猫の消えた夜
その日の朝は、「猫がいなくなった」と大騒ぎだった。正確に言うと、いなくなったのは猫ではなく、猫のような人間、あるいは、猫というあだ名をもつ人間、である。
やけに広いこの家は、家というより屋敷。例の猫の夫がもつ屋敷だ。つまり、猫は夫人ということになる。大きな屋敷の夫人がいないのだから、大騒ぎになるのは当然である。と言っても、騒いでいるのは家の至る所に設置された電話の数々だ。屋敷といえども使用人は多くなく、住み込みの家政婦が一人に、腕のいい料理人が一人いるのみだ。それ以外には、週に一度、掃除会社に普段は使用していない部屋の掃除を依頼をしている。そんな程度だ。
つまり、騒いでいるのは電話だけで、というよりも、電話の向こうにいる夫人の親戚たちである。夫人はどうしたのか、もし無事でないなら家は、土地は、金は、とやかましい。少しばかりいなくなっただけで今後のことを話し合いたがる親戚には呆れ果てた。
猫のような夫人のことだから、ふらふらと留守にしているだけではないのか。さらに、猫なのだから、敷地から出ることはほとんどない。買い物は家政婦がするし、夫人は庭を散歩しているだけで満足するような人だ。まさか金が動くほどの心配をすることはないだろう。
夫人の不運を願うのも結構、金の行方を想像するのも大いに結構だが、まずは強欲さをなんとかするべきだとつくづく思う。私は彼らを軽蔑している。
ここの主人、カールというが、彼は大きな会社の社長をしている。今の主人で三代目の会社だが、主人の力量がいいのか、落ちぶれる気配はないという。
私は重い腰を上げて歩き出した。私も猫夫人を探そうと思うのだ。
この屋敷はとにかく広い。全ての床に敷かれた絨毯は心地よいが、全て同じ柄をしているから今どこを歩いているのか分からなくなってくる。私は壁にかけられている絵画を目印に一階を歩き回った。
それにしても、猫夫人はどこへ行ったのだろう。猫というくらいだから、高いところにいるだろうか。目の前の階段を見つめながら、ふと思った。
階段を上がると、煩わしい親戚全員を並べて全員で「はないちもんめ」が出来そうなほど広い廊下に出た。このときもまた、絵画を頼りに歩いていく。確かこの先はベランダだったはずだ。
ベランダには見知らぬ男が二人、作業服で立っていた。私はやはり、ゆったりとした速度で近付いていく。そこに夫人はいないようだが、二人の会話が聞こえてきた。
「ここの夫人、今、行方不明らしいぜ」
「えっ、そうなのか。俺たち、そんなときに作業してて大丈夫か?」
「当たり前だろ、それが仕事なんだから」
「でもあの夫人、方々で恨みを買ってるらしいし、それに金持ちだし、もし誰かに連れ去られたとかならもう、無事じゃねえかもなあ」
「不吉なこというなよ。お得意様なんだからよ」
男二人組は、がははと下品に笑った。手には工具を持っていた。
私はその二人に向けて思い切りべえと舌を出してみせてから、歩き出した。夫人を馬鹿にしやがって。
壁伝いに、別の部屋へ向かう。次の部屋からは先ほどとは違うベランダに出られるはずだ。幸いなことに扉は開いていたので、ベランダへ向かった。すると、先ほどとは別人のようだったが、またしても男が二人、同じ作業服でいた。
「先輩、今の連絡なんでした?」
「夫人がいなくなったからそれを探して、すぐに連絡しろとよ。まだ敷地の外には出ていないだろうからって」
「このベランダから探せってことですか? 仕事しながら? ここのご主人はまた無茶言うなあ。僕らはただの換気扇修理業者ですよ。使用人じゃないっての」
ぶつくさ文句をいう。それを聞いて、無精ひげを生やしたもう一人の男は苦笑した。
「そんなのは、まあ、休憩中に外を眺める程度でいいだろう」
無精ひげの口ぶりに、男は「ですよね」と顔を明るくさせて頷き、同時に思い出したように人差し指を上向きに立てる。
「それに、夫人なら朝方、屋上に行ってませんでした?」
私はそこまで聞いてから、「確証はありませんが」という言葉を後ろに流し歩き出した。
屋上の扉は、またしても開いたままで、ぴゅうぴゅうと冷たい風が吹き込んでいた。その風の音以外はいたって静かで、私はためらいなく屋上へ踏み出した。
始めに見たのは赤だ。次に白。赤は、そこらに散らばる血の色。白は、ふわふわのドレスの色だ。夫人が倒れていた。たぶん死んでいる。だって頭から血を流しているのだ。
近くに角ばった石がごろごろと落ちていた。ガーデニング趣味の夫人の義母が囲いにと置いたものだ。夫人の死因はどうやら、これに頭を打ち付けたことのようだ。私は驚きのあまり声を出すことも忘れ、かといって卒倒することもなく、自分でも驚くほど冷静に夫人を観察していた。
そのとき、ふと死体近くの足元の違和感に気付いた。夫人の足元だけが不自然に滑るのだ。何か塗料が付着している。そっとそれに触れると、つるんと勢いよく滑った。夫人はこれに滑って頭を打ったのだ。
手には一枚のシャツが握りしめてある。おそらく夫人は、これを干すか、取り込むかをするために屋上へきて、そのときこの塗料に滑って転んで、頭を打ち付けたのだ。よく見ると、物干し竿の位置と塗料の位置、夫人の歩く向きなど、全ての条件が揃わなければ夫人は死ななかったことが分かる。まるで計算されたように正確な事故で、私はまず不運を呪った。それにしても、なぜこんな塗料が?
「ケディ、こんなところで何を──きゃあ!」
家政婦がにこやかに屋上へ入ってきて、すぐにその表情を一変させた。口元を抑え、よろよろと中へ戻っていく。「誰か」と叫ぶ、上ずった高い声が聞こえた。やがて受話器の外れる音がして、「警察ですか」と聞こえた。
家政婦の足音が去っていくなか、私は気付いた。これは不運じゃない。事故じゃない。夫人は殺されたのだ。そうに決まってる。屋上のほかの部分を探してみても、似たような塗料は見当たらない。それにそもそも、この場所に物干し竿なんて無かったはずだ。見栄えを重視する夫人の義母が、ガーデニングスペースにそんなものを設置するはずがない。とすれば、石ころの位置から計算し、竿の位置を考えて設置し、何かを塗った、そうやって猫夫人を殺した人間がいるのだ。
私がもう一度塗料に触れたとき、泣きそうになった。なんということだ。塗料が乾き始めている。これでは、警察が何をどう調べたところで、不慮の事故としか言えないではないか!
やがて、東からじりじりと照り付ける太陽によって塗料が完全に乾かされたころ、タイミングを見計らったように警察が飛び込んできた。私はしっしっと屋敷の中に追いやられたので、仕方なく歩き出した。歩きながら、心の中では憎しみの炎がごうごうと燃えていた。
私が猫夫人と出会ったのは、ある雨の日の夜だった。家族を亡くし、おまけに住むところもなくし、さまよい歩いていた私に傘をさしてくれたのが、猫夫人だ。当時夫人は、まだ夫人と呼ばれて日が浅かった。夫人は、口もきけない私を大きな黒塗りの車に乗せて連れ帰り、食事と寝床を与えてくれた。翌日からは、それからの生活を保障してくれた。なんの恩も返せない私のために、だ。夫人に言わせれば、「あなたはそこにいるだけでいいの」ということらしい。私には分からない。
名前もなかった私に「ケディ」という名前を与えてくれたのも夫人だ。私は毎日のように夫人の部屋へ行き、夫人の話を聞いた。数え切れないほどたくさんの話を聞き、その日々の中で、私は当然ながら、夫人には命をかけると決意した。
ところで夫人が、なぜ猫と呼ばれるのか。それについても、かつて夫人が話してくれた。
「私はねえ、猫かぶりの泥棒猫なんだよ。だから、猫なのよ」
つまり、猫と呼ばれて馬鹿にされているということか。私はその呼び名が嫌いになったが、夫人はついに私に本名を教えてはくれなかった。だから私は夫人を猫と呼ぶのだ。
「猫夫人でいいの。だって、お前とお揃いでしょう」
トルコ語で「ケッディ」というのが猫を意味するらしい。私の名前はケディだから、なるほどそれは、確かにお揃いと言えなくもない。
夫人は、主人を当時の恋人から奪い取ったのだという。だから泥棒猫なのだと。その後夫人は、義母を含め、夫人となってから出会った全ての人に媚を売って生きているらしい。だから猫かぶりなのだと。悲しそうな顔で、そう言っていた。
リビングにはたくさんの人が集まっていた。私が入って行っても、誰も気づかない。一番大きなソファの上に、泣きはらした顔をする少女が座っていた。少女はビビアンといい、猫夫人の娘だ。目が大きく、鼻筋が通っている。薄茶色の髪を二つに束ねているが、それもぐしゃぐしゃに荒れていた。健康的な肌色に、体型をしている。
ビビアンの隣には父親、つまり主人のカールがいて、その反対隣には別の少女。エルマという名だ。エルマは金色の髪をビビアンとお揃いの髪型にしているが、ビビアンとは違いよく整えられていた。目は細く、柔らかい。その脇で厳しい表情をして立っているのが、母親のカミラだ。カミラもまた髪は金で目は細いが、こちらは柔らかくはなく、とても鋭かった。目の形は似ているものの雰囲気は異なっていることから、エルマの目元は父親に似たのかもしれない。
私が知っている顔はそれだけで、あとはたくさんの警察がいた。いつの間にかぎらぎらに着飾った親戚も何人か来ている。わざとらしく不安げな表情をしている。
「――夜中に、母親同士で少し話し込んでおりました。そのとき、夜も深く、私も眠かったためか、うっかりジュースを零してしまいまして。畳んであったビビアンちゃんの服にかかってしまったのです」
「夫人は、汚れたビビアンちゃんの服を洗いに行ったのですね」
「はい。家政婦さんが一人おりますが、もう眠っておられました。しかし、明日着る予定の服だからと、わざわざ」
「それで、そのときあなたは?」
「私はカーペットを拭いておりました。それで、あらかたが終わりましから、夫人に声をかけました。すると、『先に休んでいてください』と言われましたので、お言葉に甘えることにしたのです」
「ふむ。すると夫人は、その後洗濯物を干すために屋上へ上がり、そこで不慮の事故に遭ったという訳ですな」
「ええ、そうなりますね」
「しかし、なぜ屋上なのでしょう。あそこは洗濯物を干すための場所ではないとお聞きしましたが」
警察の言葉に、カミラは首を傾げた。
「さあ、そこまでは」
すると、同席していた家政婦が重々しく口を開く。
「それは恐らく、今朝、庭のスプリンクラーが作動するためでしょう。毎朝、明朝に水がまかれ、二階以上の高さでないと濡れてしまいます。加えて、本日は朝から全てのベランダにて換気扇の点検作業が行われておりますから、干せる場所が屋上しかないと考えられたのではないでしょうか」
家政婦が言うと、警察は納得したように頷いた。私は、いつ警察が「これは事故ですな」と言い出すか、気が気ではなかった。
ふと、警察が私に目を向けた。
「こちらは?」
私の代わりに、使用人が応える。
「ケディといいます。何年か前に、奥様が連れてきました」
警察は興味を失ったのか、適当に相槌をうって私から目をそらした。見下すような目が気に入らなくて、私は警察を睨む。これで事故として処理するなら、私はこの警察を一生恨んでやる。
しかし、ここで犯人は分かった。間違いなくカミラだ。カミラは、今日の換気扇点検のことも、スプリンクラーのことも知ったうえで、故意にジュースを零したのだろう。それで、計算された位置に夫人をおびき寄せる。するとやがて、待っているだけで夫人は死ぬ。おそらくだが、カミラからすれば、夫人が死ななかったとしてもそれでいいのだ。死ねばラッキー、死ななくてもまだチャンスはいくらでもある、そういうことだろう。
私は、カミラの顔を見つめた。
それにしても、動機が分からない。なぜカミラが夫人を殺さなければならないのか。
そして、私はソファに座るカールだけが複雑そうな顔をしていることに気が付いた。その目は、じっとカミラに向けられている。
ある日夫人は、一枚の写真を見せてきた。主人と、夫人ではない女性の写っている写真だ。仲睦まじく、どこからどう見ても恋人同士のそれであった。夫人は「泥棒猫の話だよ」と言った。
「少しばかり、昔の話だけどね」
夫人は、大学でカールに出会った。カールは当時から人気者で、同時に、夫人自身も人気者だった。
夫人は、カールに恋をした。整った顔立ちも理由の一つだったが、彼の何事にも熱心な姿勢と誠実さに惹かれたのだという。夫人がカールに告白したとき、カールには別の恋人がいた。何の偽りもない、愛し合う理想的なカップルだった。
夫人はカールの恋人の存在を知ってもアプローチをやめなかった。夫人としては、純粋な気持ちだったのだという。たとえ恋人がいても、アタックしていればいつかは振り向いてくれるかもしれない、とそんな気持ちだ。
やがてカールは、度が過ぎるアプローチに耐えかねた。恋人も、限界に達していた。やがてカールは、これ以上自分の恋人に苦痛を感じさせるくらいならばと、折れる形で夫人との交際を了承したのである。その際、恋人とはお互い幸せになろうとすっきり別れたつもりでいたという。
恋人の方の気持ちはそうではない。恋人にとって夫人は、無理矢理カールを奪い取った悪女であるのだ。彼女は、その後何年も、夫人を憎み続けた。
「全て私が悪いんだよ。当然なのよ。だからね、私は泥棒猫と呼ばれるにふさわしいの。まさしくその通りなんだよ」
私は何も言えなかった。夫人が悪くないなどとは言えなかった。そんな風に思わなかったからだ。
「しかしね、私はあろうことか、そのままカールと結婚してしまったの。結婚するときには、カールは私を愛していると言ってくれた。だから、私はなんとしてでも、良い妻であらねばと思ったのよ」
そうして生まれたのが、猫かぶりのあだ名だったと夫人は語った。
そうだ、確か、その元恋人の名前は──カミラと言った。
私は、警察がぞろぞろとリビングを出て行く足音で我に返った。これからベランダに向かい、換気扇業者などにも事情聴取をするらしい。私もこっそり後ろを着いて行くことにした。
警察が早くカミラに辿り着けと願いながら、それと同時に、カミラは地獄へ落ちろと願いながら。私は夫人がこれまで誰よりも善良に生きていたなどとは考えていないが、少なくとも、私にとっては唯一無二の母だったのだ。それを奪われた悲しみは、カミラがどうなろうと拭えない。まずは地獄へ落ちろ、そういう意味だ。
「では、あなたは今日の朝、夫人を見かけたのですね」
「ええ、はい、そうです」
警察は、まだ死体解剖の結果が出ていないためか、死亡推定時刻は昨深夜と仮定していたらしい。従業員の一人の証言を聞いて、慌ただしく会話が飛び交う。専門用語らしい言葉や、あまりにも早口な話し方などで私にはうまく聞き取れなかった。
「つまり、夫人は洗濯物を取り込もうとして、今朝亡くなったという訳か」
ぽつりと呟かれた警察の言葉を聞いて、私はぴんと来た。夫人の殺し方が分かったのだ。
カミラは、夫人に洗濯物を干させ、自分は先に休むふりをする。やがて夫人も眠ったら、その隙に屋上へ行き、塗料や竿の位置を変えたりなどをしておく。早朝、夫人が洗濯物を取り込もうとしたら、そこに待つのはつるんと滑った死である。これなら、夫人に怪しまれず屋上に竿を設置しようと頑張る必要はない。それを設置するのは夫人自身なのだから。
今朝亡くなったと知ったとき、私は深く後悔した。私がもっと早く気付いてもっと早く夫人を見つけていれば、夫人は死んでいなかったかもしれない。もしかすると、あのときはまだ、死んでいなかったのかもしれない。カミラへ向けられていた憎悪が少し量を増した。今度は、私自身に対する憎しみだ。
夫人の言葉を、さらに思い出した。
「ビビアンがね、昔傷つけた人の娘さんと仲良くなって帰って来たんだよ。向こうは私の顔なんて二度と見たくないかもしれないけれども、私はどうしても、仲良くなった子供を引きはがすなんて真似はしたくないんだ。私は罪深いけど、子供に罪はないからね」
私の頭を撫でながら、夫人は言った。
私はそれを思い出しながら、もう一度カミラを見た。瞳がぎらりと光っている。私のこめかみがぴくぴくと痙攣した。
まさかとは思うが、このカミラという女は、夫人を殺すために、実の娘の友情を利用したというのだろうか。ぎりぎりで持ちこたえ、燃えていただけの憎しみが、堰を切ったように溢れだす。このままだとカミラを殺してしまいそうだ。
私は夢中で駆け出した。絨毯の上を跳ねて進む。目印になる絵画を見つけ、勢いを殺さずに曲がる。最後の階段を一段飛ばしでジャンプしながら上がっていく。そして、現場検証を終え、死体も運び出された屋上へ飛び込んだ。
私はニャーンと大声で鳴き、それから泣いた。柵を超え、地面へと頭から飛び込んでいく。反射的に前足が出そうになるが、それを抑えた。
夫人のいないこの屋敷に用はない。夫人のいないこの世に未練もない。
風を受け、走馬灯が見えた。夫人と思い出を振り返っている。私は少し嬉しくなった。しかし、その途中、私はぼんやりと思い出す。夫人は確か、こうは言っていなかったか。
まだ先の話、エルマがずっと大きくなって、そうねえ、エルマが結婚してくれるくらい先。そうしたら、私はいなくなるの。ずっと邪魔だったんだもの。それで、ようやく二人の愛が実るのよ。嘘偽りなんてない、本当の愛なのよ。私は楽しみなの。カールとカミラが──。
眼前には地面が迫っていた。