新陳代謝のこと
五月。初夏も目前であると言いたげな太陽が自身を遮る白雲を蹴散らし、我ここにありと言わんばかりに晴天にて自己主張を繰り広げている。
五月上旬の太陽は未だ本調子でない。気温にして二十五度。快適温度である。爬虫類を祖先に持つものの、進化の過程で変温というアイデンティティを捨て去ったドラゴンたちにとっても、本日の気温は例外なく真に快適である。それを証明するように、晴天の下には休日を謳歌するドラゴンたちが、買い物に出たり、公園のベンチで虚空を仰いでいたりなど悠々自適に過ごす様が散見された。
職業柄外出が少ないことが拍車をかけている出不精の逢川綾も、そんなドラゴンのうちの一頭であった。青空に照りかえるウォーミングアップ中の太陽の陽光を浴びて赤色の二重を細めてみせた。右手には最寄りのコンビニの買い物袋。少し遅めの昼食である大き目のおにぎりと菓子パンが入っている。
在宅職の綾の仕事ぶりは実に自由気ままなものである。毎朝七時には起床し、慌ただしく支度を進める同居人の榎本武士を尻目に綾は正午まで熟睡する。平日もこのような日々を繰り返しているため、当然休日も例外ではない。
しかし本日は、祝日休みを謳歌することを試みた武士が気まぐれに開け放しにしていたカーテンが陽光を遮らず、朝日が綾の横顔を直撃したのだ。すっかり覚醒してしまった綾は、布団の中でもんどりを打ちながらも、空腹が追い打ちをかけたため、とうとう二度寝を断念し、昼食を買いに出た次第なのであった。
久々に日の光を浴びるとなかなか心地よい。日光を浴びる気分だったのかと考えるものの、その思考を自嘲の笑みで打ち消した。自分の背中に生えた一対の大きな翼が光合成をする植物よろしく無意識に開いていたことから推測される通り、おおよそ本能が求めたものであろう。ドラゴンも人間も進化の過程で本能を抑制する能力を身に着けたが、結局は根幹は有象無象の生物の一端に過ぎないのだ。
しかし気分がいい。綾は歩調を弾ませながら左手に見えてきた児童遊園に足を向けた。この児童遊園を抜けると、綾と武士の住まう安アパート『サイオパレス葛西』への近道なのだ。
あまりにも気分がいいので、綾は右手に握ったビニール袋を持ち手を軸にくるりと一回転させた。鼻歌でも歌ってくれようか、と思った矢先に、しわがれた怒鳴り声が鼓膜を叩いた。
声の発生源は自身から左側。そこに視線を向けて見ると、歳のほどは七十ほどと思しき老人が一人、骨と皮の下に申し訳程度に肉が残った両肩を怒らせている。その向かいには、寝ぐせのついた髪を右手で撫でる中肉中背の眼鏡男。綾の同居人の榎本武士である。
再び酒がれした怒声が響いた。老人のそれである。どうやら武士に向けられているようだ。内容はあまりにも酒がれ仕切っているため認識することができない。それは武士も同じだったようで、困ったように「はぁ」と、小さく相槌を打つのが聞こえた。綾はそれに向かって短い太い両足を大股に向かっていった。
「アタシの連れが何か?」
綾は老人に話しかけた。成人男性の平均サイズより大柄な図体のくせ、高く細い声だ。だが凛とした、筋金の入った声だ。老人は思わぬ来訪者に吃驚した様子で、皺くちゃの顔を綾に向けた。
驚いたのは武士も同じようで、黒ぶち眼鏡の奥の黒い瞳を一瞬丸くしたが、綾だと理解した途端困った様子で首を左右に振った。どうやら身に覚えがないらしい。
老人は綾に皺に落ちくぼみ白く濁った目を向け、唾をまき散らしながら酒がれした怒声を投げかけた。煙草のヤニで黄色く濁ったボロボロの歯の隙間から、同じくヤニ臭い吐息が漏れる。しかし何を言っているのやらわからない。概ね武士と、いきなり現れた綾への罵詈雑言であろう。さしずめ虫の居所の悪かったこの老人の視界に、武士が運悪く入ってしまったのだろう。このままでは埒が明かない。
「連れにはアタシが言い聞かせておきますので」
綾は語気を強めて言い放ち、老人の頭上から赤い瞳で一瞥した。日光を背後に老人を見下ろしたため正面に陰りができ、大き目の体にましてすごみが増したのであろう。所謂威嚇である。
老人は綾の目を白濁りした目で見返すと、腕を上げて綾の右肩を細腕でごついた。綾はドラゴンの中でもそう大きいほうではないが、身長差にして三十センチ近くある体を小柄でやせ細った老人が身じろぎさせることは当然できなかった。さび付いた本能が負けを悟ったのか、老人は何やらブツブツ言いながらよたよたとその場を後にした。
「運が悪かったね」
ゆっくりと老人が児童遊園を去っていくのを見送って綾が言った。
「助かった。ああいった手合いは本当にどうにもならん」
武士がそういうのを合図に二人は肩を並べて歩き出した。綾と武士も身長差が三十センチ近くあるため、見たくれでは肩は並んではいなかった。
「動物を扱うように、慈悲深く」
「そういうわけにもいかんだろ。相手は人間だぞ」
「じゃあ悪くないなら毅然とした態度を取らないと。人間のルールでしょ。ドラゴンにも適用されちゃうけど」
「事は穏便に済ませよう」
「はらわた煮えくり返ってるくせなぁに言ってるの。自分の気の弱さを棚上げしちゃダメだよ」
綾の一言に、武士は参ったと言わんばかりにうなだれた。それを尻目に、綾は右手のコンビニ袋をくるりと二回転させた。
*
「そういやさ、タケは今日何してたの」
アパート自室に戻り、綾は狭きアパートの更に狭い自身のパーソナルスペースである万年床の上で、コンビニで購入した大きなおにぎりをほうばりながら言った。平日は朝から晩まであくせく働き、時たま休日にも出勤するほど超過労働の日々を過ごす武士がたまの休日にわざわざ外出するのは珍しい。おおよそは綾と同じく、正午を過ぎるまで寝息を立てていることが多い。
「大学……」
対する武士は自身の寝床であるベッドの上で、黒色のスマートフォンを弄りながら小さく返答した。
「……怪しいセミナー?」
「違うよ」
「じゃあ入りなおしたの? 学費馬鹿になんないんだから一発で入りたいところに入ってそこで全部吸収しないと」
「いやそれも違う。普通に考えろよ。そもそもセミナーに出る金も大学入りなおす金もないって」
綾は武士の返答に、もう一口おにぎりをほうばって首を傾げてみせた。おにぎりの具材は焼きたらこ。綾の大口でも、二口かじるまで到達できなかった。
「母校だよ。母校の大学に顔を出していたんだ」
武士はなかなか答えの出ない綾に耐えかねて、スマートフォンから顔を上げた。武士は上毛の山中出身で、大学進学とともにこの葛西の地に上京してきた。大学最寄りのアパートは抑えられなかったものの、そう遠くない葛西に居住を構えられたので、卒業してもなおそこに住み続けている現在も母校に顔を出すくらいなら疲弊している武士にもそう骨の折れる行動ではないはずだった。
「図書館にでも行ったの?」
「違う違う。部活に遊びに行ってたんだよ。そろそろ新入生も定着するころだろうし顔見に行こうと思ってさ」
武士はスマートフォンを枕の上に放り投げると、上体を起こして壁にもたれかかった。部活とは文芸サークル。武士と綾は他大学同士の交流会で知り合った。
「今年の新入生もなかなか面白い顔ぶれが揃っててさ」
「いいかげん卒業しなよ」
綾は武士の台詞を遮るように言うと、コンビニ袋におにぎりの包み紙を突っ込んで、一緒に購入した菓子パンを取り出した。
「卒業してるよ」
「違うよ。精神的に卒業しなよってアタシは言いたいの」
綾はそう言うと菓子パンの袋を手で割いた。新商品の『おおきなクロワッサン』は、綾の手の平サイズあった。
「大学は遊び場じゃないんだよ。学ぶもの学んで修めたから卒業証書を授与されたわけで。次は学んだことを生かしていかないと」
「いいじゃんかよ。ちょっと遊びに行くくらいさ」
武士はふてくされたように再び布団に上体を横たえた。
「まあ私学の施設費見たら、元取らなくちゃって思う気持ちはわかるよ。最近は国立でも割に合わないもんね」
「そんなんじゃないよ」
武士は勢いよく上体を起こした。その勢いで、ベッドの上に転がしていた武士の黒い純正皮の長財布が着ていたシャツに引っかかり、宙を舞った。
「はい、パス」
綾がそれを空中でつかむと武士に投げつける。武士は驚嘆しつつも間一髪それを両手で受け止めた。
「ああ、そうそう。後輩がさ、バイト先のタダ券くれたんだよ」
武士は財布を開き、一枚の小さな紙片を取り出し綾に突き付けた。
「韓国エステ?」
綾はクロワッサンを口吻の先っぽに咥えたまま首を傾げた。
「言っとくがいかがわしい店じゃないからな。普通のエステ店だよ。せっかく休みだし、一緒に行かないか。アヤの分ももらってきたから」
「そうだね。どうせ暇だし」
綾はクロワッサンを咀嚼しながら頷いた。
*
件のエステ店はアパートからそう遠くないところにあった。どうやら武士の言う後輩も、葛西近辺の住民なのであろう。
その店は垢すりが主力らしく、無料券も垢すりが対象だった。ドラゴンの皮膚は人間のそれと比べ硬質で、垢すりには適さない。綾もその例に漏れない。よって綾は無料券の恩恵を受けることができなかった。晴天の昼下がりでは目に優しくない極彩色の派手な店舗の前で、道中のコンビニで購入した棒アイスを食しながら武士の帰還を待つ運びとなった。
ソーダ味の涼し気な水色のアイスバーをしゃぶりながら、綾は頭上からぶら下がるネオン看板をぼんやり見上げた。夜は妖しく蛾と中年男性を呼び込むこの看板も、明るい昼下がりでは、黒く堆積した埃が目立つだけで昼行燈の用すらもなしえていない。文字が書いてあり、ここが店舗であるという目印となっているのがせめてもの救いであろう。
綾にはハングル文字の素養がないため何と書いているかは全くわからないが、並列する日本語からその意味は概ね予想がついた。読解できる人が少ない文字を、その地域の公用語と同じサイズでわざわざ書き連ねているのは、負けず嫌いの民族柄故だろうか。
「お待たせ」
そんなことをぼんやり考えていると、武士が店舗から姿を現した。心なしか肌づやがよく、血色もよくなったように見える。気分もよくなったのか顔に笑顔を湛えている。
「その様子だとよかったみたいだね」
「まあね」
綾は武士の返答を待って、残り一口となっていたアイスバーをほうばった。
「見てくれよ。これ俺の体から出た垢なんだぜ」
退店時から右手に大事そうに握っていたものを武士は綾に突き出した。鼠色のゴルフボール大の塊。視認して湿気を含んでいるのがよくわかる。
「やめてよ汚い」
「いやでも、こんなに垢が出るなんてすごくね?」
「それ絶対要る皮膚も削ってるよ」
相変わらず垢の塊を突き出してくる武士を、綾は残ったアイスの棒で制した。垢の塊から滴る汗なのやら油なのやら見当もつかない液体と、アイス棒に残された砂糖水と唾液の混合物が日光を反射してらてらと輝く。
「今は要らなくても要るものまで削ったらあとで足りなくなって困るったら」
綾は武士のほんのり赤みを帯びた両腕を見ながら言った。
「急ピッチで再生産するさ」
「じゃあ体を応援してあげなきゃ」
綾はそう言って左手に握っていたコンビニの袋を突き出した。アイスとともに購入したスナック菓子の袋と、二つのシュークリームが入っている。
「すぐに食べたいな」
武士は袋を受け取りながら言った。袋にはアイスの結露した水滴が、未だ蒸発せず付着していた。
「天気もいいし、そこの公園で食べよっか」
綾は右手に握ったアイス棒を正面に突き立てて裸足の踵を返した。先陣を任されたアイス棒が、同じく蒸発せず付着し続けている砂糖水と唾液に陽光を反射させキラキラと輝いた。
*
江戸川区は子育ての街。誰が言い始めたか『葛西』という地名を検索エンジンに打ち込むとそんな口上が数万件の検索結果の最初の方に表示される。そんな検索結果に恥じない程度に、葛西の街は児童遊園が多い。昼時に綾と武士が通り抜けた小さな遊園と比較にならない程度に大きいそれが、二人の住まうアパートの近所にいくつか点在していた。
二人はエステ店から最寄りの児童遊園にたどり着いた。面積にして帰宅時に二人が近道に使う公園の倍程度はある。
本日は祝日。武士の母校は授業が開講されていたようだが、超過労働者である武士を含め一般民衆は羽を伸ばすことのできる貴重な日だ。
子育ての街と吹聴されてはいるもののやはり都心であり、交通量が多い。交通事故等の悲劇を起こさぬよう各所で言明されているであろう地元の子供たちは、その約束事を遵守しこのようなそう広くはない公園で駆け回っている。
少子化が謳われる昨今であるが、公園に集う子供の数は多く感じる。そんな子供の合間をぬう様に、ベンチには休日特にすることもなく、適度に日光を浴びに来たドラゴンがぼんやりと大口を開け、虚空を見上げて鎮座している。その様は酸素を得ることを諦めた金魚のようであった。
子供たちは遊ぶのに忙しいのでベンチに座らない。晴天の白雲の数を数えるドラゴンもそう多くないため、綾と武士はすぐに腰を落ち着ける場所を得ることができた。場所は公園の若干奥まった、適度に日光の当たる場所を陣取ることができた。正面を見ると公園の出口が見え、通りを行きかう車や住民の姿を視認することができた。
「竜の子もいるね」
尻尾を持ち上げるのが面倒なのか、股の間から尻尾を出して大股を開き、だらしのない格好で座っている綾は正面の通りを意に介さず、公園を駆け回る子供たちを乾いて干からびたアイス棒で指し示しながら言った。人間の子供に交じって、ドラゴンも一緒に駆け回っている。ドラゴンは寿命が長いくせすぐに人間の成人男性よりも大きくなるため、武士には自分より大柄のどれが子供のドラゴンなのやら見当もつかなかった。
武士はコンビニ袋からシュークリームを取り出し、包みを開くとすぐにかぶりついた。綾が選んだのでやはりサイズは大き目で、最近食の細い武士はこれだけで満腹になれそうだった。
「アタシのも取って」
「自分で取りなよ」
「いやタケが袋持ってるでしょーに」
綾は武士に向き替えると同時にぎょっとする。未だ武士が垢の塊を左手で弄んでいたからだ。
「ばっちいから捨てなって」
綾はベンチの左端に座る武士と、右端に座る自分の間に置かれた袋からシュークリームを取り出した。
「いやなんか捨てるの忍びなくてさあ」
「体が要らないって判断したから排出されたものでしょ。多分要る皮膚も混じってるとは思うけど」
綾は包みを引き裂くと、シュークリームに牙を覗かせた大口でかぶりついた。この一口で大き目のシュークリームは既に半分がなくなっている。
「要る皮膚が恋しいわけ?」
「いや、なんか自分の体からこんだけ出てきたらテンション上がるでしょ?」
「わかんないよ」
「だよなあ。人間の男あるあるだもん」
武士は綾から遠い自分の左側に垢の塊を置くと、右手で握っていたシュークリームを齧った。食が細い上に生来の貧乏性で、綾と比較せずともその一口はかなり少量だ。
「生き物の体って古くなった要らないものは適度に排出して新しくしていくの。新陳代謝ってやつ」
綾は残り半分のシュークリームを平らげると、包み紙と入れ替わりにコンビニ袋からスナック菓子の袋を取り出した。もちろんこれも大き目のサイズだ。袋が風で飛ばされないよう気遣いか、握っていたアイスの乾いた棒を中身が減ってひしゃげた袋の上に置いた。心もとない重石だ。
「そう考えたら組織って生物の体の仕組みと似てるよね」
「あー」
武士は唸りながら小さな一口でシュークリームを齧った。最初の一口は大きかったものの、シュークリームは一向に減る気配を見せない。
「社会が人体で、構成員は細胞、循環するお金は血液ってよく例えられる」
「そうそう」
綾は相槌を打つと同時にスナック菓子の袋を開封した。
「学校ってのは縮小された社会なわけだから、その考え方が適用されなくもないよね。代謝はずいぶん早いけども」
「俺が部活にとっての老廃物ってか? それは違う。学校は人を育てて社会に貢献する人材を作る場所だから、縮小された人体構造ってより細胞そのものを作り出す器官だな」
「おお~、タケにしてはいい返しじゃん」
「さしずめ精巣ってところだな」
「うわあ真っ先にそこが出ちゃうか。それに精子は体の外に出ちゃうからちょっと違うね」
スナック菓子を大きな右手で引っ掴んで口に放り込む綾に向かって、武士は口角から舌を覗かせてみせた。
「タケも一人前の細胞なんだから、体に貢献してみせてよ」
「俺はこういう形で部活という器官に貢献してるんだ」
「まぁた職員でも教員でもないくせにそんなこと言っちゃって」
綾はそう言いながらスナック菓子をバリバリと食んでいる。それを尻目に武士は正面の通りを凝視している。
「あれ、さっきのジジイじゃね?」
武士は通りの先を指して見せた。赤い乗用車が通過すると、その陰から骨と皮だけになった心もとない両足をゆっくり動かしながらよろよろ歩く、小柄な老人の姿があった。
「アタシに聞かれてもわかんないよ。タケ以外の人間はみんなおんなじに見えるんだから。タケがわかんないならアタシには絶対わかんないよ」
「俺もアヤ以外のドラゴンはみんな同じに見えるから、お互い様だな」
顔を突き合わせて笑って見せると、それを合図にしたかのように通りの老人が蹴躓き、アスファルトに仰向けで打ち付けられた。
「あ~あ、何もないところで転倒か。あれはもう長くないね」
スナック菓子を咀嚼しながらの発言だったため、綾の声はくぐもっていた。
「さっきはずいぶん元気そうだったけどな」
「年寄なんて老け込むのあっという間だよ。人間の倍生きるアタシらドラゴンから見ればホントに顕著」
仰向けにひっくり返りながら、晩夏の蝉よろしく手足を力なくばたつかせる老人を眺めながら綾は言った。
そんな老人の前方から二頭のドラゴンが談笑しながら歩いてきた。老人は助けを求める酒がれした声を必死に張り上げている。その悲鳴も通り過ぎる車のエンジン音にかき消されてしまった。
二頭のドラゴンは足元に転がる老人に目もくれず、立ち去って行ってしまった。老人の怒りを孕んだ悲鳴は通り過ぎるドラゴンたちに向けて放たれているが、それも車の走行音にかき消された。
「ドラゴンは冷たいね」
「冷たくないよ。助けるメリットがないだけ。やせ細っていても成人男性はそう軽いもんでもないし、そんな労力を割いたところであの人が謝礼をくれるわけでもなさそうだしね」
綾はスナック菓子の袋に手を突っ込む。今度は二頭のドラゴンとすれ違いに二十代と思しき若い女性がハイヒールを鳴らしながら歩いてきた。着飾って化粧をしているあたり、これから繁華街にでも繰り出すのであろう。
地に伏す老人は再び助けの悲鳴を上げる。女性はそれを一瞥すると、不愉快そうな表情に変わり速足にその場を後にする。老人は女性の背中に怒声を投げつけるが、やはりそれも通り過ぎる車の走行音にかき消された。
「人間も冷たいね」
「女手ひとつじゃあれ起こすの無理だろうし、何より急いでたんだろ。ハイヒールじゃ足に力も入んないし、せっかくキメた服も台無しになる」
「服を乱してまで助ける慈悲はないと」
「メリットがなくても慈悲があれば人助けをする。それも限界があるけどね。慈悲だけで何人も病人を助けたからマザーテレサはノーベル賞をもらえたのであって」
通りを行くワンボックスカーの後部座席の開いた窓から、少女が風を浴び心地よさげに目を細めている。もちろん車が止まることはなかった。
*
アスファルトの上に仰向けに転がった老人は未だに手足をばたつかせている。その動きも、徐々に力がなくなっていっている。それを尻目に、自動車は通りを排気ガスをまき散らしながら走り去っていく。まるで老人が見えないとでもいうように。
「そろそろ助けてやったほうがいいんじゃねえの?」
武士が紫色の副流煙を晴天に吹き上げながら言った。
「誰が助けるの?」
「動物を扱うように慈悲深く、だろ? アヤ」
武士は煙草を一口吸うと、鼻から紫煙を空に巻き上げた。
「事は穏便に済ませるんでしょ? タケ」
「俺は根に持つタイプなんだ」
「アタシだって非合理的な体力の使い方はしたくない」
煙草を深く吸い込む武士に、綾は首を振る代わりに股下からぶら下げた太い尻尾を首を振る代わりにぶんぶん左右に振った。
「アタシ、女の子だし」
「何人間の女みたいなこと言ってるんだよ俺よりでかいくせしてさ」
晴天の太陽が雲に陰った。先ほどまで日が照っていた正面の通りが瞬く間に影を映し、地に伏す老人は雲の作るつかの間の陰りに飲まれた。
「じゃんけんで決めよう。負けたほうが助けに行く」
「公平だね。文句言いっこなしだよ」
綾の一言を皮切りに、武士は靴の裏で煙草の火を擦り消して小銭入れのような携帯灰皿に吸殻を放り込んだ。
二人が拳を作った右手を振り上げた瞬間だった。通りの右側から中年女性が買い物袋を片手に小走りで地に伏せっている老人に駆け寄った。綾と武士はその姿を視認すると、振り上げた右拳をゆっくりと下げた。
「マザーテレサの登場だ」
武士はそう言うと左手に握っていたシュークリームの残りを、先ほど少しずつ齧っていたのが嘘のような大口で、一口で平らげてしまった。
老人は中年女性にゆっくりと上体を起こされた。ばたつく手足の力もなくなっていたため、無論自力で起き上がる体力も残されていないらしい。同じく威勢のいい罵声ももう出ないようで、皺ですぼんだ口をもごもご動かしていた。この期に及んでまた呪詛を吐いているようだ。
中年女性はそんな老人を尻目に携帯電話で通話している。さしずめ救急車でも呼んでいるのだろう。武士はそれを眺めながら二本目の煙草に着火する。綾はスナック菓子の袋をひっくり返して大口に残りカスを流し込んだ。
武士の煙草が半分ほど燃え尽きたころに、救急車が赤いサイレンの灯をまき散らしながら到着した。後部ドアが開くと間髪入れず担架と青い服を纏い、白いヘルメットを被った救急隊員が二人飛び出してきた。
「行こうか」
武士が最後の副流煙を吐き出し、残されたフィルターを靴の裏に擦りつけるのを横目で確認しながら、綾はゴミの入ったコンビニ袋の口を括りながら立ち上がった。武士も吸殻を携帯灰皿に投げ込んで立ち上がる。もちろん、左手で乾いた垢の塊を掴むのを忘れなかった。
「転んで足を挫いた? えっ? 折れた? ひとまず病院行きましょうか」
担架の上に乗せられた老人は、救急隊員相手にすぼんだ口を動かしながら、皺だらけの右手で自身の棒きれのような右足をさすっている。救急隊員の片割れは中年女性に事情を聴いていたが「私も通りかかっただけで……」と、女性はさも面倒そうに応対していた。善意も突発的に発生したもので、持続はしなかったようだ。
目の前の出口から出た綾と武士は、横断歩道を渡るとすぐに救急車の到着した現場に行き当たった。
「大腿骨折ったら寝たきりになるらしいね」
綾は救急車がサイレンを回しながら止まっている現場にすれ違う際に大き目の声で言った。武士は自分に向き直って発された綾の一言に驚嘆しながら、綾の翼の生えた背中に右手を回して速足にその場を去るよう促した。
「社会からはじかれちゃうわけだ」
綾は正面を向いたままぼそりとつぶやいた。武士は背後を振り返る。救急車は後部扉を閉めると、再び赤い光をまき散らしながら走り去って行った。中年女性の姿は既にない。
少しばかり歩くと、太陽を遮るような大きな建物のない空き地が正面に行き当たった。少しばかり時間が経過したのだろう。先ほどまで雲に隠されていた太陽は西に向かってゆっくり動き始めているようだ。五月と言えど、未だ日は長くない。太陽もそろそろ帰宅を考えているようだった。
武士は左手に握っていた垢の塊を右手に持ち直すと、綾の背後から晴天の太陽に向かって振りかぶり、投げた。
垢の塊は綾の立派な数本の角の並んだ頭上を通過すると、太陽に吸い込まれるように小さくなり、見えなくなった。
fin