第8話 「コーヒー牛乳はパンじゃないですよ」
それは破壊音だった。
爆発音と変わらない、鼓膜を打ち鳴らし、心臓を貫いたその音は、柚希の眠りを妨げるのには充分過ぎるものだった。建物全体が揺れるような感覚に、すぐさま部屋から飛び出た柚希がまず初めにしたことは、周囲の確認だった。それはこの破壊音の原因が何であるかの予想は粗方ついていたからこその行動だった。
廊下に出てすぐに、左右を確認したが、壊れたものや人影などはなかった。
心拍数が上がっていることがわかる。
変に緊張しているのだろう、嫌な汗をかいている。
おかしいとは思っていた。あの三人がここまで静かにしていたのが不思議だったのだ。天と地がひっくり返るくらいのような驚きである。一に戦闘、ニに戦闘、三四も戦闘の三人がよくもまあ我慢できていたものだ。
まるで初めからこうなるように計画していたかのような気持ち悪さだ。
「そうか……、そういうこともあるか」
破壊音の余韻が残る廊下で、柚希はそう呟いた。
余韻が消え、再び静寂が戻った廊下を歩く音が鳴り響いた。それが三人のうちの誰かはわからない。棗や杏子である可能性が一番高い。あの二人に足音を消して移動するというスキルはないからだ。花梨のように超人的になったという可能性は究極的にゼロに等しい。花梨なら足音を消すくらい動作もないだろう。だが、この足音が花梨だとすればその意図が全く掴めない。柚希にそれが聞こえてしまえば、近づいていることやこの校舎にいることが露見してしまう。彼女が誤ってそうしたということはまずありえない。
つまりこれは宣戦布告だ。
柚希に対してなのか、棗に対してなのか、杏子に対してなのか。
あるいは全員か。
なんにしても柚希は動かなければならない。今出てきた部屋にいたところで、いつか発見されてしまい袋叩きにあうことは間違いない。それにこの部活の時間が長引いてしまうというのは避けたかった。それが最初にリタイアした――なにしに来たのかわからない二人との約束だからだ。
――が、そのことを柚希は今思い出したのだった。
とにかく動かないことには話にならない。柚希は若干のデジャブ感を抱きつつも、足音の聞こえるほうへ歩みを進めた。たとえそれが罠であるのだとしても、残り四人しかいないこの状況で、加えて他の三人が戦闘狂であることを考えれば、そうすることしかできない。
最初の曲がり角で柚希は異様な――けれど予想通りの光景を目にした。壁にまるで大蛇でも這っているような抉った跡があった。どうやら廊下の奥まで続いているようだったが、その全貌はわからなかった。なにをどうすればこんな跡が付くのか理解できないし、そもそも文房具で付けられる後ではない。
訝しみながらも柚希はその大蛇を手で撫でながら歩いた。ゴツゴツとした手触りはなく、どちらかといえばすべすべしていて手触りがよかった。
日が暮れ始めたのだろう、校舎内の明るさが失われつつある。この旧校舎は一応、電気が通ってはいるが、蛍光灯などの照明器具がその命を失っており(寿命もあるが、部活動により破壊されたものもある)、殆どその意味をなしてはいない。辛うじて生き残ったものが廊下を照らしているが、それも微々たる量の光だった。そろそろ本格的に交換などを考えた方がいいかもしれない、と柚希は生き残りを見た。
ふと柚希は立ち止まった。
どこかから物が壊れるような音が聞こえた。一度や二度でその音は納まらなかったため、それが二階から聞こえてきていることがわかった。
柚希は階段へと足を運び、慎重に下の階へと下りていった。残りの部員から考えて、この先なにがあってもおかしくない。一歩一歩確実に歩みを進めるに越したことはない。立ち止まっては手すりのところから二階の様子を確認し、呼吸を整えてからまた一歩と進んだ。
そして二階へ辿り着き、周囲を確認したときにそれは起きた。
近くにある教室の扉が吹き飛び、窓に叩きつけられた。そのときの音はあの破壊音とかなり酷似していた。吹き飛ばされたのは扉だけではなく、他にも細々と中にあった備品などが巻き込まれている。なにが起きたのかと確認をしようとしたが、よく見てみればそれは明白だった。
人だ。人が壁に寄りかかって倒れていた。
柚希はすぐさまその人物の元へ駆け寄り声をかけた。
「おい、大丈夫か」
棗、と柚希は名前を呼んだ。
「あ、ああ。大丈夫だ――とは言えないか。なんたってこの有様なんだからな」
棗にはいつもの元気がなかった。元気しか取り柄のない彼から元気を取ってしまったら、なにが残るというのだ。
「……気をつけろ、この校舎には化物が住んでる」
「部長のことだろ? だったら百も承知だ」
彼女を化物と言わずして誰を化物と呼ぶんだ、と柚希は内心で呟いた。
人を化物と呼ぶ必要はないけれど。
だが、棗は「違う」と柚希の言葉を否定した。
「化物は部長じゃない。……もう一人いるんだ」
花梨でもなく、棗でもないのなら残るは一人。
「気をつけろ。奴はバカ者――あ、間違えた、化物だ」
「って誰がバカ者だああああ!」
扉のない教室からそんな叫び声と共になにかがもの凄い速さで飛んできた。その速さはもしかしたらメジャー級の速さだったのかもしれないが、そんなこと柚希にはわからないまま、それは棗の腹部に直撃した。
それがとどめの一撃だった。
棗は「げふう」と体内にあった空気を全て吐き出すかのように声を漏らし、そのまま目を閉じた。その一連の動作はまるで静かな眠りにつくかのような尊さを醸し出していた。
が、実際はそんな綺麗な感じではなく、腹部に直撃をくらった棗は白目をむいて気絶したのだった。そしてその白目をむいた棗の顔があまりにも気持ち悪かったため、柚希はそっと棗の瞼を閉ざしたのだった。
「ったくバカ先輩は油断も隙もあったもんじゃない」
教室から姿を現したのは杏子だった。
両手には地球儀を持っていた。小学生がつい入学祝にもらってしまう大きさのあれだ。別に必要もないのに『地球』という響きに憧れてもらってしまうものでもある。
ちなみに棗の腹部に直撃したのも地球儀だ。
「地球儀って文房具じゃないだろ!」柚希はたまらず禁止された言葉を口にした。
「そんなことはないよ……ですよ。私の家の近くの文房具屋には売ってますよ、地球儀」
「その考えだとパン屋に売ってるコーヒー牛乳はパンってことになるぞ!?」
「なに言ってるんだ……ですか? コーヒー牛乳はパンじゃないですよ。これ常識」
「その常識に『地球儀は文房具じゃない』って付け加えとけ!」
そうは言うが、地球儀が文房具なのかそうでないのか柚希には判断することができなかった。できればそうでないほうがこの状況ではありがたかった。
「さてここで出会ったのもなにかの縁だな。部活動をしよう」
それがきっかけとなり柚希は棗から離れた。杏子が持っていた地球儀の一つが柚希に向かって投げられたのだ。当たってしまえば棗のようになりかねない。しかし地球儀は柚希のいた場所ではなく、再び棗の腹部にヒットした。
二コンボだった。
「お前、それシャレにならないからな」
柚希は杏子から逃げるように廊下を駆けだした。この際四の五と言っていられる状況ではなかった。花梨に場所がバレようとも、構わなかった。
なにせ杏子が持っているのは文房具ではない。
ただの鈍器だ。
「うん。まあ、次のコマで粗方回復すると思うから大丈夫」
杏子は柚希を追いかけながら、その手に持っている地球儀を思いっきり投げた。気持ちのいいくらいのオーバースローだった。
地球儀は柚希に当たることなくその横を通り過ぎ、床に落ちても壊れることなく転がった。
「杏子!」柚希は後ろを振り返った。「てめえ、俺を殺す気か! 今冷や汗かいただろ」
「だから次のコマで治るって」
「いいか、まずお前らがすることはその二次元脳を治すことだ。あんなのに当たったら怪我じゃ済まないぞ」
「またまたー。柊先輩は冗談が上手いなぁ」
へらへらと笑いながら、杏子は地球儀を投げた。会場が湧くほど見事なサイドスローだった。だが、サイドスローで投げたせいか地球儀は柚希に当たることなく通り過ぎ、壁に突き刺さった。
柚希はもう脇目も振らなかった。自分の後輩が――それも女の子が笑いながら地球儀を投げている姿は目にしたくなかったからだ。できれば林檎のような可愛らしい後輩であってほしいのだが、それは高望みもいいところだ。
柚希が最初の曲がり角を曲がろうとしたとき、彼の目の前を地球儀が通過した。一瞬のことで驚くことができず、むしろスローモーションでその地球儀の回転を目で追えてしまった。
ジャイロ回転だった。
地球儀全体がジャイロ回転をしていた。
地球儀は勢いを失い廊下に落ちて、土台の部分が砕けた。
「杏子、話がある」柚希は彼女のほうを振り向いた。
「なんだよ?」杏子は立ち止まった。
「地球儀はなしにしよう。危険だろ、流石に。犠牲者も出ていることだし」
その犠牲者である棗は今もきっとあの場で気絶しているのだろう。なんたって二コンボだったのだから、当分起きることはないだろう。あんなものを二度もくらって立っていられるほうがおかしい。
それこそ化物だ。
にゅっと背中に手を回し地球儀を取り出していた杏子は「そうだなー」と納得して地球儀を廊下に投げ捨てた。
「……お前の背中には四次元ポケットでも搭載されてるのか?」
「その質問は禁止のはずじゃない」
杏子は手持無沙汰になったのか、手を広げては握り、広げては握っていた。しかし手から地球儀がなくなってさびしそうにする女子高生というのは如何なものなのか。
「そういえば柊先輩はなにも使わないね。どこかに落としてきたの?」
「俺のは地球儀相手に使える代物じゃねえよ」
地球儀相手に戦える文房具(注、文房具は武器ではありません)がこの世にあるのかどうかは不明だが、柚希の持っている文房具では戦えないことは確かだった。
「私も地球儀はないと思ったんだよ。だけどこれがいいって聞かないからさ。でも仕方なく地球儀を投げたんだけど」
仕方なく、と言ったわりには結構楽しそうに投げていた。それも高校球児も目を丸くするほどの豪快なピッチングだった。オーバースローや、サイドスロー、もしかしたら棗に当てたときはアンダースローやスリークォーターだったのかもしれない。
気になった柚希は試しに訊いてみた。
「なあ棗に地球儀を当てたときのフォームはなんだったんだ?」
「マサカリ投法だけど」
「スカートで!?」
花も恥じらう女子高生がする投法ではなかった。
「ん? そういやお前、『これがいいって聞かないから』って言わなかったか?」
だとすれば、梅香たちのように二人組かそれ以上という可能性がある。お互いの文房具が割れるということは、それは共闘関係でもない限りはありえない。それが杏子だとすれば尚更だ。戦闘狂であり、勝利を追い求める彼女が他人に易々と手の内を晒すことはない。
つまり――
杏子はにやりと不敵な笑みを見せた。
柚希は背後の気配に気付き、体勢を沈めた。屈んだ勢いで逆立った髪を地球儀がかすめた。気付いていなければ今頃腕を骨折していてもおかしくはなかった。地球儀の勢いに迷いの一つも感じられなかった。人を殴るという行為に、だ。
柚希は屈んですぐに左足を軸にして、後方に足払いをした。しかし足払いは、なにもない床を撫でるだけに終わった。
最初からわかっていたことだった。部活動が始まったというのに、校内が誰もいないかのように静かだったのだ。八人も部員がいて、その中に出会えば戦闘を開始する三人がいるというのに、それはいくらなんでも不自然だ。出会わないのなら、出会いに行けばいい。だが、それをしなかった。
「お前ら、初めから――」
「言ったじゃないか。化物がもう一人いるって」
棗は高く持ち上げた地球儀を振り下ろした。柚希は転がるように地球儀を避け、体勢を立て直した。地球儀は床に叩きつけられ、隕石でも衝突したかのように割れてその破片を散らばらせた。
「お前が地球儀を選んだのか、棗」
「おうよ。ちなみにバカ者のほうは――」
そのとき、二人の間をなにかが通過した。それがなんだったのか二人は判断できなかったが、飛んできた方向からすると、それは杏子がなにかしたということだ。
そしてそれは遠くの方で爆発した。
決して大きな爆発ではなかったが、危険であることは確実だった。
「えっと……、俺の知る限りじゃ爆発する文房具というのは存在しないはずなんだけど」柚希が焦りながら言った。
「き、奇遇だな。俺も知らないよ」棗は汗をかきまくっていた。
「おい、バカ先輩」杏子が静かにそして怒り露わにしていった。「お前、人のことバカバカ言い過ぎ。万死に値する」
二人が、首が錆びついたロボットのようにぎこちない動きで杏子の姿を捉えると、その手には細い棒の指の間に一本ずつ――計八本がその手に納まっていた。鉛筆のように見えなくはない。だが爆発する鉛筆など存在するわけがなかった。
「それはなんでしょうか?」棗が言った。
「うん? これはペンシルロケットだけど」
ロケットペンシルじゃないんだ……、と柚希と棗は内心で呟いた。
これが本当の部活動の開始だった。