5.霹靂
心は安らかだった。もう私の中に残る思い出には底が見えていて、それは大半が妹との囀りで満ちている。
凪いだ気持ちで日々を過ごす私の中に、いつかのような細波は訪れない。瞬きの後には、細波の記憶すら抜け落ちるのだろうか。そんなふうにぼんやりと考えながら、痛む足を引き摺ってここのところ滞在の時間が増えた祭壇に尻を落ち着ける。
背後からは、相変わらずの視線が刺さっているようだった。俯いて祈りを捧ぐ私が、あの視線に気を散らしていたこともあったのだろうか。気にならないと言えば嘘になるものの、何故そんなに苛立っているのかと疑問を向けるほどではない。
いらないものが捨てられて、私の指針がより一層はっきりとした今、目指すところは一つだけだ。
長かった十字架が、もう視界のどこかに捉えられている。みすぼらしい十字の中央に、私の求めるものがある。黒く染まったその身体に触れて、崩れて、形がなくなって、そうしたら、そうすれば。
「ミルイ様」
ふいに静寂が破られて目を開く。白んだ視界が戻るまで何度か瞬きを繰り返し、ふわふわとした心地で振り返った。
「なんですか、ヨジさん。まだ祈りが途中なんですけど──」
「戻りますよ。ひどい顔色をしている」
強引に腕を引かれてバランスを崩す。
倒れそうになった身体を当然のように受け止めて、ヨジは軽々と私を抱き上げた。数秒間、何が起きているかわからないまま状況を享受する。
彼に似合わない険しさを解かないまま、いつもの軽さをどこへ置いてきたのか、渋い口調で口を開いた。
「僕はそんなに力持ちじゃないんですよ」
「知ってます。危ないから、下ろして」
「なのに、何ですかこの軽い身体。この余裕のお姫様抱っこっぷり見て下さいよ。どれだけ痩せちゃってるんですか、あなた。冷たいし、柔らかさはどっかいっちゃってるし。記憶をなくしていくからって体重までなくしてどうするんです。根を詰めるなと言ったでしょう。僕の役得を奪おうだなんて、まったくもっていくらミルイ様でも許し難い」
上がった柳眉に身体を縮込める。丸くなる身にあわせて背を支える手は追ってきて、その暖かさにじわりと凪いだ気持ちが細波を思い出す。
いけない、と警戒心が湧いた。定着させた薄い微笑みに皹が混じる気配。
「私は祈るのが本分です。仕事を全うしようとして悪いことがありますか」
青い瞳を至近距離に、巡らせそうになる首をあえて固定して真正面から相対する。目を反らしたくなるのは錯覚だ。
巫女が祈ることの、一体何が咎められるべきか。身を削りながら記憶を捧げる巫女。褒められることではあれど、怒りを向けられる覚えはない。私は平和を祈るのだから、後ろめたいことなど何もない。
「何をそんなに急いでるんです」
「言ったでしょう。みんな平和を待ってます。私はそれに応える義務がある」
「もうすぐ、と先日あなたは言いました。じゃあ、少しくらいゆっくりしたって良いでしょう」
「ゆっくりって……」
「焦らなくてもいいじゃないですか。ねぇ?」
「……続けます。下ろしてください、ヨジさん」
「……ふーん」
睨み付けながらの口ごたえは気に食わなかったようだった。ヨジは祭壇からてんで外れた場所に私を置いて、周囲を供物でとっ散らかして進路を妨害してしまう。子供のような呆れた所業に、私はあんぐりと口を開けた。
彼はああだこうだと軽い口聞きをするが、本気で妨害に励んだことはない。当たり前だ。そもそも、どんな身分の者よりも平和を待ち望むからこその神官なのだから。本来は。平和の祈りを支えるための侍従である。本気で祈りの邪魔をするなど、本末転倒極まりない。
こちらの混乱を省みず、ヨジは悋気を圧してにっこりと笑った。
「ねえ、ミルイ様。死ぬのは怖いですか」
「……ヨジさんがそれを、わざわざ私に突き付ける人だとは思いませんでした」
「それは誤解を招く対応でごめんなさい」
固まった表情での皮肉にも、厚い面の皮は笑みを崩すことはない。威圧するような気配に、私は憮然と頷いた。
この焦燥感は、早く理想を現実に変えたいがゆえである。しかしそれにプラスして、例えば私が死を恐れ、ゆるやかな忘却を早めて楽になりたいがために祈りを深めているのだとして──誰が私を責めるというのだろう。
私は一歩一歩訪れる死が怖いから、自ら歩を進める。人々は私が死ぬのが早いほど早期の平和が到来すると思っているから、私の迂遠な自殺を歓迎する。
この昼行灯を模した聡い人が、そういう機微に気付かないはずがない。その上で、口を挟むとは思わなかった。
「怖がらないように見えますか?私だって人ですよ」
「人であるのは当然ですけど、死ぬのが怖いようには見えませんね。ええ、今もですよ、ミルイ様」
息を飲んだ。全身が思わずこわばる。
丸く見開かれた私の目に、ヨジは偽りではない笑みを表情に混ぜた。目前にしゃがみ込んだ男は、いっそ優しげに顔を変えて私の視界を独占する。
吐息と共に吐き出される、低過ぎない声音が好きだった。
「だって、あなたはいつだってこの世界から消えたがっている」
「それは」
「ねえ、僕が好きでしょう、ミルイ様」
「──は?」
ちょっと、待ってはくれないだろうか。こっちが質問を頭に入れる前に先行して問いを重ねるのは止めてくれないだろうか。
いや、彼にとっては問いではないのかもしれない。ヨジの言葉に疑問符はない。丸くした目を追加で白黒させる私を、ひどく面白そうに観察する。あれ、この人の何を優しいと称していたんだっけ。とんだドSじゃない?
「役職持ちの観察眼なめたらダメですよう。どこに媚び売るとか何が好きとか、誰に嫌われてるとか好かれてるだとか、そういうのが何より大事な世界なんですから。スキルも磨かれようというものです。自信ありますよ、何せ、神殿ってのはどこよりもドロドロした世界ですからね」
神殿がドロドロしているというのは、市井にいた頃では思いも寄らぬことだったが、今となっては頷かずにはいられない真実だった。
静かでゆるやかな時の流れを演出し、神の名の元に平和を祈願する。そのくせ、結局目の前に権威だの金だのをぶら提げられられれば、噛み付こうとせずにはいられない。
仕方がない。神官だって人間だ。生きる上で自らを助くるそれらに縋らずにいるには、神は遠すぎるということだろう。全く神を信じていない者もいるかもしれないが、職に就くために必死だったのだと思えばそれもまた仕方ない。
問題は、閉鎖職だということだ。他との関わりが極端に少なく、ほぼ神殿だけで完結しているのが神官たちだった。
よどんだ場所は腐敗する。王宮が頻繁に膿を吐き出せるのは、欲望渦巻く空間だと誰もが認識しているためだ。外部から糾弾を受けられる場所は、ささやかであれ換気がなされる。
神殿は清廉なイメージが強すぎて、誰もが表層を真理だと錯覚してしまう。同じ人間が管理している場所に、そう違いが出来るわけがないのに。
下の者は虐げられる。虐げられるのは嫌だから、上の者に媚を売る。上の者は慢心し、更なる甘味を求めて閉鎖する。神という商品を振り回して。
巫女はその輪の中に放り込まれることはなく、むしろ媚を一息に受けるものだった。平和を買い受けるためにひたすら好印象を投資する。……私がそのシステムに気付いていることに、ほとんどの神官が気付いていなかったのが残念だ。
その気付いていた中の、数少ない1人が猫のように笑う。
「僕、他でもない、あなたの想う平和が欲しいんです。ねえ」
これは、私が知っている彼だろうか。多分少しだけ違うのだと本能が告げる。曇っていた視界を一杯に瞠って、するりと身を寄せるヨジを凝視する。
知らなかった彼が露呈されている。それは恐らく、彼が執拗に私に見せようとしなかった一面だ。昼行灯ののらくらした顔と、最近見せるようになっていた険の浮いた顔。それ以外を持っていることは当たり前だが知っていた。けれど、こんなにも──。
「もし、あなたが怖がって目を逸らそうとしているソレが、僕を殺すことへの罪悪感なら、それは筋が違うというものです」
──こんなにも、暗い目をした、甘い誘惑をはらむ彼は、想像すらしていなかった。
今度こそはっきりと呼吸を止めた私ののどを荒れた手がなぞる。首を擦る感触に細く酸素を取り入れると、よく出来ましたというように彼は笑った。
「……知っ、て」
「観察眼はあるんですってば。ずっと見てたんです。同志のことくらい、わかるつもりですよぉ」
畳み掛ける言葉に反論を失う。そもそも口を挟む隙などなかったけれど、隙を探すことすら諦めた。
熱を帯びた視線に振り返られたことは何度もあったから、恋心がばれているのは予測していないでもなかった。それはともかくも、「平和」の意味を知られていた。その割りに、自分の中に恐怖が生まれていないのが不思議だった。
同志、と口の中で反芻する。
「僕、弟がいたんです」
また話が変わる。残り少なくなった過去のやりとりを巡らせると、綺麗な顔をした弟、というフレーズが浮かび上がった。
「ええ、前に聞きました」
「ほんとに、ちゃんと聞きました?弟、いたんですよ?」
「え、あ……」
当時、私はさらっと流した気がする。うんうんと唸っておぼろげなやりとりを呼び覚ますと、そうだ、弟さんがいたとは知らなかった、と言った私に、彼は、いたんですよと確かに返した。
普通に気付かなかったが、文脈としてどちらとも取れるが、過去形だった。
「僕が言うのもなんですが、非常によくできた弟でした。品行方正、眉目秀麗。聡明で、兄の顔はちゃんと立てる子で、しかも嫉妬する隙も与えないほど慕ってくれる。可愛くないはずがありません。男兄弟なので、可愛がり方はぶっきらぼうでしたけどね」
過去形だった。つまりそれは、今は亡き、ということだ。
すかさず脳裏に浮かぶ愛しの妹の姿を重ねると、祈りを始めるまでの安定が嘘のように心が竦んだ。先程までの動揺が重なって、まるで少女のように身体を震わせた。
首から肩に移動した手が労わるように撫で上げて、子供を落ち着かせるように軽い振動を寄越される。
「好奇心旺盛な子でした。小さい頃からなんでどうしてが口癖でねぇ、折角買ったオモチャを解体してしまうところだけは困った癖でした。そんなあの子が神という不確かなものに首を傾げるのは当然でね。まあ、かくいう僕も信仰心が強い方ではなかったんですけど、面倒くさがりでしたから。腑に落ちない出来事をなあなあで済ます、駄目人間なんですよね、僕。弟はそうじゃなかったんですけど」
穏やかに語る彼の横顔は、それだけにあからさまな狂気を滲ませていた。普通なら、私は肩に掛かった手に怯えるのだろう。
けれど。
「正義感に溢れるあの子が、なあなあで済ますことはありませんでした。賢く優しい弟はね、不確かなものに納得しないながらも、神を否定はしませんでした。それに救われている者は、神を支えにしていることを尊重し……その支えを踏み躙る馬鹿者に怒りを覚えました」
上がった口の端が痙攣している。痛みを覚えない程度に力の篭った手──私は、それらに安堵を覚える。抜けた力のまま、お世辞にも逞しいとは言えない肩口に頭を預けた。
なるほど、と落ち着いて行く心に目を閉じる。
同志とは、つまるところ。
「高位神官の両親が権力使って、僕をミルイ様の従者に押し込んで、しばらくは不貞腐れてたんですよ。神殿なんて腐った場所からはさっさとおさらばしようと思ってたのに、巫女の従者なんて、巫女が亡くなるまでお役御免になれやしない」
また話が変わった。何気なく酷いことを言っている。それより、女の人みたいな話の飛び方するなあ、と安定を取り戻した精神でぼんやりと思う。彼の中では繋がっているんだろうけど、整理する方の身にもなって欲しい。
けれど、着地点が分かっているなら道筋の当て嵌めは難しくなかった。
「何回目だったかなあ、それまでは祈りの最中はお昼寝タイムだったんですよね。その日は何だか眠気が来なくて、仕方なしにたまにはお仕事しようかと思い立ってミルイ様を観察してたら」
「別にヨジさんのお仕事は私の観察じゃないんですよ」
「してたら、様子がおかしいじゃないですか。何であの子あんな必死こいてんだろうと。不思議に思って、暇なときにミルイ様の境遇調べてみたんですが」
「ヨジさんそういうとこ無神経ですよね」
「調べてみたんですが」
合間に含める突っ込みに怯まないこの人こそ、もしかして記憶を食われて神経失ってるんじゃないだろうか。
ちらりと視線を上げると、平静に戻ったヨジがこちらを見下ろしていた。
「あーこれは間違いないな!と、確信しました。でも一応もっかいミルイ様の祈りの様子をじっくり眺めてたら、口元がとーっきどき動くんですよね。単語だし切れ切れでしたけど、降り積もらせて一言で纏めるなら、怨嗟です」
「……そんなにバレバレでした?」
「顔色伺いマスターの僕以外には分かりませんよー。大体、祈りの場に同席できるのって僕くらいですし。そういうわけで同士なら仲良くしようと近くで過ごしてるうちに、ミルイ様ラブな感じで。キャッ、言っちゃった!」
「──弟さんは」
「あれッ?スルーですかッ!?」
想像はできる。ヨジの弟は神を信じなくても、世界中に神を信じる者はいて、けれど神を信じるべき、神と人を繋げるべき神官が神を冒涜している。
正義感は、恐らく。
「……僕の両親は、腐り切った豚共ですよ」
正当に働いて、働いてしまって、彼を害する結果に終わってしまったのだろう。
いつの間にか抱きかかえられるようになった身をよじる。再度肩を掴み掛けた手を振り切って背骨を伸ばした。上げた腕が首を回り、柔らかく跳ねる髪に着地して引き寄せる。
首筋に顔を埋めると花の香りがした。何と言う女子力。と、慄きたいところだが、単に神官の身の清めに使用されている聖水に聖花の汁が溶かされているだけだ。油ギッシュなおっさん連中も同様の香りを漂わせていることに戸惑いを隠せなかった自分を思い出すと、今の自分が穢れきっているような気分になった。
「ミルイ様、愛してます。でもあなたを利用します、ごめんなさい」
ぎゅうと正面から抱き込まれる。背を撫でて許しを与える。
頭頂部に落ちた唇が、甘く甘く、私に囁いた。
「神の名を騙り、神殿は不正を重ねる。それなら、神の裁きで消え去るが正当な罰でしょう。己の汚濁も弁えず、私の弟を悪魔と貶めた、他でもない私の両親を、どうか罰してくださいな」
ああ、と、安らいだ気持ちで受け入れる。
彼は一度も急かさなかった。彼は私の想いを受け入れてくれていた。彼を殺す、彼を裏切る、そんな罪悪感が必要ないという。それは何て、喜ばしいことだろう。
裏切ってなどいなかった。彼はそれを望んでいた。世界の終わりを願う同志。暗い暗い闇を胃に沈めて世界を呪う、私と同じ場所の人。ああ、なんて、心地良い。
「ほんとはこんなの打ち明けるつもりなかったんですけど、ミルイ様悲しそうだしぃ」
「もうちょっとだったんだし、良かったんですよ」
「そりゃ、世界に終わって欲しい身としては早いに越したことはないですけどねー」
そうか、私のために奮起してくれていたのか。それなら、私は、一刻も早く──あれ?
「と、思ってきた僕ですが、最近ちょっと気持ちが変わりました」
「ですよね」
そもそもの発端は、彼の祈りの妨害である。
告白は別にいつでも良かったんではないかと思う。そんなことは祈りの後でも全く構わないわけで、じゃあ祈りの達成を邪魔する意味とはなんぞや。疲れ果てて話半分になった可能性もなくはないが、それにしたって彼の不機嫌は尋常ではなかった。
少し身を離すと、見上げた顔の中、悪戯めいた光を放つ目があった。
「ミルイ様、早く死ね死ねとせっつかれてるでしょう?」
「そうですね、嫌気がするくらい」
その度にむっとした顔をみせるヨジの姿を思い出して微笑む。好きな人が自分のために怒ってくれるのは嬉しいことだ。
「世間は勝手気ままに色々と楽しんでいるんです。僕やミルイ様が鬱々としたまま消えるのは癪に障ります」
「まあ……それは確かに」
「そうでしょ。ミルイ様ってば、ほんとは別に性格が良いわけじゃないですもんねえ。いい性格はしてるけど」
「本当に性格が良かったら、神殿なんかにいられませんよ」
「あー間違いない」
ひとしきり笑った彼はすっかりいつもの彼だった。暗い色を払拭して朗らかに笑う。
その奥にある闇に包まれて、同じく私はとびきりの笑顔を浮かべた。
「愛してますよ、ミルイ様。さっさと死のうとなんかしないで下さい。僕はあなたと一緒にいたい。少しゆっくり、愛を育む時間を設けて、平和という名の僕らの子供を作りましょ?」
ふと気付く。彼の思い出が、この日このときまで、意外と残っていたことに。残り少ない記憶でも、沈殿した泥をかき混ぜれば、結構色々出てくるものらしい。
いかに自分が彼を想っているかを思い知る。宵闇色と視線を合わせて、今更ながら顔を赤らめた。
「──ヨジさん、私ね、ずっとあなたのこと」