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月の戦士  作者: BUTAPENN
欠けた石垣
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欠けた石垣(4)

 セヴァンは部屋の隅で、今から行われることに何の興味もないような素知らぬ顔をして、猟犬を抱きかかえて座っていた。

 麻の服を腰ひもでしばり、肩までの砂色の髪は編んで垂らしている。犬の首をくすぐっている姿は、まるで人形遊びをしている少女のようだった。

 しかし、彼の後ろの壁には、たくさんの頭蓋骨が、おどろおどろしく並べて飾られており、ここが戦士の長の家であり、彼がその血筋であることを思い出させた。

「下の息子のセヴァンだ」

 正面に向き直ると、族長が言った。

「存じております」

「もう会ったのだな」

 「はい」と答えて、レノスは続けた。「今日は少々厄介な問題を持ってまいりました」

 セイグが通訳を務めるあいだ、ことばを切って唇を湿す。

「クレディン族の若者と、わが隊の兵士が先日、狩りの獲物のことでいさかいを起こしました。うちの兵士がひとり、矢を受けて大けがをいたしました」

「そのようだな」

 サフィラは、ため息をついた。

「わしは、ほうっておけと命じたのだ。争いを望んでいたわけではない」

「それを聞いて、安堵しました」

「そこにいる二番目の息子が姿を消した。それを探しに出かけた仲間たちが、森でシカを見かけた。放った矢が運悪く、おぬしたちのひとりに当たってしまったのだと聞いている」

 兵士たちから聞いていた話とは少し違うと思ったが、レノスは異を唱えずに、ただうなずいた。

「わたしの理解では、あの森は誰のものでもありません。狩りの女神の恵みのおこぼれに万人が与れぬほど、この島は卑小ではないはず」

「ローマの戦士長どの」

 サフィラの声は、冷たい鉄のようになった。

「あんたがたの軍隊は海を渡って大挙して押し寄せた。戦いのたびに、イナゴやバッタのようにこの島の村々を食い尽くし、何も残さなかったのだ」

 物憂げな低い声は、部屋の中に煙のようにわだかまって、消えた。

「わしと同じ世代の戦士たちは、ほんの数人を残して、ことごとく死に絶えた。わしらがあんたがたを忌み嫌い、恐れておらぬとでも思うのかね」

「それでも、族長どの。わたしは平和を欲して、ここへ来たのです」

 レノスは、まっすぐに族長に静かな視線を返した。ふたりはしばらく互いを見つめ合った。

「森でのことは、不幸な行き違いだった」

 族長の宣言は、祭司が唱える呪文のように、人を従わせる威厳を備えていた。

「クレディン族と、ローマ軍のあいだには、平和が保たれる。争いの種となったシカの代わりに、わが群れから羊を一匹持っていくがよい。和解のしるしとして受け取ってほしい」

「ありがとうぞんじます」

 レノスは、深々と頭を下げた。

 サフィラは、敷物からゆっくりと立ち上がった。骨ばった左の脚は、古い大きな傷痕が黒々とひきつれ、ふくらはぎの肉をそぎ落としていた。

「セヴァン」

 父は無表情に、息子を呼んだ。「彼らを羊の囲いに案内しなさい。おまえの羊を一匹渡すのだ」

 少年は、無言のまま立ち上がった。兄のアイダンが眉をひそめた。

「しかし、父上」

「よい」

 族長は、止めようとする嫡男を制した。「これは、やつの仕事だ。砦の町に火をつけた償いに、やつが自分の手で自分のものをローマに渡さねばならない」

 セヴァンが先だって出て行き、レノスたち一行も族長に一礼して、後に続いた。

 見送りに出た長子のアイダンは、レノスの隣に立った。

「あの子は一族の鼻つまみ者です」

 悲しみを押し殺すような声に、レノスは振り返った。

「気性が合う粗暴な連中を引き連れて、いつもどこかで面倒を起こしている。父もわたしも手を焼いている。砦の町に火をつけたのも、まったく与り知らぬことだったのです」

「心配するお気持ちは、わかる」

 砦の司令官は、やわらかく微笑んだ。「だが、たとえそうであっても、自分の血を分けた弟を『鼻つまみ者』と呼ぶのは、どうかと思うがね」

 顔をさっと赤くした若者を残して、レノスは、村を横切って進むセヴァンの後を追った。

 少年は裸足だった。ひょろりと長い脚をゆっくりと運ぶ様子は、痩せて小柄な上半身とうまく釣り合いが取れていないように見えた。

 その傍らを、彼の灰色の猟犬が、ひたと付き従っていた。

 レノスは、大股で彼らに追いつくと、「やあ、イスカ」と犬に呼びかけた。

 そして、言った。「やあ、イスカの飼い主くん」

 からかわれていることがわかり、セヴァンの顔に怒りが表われる様子は、無風の湖面に突然さざ波が立ったようだった。

「猫をかぶるのがうまいな、きみは」

 レノスは真正面を見たまま続けた。「でも、心が通じ合わない家族といっしょに暮らすのはつらいことだ。わたしにも経験がある。わたしも伯父の家で、いない者のように扱われていたのだよ」

 セヴァンは無言だった。わからないのだから、返事のしようがない。

「きみはどうして、あのとき、すぐに矢を射かけなかった?」

 言葉が通じていないことを楽しみながら、レノスは話し続けた。「すばやく射れば、確実にわたしを殺せたのに。それとも、そんな卑怯な真似は、戦士の誇りに反するか」

 村はずれの羊の囲いに着いた。猟犬に待つように命じて、少年は身軽に柵を乗り越え、中に入った。背をかがめ、羊の顔を見、腹に触り、耳のうしろを調べている。

 とうとう一匹の仔羊をすくい上げると、両腕を伸ばして、レノスに差し出した。

 健康そうな、良い羊だった。適当なのを選んでもよかったはずなのに、最上のものを差し出してきたとは。

 キッと白くなるほど唇を固く結んでいる。よほど悔しいのだろう。

「和解の羊は、確かに受け取った」

 おごそかな声色でレノスが述べ、羊を受け取った。セイグがその言葉をクレディン族の言葉に訳して聞かせた。

 セヴァンはぷいと顔をそむけると、柵を越えて、村に戻っていく。

「あいつが、町に火をつけた犯人なのでしょう」

 セイグは、彼の後ろ姿を見つめながら、忌々しげに吐き出した。

「そうだ」

「それなのに、なぜ司令官どのは、親しげに話しかけるのです」

「まるで、親しい友と並んでいるみたいに」

 三人の氏族出身の兵士たちは、うかがうようにレノスの顔をじっと見つめた。

 司令官は肩をすくめて、答えた。

「わたしは背後から襲撃されるよりも、真正面から矢を射かけられるほうがずっと好きなんだ。そうは思わんか?」



 族長の家に戻ると、酒宴の用意ができていた。

 サフィラとアイダンとレノスが、設けられた上の座に座り、三人の部下は暖炉の近くの席に案内された。

 族長一家の末息子にあたるルエルが入ってきて、レノスにラテン語でつっかえつっかえ挨拶して、出て行った。三人の息子の中で、ローマの言葉を学んでいないのは、セヴァンだけのようだ。そして、セヴァンの姿を家の中に見かけることはなかった。

 レノスは、セイグからクレディン族式の祝杯のことばを教えられていたので、それを唱えてから、一気に杯を干した。

 最初は酔わぬように用心深く受けていた酒杯も、数を重ねるにつれて、どうでもよくなってきた。実際のところ、部下たちが呆れるほど、レノスは酒豪だった。

 若い女が、炙った羊の肉や、シチューの入った鉢や、小麦のパンや木の実を次々と運んできた。

「メーブ」

 レノスの隣にいたアイダンが女に呼びかけ、酒の入った壺を持って来させた。

「あの人は、あなたの細君なのか?」

「細君? ああ、そうです。私の妻です」

「家族がいるというのは、いいことだ」

 レノスは、からかうように微笑んだ。「守るべきものがあると、人は強くなれる」

「跡継ぎができれば、もっといいのにと思うこともあります」

「神々の恵みというのは、足りないくらいがちょうど良いのだよ」

「父はそうは思わないのです」

 アイダンの横顔は、息苦しさに耐えるような表情を浮かべていた。彼が次の族長となるのは、決まったことなのだろう。もうすでに、彼は多くのものを背負っているのだ。

「あなたは、結婚しないのですか。司令官どの」

 反撃の視線に気づいて、アイダンは振り返った。

「わたしはまだ、初の任務に就いたばかりだ」

「ローマ軍では、将校になれば、家族を持つことが許されると聞きました」

「よく知っているな」

「ラテン語の教師が、そう話していました。結婚する相手はいなかったのですか」

「そんな『女性』は、いなかったな」

 あいまいに笑って、話を打ち切る。「通訳をお願いする――クレディン族の族長どの、ご相談があります」

 レノスは族長のほうに向きなおり、威儀を正した。

「丘の上から村の小麦畑を見せていただきました。たいそう立派な畑で、よく耕されている。休耕地もたくさんあり、いつでも種を植えられるように整えられている」

 サフィラは聞いていて、太い眉をひそめた。アイダンも訳しながら、真意をはかりかねているようだ。

「誤解しないでいただきたい。収穫して余った小麦をわたしたちに売ってほしいのです。もちろん、貢ぎとは別の話で、きちんと帝国の金貨を払って買い取りたい」

 レノスは、テーブルに身を乗り出した。

「われわれの砦には、小麦のパンが足りないのです。そしてあなたの村には、たくさんの小麦が取れる畑がある。悪い話ではありますまい。あなたがたも氏族だけで通じる通貨を持っておられるだろうが、ローマのデナリウス銀貨やセステルティウス銅貨は、そのまま全世界で通じるのです。あなたたちはそれで、海の向こうのものさえも、自由に買うことができる」

 三人の部下たちは、炉辺で「酔っぱらって何を言い出すんだ、司令官どのは」という顔をしている。

「わしらに、あなたたちと取引をせよと言うのか」

「有体に言えば、そうなります」

「われわれは、戦士だ。畑を作るのは女の仕事だし、自分たちの食べる分の小麦さえ取れればよいのだ」

「農作は、狩りと同じく、やりがいのある立派な仕事です。畑を耕し、家畜を飼うことは、戦士の誇りを傷つけることにはならない。そして、なによりも、金貨は槍や剣に負けぬ、強い武器となりうる」

 老いたサフィラは、手の中のナイフをもてあそびながら、しばらく黙りこんだ。

 やがて、沈んだ声で話し始めた。

「新任の司令官どの。あなたの知らないことを教えよう」

「なんでしょう」

「今から十年ほど前のことだ。ここから東に一日半行ったところに、カタラウニ族の村があった。われわれと同じ言葉を話す氏族だ。その近くにローマ軍の砦があり、その砦の司令官は、族長とよしみを結ぼうとしたのだ」

 レノスは、息が止まりそうになるのを堪え、言った。「それで?」

「カタラウニ族が帝国軍と協定を結んだと伝え聞いた近隣の氏族は、ある日突然、カタラウニ族を一斉に攻撃した。族長は砦の司令官に援軍を請うたが、司令官は自軍の中の氏族出身の兵士に殺されてしまった。のちにやって来たローマの援軍によって、東の地一帯の氏族の村は、ことごとく破壊され、カタラウニ族も、援軍を送ったわがクレディン族も例外ではなかった。氏族たちは内輪もめを起こしたばかりに、帝国軍の攻め入る絶好の口実を与えてしまったのだよ」

 レノスは、からからの喉に酒を流し込もうとしたが、杯を持つ手が震えた。

「ローマの金など欲しくはない。そんなものに頼らずとも、われわれは何百年も前から、ここで生活を続けてきたのだ」

「これからも氏族同士、相争っていくつもりですか?」

 レノスは、かすれた声で言った。「ローマ帝国は、あなたがたから見たら敵かもしれない。けれど、わたしたちの願うことは、この島に争いのない、文明の発達した王道楽土を建設することです。決して争いの種をまくために、ここへ来たのではないことをわかってほしい」

「わしらの望みは、これから先何百年も、このままの生活を続けていくことだ」

 クレディン族長は、これ以上の議論を拒否するように目を閉じた。

 天井近くに切られた細長い窓から、夕暮れの気配が漂ってくる。

「今日は、これで失礼します」

 レノスは疲れた様子で立ち上がり、丁重に辞した。「あなたとあなたの氏族の人々が平和で豊かな眠りに恵まれますように」

 するりと記憶の底から出てきた氏族の言葉を口にすると、セイグが驚いたような顔をした。

 垂れ幕を開けて、外へ出る。

「もう日が暮れる。お泊りになっていっては、どうですか」

 アイダンが氏族の儀礼にしたがって、去ろうとする客人を引き留めた。

「いや、迷惑はかけたくない。今夜は監視塔で一夜を明かすつもりだ」

 族長の息子は、しばらく思案してから、言った。「さきほどの話ですが、わたしから父を説得してみます」

「本当か」

「父が言ったように、これからも、わたしたちはこの島で氏族の古い生活を続けていくべきなのか。それとも、ローマ帝国の造った道と都市とを受け入れて、豊かになる道を選ぶべきなのか。考えるべきときに来ているのだと思います」

 アイダンは、丘のこちらから向こうへと渡り鳥が横切って行くのを、じっと見つめた。

「ローマ人は、氏族たちを決して人間としては扱わないと思っていました。彼らといると、たいていは冷たい目で見られる。正直、彼らのことをずっと憎んでいました。でも」

 彼は固い頬を少し、ゆるめた。

「今日会った司令官はそうではないのかもしれない。わたしは、それを確かめたいのです」

「ありがとう」

 レノスは、腹の底からせりあがってくる熱い思いを押し込めながら、右腕をぐっと差し出した。

 アイダンはためらってから、その手に自分の手を合わせた。彼らは二本の腕を、力強くからませた。

「来月、砦で閲兵式を催すことになっている」

 腕を離したとき、レノスは友だちを飲みに誘うような調子で言った。「あなたたちを招待したいのだが、受けてもらえるか」

「父は、あの足なので、村から出ることはありません」

「では、アイダン、あなたとセヴァンのふたりだけだ。末の弟さんはまだ小さすぎるから」

「セヴァンも?」

 彼は、驚きに目を見開いた。

「そう」

 レノスは、きっぱり言うと、ハルニレの木の下に猟犬とふたりで座っている少年を見やった。「彼にも来てほしい」

 セヴァンは顔を上げると、赤いカケスのかぶとを脱いだ黒髪の将校をじっと見つめた。兄とふたりで親しげに話している姿が信じられないという目で。



 レノスはこのとき、閲兵式に彼を誘うのではなかったと、長く後悔することになる。

 そうすれば、双方の道は交わらぬまま、それぞれの人生を歩んだかもしれなかった。

 決して、互いの身を食い尽くすような、激しい憎しみと愛情を抱くことにはならなかったのだ。



 



     第二章 終


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