牧野飾の計略
牧野 飾……担任の先生。
「酷いじゃないか! なんで俺を起こしてくれなかったんだ? 次の駅で起きたから良かったものの、危うく東京まで行きかけたぞ!」
次の日、俺が重い足取りで学校に向かうと、教室では富士本が既に待機しており、俺に泣き付いて来た。
昨日あんな事があった手前、こいつの事などすっかり忘れていたので、最初は何かと思ったがどこまでも空気の読めない奴だ。終点まで寝ていれば良いものを。
「……ちっ」
「えっ、今舌打ちした? 怒ってるのは俺だぞ!」
「あー悪い。忘れてたんだ」
富士本は憤慨そうに少し怒っているみたいだが、疲れている身としては、一刻も早く席に座って休みたい。
俺は適当に富士本に誤り、またゆっくりと自分の席に向かって歩き出す事にした。
「えっ、それで終わり? 何か他に言う事は無い?」
「……無い」
「おい渡! 話は終わって無いぞ!! おーい渡くーん」
後ろから富士本の声が聞こえるがそんな物は無視だ。
「……」
「……」
「……ふっ、シャイな奴め。仕方方無い。また出直すとするか」
全く違うけどな。
しかし勘違いとはいえ、富士本がそれ以上しつこく付きまとって来なかった事は幸いだった。
朝のホームルームまで残り五分も無く、眠る事は叶わないが、俺は昨日買った本を読んで、少しでも体力を回復する事にした。
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「席に着け。ホームルームを始めるぞ」
俺はいつも予鈴より毎回五分程遅れて教室に着く先生の合図で起きた。
視線を上げると、目の前に美しい女性が移る。
牧野 飾。何を隠そう俺のクラスの担任だ。
荒々しく個性的な癖のある髪と、鋭い眼光。端麗ながら若干幼いあどけなさが残る整った顔立ち。
そんな個性的な先生である為か、一部のマニアからはかなりの人気を誇るらしく、その信者達からは女帝。またはクィーンと言われている。
そして、その荒々しさは伊達では無く、その拳は熊を片手だけで葬り、その蹴りは岩をも砕く。
正に、スカウターがぶっ壊れる程の強さだという事だ。
だからか、牧野先生は未だに独身。
そして流石の本人も何故結婚出来ないのかを正確に理解しているらしく、俺は以前、先生が窓ガラスに向かって笑顔の練習をしている現場を偶然目撃してしまった事がある。
あの時の羞恥に染まった先生の顔と、逃げる俺を追いかけ回した般若のような顔は今でも覚えている。
「出席取るぞ。一番……二番……」
しかし、そんな伝説を持ち、美しくもある先生が担任であるにも関わらず、俺の周りでは何も起きない。
「先生!!」
……事も無かった。
声のした方を見ると、そこには富士本が立っていた。クラスの生徒達が全員着席している中、一人だけ大声を上げて立ち上がった富士本に、牧野先生は目を細める。
「何だ?」
「いや、あの……」
「なんなんだ? お前は!」
先生に威圧され、何かを躊躇する富士本。
「……頑張れ」
そして、富士本付近で実行犯らしき奴等が小声で富士本を励ます。
「で? 何の用だ?」
富士本が元気を貰っている内にも、牧野先生はどんどん悪くなっていき、終いにはカツカツと爪で机を叩き始め出す。
「はい、その、……先生にお聞きしたい事がありまして……」
「それは、今じゃなければ駄目なのか?」
「……」
「中断させたからにはそれなりの理由があるんだろうなぁ?」
おずおずと話始める富士本を牧野先生は容赦なく凶弾する。
確かに、貴重なホームルームの時間を中断しているのだからそれなりの事は求められるだろう。
そして、その内容が本当に緊急だった場合ならそれで良いのだろうが、今の富士本の様子を見る限りでは到底先生を納得させられるには至らないだろう。
「なあ、あるんだろう?」
「えっと、……」
明らかに挙動不審になっている富士本は、完全に勢いを無くし、ゆっくりと席に座ろうとした。が、席に尻が触れる直前、牧野先生が待ったをかけた。
「おい! そんなに私に伝えたかったのなら、この場で言え」
「本当ですか!!」
「但し、つまらん内容の時は、分かっているな?」
鋭い眼光を向ける牧野先生に、富士本は一瞬安堵するが、直ぐに顔面を蒼白にする。
「ああ、それと、こいつにつまらん事をさせた奴も覚悟しておけ」
そして、富士本の周囲から「ひーっ!!」と怯えた声が聞こえる。
「さあ、言ってみろ」
牧野先生は教卓の椅子に座りながら少し楽しそうに顎をしゃくるが、瞳の奥は全く笑っていなかった。
発言権を得た富士本は黙って下を向き、己と自問自答している様子。
そして、「……どうせ言うにせよ言わないにせよ、先生に殺られる運命なんだ。なら……」と小声でぼそぼそ呟いた後、自分の机を強く叩き、真っ直ぐ先生を見た。
「先生!!」
「なんだ?」
富士本は拳を強く握り、震えながら大きく息を吸い込んだ。
そして、
「先生はいつになったら結婚……」
一閃。
そんな言葉しか思い浮かばない位のスピードで富士本はいきなり牧野先生に、殴り飛ばされた。
それでも先生の攻撃は止まず、壁に叩き付けられた富士本に飛び付き、容赦ない追撃を浴びせる。
「せんせっ、ぶふっ、止めっ……、うごっ、かはー!!」
ストレート。フック。アッパーの連撃を浴びた富士本は、先生が手を緩めた頃にはピクリとも動かなくなった。
富士本に物凄い速さで近付き、目にも留まらぬ速さで浴びせた張本人は、あれだけの運動量にも関わらず、全く息を乱していなかった。
そして、倒れた富士本に一瞥をくれると、今度は富士本の周囲の奴等を睨み付けた。
富士本をそそのかし、冗談半分で言わせた奴等はガタガタと震え出し、「まっ、待って下さい。あれは、あいつが勝手に……」と先生に命乞いをする。
だが、そんな事を聞き入れる先生では無い。
奴等に弁解の余地を与えないとばかりに、無言で近付きながら凍えるような声で話し出す。
「おい……」
「はっ、ははは、はいーー!!」
「連体責任って言葉。知ってるか?」
「ひぃーーーー!!」
ホームルームが終わったのは、それから数秒後の事だった。
号令が掛かり、クラスメイト達が席を立って自由に行動する事を許されるが、壁際で力なく倒れている奴等に近付く人は一人も居なかった。
……今日は少し、面白かったかも知れない。
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「汝漫市。待て」
放課後になり、俺が欠伸をしながらとっとと教室を出ようと扉に手を掛けた時、背後から不意に牧野先生に呼び止められた。
千葉先生以外に話し掛けられるなんて、滅多に無い事なので俺にしては珍しい。
牧野先生は俺を呼び止めた後、ごった返す教室で生徒達の下校の邪魔にならないよう廊下に移動させ、一息付いた所で再び口を開く。
「お前に話があるんだが……少し時間良いか?」
「いや、そのー今日は予定が……」
「い い か ?」
「……はい」
俺の経験上。教師に呼び出されて良い思いをして帰ってきた生徒を見た事が無い。
俺自身も職員室には、あまり良い思い出が無いので、普段滅多に職員室に呼び出される事など無い。
もしも呼び出された場合は、適当な理由を付けて逃げるのが定石となっていた。
しかし、そんな手段は牧野先生には通用しない。
「後で職員室に来い」
そう言って、先生は強引に俺との約束をこじつけると、廊下をスタスタと歩いて行ってしまった。
そのまま職員室に行かずに、次の日適当に謝っておけば良いんじゃないかと一瞬思ったが、そんな考えは直ぐに引っ込んだ。
なにせ、今回俺を呼び出したのはあの牧野先生なのだから。
逃げようものなら今朝の富士本達の二の舞になる。先程、派手にぶっ飛んで行った奴等の顔は暫く忘れそうにない。
「……行くしか無いのか?」
いや、行くしか選択肢は残って居ないだろう。
だが、大丈夫だ。なんて事は無い。俺は問題を起こした覚えも無いし、クラスの女子の体育着を着たり、リコーダーを交換した覚えも無い。
罪を犯した覚えは無い。心配するな。
そう自分に言い聞かせ、俺は重くなった足をゆっくり引き摺りながら職員室へ向かう決心をした。
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仕方無く職員室に来たものの、もう何年も訪れていない俺としては、どうやって先生を探すのかも分からず、ちょっとした浦島太郎の様な感覚を味わった。
「汝漫市。こっちだこっち」
しかし、そんな困った俺の姿に気づいてくれた牧野先生は、手を高々と上げ俺を目的地へと誘ってくれる。
「ご苦労だった。ついて来ないからもう逃げたかと思ったぞ」
開口一番、俺の心の声を代弁するかの様に言う牧野先生。
「……何言ってるんですか。先生の頼みなのに逃げる訳無いじゃないですか」
しかしそんな安い嘘などお見通しだとばかりに、先生はコーヒーを飲みながらクスリと小さく笑う。
「無理をしなくて良い。大方、私の用事と部活動を天秤に掛けて少しでも楽な方を選択した結果なんだろう?」
「まさか……」
正解。
「まあそれはいいとして、お前を呼び出した理由はもう一人が来た時に追々説明する。しばらくはそこら辺でくつろいでろ」
「……もう一人いるんですか?」
「ああ、今回頼みたい事はお前一人では荷が重いと思うのでな」
俺の質問に頷きながら、先生は空になった自分のマグカップと新しいマグカップを持ち、スタスタと近くに設置してあるコーヒーメイカーの方へと歩いて行く。
「ほら、汝漫市。飲め」
「あっ、……どうも」
ついでに作ってくれたのだろう。先生は俺にコーヒーを渡すと、椅子の背もたれに勢いよくもたれ掛かり、「うーーっ」と大きく伸びをしながら、再びゆっくりとコーヒーを啜り出す。
「……どうだ汝漫市。金曜日に飲むコーヒーは旨いだろう?」
「はあ……」
先生の言う通り、確かに職員室で飲むコーヒーは旨かった。金曜日独特のゆっくりとした雰囲気といい、うるさく無く、静か過ぎない室内。
前までは、ショッカーのアジトか何かだという意識が強かったが、案外過ごし易いじゃねえか職員室。
すると、俺の感想をどこかで感じ取った先生は小さくほくそ笑んだ。
「良いだろう。この雰囲気、私は嫌いでは無い」
「……教室よりはマシですね」
「皮肉を言うな」
そう言いながら、牧野先生は染々と小麦色になった外の景色を眺めながら、光を浴びている俺の方を見る。
「何でしょうか?」
「いや、な。お前が全然くつろげていないように感じてな。だが、まあそれも無理ないんだろうな。何せ私のような魅力溢れる女性と職員室で二人っきりだ。緊張しない訳が無い」
悪戯っぽくニヤニヤしながら、明らかに何かを勘違いしている先生。俺がリラックス出来ないのは、未だ俺が座る椅子が用意されていないからなのに。
しかし、事実を言った所で、この状況が改善される可能性はあまり無い。ならばせめて皮肉を込めた返事をして、このうっぷんを晴らすとしよう。
「そうですね、先生といるといつ殴られるじゃないかと冷や冷や……」
ドン!!
直後、腹部に鈍い痛みが走る。
「ぶふっ……」
俺はあまりの痛さに体裁も忘れ、もんどり打って倒れた。マジで痛え。
「……言葉に気を付けろ」
そう言って、牧野先生は腹にめり込ませた拳をしまい、地面に沈んだ俺に一瞥をくれると、再びゆっくりとコーヒーを飲み出す。
殴る前に言って欲しかった。
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それからというものの、それ以上の会話などは無く、職員室内には再び静かな一時が流れた。
時々聞こえる先生の「うー」だの「あー」だの言う声は気になるが、こういう一時も悪くは無い。
コンコン。
それから更に五分程経過した頃だろうか。静かな職員室に扉を叩く音が木霊する。
控え目に叩かれた音だったが、職員室に俺と牧野先生以外誰も居ない都合。二人が気付くには十分だった。
「入って良いぞ」
先生が椅子から立ち上がり、大きめな声で承諾すると、やや控えめに扉がゆっくりと開かれた。
「……失礼します」
その少女は職員室に入ると、恭しく一礼し、コツコツと足音を立てながら此方に歩み寄って来る。
「……すいません。ホームルームが長引いてしまって……」
星空を連想させる青みが掛かった黒髪に、影が落ちるような長い睫毛、宝石のように輝く瞳。
一ノ江 彗だ。
「……すみません。ホームルームが長引いてしまって」
「いや、気にしていない。それよりもほら、座りなさい」
牧野先生は申し訳なく謝罪する一ノ江に、気にするなと右手を振って見せ、俺の隣に椅子を用意する。
一ノ江は、小さくお辞儀をして先生から差し出された椅子に身体を預ける。
そしてふと俺に気付くと、無表情な凛とした顔が大きく変化した。如何にも嫌そう。
一ノ江は凍り付いた様に固まり、俺は頬をポリポリと掻く。どこかで見たような光景だ。
「さて、二人共揃った所で早速話を始めたいのだが……まずは自己紹介からか? お互い、顔も会わせた事が無いだろうしな」
そう何も知らないであろう先生は、俺達に目を配るが、その粋な計らいもこの時ばかりは完全に空回りだ。
「……」
「……」
当然の様にお互いに向き合ったまま、一向に口を開こうとしない俺達に違和感を覚えた先生は、怪訝そうな顔をする。
「どうしたんだ二人共? 初対面だから多少の緊張はあると思うが……どうやらお前達の硬直はそれが理由では無いような気がするのだが……」
そう言って、溜め息を付きながら、俺と一ノ江を再び交互に見やる。鋭いな。
だが、先生の指摘は最も。
確かに俺の経験上、お互いに自己紹介をする時はまず、どちらが先に切り出すべきなのだろうか? 此方から切り出した方が良いのだろうか? など、相手に対して非常にナーバスになるものだ。
普段は堂々としているのに、その時ばかりは腰が曲がったり、相手に悪い印象を与えないように引き吊った笑みを浮かべる。それに対すれば、俺達の行動を疑問に思う事は無理もない。
まあ、俺達が初対面だとしても無かったとしても、この状況が続く事は即ち停滞を意味する。話が進まない以上、次へと行く事が出来ない。それは今の先生にとって非常に不味い事だろう。まあ、俺は関係無いが。
ギラッ。
突然射るような視線を感じた。視線の元を辿ると、牧野先生へとたどり着いた。首を振っている。踊りかな?ダンスかな? 違うよね。
お前から行け、だね。
「無理です」と先生に目で訴えるが、先生の鋭い眼光がそれを許さない。御意。
だが話しかけろと言われても、こんな時どうすれば良いのかなんて俺に分かる筈も無い。いや、でも最初は挨拶だよな。
「あの……」
「……初めまして、一ノ江彗です。二年Aクラス」
「……」
俺が話し掛けた途端。一ノ江は何を思ったのか、俺の話の途中に突然割り込み、さっさと自己紹介を済ませた。挨拶ってこんな感じだったっけ?
そして、「貴方の事なんて気にも留めていないわ」と言わんばかりの余裕に満ちた笑みを浮かべている。
非常に憎たらしい事だが、俺としても昨日の事について指摘されない事は好都合。向こうがその気で無いのであれば、気にする事は無い。
「二年Eクラスの汝漫市」
「……よろしく」
「……」
俺の挨拶を無視するかと思ったが、意外にも一ノ江は律儀に答える。
「良し。一応自己紹介も終わった事だ。これなら本題に入れるだろう」
先生は手を叩きながら椅子から立ち上がり、ようやく本題へと話を進める。
「お前達も新聞やテレビで多少知っているとは思うが、近年学校では生徒達の教師離れ、教師達の生徒離れが深刻化してきている」
「はあ……」
「はい」
「まあ早い話、生徒達が教師を頼らなくなり、教師達も生徒に関心を向ける事が無くなるという、本来あってはならない溝の様な物が出来てしまったという事だ」
「「……」」
先生には悪いが話の筋が全く読めない。一体何が目的でそんな話をしているのだろうか。
すると先生は、そんな俺達の考えを察したらしく、やれやれと溜め息を付いた。
「お前達には、遠回しの話は向かないらしい」
そう言って、眉間のシワを寄せ、顔の前で拳を作る。
「……なら、単刀直入に言わせて貰う」
ごくり。
何だか分からないが、お互い唾を飲み、意識を先生へと集中させた。
「……お前達。私の補佐をしろ」
暫しの静寂。そして、その後にその静寂の分を取り戻すかのような爆発的な嵐がやって来た。
「意味が分かりません」
「話が飛びすぎです」
俺と一ノ江は口々に不満を露にした。
「だから言っただろう? 単刀直入に言うって」
「はしょりすぎです!!」
「……面倒くさい」
「それが本音か!! 本音だな?」
俺達の言葉の追撃に、牧野先生はムッと顔をしかめ、面倒くさそうに自分の癖のある髪をクルクルと巻き出す。
「別に全てを知る必要は無いだろう? 言っておくが、お前達はパソコンがどうやって出来ているとかは知らないだろう? だけど使い方は分かる。これも同じだ。私の指示にただ従えば良いだけだ。何故かは知る必要は無い」
そう先生は椅子に深く座り直し、クルクルと回り出す。
「まあ、要するに、貴様は私の手足となって働く奴隷になったと言うことだ」
「なんで俺の方だけを見て言うんですかね」
「お前だけに言っているからだ」
駄目だこの教師。終わってる。
俺はそんな事を思い。早々に諦めモードに入っていたが、隣で腕を組ながら先程までの話を聞いていた一ノ江は、眩しい西陽が差し込む職員室の中、スウーっと目を細めた。
「何故先生の補佐をしなければならないのかについてはもう良いです。しかし、一つだけ聞かせて下さい。何故私達が選ばれたのですか?」
確かに。
一ノ江の当然とも言える確信を突いた疑問。
普通ならスラスラ言えるであろう理由が、牧野先生の場合、直ぐには出て来なかった。
牧野先生は少し嫌そうな顔をしながら、一ノ江と俺の事を見る。
「私としては早く話を進めたいのだが……納得させなければ元も子も無いからな……」
そう言って、やれやれと溜め息を付いた。
「まず、私の仕事を手伝うからには、ある程度優秀かつ合理的に働いてくれる人材で無ければ困る。使い物にならないコマなど必要ないからな」
「はあ……」
「次に、ある程度の身体能力も必要だ。少しの労働で倒れてしまっては困る」
気のせいだろうか? ……今労働って言ったよな。
「そして、お前達が部活動に所属していて、尚且高校二年生であるという観点から、君達が最も適切であると判断した。後はまあ、勘だ」
先生は一通りの説明を終えると、渇いた程を潤す為に、再び手に持っているコーヒーを飲み「はぁー」っと一息付く。
嫌がっていた割りには内容がスラスラと出た先生だが、やはりどこか疲れた様に感じられた。
「先生の事を手伝うとして、私達にメリットはあるのですか?」
「その点は心配するな。内申点にも良い。そして、お前達が専用に使える部屋を用意してある」
「専用の部屋、ですか?」
「ああ、いつでも使ってOKだ」
先生がそう言うと、一ノ江はフムと口に手をやり、暫く熟考。そして何かを思い付いたかの用に一瞬目を見開き、再び視線を先生へと戻す。
「分かりました。私からは以上です」
「納得してくれたようだな」
お互いの手をガッチリと組み合う二人。俺は確実に置いてきぼりを食らった。
先生の説明に少しでも不可解な点があれば、そこに漬け込み看破してやろうと思っていたが、こうも大雑把な要因だけを説明されては、反論がしにくい。
だが俺は参加するつもりなど、毛頭無い。
飲み込みの良かった一ノ江も怪しいし、何より牧野先生の補佐など、何をされるか分かったもんじゃない。
「汝漫市。お前はどうだ?」
「……」
結論は出ているが、暫し考えるふりをする。
「速く答えろ」
これくらいで良いだろう。
「申し訳ないですが、俺は力になれそうにありません」
「何故だ?」
途端に不機嫌になる先生だが、ここで折れては一生後悔する。
「やはり、今の部活動を辞めたくはありません」
「ほう、」
「大会も近いですし」
この時、さも残念そうに語るのが効果的だ。
そして教師たるもの、青春の二文字には弱い。流石の牧野先生でもこれを押し退ける事は出来まい。
しかし、牧野先生は俺の言葉を鼻で笑った。
そして、芝居がかった様にわざとらしく俺の肩に手を置いた。
「そうか、そうか、……君がそんなに熱い男だったとは知らなかったよ」
「……そうなんですか? 今更気付いたんですか?」
「あー、それなら他を当たるべきだったな……だが、残念だったな汝漫市。お前はもう手遅れだ」
先生の意味深な言葉に俺の表情は歪んだ。
「……どういう事ですか?」
恐る恐る先生に尋ねると、先生は「ふふん」とやたら可愛く片目を綴じで、諭すように静かに、衝撃な発言をする。
「君はもう……千葉先生の部員では無いのだよ。汝漫市君」
「……ハッタリですね」
「退部届けも出しておいた」
これは嘘では無い。そう俺が確信するには十分な位、先生はドス黒い笑みを浮かべていた。
「そんな勝手に……」
「千葉先生の許可も取ってある」
そして、千葉先生の許可も取ってあると言う。
「……どういう事ですか?」
俺が、苦虫を噛み潰したような顔をしながら聞くと、先生は更に黒い笑みを浮かべながら、ニヤりと笑う。
「知りたいか?」
俺が頷くと、先生は「なら仕方ない」とサスペンスドラマお決まりの回想シーンへと入って行った。
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(朝の職員室にて)
職員会議が終わり、先生達が各々の席でホームルームまでの静かな一時を過ごしている時、牧野先生は緊張していた。
これから、ある先生にお願い事をしに行く訳だが、もしその願いを断られたり、先生に迷惑を掛ける事になってしまったらと考えると、その先生の元へと行くのをためらってしまう。
周りの先生や生徒達からは、外見や口調から男らしいだの言われている牧野先生であったが、実は意外と律儀だったり、相手に気を遣ったりするタイプなのだ。
本当は昨日の内に話をつける予定だったが、昔から厄介事を後回しにする癖が災いし、今に至っている。
つい先程まで、放課後にしようと考えていたのだが、その後の配慮を考えるとそうも行かず、牧野先生は思い身体を引き擦りながらその先生の元へと歩き出す。
「あの……千葉先生」
牧野先生に呼ばれた先生は、自分の名前を呼ばれると、パソコンをカタカタと動かしていた手を止め、クルりと牧野先生の方を向く。
「どうしました? 牧野先生」
テストの問題作りに忙しいというのに、嫌な顔一つせず応対してくれる千葉先生に、牧野先生は心の内で感謝する。
「少しお時間を貰っても良いですか?」
「ええ、別に良いですよ」
微笑みながら快く了承してくれる千葉先生を見て、牧野先生はふうっと胸を撫で下ろす。
しかし、ここからが本番なのだと自らで緩んだ帯を絞め直す。
「実は、今回私が担当する事になった件についてなのですが……」
牧野先生は恐る恐る話の主題を伝え、落ち着かない様子で指を弄ぶ。
だが、その緊張は杞憂に終わった。何故なら牧野先生の話を聞いた千葉先生が、小さく笑ったからだ。
「成程。その事でしたか。頑張って下さいねぇ牧野先生。私で良ければいつでもお手伝いしますよ!」
「あっ、ありがとうございます」
先程まで身体にのし掛かっていた重圧が嘘の様に消え、牧野先生は再度心の中で千葉先生にお礼を言う。
千葉先生の良い所は、その親しみ易さで相手の気持ちを楽にしてくれる事の他に、大変勘が鋭く、相手が意図している事を、いち早く察してくれる所がある。
そして、今回も何となく察してくれたらしく、千葉先生が自らで止まっていた話を動かしてくれた。
「それで、私は何をお手伝いすれば良いのですか?その為に来たのですよね?」
「はい。私の補佐を担当して貰う生徒を、先生の部員の中から一人頂きたいと思っているのですが……」
「成程。そういう事ですか。ではやはり牧野先生はあの子を?」
「そのつもりです」
牧野先生が答えると、千葉先生はアゴに手を当てがい、考える素振りを見せる。
「でも、大丈夫ですかねぇ。彼は曲者ですから少し心配ですねぇ」
「そこの所は、もう一人私が補佐にと思っている一ノ江がいるので大丈夫でしょう」
牧野先生がそう言うと、千葉先生の気難しいそうにしていた顔が晴れ、「じゃあ心配無いですねぇ」と手元に置いてあるコーヒーを飲み出す。
本当なら牧野先生も千葉先生に習い、コーヒーを飲む所だが、一つ言っておかなくてはいけない事がある。
「しかし千葉先生。こちらがメインになる以上。汝漫市君はそちらの部活に顔を出すのが困難になると思うのですが?」
そう、顧問にとって最も辛い事は部員を失う事だ。自分が汝漫市を引き取る事によって、大会に出られなくなったりと、顧問や他の部員達に迷惑を掛ける事になるかも知れないのだ。たかが一人と鷹を括ってはいけない。
しかし、千葉先生はその事について全く気にする素振りも見せず、静かに笑いながら手を小さく振り出す。
「大丈夫ですよ。部員の数も多いですし、汝漫市君が無くてはならない戦力という訳でもありません。それに、彼も人の役に立つ事が出来るならそれで本望でしょう」
「……はぁ」
再びコーヒーを、飲みながら軽く「オッケーオッケー」と言う千葉先生を見ながら、牧野先生はほんの少しだけ汝漫市に同情するのであった。
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「……とまあこんな感じだ。汝漫市、これからは此方をメインに頑張れ」
回想が終わり、俺の肩に手を置きながら小刻みに口を押さえながら震える牧野先生。
「……だそうよ」
そして、一ノ江も満面の笑みを向けてくる。
屈辱だ。圧倒的な屈辱。
「それじゃあそろそろ、私達の活動拠点へ向かうぞ。時間も時間だろうしな」
俺からの反論が来ないのを良しと取ったのか、牧野先生は時計を見ながらそう言った。
「どんな所か少し気になりますね」
「だろう? さあ、行くぞ!」
牧野先生は渋る一ノ江の手を引きながら、足早に職員室を後にする。
二人が出ていった後、職員室に残された俺は、このまま帰ろうとは思わなかった。
どうせ逃げたとしてもまた直ぐに制裁を受け捕まるのだ。正直に従った方が得策だろう。
「……嫌だな」
俺は重たい身体をゆっくりと動かしながら、二人の出ていった後を追いかける事にした。