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月の戦士  作者: BUTAPENN
芽吹く春
54/62

芽吹く春(3)



 セヴァンは家に戻ると、まず最初にレノスを椅子に座らせ、その前にうずくまることが日課となった。

「何も聞こえない。本当にいるのか」

「お腹の中の赤ん坊は、泣いたりしゃべったりはしないのだ」

 腹に耳を押し当てられるくすぐったさに耐えながら、レノスは答えた。「もう少しすれば、足で腹を蹴るようになるらしい。コリンがそう教えてくれた」

「コリンが?」

 上目づかいで見上げるセヴァンが、猟犬のドライグの仕草にそっくりで、レノスは思わず声をあげて笑った。

「おまえは、まるで犬のようだな、とても一国の王には見えない」

「あなたの前で、王らしくふるまえる男などいない。コリンとはうまくやっているのか」

「あの人はこのごろ顔を合わせるたびに、馬に乗るな、柵の上から飛び降りるなと、お小言ばかりだ」

 レノスは楽しげに答える。「しかし、そのお小言がわたしには天上の音楽のように心地良いのだ」

「そうか」

 セヴァンは安堵の息を漏らして、ふたたび暖かな妻のふところに頭をもたせかけた。

「いつになれば、ここから出てくる」

「草花が芽吹くころらしい」

「春か。その頃には、クレディン族とダエニ族の兵士たちが北の砦に配属されてくる。ブリアンも町に店開きする」

「正式に決まったのだな」

 ブリアンは、クレディン族の戦士長クーランの弟で、兄とは対照的に物静かで、考え深い男だ。

 北の砦の町に取引所を開設して、氏族とローマの交易の中心とする。その大切な場所の責任者にセヴァンが任命したのがブリアンだった。

 承諾までには、時間をかけた辛抱強い説得が必要だった。いまだにローマと友好関係をむすぶことを良く思わないクーランの派閥の一角を崩すことに、ついに成功したのだ。

 春の雪解けのころ、彼の家族や、供の者十数人が北の砦の町に出発することになっている。

 その代わりとして、ローマからもクレディン族の村に移住者が来る。もし、ローマとの関係が悪化すれば、たちまち互いの命が盾にされるだろう。いわば、人質の交換だ。

「だが、互いのいわれない偏見や誤解を解くために最も必要なのは、人と人との交流だ。時間をかければ、俺たちはきっと仲良くなれる」

「ローマは今まで、武力を使って周辺の民族を属州化することで、平和を保ってきた。もうそんな古いやり方は捨てねばならん。支配と隷属ではない、国と国との対等な契約によって、平和を結ぶのだ」

 冬の長い夜、ふたりはしばしば語り明かした。

「最初は炉端の夢物語でしかなかったのに」

 レノスは、夫の柔らかな髪の毛を幾度も撫でた。「待ち望んでいたローマと氏族の平和が、もうすぐ実現するのだな」

「馬車に乗れるようになったら、三人で北の砦を見に行こう」

 『三人で』――セヴァンの言葉に、レノスは鼻の奥がつんと痛くなるのを感じた。

「そうだな。この子にもあの砦の町を見せてやりたい……いつかは、ハドリアヌスの長城も、ロンディニウムの総督府も」

「船には乗らないからな。俺の子なら、きっと船は苦手だ」

 次の瞬間、セヴァンは「あ」と叫んだ。「お腹の子が動いている」

「……わたしが笑っているだけだ」



「セヴァンに、子が生まれるだと?」

 厳重に口止めしていたはずなのに、父はどこからか聞きつけてきたらしい。メーブは鍋のシチューを意味なくかき回しながら、しかたなく「ええ」と応じた。

 母はいつものとおり、糸車を回しながら沈黙を通している。

「あのローマの雌狐め……氏族のものを奪うことだけは、人一倍すばやい」

 口汚く罵り続けるクーランを、女たちはなんとかやり過ごす術を心得ていた。だが、家畜の世話を終えた息子のアイダンが、折悪しく家に入ってきて、炉端をはさんで祖父の真向かいに座った。

「もうすぐルエルが迎えに来るんでしょう。早くお食べ」

 そそくさと、シチューをよそった木の碗を渡す。

「どこへ行くのだ」

「湖の氷を剥がして、魚を獲るやり方を教わるんです。お祖父さん」

 若者ははきはきと、不機嫌な祖父に答えた。

「ああ。アイダンが生きておれば、おまえが次の族長になるはずだったのに」

 クーロンはしゃがれ声でうめいた。「クレディン族ももう終わりだ。族長の血筋に、いまわしいローマの血が入り込むのだぞ」

「お父さん、やめて」

 メーブは静かにたしなめた。「息子の前で、そんな汚い言葉を使わないで」

「ブリアンもブリアンだ。たやすくセヴァンに取り込まれおって。あいつの意気地なしは子どもの頃から治っておらんのだ」

 そのとき、入り口の垂れ幕が上がった。

「アイダン。用意はできてるか」

 入ってきたルエルは、部屋の不穏な雰囲気に気づいて、すぐに口をつぐんだ。

「すぐ行きます、ルエルさん」

「いや、急がなくていい。寒いから、たくさん腹につめこんでおいで」

 ルエルは、老戦士長にていねいに一礼すると、きびすを返した。「僕は厩に行って、馬を取ってくる。門のところで落ち合おう」

「待って」

 メーブは、スイバの葉に包んでおいたチーズとパンを、革の袋に入れ、ルエルの後を追いかけて外に出た。

「はい、昼に食べるお弁当。あなたの分もあるわ」

「いつも、すまない」

 ルエルは弱々しい笑みを見せて袋を受け取り、厩舎へと道を降りていく。メーブはためらっていたが、その背中を追って、歩き始めた。

「父のいつもの病気よ、気にしないで」

「もちろんだ。戦士長どのの悔しさは、僕にだってわかる」

「ああいう愚痴を、毎日聞かされる息子が心配よ。少しずつ心に毒をそそがれているようなもの」

 不意に襲ってきた不安に、足が止まる。「本来なら自分が族長になれたはずだと思い込んで、セヴァンに恨みをいだくようになったらどうしよう」

 ルエルは振り返り、立ちすくんでいる兄嫁を見つめた。

「すまない」

「なぜ、あなたがあやまるの?」

「あなたがセヴァン兄さんと結婚すれば、すべては丸く収まったのにな。僕が、兄さんをそそのかしたんだ」

「ちょっと。何それ」

 メーブは、声を荒げた。「セヴァンとの結婚話は断るつもりだったと、何度も言ったわよ」

「それが強がりであることくらい、あなたを見ていればわかる」

「ふふ、笑っちゃうわね」

 メーブは髪をかきあげ、嘲るように鼻をならした。「あなただって、見ていればバレバレよ。レウナが好きでたまらないのに、セヴァンと結ばれるように仕向けたくせに。気持ちを断ちきれないまま、遠くから眺めているだけだなんて。うじうじして、本当にあなたらしいわ」

 ルエルの穏やかだったハシバミ色の瞳が、にわかに怒りを帯びた。

「今のことばは取り消せ」

「ふうん、やはり図星だったの?」

「あなたに、僕の何がわかる!」

「小さい頃から、何でも知ってるわよ。あなたのことなら何でも」

 ルエルは、メーブの腕をすばやくつかむと、羽交い絞めにした。

「ちょっと、何」

「……何も知らないくせに、僕を馬鹿にするな!」

 若者は、逃がれようとするメーブの唇を、巧みに捕えてふさいだ。両手はまるで檻から放たれた獣のように、狂おしく、彼女の腰をまさぐった。

「ルエル……やめて……いったい何のつもり」

 道端の藪が、ぱきぱきと荒々しい音を立てて踏みしだかれ、ふたりはその上に倒れこんだ。

 厩舎から出てきた厩番のユッラは、思わず持っていた水桶を地面に落とした。



 雪を含んだ重い雲が北から押し寄せ、村々が冬の檻に閉じ込められる兆しを示す頃、リュクスとユニア夫妻が到着した。

「とりあえず、俺たちだけ先に来たんだ」

 残りの十数人の移住者は、春を待って彼らに続く予定だという。

「一日でも早く、身重のあんたの役に立ちたかった。なんつうか、以前会ったときより、いろんなところが丸くなってるな」

 レノスのお腹から頭のてっぺんまで、元剣闘士はじろじろと遠慮のない視線を浴びせた。

「いやあ、あんたがこれほどの別嬪だとは、今まで気づかなかったよ」

「新妻の前でほかの女を口説くのは、たいがいにしたほうがいいぞ」

「この人は、教会でもこの調子なんですよ」

 ユニアは、冷めた口ぶりでこぼしながら、鍋や家財道具をせっせと馬車から降ろしている。

「あんただけは絶対に口説くつもりはないって。セヴァンに殺される」

 昔なじみとの久しぶりの陽気な会話に、レノスも心が暖かくほぐれていくのを感じる。

「このあんたの姿を見たら、さすがのあいつも、嫌でもあきらめがつくだろうよ」

「あいつ?」

「村の門の外にいる。悪いが、声をかけてやってくれないか」

 馬のかたわらに立ち、空を見上げていたのは、第七辺境部隊の筆頭百人隊長だった。

「ラールス!」

 レノスは驚きの声を挙げて、門の外へ飛び出した。「……元気か」

 答えは、聞かなくてもわかっていた。振り向いた顔は青白く、目の下には真っ黒な隈があったからだ。

「どうしたのだ……そのやつれようは」

「なんでもありません。ゆうべ、少し飲み過ぎただけです」

 彼のうつろな視線は次第に下っていき、レノスの腹に釘づけられた。

「子を授かった。春には生まれる」

「おめでとう……ございます」

 口の中でもごもごと祝辞を述べると、ラールスは溺れる者がそうするように、ぎゅっと馬の手綱をつかんだ。

「馬車の荷卸しも終わったようです。ただちに砦に戻ります」

「そんなに急がなくとも、中に入って、何か食べていかないか」

「俺はローマ軍人です。氏族のもてなしは受けません」

 苦しそうに白い息を吐いていた口元を無理やり結ぶと、ラールスは馬にまたがった。

「そうか……そうだったな。気をつけて行け」

 かつては生死をともにした自分の部下だったのに、今は他人よりもなお遠い。

「砦のみんなによろしく伝えてくれ」

 ラールスはひとことも答えずに、背中を向ける。

 白い雪にまだらに覆われた丘を登って行く赤い兜飾りが、馬上でひょこひょこと頼りなげに揺れている。

(……どうか、元気でいてくれ、ラールス)

 彼の姿が丘の向こうに消えてしまうまで、レノスはただ見送ることしかできなかった。



「レウナさん、そんなこと私がします!」

 ユニアは、レノスの手から水の桶をひったくった。

 村に越してきてからの二ヶ月、彼女は、腹が大きくせり出し始めたレノスの世話を何くれとなく焼いていた。

「これくらい、村の女たちは自分でやっている」

「だめですよ。こんな重いものを運んで、早産になったらどうするんですか。家の中で座って暖かくしていてください」

 ユニアはさっさと水桶を小脇に、水汲み場へ走っていく。

「ありがたいのだけどなあ」

 レノスは嘆息し、家の前の日当たりの良い場所に置いた椅子に腰掛けた。軒先では、氷柱の先からぽたぽたと水滴が滴り落ちている。春はまだ遠いが、ゆっくりと確実に近づいていることを肌で感じる。

 ユニアが水を汲みながら、透き通った声で歌うのが聞こえてきた。


『もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。

もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。』


 リュクスが鉄の鎚を手に、ぶらぶらとやってきた。

「フリスランの連中といっしょに、村じゅうの家の屋根の穴を全部ふさいどいたぜ」

「ありがとう。リュクス」

 最初のころ、リュクスとフリスラン人の捕虜たちのあいだには一悶着があった。族長の家に自由に出入りして、いきなり馴れ馴れしくレノスに話しかける元剣闘士に対して、メルヴィスなどは、犬が毛を逆立てるように敵意をむきだしにしたものだ。

 すったもんだの挙句、今ではすっかり打ち解けて、仲良くやっている。

「ユニアの歌っている歌は、なんという意味だ」

「ああ、教会で歌ってる、クリストゥスさまへの賛美歌さ」

「美しい歌だな。心が洗われるようだ」

「春に来る移住者の中に、信者が何人かいる。ここでも、家の教会を開きたいとセヴァンに願い出るつもりだ」

 リュクスは、鎚でぽんぽんと肩を叩いた。「結局、北の砦の町でも、俺たちは住民たちと、あまりうまく行っていなかった。皇帝礼拝もユピテル祭も拒否する偏屈な無信仰者だからな。ひっそり人目を忍ぶようにして集まってる。きっと、どこへ行っても同じだろうな」

「そうか」

「けど」

 リュクスはにんまりと笑った。「逆に言えば、俺たちはどこへ行ってもやってけるってことだ。あんたやセヴァンのそばで暮らせるようになって、こんなにうれしいことはないよ」

「わたしもだ。リュクス。頼りにしている」

 巨漢は照れくさそうに鼻をこすると、妻が水を運ぶのを手伝いに走って行った。

「まったく、やかましい男だ」

 入れ替わるように近づいてきたのは、セヴァンの乳母コリンだった。

「氏族の女は、産む直前まで自分の手で水を運び、家を掃除し、パンを焼くものだ。ローマの女は自分を甘やかしすぎる。だからお産のときに、ひいひいと泣きわめくのだ」

「わかっているよ。コリン」

 レノスは含み笑いながら、答えた。「わたしは氏族の女。自分を甘やかすつもりはない」

「それならばよい」

「何度も戦争に行った。ひどい怪我もした。けれど、お産は初めてだ。戦いよりもっと恐い」

「よく動くこと。よく食べて、身体を温めることだ」

 コリンは毛織りの腰巻きを差し出した。レノスが受け取った腰巻は、これでもう三枚目だ。

 ふたりの女は長椅子に並んで座り、乏しい冬の日差しを静かに浴びた。

「わたしの子どもは、生まれて三ヶ月目に流行り病にかかって死んだ」

 コリンが低い声で話し始めた。「しばらくは毎晩、川に下っていって、溢れ出る乳をしぼっては泣いたよ。そのときに、族長の家にセヴァンさまが生まれた。サフィラ族長ご夫妻は、私がうちひしがれているのを見て、乳母にと望んでくださった」

 コリンは眉間の皺をいっそう深くした。「私が今まで生きてこられたのは、セヴァンさまのおかげなのだよ」

 レノスは相槌の代わりに、コリンの膝に片手を伸ばした。

「ありがとう、コリン」

 硬くふしくれだった指に、そっと自分の指を重ねる。「セヴァンをここまで育ててくれて、ありがとう」



 雪が溶け、川の水が岩に砕けて宝石のようにキラキラと煌く季節になった。春の到来を待ちかねて、ピクト人がふたたび南に侵入して来たという報が入ったのだ。

 セヴァンは近隣の村からも戦士を募り、敵をアントニヌスの長城の廃墟のあたりで迎え撃つ手はずを整えた。

「大きい戦いになるのか」

「だろうな。冬を越したばかりで、奴らも飢えている」

 レノスの助けを借りて、軍装に身を包みながら、セヴァンは答えた。「故郷では妻子が待っている。手ぶらでは帰れないと、必死になって襲いかかってくるだろう」

 レノスは、手にあった彼のオオカミ革のマントをぎゅっと握りしめた。黙り込んだ妻に気づいて、彼は笑った。

「大丈夫だ。そのために精鋭ばかりを揃えたのだ。必ず勝って戻る」

「ルエルも行くと聞いた」

「心配するな。あいつはそれほど弱くない」

 彼は、レノスの額に口づけた。「それよりも、俺が戻ってくるまで腹の中でおとなしく待っているように、赤子に言い聞かせてくれ」

「わかった。やってみよう」

 夫は笑顔を消すと、ウォードの汁に手を浸し、戦化粧に没頭し始めた。目の前に迫る戦いに気持ちを集中している。

(今度の戦いは、いつもとどこか違う。厳しいものなのだ)

 戦士たちの隊列が村の門をくぐって出て行く。大勢の群衆の中に混じって立ちながら、レノスはふと不安を覚えた。

(もし、このままセヴァンが帰ってこなかったら?)

 臓腑を搾られるような恐怖が、全身に広がる。(ピクト人の剣に突き刺され、血まみれの死体となって戻ってきたら? この子が陽の光を見るときには、もうすでに父親は息絶えてしまったとしたら?)

 一度も想像したことのない悪夢が、奔流のように襲いかかってきた。

(彼がいなければ、わたしは息をすることさえできない。鼓動すら一瞬で止まるだろう)

 腹の子も自分も、セヴァンなしには暮らしてはいけないのだとあらためて思い知る。次から次へと湧いてくる不毛な空想を頭からふりはらうと、レノスは目を大きく見開いた。

 見送りを終え、散っていく群集の中に、メーブの横顔が見えた。彼女がレノスと同様に、大きな不安を抱きながら戦列を見ていたことがわかる。

「メーブ」

 呼びかけると、彼女はあわててその場を小走りに去ろうとした。

「待ってくれ」

 思うように走れない身体がもどかしい。メーブがこのごろ自分を避けていることを、レノスはうすうす感づいていた。

 ようやく、洗い場のそばで追いついた。

「ルエルのことが心配なのだろう?」

 この時間、女たちは誰も洗濯をしていなかった。じっくりと、ふたりきりで話すことができる。

「ルエルは大丈夫だ。セヴァンがついている。必ず無事に戻ってくる」

 メーブは立ち止まり、うざったげにレノスを睨みつけた。

「なぜ、そんなことを私に言うの?」

「あなたとルエルが一緒にいたと、ユッラが教えてくれたのだ」

 レノスはさりげない声で言った。「ふたりが良い仲であることを、わたしはとっくに気づいていたよ。ルエルはあなたを心から信頼していたし、あなたも彼の頼みなら何でも聞いていたからな」

 彼女は顔を伏せると、くすくす笑い始めた。

「あなたって、おめでたい人」

「え?」

「馬鹿じゃない? 私は、ただの身代わりよ。ルエルは誰かさんの代わりに、私の体を求めたの」

「そんな……そんなはずはない」

 レノスは、首を横に振った。「どう見ても、ルエルはあなたのことを……」

「だから、おめでたいと言ったのよ。あなたは、自分の都合の良いように現実をねじまげているだけ」

「あなたはどうなのだ、ルエルを好いていないのか」

「私?」

 メーブは顔を上げ、美しい唇を引きつらせた。

「私は、いい歳をした年増よ。自分の気持ちなど、どうにでもなるの。自分が裕福に暮らせて、息子の将来が開けるのならば、相手は誰でもいいの」

「……」

「でも、ルエルは違う。あの人は、自分の気持ちをひた隠して、好きな相手が幸せになれるように願うことができる人なの」

「……それは、どういう意味だ」

「まだわからないの!」

 メーブがレノスの髪につかみかかった拍子に、その目の縁から大粒の涙がしたたり落ちた。

「この、疫病神のローマ女! あなたなんか……死ねばいい!」

 メーブに引き倒されまいと抵抗して体をねじったとき、レノスの下腹部に激痛が走った。

「ああっ!」

 レノスが力を失い、地面に崩れ落ちるのを見て、メーブは息を飲んだ。

「な、なんなの?」

「く、……子どもが……」

「下手な演技で脅かそうというの、冗談じゃない!」

 ヒステリックな叫びを残して、メーブは走り去った。

 残されたレノスは、地面の上にうずくまりながら、片腕を宙に伸ばした。

「セヴァン」

 まるで、戦場に赴いた夫に、そのか細い声が届くかのように。

「セヴァン、早く帰ってきてくれ……どうか、どうか……早く」



 ピクト人との戦いが終わったのは、それから五日後だった。

 勝利はしたが、激しく、きびしい戦いだった。百人あまりの氏族連合軍は、大勢の負傷者をいたわりながら、帰路に着いた。猟犬たちも尻尾を股ぐらにはさんで、馬のあいだをとぼとぼ歩き、荷台に遺骸を乗せた馬車が最後尾に続くという、遅々とした行軍だった。

 セヴァンは戦いの始まる前、廃墟の頂きに立って、ピクトの言葉で降伏を呼びかけた。われわれは、戦いは望まない。降伏すれば、殺しはしない。夏のあいだ耕作地を貸し与え、秋には収穫した穀物とともに解放してやる、と。

 それが、氏族連合の王となってからの、セヴァンのいつものやり方だった。

 ピクト人からは、返答の代わりに矢が飛んできた。戦闘の火ぶたは切って落とされ、血で血を洗う戦いは1時間ほどで勝敗を決した。ピクト人の死骸の山が築かれたとき、セヴァンの呼びかけを思い出した十数人が武器を投げ捨てて、地面にひれ伏した。

 セヴァンは彼らを約束どおりに扱い、捕虜たちは紐につながれて、王のすぐ前を行進することになった。

 あとわずかで、氏族の領内に戻るというとき、セヴァンのすぐ隣を進んでいたドライグが突然、吠え始めた。ルエルが、馬上で伸び上がるようにして遠くを指差した。

「兄さん」

 その指先にまとわりつく薄闇の向こうに、何かが動いていた。

 黒々とした森の一部が溶け出したかのような、ドルイド僧の一群。

「カシの木の聖者たちだ」

「こんなところまで、われわれを迎えに出てくださったのか」

 戦士たちは馬を止め、あわてて地面に降り立ち、膝をついた。

 黒い影は、薄闇の中を静かに近づいてきた。

「異邦の民は、この地に災いをもたらす。捕虜どもをカシの森へ連れ来るのだ。神々への勝利の生贄となし、地の穢れを浄化しようぞ」

 戦士たちは、ただこうべを垂れた。カシの聖者の命令を拒否するという選択肢は頭にない。ケルト人にとって、ドルイド僧の神託は絶対なのだ。

 王の返答がないのをいぶかって、何人かが振り返り、驚愕した。彼らの王は、馬から降りることもなく、僧侶たちを冷ややかに睥睨していたからだ。

「……セヴァン!」

 戦士長のクーランが、唾を飛ばしてわめいた。「何をしておる。聖者さまの御前だぞ」

「降伏すれば命は助けると、俺は奴らに約束した」

 セヴァンはまっすぐに彼らを見据えながら、答えた。「だから、いくらあなたがたの頼みでも、渡すことはできない」

 影のひとりが、嘲笑うように答えた。

「きさまの約束など、何ほどのことよ。神々がその者どもの生命を所望しておるのだぞ」

「王が簡単に約束をたがえるような国が、果たして立ち行こうか。神々は、そんな国に加護をくださろうか。俺はそうは思わん」

「たわけたことを。王であるきさまがそんな考えだからこそ、氏族は弱くなる一方なのだ」

 僧のひとりが、とがった指先を負傷者たちに突きつけた。「軟弱なことよ。生命を惜しみ死を恐れるから、怪我などする。いっそ潔く死ぬべきだ」

「死ぬべき者など、ここにはひとりもいない!」

 何人かの者は、馬の手綱を持つ王の手が、怒りのためにかすかに震えているのを見て取った。

「あくまで、われわれに逆らうというのだな。サフィラの子セヴァン」

「民が平和で豊かに暮らせるようにするのが、王としての俺の務めだ。それを邪魔する者とは、たとえ神々であろうと俺は戦う」

 言い捨てると、セヴァンは馬の手綱をあやつり、聖者たちに背中を向けた。ハイイロオオカミの毛皮に包まれた肩は、硬くこわばったままだ。

 戦士たちはしばらくのあいだ、ひざまずいたまま恐怖に身を震わせていた。聖者に真っ向から刃向かった王は、すぐにでも息絶えて、馬から落ちるだろう。その仲間とみなされれば、われわれも雷に打たれるだろう。

 だが、白馬エッラの軽やかなひずめの音は、何事もなく遠ざかって行った。戦士たちはおそるおそる顔を上げ、不思議そうに互いを見交わした。

「もう立っていいぞ」

 ルエルのおだやかな声に励まされ、戦士たちは身を起こした。ドルイド僧たちの姿はすでに、どこにもなかった。

――何も起きなかったのか。われわれの王はカシの木の聖者の呪力に勝ったのか。

 誇らしさと安堵のあまり、皆の顔が笑みに緩んだ。

「何をぼやぼやしている。村でみんなが待っているぞ」

「よし、帰ろう、帰ろう」

 再開した行軍のしんがりが見えなくなっても、戦士長クーランだけはその場に立ち尽くしていた。

「信じられぬ……カシの木の聖者に逆らうとは……」

 しわがれたつぶやきの声が、誰にも聞き取られずに夕闇の中に消えていく。「セヴァン、わしには、おまえが理解できん」



 レノスは、円い屋根の葺き藁のすきまから漏れてくる光をずっと見つめていた。

 柔らかな陽光が、部屋の隅にわだかまっている冷たく湿った闇を追い出し、暖かい色に染め変えていくさまは、いくら見ても、見飽きるということがなかった。

「レウナ」

 入り口からの訪いに「どうぞ」と答えて、身を起こした。

「具合はどう?」

 メーブが、粥の入った壺をテーブルに置いたあと、寝所の垂れ幕をくぐって入ってきた。

「もうすっかり元気だ」

「そうみたいね」

 快活に笑っているレノスに、メーブは微笑み返した。「二日がかりの難産だったというのに、たいしたものだわ」

「コリンに叱られた。ローマ人の女はやっぱり弱い、いきみ方が下手くそだと」

「お産は誰だって命がけ。女はみんな、命がけで子を産むのよ」

「途中で、意識が遠のいていったときがあった」

 レノスは、そのときの痛みと恐怖を思い出して、ショールの房を掻き合わせた。

「目の前がだんだん暗くなってきて、もう死ぬと思った。そのとき声が聞こえたんだ」

「声?」

 レノスはうなずいた。それは、赤子を取り上げようと足元で屈みこんでいたコリンの声だったかもしれない。レノスの汗をぬぐいながら神に祈っていたユニアの声だったかもしれない。

 ひとつの声がこだまし、反響して、いくつもの大合唱となって、レノスの回りを取り囲んだのだ。

 幼いころの父の温かな呼び声。ローマの下町を駆け抜けていく子どもたちの歓声。

 セヴァンが、そっと耳元でささやく声。「あるじよ。あなたは、俺が守ります」

 ローマ軍の昔の部下たちも、遠くで叫んでいるのが聞こえた。「司令官どの!」

「たちまち目が覚めて、ありったけの力で、いきんでいた……」

 レノスの睫毛に大粒の涙が宿った。「わたしは、たくさんの人に守られているのだな」

「レウナ」

 メーブは、レノスの前に手をついて、ぼろぼろ泣いた。「ごめんなさい。私、あなたに……『死ねばいい』と言ってしまった……」

「メーブ」

 レノスは腕を伸ばして、彼女の肩を抱き寄せた。「あれが本心でないことぐらいは、わかっている。あなたが人を呼びに走ってくれたから、わたしは助かったのだ」

「私の言葉どおりに、あなたがあのまま死んだらどうしようって……本当に怖かった」

「あの……」

 垂れ幕が空き、申し訳なさそうにユニアが入ってきた。

「レウナさん。あの、さっきまで、籠の中でよく寝ていたのですけれど……」

「ありがとう」

 レノスは、毛織物にくるまれて、盛んにむずかっている赤子を受け取った。「おかげでゆっくり休めたよ」

 ショールを脱いで胸をはだけると、赤子は乳の匂いに気づき、ふんふんと鼻を鳴らせて、乳首にしゃぶりついた。

 とたんにじわりと乳房が熱くなる。赤子は懸命にこくこくと喉を鳴らせた。

 メーブは涙を袖でぬぐうと、その様子をじっと見つめた。「不思議なものね。誰も教えていないだろうに。どうして生まれたばかりの赤子って、乳を吸うことを知っているのかしら」

「神さまが教えてくださるのですわ」

 ユニアが声をうるませた。「なんという美しい光景」

 十数年のあいだ、きつく布を巻いて女であることを隠していたはずなのに、こうやって人前で胸を露わにして、赤子に乳を含ませる日が来るとは。

 乳首が吸われる軽いくすぐったさを覚えるたびに、レノスは生命を分け与える満ち足りた思いになった。

「おーい、レウナさん」

 リュクスが叫びながら、ばたばたと走りこんで来て、垂れ幕を押し上げた。

 とたんに、ユニアが手近にあった錫のコップを投げつける。「男は入ってきたら、だめ!」

 コップを器用につかみ取って、あわてて後ろに退いたリュクスは、垂れ幕越しに叫んだ。

「セヴァンが帰ってきた!」

「え?」

 言い終わらないうちに、外から慌ただしいひづめの音が聞こえた。

「レウナ!」

 駆け込んできたセヴァンは、赤子を抱いている妻を見て、絶句した。

「すまない。おまえが帰るまで待てと言い聞かせたのだが」

 レノスは、まどろみ始めた我が子を乳房からそっと離し、顔が見えるように抱きなおした。「とうとう生まれてしまったよ」

「……健やかか」

「見てのとおりだ」

「男、女?」

「男だ」

 セヴァンは床に崩れこむと、茫然と我が子を見つめた。

 オオカミのマントから覗く彼の腕の、血に染まった包帯を見て、レノスは小さな悲鳴を上げた。

「怪我をしているのか」

「たいしたことはない」

 どこかで、女たちの泣き声がする。戦士の遺骸を載せた馬車が、遅れて村の門を入ってきたのだ。何人かの女が夫を、息子を、永久に失った。

「大変な戦いだったのだな」

 レノスは喉にせりあがってくる大きな塊を何度も押し戻した。もし夫があの人々のように骸として運ばれてきたら――二度と会えることのない世界に行ってしまったら。

 セヴァンは、何も聞こえていないかのように、我が子を見つめ続けた。

 手を伸ばして、ヤナギの新芽のような小さな指に触れた。実りの時期を迎えた麦穂のような金色の産毛に触れた。眠そうにまばたきを繰り返す薄茶色の瞳は、雪のあいだから覗く豊かな土のようだった。

「俺の子が……生まれたのだな」

「ああ」

「不思議だ……誰もがこうやって生まれてくるのに、なぜ俺たちは殺し合いをするのだろう。殺し合うのに、なぜ、また新しい命が与えられるのだろう」

 セヴァンは助けを求めるように、頭を妻の肩にもたせかけた。メーブとユニアはその様子を見て、物音を立てないように、ひそやかに部屋を出て行った。

「セヴァン」

「俺は、もう誰も殺したくない」

 妻の腕の中で眠っている赤子をまばたきもせずに見つめながら、セヴァンは喉の奥からしぼりだすような声をあげた。「もう決して、誰も」

「ああ、そうだな」

 レノスは土埃で真っ白になった彼の髪に唇を寄せた。

 いっしょに、そんな平和な世界を作ろう。この子が一生のあいだ誰も殺さずに、そして誰にも殺されずにすむ世界を。




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