おまけ2 「いや、あの……そういうのは重いので、電気をバチっと」
六日後――昨日と同じく柚希は部室にいた。その他には梅香、林檎、そして花梨がいた。今日も昨日と同じくこの間行われた部活の様子を収めたDVDを鑑賞していたのだった。
「な、ななな、ななな――」
「あら、林檎ちゃん。『な』を七回言うなんて洒落たことするのね」梅香がいつもの調子で言った。「それはなに? モールス信号の音を担当する声に決まったから練習してるの? 『つ』ではなく『な』になって、それが林檎ちゃんの声だというのならこれは買いね」
「ち、違いますよ!」
「そうだね、違うよ」花梨が言った。「確かあれは『トン』と『ツー』で表現するものだから『な』だけじゃ足りない。つまり他のなにかの声を担当することになったと考えるべきだよ」
ま、詳しいことは知らないけどね、と花梨は言い終えた。
「へえ、知らなかった」梅香が感心した。「じゃあなに? もしかしてボーカロイド?」
「違います!」林檎がハッキリ否定した。「全然まったくこれっぽっちも違いますよ。このDVDですよ。梅香先輩はなんとも思わなかったんですか」
「林檎ちゃんが可愛かった」
「ありがとうございます! でもそうじゃないです。そこじゃないです」
「林檎ちゃんが小さかった?」
「認めたくないですが、そうです。けどそれでもないです」
柚希はそんな二人を眺めているだけだった。特に会話に交じる必要もない上に、関わるのがとても面倒臭かった。ぼーっと綺麗と言えない天井を眺めているだけだ。
「じゃあ、なによ。なにが不満なの? お金で解決できないことなの?」
「お金で解決できるかどうかはわかりませんけれど、これです」林檎は液晶テレビを指差した。「このDVDの存在そのものです。なんで、こんなものがあるんですか」
その問いに梅香ではなく花梨が答えた。
「それは前の部活動のときにお偉いさんに怒られたちゃったから、別に変なことしてませんよー、私たちは普段こういうことを撮っている映研ですよー、っていうこと証明するものだけど」
「これをお偉いさんに渡すんですか!?」
「そうだけど、なにか問題ある? もしあったら言ってね、編集するから」
「問題だらけです。特に私です」
「きみに問題はないでしょ。いつも通り小っちゃくて可愛いじゃない」
「違います。問題は私の下着が透けていることです。こここそ編集すべきところですよ」
美柑と桃パートは編集だらけだったが、梅香と林檎パートは目立った編集点がなかった。どちらも地味な画であることは同じだが、梅香たちの場合は殆どが会話だったため編集する要素がなかったのだ。
「あれ? 編集しなかったっけ?」花梨は団扇をぱたぱたと扇ぎながら言った。
「してあります。けど、どうして私に付いていた液体のりが白くなってるんですか。そんな意味のないことするくらいなら私の透けた下着をどうにかしてくださいよ」
「きみねえ……、私は意味のないことをすることが嫌いなんだ。だから私がすることは全てに意味があるの」
どの口がそんなことを言うのか問い質したい、と柚希は切実に思った。
「液体のりを白くする意味ないじゃないですか」
「……もしかして、きみ本気で言ってるの?」花梨は少し驚いていた。「もしそうなら私はなにも言わないほうがいいのかもしれないね」
「それには同意します」梅香が言った。「林檎ちゃんにはとりあえず謝っとけばいいと思いますよ。後のことは私がどうにかしますから」
「ふむ……」花梨は林檎を見た。「すまなかった。これは後でどうにかしておく」
「いえ、わかってもらえたのなら何よりです」林檎は続けた。「でも、私がなにに気付いてないんですか? のりを白くしたのはなにか意味があることですか?」
花梨と梅香は黙った。それは単なる沈黙ではなく、どうやってこの場を乗り切るのか算段するための沈黙だ。それを不思議に思った林檎は首を傾げた。
柚希は相変わらず会話に参加しようとしない。
「きみは視野が広いようで狭いんだね」花梨が沈黙を破って言った。「もっと注目すべきところがあるだろうに」
「どういうことです?」林檎が訊いた。
「確かにきみの下着は透けてしまっている。編集してそれをなくしたとしよう。もしくはこの映像そのものを破棄したとしても構わない。けれど、それでもまだ、きみの下着が焼き付いてしまっているものがあるよね」
柚希は首が疲れたのか目線を戻した。梅香と林檎、それに一時停止と表示された液晶テレビが目に映った。固まった首を少しほぐしてから、冷蔵庫から自分の名前の書かれていないペットボトルを取り出した。この暑さの中では嬉しい冷たさだった。
「よくわかりません」
「うん。私がきみの立場だったら同じこと言ったと思うよ」花梨は団扇を扇ぐのを止めた。「きみがあの部活中にしたことはそのDVDに収めてあるわけだけれど、きみはそれを他人に見られたくないのだろう?」
「そうです。ましてやお偉いさんって……」
「私は狙ったんだけど」花梨が小声で言った。そして声のボリュームを戻した。
「つまりだ、恥ずかしい姿を見られたくないきみの意志に反して、その恥ずかしい姿をちゃんと収めたものがもう一つあるということだ」
「これのコピーがあるんですか?」
「ないよ。それしかない。それよりももっと優秀な媒体だ。今もここにあるし、それにきみよりも早くここに設置されたと言ってもいい」
林檎はますますわからなくなった。部屋を見渡しても、花梨と梅香、それに柚希、あとはどこから持ってきたのかわからない人形があるくらいだ。どれも花梨の言っていたものに当て嵌まると思えなかった。
花梨は林檎のそんな様子を見て溜息を吐いた。
「なあ」花梨は梅香を呼んだ。
「なんですか」
「もしかして彼女は他人に見られることが恥ずかしいと思ってるんじゃなくて、この部活の人間以外に見られるのが恥ずかしいと思っているのかな? そうでもない限り答えに辿り着くはずなんだけど」
「違いますよ」梅香が否定した。「いえ、違わないですけどなんて言うか……誰かに見られるのは恥ずかしい、けれど特定の人物に見られるのはもっと恥ずかしいんです」
「ふむふむ」花梨は相槌を打った。
「でもその人物にはすでに見られてるわけですから、あのときのことは吹っ切れてるんですね。だから花梨先輩の答えには辿り着かないんです」
「なるほど、そういうことか。『恋は盲目』ってやつだね」
「違いますよ」梅香が言った。「どちらかといえば『憧れ』のほうでしょうね。もしくは『尊敬』です」
「ふうん」花梨はつまらなさそうに頷いた。「ま、本筋から離れてもらったからなんでもいいや。彼女、純粋すぎやしない? 高校生とは思えないよ」
「それが林檎ちゃんのいいところです」梅香は微笑んだ。
その件の林檎は未だに答えが見つからずにキョロキョロと部屋を見渡していた。それはまるで餌を探している子リスのようで微笑ましいものだった。なかなか答えに辿り着かない林檎は、暇そうにしている柚希に話しかけた。
「柚希先輩。ちょっといいですか?」
「うん? いいけどなに?」
「私よりも先にここにあって、今もここにあるものってなんですか?」
「は?」柚希は林檎の言葉に思わず声が漏れてしまった。『なぞなぞ』とも思ったが、真剣に答えを探しているあたりそうではないのだろう。「そんなものいっぱいあるだろ。というかこの部屋にあるものなら大体そうじゃないか」
「そうですよね。だから全然わからなくて……」
柚希は花梨のほうを見た。花梨もそれに気付き、手を合わせて口を動かしていた。声は出ていない。けれど柚希にはなにを伝えようとしたのかがわかった。読唇術ができるわけじゃない。ただ花梨との付き合いの長さから、そういったことには慣れているのだ。だから花梨が『あとよろしく』と言おうとしていたのも難なくわかった。
「というかどうしてそんなもの探してるんだ?」
「それはですね――」
林檎は正確に花梨とした会話を柚希に伝えた。聞いている間、柚希は一言も話さなかった。時々、頷いたり、首を傾げたりといったリアクションを見せるだけだった。
「――というわけです」
「ふうん」柚希はとりあえず思いついた答えを言う。「それはたぶん――いや、間違いなく俺のことだろうな」
「そうなんですか?」
「まあ、十中八九だけどな。だってあのときあそこにいたのはお前と俺と梅香だけだろ? そんでお前は梅香に下着を見られたとしても平気」
「平気ではないですけど……まあ、それなりには」
「だとすると俺しかいないじゃん。花梨さんは間違いなく俺を嵌めようしてるな。梅香のほうが優秀な記憶装置だろうに。特に林檎に関しては」
「そうなんですか」林檎は言った。「ところで柚希先輩はあのときのこと覚えてるんですか?」
「どのこと? もしかして下着のことか?」柚希は訊いた。
「……そうです」林檎は頬を染めて言った。「もし覚えてるのなら、その……、記憶のほうを消して欲しいかな、って」
「こわっ! 俺、確実に鈍器かなにかで殴られるじゃん」
「いや、あの……そういうのは重いので、電気をバチっと」林檎はなにかを持っている素振りを見せた。
「スタンガン!? シャレにならねえ! 覚えてないから大丈夫。だからそのスタンガンを俺の首筋に当てる練習を止めてくれ」
林檎は腕を丁度柚希の首筋くらいの高さに合わせ、打ち込む角度を入念にイメージしていた。どの角度が正しいのか柚希には全くといってわからないが、それは林檎も同じだった。
「ホントに覚えてないんですか?」
「覚えてない、覚えてない! だからそのスタンガンを両手に持って俺の首を挟みこむ練習をするのを止めろ!」
「……わかりました」
そう言って林檎は手を閉じたり開いたりした。それに加えてほんの少しだけ物惜しそうな表情も見せた。
「ま、あとはあのDVDだな。でも花梨さんが渡してくれないだろうけど」
ここで渡してしまうと、まだDVDを見ていない棗と杏子が暴れ出してしまう。今日だって彼らがこの部室に来ようとして止めるのが大変だった。柚希としては呼んでも構わないかなぁ、と思ったのだが、花梨がそれをやんわりと拒否した。何でも、『物事には手順がある』だそうだ。
「というか、まずは梅香だろ」
林檎は首を傾げた。
「どうして梅香先輩なんです? 梅香先輩の記憶を飛ばさないといけないってことですか?」
「今日の林檎は発想がこえーな……」
柚希はチラリと梅香のほうを見た。花梨と話しているところだったが、柚希の方を横目で見ていて視線がぶつかる。それは明らかに余計なこと言うなよ、というこちらの目が解けてしまいそうなくらい強烈な視線だった。梅香は同時に様々なことができるという不思議機能が備わっている。そのため柚希と林檎の会話も聞いていたのだろう。聖徳太子もビックリである。
「ま、面倒なのはゴメンだからな」柚希は呟いた。
「今、なにか言いましたか?」
「いや、なんでもない」
柚希は梅香のことを黙ることにした。それは彼女の名誉とか何とかを守るためではない。第一そんなことをしなくても彼女の過度なまでの林檎好き(ペットとして)は周囲も認知している。守る必要などないのだ。知らない――というよりはそう思っていないのは林檎だけである。林檎はどこをどう考えたら『後輩想い』という便利な言葉に変換してしまうのか、梅香の好意をそう捉えている。きっと梅香のように不思議機能を搭載しているに違いない、と柚希は一人で納得した。
だが、そんな柚希の黙秘も梅香の想いも打ち砕くように花梨は、
「あ、そういえば、梅香が林檎の映像だけが映ったDVDを持っているよ。欲しいと言われたから特別に編集したの忘れてた」
と林檎にハッキリ言った。
(ホントに空気を読まない人っていうか空気を破壊する人だな)
柚希は林檎を見た。ぷるぷると生まれたての仔馬のように体が震えていた。初期微動のようなものかもしれない。これから本震が来るのだろう、そう思った柚希は何食わぬ顔でお茶を飲んだ。これから起こることに、少なくとも柚希は関係ない気がしたからだ。
あとは林檎と梅香の問題。
それと花梨を塩胡椒のように少々付け加えてもいい。
初期微動継続時間が延びている間に、視線を林檎から梅香に変えた。梅香はいつものような凛とした雰囲気を出しているようだが、柚希からしてみれば無理矢理そうしているような――動揺を隠しているような、そんな風に見えた。本当は冷や汗を流して、林檎をどう言い包めようか考えているに違いない。
そして爆弾に火を付けた花梨はというと、楽しそうに、そしていやらしく笑みを浮かべていた。計算通りと言わんばかりのその表情に、柚希は溜息を吐いた。なにをやるにしても、なにを言うにしても花梨はタイミングが悪過ぎる。だがそれは『柚希たちからすれば』のことで花梨にしては計算した上での最高のタイミングなのだろう。花梨が楽しむには完璧なタイミングだった。
「梅香先輩! 今すぐそのDVDを渡してください」林檎がついに噴火したように言った。
「嫌よ」梅香は即答した。それが考え抜いた結果の答えだった。
林檎は梅香に近づいて行った。柚希にはその姿が林檎とは思えないほど大きなものに見えた。
「我がまま言わずに渡してください」
「ねえ林檎ちゃん」梅香は林檎の言葉を無視して静かにそう言った。「もし私がDVDを渡したとして林檎ちゃんはそれをどうするの?」
「もちろん破棄します」
「でもそれのコピーがあるかもしれないじゃない」
「それも破棄します」林檎の意見は変わらなかった。
「その数が尋常じゃなくても?」
「尋常じゃないんですか?」林檎は訊き返した。
「私がこういうのもあれだけど、二、三千枚はくだらないわね」
「そんなにあるんですか!? いったいなにに使うつもりなんです」
まるで姉妹のようだ、と柚希は思った。普通なら背といいスタイルといい梅香のほうが姉に見えるのだが、今回は姉よりも成長の良い妹のようだった。しかも心なしかそのすらっとした身長が縮んでいるように見える。そして梅香が縮んでいる分、林檎が大きく見えた。とは言っても、林檎の身長が梅香を超えているわけではなかった。雰囲気で大きくなったように見えても、相も変わらずに小さいのが林檎だった。
二人の言い合いは短くも長く続いた。時間的には何時間にも及ぶ大口論だったのだが、感覚的にはほんの数十分くらいのものだった。窓から見える空の色が変わっていく様が気にならないくらい――気にすることを忘れてしまうくらい二人の口論は激しかった。具体的にその様子を言えば、やっぱり姉妹の口論であり、駄々を捏ねている娘を宥めているそんな親子のようでもあった。
柚希は空になったペットボトルを手で弄りながらそんな二人を見ていた。基本的にこの部の副部長である柚希は、部長である花梨が許可をしない限り帰宅は許されないのだ。殆ど監禁のようなものである。
そんなわけで夕方を通り過ぎ、星が輝き始める夜。
「花梨さん。俺はいつになったら家に帰してもらえるんですか?」
遊び過ぎたせいかペットボトルはその原型をほとんど留めてはいなかった。
「家? 柚希に家なんかないだろ」
「ありますよ! いやいやそんな『なに言ってんだこいつ』みたいな顔されても困ります。俺のことなんだと思ってるんですか!」
花梨も林檎と梅香の痴話喧嘩を聞いているだけで手持無沙汰だったのか、団扇の両端を指で挟み込むようにして、くるくると回して遊んでいたが、柚希が話しかけてきたと同時にぴたっとそのスイッチが切り替わったかのように団扇の回転を止めた。というか指先で団扇が固定されていた。まるで天井から吊るされているかのように団扇は指先で倒れることなく固定されている。箒を指に乗っけてバランスをとるあの行為を思い出してもらえればいい。だが、花梨はバランスととるようなことはしていない。団扇が指先で立つのが当たり前だと言わんばかりだった。
「柚希……。そろそろ現実を見なよ。いつまでも二次元なんかに囚われてないでさ。アルカトラズじゃないんだよ? 脱出できるんだよ? 私の言ってることわかる? どぅー、ゆー――」
「なんで俺が日本語のわからない外国人みたいな扱いされているんですか!? さっきまで日本語話してたでしょう」
「え? そうかあれは日本語だったのか。てっきり私の語学理解力が宇宙レベルに達していたのかと思っていた」
「宇宙レベル!? 俺は外国人ですらないじゃないのか……」
「ところでそろそろ本当の姿を見せて欲しいんだけどいいかな?」
「どこの魔王なんですか、俺は。いやこの場合は宇宙人ってことなんでしょうけど、あえて言わせてもらうんなら今のこの姿が本当の姿です」
「実を言うと、きみの本当の姿は今の姿じゃないんだ……」花梨は柚希から目を逸らしてそう告げた。
「なんですって……」
驚きのあまり柚希は目を見開いた。しかしそれは花梨から聞かされた真相にではなく、花梨が振ってきた話題をさも当たり前のようにさらりと変えたからだ。
飄々としているというか、自由奔放であった。
花梨はチラリと柚希の驚いた表情を確認してから、その表情が見たかったんだと言わんばかりに意地悪く笑った。それはどう見てもガキ大将の笑顔だった。
花やかさなんて微塵もない。
ただただ相手を苛めて喜んでいる人間の悪い顔だった。
「ま、冗談はさておき、柚希の帰りたいという気持ちもわからなくはない。私だってできることなら帰りたいところだよ」
「なら――」
でもね、と花梨は柚希の言葉を待たずに言った。
「これはいい機会なんだよ」
「いい機会?」
「そう、私が柚希と二人で作り、二人で始めたこの部活の一区切りとでも言うのかな。最初は二人だったけど、ほんの数カ月でこんなに増えちゃったし、そろそろ落ち着くべきなんじゃないかってね」
「それは、もう部員は増やさないってことですか?」
それは柚希が花梨から最初に言い渡された仕事がなくなるということだ。柚希はどうしてか自分でもわからないまま引き受け、美柑と桃、林檎や梅香、バカ二人をこの部活に連れてきた。連れてきて部活に参加させ、そして最後に入部させた。しかし最終的に入部を決めたのは彼らであって、花梨が柚希を誘ったときとは違い、自主性がそこにはあった。
望んで校内一有名な名もなき部活に入ったのだ。
「そういうこと。柚希には少しばかり苦労をかけてしまったね。……謝ろうか?」
「少しばかりということにできるなら異論を唱えさせてもらいたいところですけど、その前に何故自分から謝る気がないんですか」
「柚希が求めることをしてあげようと思ったからさ。なんなら脱ごうか?」花梨は制服のネクタイに手をかけた。
花梨はこの手の冗談を柚希に嫌というほどしているのだ。初対面のときに冗談を冗談と気付かずにうろたえた柚希を見て花梨は楽しかったのだろう。
クセみたいになっているのだ。
日課と言ってもいい。
何十回かその冗談(中には口だけではなく、行動も交えたものもあった)を言われ耐性がついた。そのときくらいに柚希は花梨という人物がどんな人なのか理解し始めた――理解し始めようとした。それまでの柚希の中での花梨のイメージというのは、校内で広まっている噂や逸話ばかりで塗り固められたものだった。その硬い外殻を見て柚希は花梨と接してきていたが、そのうち内面を知りたくなった。
なにを考えているのか。
なにを想っているのか。
なにを感じているのか。
あまりにも自分とはかけ離れた存在である花梨に興味を持ったのだ。本当に花梨が噂や逸話通りの人物なのか、それとも花梨がそれを演じ切っているだけなのか、どちらにしても柚希は知りたいと、理解したいと思った。
そんなある日、柚希は花梨に訊いた。
「その冗談は誰にでも言ってるんですか?」
意味があったわけではない。ただ自分の知らないところで彼女がどんな話をしているのか探りを入れるための牽制球みたいなものだった。
あくまで様子見。
そこから少しずつ情報を引き出すつもりだった。
だが、花梨からいつもの飄々としていてそれでいて陽気な言葉は返ってこなかった。
「……そんなわけない。柚希だから言うんだ」
そんな言葉に柚希は口を噤んだ。そのときの花梨の寂し気で悲しそうな表情を目にしてしまったからだ。本当にそんな言葉で表していいのかさえ柚希にはわからなかった。それだけ花梨の表情は衝撃だった。
それでも、花梨はそのことをなかったことにするかのように、冗談を言い続けた。だから柚希も同様に対応している。できれば忘れたいと思っているからだ。
反省しているし、後悔もしていた。
「んじゃあ――」
お願いします、と柚希は冗談で言おうとした。言ったところでどうにもならない、お互いに冗談を言い合っているだけのことなのだから。そんなことは言わずとも花梨はわかっているだろう。
ただし。
ただし花梨にはわかっているだけである。
部屋にはもちろんだが、柚希と花梨以外の部員がいて、その冗談で構成されたやり取りを訊き慣れていなければ、当然止めに入る。
柚希が「お」と言い始めたところで、彼は口を塞がれ、羽交い絞めにあっていた。
口論をしていたはずの梅香と林檎が電光石火の如く移動したのだった。
柚希は一瞬なにがあったのかわからなかったし、花梨も二人の行動の速さに驚いているようだった。
「なにを言う気なんですか!」
林檎が声をかけてくるが、彼女が口を塞いでいるため、柚希は答えることができなかった。下手に声を出そうとして林檎の手に自分の唾でも付いたら申し訳ないという気持ちもあった。
口が塞がれているとはいえ、呼吸することに関してはなにも問題がなかった。鼻詰まりでも起こしていない限り、鼻で呼吸をすればいいだけの話だ。
問題はもう一つのほう――羽交い絞めだった。
羽交い絞めをしている本人も気付いているはずなのだが、一向に解放される気配がない。むしろギリギリと締めあげられているようだった。どうにかして技を解いてもらいたい柚希だったが、残念ながら口は塞がれていた。新手の拷問だろうか、と思い至ってしまうほどだ。
柚希は口を塞いでいる林檎に目と多少動かすことのできる手で解放を促した。林檎は首を傾げたが、うまく伝わったのか口を塞いでいた手を退かした。
「大丈夫ですか? 柚希先輩、鼻詰まりだったんですね」
と、林檎の間違った解釈を訂正することなく、柚希は背後にいる梅香に話しかけた。
「羽交い絞めはする必要ないだろ」
「そんなことないわ。もし私がしてなかったら、柚希は林檎ちゃんのこと襲っちゃったでしょう?」
「しねえよ!」
「そうかしら。こんなロリッ子に口を塞がれるなんて滅多に起こることじゃないのよ。私が男だったら迷わず襲うわ」
「もう捕まれよ。お前は日常にいていい奴じゃない」
「大丈夫よ」梅香は諭すように言った。「私、どう見ても女だから、林檎ちゃんを襲っても法が許してくれるわ」
「許すか! 法もそうだが、林檎もお前のことを許さな――」
羽交い絞めの威力が増したせいで、柚希は言い終えることができなかった。梅香のかけている技がすでに羽交い絞めなのかどうかもわからない。ただ肩があらぬ方向へ曲がりそうなことだけはわかった。拘束技から殺人技へと昇華する瞬間を体感してしまうんじゃないかという危惧さえ柚希の中で芽生え始めていた。
「どうしたの? もし痛かったら手を挙げて。すぐに解放するから」
「それに似たような台詞を吐く職業を俺は知っている。手を挙げても無駄だってこともな!」
「あの手を挙げるというのは殴ってくださいという意味でしょ。私のは違うわ」
「お前もしかして殴ったのか!?」
そうだとしたら、とんでもない事実である。治療中に殴られると思う歯医者がどこにいるというのだろう。
歯には歯を、痛みには痛みを。
梅香に殴られた歯医者には不運だった言う以外かける声が見つからなかった。
真実かどうかは定かではないけれど。
「いやそうじゃない。お前いい加減離せよ」
「どうして? 窓から飛び降りるの?」
「んなわけあるか! 胸が当たってんだよ。気付いてないとは言わせないぞ」
ようやく柚希は言いたいことが言えた。林檎に口を塞がれているよりも、重要な問題であるそのことを告げることができて、少しだけ荷が下りたような気がした。問題は依然解決していないが。そして柚希にはわからないが、未だに梅香が解放してくれる気配がない。むしろ締め上げが強くなっている。
「え……あの、梅香さん?」
「どうしたのかなー?」
今までと明らかに口調が違っていた。
「ちょっと自分にはこの締め付けはきついかなー、なんて思ったりして」
「そ、そうですよ。柚希先輩が可哀想です」林檎が心配そうに言った。
「そうだよ、柚希が可哀想だ」花梨も続けた。「いくら私とのやり取りに驚いて、無意識のうちに柚希の動きを止めて、気付いたら体が密着していたなんて――しかもきみの性格からして自分から離れるのもどうかと考えちゃうのもわかる。恥ずかしいよね」
「な、ななな、ななな――」
柚希には見えないが、声が震えているところから察するに図星なのだろう。まあ男子とこれだけ密着すれば、恥ずかしくなるのもわかる。照れ隠しで技が昇華していくのはわからないが。
「あれ? どうしたんだい、梅香。それはもしかしてモールス信号のつもりなのかな?」
花梨は意地悪そうな――それこそ人を見透かしたように、人を喰ったように言った。
それしても、と柚希は思った。
花梨という人物が未だに理解できない、と。




