郷愁と思い出のこと
世に生きるどんな人にも生まれ故郷というものは存在する。記憶にないという人はいても、消滅してしまってないとのたまう人は昨今には未だ存在しないだろう。
生まれ故郷が存在するというのはなにも人間だけではない。動物たちにもまた然りで、人間社会を間借りするドラゴンたちもまた然りである。
前述のとおり生まれ故郷とは生きとし生けるものありとあらゆる生物に存在するものである。しかし、その生まれ故郷に対する懐かしみや親しみ、所謂『郷愁』を感じることに関しては、高度な知能を有する必要がある。そして、その『郷愁』が現出する契機は、当然個体毎に多種多様である。
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現代のドラゴンは飛べない。先進国地域ではそれが顕著だ。
航空機やドローンの発達、都市部では電線や高層建築等の障害物が増えたため単純に飛行が危険になったこと、飽食による体重の増加、そして交通網の発達による筋力の低下など処処の理由が挙げられる。
故にこれらの要因の少ない途上国地域では飛行するドラゴンの姿が見られるものの、やはり都市近郊部ではすっかり少なくなってきている。
先進国においても、スポーツ競技や軍隊において取り入れられてはいるものの、おおよそのドラゴンに関しては飛行する必要性を感じていないため飛ばないものがほとんどである。
ドラゴン界隈では現代のドラゴンが飛行できないことに関しては世界的に危惧されている模様である。例えば日本ではその対策として、高等学校までの体育の授業に飛行実習が取り入れられたり、また飛行を行うスポーツの推進をスポーツ庁が邁進している。そして自衛隊や消防、海上保安庁などの人命救助活動の伴う組織においては、ドラゴンは飛行することが必須であるようになっている。
しかしそれでもおおよそのドラゴンは飛行を必要としない。それだけに日本においては、飛べるドラゴンは学生、スポーツ選手、または自衛官と認識されてしまっている。
学生身分でもなく、スポーツ選手でもない。果ては自衛官でも消防士でもないドラゴンの逢川綾も、現代に生きる飛べないドラゴンの端くれである。
背中に生える巨大な一対の翼は、気分に合わせてパタパタ動く程度のギミックしか持ち合わせておらず、猛暑日に風を起こす程度の役にしか立たない。狭いアパートの一室で出不精を繰り返した結果、さらに翼の筋力は衰え、いよいよ背中を飾る奇抜な装飾程度の物になり果ててしまっている。
「アヤってさ、飛ばないの?」
夕暮れ刻、文明の結晶たるコンクリートで作られた海沿いの道を、自分に背を向けて歩く綾に榎本武士は投げかけた。
夕焼けに紅く照らされた背中の翼が武士の視界から消え、踵を返した綾の顔が入ってきた。
ドラゴンの表情から感情は一概に判りにくい。しかし振り返った綾は、夕焼けよりもさらに紅い瞳を細めて、突き出た口吻の大口を半開きにして牙を覗かせているあたり、愉快な表情をしていないことは間違いなかった。
「簡単に言うけど飛ぶのって結構エネルギーいるんだよ。ドラゴンって概してそう小さいもんでもないし、これを結構高く空中まで持ち上げようと思ったら相当筋肉も要るしね」
「歩くより楽だとは思ったんだが」
「人の群れを回避するって点では楽かもだけど、さっき言った通り高く飛ぶのは体力使うし、かといって低く飛びすぎると風が巻き起こって地べたの人間様たちから砂埃と一緒にクレームが舞い上がる。それだけに規制も厳しくなってきてるしね」
「精神的負荷もあるのか」
武士はそう言いつつ夕焼けで紅に染まる綾の全身を眺めた。綾の正確な体重を武士は知らないが、最近確実に肥ってきてはいる。
「それにアヤ、最近肥っただろ。運動不足だけの問題じゃなさそうだし」
「それ人間の女の子に言ったらダメなヤツだよ。だからタケはモテない」
綾はそう言い捨てると再び踵を返した。武士の視界に再び一対の翼が入ってくる。武士は小走りで、綾の右隣に並んで歩きだした。
運動不足。在宅職であり出不精の綾はもちろんのこと、単に食が細い故に肥っていないだけで、卓上職で通退勤時以外は基本身動きを取らない武士に関しても同じことが言えた。
本日土曜日。貴重な休日を使って二人はなにをしているかというと、運動不足解消のため少々散歩に出ているのだった。
少々というには語弊がある。武士も自身らが居を構える葛西の街をぶらりと半周程度するものかと思いきや、最寄り駅の葛西臨海公園駅を過ぎ、首都高速と京葉線を右手に東京湾に注ぐ荒川河口を眺めながら河口橋を渡り、埋め立て地に着いたと思えば本日は休業のため閑散としている雑多とした倉庫群や中規模工場が乱立する新木場を過ぎ、いよいよ日が傾いて来た頃に新木場公園を見送って砂町運河を越えた。右側を過ぎるのは車体のレッドのラインが洒落ている京葉線ではなく、海の風に染まった涼し気なブルーのラインを走らせた車体のりんかい線だ。
太陽は刻一刻と傾いている。確か荒川河口橋を渡ったのは西に日が傾き始めていたとはいえ15時半ごろ。最近日が長くなったものの空が赤色に染まっている今、結構な時間を徒歩に費やしたに違いない。距離にしておよそ5キロは歩いているはずだ。
「まだ歩くのかよ」
「運動不足解消でしょ? 中途半端やったら意味がない。毎週この距離歩いてもいいくらいなのに」
大きく息をついて肩を落とす武士に「そもそも近くに鉄道駅がない。ここまで馬鹿高いタクシー呼ぶか、いつ来るかわからないバスを待つ、もしくは進むか戻るかだね」と、綾が追い打ちをかけるように早口で言った。
「それだけにアヤは飛ばないかが疑問でさ。遮蔽物も人も少ないだろ?」
武士の一言に、綾はぴたりと立ち止まった。東雲運河を跨ぐ新末広橋のちょうど真ん中、遮るものは特になく、紅い陽光がうら寂しく二人を照らし、赤く染め上げた。
「ふ、肥って飛べないんだもん……」
前述の通りドラゴンの表情から感情は読み取りづらい。また声の抑揚も抑えられていることが多く、ますます何を考えているかわからない。しかし言葉を発した綾の声は震えており、また夕陽に照らされた顔が赤く火照って見えたので、武士は綾を辱めてしまったのではないのかと危惧した。
「すまん、悪かったよ」
武士の謝罪に覆いかぶさるように綾が大きな咳ばらいをした。声が震えて聞こえたのは、喉に痰が絡まっていただけのようだった。
綾は左手の、陽光の赤を映す運河にぺっと痰を吐き捨てると、こちらを向いて立ち尽くす武士に小走りで追いついた。痰を投げ込まれても、六月晴れの日の海は紅に染まりながら穏やかに波打っていた。
*
江東区は物流と工業の街だ。東京湾を埋め立てて突出した土地の性質上、海外から輸入した原料を輸入船からすぐに工場へ持ち込むことや、国内流通線に乗せることができるという点で必然的な進化を遂げている。近年は内陸部の地価の上昇があり、この工場と物流でひしめく地域に大型集合住宅を誘致する等の再開発が為されている。
二人が歩き続けた末とうとうたどり着いたここ東雲も、その例に漏れない地区だ。内陸側の、駅を臨む高架の更に向こう側には真新しい高層マンションがいくつか、夕陽を反射し、燃えるように照りかえりながらたたずんでいる。入居住民はさぞや眩しく、暑いことだろう。それに相対する海側の工場地帯は、休業日のため夕陽の光を受けながらも閑散とした灰色に見えた。
あれだけのマンションが立っていながら、人の姿を全く見かけない。休日はイベント等でりんかい線沿線は賑わうが、それも隣の国際展示場や更に隣の東京テレポート駅最寄りのテレビ局くらいのもので、ここ東雲は基本閑古鳥が鳴いている。平日は湾岸労働者たちを相手に大儲けしているこの自動販売機も、本日は開店休業状態だなと、綾が対峙する飲料の自動販売機を眺めながら武士は思った。
綾は最近流行りの味付きのミネラルウォーターの購入ボタンに右拳を叩きつけた。ガタンと音とともに商品が取り出し口に落下するのがわかるが、綾はそれを気にせず再び同じボタンに拳を叩きつけた。再びガタンという商品の落下する音が閑散とした駅前ロータリーに寂しく響いた。
「はい、パス」
綾は振り向きざまに武士に向かって自販機の商品取り出し口から取り出した味付きミネラルウォーターを間髪入れず投げてよこした。武士は驚嘆しつつもかろうじてそれを受け止めた。
「うん、タケは反射神経はいいよね」
綾はそう言いつつペットボトルの蓋を捻った。空から注ぐ赤い光がペットボトルの水に反射し、武士の顔を照らした。武士は眉間に皺を寄せて黒ぶち眼鏡をかけた目を細めた。
「昔は短距離選手なんかをしてたことがあったが、足をぶっ壊してから今の有様だよ。その名残だろうよ」
武士も綾に倣ってペットボトルのキャップを捻った。捻りながら、這うようにして目についたバスターミナルのベンチへと歩み寄る。未だ労働者の街である東雲には、土曜日の黄昏には彼らを迎えにやってくるバスはない。
「タケってアタシと同じ、山の方の出身だったよね」
「そうだな。上毛の山奥だ。今でこそ市と名乗ってるが俺が中学生になる寸前くらいまでは町だったようなところだ」
武士はそう言い終えるとバス待ち用のベンチに腰掛け、ミネラルウォーターを一口口に含んだ。レモンの酸っぱさが、何故か正面の東京湾のすれすれに浮かぶ丸い夕陽に染みた。
「ガキの頃は棒きれ片手に野山を走り回って、足腰体力には自信があったはずなのになあ」
武士はペットボトルキャップを締めて深くため息をついた。
「歳は取りたくないもんだ」
「そうだね。長寿のドラゴンからすれば人間のそのセリフは重く聞こえるよ」
綾は武士の右隣に腰掛けると、同じようにペットボトルのふたを閉めた。
「アタシもタケと同じ、山の生まれって話はしたと思うんだよ」
「足柄のあたりだっけ?」
「そうそう。アタシの一族は代々そこの生まれなんだけどさ、もともとあの辺ドラゴン多いの。山間で人間少ないし、身を隠すにはうってつけだったってわけよ」
綾は正面の夕陽を眺めながらぼんやりと言った。夕陽の光が、綾の顔を照らしてまた火照って見えた。
「まあもとより遮蔽物が多いし、アタシの先祖は飛ぶのやめちゃったのよ。下手に飛ぶと人間に見つかるからね。だからアタシも飛べないわけ」
「てっきりアヤが肥ったとばかり……」
「あー、それも否めない理由だね」
綾は特に気に掛ける様子もなく切り返した。先ほどの振るえた声と、火照ったように見えた顔はやはり夕焼けと喉に絡まった痰の影響だったらしい。
「アタシのご先祖様も飛べなくなったとき、タケと同じこと思ったんじゃないかなってふと思った」
綾はベンチから腰を上げた。
「ただでも、失った代わりに得たものも多いいんじゃないかな。少なくともアタシの実家は飛ぶことこそできなくなったけど、あの土地に定住できて地元ではそこそこの名士になれたしね」
綾はそう言いながら向かいの海に沈みつつある夕陽を仰ぎ見た。
「この街も、物流、工業の一辺倒であることを捨てて、人口が増えたり娯楽施設が増えたりしたりで、得るものがあったはずなんだよ。タケもきっと、何かしらを得ることはできているはずじゃないかな」
「なんだろう」
こちらを見下ろした綾の顔を、武士は見上げる。綾の顔は逆光で陰っておりよくは視認できなかった。
「ゆっくり考えればいいんじゃないかな。結果も答えもすぐに出たら面白くないったら」
綾はそう言うと、ミネラルウォーターのペットボトル片手に踵を返して歩き出した。武士は慌てて立ち上がり、その後を小走りで追った。
二人の着座していたバスターミナルのベンチは、遮るものもなく正面に臨む臨海地帯を赤い空から見下ろす夕陽の光を浴びて寂しげに影を地面に落としていた。
*
六月も下旬ともなると流石に日が長い。武士はジーンズパンツの右ポケットに差し込んでいた黒いスマートフォンのスリープモードを解除する。最近流行中のアニメヒロインが暗く浮かぶ待ち受け画面を背景に、18時半のデジタル時計表示が浮かび上がる。時計の下にはご丁寧にも『本日の日の入りは19時2分』と添えつけるように表示されていた。昨今のスマートフォンは本当に便利になったものだ。
「三時間近く歩いたのな」
武士は自分の少し先をずんずん歩く綾の大きな背中に投げかける。綾は足こそ短いものの太く、持久力があるため、体力のない武士を置いてどんどん先に進んでしまう。
「そんだけ歩いたらタケの好きな物見えてきちゃった」
綾は相変わらず武士の少し先を行きながら、左肩からこちらを振り返って右手で前方を指示した。振り返った綾の口吻の前に突き出て、角が数本頭上から斜め上に伸びる長い顔が沈みかけの夕陽に照らされて真っ赤に燃えた。
「おお……」
綾の右手人差し指の指す先に目を向けると、東京ビッグサイトが黄昏の陽光を受けて赤々と輝いていた。即売会の度に足を運ぶこの『聖地』、武士はあまり意識して見たことがないが故に思わず感嘆の声を上げてしまった。
幾何学的な三角が蒼天の下に君臨する様も美しいが、夕焼けの赤を反射するその様子も、既存の力強さと裏腹に夕陽とともに東京湾に沈んでいくのではないかという儚さをも含有しており、またいつもと異なった美しさを見出すことができた。
本日ビッグサイトでのイベントは、地方都市の土産物展示会程度であった。故にイベント終了の標準時刻である17時を過ぎるとすっかり誰もいなくなる。
駐車している車もほとんど残っておらず、赤色の海原となっている東京湾を一望できる駐車場を左手に、東京ビッグサイト東交差点に行き着く。武士がビッグサイトに足を運ぶのは必ずイベント開催時。人の群れに揉まれてゆっくり移動することがほとんどであるため、駐車場からこの交差点まであまり離れていないという事実に目から鱗が落ちた。
武士は相変わらずビッグサイトを見上げていた。角度を変えて見ると、今度は陽光の当たらない陰りの部分が視界に入り、そこに光の静寂を見出すことができてまた甘美さを感じる。
ビッグサイトを眺めつつも、先を歩く綾を見失わないように慌ただしく横目で追い続ける。一歩歩む度、引きずらないように少し宙に浮かせた太い尻尾を左右に振りつつ歩く綾の背中は先ほどと大きさは変わっていない。距離は開いていないようだ。
気が付くとビッグサイトはすっかり視界の隅へと後退していた。今まで幾何学形の建造物に遮られていた紅い光が武士の網膜を打った。あまりの眩しさに首を反対方向に向けると、視線の先にはやはり赤色に染まったゆりかもめの駅、国際展示場正門駅が頭上にあった。
「ずいぶん歩いたね」
相変わらず先を、太い尻尾を左右に振りながら速足で歩く綾に投げかけた。ふと頭上を動く、長細い影が小刻みな起動音とともに現われる。武士の声もむなしくその音にかき消された。音と影の主である運転手のいない新交通システムのゆりかもめが、国際展示場正門駅に到着したらしい。
本日すっかり人のいなくなったここから出発する者はいないだろう。ゆりかもめは運転手だけでなく、乗客もいないその車体を高架の線路、もといアスファルトの専用の道路を走って寂しく新橋を目指すこととなった。
国際展示場正門駅も視界の隅にすっかり消えると、今度は足元の変哲もないアスファルトが、灰、黒、黄土といった暗い色どりながらも正方形のタイルが敷き詰められた道路に行き当たる。左手には木が生い茂っている。
数歩ばかり歩くと、生い茂った木が開けた。ふと開けたそこを見ると、太陽が今か今かと沈まんばかりの真っ赤な東京湾が一望できた。沈みかけの太陽はというと、本日最後の大仕事だと言わんばかりに周囲に真っ赤な光を力いっぱい投げて回っている。そのあまりの力強さに、武士は思わず左手のひらで庇を作った。
綾は陽光を受けると、ぴたりと立ち止まった。武士と同じように左手で庇を作って、赤い瞳を細めながら海を眺めると、方向転換をしてそちらに向かっていった。武士もその後に無意識に続く。
二人が立ち入ったのは、水の広場公園。江東区に点在する遊び土地を生かした小さな公園だ。
二人は芝生を踏みしめて、東京湾に接近していく。刻一刻と海に沈む太陽を、追いかけているかのようであった。
ふと足元の緑の芝生が途切れる。足元には白色のコンクリが敷き詰められた、踏み面の広々とした低い階段が現れた。本来の色はクリーム色なのだろうが、太陽の大仕事により赤っぽい黄色に染まってしまっている。
綾はそんな階段を一瞥する。そしてようやく自分に追いついて肩を並べることができた武士を見て口角を釣り上げてみせると、階段の最初の段に腰をゆっくり下ろした。
「今日はここがゴール」
綾はそう言って尻尾を背後の芝生にゆっくり下ろし、右手に持っていたペットボトルのキャップを捻った。武士も綾の隣にゆっくりと腰を下ろす。筋肉痛が両足に、電撃のように走り顔を歪めた。
綾はペットボトルに口を付けると、左手を地面につけて口吻の長い顎を上げた。ミネラルウォーターが夕焼けを反射して、キラキラと光輝いた。
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太陽はその半身をすっかり東京湾に沈めてしまっている。逆光で黒い影となってしまっているカモメの群れや、湾に浮かぶ中型タンカーとの別れを惜しむが如く、丸い頭を海から突き出していた。更に往生際悪く空に、海に伸びる赤い陽光は、太陽の別れの挨拶のようでああった。
「アタシは山の生まれだけど」
相変わらず会談の一段目に腰掛ける綾がそんな夕陽を眺めながらぽつりと言う。
「海に沈む夕陽を見るとね、懐かしくなるの。子供のときのこととか思い出す」
綾はそう言いながら、右手に握ったペットボトルを夕陽にかざしてみた。三分の一程度残った香味料付き飲料水が、陽光を乱反射させてその中にもう一つ夕焼けを作り上げた。
「山から見た夕焼けも、海から見た夕焼けも、本質的には変わらない。夕焼けだよ」
武士も綾に倣い、ペットボトルを夕焼けに翳す。綾より内容物が残っていた武士のそれは、内部で波打ってより幻想的な夕焼けが出来上がった。
「あまの原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
「なぁに、それ月夜の詩じゃん」
武士は綾をふりさけ見ず、得意げにふっと笑った。
「中国大陸から見た月も、春日で見た三笠の山の上に浮かぶ月も、おんなじ月なんだなって話なんだよ。東京湾から見える夕焼けも、上毛や足柄の山から見える夕焼けも同じ夕焼けなんだよ」
「見える様相は全然違うのにね」
「本質的におんなじだから、アヤは懐かしくなったんだろ? 俺だって少し懐かしくなってるわけだし」
武士はふと綾を見ると、たまたまこちらを見ていた彼女と目が合う。綾の赤色の瞳に、紅の夕陽が反射する。
「ガキの頃、夕焼け小焼けでカラスが鳴いたら山のふもとの小さい神社で別れたんだ。バイバイ、また明日ってさ。明日とは言いつつも十年以上経っちまってさ、どこ行ったか分かんねえやつもいるし、死んじゃったとかいう話を聞くやつもいる。永遠にバイバイしちまったってわけよ」
武士と綾は同時に正面の海を眺めた。往生際の悪い太陽も、赤々と輝きながら三分の一程度まで沈んでいる。海の向こうから、少しずつ闇が迫っていた。
「ここから見える夕焼けが上毛や足柄の山から見えるそれと同じなら、これと同じ夕焼けをタケの昔の友人もどっかで見てるんじゃないかな」
「この空の続く場所のどこかにいると」
「かもね。理屈的に言えばそうだし、感傷的に言えばおんなじ夕陽を旧友と共有してるからタケは懐かしく感じるのかも」
武士はほうっと感嘆した。ドラゴンは人間と異なり感受性が著しく低く、綾もその例に漏れない。それだけに綾の口から感傷的な物言いが飛び出したことに武士は驚きを隠せなかった。
「空はどこまでも続いている。もしかしたら過去や、未来にもつながっているかも」
「四次元空間じゃあるまいし」
綾はアハハと笑いながら即座に切り返した。武士は少し落胆する。やはり知見と理屈で切り返してきただけだった。
綾はふと正面の東京湾に向き直った。太陽もいよいよ海の向こう側に消えていこうとしている。そして入れ替わりに夜の闇が這い上がってきており、頭上には白い月が幽霊のようにぼんやり浮かんでいる。そのすぐそばに、月の心もとなさとは対照的に一番星が煌々と輝いていた。
「曖昧な空だこと」
「これが本当の黄昏時だよ。うすぼんやりして、いよいよ傍にいるのが誰かわからなくなってくるから『誰そ彼』の時」
海から空へと視線を走らせた綾に、武士は言った。
夜になろうとする空と、夕焼けのままでいたがる空が拮抗し、薄い紺色になっている。太陽が残る一方で一番星や月が遠慮がちに顔を出し、さながら混沌とした状態になっている。
「じゃあ、タケがどこにいるかわかんなくなる前に帰ろっか」
「来た道歩くの?」
「まさかぁ。アタシも疲れたよ。りんかい線乗って帰ろう。付き合わせたしアタシが運賃出すよ」
綾は腰を上げて、武士に右手を差し出した。武士はその手を取ると、ゆっくりと腰を上げた。
「風が気持ちいいし、久々に飛ぶのも悪くないかな」
「飛べないんじゃなかったっけ?」
「遺伝子的に飛べないとは全く言ってないよ。高校時代は結構飛んでたしね」
「なんだよそれ」
ペットボトルを振って指摘する武士に綾は再びアハハと笑ってみせた。
「でもお察しの通り怠惰のせいで飛べないし、タケ持ち上げて飛ぶなんて絶対無理だし、今日はりんかい線ね」
「おう、その口ぶりだといつか俺を乗せて飛んでくれそうだな」
「じゃあ次は一緒に宗谷まで歩いてくれたら考えてあげる」
「それ宗谷まで歩いておいて、疲れて飛べないからゆりかもめで帰ろうのパターンだろ」
武士の指摘に、綾は声を上げて笑った。武士もつられて笑う。二人は笑いながら踵を返し、東京湾に背を向けた。
「晩飯何にするよ?」
「ラーメン食べよう。脂でギトギトのやつ」
「それ歩いた意味ねえじゃん!」
二人は大声でそう語り合いながら、りんかい線国際展示場駅を目指して歩き始めた。
東京湾の夕陽は、一人の人間と一頭のドラゴンを見送りながら、少しずつ、少しずつ海の向こうへと沈んでいった。赤い光が作り上げた黄色の空は、徐々に闇に飲まれていく。実に、19時2分の出来事であった。
夕焼けは闇に埋没していく。明日、また会えることを願いながら。
バイバイ、また明日。
fin