生命の輝きと向かう先の標のこと
浪漫談義
海室
人生というものに意味はあるのだろうか。人類として生を受けた者は年代性別を問わず一度は自問自答を行ったことがあるであろう究極の命題である。
高名な為政者となり人々を導かねばならないのか。天才的な頭脳を持つ研究者となり、後世に残る発見や発明を行わねばならないのか。作家となり名作を執筆せねばならないのか。方法は数多あれど、多くの人々はそれを成し遂げるほどのものは持っていない。人類は現在地球上に70億ほど存在するが、そのほとんどは後世に残せる功績など打ち立てることなく天寿を全うしていく。
「生きる意味や価値を考え始めると、我々は、気がおかしくなってしまう。生きる意味など、存在しないのだから」
ジークムント・フロイトはこう述べた。一度はその名を目にしたことがあるほどの心理学の権威のその人生ですら、意味を成さないという。しかしそれはどうだろうか。近所の家の庭先につながれている愛玩用の犬に、果たして生きる意味は、価値は皆無である、といえるだろうか。その犬の飼い主は首を縦には振らないだろう。
どんなものにもその存在価値は多かれ少なかれ存在する。しかしそれは、大きくなければ無価値なのであろうか。人類は70億ほどの頭数の一方で、世界で数十億の数まで膨れ上がっている人類に次ぐ知的生命体であるドラゴンは、この究極命題をどのように受け止めているのだろうか。
*
今年の春は温暖である。否、少々汗ばむ程度の暑さであった。5月初頭の神奈川県鎌倉市の相模湾に面する由比ガ浜は、海開きがなされていないながらも多くの観光客を迎えていた。春先の大型連休の最中、いつもより温暖な気候のため海水を浴びたいと熱望する観光客たちも多かれ少なかれ存在しただろう。遊泳を禁ずる立て看板こそなけれど、一人も肌を晒す者が存在しない海岸にわざわざ飛び込む者はなく、麗しの由比ガ浜は海岸で右往左往する数多の観光客を眺めながら大型連休をほどほど静かに過ごすこととなった。
いざ鎌倉。同居人、否、同居する雌のドラゴンである逢川綾が由比ガ浜よりほどほど離れた住処の東京都江戸川区は葛西にてそう言い放ったのは大型連休が終わった翌日朝一番のこと。武力平定でもして幕府でも打ち立てるのかと榎本武士は寝ぐせのついた頭を掻きむしりながら問うたが、新政権を打ち立てるための武力や人脈を用意できるほどふたりには友人も資金もなく、いくら名の知れた名門大学を最終学歴に持っていてもそれを成し遂げる方法はこれっぽっちも思いつかない。
「ていうかアヤの実家って足柄の辺りじゃなかったっけ」
「うん。山北町ね。ていうかイクちゃんが海兵隊に志願したとかなんとかですごいモメててアタシが実家近寄れないの知ってるでしょうに」
郁とは綾の妹のことである。アメリカの大学で心理学を専攻したのち、何を考えたか米海兵隊に志願すると宣言しだした。なんでも昨今の東ヨーロッパの戦役に対して平和に対する意識が向上したとのことだった。スマートフォンごしに金切声を挙げる綾の母親の声、何を言っても暖簾に腕押しの郁、そして何故かそれに巻き込まれる武士。感情表現が世辞にも豊かとは言い難い綾ですら、辟易した様子を表情にたたえていたのを思い出した。
「郁さん存外頑固なんだね」
「ウチの構成員はみんな大なり小なり頑固だよ。国防の任に着きたいなら自衛隊でいいじゃんとは思うんだけどさ」
綾は頭を抱えて首を横に振ってみせた。
「それで疲れたから鎌倉へ?」
「タケはそれでいいでしょ。アタシが鎌倉に行きたいのは特に理由はないよ。鎌倉に行きたい。それだけだよ。そもそも旅行に理由なんて要る?」
そう言われればそうだな、と武士は相槌を打ってみせた。
「はいじゃあ週明け月曜日。有給休暇残ってるでしょ。宿は取ったんだから問答無用で行くんだから」
気が早いのか、準備がいいのか。武士は慌ててその日の朝一番に有給休暇取得の申請を行うこととなった。
*
神奈川県民に出身地を聞くと、おおよその県民は県名ではなく、横浜や横須賀、川崎などの自身らの故郷である自治体名を答える。神奈川県出身である綾も例にもれず、彼女がついぞ自分の出身地を神奈川県と言った様子を武士は見たことがなかった。郷土愛が強い県民なのである。
『横浜県』などと地方民に揶揄されるほど、横浜市民の地元愛の強さは筆頭に挙げられるほどであるが、鎌倉市民のそれも負けず劣らずである。横浜に比類するほど、鎌倉には多くの名物があり、それらが市民の郷土愛を焚きつける燃料となっている。
鎌倉大仏を筆頭に稲村ケ崎、鎌倉高校前の海が一望できる美しい坂道など枚挙に暇がない。どこを見に行くものか。鎌倉は初訪問となる武士が心を躍らせていると、綾が出した地名は『由比ガ浜』の一つだけだった。
「え、由比ガ浜以外行かないの?」
呆気に取られる武士に綾は大きく一つ頷いた。
「途中下車で大仏様も見れるし、ちょっと行ったら稲村ケ崎も鎌倉高校前の坂も見れるじゃん。行こうよ」
「しんどい」
綾は天井に二重の紅の瞳を向けながらため息をつくように返答した。武士は首を傾げる。
「休暇じゃん。ゆっくり過ごそうよ。それ以上の意味はある?」
綾は赤い光彩をゆっくりと武士に向けながら補足するように付け加えた。もったいないと思う反面、いざ意味を述べようとすると思いつかないことに武士は気づいた。
「現代を生きる人間もドラゴンもあくせくしてるじゃん。たまにはゆっくりしようよ。タケも多分気に入ると思うから」
そんな会話をしていたのは道中の電車の車内だった。大船駅から乗り換えた横須賀線のウルトラマリンブルーの車体の車窓からは、未だ山がちな住宅街が流れて行った。次の駅は北鎌倉。待望の海まであともうひとがんばりだった。
葛西から由比ガ浜までの旅程は時間にして実に2時間程度である。葛西駅から東京メトロ東西線に乗り込み、大手町駅に出て徒歩で東京駅に至りJR東海道本線に乗り換える。通勤電車にしては半端に長い時間を乗車し、大船に到着でいよいよ鎌倉市入りで、横須賀線に乗り換えようやく鎌倉駅。そこから江ノ電に揺られて短い路面電車の旅をすることとなる。
「関東は都道府県間の移動が楽でええね。関西やとどうしても県境は山がちになるから……」
かつて綾の大学の先輩である中川がそんなことを言っていたことを思い出した。関西と比べて確かに移動は容易かもしれないが、それでも時間はかかり、たとえ旅が愉快でも乗車時間はやはり消耗する。
太陽が天辺に昇りきらない午前中ながらも、出不精の武士は早くも移動疲れが表情に出てしまっていた。
「ほら移動しんどいでしょ」
綾の突き出した口吻が武士の視界の端に入り込む。ドラゴンは特に表情に乏しいものであると世間では定義されているものの、綾の口角は吊り上がり牙を見せ「言わんこっちゃない」と言いたげであった。
「ようやくヒトの表情がわかるようになったか」
「アタシが疲れただけ」
綾の口吻が視界から消える。武士が顔を上げると、右隣に座っていた綾の紅の瞳が乗降ドア上部のデジタルサイネージを見つめていた。『次は鎌倉』の太い文字がハングル表記に切り替わった。
「さ、あと一息。次は江ノ電だよ」
綾が言い終えると同時に社内アナウンスが鎌倉駅到着を気だるげな声で告げた。
*
由比ガ浜は鎌倉市が誇る観光地の筆頭である。それゆえ、近辺には宿泊施設がほどほど乱立していた。春の大型連休を終えたシーズンオフの今、どこの宿泊施設も閑古鳥が鳴いており、金に糸目をつけなければ文字通り選り取り見取りであった。
かつてふたりで旅行した富士河口湖では、綾はそれなりに高級な旅館を押さえていてくれた。この度も期待ができるだろうと足取りを弾ませながら綾の大きな一対の翼と太い尻尾の生えた白い背中を追いかけた武士は、彼女が足を止めた緑に変色した壁の簡素なビジネスホテルのような宿泊施設を視界に入れて愕然とした。
「しけた旅館だな」
「ホテルだよ」
「どっちでもいいや。飯出るのここ」
「朝食バイキングだけね。ていうか全額負担させておいて王族のような口ぶりだね」
武士は綾のそんな一言に口ごもるものの、こういうのはいつもあまり金額気にしないんじゃないかと付け加えた。
「たまには気分変えてね。ゆったりするといえ旅行なんだから非日常味わわないと」
綾は武士に口角を上げつつそう言うと、ホテルのロビーへと入室していく。なるほどどおりで本日は荷物が少ないわけだ。武士はふたりぶんの荷物として持たされていた小さなナップザックを背負いなおして綾に続いた。
朝食付き一泊二日一人5000円。観光地にしてはずいぶん安い。その安さがあってかロビーは誰もいないにも関わらず既に煙草のヤニの臭いが充満しており、天井は黄色く汚れている。フロントの中年女性の従業員は、連休の疲れが残っているのか、はたまたその宿泊費に見合った給金の安さ故か表情に覇気が鳴く、ふたりを見るなり気だるげな様子で起立し「おかえりなさいませ」と言ってぶっきらぼうにお辞儀をした。今初めて来たっつーのというツッコミの一言を、武士はぐっと飲み込んだ。
終始億劫そうなフロント従業員に綾は名前を告げ、本日宿泊する部屋の鍵を受け取る。部屋番号は608号室。低級ホテルのくせ存外高い建物だ。
「今日は煙になって高いところに昇ろう」
「煙になるのはくたばってからでいいんだよ。今日は馬鹿になろう」
「いいねえ。いつもアタシら馬鹿だとは思うけどね」
綾は右手人差し指を部屋の鍵のキーホルダーのリング部分に突っ込み、プロペラのように回転させながらフロント右手にある年季の入ったエレベーターに乗り込む。武士はふとフロントに視線を走らせたが、中年女性の従業員は口元を押さえることなく欠伸をしていた。どうやら荷物を運ぶホテルマンなどはいないらしい。運ばせる荷物など特にないが。
ご丁寧にもエレベーター内部までヤニ臭が充満しており、壁も黄色く汚れている。綾が六階のボタンを押すと同時に「昭和47年製だって」と耳打ちするように小さく言って来た。視線を巡らせると、今しがた2階を示すランプが点灯したドアの上部の階数表示の右横にそのような製造年が書かれていた。聞いたこともない製造会社の代物だった。おそらく既に倒産しているのだろう。
突然エレベーターの籠全体が地震を受けたように大きくがたりと揺れる。思わず武士は壁に右手をついてしまう。もはや掃除も意味を成していないであろうヤニぎった壁は、手のひらに若干べたつきを感じて不快になる。
扉が開いた。どうやら6階に着いたらしい。廊下は一本道で左手側はやはりヤニで黄色く汚れた壁、右手側に宿泊室の扉が並ぶ。フロアの一番奥は窓張りになっており、5月の太陽に照らされた由比ガ浜の白い砂が一望できる。高見まで登ってようやく最初の長所を見出すことができた。
部屋は601から始まり、604はお約束通り存在せず、608号室まで。本日の部屋は最上階の角部屋であった。綾がドアを開けると、彼女の背中越しに見えたのはやはりヤニ臭い黄色い壁紙と、左手にベッドが二つ、右手にブラウン管テレビ、再奥手はガラス張りで由比ガ浜が風景画のように一望出来ていた。
「眺めはいいな」
「そ。このホテルで一番眺望のいい部屋を取ったの」
綾はそう言いながら部屋に小走りで入室し、ブラウン管テレビの傍に放ってあるリモコンを右手に取って奥側のベッドに腰かけた。
武士も視線を泳がせながら綾に続いて部屋に入る。おもむろに綾は右手のリモコンをブラウン管テレビに向け、電源を入れる。画面に全裸の女性が露店風呂に入っている映像が映し出されたが、瞬く間に真っ青の無機質な画面に『テレビカードはフロントまで』の白い文字が表示された。
「エロ番組は有料か」
綾は口をとがらせながらテレビの電源を消し、リモコンを背後に放り投げた」
「家でネットで見りゃいいだろ」
「こういうところで見るエロ番組は旅行の醍醐味だよ」
「オッサンかよ」
武士はそう言いながら入り口から見て手前側のベッドの上に背負っていたナップザックを放り投げた。
「点けたり消したりしたらコマ送りみたいに見れるの知ってる? タケも昔やったでしょ」
「やってないよ。なんでそこまでしてエロ番組見なきゃいけないんだ」
「面白いからかな」
綾はそう言いながら右手に握っていた自身のスマートフォンも背後に放り投げた。スマートフォンは枕の上に着地する。
ドラゴンの中には人間向けのアダルトビデオをエンターテイメント感覚で嗜む者が一定数存在する。その姿をついぞ見たことはないが、綾もどうやらその派閥のドラゴンらしい。
「そんなくだらねえものより、景色を楽しんだらどうだ。残念ながら俺らに目は一対しかない」
武士はそう言いながら部屋奥の窓に右肩を預けてみせた。
部屋から一望できる由比ガ浜は、御前に真っ白な砂浜を湛えていた。本日晴天、燦燦と舞い散る日光が波のうねる海面に反射して輝く。東は窓に面して背面側になるが、太陽が昇りきっていないため日光は斜めに落ちてきている。その様が海面に星の道を作っているように見えた。
「天の川みたいだな」
そうつぶやく武士の隣に綾が並んだ。
「キラキラが一本道みたいに並んだら人類は往々にしてその表現を好んで使うね」
武士はベッドの上で短い綾に視線を向ける。短い脚をベッド上で胡坐にしていた綾の紅の瞳孔が海面の光を受けて輝いている。
「天の川、英語ではミルキーウェイ、乳の道。表記としてはどちらも的を得ているかもだけど、アタシは日本語のがロマンチスト味を感じるかな」
「ほう。そういうものがわかるようになったか」
「出先のエロ番組に醍醐味を感じる程度にね」
再び口角を上げてみせる綾の横顔を見ながら武士はあきれたようにため息を一つついた。
「一本にまとまってるものに意味を持たせるのは人間の面白い所。アタシらドラゴンはあの天の川みたいな太陽光線もアレと同じように見えるよ」
綾は右手人差し指を窓向こうに向けた。その先に視線を向けると、そちらは逗子方面の山側、黒い一筋の煙が天に向かって細く立っていた。
「野焼きでもやってるのかね」
「何にせよ一本にまとまったものが一定の方向に向かって伸びている。それだけ」
綾の一言に武士はふうんと鼻を鳴らしてみせた。
「煙は天に向かって上るが、昼の洋上の天の川はどこに向かうんだろうな」
「わかんないよ」
綾の即答に武士は苦笑してみせた。
*
遠き江の島の彼方に陽が落ちようとしている。昼食をホテルから最寄りの、世辞にも美味とは言い難かったラーメン屋で済ませ、部屋に戻り窓から砂浜を闊歩する疎らなヒトやドラゴンを数えたり、アダルトチャンネルをコマ送りで視聴するためブラウン管テレビの電源を連打したり、相変わらず山向こうに立ち上る黒煙を窓越しから指でなぞるなど、おおよそ生産的とは言い難い時を数時間過ごしたのち茜色に染まる白砂と海原を近くで見んとしたふたりは、いよいよ由比ガ浜に繰り出した。
「夕焼けを全身で浴びることができるな」
「東京湾と違って海の上に何にもないからね」
砂浜に立ち、正面から煌々と刺す夕陽に向かって両手を広げて抱え込むように浴びる武士に綾は水を差すように背後から言い放った。
「ていうかここからでも稲村ケ崎めっちゃよく見えるじゃん」
綾の指摘通り、夕陽が傾きかけている直下に稲村ケ崎が黒い大きな影としてぽっかり浮かんでいた。
「確かに稲村ケ崎まで行っていたらこの対比は見れなかっただろうな。収穫だよ」
「稲村ケ崎からも見えるものはあったと思うけども」
綾はそう言いながら両手を一対の角の生えた頭のやや下あたりで後ろに組み「まあまたの機会だね」と付け加えた。武士は後頭部で手を組みながら自分の前に出てきた綾の背中を、夕陽と影と化している稲村ケ崎とフレームに入れて、スマートフォンのカメラで写真に収めた。切り取られた綾も稲村ケ崎と同じくぼんやりとした影となっていた。
「夕焼けの 海原走る 標かな」
「夕焼けは 夏の季語だよ へたくそめ」
綾は武士を振り返り、口吻の先から舌をぺろりと出してみせた。綾の瞳の色は夕焼けより赤みの強いルビー色だ。
「しかしまた急に何故俳句なんか詠んだんだよ?」
武士の問いに、綾は太い右腕を肩の高さまで上げてまっすぐ人差し指を海に向けてみせる。その先には夕陽が海に落とす紅の天の川、夕陽の照り返した光が真っ赤な海原に輝いていた。
「なるほど、落ちる太陽を標に洋上を光が駆けているわけだ」
綾は夕焼けを背負う形で武士に向き直り、両手を腰に当てて口角を上げて得意げに大きく頷いてみせた。
「しかしまあ目指す先があるってのはいいことだ。どうすればどこにたどり着くってのが明確だからな」
武士は右手を額に当てて眼鏡を避けながら庇を作り、眉間に皺を寄せながら夕焼けを見つめた。真っ赤な太陽は仄かに稲村ケ崎に近づきつつあるように見えた。
「標も道も、ない方が自由にできてアタシはいいと思うけどね」
綾はルビー色に燃える瞳を細めて首をかすかに右側に向けた。それに倣った武士もそちら側に瞳を動かしてみると、明るいうちに見えた細い黒煙がすっかり跡形もなく消え去っていた。
「流石に野焼きは終わったみたいだね」
綾の一言を合図に、武士も視線の方向に体を向けた。海岸線をなぞって走る道路の傍らに建つ、民家や宿泊施設から淡い灯りが漏れ出していた。野焼きを行っていた山は隣町の逗子のようだが、存外遠かったのだと視線を地に近づけて初めて気が付いた。
「立ち上った黒煙は何をするためにどこへ向かっていったのか」
「冷たくなるところまで登って、雲になって雨で落ちてくる」
綾は武士を向いてまっすぐ言い放つ。ドラゴンには耳たぶがなく、頭の両側に耳孔があるだけのため、視力や嗅覚に反し聴力は人類にやや劣る。その前提知識があってか、綾に聞かれているとはゆめゆめ思っていなかった武士は両眉を吊り上げてみせた。
「そんで太陽は南半球に向かうんじゃないかな。海の上の天の川引き連れてさ」
「浪漫のねえやつだな。理科の授業じゃないんだから」
「そういうタケだって浪漫ないじゃん。人間もドラゴンも人生はお先真っ暗な中道なき道を走ったほうが自由だと思うよ。社会の授業じゃないんだから」
「まったく義務教育の呪縛とは恐ろしいものだ」
腕を組んで、一笑に付してみせる武士に、綾はあははと笑ってみせた。
空の上半分だけを染めていた茜色は、いよいよ空一面に広がった。水に垂らした一滴の絵の具が、時間をかけて全体に広がっていったようだった。太陽はゆっくりゆっくりと時間をかけて、稲村ケ崎に近づいていった。
*
夜光虫は、赤潮として海面を漂っているプランクトンである。物理的刺激を受けると誘蛾灯のような暗い青で発光し、夜の海面を幻想的に彩る。
そんな夜光虫を日本国内で見ることができるのは5月、場所は大阪府、愛知県、沖縄県、そして神奈川県である。とりわけ由比ガ浜は関東地方における夜光虫観察の一大スポットとして名高く、春の長期休暇中も夜の漆黒の海に物怖じせず多くの観光客が集まった。
その日は連休も過ぎ去った平日の夜。陸の夜光虫と言わんばかりに湾岸の家々に灯る灯りは、翌日の予定に供えて英気を養う人々が確かにそこに存在する証であった。由比ガ浜の海岸は綾と武士の他誰もおらず、波打ち際に白波が打つと同時に仄かに青く発光する夜光虫の他、一目で視認できる生命はなかった。
「なるほど夜光虫が見たかったわけね」
武士は自身の左隣に立つ綾を見ずに言った。言い終えると同時に、ふたりが面している海から波が押し出され、足元に届くかと思う位置であきらめたかのように静かに引いて行った。
「光は生物の生命反応だよ」
綾も武士を振り返らず言う。一方で武士は背後に視線を向けて、湾岸の建物から光が漏れているのを視認した。
「一生かけて光ってるだけだなんて馬鹿みたいだ。命燃やしてるみたいでさ」
「人間もドラゴンもそんなもんじゃん。映画スターやタレントなんか光ることが生業で、それに人生費やしてるじゃん」
綾は武士の方を向いた。口吻の先の一対の鼻の穴から鼻息が仄かに武士の左頬に当たった。
「見る人が見たら意味ないかもだけど、また見る人が見たら大いに意味があるってわけか」
「蛍みたいなもんでしょ」
再び綾の鼻息が武士の左頬を叩く。武士は小さくため息をついてみせた。
「しかし……ただ光るだけに意味はあるんだろうか。その先に何があるっていうんだろう」
「わからないよ」
綾はそう言いながら踏み出し、海岸に、黒い鉤爪の生えた足をつけてみせる。押し寄せた漣が綾の両足にまとわりつき、その周囲で夜光虫が青く光った。
「誰もが夜の海を、羅針盤やコンパス、星明りなしで航海してるってわけ」
綾は更に一歩踏み出す。踝の辺りまで海水に浸かり、それを囲うように夜光虫が輝く。まるで蛍光ブルーの足輪を両足首にはめているようだった。
「でもさ、考えてみてよ」
綾はくるりと武士に向き直ると、太い大きな尻尾を漣が押し寄せる海岸に叩きつけた。ばしゃりという重い水音が響き、水しぶきが四散する。綾が尻尾を叩きつけた海面はもとより、しぶきが飛び散った少し離れた海面もぼんやり青に発光した。
「自分が進んできたそこは、もう道なんじゃないかな」
綾は尻尾を海面からゆっくり持ち上げ、武士から見て左に数歩動いてみせた。尻尾が浸かっていたところから、綾が移動したところまで夜光虫が光り輝いており、まるでそこに痕跡が残っているかのようだった。
「獣が歩けば獣道、ヒトやドラゴンが歩けばそこは道だよ」
綾はそう言いながら短い右足を蹴り上げてみせた。水しぶきが飛び散り、それが着水した箇所が蒼く輝いた。
「なるほどね」
武士は足元に転がっていた石を右手に拾い上げて、後ろに引いたかと思うとそれを体側面に振りかぶって海めがけて投げてみせた。低く飛翔した石は海面に着水すると、そこを青く輝かせて跳ね、少し距離を稼ぐと同じように海面を叩いて再び跳ねて、更に距離を稼いで三度海面で跳ねて、最後は波音にかき消されるほどの小さな水音を立てて水中に没していった。
「自身が標となれ、ってことかな」
武士は石が飛翔した方向に右手人差し指を立ててみせた。石が跳ねた海面が、飛び石のように間隔を作って薄ぼんやりと青く光っていた。
「自分の一生なんだし、自分が進むと決めた方向が正しい方向なんじゃないかな」
綾はそう言いながら足を擦るように、波打ち際に足を浸けたまま歩き出した。武士もそれに並ぶように砂浜を歩く。綾の跡には、輝く夜光虫の帯が追従した。
「そんな屁理屈こねて今日の適当旅行を正当化しようってか」
武士がそういうと同時に綾が状態をつんのめらせてそのまま波打ち際に上体から倒れてしまった。綾の小さくはない図体に関わらず、水音としぶきは小さかった。どうやらその太い両腕から着地ができたようで大事にはならなかったらしい。
「大丈夫か」
「ちきしょう、ゴミは片付けろよな」
綾は口吻の先から舌を出して見せながらも、ぶっきらぼうに吐き捨てるように言い放った。どうやら砂に埋もれていた大き目のゴミに蹴躓いたようだ。
「まあでも、ゴールは自分が定めたそこがゴールだよ。つまり生きた意味ってのは最期に決まるってわけね」
綾は両腕と体前面を水面に浸けたまま、武士に向かってそう言った。海面の夜光虫が綾の体にぶつかって青く輝く。その様は綾がライトアップされているようで、幻想的ながらもまるで見世物のようで少しおかしかった。
「我らが生涯が夜光虫のように輝くものでありますように、ってか」
武士はそう言いながら砂浜に腰を下ろして胡坐をかいた。ジーンズパンツの右ポケットから煙草とライターを取り出し、一本咥えて着火する。一呼吸とともに煙草の先が焼けて赤く輝き、細い煙を立ち上らせた。
「空に向かってる」
綾は青く輝く海水を滴らせながら武士の煙草を指して言って見せた。それを聞いた武士はふっと一笑し、副流煙をぶわりと噴き出してみせた。まき散らされた副流煙は、瞬く間に夜の中に散逸していった。
遥か水面の海面で夜光虫が一斉に輝いた。何が原因かはわからないが、何かしらの物的刺激を受けたのだろう。
そしてなんの偶然か、綾が浸かっている場所から細く、一直線に輝きを目指すかのように、夜光虫の光が静かに伸びて行った。
「光は一番の標だね」
「生命の輝きだよ」
綾の一言に武士は返答すると、口から一本副流煙を夜空目掛けて吹き上げてみせた。
連休終わりの由比ガ浜は観光客がいないため全く静かだった。しかし夜の水平線は大変盛況していた。夜光虫たちがその命の光を精一杯輝かせていたからだ。青白く弱い光でも、それは旺盛な生命活動の標であった。
fin




