授かりものの処理のこと
生物はある一定の年齢に達すると、伴侶を見つけ、繁殖を行う。おおよその恒温動物や一握りの変温動物は、繁殖によって成し得た子を慈しみ深く育て上げ、次世代へと繋げていく。
人間の繁殖可能年齢は、所謂思春期に入る頃が目安であるため、個人差はあるものの男女ともにおおよそ十二、三歳程度である。人類が打製石器を片手に持ち、狩猟により得た肉を食み毛皮を身に纏って、四十歳を前に簡単な怪我や疾病で天寿を全うしていた古の時代はその年齢に達する頃に出産することが推奨されていたであろうが、現代社会ではそうはいかない。伴侶を得ることは、婚姻という手続きを踏む必要があり、法規により男子十八歳以上、女子十六歳以上と明確に規定されている。人類の設計思想に反するが、医学が飛躍的進歩を遂げ、人類の総寿命が現在進行形で伸びる今、合理的着地点を模索した結果に帰結するものと考えうる。
人類社会に間借りするドラゴンもまた同様である。人類のおよそ倍の寿命を持つ彼らの繁殖可能年齢もおおよそ人類と同じく十二、三年程度であり、またどの国家においても婚姻制度は人類のそれに準じた。
人類に比類する知性を持ちつつも爬虫類のような習性を持つ彼らは、番を成さず子を成しえど産めば放置し、基本的に育つがままに育った。しかし人類社会に迎合するため、彼らは自身らの習性を曲げ、番を作り子を家庭にて育てる方式に転換した。人類以上に、設計思想に反する生き方を強いられている。
いくら法規に沿って生活し、理性を基に生きれど生物としての設計を変えることはもはやできない。個人差はあれど男性は性欲に基づく性衝動、女性は下腹部の痛みなどに頭を抱えることがままあり、形は違えどドラゴンたちもまた同様であった。
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大陸を発祥とする新型ウイルスの蔓延からはや二年の月日が流れた。現在小康状態となりつつも、主たる感染者である人類の外出は劇的に減少した。一方でドラゴンは全く感染の兆しを見せず、ひとたびマスクを引っかけて外出してみると、街はどこもかしこもドラゴンしか見当たらないといった体たらくである。現状どこの国も、経済を回す主役はいよいよ人類からドラゴンへと置換されていってしまっている。
それでも糧を得ることは義務である。幸か不幸か生業がネット環境さえ整っていれば遂行することができる、いちプログラマーの榎本武士は、とうとう出勤することはなくなり在宅勤務もはや二年目に突入していた。
同居人、否、同居するドラゴンである逢川綾はパンデミック以前から在宅ワーカーである。武士と綾は江戸川区は葛西の安アパート『サイオパレス葛西』の一〇一号室のど真ん中に鎮座する、万年こたつテーブルにラップトップパソコンを置いて、向き合って仕事をこなす日々を過ごしている。
綾はドラゴンであるため、疫病などどこ吹く風である。買い物など外出を伴う所用は綾がこなす方が合理的であるものの、出不精である彼女はとにかく外出を拒む。武士としては綾に頼りたい一心であるが、彼女に家賃のほとんどと光熱費を負担してもらっている立場では強気に出ることはできない。口論にも一度も勝てたこともなく、また体格差が大きすぎるため格闘をしても勝ち目はない。そもそも武士には綾と争う気は毛頭ない。そのため買い出しは交互に行うようになっていた。
また綾は存外がさつな性格をしており、帰宅しても手を洗わないなどの無精っぷりが散見されたため、もはや綾を頻繁に外出させていると内外問わず疫病のリスクが高いと断定したという理由も根本にはあった。
その日も武士は最寄りのコンビニに買い出しに出ていた。不景気の最中無謀にも有料化されたコンビニのレジ袋には、武士の愛飲する銘柄の煙草と500mlの缶ビールが二本。そして牛丼と、とんこつラーメンのスチロール製の丼ぶりと大ぶりなおにぎりが二つ。前者は武士の昼食で、後者三つは綾のものである。
綾は在宅勤務をいいことに日中はそう多くはないものの飲酒をする。それを知った武士は当初は驚嘆したものの、適度な飲酒はむしろ仕事を行う上での潤滑油となったため本人もそれに倣うことにした。今や昼酒が生活の一部となったふたりの合言葉は「不健康は人生を豊かにする」だった。
「うわっ」
アパートの玄関扉を開錠し、帰宅した武士がたたいまより先に発した言葉は感嘆詞だった。
「おかえり」
そう言って二重の紅の瞳を挙げた綾の膝の上に、大きな白い楕円形の玉子が乗っていたためだ。
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「綾の子供?」
「孵ってないからまだ子供じゃないね。それにこれは無精卵」
電子レンジの唸り声を遮るようにふたりの声が響く。電子レンジの中には先ほど武士がコンビニから買って来た牛丼とラーメンが一緒に乱雑に突っ込まれており、容器が内部の壁に引っかかって中のターンテーブルが回っていなかった。
時は五月の、平日の正午。少し暑くなっており、本日は武士も首元のヨレた半袖シャツを着衣していたが、暦の上では春である。
「ドラゴンは春が発情期だからね」
綾は一抱えある無精卵を抱きかかえて言う。おおよその生物は春先が発情期で、人間も例に漏れず春先の満員電車は痴漢被害が多く報告される。
「最近夜モゾモゾしてるなあと思ってたら」
武士はそう言いながら部屋の隅に積み上げられた丸めたティッシュの山を一瞥した。山になっているのは綾が下半身を触った右手を拭ったティッシュだけでなく、武士の下半身や、花粉症を起因とする鼻から出た粘液を拭ったものも含んでいるためである。
「どうすんのそれ」
「一応食べれるけど、食べる?」
「どう食べるの」
「鶏の玉子と同じ調理法で食べれるかもね。量こそ多いけど味は保証できない。アタシは養鶏場の鶏じゃないからね」
綾がそう言い終えると同時に電子レンジが温め完了を訴える電子音を高らかに響かせた。
「自分の尻から出たものを食べるつもりはないけど」
「俺も食べる気になれないな。調理器具ないし」
ミニキッチンの電子レンジに向かう綾の、翼が一対ついた背中とともに錆びた銀色の笛吹ケトルしか置いていないシンクを一瞥した。学生時代から料理はほとんどしなかったが、就職し懐に余裕の出た現在は買うばかりで全く台所に立つことはなくなり、器具の類いはすべて粗大ごみとなってしまい久しい。
「ジャンケンポン!」
こたつテーブルに牛丼とラーメンを置いた綾が咄嗟に大声で叫んで武士の前に拳を突き出してきた。気圧された武士は咄嗟に人差し指と中指を立てて突き出してしまう。
「はいティッシュ片付けて」
綾は右手親指を背後のティッシュの山に向けてみせた。武士は舌を打ち鳴らしつつ右手に空になったコンビニ袋を握って立ち上がる。
「これ他に尻から出るものついてねえだろうな」
「ねばねばだけだよ。タケの出すねばねばと違って生きてないけども」
武士は右手の親指と人差し指で丸めたティッシュをつまみ上げてみせる。ティッシュは黄色く変色しており、もはやどちらのどの部位からまろび出たものやら見当もつかない。
「まったくお互い無駄撃ちだな」
「お互い体は春先の射撃訓練を望んでるみたいだね」
綾はアハハと笑いながらラーメン丼ぶりのプラスチック蓋をティッシュの山の上に沿えた。武士は眉間に皺を寄せつつそれも拾い上げてビニール袋の中に押し込んだ。
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「食べなくても、捨てなきゃなんだよね」
綾は自身の歯をすき終えた爪楊枝を、空のラーメン丼ぶりに投げ込みながら言った。武士は綾の食べ終えた大ぶりのおにぎりを包んでいたフィルムを自身の牛丼の丼ぶりの中に押し込みながら聞き流した。
「無精卵だから放っておいても孵化しない。捨てなきゃなの」
「その大きさの玉子腐るとどえらい臭いを放ちそうだな」
武士は丼ぶりに透明の蓋を被せながら相槌を打った。
「どう捨てるの?」
「普通に生ごみだよ。孵る前の玉子をゴミとして処分することは罪に問われない。たとえそれが有精卵でもね」
大学の講義でやったでしょ、と、綾が付け加えた。法学士の武士は学生時代に受講した民法と刑法の講義をぼんやりと思い出してみた。
民法における権利能力は、通常出生とともにすべての人および竜が取得する。民法三条の一の規定であり、『および竜』の部分は二十年ほど前の最高裁判決を受けて慌てて法改正されたものである。
胎生の人類と卵生のドラゴンでは産まれ方こそ異なるものの、権利能力の付与は出生時、つまるところ世界に出てきた瞬間である。前者は母親の胎から出てきた際、後者は卵から出てきた際である。
一方で刑法二一二条から二一六条において堕胎罪の規定があるが、これらの条文の客体、すなわち被害者は胎児であり、ドラゴンの卵はそれに該当しない。ドラゴンの有精卵破壊についての裁判判例が未だ存在しないため、世界各国、とりわけ日本国においては明文化されていないのである。
「じゃあさ、サクッと捨てちまおうぜ」
武士が綾の股座に挟みこまれている玉子に右手を伸ばした瞬間、その甲に綾の太い尻尾が鞭のように振り下ろされた。
「いてえ!」
バチンという破裂音が部屋中に響き渡り、武士の右手が悲鳴ととともに叩き落とされた。
「雌のドラゴンは卵を守るような仕様になってるの。それが無精卵でもね」
綾は赤く腫れた右手をひらひら振る武士に、珍しく申し訳なさそうに目をそらしつつ言った。
「法律が守ってくれないからね」
「まいったな。本能じゃ仕方ねえか」
武士はテーブルの上に置かれたビール缶を取り、右手の甲に押し当てた。
「これまではどう処分してきたの」
「実家にいたときは家族の誰かに何とかしてもらってた。アタシも母親や妹の産んだのを埋めたりしたよ」
「じゃあ実家出てからは」
「産気づいたらどっか外に出て、適当に産み捨てて放置してくる。街中なら誰かが片付けてくれるし、そうでなければ獣が処理してくれる」
少年時代、山奥に大きな玉子の破片を見たのはそういうことだったのかと思うと同時に、ドラゴンに対する法の未整備ぶりと、また綾を含むドラゴンたちの倫理性と公共性のなさに呆れ、武士は小さくため息をついた。
「有精卵だったらどうするのさ」
「基本的に有精卵を捨てることはあり得ない。種の繫栄はアタシらドラゴンに与えられた永遠にして究極の命題で、使命だから。それは人類を含む全ての生物に共通するはず」
綾はそう言い終えると、自分のラーメン丼ぶりに武士の牛丼の丼ぶりを重ねて、膝横に置かれていた丸めたティッシュで満杯になったコンビニのビニール袋に押し込んだ。
「まあこうやって子殺しの咎がドラゴンにも追及されるようになった現代では、有精卵を遺棄するドラゴンもいるんだろうね。聞いたことないけども」
綾は退屈そうにそう言いながら卓上の缶ビールを引き寄せ、プルタブを上げた。
「あとさ、さっきタケを叩いたみたいな走性が出ちゃって面倒なんだよね。咄嗟に加減できたけど、知らない相手だと折れてたかもね」
綾は缶ビールに長い口吻の先の口を当て、喉を鳴らした。武士は青い顔で自分の右手の甲に視線をやった。まだ痛むうえ、赤く腫れている。
「ドラゴンはそもそも強いから守る必要もなく、かつ社会生活を営むうえで不便がないように暗黙の了解になっちまっていると」
「まあそうかも」
綾は股座に鎮座する玉子の頭を平手で軽く叩いてみせた。
ドラゴンは概して体が大きく、更に雄より雌の方が大柄であることが多い。故に有精卵を破壊しようと近寄る不定の輩は単純な暴力で一方的にねじ伏せることができる。更に有精卵と無精卵の区別は一見ではつかないため、破壊や遺棄が明るみに上がることはなかったのであろう。武士はドラゴンによる素行犯のおおよそは暴行と殺人であることを思い出すと同時に納得した。
「それだけに人間の堕胎と避妊は理解できないね」
綾の一言に武士はビールを飲む手を止め、右眉毛を釣り上げた。
「事情はそれぞれだが、母体保護の観点はあるし生まれちまったらどうしようもないからな。言い方悪いが不幸な命を減らすためだろ」
「なるほど母体保護の理屈はわかった。不幸な命を減らすのはアタシにはよくわからないけども、ざっくり面倒事にならないようにってことでしょ? だからドラゴンも卵を棄てる。それだけじゃないかな」
「それだけ……ねえ」
「法文の有無の問題でしょ」
武士は綾の一言にうなりを上げながら、ビールを一口啜った。ビールとは概して苦いものであるが、最初の一口はいつも以上に苦く感じた。
*
十八時。特殊でない職種で、かつ真っ当な会社の務め人はこの時間が業務終了の定刻である。特殊でないプログラマーでかつ真っ当な会社に潜り込むことができた武士は、ネット上の勤怠システムにかっきり七時間半の勤務時間を記帳し、本日の業務を終えた。
少々暑くなってきたとはいえ未だ五月。十八時にもなると太陽がすっかり傾き、茜色だった空も薄ぼんやりと群青色になっているのが見えた。
「お腹減ったし。もうこれ以上仕事できない」
綾は大き目の声で投げ捨てるように言うと、武士がラップトップパソコンの蓋を閉じるに倣って乱暴にリンゴの意匠がなされた自身のそれを叩きつけるように閉じた。綾は武士と対照的に特殊な仕事である自由業に従事しているため、労働時間は自己裁量のようだ。
「スーパー行ってくる。食べたいものは何?」
「上海焼きそば。あと軽めのチューハイ買って来て」
「昼は肉食べたから野菜と海鮮なのね。アタシは……肉でいいか」
綾は自身のパソコンの右側に置かれた男物の黒い長財布を右手に取り、その食生活がしっかり反映された大きな腰を面倒そうに上げて立ち上がった。
「昼にあれだけ食ったのにまだ食うのかよ」
「まだ食べるし、まだ飲む。産卵したから」
そう言って綾ははっと何かを思い出したように口を開けて牙を覗かせた。
「アタシの産んだ玉子破壊しといて」
「破壊って……」
「玉子だって認識しなくなったら走性働かなくなるから」
結構硬いけど風呂場で思いっきり叩きつけたら流石に割れるから、と、続けながら、綾が座っていた座布団の右側にバスタオルで包まれて鎮座する玉子を、長い口吻の先の顎でしゃくってみせた。わざわざバスタオルまで持ち出して来て大切に包んでおきながら、それを破壊しろと命ずる綾の二面性に武士は眉をしかめてみせた。
「無理なら埋めてもいいよ。まあ埋める所ないから破壊がオススメかな。汚さないのと近所迷惑にならないようにね。欲を言えば床に傷とかつけないで」
「めっちゃ注文多いな……ていうか破壊していいのかよ」
「これなんとかしないと腐ってアタシらの鼻が破壊されるよ」
綾はそう言って紅の瞳を武士に向けた。立ち上がった綾は体長およそ190㎝ほどだが、ドラゴンの中では大きい方ではない。脚は短く、座っているときとであまり丈は変わらないが、短いとは言えど体長の比率で見ての話であり、立ち上がって、更に室内灯の逆行を浴びて影になった顔から赤い瞳だけを光らせている様は、有無を言わせぬ威圧感があった。
「アタシいない間に何とかしといて。次は手加減できないかも」
綾はそう言い残して玄関扉を開けて出て行ってしまった。
「玉子が破壊されるか、俺の右手が破壊されるか」
武士はそう呟きながら、自身の右手の甲に目を落とした。綾に引っ叩かれたのは正午だったため、さすがに痛みも腫れも引いていたが、それでもかなり長い時間それは持続した。手加減なしで食らったら当面プログラミングの仕事はできなくなってしまうだろう。
よし、と、武士は自身を鼓舞するかの如くひと声を上げて立ち上がる。綾の足音が遠ざかるのを確認すると、自身から見てテーブルの左側にバスタオルで包まれた玉子を腰を屈めて持ち上げた。
抱えた所感として重量は3kg程度と思われ、日本人成人男性の平均的な体格の武士が両手で抱えられる程度の大きさだった。殻の質感は鶏卵のそれと変わらず、ぬくもりはなく平温だった。
「手足と体温があれば人間の赤ん坊だな」
武士は右腕に寝かしつけ、左手で下部を支える、人間の赤子にする要領で玉子を抱いた。ゆっくり揺さぶってみるが当然反応はない。武士は苦笑してみせるが、これから自身がやろうとしていることを考えて背筋にうっすらと汗の玉が浮かぶのをはっきりと感じた。
*
『ドラゴンの有精卵は割ると血が混じっていることが多いらしいです! そこは鶏の玉子と同じですね!』
世界最大級の検索エンジンに『ドラゴン 有精卵 見分け方』と打ち込み、検索ボタンを押して一番最初に表示されたリンク先のページに書き込まれていた内容はこの通りだった。所謂まとめブログである。大量の広告を間違えてタップし、興味のない電子漫画のサイトに飛ばされつつ最後まで読めども確実な情報は得られなかった。縋った藁は藁ですらなかったのだ。
「ホント、現代社会では情報の取捨選択はもはや受け手の義務だな」
武士は検索結果一覧のページに戻って、スマートフォンの画面を下にスライドさせた。そのほとんどが最初に見たものと似たり寄ったりであろうまとめブログと、たまに名の知れた国立大学医学部のページが混じる。前者はともかく後者は役に立ちそうだが、今欲しい情報はドラゴンの翼の先天性奇形の情報ではない。
武士はため息をつき、スマートフォンを自身の寝床の万年床に放り投げた。そして玉子を包んでいたバスタオルを先ほどまで綾が座っていた座布団の上に投げ捨て、そのまま居間から出て左にあるユニットバスへと玉子を抱いて入っていった。
『サイオパレス葛西』は家賃6万円代の安アパートである。無論便所と風呂はひとつにまとめられている。単身者物件のため、ドアは風呂場のそれで鍵すらかからない。故に自身が風呂を浴びているときに綾が便所に用を足しに入ってくることもあれば、その逆もしばしばあった。
それはさておき、狭い風呂場に電気を点けて入った武士は、先ずユニットバスのシャワーカーテンを開けた。何の変哲もない、向かって右側にシャワーが備え付けられている風呂である。強いて言うなら非常に狭い。中肉中背の武士ですら膝を抱えなければ湯船に浸かることもままならない。綾に至っては、入浴時に背中の翼を壁にこすりつけながら方向転換している塩梅である。
それもさておき、その狭い湯船に今抱えている無精卵を力いっぱい叩きつけて、殻の破片を除去して卵黄を潰し、あとは排水溝に流し込めばすべて終わりではあるが、武士は湯垢のついた湯船を眺めながら小さく唸り声をあげつつ、葛藤していた。
「有精卵だったらどうしよう……」
武士は自身の葛藤をひとりごちた。昼間に綾が言っていた通り有精卵の破壊は罪に問われない。またここ数年武士は綾と常に共にいるが、綾と懇ろである雄のドラゴンの姿も見たことはない。有精卵である可能性は限りなく低く、仮に有精卵であっても掃除の手間以外の面倒事はない。要は武士の心情が起因する葛藤なのであった。
「後味が悪いんだよな……」
そんな独り言に「味も悪いよ。アタシは養鶏所の鶏じゃないから」と、綾の一言が呼応するかのように武士の脳内に響き渡る。綾は似たようなことは言ったが細部は合致していない、武士の妄想の中の台詞である。
そもそもドラゴンの有精卵を割った明確な情報はない。割った際の見た目が無精卵のそれと全く見分けがつかない可能性もある。それならばもう、すべて無精卵として処理してしまった方が手っ取り早いのではないだろうか。
そういえば先日酔った勢いで購入したトレーディングカードゲームのパックからレアカードが出て、300円で購入したカードの束がそのレアカードの売値だけで元が取れてしまったことがあった。俺のくじ運は強い。
そういった雑な根拠を自分の中で列挙し、いよいよ納得して踏ん切りがついた武士は、玉子を頭上に掲げて力いっぱいバスタブに向かって投げおろした。
武士の手を滑り抜けた玉子はバスタブに着地すると、短くも大きな音を盛大に立てて内容物をまき散らし砕け散った。ここが角部屋で、かつ実行したのが隣室側でないバスルームだったことに武士は深く安堵した。
さて、バスタブにその姿を露わにした玉子はというと、確かに役立たずのまとめブログに記載されていた通り『鶏の玉子と同じ』であった。最初に着地した頭頂部を砕かれた玉子から、形が崩れて液状化した卵黄が、卵白と思しき透明の粘液をまとって流れ出していた。
武士は玉子料理が好きだが、割れた玉子の内容物を見て、食欲が湧かないどころか吐き気を催した。鶏卵が大きくなるだけでここまでグロテスクな様相になるとは、自身の中の玉子の基準を元手に、適度が肝心なのであると認識させられる。
割れた玉子からは現在進行形で内容物が流れ出している。それは卵黄と卵白ばかりで血液のような赤色は確認できない。間違いなく無精卵であろう。
あとは割れた殻を除去し、残った内容物をバスタブに引きずり出して、足で踏みつぶして排水溝に流すだけだった。
「供養してやらなきゃ」
一連の破壊行動を脳内で反芻すると、どうにも生命への冒涜を感じた武士はそう口走った。
武士は腰を折ってバスタブに上半身を入れると、両手で流れ出ていた卵黄を掬い取った。液状化した卵黄は、卵白と混じってドロドロしており、かつ目前で見ると鶏卵のそれより更に黄色かった。
武士は先ほどまで葛藤してまごついていた様から打って変わって一気にそれを口で啜った。殻の破片をともに吸い込む感覚がしたが、気にせず咀嚼する。案の定奥歯が殻の破片をかみ砕く不快な感触が口内に広がった。それに続くように卵黄の風味が口内に広がる。鶏卵のそれより味は濃いが、まろやかさはなくただただしつこく、かつ粉を舌上で転がしているような感覚に見舞われた。おいしくない。食いしん坊の綾が味の保証をしなかった理由を身をもって理解した。
未知の味を体が拒むのがわかったが、一思いにそれを嚥下した。涙で視界が霞んだが、右手の甲で口を拭ってかろうじて原型をとどめている殻をひっつかむと、破壊された頭頂部に口を付けて、頤を低い天井に高らかに向けた。
玉子の残りがゆっくりと武士の口内に流れ込んできた。液体とともに細かな硬いものが流れ込んでくるが、これらは玉子の破片だろう。自身の胃がいきなりなだれ込んできた正体不明の内容物を押し上げるのがわかったが、それを推し戻すように武士は喉を鳴らして玉子を飲み続けた。
涙が流れる目を自身の右側に向けると、洋式便器が見えた。無論綾も使用している。
「綾ウンコ臭くね? 肉ばっかり食べてるからだろ」
「うるさいなァ。ウンコは臭いんだよ」
「ていうか風呂浴びてるときに横でウンコしないでくれよ」
「便器ここしかないから仕方ないじゃん! 平安時代みたいに居間で桶に出せばいいわけ?」
シャワーカーテン越しに昨夜そういったやり取りをしたのをふと思い出してしまった。
ドラゴンの雌の性器は総排出孔であり、玉子はもとい大小便もすべて肛門から排出される。その知識を思い出すと同時に、武士の胃が怒涛の勢いで内容物を押し戻し、胃酸の酸味と先ほどの世辞にも美味とは言い難い卵黄の風味が混じって口内に舞い戻って来た。吐き出すまいとハムスターよろしくそれらを一度頬にため、渾身の力で再度嚥下する。胃が怯えたように萎縮し、腹部に痛みが走った。武士はそれを一喝するかの如く、最後の卵黄を飲み下し、頭頂部の欠けた玉子の殻をバスタブ内に叩きつけた。質量が減ったためか、先ほどではないものの、大きな音を立てた。
おそらくバスタブにはまだ卵白あたりが残っているはず。しかし視界に入れると恐らく吐瀉するであろうと思った武士は、バスタブを覗き込むことなく便器の隣についている手洗い場の蛇口を限界まで開栓し、大量の水を流し込んだ。
腹部に断続的に痛みが走る。胃が自身の主人に猛抗議をしているのだ。武士は狭いバスルームの床に腰を下ろして大きくため息をついた。右手の甲で再び口回りを拭うと、バスタブから飛び散ったのか床に殻の破片が少しばかり散乱しているのを視認したので、それらを右手を伸ばして拾い集め始めた。
「なんで食おうと思ったのか」
武士は独り言とともに、曖気を吹きだした。そして同時に腹のうちに後悔も噴き出してきた。
*
「ただいま」
綾がその一言と同時に玄関扉を開けて入室してくる。居間の寝台の上で魂が抜けたように横たわる武士は、その姿を確認せずえずき声を上げてそれを返答とした。
「まさかとは思うけど食べたの」
「そのまさかだよ」
こたつテーブルの上にスーパーのビニール袋を置いた綾に対し、青白くなった顔を向けず武士は吐き捨てるように言う。
「人間がドラゴンの玉子食べる時普通小分けにするし、ていうか調理なしで食べるとお腹壊すよ」
ああどおりで多いわけだと武士は脂汗を流しながら思う。綾はそれを尻目にスーパーの袋から買って来たものを一つずつ取り出し始める。
「食べる気ないとか言ってたのに……おいしくなかったでしょ」
「まあね」
「しかしなんで食べたかな」
綾はバスタオルを右足で蹴り上げ座布団に腰を下ろし、500ml缶のビールのプルタブを起こした。部屋にプシュっという二酸化炭素が飛び出す音が響いた。それを聞いて武士は再びえずき声を上げる。
「なんかね、排水溝に流すのは生命への冒涜を感じたんだよ。そんで供養しなきゃって思ってさ」
「無精卵に生命もへったくれもないでしょうに。スーパーに並んでる玉子や経血付いたナプキンにもいちいち感情移入するわけ?」
人間はまったくよくわからないと言いながら綾は缶ビールを煽った。
「いや俺自身も気の迷いだったとは思うんだけどさ」
そう言いながら武士は蒼白の顔面を綾に向ける。それと同時にテーブルの上に置かれていたプラ容器入りの上海焼きそばが視界に入る。炒めた野菜と大きなエビ、大量のキクラゲと薬味に刻みネギが振りかけられた武士のお気に入りの一品で、ご丁寧に大盛だった。いつもそれが目に入っただけで腹が鳴り、本日もその例に漏れなかったが、同時に腹痛が全身、とりわけ下腹部を駆け巡った。
「アヤ、焼きそば食べていいよ」
「ならいただくけど、後でお腹空かない?」
「今日は絶対ないと思う」
武士は脂汗を額につたわせながら絞り出すように言うと、寝台から立ち上がり這うようにしてトイレに向かって行った。
扉を閉めるなり、ズボンと下着を同時に脱いで洋式便器に着座する。間を置かず壊れた水道管が噴き出すように便器内に直腸の内容物をぶちまけた。着水音がほとんど水を勢いよく注ぐ音だったため、出したものは固形物でないことは見なくても明らかだった。息を深く吐くと同時に、自分が履いていたズボンがスウェットのゴムパンツだったことに今更ながら安堵した。
「そういう出し方も生命への冒涜なんじゃないの」
居間から綾の叫ぶような声が聞こえた。まったくだと言わんばかりに武士は大きくため息をつき、両膝に自身の両肘をついて、頭を抱えて項垂れた。
再び下腹部に痛みが走り、同時に尻の壊れた水道管がまたもや決壊した。音がでかいねという綾の叫び声に追い打ちをかけられ、武士は再び首を垂れることとなった。落とした目線の先に、拾い忘れていた玉子の小さな破片が落ちているのが見えた。
fin




