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月の戦士  作者: BUTAPENN
欠けた石垣
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欠けた石垣(1)


「どうやって入ったのだ?」

 レノスは、さっきから首をかしげている。

 北の砦の城下町を取り囲む土塁には、一ヶ所崩れたところがあり、あの夜、賊はここを馬で乗り越えて外へ逃げた。火をつけた一味が前もって崩していたのだろう。あるいは、もともと崩れやすくなっていたのかもしれない。

 けれど、その逃走経路を使うのは、あくまで逃げるときの話だ。馬が土塁を飛び越えて町の中に侵入したりすれば、すぐに人目につく。砦の塁壁からは、歩哨もずっと見張っていたのだ。

 では、どこから町の中に入ったのか。

 馬を町の中に入れるには、普通は門を通らねばならない。見慣れぬ者が通れば、門衛がきちんと調べるはずだ。まさか馬を折りたたんで、ふところに隠すわけにいくまい。

 町の住民の中に協力者でもいるのか――ことによると軍の中に。

 そこまで考えて、かぶりを振った司令官は、土塁の検証をあきらめて歩き始めた。三日経っても、つんと鼻をつくような焦げた匂いが、風に乗ってここまで漂っていた。

 火事のあった一角に近づくにつれて、威勢のいい槌音が心地よく響いてくる。

 昨日のうちに焼けた家々の後かたづけが終わり、砦の兵士による再建が始まったのだ。レノスは、きびきびと働く兵士たちを誇らしい思いで眺めた。

 ローマ軍は、建築の専門家集団でもあった。彼らは何もない場所に、あっというまに石を積み、やぐらを組み、兵舎を建てて、砦を築いてしまう。彼らが進軍した土地には、必ずりっぱな道路ができ、橋が架かり、いくつもの建築物が現れた。

 そんな兵士たちにとって、半焼した家々の柱を補強し、ヒースの屋根を葺くことなどは、朝飯前の仕事だった。

 だが、それにしても。

「もう、子どものいたずらと言っている場合ではないな」

 幸いにして、今度の火事で死んだ者はいない。

 これで、もし死人でも出たら、クレディン族との関係はいっそう険悪になるところだった。最悪の場合、戦争ということもありうるのだ。

 いくら毎日、武術訓練に励んでいても、レノスは北の砦の兵士たちを戦わせたいとは全く思っていない。戦いを未然に防ぐこと、この辺境の地を戦わずして平和に治めることが、彼らの第一の任務だからだ。

 兵士たちは、剣の代わりに、槌や鋸を持っているほうが、よほどいい。

 レノスは、工事の監督をしていた土木技術専門の将校を、手招きで呼んだ。

「カイウス」

「はい」

 ローマ人の土木将校は風で髪がなびかぬよう手で押さえながら、走ってきた。三十そこそこだというのに、頭頂が薄く、そのことをとても気にしているのだ。

「はかどっているようだな」

「はい。今日じゅうに、なんとか目途をつけます」

「それが終わったら、もうひとつやってもらいたいことがある」

 町を取り囲む土塁を差した指を、ぐるっと水平に動かした。部下は目を見張った。

「土塁全部を、ですか」

「今あるものを補強し、そのうえに防壁用の槍を埋め込む。できるか」

「できますが、材料がそろうでしょうか。全部となると、百や二百の槍ではききません」

「三百でなんとかしろ。槍と槍のあいだは柴垣を編んで高くする。要するに、人や馬が乗り越えられないようにすればよい」

「本部には?」

「わたしから申請書を書く」

「やつらが、資材を気前よくくれるとは、とうてい思えません」

 カイウスは、新任の上官を悲しげに見た。「宿舎用の窓ガラスだって、去年からずっと催促してるんです」

「直接、本部にねじこんででも、なんとかする。中途半端な抵抗は、かえって自分たちの首を絞めるだけだと、クレディン族にわからせなければならんのだ」

 レノスは決意をこめて、真っ黒に煤けた路地をにらんだ。「それもできるだけ早く」

「わかりました」

「たのむ」

 土木将校が離れていったあと、砦への道を登った。

 まず、厩舎に向かう。ゆうべ遅く、待望の仔馬が無事に生まれたという知らせが届いたのだ。悪いことがあれば、よいこともある。人生の帳尻は、いつもどこかで合うようにできているのだ。

 歩きながら思いは、あの夜の光景に戻っていく。

 オオカミの毛皮のマントを羽織り、顔におどろおどろしい戦化粧をした少年。

 レノスが追ってくるのを見ても、まったく慌てていなかった。まるで託宣のために地上に降りてきた神々のひとりのように、月の光を浴びながら、丘の上から傲岸に見下ろしていた。

 それを見たとき、恐怖を超えた何かわけのわかない感情に支配されて、一瞬動けなかった。完璧に気圧されていた。

 悔しさに、唇をかむ。あれは誰だったというのだ。

 何よりも不思議なのは。

「やつらは、なぜ満月の夜ばかり狙う?」

 夜襲する側は、月の明るい夜は敬遠するものだ。現に、平原を馬で逃走する犯人の姿を、遠くから見つけることができた。とは言え、まったく追いつくことができずに、あっけなく取り逃がしてしまったのだが。

 捕まえられるものなら捕まえてみろという、帝国軍へのあからさまな挑戦なのだろうか。

「オオカミだからですよ」

 ひとりごとのつもりだったが、答えが返ってきた。

 騎馬隊の若い兵士のひとり、セイグが乗馬用の長靴を踏みしめ、近づいてきて司令官に敬礼した。

「クレディン族には、自分たちの先祖がハイイロオオカミだという伝説があります。満月の夜に、部族の男はもっとも強く、すばしこくなるという迷信を信じているのです」

 白い顔にそばかすを散らした若者は、そう言って恥ずかしそうに目を伏せた。「子どものころ、母がよく話してくれました」

「セイグ。おまえは」

 つい数日前は、母方の部族のことは何も知らないと突っぱねていたのに。

 レノスは彼の前に立ち、肩に手を置いた。

「話してくれて、ありがとう」

「赦せません、こんなこと」

 混血の若者はうつむきながら、吐き出すように言った。「火をつけるなんて。苦労して建て上げたものを火は一瞬で壊してしまう」

「わかっている。このような暴挙は止めなければならない」

 司令官は、手に力をこめた。「それがわたしたち、第七辺境部隊の仕事だ」

「はい」

「仔馬を見せてくれないか」

 レノスは部下とともに厩舎に入り、中の様子を遠くからそっとながめた。

 暗がりの隅に立つ母馬のそばでうごめいていた仔馬は、四肢をふんばって立ち上がり、首を伸ばして母馬の乳を飲み始めた。

 レノスは、感嘆のうめきを漏らした。

 懸命に生きようとする弱く小さな命を見ると、いつも喉の奥が大きな球でふさがれるような心地がする。

 自分の中に、母性などというものがあるとは考えたくはなかった。母性ではない。レノス・クレリウス・マルキスは軍人として、そういう命を守るのが自らの使命であることを誓ったのだ。

「かわいいでしょう」

 柵をくぐって、髪に麦わらをまぶしたペイグとタイグが出てきた。騎馬隊に属する三人組がせいぞろいした。

「名前はつけたのか」

「まだです。この土地では、祭司に名づけのおうかがいを立てないと、犬の名前だって勝手につけたらいけないんです」

「そうなのか」

「ええ、名前には、そのものの魂が宿りますから。勝手につけると、そいつの運命を狂わせて、めちゃめちゃにしてしまう」

 レノスは、苦いものを飲み込んだときのような奇妙な顔をした。

「それでは、さぞ苦しかっただろう。入隊して、あだ名で呼ばれると決まったとき」

「いいえ」

 三人は一瞬互いの顔を見合わせてから、暖炉のような笑みを見せた。ペイグが言った。

「苦しくはありませんでした。別の名をつけられたとき、それまでの自分は死んだのですから。死人は苦痛など感じません」



 気がついたら、空が見えていた。殴られて地面にあおむけに倒れたのだと、すぐに思い出した。

 じわりと口の中に鉄サビの匂いがする。セヴァンは顎を押さえ、兄から顔をそむけるようにして、ゆっくり起き上がった。

「なんてことをしてくれた。あれほど言ったのに!」

 荒い息まじりに、兄のアイダンの激昂した声が聞こえる。

 わかっている。

 これは兄の本意ではない。内心は、よくやったと思っているのだ。後で納屋の裏に回ったとき、『困ったやつだ』と苦笑まじりに背中を叩くはずだ。

 だが今は、氏族の戦士たちが見ている前で怒ったふりをしなければならない。兄は次の族長で、弟は一介の戦士だ。上下の秩序は厳密に守られねばならないのだ。

「家畜どろぼうなら、まだゆるせた」

 アイダンは、なじるような調子で続けた。「だが、砦の町に火をつけるなど、やりすぎだ。俺たちを島じゅうの憎まれ者にする気か」

「帝国軍にしっぽを振っているヤツらに憎まれても、どうってことない」

「口答えをするな!」

 もう一発なぐられる。ああ、うまい演技だ。これで、アイダンは夜襲に反対だったことを、みんなに示すことができる。

 兄は責任ある立場なのだから、決して思慮のない行動はしてはならない。獲物に噛みつくのは猟師ではなく、猟犬の役目だ。猟師は、獲物を肩にかついで持って帰ればいいのだ。

 セヴァンは、口をぬぐうふりをしながら笑った。

 いい気分だった。



 季節は移り、ブリテン島はもっとも美しい姿を見せ始めた。

 トネリコの大木は、枝先がたわむほど真っ白な花をつけ、ハリエニシダの花は強い香りを振りまきながら、草原を黄色に染めている。

 レノスは、事務室の窓枠に腰をかけ、青く澄みわたる夏空を見上げた。

 天候がうつろいやすい北の地で、これほど空模様が安定しているのは珍しい。

 砦にも、平穏無事な日々が流れている。仔馬はすくすく育っているし、兵士たちは武術訓練に励んでいる。

 あれから、クレディン族はなりをひそめたままだ。もちろん、警戒を解くつもりはない。満月の夜の警備も、倍に増やして怠りなく行われている。

 本部の兵站部から送られてきた資材は要求の半分にしか満たなかったものの、カイウスの努力で、土塁の防壁は満足のいく出来栄えになった。

 すべては順調と言ってよいのだろう。

「……どの。司令官どの」

 遠慮がちな会計係の声が、ようやくレノスの耳に届いた。

「どうした。ネポス」

 黒髪のひょろりとした男は、蝋板に目を落とし、神経質に鉄筆をいじくりながら言った。「実は、ルスクスが怒り狂ってます」

 彼は、補給係の将校の名前を挙げた。

「きのう、本部から配給された小麦の質がひどかったのです。それも年々悪くなる一方で」

「この砦のパンは、お世辞にもおいしいとは言えないからなあ」

 レノスは顔をしかめながら、こしのある黒髪を、わしゃわしゃとかきむしった。

「辺境の男は、小麦のパンが食べられること目当てに入隊してくる者もあるほどでして」

「確かに、パンの質が落ちれば、軍全体の士気にかかわるな」

 会計係と司令官は、調子を合わせたようにため息をついた。

「わかった。なんとか対策を考えよう」

 ばたんと扉が開き、フラーメンが入ってきた。

「司令官どの。おりいってご相談があります」

 彼は、しゃちこばって敬礼した。「今夜、ラールスとわたしと三人で、町の巡視をお願いしたいのであります」

「なにかあったのか」

 レノスは、ぎょっとして腰をうかしかけた。

「いえ、そういうわけではなく」

 金髪の百人隊長は、笑いをかみ殺したような顔で天井を向いていた。「今、訳は申せませんが、行けばわかります。とりあえず一大事なんです」

 その夜、ふたりの百人隊長とともに町に急いだレノスは、一軒の家の前に立ち、あぜんとした。

「これのどこが一大事なのだ」

「男子の一大事でしょう!」

 彼らが入ろうとしていたのは、どう見ても、妓楼だったからである。




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