第6話 「ぬれぬれっていうかぬるぬるですよ」
午後三時十五分。
戦争という名の部活動が始まってから一時間と少しが経過したが、柚希は未だに誰とも戦ってはいなかった。それは柚希が戦うことを拒絶しているからではなく、今までに会ったのが戦闘力皆無――否、戦闘する気力皆無の楠城美柑と雪柳桃にしか出会っていないからだ。幸か不幸かで言えば、誰の目からしても幸であることに違いない。
出会って不幸なのは、あの三人だけである。
そう思っていた時期が柚希にもあった。いや、今でも思っているけれど、それとは全く別の意味で不幸にさせてくれるペアがこの部内にはいるのだ。『なごやかチーム』と『戦闘狂チーム』を除けば残りは二人しか残らないから、それが誰と誰であるかは明白だ。
そう。
夏枦林檎と水嫻梅香である。
そして、柚希はその不幸に直面している真っ只中だった。
「や、やめてくださいよぉ!」
林檎の身長は百四十五センチ程度(本人は百五十センチだと言い張っている)で、眠そうなたれ目、毛先が少しは撥ねているセミショートが特徴である。それ故に小学生に見間違えられるのはよくあることだ。
「いいじゃない。減るもんじゃないんだし」
梅香の身長は百六十五センチと女子高生にしては背のあるほうで、それに見合ったスタイルをしている(本人曰く)。林檎と同じくセミショートだが、パーマのかかったようなクセ毛が特徴的だ。
「減りますよぉ……。それがないと、私が部活できないじゃないですか」
「こんなんじゃあの三バカには勝てないわよ」
「え! 梅香先輩が、これがいいって言ったんじゃないですか」
「私にとって都合が良いって意味よ。さあ、これでぬれぬれになってしまいなさい」
「ぬれぬれっていうかぬるぬるですよ。それにそんなことしたら体に悪いですよぉ……」
「大丈夫。体に害はないって書いてあるから」
「それは普通に使っていた場合ですよ! 梅香先輩がしようとしていること――って止めてください! それにまだ私が話している途ちゅ――」
助けるべきか助けざるべきか、柚希はそんなことを考えながら部室で騒いでいる二人を見ていた。二人とも柚希が部室に戻って来たことに気付いていない。梅香は後輩を弄るのに集中していて、林檎はそれから免れようとしていて、気付く素振りすら見せる気配がない。どちらも自分のことで手一杯のようだ。
しかしどうだろう。この状況の中で呑気にお茶を飲むことができるだろうか、いや、できない。できるはずがない。
そう思った柚希は、
「なにやってんだ、お前ら」
と声をかけた。すると二人はようやく柚希の姿を視認したらしく、そして酷く驚いたらしく体が硬直していた。ちなみに、二人の状況は仰向けで固定された林檎に梅香が馬乗りをしている、といった何とも際どい絵だった。
「柚希せんぱーい!」林檎が隙を突いて梅香を突き飛ばし柚希に駆け寄る。「助けてください! 私このままだとぬれぬれに――ぬれぬれの女になってしまいます」
「ある程度見てたから知ってるよ。だけどその表現は止めた方がいいな」
「見てたって、あんた良い趣味してるわね。もしかして噂の腐男子ってやつ?」梅香が突き飛ばされた拍子に制服に着いた埃を落としながら柚希に訊いた。
「腐男子?」林檎が首を傾げた。
「違う。俺は腐ってない。お前と一緒にするな」
「梅香先輩は腐ってるんですか?」林檎が率直に訊いた。
林檎の純粋さは普段は可愛いものだが、こういう状況では凶器のような恐ろしさをみせる。現に梅香はものすごく慌てふためいていた。彼女はなんやかんやで林檎に悪い知識を与えないように努力しているようだ。
「腐ってないわよ! 私のどこが腐ってるって言うの!」
「そうですよね。梅香先輩は腐ってません。腐敗臭しませんもん」
「判断基準そこなの!?」
ちなみに水嫻梅香という少女は基本的にはドが付くほどのSで、後輩の林檎に対していつも強気でいるが、林檎の純粋すぎる質問や返答を、ときに天然さが混じったそれらを突き付けられると、普段の様子からは想像できないほど慌てふためく。
「いやいや、林檎。梅香はな、外側が腐ってないだけで、内側は腐りまくってるぞ」
「ちょ、ちょっと柚希! なんてこと言うのよ!」
「どういう意味ですか?」
「脳内が腐ってるって意味だ。だから腐敗臭なんてしないんだ」
「なるほど……、でも脳内が腐ってるってどういうことですか? 思考が腐ってるとかそういう意味ですか?」
「おお、いい線いってるぞ」
「やめなさいよ。これを機に林檎ちゃんが腐ったらどうするのよ」
「私も腐るかもしれないんですか? どうしよう……」
本気で慌て始める林檎。彼女がどんなことを考えているのかは定かではないが、それでも勘違いをしていることに違いなかった。その証拠に「今の内から防腐剤飲んどいたほうがいいのかなぁ」と的外れというか、危険なことを呟いていた。
「ほら……柚希のせいで林檎ちゃんが考え込んじゃったじゃないの」
「うん? 俺のせいなのか?」
「そうよ。あんたが腐ってるとか言わなければ、こんなことにならなかったのに」
「……俺からだったっけ?」
「あんたが戻って来なければよかったに」
「はいはい。俺が悪かっ――」
「そうすれば、今頃、林檎ちゃんをぬれぬれの姿にして楽しんでるところだったのに」
「俺が戻って来たのは正解だったな!」
「そうです。柚希先輩がここに来たのは正解です。ここに来てくれなかったら、私は今頃お嫁に行けなくなっていました」考えることを放棄したのか林檎は声を大にして柚希に同意した。
だが、林檎の言葉を否定するかのように「私が貰ってあげるわよ」と梅香が最高の営業スマイルで言った。
「嫌です。私は素敵な相手を見つけるんですっ!」
「振られたな、梅香」
「違うわよ、柚希。林檎ちゃんはツンデレだからああ言ってるけど、最後には私を選ぶに決まってるわ」
「決まってんのか」
「決まってないですっ!」
柚希と林檎が同時に言った。片方は驚きで片方は否定、と違うことを言っているが梅香の言葉を本気にしていないという点については同じだった。
「ところで、お前らはいつからここにいるんだ?」花梨よろしく話題を切り替える柚希。使ってみて初めてそのスキルの便利さに気付いた。
「そうね……」梅香は少し考える素振りを見せた。「部活開始からすぐに戻ってきたわ。そうだったわよね? 林檎ちゃん」
「そうです。梅香先輩が部長さんたちと会いたくないと言って早々とこの部屋に戻ってきました。詳しい時間はわかりませんけど、部活が始まってすぐ、ということはあっていると思います」
「ということは俺と入れ替わりでここに来たのか」
「そうなの?」梅香が訊いた。
「ああ。みんなが部屋から出ていくときに俺はここに残ったからな。そんで、始まってからすぐに移動して美柑たちに会った」
「美柑先輩たちに会ったんですか?」林檎が食い気味に柚希に訊く。「ここにいるということは戦ったんですか、あの二人と」
「いや、戦ってはいないよ。まあ、そうだな……少しあって、あいつらはリタイアしたよ」
「あの子たちらしい最期ね……」梅香は声のトーンを落とした。
「死んでないからな。つまりお互いにあの戦闘狂たちには出会ってないわけだ」
「そういうことになりますね。今日の部長さんたちは大人しいです」
大人しいという言葉が本当に似合わない三人――いや二人だな、と柚希は思う。あのバカ二人は本当に似合わないのだが、花梨はこういうイベントでもない限り、普段はおとなしいというか慎ましいのだ。上品といっても過言ではないくらいだ。
だからこそ、一回目の部活動開始時には誰もが度肝を抜かされた。まさか彼女がこんなことをするはずがないと思っていたに違いない。考えてみれば、部活を作りたいと柚希の前に現れたときの花梨はまだ戦闘狂ではないと周囲は認識していた。そもそも戦闘狂という言葉が浮かび上がるような人柄をしていない。
容姿端麗。
博学多才。
品行方正。
才色兼備。
そんな、それこそ二次元だからこそ並べられている――並べることができる四字熟語が妃榊花梨という少女には相応しい。そこから戦闘狂など思い浮かぶはずがなかった。
この部活ができるまでは。
この部活ができるまでは、花梨は全校生徒から尊敬の眼差しで見られるほどの高嶺の花的存在だった。誰もが憧れ、誰もが好感を持っていた。そんな女子高生のハイエンドとも言われていたほどの彼女が、何故あんな風になってしまったのかを柚希は知らない。少なくとも柚希を誘ったときには、まだ高嶺の花として見られていた。
(そういえば、なんで俺が誘われたんだ?)
「大人しいからといって安全というわけじゃないわよ」梅香が言った。「暗殺術という世にも恐ろしい技を体得して、今も私たちを狙っているかもしれないわ」
「ほ、ホントですか?」林檎は周囲を確認した。
「ええ、気をつけた方がいいわよ。特に棗の奴は、ね。あいつに捕まったらなにされるかわからないわよ。それこそお嫁に行けなくなるかもしれないわね」
「本当ですか!?」
「いや、あいつの一友人として言っておくけど、あいつはそんなことするような奴じゃないからな。バカだけどいい奴だからな」
バカだけど、と柚希は改めて付け加えた。
「柚希先輩。そんなに棗先輩をバカバカ言うのは可哀想ですよ」
「でも実際バカでしょ」梅香が透き通るような声で言った。
「そ、そんなことないです。棗先輩はバカなんじゃなくて……」林檎は少し言葉を選んでから、「そう。棗先輩は常人には理解できない感覚の持ち主なんです。いわゆる天才基質ってやつですよ」と言った。その言葉選びに納得したのか、うんうんと林檎は頷いていた。
「でも、天才とバカは紙一重って言うし、やっぱりバカなんじゃない?」梅香が林檎の言葉をバッサリと切り捨てた。このとき林檎の胸に言葉の暴力という名の矢が刺さったことは本人以外気付いていない。
「まあ、常人には理解できない点では天才もバカも変わらないよな。天才が描いた絵とか見せられても、バカでも描けそうじゃん、なんて思っちゃうしな」柚希も梅香に同意するように言った。このとき林檎の胸に言葉の苛めという名の矢が刺さったことを、これもやはり本人以外気付いていない。
すでに林檎のHPが0になりかけていることは言うまでもない。
「バカだから、バカ故に天才のことがわかるのかもしれないわね」
「その逆はないと思うけどな。バカは天才のことを理解できるけど、天才はバカのことを理解できないってのはよく聞く話だ」
「それは同族嫌悪なんじゃない?」
「それはあるかもな。そういえば、バカと勇者も紙一重って言うらしいけど、そう考えると棗や杏子は案外勇者を目指しているのかもな」
「私が魔王だったら、バカが移るからすぐに逃げるわ」
「大丈夫だろ。バカだからその辺の罠に引っ掛かって死ぬと思う」
「それはあるかもね」梅香は笑った。「あいつらじゃ魔王の城に辿り着くことできないみたいね」
「花梨先輩は辿り着くけどな」そう言って柚希も笑おうと思ったけれど、それは笑いごとじゃなかった。その証拠に梅香の笑顔がぎこちないものになっていた。
「……えっと、今なんて?」
「いや、なんでもない。なにも言ってない。……そういうことにしてくれ」
「そうね、そうしましょう」
リアル過ぎて怖いわ、と梅香は締めくくった。
「ところで林檎はそんなところでなにしてるんだ?」
林檎はいつの間にか部屋の隅で落ち込んでいる姿(膝を抱えて指で円を描くように床をなぞっている)になっていた。なにがそうさせたのか柚希はわからない。そして横で首を傾げている梅香もわからないのだろう。この部屋で林檎の心情がわかるのは彼女だけである。いや、この部屋じゃなくてもそうなのだが。
「いいんです……。私が棗先輩のことをいい風に言っても、先輩たちはどうやってもバカに繋げちゃうんです。私が頑張って言葉を選んだのに……」
林檎のその言葉は柚希たちに言っているのかもしれないし、誰にも言ってないのかもしれなかった。ただただ部屋にその暗い調子の可愛らしい声が小さく響くだけだった。その小ささといえば、こじゃれた喫茶店で流れているジャズくらいのものだった。聞こえなくはないが、少し誰かと話すと聞こえなくなってしまうような音量。すると、林檎も実は柚希が話しかける前からずっとそう呟いていたのかもしれない。
「んと……」梅香は人差し指を唇にトントンと当てながら言った。「林檎ちゃんは棗のことが好きなの?」
「どういった意味ですか? 先輩としてですか? それとも男性としてですか?」林檎は振り向かずに淡々とそう言った。
「まずいわ、柚希。林檎ちゃんがおかしい」
「どうしてだ? 俺には普通に見えるけれど」
「私ほど林檎ちゃんを苛め――じゃなかった林檎ちゃんと遊んでいるとわかるのよ」
「今聞き捨てならない言葉が出かかってたけど、それはスルーするところか?」
「林檎ちゃんはね」
「あれ? 俺がスルーされたのか?」
「色恋沙汰の話をすると意味もなくテンパるのよ。それが自分のことでも、自分のこと以外でもね」
「へえ」柚希は林檎のほうを見た。今も尚、部屋の隅で小さくなっている林檎は元から小柄な体をしているため、より一層小さく見える。なんだかマトリョーシカみたいだな、と柚希は思ったが、別に上手いことではなかった。
「さてどうしたものかしら」その言葉とは裏腹に、梅香の顔はもの凄く嬉しそうな顔をしていた。「……そうだわ。ちょっと柚希、耳貸しなさいよ」
柚希は、頷きはしたが動かなかった。梅香と柚希の身長の差は十センチ近くある。そのため柚希が少し屈むか、梅香が背伸びをしなければ耳打ちはできない。梅香は背伸びがしたくないのだろう、屈もうとしない柚希をジッと睨む。梅香は少し子供っぽさのあるその行為が嫌なのだ。柚希もそのことはよく知っている。だがもしかしたら彼女が背伸びをするかもしれないという淡い期待をしていたのだった。それは儚くも脆く、あっという間に砕け散ったが。
仕方なく柚希は少し屈んだ。梅香が耳元に口を近づけ思いついたことを囁き始める。それは少しくすぐったかった。気を抜けば梅香の言っていることが頭に入ってこないほどだ。そんなちょっぴりそわそわした柚希に梅香は気付いた。
「どうしたのよ」
「いやなんでもない」柚希は誤魔化した。
「ふうん。ま、いいわ。とりあえず今言ったことを実行するからよろしくね」
「わかった」
柚希は今も尚絶賛落ち込み中である林檎を横目で見つつ部屋から出た。扉を閉じたあとそのまま扉に背を預けながら廊下に座り込む。
正直な話、柚希は梅香の言ったことをほとんど覚えてはいなかった。というよりやっぱり頭に入ってこなかった。くすぐったかったからというのも多少はあるが、なにより彼女がああいうことをするというのに驚いたからだ。背伸びもそうだったが、耳打ちなどもするような少女ではない。基本的に梅香は妙に棘のある態度をとっている。それはそれでいいと柚希は思う。彼女は出会ったときからそうだったのだから今更不満を言うことではない。けれど、それでもあの少女が耳打ちをしたという事実には動揺を隠すことができなかった。
「あいつも部活に入って変わったんだな」
この部活に入った人間はなにかしら変化がある。それは性格の面かもしれないし、生活の面かもしれない。それがいい変化なのか、悪い変化なのかは人それぞれである。少なくとも梅香の変化はいい方向なのかもしれなかった。
相も変わらず校舎内は気持ち悪いくらいに――まるで海の底にいるかのように静かだった。風の音も、外で部活をしているはずの運動部の声も聞こえない。柚希は部屋の中でなにが行われているのかを知るために耳を澄ました。
「りーんごちゃーん。あっそびましょー」
「一人で遊んでください。私は今とても忙しい身だと思いこみながら落ち込んでいるところです」
「まあまあ、そんなこと言わずにさぁ」
「あっちに行ってください。もしくは部屋から出て行ってください」
「そんなこと言わないでさ、ほら」
「きゃー! な、なにをするんですか!」
「なにって交流を深めようと思って――」
「交流を深めるどころか関係の溝が深まりますよ!」
「まあまあ、そんなに怒らない怒らない」
「って、きゃー! 言いながらなにするんですか!」
「いやだなぁ、林檎ちゃんはおバカさんなのかな? さっき言ったじゃない交流を深めようって」
「今ので完全に溝が深まりましたよ」
「埋めたわ」
「いつの間にですか!?」
「さっきよ。仕事の速さが売りなのよ」
「ゆ、柚希先輩! あれ? 柚希先輩がいませんよ。どこに行ったんですか……」
「柚希なら始末したわ。邪魔だったから」
「そ、そんな……、酷すぎます……」
「今度からそこの人形のどれかを柚希だと思えばいいわ」
「どれも微妙!」
「こらこら林檎ちゃん。キャラが崩壊してるわよ。林檎ちゃんは純粋で可愛い後輩って設定なんだから抵抗せずに私の言うことを聞きなさい」
「そんな設定知りません! 仮にあったとしても無闇に先輩の言うことを聞くような私じゃありません」
部屋の中では恐ろしいことが行われているようだった。聞こえてくる会話で判断するとどうやら梅香のテンションが最高峰に達しているようだ。それとは反対に林檎のテンションは遥か海底を目指している勢いだ。
梅香の言っていた通りいつもの林檎とは思えないほど口調がぶれていた。梅香の売りが仕事の速さなら、林檎の売りは丁寧さだ。だがそれもいまでは崩壊しつつある。いや崩壊させられているといったほうが正しい。おそらくだがベルリンの壁が崩壊していく速さと同等かそれ以上のものだろう。
柚希は立ち上がり騒いでいる二人のいる部屋へ戻るためにドアノブに手を掛け、扉を開いた。
「梅香。その辺にしとけよ――ってなににやってんだ?」
「柚希先輩?」林檎は目を丸くした。「柚希先輩柚希先輩柚希先輩柚希先輩柚希先輩柚希先輩柚希先輩柚希先輩柚希先輩、柚希せんぱーい!」呪文のように柚希の名前を連呼し彼の元へ駆け寄った。脱兎のごとく。
「大丈夫だったか?」柚希は林檎にそう訊いた。
「はい……いえ大丈夫じゃないんですけど、その、あの、先輩が戻って来てくれたから大丈夫です……」林檎は目に涙を浮かべながら言った。
柚希はそんな林檎の頭を優しく撫でた。よくわからないが彼女の髪は液体が付いていてぬるぬるしていた。
「これって……のりか?」
「そうよ。節足動物門昆虫綱ノミ目に属する――」
「それはノミだろ」
そうねノミだわ、と梅香。
「それにしてもどうして戻って来たの? 作戦は伝えたはずだけど」
「作戦?」頭を撫でられている林檎が首を傾げた。
「そうよ。作戦。林檎ちゃんの落ち込み状態から回復させるために私が立案し実行した作戦のこと」
「つまり柚希先輩も梅香先輩側の人間……」
「いやまあ作戦のことは聞いていたんだけど、頭に入ってこなくってな。部屋から出る以外のことは覚えてないんだ。梅香が何をするかも知らなかったといえば嘘になるが、そういうことだ」
「ははーん。もしかして柚希、私が耳元で囁くもんだから緊張したのね」
「あれは反則だった」
「ま、いいわ。ところで林檎ちゃんから離れると大変なことになるわよ。違うわね、おいしいことになるわよ」
「どういうことだ?」
梅香はゆっくりと自分の近くにあるスタンドミラーを指差した。そこには柚希と後ろ姿の林檎が映っていた。普通ならそれだけだ。驚くこともない。だが柚希はスタンドミラーから目を逸らした。
当然だ。
林檎のシャツが液体のりで濡れて透けてしまい下着が見えてしまっているのだから。
林檎が柚希に近づいたときは彼女が脱兎のごとく動いたため気が付かなかったが、もしかしたら正面も同じ状態になっているかもしれない。今は近過ぎて彼女の頭しか見えないが、少しでも距離を取られると露わになっている彼女の下着が見えてしまうだろう。
現状維持。
「まさか頭からかけたのか?」柚希が訊いた。
「かかってしまったのよ。最初は背中に流し込んだだけなんだけど、林檎ちゃんが動くからいたるところに液体のりが、ね」
「背中に流し込んだだけってお前……」
「酷いですよね!」と言って林檎が柚希から離れようとしたため、柚希は手を彼女の後頭部に回しその場に固定した。
「あ、あれ? 柚希先輩……ど、どうしたんですか?」
「うん? なんでもないからじっとしてろ」
「は、はい?」
しかしこのままというわけにはいかない。忘れてしまいそうだが今は部活中なのだ。それも戦争と名が付けられているほどの部活動だ。本来なら林檎も敵なのだが、柚希に彼女を倒すという選択肢はない。彼は後輩思いなのだ。同級生とバカ、それに部長である花梨なら問題なく戦うことができる(言うまでもないが、美柑と桃は戦闘する気がないため戦闘にならない)。そしてこの部屋にはその同級生がいる。
「さて柚希」梅香が言った。「私も一応この部の一員として部活動に参加しているわけだけど、今の柚希なら簡単に倒せそうよね」
不穏な空気が漂う。漫画的に、小説的にいえばギャグパート、日常パートが終わりシリアスな展開が待ち受けているようなそんな空気。
「ひ、卑怯ですよ」状況を把握していない林檎が言った。
「私もたまには一位になりたいのよ。まだ入部したときの一回だけだし」
「あれはサービス回だからな。勝てて当然だ。それに」
まだバカがいなかったからな、と柚希。
「そうね。けどね、たまに一位になりたいだけで今はそうじゃないの。今はひたすら林檎ちゃんと遊びたいだけなの」
林檎の体がぶるっと震えた。
「柚希は今回の部活動で勝つつもりなの?」
「早く終わらせたいだけだ」
「ふうん。ならこういうのはどう?」林檎は淡々と続けた。「私としても柚希と戦うのはご免だからさ、ここでリタイアしてあげてもいいのよ」
「条件は?」
「林檎ちゃんをこちらに渡しなさい」
「え? 私ですか?」蚊帳の外だと思っていた林檎が驚いた。
「林檎ちゃんを渡して、これからここで行われることを誰にも口外せずにいてくれたのならリタイアしてあげるわ。そうね、一時間くらい戯れるだけだから終わったらちゃんとリタイアするわ」
「なるほど。それはなかなか好条件だな」
「好条件じゃありません。私の身に危険が迫ってます!」
梅香の目は本気のようだった。本気で林檎のことを苛め倒したいようだ。柚希が作戦の途中で部屋に入ってしまったせいだろう。彼女の中ではまだ足りないようだ。
「ということなんだが、どうする林檎」
「どうするもなにも嫌ですよ。私は柚希先輩といることを選びます」
「あら? 林檎ちゃんそんなこと言ってもいいの? あのことばらしちゃうわよ」
「脅迫!? あのことってどのことですか」
「林檎ちゃんが今付けている下着の柄とか?」
林檎は知らないが、柚希だってそのことを知っている。スタンドミラーが彼女の下着を映してしまっているのだが、頭を固定されている林檎がそれに気付くことはない。
「だ、ダメですよ。梅香先輩はズルいです」
「ズルかろうが、悪かろうが好きなことをやった人が勝つのよ」堂々と悪者が言いそうなことを梅香は言ってのけた。「さて、どうする柚希」
「どうするもなにも……」柚希は言った。「林檎がリタイアしたらお前もリタイアするんじゃないか?」
そういうことだった。美柑と桃がワンセットであるのと同様に梅香と林檎もワンセットだった。正確には林檎にくっ付いているのが梅香である。彼女は部活動を名目にして、ただ単に林檎と――林檎で遊びたいだけだったのだ。それは誰が見てもそう思えるほどで、気付いていないのは当事者である林檎だけだろう。林檎は優しすぎるため、その辺も許容してしまうのだ。
体は小さいが、器が大きい。
そんな林檎がいなくなってしまえば梅香がこの部活動に参加している意味はなくなる。意味がなくなってしまえば、できるのはリタイアすることだけである。遊ぶ目的がなくなれば家に帰るのは当然のことだ。子供にだってわかる。子供っぽいことが嫌いな梅香だってわかることだ。
「柚希先輩それはナイスアイディアです」
「え? 気付いてなかったのか?」
「はい。まったく」林檎は元気よく頷いた。いつもの明るさが戻ったのはよかったが、柚希の脳裏にはバカ二人が過ぎってしまった。
「でも柚希、林檎ちゃんをどうやってリタイアさせるつもり?」梅香が言った。
「まさか林檎ちゃんから手を離すつもりじゃないでしょうね。そんなことしたら林檎ちゃんは傷つくわよ」
「どうしてです?」
「もうそろそろ時間的にも大丈夫だろ」柚希が林檎を無視して言った。「もしくはこのまま部屋の外まで持っていく」
「持っていく!?」
「そんな隙を見せたら私が柚希を仕留めるわよ」梅香も林檎を無視して言った。
「そうね、そうしよう。柚希がいなくなれば林檎ちゃんは私のものよ」
「違いますよ! 私は誰のものでもありません。強いて言うならお父さんとお母さんのものです」
「林檎は渡さない」間違いなく今の部活動というシチュエーション以外だったらかっこ良いであろう台詞を柚希は言った。幼気な少女を取り合っているはずなのだが、林檎という名前のせいかただ単に果物のリンゴを取り合っている高校生にしか聞こえないのが難点だ。
「だったら力づくでも――」
梅香はポケットに手を入れなにかを取り出しながら柚希に駆け寄った。取り出したのは間違いないが、それがなにか柚希にはわからない。ただ林檎にかけられた液体のりである可能性は高い。
「ちょっと待ってください!」林檎が二人の間に入るようにして両手を広げた。「私のことで争うのとか止めてください。私だってその……梅香先輩に弄られるのは嫌ですけど、それ以上に二人が喧嘩するところなんて見たくも聞きたくもありません」
その言葉に梅香の動きが止まった。それと同時に柚希は林檎から目を逸らした。林檎としては緊張感のある場面だったのだろうが、それとはまた違う緊張感が漂っていることに気付いていない。
「あの……林檎ちゃん」梅香が重い口を開いた。「その……とても言い辛いことなんだけど、でもそうね、まずは謝っておこうかな」
ごめんね、と梅香は片手で謝罪のポーズをとった。それを見て林檎は首を傾げた。なにに対して謝っているのか見当がつかないようだ。
「そうだな。俺も謝っておこう」柚希も梅香に続く。「頭にのりがついてたから途中から手を離していたんだけどそれがこうも裏目に出るとはな。本当に申し訳ないことをしたと思ってる。ごめんな」
でも見てないから、と柚希は林檎のほうを見ないで言った。だがそこまで聞いても林檎にはピンとこなかったようだ。可愛らしく首を傾げている。
「林檎ちゃん」梅香が言った。「さっきも言ったけど、その……非常に言い辛いことなんだけど……」
「どうしたんです? いつもの梅香先輩らしくないですよ」
「うん、まあ、そうね。じゃあいつもらしくハッキリ言うわね」
梅香は深呼吸をしてから、少しの間黙想した。
「林檎ちゃんの下着がね、制服が濡れているせいで見えちゃってるんだよねー」精一杯の笑顔を浮かべながら少し軽めな調子で梅香は教えた。それは彼女なりの配慮だったのだろう。林檎がどう足掻いても傷つくのなら、少しでも明るく振る舞ってあげるのが先輩の役目だ、と内心で言っているに違いない。
空気が完全に凍った。それも液体窒素でも浴びたかのような速さだった。鮮度も旨味も殺すことなく、解凍すればそのままの美味しさでいただけますよ、といったような状態だ。鮮度と旨味がなにを示しているのかはご想像にお任せする。
その空気の中で林檎だけが動いていた。ゆっくりと、けれど確かに動いている。それはまるで少しずつ解凍されていくかのような動きだった。林檎は自分の制服の状態と確認するために、頭を下げていく。その様子を梅香はまじまじと見ていた。反対に柚希は林檎から目を逸らしどこか遠くを見ていた。そして林檎の瞳にその件の下着が映し出される。
「はうっ!」
林檎は目を大きく開いて再び硬直した――が、口だけはパクパクと、まるで人間が近づいてきて餌を貰えると期待して待っている金魚のように動いていた。そして口を開閉したのと比例して顔が赤く染まっていく。ほんのりとした赤を通過し、今は熟れたリンゴのようである。
「い――」林檎が声にならない声で言った。
「い?」林檎を見続けている梅香と林檎から目を逸らし続けている柚希が同時に言った。
「いやあああああああああああああああ!」
その林檎の悲鳴はその振動によって凍っていた空気を――沈黙を破壊した。先ほどまでの静寂が嘘であるかのように響き渡ったその悲鳴は、もしかしたら静かな冬が終わり、賑やかな春の訪れを告げる鳥たちの囀りのようなものなのかもしれない。
が、そんなことはなかった。