1.充実
場面転換の都合上、一話の文字数がいまだかつてないほど少ないです。
世界樹の麓の巨大な神殿。優美な祭壇の前にひざまずき、一心不乱に祈りを捧げる。
世界に平和を。
それだけが私の願いであり、望みであり、生きる上での使命であり、それ以外には何もいらない。組んで拳に額を乗せて、目を閉じたまま何度も呟く。
巫女の祈りは大樹を通して世界に溢れ、世界は祈りの達成からおよそ10年の凪を約束する。長らくの歴史をそうして過ごしてきた中で、過去の巫女たちは何を思ったのだろう。
私にとっては、10年ごときの平和では到底足りない。もっと永く、できることなら悠久の平和を求めている。永遠に争いのない世界。誰もが求めるその楽園だけを、私は渇望し続けている。
巫女となって5年が経った。あの日から整える以上には刃を当てなくなった髪は、背の半ばを過ぎる長さとなった。祈りの確実さに比べ、ささやかすぎる願掛けである。
祈りは確実に遂行される。巫女としての印を得た人間の祈りは、どの代であれど必ず世界に届き、数々の自然災害を減らし、魔物の繁殖をセーブする。
違うのは、達成までの速度だった。突然ぴたりと災害がなくなるわけではなく、状況はゆるやかに動くものだ。
祈りが真剣で切実であるほど、己の身を削るほどに世界の平和を想うほど、災害数を示すグラフは急角度で右肩が下がり、世界は安定に向かう。
私の場合は。
「お疲れさまです」
息を吐いた私の身に、柔らかな布が被さった。振り仰げば、見慣れた男が柔和な顔を更に和らげて手を差し伸べている。微笑み返して立ち上がると、長時間の圧に足が痺れていたらしく、ふらふらとおぼつかない。
「ゆっくりでよろしいですよ、ミルイ様。どうせこの後の予定は大したものではありませんし」
「神官長のご説法を大したことがないなんて、バチが当たりますよ、ヨジさん」
「なあに、世界が巫女であるミルイ様より神官長を取ることなどありません。つまり、ミルイ様を心配する僕は安全という」
「まあ、私が盾ですか?」
「やだなあ滅相もない。僕がミルイ様を大事に想っているというお話です」
「だと嬉しいんですけど」
「本当ですよお」
クスクスと笑いをこぼすと、ネコのように細められた目が優しく注がれる。彼の優しさが本当であることを、今となっては私が疑うことはない。
「世界の様子はどうなんでしょう。祈りは届いているのかしら」
問う声に、青年は少しだけ困ったような顔をした。
「随分と早く世界が安定してきているようで、みんな喜んでますよ。少しくらいサボっても良いくらいです」
「安定が早いのは良いことでしょ?でも、ありがとう、ヨジさん。私は大丈夫」
私の場合は、歴代に比べ、すこぶる安定が早いようだった。何せ、平和への貪欲さは執念とも言えるほどである。自信はあった。あんまりにも貪欲すぎて、神に純粋な祈りと取られないことだけが心配だったが、この様子ではそれもないようで一安心。根を詰める私を心配するヨジの気持ちを嬉しいと思いながらも、こればっかりはセーブできない。
ゆっくりとした歩みで部屋を出る。足に傷を負ってしまって以来、走ることはかなわない。どころか、普通に歩くことすらままならない有様である。ヨジが差し伸べる手に寄りかかるように歩く私に、彼は苛立ちも見せずに忍耐強く付き合ってくれる。できるだけ負担をかけないようにはしているが──少しだけ過剰に手のひらを接触させてしまうことくらい、見逃して欲しい。
清潔さに満ちる廊下では、今日もいつも通りの顔ぶれが、偶然さを装って待ち構えていた。
「ミルイ様、本日もお勤めご苦労さまです」
「歴代の巫女様方に勝る祈り、神官一同頭があがりませんな」
「まさしく。ミルイ様こそ聖女の名を冠するにふさわしき巫女様にございます。どうぞ、一日も早い祈りの成就を……」
人相が良い者も悪い者も、一様ににこやかな表情で挨拶となった賛辞を送る。明るい顔を見ていると、祈り疲れた心が晴れ渡るような気持ちだった。
賛美が嬉しいと思ったことはない。ただただ、彼らの喜びが心地良い。そうして微笑みを返す私に、彼らはまた信頼の眼差しを注いでくれる。
一つだけ、心を淀ませることがあるのだが。
「そうそう、我らが偉大なる巫女様をお世話するに相応しい者、早急に探しておりますため、今しばらくお待ち願えますかな?」
きた、と顔を強張らせる。隣へ向かう悪意を逸らすように、ヨジに身を寄せた。
ほの暗い視線が絡めた腕を凝視する。
「……私にはヨジさんがいてくれますので」
「そのような」
曖昧に濁されたが、続く言葉は察せられた。ヨジを貶す汚い単語。ぎゅっと腕に込めた力を増すと、やれやれというように神官の首が振られる。
「くれぐれも、不埒な行いに走らぬよう、ヨジ殿」
「神に誓って」
飄々と返された声と、優しく引かれた腕に導かれて歩を進める。後ろから絡み付く視線に唇を噛んだ。絡み付くのは、私にではなく、隣を歩むヨジである。
「……ごめんなさい」
そっと縋る腕から力を抜いて、僅かに身体を離──そうとした。失敗に終わったのは、優男めいた見た目よりしっかりとした腕が、逃げる手を締めたからだ。
挟まった手を引くかどうか迷う間に、反対の手で元の位置に戻される。いや、いっそ、元より近いくらいだった。
困惑して見上げる私に、ヨジは行灯のような顔で笑った。
「何故ミルイ様が?あんなのただの嫉妬ですよ。男の嫉妬の見苦しいこと」
「でも、私が過剰にヨジさんに頼っているせいで、余計に」
「あなたに頼られるの、僕は嬉しいですよ。あのですね、何度も言いますけど、親の権力行使でミルイ様の侍従になってるんですから、あーんなイヤミは当然のことです。ミルイ様が気に病んでは、僕は悲しい」
「……でも」
視線を外して俯いた私の頭を撫でて、ヨジは叱るような声音で、どう考えても慰めにしか捉えられない言葉を掛ける。
「じゃあ、悪いと思うなら、最後まで僕にお仕事全うさせて下さいな。僕ってば中途半端にお仕事投げ出せないような真面目な少年なんですよう」
「あ、30近くでそれは図々しいです」
「ひどい!」
ぬるま湯に浸かるような優しさに包まれると、使命を忘れそうになる。
ほんの少しだけ揺れる自分が情けなくて、私は眦に滲んだ滴をこっそりと拭い落とした。
全5話か6話予定。
目指せ一日一話更新。野望を持つだけならタダです。