻。武士をはじめ、綾にも汐にも予定はない。今日は外にすら出ないという自負のあった武士は力強く頷いてみせた。

「あとウッシーはおっぱい好きだよね」

「牛乳だよ。おなかの調子がよくなるの」

「なぁに、哺乳類に被れてるの。イクちゃんみたくなるからほどほどになさいよ」

 綾の一言に汐は、さっさと行ってこいと言わんばかりに右手のひらをヒラヒラ振ってみせた。綾は武士と汐に舌を出して見せて、短い廊下を渡り玄関から飛び出して行った。

「イクちゃんって誰よ」

(いく)お姉ちゃんですね。私とアヤお姉ちゃんの間にもう一人いるんです」

 玄関扉の閉まる音が響くと同時になされた武士の質問に、汐は答えてみせた。

「アメリカの大学に行ってるんですけど、そこで心理学にのめりこんじゃって人間みたくなってるんです。母はアメリカまでやったのにアヤお姉ちゃんより出来損なったって言って毎日嘆いてます」

 ほほう、と武士は感嘆し、眼鏡の淵を右手人差し指で弄ってみせた。

「なら郁さんとやらに色々聞いてみればいいじゃないか」

「イクお姉ちゃんと連絡取ったら母が嘆くんです」

 武士は再び感嘆を漏らす。逢川家は家族間で人間関係、否、ドラゴン関係が入り乱れていて大変だなあと考える。名家もそう楽ではないということだ。そうぼんやり考えながら、武士はそのまま目線を窓の外の青空に移した。

「感情って」

 エアコンの送風音を遮るように、汐が口を開いた。

「絵は練習すればいいし、学術的な机上論も書籍を読めば理屈の上で理解できるんです」

 武士は汐の話を聞き流しながら、ベッドの上からぼんやりと窓の外を眺めていた。本日晴天。青空から8月末の未だ健在な日光が降り注ぐ。外出した綾はアスファルトの照り返しに悲鳴を上げていることであろう。

「百聞は一見に若かずって言葉がある通り、要は体験して学んでしまえばよいと」

 尻を床につけたまま武士の足元ににじり寄ってくる汐に視線を投げ落としながら、武士はおうと小さく返答した。

「というわけで武士さん、全裸になってください」

 沈黙。完全な沈黙ではない。エアコンの送風音がかすかに響き、部屋の外から遠く蝉の鳴き声が聞こえる。

「服を脱いでください」

「タンマ」

 足元から大きな真ん丸の紅い瞳を投げかけてくる汐の鼻っ面に、武士は右手のひらを突き出してみせた。

「なんでそうなるの」

「人間の男性の体を見ることで沸き起こる『劣情』と『愛情』、そして『欲情』とやらを、実際に体験してみるためです」

「言い分は分かった」

 武士は存外筋の通った汐の言い分に首を縦に振ってみせた。

「そもそも何で俺なの。写真集とか見たらもっと敬体がいるじゃないか」

「実物を見ないとわからないので。それに武士さんだと後腐れなさそうなので」

「実に合理的だこと」

 武士は汐から目を反らし、口を尖らせてみせた。

「犬猫の前で全裸になることに抵抗はないでしょう。私も範疇としては犬猫と同じかと思いますので抵抗はないかと」

「犬猫は服を脱げなんて言わないし、それにこっちの肌を見て劣情を抱こうともしないの」

 汐は腰を上げ、武士の前に立ちふさがってみせる。綾より頭一つ分ほど小さい。確かにドラゴンとしては小柄だが、中肉中背の座った武士よりははるかに大きいため、武士は面食らうこととなった。

「これから劣情を抱くって宣言してる者の前で素肌を曝すなんてとてもできない。劣情は一時欲求の性欲。食欲と同列なの。空腹の肉食獣の前に生肉ぶら下げて出ていくようなもんなんだよ」

「なるほど原始的欲求故に歯止めが効かないと」

 汐は右拳を顎に当ててみせた。

「じゃあ劣情は抱きません。見るだけでお願いします」

「空腹だけど食べませんと同じだよそれ」

 汐は武士を見下げたままううむと唸った。武士はベッドの上に腰を沈めたまま後ずさりする。すぐに背中に壁が当たった。

「それに劣情はBLとは違う。BLは俺がさっき言った通り心なんだよ。高次的な精神の結びつきの現れなんだよ。劣情は書いて字の如く『劣った情』なんだってば」

「でも根底にあるのは性行為ですよ。交尾です。武士さん、私の後学のために交尾してください」

「話が後戻りどころか飛躍しているんだが」

 武士はそう言うが早い、身を翻そうと試みるも瞬く間に汐の両腕に両肩をがっしり掴まれてしまった。

 しかし相手は女子高生。しかし、ドラゴンの、である。食が細りすっかり痩せてしまった武士の骨と皮ばかりになりつつある両肩をしっかり掴むその両腕は、鍛えた大人の男のそれのように太く、筋張っていた。控えめに見ても十代女子の腕とは考え難い。種族の違いとは真に恐怖そのものである。

「悪いようにはしませんから」

 汐の細いものの、凛とした女声が武士の両耳の鼓膜を叩く。正面の発声者の口は、牙を覗かせる上あごと下あごの間に無数の唾液の糸を引いていた。

 小学生の頃、近所の里山でオオカマキリに捕食されるトノサマバッタを観察し、夏休みの自由研究として発表したことを思い出した。あの時のバッタは、きっと今の自分のような心境だったに違いない。つまるところ、無力が故の諦念である。

 武士は顎を上げて、ゆっくりと瞳を閉じた。その際にゴツンという音とともに後頭部に衝撃と痛みが走った。背後の壁に頭をぶつけたのだ。

 汐の両腕が肩から降りた。自分の惨状に同情してくれたのかと思いきや、腰と下着のゴムの間に筋張った指が入ってくるくすぐったい感覚を覚えた。ドラゴンは心境を考えない。電光石火で下半身を攻めるらしい。

「おい」

 不意に響いた汐のそれと違う女性に、下げられ始めた下着とズボンが武士の息子を曝さん一歩手前で静止させられた。

「アタシ、タケのこといじめるなって言ったよね」

 目を開けたそこには綾がコンビニのビニール袋を右手に引っ提げて立っており、紅い二重で武士の足元に屈みこむ汐を睨みつけていた。

 汐は背後の綾の刺すような視線に身を凍らせながらも、その紅い丸っこい瞳は半分脱がされた下着から少しだけ覗いている武士の薄い縮れ毛を捉えたままだった。年頃の女子故か、はたまたただの好奇心なのやら、汐の瞳は武士の空気に晒されかかっているそれをしっかりロックオンして離さない。

「後学のために武士さんとこう……ちょっと体を使った実習を」

「ウッシー、あんた頭はいいけどやることがいちいち拙速で浅はか」

 綾はそう言いながらビニル袋から1リッターの牛乳パックとその半分の背丈の缶ビールを取り出した。買い物を済ませて帰宅しただけで、野生的直感で武士の危機を察知したわけではないようだ。

「でもいじめてないのは事実だよ。人間の男性はこういうこと好きだって」

「ウッシー、タケはこの年齢になっても一度もそういうことしたことないから、今やってるようなことはかえって苦痛になるの」

 こたつテーブル上の牛乳とビールが、呆れて汗をかくように結露の水滴を滴らせた。

「人間とシてどうすんの」

 綾は続いて袋からおにぎりを二つと、菓子パンを二つ取り出した。銘柄は汐の頭が邪魔で武士には視認できなかったが、取り出した際の大きさから比較的大き目のものだということが理解できた。

「そんなわざわざ体を使わなくても、タケならウッシーの求めてるものをわかりやすく説明できると思うから、離してあげなさい」

 はぁいと汐は小さく返答して、掴んでいた武士のズボンと下着から両手を離した。

 武士は跳ね上がるようにベッドから立ち上がると、いそいそと半分まで下げられた衣類を腰丈まで上げ始めた。その肌が見えなくなるまで、汐は紅い瞳を投げかけ続けていた。強い好奇心は恐ろしい。殺されかかった猫のように武士は身を縮めながらそう断定した。



「好奇心、だよ。発情じゃない」

 汐はそう言いながら赤い丸瞳を泳がせた。

 こたつテーブルの前の布団の上に腰を下ろした綾の向かいに、そのテーブルを挟んで汐が鎮座。汐の右手側に位置するベッドの上で武士があぐらをかいて座っている。数十分前の、綾が外出する前とまったく同じ配置だ。

 汐の一言に、沈黙が部屋を支配した。真新しいエアコンが不満を言うかのようにうなりを上げ、武士と綾がおにぎりを咀嚼する音のみが響く。武士は環境音を聞き流しながら、天井に視線を投げかけた。

「ドラゴンは秋と春が発情期なの」

「あー、人間と似てるな。暑くなくなる、寒くなくなるから生命維持に余力ができて繁殖に移ると」

 こちらを見て言った綾に対する武士の返答を遮るかのように、汐がテーブルから身を乗り出して両手をバタバタ振り回した。否定の単語より先に体が動いてしまったのだろう。

「で、ウッシーが今同人誌で描いてる内容が、タケにしようとしたことに直結するかもってことなの?」

「かも」

 綾の質問に、汐は短くかつ素早く返答した。

「で、タケ。直結するの?」

「しないよ」

 武士も汐に倣って短くかつ素早い返答を返す。

「確かに人間における性行為は愛のカタチの一種かもしれないけど、根底にあるのは結局は繁殖なんだ。故に性欲は『劣情』と呼ばれる」

「ではなぜ創作にしばしば性行為が登場するんです? 説明つかなくないですか?」

 汐は泳がせていた目を武士に定めた。

「性行為は人間にとってコミュニケーションなんだよ。しかもコミュニケーションの中でも究極系の。だから人間はそれを求めるし、BL作品においてもそれが究極の形で描写されるんじゃないかな」

 顎に右手を当てた汐の唸り声がエアコンの起動音に重なる。思案する際に、顎に手を当てて唸るのが汐の癖らしい。

「じゃあやっぱり性行為じゃないですか。究極系なんですから」

「待って。よく考えてごらんよ。極論に走らないで」

 再び鼻っ面に右手を突き立てられた汐は、紅い丸い瞳を座らせて頬をぷうっと膨らませてみせた。

「さっき汐ちゃんはエロ一辺倒に走らなくても女性向けは売れるって話してたよね。女性向けはそのエロ、つまるところ性行為までの過程が大切で、読者はそれを求めているんじゃないかな。で、汐ちゃんが俺にしようとしたのはその過程じゃなくて到達地点。だから違うの」

 まどろっこしいですね。と、汐が武士から目線を反らせながらぼそりと呟いた。

「ちなみにその過程は性行為を伴うものでなくても学ぶことができる。例えば誰かを好きになってみるとか……」

「はい、この話終わり」

 武士の台詞を遮るように綾の叩いた手から発された破裂音が狭い部屋に響き渡る。

「話の途中なんだが」

「タケは誰か好きになったことあるの?」

 武士は視線を天井に走らせた。ちょうど走らせた先に、一点だけ妙によく染みついた煙草のヤニのシミが目についた。

「自分……かな」

「ダメだこりゃ」

 綾は身を乗り出し、武士のベッドの端に積み上げられていた成人向け同人誌の山の一番上の一冊を左手に取り、武士の膝の上に放り投げた。

「その通り。俺が好きなのはこの娘だ。悪かったな」

 武士は膝の上に乗った、最近流行りのソーシャルゲームの少女のキャラクターがあられもない姿を曝す表紙を右手に取って綾に向けて力説した。一方で綾はその様を横目で見て鼻息をふっと漏らしてみせた。

「タケに説明できるのはここまで。まあ、掴みにはなったでしょ。あとはプラトンの思想について掘り下げてる著作でも読んで『エロース』について調べて、自分なりに咀嚼して作品に落とし込むことだね」

「お姉ちゃん、詳しいね。イクお姉ちゃんの影響?」

「いや、タケの話を自分の中の含蓄で整理しただけだよ」

 綾と汐が視線を向けた先の当の武士は、ブツブツと何事か呟きながら同人誌を広げて読んでいた。

「百聞は一見に若かず、いい言葉だと思うけど、百聞に勝る一見は、百聞ほどでなくとも聞いた内容が下地にあったうえでの一見だよ。だから机上の空論を疎かにしちゃダメ」

「……これからも精進してまいります」

 伏目がちに返答した汐を見て、綾は口角を上げてうんと頷いてみせた。

「ちなみに机上の空論ばっかしなると、ああなるからそこは臨機応変に」

 綾は同人誌を両手に持って部屋の蛍光灯に掲げる武士を、口吻でしゃくってみせた。

「机上の空論一辺倒だと? 俺は同人誌にエロースを見出してるんだ」

「それエロスじゃないからね」

 綾はそう言いながら成人向け同人誌の山の頂から、一冊手に取ってパラパラ捲ってみせた。

 汐はそんな二人の様子を見て、小さく頷くと、こたつテーブルに乗っていた自身のスマートフォンを右手に取り、SNSのアプリを開いた。

『たいど☆すたー』の『ケイガ』のアカウントに自動ログインしたのを確認すると、画面右下の書き込みボタンを押下する。

 書き込みメニューが表示されたのを確認すると、汐はエアコンに冷やされた空気をすうっと肺に吸い込んで、口吻の先の一対の鼻の穴から吐き出すと同時にスマートフォンキーボードを右手親指で叩き始めた。


『応援ありがとうございます。夏コミの新刊ですが、様々な意見を頂いておりますが、それらを咀嚼したうえで、冬コミも今回と変わらないスタンスで発表したく思いますので次回もよろしくお願いします』


 一息に書き終え、投稿ボタンを押下する。タイムライン上に表示された汐の投稿メッセージも、リアルタイムで投げかけられる『暑い』『眠い』等の短文コメントの波に流され、瞬く間に画面から押し出されてしまった。汐はその様子を見て苦笑する。

 夏の終わり、徐々に下がる気温、そして同じく短くなる日照時間とともに、その夏の思い出もゆっくりと斜陽の下に昇華されていく。

 汐は武士の積み上げた同人誌の山を一瞥し、ふと窓の外に視線を投げた。

 晩夏の太陽が、心なしか西の空に傾きかけているように見えた。


fin

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― 新着の感想 ―
[良い点] ありがとう綾さん、いつも武士を(物理的に)守ってくれて……。 [一言] 汐ちゃん、流行り作品の二次BLばかり描いていたって同人ゴロになってしまうかもしれない……! 同人作家より商業作家の方…
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