親切な病院
「ここが…本当にあったわ」
私は今、山の上にある、とある個人病院に来ていた。
その病院は、お金の無い人でも受け入れてくれるという噂の病院で、お金の無い私は病気になった3歳の娘を連れて、半信半疑でやってきた。
そもそも、この病院を紹介してくれたのは近所に住むシングルマザーの人で、その人も誰かに紹介されて知ったらしい。
医師の腕は確からしく、紹介してくれた人の息子は、その病院で病気が治ったらしい。
その話を聞いて、なけなしのお金をはたいてタクシーで病院まで来たのだ。
私はタクシーの運転手に料金を支払うと、娘を連れ、病院へと入った。
「こんにちは。初めての方ですか?」
受付の女性がにっこりと微笑む。
「はい。でも、あの、私お金が無くて…」
あら、と女性は笑う。
「いいのよ。うちはね、料金は取ってないの。寄付という形でなら、受け取っているけどね。」
ふふ、と上品そうに笑っている女性。
それを見て、私はホッと胸をなでおろした。
「患者さんは、あなた?それとも…」
「娘です。」
「そう。では、問診票への記入と、体温を測っておいてね。」
「はい。」
私は問診票と体温計を受け取り、待合室へ向かった。
待合室にはちらほらと人がいる。
問診票に娘の名前、年齢、住所、電話番号、アレルギー、今の症状などを書き込み、娘の熱を測る。
と、診察室から誰かが出てきた。
「先生、本当にありがとうございました!」
「いえ、お大事に。何かあったらまた来てくださいね。」
「はい、ありがとうございます!」
ちら、と見えた若そうな男の人がどうやら医師のようだ。
診察を終えた患者の顔を見るに、やっぱり腕の良い医師らしい。
まあ、無償で診察をしてもらえるだけで神のような存在とも言えるのだが。
しばらくすると、娘の番になった。
診察室に入ると、人の良さそうな若く見える男の医師がいた。
「どうぞ、お掛けください。」
私は娘を医師の前に座らせ、私は横に座った。
「初めまして。高藤と申します。」
「初めまして、今日はよろしくお願いします。先生。」
「それで、今日はどうされましたか?」
私は娘の状態を細かく説明した。
1ヶ月も前から食欲が無く、体がだるいと言っていること、微熱が続いていること。
医師はうんうんと頷いていた。
「そうだねえ。」
医師は娘をじっと見つめている。
「ただの風邪とかでは無いみたいだね。一回、しっかり検査してみましょう。数日検査入院ということでもよろしいですか?」
「え?そんなに酷いのですか?」
「まだ、現時点では分からないとしか言えません。ですので、一度検査してみましょう。確実な方法で治療したいですしね。」
「そうですか、分かりました。」
「ところで…」
「何でしょう?」
「帰りのタクシー代など、持ち合わせていますか?」
「え、あっ」
そういえば、病院に来ることしか考えておらず、家中のお金をかき集めてタクシー代にしてしまったので、一文無しだ。
そもそも病院が見つからなかったらどうなっていたのだろうか…
今更ながら自分にゾッとしつつ、お金が無いことを告げた。
「そうですか、いえ、たまにいらっしゃるので問題ないですよ。この病院の隣に小さいホテルがあるので、そちらに泊まっていかれますか?料金は結構です。」
「そんなことまでしていただけるのですか!?」
「ええ、大事な患者様のためですから。」
医師はにっこりと微笑んでいる。
「では、お言葉に甘えて…」
「ええ、では手配しておきますね。」
その日、娘は検査入院で病室へ、私はホテルへ案内された。
検査が終わったら声をかけるので、それまではホテルから出ないように医師から申し付けられ、疑問に思いつつも私は3日間ホテルに滞在した。
4日目の朝、ホテルのドアを叩く音がして開けてみると、病院の受付の女性が立っていた。
「娘さんの検査の結果が出ました。すぐに病院へ来ていただけますか?」
「は、はい。」
少し神妙な面持ちの病院の受付の女性に嫌な予感を感じつつ、病院に向かった。
診察室に入ると、医師はさらに深刻な面持ちをしていた。
「どうぞ、お座りください。」
「あ、あの、娘は…」
「娘さんは、脳に障害が出ています。」
「え!?」
「今はまだ症状が軽く見えますが、いつ一気に悪化するか分かりません。すぐに入院しましょう。」
「は、はい、分かりました…」
娘が重病だという事実にショックを受けている私に、医師はさらに追い討ちをかけるように話しかけてきた。
「脳障害の影響で、虚言を繰り返すことが今後増えてくるでしょう。娘さんの様子をよく見て、症状が悪化するようならすぐに言ってください。」
「はい…」
「それと、目にも病気があります。失明する可能性が大きいですね。」
「そんな…」
「それと、娘さんに何かあった場合、お母さんの他に、誰か連絡する人はいますか?」
「いえ…私と夫の父と母は私たちが小さい頃亡くなっていますし、夫も事故で…」
「そうですか、それはお辛いことをお聞きしました。では、娘さんのそばに、是非いてあげてください。」
「ええ…」
医師は娘の病室まで案内してくれた。
点滴につながれた娘は、数日の検査疲れか、少しぐったりしている。
「では、明日から本格的に治療を始めます。今日はこれで失礼します。」
医師は丁寧にお辞儀をし、病室を出ていった。
私はゆっくりと娘の頬を撫で、顔を覗き込む。
「ごめんね、中々病院に連れてきてあげられなくて。」
「ママ…」
不安そうな顔で娘が私の顔を見つめる。
「大丈夫よ、先生の言うことをしっかり聞いていれば、きっと治るから。」
そう言った時の娘の顔は、少ししかめっ面をしていた。
次の日から、娘の治療が始まった。
とはいえ、治療中は処置室に入れてもらえなかったため、どんな治療をしているのかを見ることはできなかった。
不安で胸が張り裂けそうだったが、医師を信じるしかなかった。
一度、どんな治療をしているのか思い切って医師に聞いてみたとき、治療風景をビデオに撮ってきてくれたことがある。
目の治療で遠くを見たり近くを見たりする訓練、きちんと歩けるのか、白線の上を歩いてみる検査、後は注射を打っていた。
おかしな治療とも思えず、母である自分が処置室に入ってはいけない理由は、3歳くらいの子どもだと母がいると、母から離れず、治療にならないことが多いから、との回答だった。
まあ一応納得して、毎日治療を終えた娘を慰めつつ、毎食後の薬をどうにか飲ませる日々だった。
変化が起きたのはそのビデオを見せてもらった1週間後のことだった。
娘が治療から病室へ帰ってくるなり、私に抱きついて泣き出した。
「どうしたの?」
「せんせーキライ!いや!」
「何で?」
「イヤなことする!」
「先生、あなたのためにやってくれているのよ?」
「いや!クスリもチューシャもいや!さわるのもいや!」
「え?触る?」
「せんせー、からださわってくる!」
私は慌てて病室を飛び出し、医師の元へ向かった。
「どうされましたか?」
「あなた、娘の体触ってんの?」
「聴診器で心音を聞いたりはしてますが…娘さんがそうおっしゃっていたのですね?」
「え、ええ…」
思わずカッとなってしまったが、よく考えればそうだ。
ここは病院でこの人は医師。心音を聞くのもそうだが、そもそも触診だってある。体に触れることはあるが、もちろん変な意味じゃない。
「す、すみません…勘違いのようで…」
「いえ、むしろ、伝えていただけて良かったです。」
「え?」
「前にお話ししたでしょう。虚言を繰り返す恐れがありますと。以前言わなかったことを言うということは、症状が悪化してきた可能性がありますね…」
「そんな…」
「もう一度、検査しましょう。」
「お、お願いします。」
医師は慌てたように病室に行き、また娘の長い検査が始まった。
今回は2日程度で終わるはずだからと告げられ、またホテル生活になった。
不安な気持ちのまま迎えた3日目の朝、ノック音でドアを開けると、病院の受付の女性が、今までにない神妙な面持ちでドアの前にいた。
急いで病院に向かうと、医師は告げた。
「症状が一気に悪化しています。目は大きな腫瘍ができていて義眼にする必要がありますし、余命は残り1週間というところでしょうか…」
「そんな…」
「お母さん、最後まで娘さんのそばにいてあげてください。」
「はい…」
私は病室で娘を眺めた。
青白い顔で私を見つめる。
「ママ、おうちにかえりたい」
「そ、そうね…きっと帰れるわ…」
「どこもわるくないもん…ここにきてからどんどんわるくなってるんだもん…」
「そんなことないわ。ね、ママと一緒に頑張ろう?」
「やだ、ママ、ママ」
泣きそうになるのを抑えつつ、私は娘を励ました。
次の日から薬の量は増えたし、点滴の数も増えた。
治療時間も伸びたし、2日後には娘は義眼になった。
ある時、私は娘が治療中にふらっと病院内をぶらついていた。
辛くて、じっとしているのが耐えられなくて。
すると、「研究室」と書かれた部屋のドアが少しだけ開いており、ちら、と見ると、たくさんのビンが並んでいた。
その中に、娘の瞳に似た、綺麗な紺色の眼球が入ったビンを見つけた。
思わず中に入ってビンを手に取って眺めた。
「何でしょうこれ…義眼かしら…」
娘の義眼にしてくれないかな、きっと似合うわ…
そんなことを思っていると、受付の女性が研究室に入ってきた。
「まあ、何をしているの!?」
いつもと違って、慌てた口調だった。
「これ、綺麗ですね。義眼ですか?」
「え?ええ、でも、まだ研究中の未完成なんで使えないんですよ。さあ、危ないもの多いから出て出て。」
余程危ない物でもあるのだろうか。
女性は脂汗をかき、目は泳いでいる。
慌てたように私を研究室から追い出した。
「もう入っちゃダメよ!先生にもきちんと閉めるように言っておかなくちゃ!!」
プリプリと怒りながら女性は去っていった。
その後は娘の治療を待つ日々が続いた。
娘は、傍目から見ると重病人という感じは無かった。
少し長い風邪かと思って病院に連れてきたら脳障害だとか、目に病気があったとか、正直今でも信じられない。
それでも、少しずつ弱っているようには見えた。
娘の余命宣告から7日目、娘の手術が行われた。
この手術さえ乗り越えられれば、娘は回復する可能性があると言われた。
私は娘を必死に励ました。
手術室に入る前、私は娘と最後の言葉を交わした。
「頑張るんだよ。これさえ乗り越えたらおうちに帰れるからね。」
「ママ…」
「なあに?」
「バイバイ…」
私が娘の最後の言葉の意味を理解しないうちに、娘は手術室に運ばれていった。
手術の結果、娘は帰らぬ人となった。
私は娘の病室で、ずいぶんと軽くなった娘を抱えて涙を流した。
「手は尽くしたのですが…力不足で…」
「いえ、いいんです…本当に何から何までありがとうございました…」
「ところでお母さん。少し顔を上げてもらえませんか?」
「はい。」
私が顔を少し上げると、顔を眺めた医師は告げた。
「やっぱり。顔色が酷い。ただの疲れだけには思えない。お母さん、娘さんの葬式の手配もこちらで行いますし、お母さんはその間、検査入院を受けてみませんか?」
「でも娘の葬式は…」
「大丈夫です。葬式には参加できるようにスケジュールも組みますし、何よりこんな状態の人を放っておけません。」
「先生…」
「そうですよ!」
会話に割って入ってきたのは受付の女性だった。
「お母さんが倒れちゃったら、天国の娘さんも悲しみますよ。是非検査してみましょう。」
私は思わず涙を流した。
ああ、何て親切な病院なんでしょう。