プロローグ
……これは、ある少年が変わってしまう前の話。
……数年前、その日は少年の小学校の卒業式だった。
卒業式が終わり、少年の周りには多くのクラスメイトが集まり、名残惜しそうに最後の一時を過ごしていた。
「中学校は違うけど、また一緒に遊ぼうな!」
「中学校も同じだから、また一緒に遊べるね!」
この一時は少年にとって悲しくもあり、そして少し嬉しくもあった。別れと同時に新しい出会いが始まるのだから。
少年は気さくで誰にでも優しく、どんな相手でも態度の変わる事の無い、面倒見の良い性格をしていた。
「……来年はアタシもそっちの中学に行くからちゃんと待ってなさいよ!」
そんな素直になれない後輩達や六年間共に過ごして来た奴等と一言二言話した後で、少年は笑いながら今はすっかり友達になったある人物の元へと向かって行った。
その子は、昔から臆病で、内気で、自分の主張が出来ない奴だった。だから二年前まではその子に友達なんて呼べる者は、少年を除いてほとんど居なかった。
二年前のある日から少年はその子と関わり合い、何故かは分からないが、それ以来よく教室などで一緒に話すようになった。
少年は友達と遊ぶ時も、その子を一緒に連れて行って遊んだ。
そして、その子は少年にとってかけがえのない友となった。
卒業までの短い時間でがその子と充実した日々を過ごした少年は、またくだらない話をする為に、いつもの廊下へ早足で向かった。
******************************************************
少年が廊下に着くと、そこにはいつもと変わらない顔立ちをしているその子が、既に少年の事を待っていた。
卒業式で制服を着ているからなのか、多少いつもより大人っぽく見えるその子に、少年は嬉しそうに話し掛けた。
「今日の卒業式、本当に疲れたなー。お尻が痛くなっちゃったよ」
そう言いながら少年がお尻を擦る素振りを見せると、その子はクスりといつもの様に笑った。
「君はいつも面白いね」
「そうか?」
「そうだよ。……いつも一人の私に話し掛けてくれた」
そう言いながら、少し寂しそうに笑うその子に、少年はドキリとした。
何故だろう。
「中学校は同じなのに何で寂しそうな顔をしているんだ? 別にまたいつでも会えるじゃないか」
「……うん」
少年はその不安を掻き消す為に明るく振る舞ったが、その子は笑ってくれかった。少年はその子の笑顔が好きなのに。
少年は、話題を変える事にした。
そうだ。未来の話をしよう。明るく希望で溢れている未来の話を。
「まあ、小学校じゃあんまりお前は友達が出来なかったけど、中学校になればきっと沢山友達が出来るよ! 俺も手伝うしさ!!」
だが、その子は笑わなかった。それどころか、前よりも一層悲しそうな顔をした。
「……いいんだ」
そして、ポツリと言葉をこぼした。
「……えっ?」
聞き間違えだろうか? 底冷えする様な言葉に少年は自分の耳を疑った。
少年は聞き間違いだと信じたかった。だが確かに聞こえた。
少年は訳が分からなくなった。
「いいって、どういう事だよ? お前、友達出来なくていいのかよ!!」
「……ううん。友達は欲しいよ。でも、君の手は借りない」
「……そうか、」
ホッとした。
少年はその子が少年の手を借りずに、一人立ちしようとしているのだと思った。それは喜ばしい事だと少年は思った。
だが、その解釈が間違っていた事に少年は気付いた。
何故なら、その子は目の前でポツリポツリと大粒の涙をこぼし始めたからだ。
「おい! どうしたんだよ! 泣くなよ!!」
その子が何故泣くのか分からなかった。少年はその子の涙を止めようと、必死に背中をさすり、涙を拭った。
だが、どれもこれもその子が泣き止むには足りなかった。どんなに涙を拭った所で、後から後からポロポロと少女の瞳から涙が溢れ、廊下の木材は水玉模様に濡れた。
心なしか空気も温かく爽やかな物から、湿り気のある物へと変貌していた。少年達を優しく包んでいた西日も、まるで少年の事を射るような光を放っている。
……少年は、何も出来なかった。
……少年はその子の涙が枯れるのをただ黙って待つしか無かった。
******************************************************
「大丈夫か?」
「…………うん」
その子が泣き止んだのはそれから数分後の事。
厳密には枯れ果てたと言うべきだろう。服の袖は濡れ、廊下の木材もいつもの色とは変わってしまっていた。そして少ししょっぱい匂いがした。
「……あのねっ。今だからっ、言える事、なんだけどねっ」
その子は涙を拭いながら震える声で、少年にゆっくりと話し出した。
「……私っ、いじめられてたんだっ……」
「……えっ」
絞り出すように言われたその子の掠れた声に、少年は言葉を失った。
喉が急速に渇いていくのが分かる。唇が震える。脳の思考が一瞬停止した。
「……なんで! どうしてお前がいじめられなくちゃいけないんだ! クラスは皆仲良しなのに、誰がそんな事を……」
少年は叫んだ。こんな不条理な事があって堪るか。少年はその子の優しい所を知っていたから尚更だ。
だが、その子が標的にされた理由は簡単だった。
「……私がっ、君と毎日話しているからっ、遊んでいるからっ、……ムカつくって……」
「……話してくれないか?」
少年が真相を確める為、恐る恐る尋ねると、その子は震える身体でコクリと頷いた。
その後にその子が言ったのは、泣くまでその子を苦しめ続けたクラスメイト達の名前だった。
それを聞いた時、少年は頭が真っ白になった。
何故なら、そいつらは少年がよく知る奴等だったからだ。
そう。少年の友達だった奴等だ。
「……嘘だろ、なんで……あいつ等が」
そこで、少年は何故その子が少年に相談出来なかったのかに気付いた。
少年が大事にしている友達の事を嫌いにならないように今まで何も言わなかったのだ。
その子の優しさが痛かった。その事実は少年の心の奥底に突き刺さり、何を持ってしても決して癒える事の無い傷となった。
少年は経験した事の無い未知の痛みに頭を抱え、呆然と目を虚ろにした。
しかし、ふと暖かい物が少年の頭に触れた。
「……私は貴方と過ごした日々がとても楽しかったです。いつも話して、いつも私を笑わせてくれました。……貴方は優しいです」
頭を上げると、まだ真っ赤になったままの目を開き、ニコリと微笑みながらその子が少年の頭を撫でていた。
少年は一瞬心が安らいだ。
だが、少年はそいつに何もしてやる事が出来なかった。
結局少年は真実を見極められなかったのだ。今だって少年はその子に何もしてあげられなかった。それは、少年皆との楽しい表面しか見なかったからだ。
己が犯してしまった愚を清算するかのようなその子の振るまいに、再び甘えそうになった少年は自らを憎んだ。
そして、少年はすがる様にその子の手を取った。
「……俺は!」
「……だけど」
だが、その言葉は少女の次の言葉に掻き消された。
「……もし許されるなら、私はもう一度やり直したいな」
……
その無理に作った笑顔でその子が言った言葉を聞いた少年は、その後起こった出来事を覚えていない。