第7話 「関係が悪化すると犠牲者が出るってことよ」
午後四時十分。
時期が夏直前のためか、日がまだ高い所に位置し、外は昼間とさして変わることなく明るいままだ。天気は良好であるが、それは室内で部活をしている彼らには関係なかった。そもそも室内でなくても関係なく行われるだろう。たとえ雨が降っていたとしても止めることはないし、台風が来たとしても問題なく続けられる。もしなにかしらの拍子に槍が降ってくるようであれば、もしかしたら中止になるかもしれない。つまり、どんなに今の天候が良かろうと悪かろうと関係ないのだ。
しかしそんな良好な天気である外と違って、柚希たちのいる部屋――部室と呼ばれたことのない部屋の中は最悪の天気だった。重々しい暗雲が立ち込め、雨と雪が同時に降っており、日の光の侵入など微塵も許さないような状態――それほどまでに室内の空気はどんよりと淀んでいた。
その原因は夏枦林檎だった。部屋の隅で膝を抱えている彼女から発生している暗雲の如く暗く重いどんよりとしたオーラを部屋が内包せざるをえなかった。飽和状態などとっくに超えている。もしこれから建築を計画している人がいるのなら、この辺も重視した設計を心掛けて欲しいものだった。煙突でもつけておけば、問題は解決するのだろうけれど。
「もうダメです。お嫁になんかいけません。私……はしたない女になってしまいました」林檎が誰に言うのでなくそう言った。
「いやでも見てないからさ。大丈夫だろ」柚希が慰めた。
「でも柚希先輩目を逸らしてましたよね?」林檎が言った。「ということはなんらかの拍子に見たんじゃないですか? それに私の動きを固定していたのも気付いていたからなんじゃないですか」
柚希と林檎の距離が少しだけ開いた。それは林檎がほんの少しだけ部屋の隅へとさらに近づいて行ったためだった。
「うん、まあそうなんだけど。それでも後ろしか見てないし、見たのは一瞬だから」
「私、こう見えて実は将来の夢がお嫁さんになることだったりするんですけど」
見た目通りだ、なんて柚希と梅香は口が裂けても言えなかった。言えるような状況じゃなかった。
「こうして大衆の中で下着を晒してしまったからにはもう夢は叶いませんよね。こんなはしたない女を誰が嫁にもらってくれるんですか」
「いるから! お前のことをもらってくれる人はいるから!」柚希は言った。「そんでもって少しだけ記憶変わってるから!」
「柚希先輩は――」林檎は言った。「柚希先輩は私のこともらってくれますか?」
冗談で言ったのではない、死んだような目をしていたけれど、柚希はそう思った。ここで首を縦に振ればこの状況を打破できるかもしれない。それがベストの返答だ。横に振ればおそらく彼女は暗黒面に堕ちてジェダイを狩る戦士になってしまうかもしれない。
答えに悩んでいる柚希に梅香が近づいてきた。
「早く首を縦に振りなさいよ。じゃないと林檎ちゃんが暗黒面に堕ちちゃうじゃない」梅香が林檎に聞こえない程度の声で言った。
「やっぱりそう思うか? 俺もそんな気がしたんだけど、縦に振ったらそれはそれで厄介なことにならないか?」
「大丈夫。この場さえ乗り切ればなんとかなる。とりあえず武力行使で林檎ちゃんには気絶してもらいましょう」
柚希は梅香の顔を見たが、本気のようだった。
「とんでもないことを普通に言うのな」
「仕方ないじゃない。時間が経てば経つほど私たちは不利なのよ。バカたちが黙ってないわ」
今はこっちにいないだけで確実に彼ら――戦闘狂たちは活動しているのだ。今もどこかで獲物を狩る獣のように、こちらの様子をジッと窺っている可能性だってある。息を潜めて、最高のタイミングを見計らっているのかもしれない。ここは檻の中なのだ。外に出れば猛獣に襲われてしまうし、中に居続けたとしても檻を破壊されてしまうことだってある。逃げ場などない閉鎖された空間なのだ。
携帯電話が鳴った。それは柚希のだけではなく、梅香や林檎の携帯電話も同様だった。三人はほぼ同時に着信を確認する。
美柑からのメールだった。
『やっほー、みんな元気にしとるー?
わたしたち今保健室にいるんやけど、
というかもうずいぶん長いこといるなー
お茶とか飲んでたら長いしてしもうたわー
桃ちゃんなんてベッドで寝てるで
まったく協調性がないとはこのことやな
あ、部長さん
わたしと桃ちゃんはリタイアするんで、
頑張ってください』
部活開始時に花梨は言っていなかったが、リタイアした場合はこうしてメールで知らせなければならない。そうしなければリタイアしたかどうかが判断できないからである。連絡がなければリタイアしているはずなのに、頭を撃ち抜かれてしまう可能性だってあるのだ。これはある意味では防衛行動、あるいは延命処置なのである。
力が尽きてその辺に転がってでもしたとしても、問答無用に頭を打ち抜かれる。生き残るためにはそうするしかない。だから、リタイアした者、リタイアしてしまった者は自分もしくは誰かがメールでそのことを伝えなければならない。
部員たちは携帯電話にロックをかけている。それはなりすましを防ぐためだ。リタイアのメールを送った端末の持ち主がリタイアとなるため、誰かが誰かの携帯電話を手に入れてなりすますことができてしまうのは面白くない。そう花梨が判断したからだ。
それにしても彼女たちのメールは長過ぎである。
しかも写メまで添付されている。
「絵文字まで使って報告することじゃねえ!」柚希はメールの前半の内容についてそう言った。
「茶柱立ちましたとか画像に文字まで入れるとかなんなの! 心底どうでもいいわよ!」梅香が写メについて言った。
「ホントに……調子を狂わせてくれる人たちですね」林檎が嬉しそうにそう呟いた。その声は柚希や梅香には届かなかった。
林檎は立ち上がって深呼吸をした。時間が経ったため濡れていた制服がカピカピなってはいるが一応は渇いていた。それはけして気分の良いものではないが、湿っていたときよりは圧倒的にマシだった。
「先輩方」林檎が振り返った。林檎に呼ばれて柚希たちは少し驚いた。「私もリタイアします。こんなところで落ち込んでいるくらいだったら、美柑先輩たちといたほうがいいです」
「そうか」柚希が言った。「まあそうだな。制服のこともあるし、保健室であいつらと遊んでたほうがいいな」
「でも林檎ちゃん、その……下着のことはいいの?」梅香が訊いた。
「はい。なんだか吹っ切れました。それにもし私がお嫁に行けなかったら、柚希先輩に拾ってもらいます」
下着を見た責任です、と林檎は可愛らしい笑顔を見せた。
「そのときはよろしくな」と冗談交じりで柚希が言った。その返答に何故か梅香があたふたしていたが、柚希にその理由はわからなかった。
「ま、なんにせよ」梅香が元の調子で言った。「これで今日も宇宙は平和ということね。良かった、良かった」
「そうだな」
柚希はそう言って、棚の横に設置されている冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出した。中に入っている飲み物やらには、直接名前が書いてあるものや紙に名前を書いてそれをテープで貼っているものがある。そうやって自分のものと他の人のものを区別しているのだ。柚希はそういったことを一切しない。他の全員がしているのなら、自動的に名前の書いていないものが柚希のものと判断できる。それにいちいち名前を書いたりするのが面倒だからという理由もある。
「リタイアするんだから早くメールを打たないとね」梅香が言った。「ここから校舎の外に出るまでにあいつらに会ったらそれで終わりよ。なにもかも終わり。世界だって終わるわ」
「それは言い過ぎだろ」柚希がペットボトルのキャップを捻りながら言った。
「いいえ終わるわ。私たちを包み込んでいる世界じゃなくて、林檎ちゃんの世界がね」
「それって人生の終わりということですか?」林檎が訊いた。
「そうね。バカ二人のエンカウント率が八十パーセント。花梨部長のエンカウント率が二十パーセントってところかしら。ちなみにバカ二人に出会った場合の林檎ちゃんの死亡確率は九十パーセントくらいね」
「私の命の危機ですね!」
「もう一つちなみに、ここでのあの三人のエンカウント率は五十パーセントくらいね。そろそろ向こうから来ても遅くはないんじゃない」
林檎はそれを聞いて覚束ない手つきで打鍵を始めた。顔には出していないが、内心では相当震えているはずだ。
それを見ていて柚希は気付いた。
「もしかして――いやもしかしなくても林檎ってあの三人組と一緒に部活するのは初めてか?」柚希はどちらに訊くのでもなく訊いた。
「なにを今更」梅香が言った。「林檎ちゃんは前回出てないでしょ。今回で二回目。一回目のときは杏子ちゃんがまだいなかったんじゃないかしら」
「そうか。なんかずっと一緒だった気がするけど、まだ出会って日が浅いのか」
「そうですよ」林檎が震えている指で打鍵しながら言った。「私、まだ入学してからそんな経ってません。先輩たちとは三カ月も付き合いはないんですよ」
「へえ、意外ね」梅香が言った。「本当に意外。林檎ちゃんとは前世から付き合いがあったような感覚だったけど、そんなものなのね」
「前世からっていうのは言い過ぎなんじゃ……」
「ということは三カ月足らずの時間があれば、私と林檎ちゃんは前世からの付き合いであるかのように親交が深まっていくのね」
「下心のようなものが見え隠れしていて、やっぱり溝が深まりましたよ!」
「橋をかけたわ」
「仕事が速い!」
「ええ、その代わりに二人ほど犠牲になったけれど」
「過労死!? 二人の人間を過労死させるほど働かせてまで橋をかける必要があったんですか」
「よく言うじゃない。栄光のかけ橋をかけるには二人ほどの生贄が必要だって」
「過労死じゃなくて生贄!? それに私との溝にかけた橋は栄光のかけ橋だったんですね。普通の橋じゃダメだったんですか」
「別に構わないのだけれど、どうせかけるのなら豪勢なほうがいいじゃない」
「よくないですよ! その考えで二人ほど犠牲者が出てますからね」
「まあまあ」梅香は林檎を宥めた。「林檎ちゃんとの関係を維持するための犠牲なら二人くらい安いものよ。デボラとフローラには悪いことをしたわ」
「デボラ? フローラ?」林檎は首を傾げた。梅香の言ったことが理解できないのだろう。本当にそれが誰だかわからないといった表情だ。
「いいのよ、気にしなくて。気にするところは林檎ちゃんと私の関係が悪化すると犠牲者が出るってことよ」
「脅迫ですか!」そう言って林檎は柚希のほうを見た。「私、今梅香先輩に脅迫されてますよ。まだ高校生活が始まってばかりなのに波乱万丈な生活になりそうな予感がします」
「そうだな。ま、頑張ってくれ。きっと悪いようにはならないさ」柚希は林檎から目を逸らして、「嘘だけど」と小声でそう言った。
「今さりげなく、嘘だけどって言いませんでした?」
「言ってない、言ってない」
「梅香先輩も聞こえましたよね」林檎は梅香に訊いた。
「うん? あ、うん。その、言ってないわ。私が林檎ちゃんを食べちゃうって話でしょ。大丈夫。そんなことしないから。そんなことを想像するのはよくあることだけど」
「返事が曖昧な上に、凄いこと吐露しちゃってますよ」
柚希はキャップを開けたまま放置していたお茶を飲み始めた。日が当たってなかったとはいえこの気温だ、冷蔵庫で冷えていたお茶の温度が少しばかり上がっていて、お世辞にもおいしいとは言えないぬるさになっていた。冷たいともいえない、けれど温かくもない。飲み物の味を完全に殺すぬるさだった。
「そういえばメールは送ったのか?」柚希が訊いた。
「送りました。そしたら返事が来ましたよ」
「誰から?」梅香が訊いた。
「美柑先輩です。送ったらすぐに返ってきましたよ」
「なんで美柑に送ってんだよ。あいつらはもう関係ないだろ」柚希は言った。「で、なんて返ってきたんだ?」
「はい」林檎は携帯電話のディスプレイを見た。「『了解やー。そうや、美柑ちゃん聞いてーなー。桃ちゃんの髪型をツインにしたらめっちゃ可愛いねん。あ、それとな茶柱がまた立ったんやー。しかも二本。二本やでー。驚き過ぎて一気に飲んでしもうて写メ撮れんかったー。んじゃ柚希によろしくー』だそうです」
「心底どうでもいい!」柚希が感想を言った。
「うん。まあ予想はしていたけれど、能天気にもほどがあるわね」
「私はこういうの好きですよ。なんていうか癒されます」
「というかあいつ打鍵は速いのな。普段あんなにとろいのに」
「女の子だからね」
「女の子ですもんね」
二人が同時に言った。二人が言ったことを柚希は理解することができなかった。美柑が女の子だからといって打鍵が速いとは言えないような気がしたからだ。その二つは必ずしもイコールで結ばれるとは限らない等式だと思った。
「じゃあ林檎とはお別れだな」柚希が言った。「梅香はどうするんだ?」
「決まってるじゃない。リタイアするわよ」
「いいんですか? 梅香先輩が本気でやれば――」
「いいの」林檎の言葉を遮って言った。「私はね、林檎ちゃんがいる場所にいるの。林檎ちゃんがこの校舎から出て行くと言うのなら私もそうする」
「梅香先輩……」
「じゃないと林檎ちゃんを苛め――じゃなかった林檎ちゃんと遊べないじゃない」
「あれ? 今聞き逃してはいけない言葉があったような……」林檎が呟いた。
「気付かなかったのか?」柚希が言った。「林檎『と』じゃなくて林檎『で』が正しいってことを言ってやらないと、梅香のやつ今後も同じ間違いを繰り返すぞ」
「あれ? 私、間違ってたの?」
気付かなかったわ、と梅香は笑った。
気をつけろよ、と柚希も笑った。
「その指摘はなにかおかしくないですか!? そこで笑うのもおかしいと思います!」
「メールも送ったし、そろそろ退散しましょうか」
そう言った梅香の手にはいつの間にか携帯電話が握られていた。二人は彼女が打鍵しているところを見ていない。というか持っていたことにすら気付かなかった。梅香は二人と馬鹿な話をしながら、ディスプレイを見ることなくメールの本文を打ち、送信したのだ。器用とかそういうレベルを超えていた。
人間というのは二つのことを同時にすると、どちらかが疎かになるか、両方とも中途半端になるというのが通説だ。勉強しながら音楽を聴くというのがいい例だろう。あれは二つのことを同時にしているようで、していない。音楽は聴いているのではなく、聴こえているだけなのだ。言ってしまえば外のざわめきと変わらない。聴こえてくる音を選んでいるだけで、音楽は耳栓の役割を果たしているのだ。つまり音楽を聴きながら勉強をするという行動は、自分にあった環境で勉強するということなのである。二つのことをしていない。だがしているように感じている。
だが梅香は二人の話を聞きつつも、携帯電話のディスプレイを見ることなくメールを打ちこみ、さらには会話に参加していたのだ。これも女の子だからなのかと柚希は思ったが、林檎が豆鉄砲をくらった鳩のような顔をしていたところを見るとそうではないようだ。
「……梅香先輩ってケータイとかよく使うタイプの人でしたっけ?」林檎が訊いた。「普段あまり使っているところを見ないので、あまり得意なタイプじゃないんだと思ってましたよ」
「得意じゃないわよ」梅香が言った。「ただ私って珍しく説明書とか読むタイプの人間だから、練習してる内にこうなっちゃたのよね。それにケータイの画面を見るくらいなら林檎ちゃんの顔を見てた方がいいわ」
「嬉しいことを言われたのに素直に喜べないのはどうしてなんでしょう……」
「気持ち悪いからじゃないか?」柚希が間髪入れずに言った。
「ちょっと気持ち悪いってなによ。冗談でも言っていいことと悪いことがあるでしょ」
「……冗談と思えたお前の頭が冗談だろ」
「名誉棄損で訴えるわよ。あとセクハラ」
「セクハラ!? 今のどこにそんな要素があったんだ」
「『冗談と思えたお前のそのいやらしい体が冗談だろ』ってところよ」
「そんなこと言ってない! それに自分でいやらしい体とか言ってんじゃねえよ」
「でも絵師さんがそういう風に描くでしょ、確実に」
「誰だ、絵師さんって! お前もここが二次元とか言う気か?」
「え? 違うの」梅香は本気で驚いた。「それじゃあ、なに? 私がここで林檎ちゃんを苛め――じゃなかった林檎ちゃんで遊んで嫌われたとしても、次会ったときにはその過去はなくなったことになってる、もしくは夢オチで終わらせるという手法ができないというの」
「できねえよ。しかも林檎にどんなことする気だ」
「そうですよ。ここが二次元なら私のことをスタイルの良い女の子に描いて欲しいです。お願いします」
「なにお願いしてんだ。お前はどう足掻こうとロリ枠から外れることはない。それこそ夢オチで終わるぞ」
「ひ、酷いです。名誉棄損でずよ。訴えますよ。養ってもらいますよ」林檎は柚希を指差した。
柚希は呆れて頭を掻いた。なんだか林檎が少しずつ梅香に似てきているような気がして、今後が不安になってきていた。いつか林檎に後輩ができたら、梅香みたいなことをするんじゃないだろうか、と本気で悩み始めないといけないのかもしれない。
「待って」梅香が言った。「林檎ちゃんの名誉を棄損すれば訴えられて、養わないといけなくなるのならその役目――私が引き受けたわ!」
梅香の目は本気だった。ルビにマジと振っても構わないくらい本気だった。その目力はまるで獲物の動きを完全に捉えたタカのような鋭いものだった。銃刀法違反で訴えることができそうなくらい――空港の持ち物検査のところで呼び止められてしまうくらい鋭利な目力だった。
そしてその目力の印象を強めているのはなんと言ってもその輝きだろう。宝石など下らない。星の輝きに匹敵するその輝きは、柚希たちをドン引きさせるには充分だった。気持ち悪いのは冗談じゃなかったことが証明された瞬間だった。
「……あの柚希先輩」林檎が重たい口を開けて言った。「私……もしかしなくても身の安全を誰かに守ってもらうべきなんじゃないでしょうか」
「そうだな。だけど俺には無理だから他を当たってくれ」
「そこをなんとかできないですか?」林檎は上目遣いで柚希を見て言った。渾身の上目遣いだった。
「……林檎」柚希はたじろいだ。「それは卑怯だろ。俺がロリコン、もしくは少しでもお前に気があったら抱きしめたいくらいだぞ」
「構いませんよ。柚希先輩は特別です」
恩人ですからね、と林檎は微笑んだ。
その微笑みも卑怯だろ、と柚希は口には出さず心に留めた。言ってしまえば、確実に今後の関係に支障が出ると危惧したからだ。今日の林檎は少しだけ積極的な女の子だった。
そのとき柚希は身の危険を感じ取った。
「……いやそれは遠慮しとくわ。俺の身の危険が迫っているようだし」
柚希の視線の先には、今から人を殺そうとする悪鬼の如く目を煌めかせている梅香の姿があった。今にも暗黒面に堕ちて、ダースベイダ―卿になってしまいそうな彼女に抵抗する術を柚希は持っていない。ここで林檎を抱きしめようなどとすれば、柚希は確実に死ぬだろう。どこからともなく取り出したライトセイバーで真っ二つだろう。
「そうですか。残念です」林檎が言った。「それじゃあ、私はもう行きます。ここに長居しても飛び火を浴びるだけですからね」
林檎はとことこと扉に向かって行った。梅香もそれに合わせるように――それが当たり前であるかのように林檎を追いかけた。暗黒面に堕ちることなく戻ってこられたのだろう。
「それじゃあ、柚希先輩。頑張ってください」
「頑張るかもな。でも呆気なく四人リタイアしてるし企画倒れ感があるよ」
「まあいいじゃない、たまにはこういうのも。久しぶりに花梨部長とバトっちゃいなさいよ」
「他人事だとはいえ、さらりと言うなよ」
「行こっか、林檎ちゃん」
林檎は頷いて、柚希に一礼してから部屋から出て行った。今の子にしては礼儀の良い子だな、と柚希は思った。
梅香が林檎に続いて部屋から出ようとする。それを柚希は呼び止めた。
「結局お前らはなにを選んだんだ?」
「林檎ちゃんが液体のり。これは私が選んであげたんだけどね」
「お前は?」
梅香はいやらしく――けれどどこか妖艶さを持った笑みを見せた。
「修正液」
柚希は梅香が手をひらひらと振って部屋から出るのを見届けた。静かになったその部屋は、元々柚希が渡り廊下からここに来るときに目指していた部屋だった。あの二人がここにいることが予定外のことだった。柚希は椅子に腰かけ、天井を見上げた。けして綺麗とは言えない白い天井、そろそろ取り変えないといけない蛍光灯が目に映った。この校舎に初めて入ったときに掃除したはずなのだが、すっかり汚れを取り戻していた。それくらい時間が経ったということだろう。光陰矢のごとしとはこのことだ。花梨と始めたこの部活も気付けば、部員が八人になっていた。花梨と柚希を除けば六人だが、全員柚希がスカウトしてきた――連行してきた部員だ。
「恩人か……」
柚希はそのまま二人のことを思い浮かべた。それに伴い付随してくることがあった。それは二人に会う前に思ったことでもあった。
「勝つ気ねえな」
液体のりと修正液。本気でこの部活動で勝ちを狙いに行くには難しいものがある文房具だ。それは美柑と桃のときにも思ったことだった。あの二人は勝ちに行っていたような、違うような曖昧な感じであったが、勝ちを狙うのが難しいという点では同じだった。
「ま、いいか」
柚希は一眠りすることに決めた。
リタイア
水嫻梅香、夏枦林檎
残り人数
四人