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月の戦士  作者: BUTAPENN
千の月夜
51/62

千の月夜(5)

  夏の短い夜はまたたくまに明け、霧を含んだ風が、レノスのマントをはためかせていた。

 額にかかる黒髪をかきあげて、兜をかぶる。百人隊長の兜だ。馬の毛でできた赤い頭飾りが誇らしげに揺れている。

 丁寧に磨き上げた兜と胸当てを手渡してくれたとき、厩番のユッラは泣きはらした目をしていた。

「本当に、行ってしまわれるのですか」

 背後の掠れ声にレノスは振り返って、からかうように笑った。「わたしを追い出したかったのだろう。ルエル」

「それは……」

「わかっている。きみはわたしを憎んでいるわけではない。兄さんの苦しむところを見ていられなかっただけだ」

 ルエルはレノスのまっすぐな眼差しに耐えきれなくなって、視線を地面に落とした。

「ぼくのしたことは……間違っていたのでしょうか」

「間違ってはいないよ。きみはわたしに真実を告げた。そして、わたしの背中を押してくれた」

 レノスは、頭をめぐらせた。空の藍は次第に褪せ、東の丘の向こうは、紫水晶のような淡い明るさを帯び始めている。

「今日は、ずいぶん暑くなりそうだな」

 アラウダの手綱をつかむ。「こんな日は尾根伝いに行くほうが、風が心地良さそうだ」

 レノスは軽やかに騎乗し、馬の腹を何度も膝で締めつけて、脚の力を試した。

「セヴァンによろしく伝えてくれ」

「わかりました」

「ありがとう、ルエル。ユッラ。またいつか会おう」

 丸太づくりの重い村門が押し開けられ、走り出した馬を迎え、またゆっくりと閉められた。

 ユッラが盛大に鼻水をすする音を聞きながら、ルエルはそれを見送っていたが、突然きびすを返して、族長の家に駆けこんだ。

「セヴァン兄さん」

 暗い部屋の中から返事はない。

「司令官が、出て行ったよ。兄さんによろしく伝えてくれと」

 寝床の上で身じろぐ気配がした。ルエルは、羽織っていたタータンの房飾りをぎゅっと握りしめた。何度も握ったり放したりを繰り返した挙句、小声で付け加える。

「司令官は……尾根伝いに行くと……言っていた」

 布が引き裂かれる悲鳴のような音が、暗闇の中で響いた。

 ルエルが振り返ったときにはもう、入り口の垂れ幕がゆらゆらと揺れていた。



 アラウダは朝もやを裂いて、軽やかに草原を駆けた。

 谷を抜け、歪な形のサンザシの枝をよけながら斜面を登ると、ひときわ巨大なハルニレの木がそびえ立っている丘がある。村からも、この大木はよく見えていた。

 若々しい緑の樹下で馬を降り、手綱を枝に結わえると、レノスは眼下に広がる美しい眺望に見入った。

 夜が明けるにつれて、白いもやは走る馬のたてがみのように、うねりながら谷底へと駆け下っていく。トネリコは樹冠に雪をいただいたような白い花をつけ、川は朝の光を受け、とろりと銀色にきらめいていた。地面にむきだした石灰岩でさえも、割れ目に生えた小さな苔の花で薄紅色に彩られている。

 北の大地は、冬のあいだ胎内に隠し持っていた生命を、夏の訪れとともに一斉に解き放ったのだ。

 赤キジのオスがゆったりと青い空を飛び回りながら、「帰れ、帰れ」と甲高く鳴いている。メスが卵を抱いているのだろう。

 知らず知らずのうちに、レノスの眼から抑え続けてきた涙があふれ出した。

 わたしは、ここで生まれ育った。ローマではない。この北ブリタニアが、わたしの故郷なのだ。

「お父さん、お母さん」

 この美しい大地のどこかに、レノスの両親は眠っている。氏族に殺され、葬られることもなく行方不明になった父。墓のありかもわからなくなってしまった、顔も知らぬ母。

 あなたたちの眠るこの島に、わたしは軍人として帰って来た。武力によってローマの平和を打ち建てようと努力してきた。

 それが、死ぬ瞬間まで父の願っていたことだったから。そう信じて、わたしはすべてのものを投げ打って生きてきた。

 女であることを拒否して。男として。

 戦いの中で、忠実な部下たちの大切な命を失って、それでもなお。

 それなのに、わたしのしてきたことは何だったのか。氏族とローマの間に立ちはだかる壁の一角すら崩すこともできずに、アイダンを殺し、今またセヴァンのもとから永久に去ろうとしている。

 そうではない。本当にわたしのしたかったことは。わたしの望みは。

 クレディン族の村の方角を振り返った。円い家々はゆったりと煙を立ち昇らせ、羊はまだ囲いの中で、たゆたう灰色の雲のように見えた。採り入れを間近に控えた大麦の畑は青く波打っている。

 セヴァンが守り育んできた豊かな村。あの村で、彼は氏族の長として生きていく。

「お父さん」

 もうやめていいですか。何もかも捨てて、彼の胸に飛び込みたい。もう休みたい。休んでいいですか、お父さん。

 ハルニレの根元に突っ伏して、しばらく子どものように泣きじゃくり、ぼとぼとと地面に涙を吸わせた後、レノスは身体を起こした。

 懐から短剣を取り出すと、ガツガツと、一心不乱に土を掘った。よほどの大きさの穴が出来上がると、兜を脱ぎ、マントを脱ぎ、鎧を脱いだ。

 最後に、指から司令官の印章の指輪を抜いて、それらをすべて穴に納め、土をかぶせ、丁寧に均した。

 すべてを終えて立ち上がると、梢を渡ってきた風がふわりとレノスの黒髪を乱した。

 木の幹に背中を預け、瞼を閉じて、どれくらいの時間が経っただろう。

 目を開くと、セヴァンが馬から飛び降りて、斜面を遮二無二登ってくるところだった。

「セヴァン」

 彼はレノスの前に立ち、激しく息を継いだ。紅潮した頬は、イバラで傷だらけになり、血が流れていた。

「あなたは……どれだけ俺を苦しめれば気がすむ」

「おまえが、出ていけと言ったのだ」

「嘘だ……あんなのは、嘘だ」

 セヴァンは小さく叫んだ。「息ができなかった……あなたを失うとは、こういうことかと思った」

 袖で頬の血を拭う。それはまるで、幼い子が涙をぬぐう仕草のように見えた。

「お願いだ。行かないでくれ」

 しびれにも似た熱い奔流が、レノスの身体を駆け巡った。

「ずっと、この時を待っていた」

 長いあいだ出口をさがしていた言葉が、ようやく自然に出てくる。

「二年間、おまえが迎えに来るのを待っていたのだ。たった今わたしは、赤いマントを捨てた。剣もよろいも捨てた」

 セヴァンは顔を上げ、軍装を解いたレノスの姿にようやく気づいて、目を見張った。

「わたしはもうローマ軍人ではない。あの村で、おまえとともに生きたい」

 レノスは両手を伸ばして、彼の麦の穂のようなやわらかな髪にそっと触れた。「――おまえの妻として」

「……本当なのか」

「ああ」

 セヴァンは力をこめて、レノスの体を抱きしめた。

「もう、離さない。あなたを決して離さない、レウナ」

 ハルニレの大木がざわざわと風に鳴り、彼の涙でくぐもった声をかき消した。



 遠くで、フクロウが鳴いている。

 鉄の灰掻き棒のかりかりという音で目を覚まし、レノスは藁の床の上で身を起こした。

 家の中は薄暗く、すっかり熾きになってしまった炭をセヴァンが掻き立てている。

 炉の炎が勢いを取り戻すにつれて、セヴァンの肌が明かりの中で鈍い赤銅色に染まる。

 その様子をぼんやりと見つめていると、何もかもが夢のようだ。現実味がない。

 昨日の朝、村に戻り、厩舎にアラウダとエッラを連れて行くと、ユッラが狂喜して跳ね回っていたのも、遠い昔のことのようだ。

 そのあとの、あまり思い出したくない一連の騒動も――セヴァンは村の主だった者を呼び集め、レノスを自分の妻に迎えると宣言し、大騒ぎになった――泡となって弾けて消えていきそうだ。

 レノスは毛布を体に巻きつけて、立ち上がった。下腹部がじんじん痛み、足がふらついて、歩くことすら心もとない。

 セヴァンは目を上げて、視線の動きだけで、長椅子に座るように促した。

 ふたりは隣り合って、炎を見つめながら、長いあいだ黙りこくった。

 ずっと望んでいた夜だったはずだ。思いを遂げて、満ち足りているはずだ。だが、セヴァンの腕の中で一晩かけて起きたことは、レノスに大きな恐怖と屈辱をもたらした。

 「こわい」と、自分の中に泣き叫ぶ幼女がいて、彼の腕を何度逃げ出しそうになったか。

 身体の芯に、己がもう決して男に戻れないという事実が刻みつけられた。そのことに、心が抗い、うろたえている。

 たゆまぬ鍛錬によって誰よりも強くあろうとした自分が、これほどまでに弱く変わってしまうとは。ローマ軍司令官として多くの部下を支配する存在だったはずの自分が、男に身体を委ね、くみしだかれ、支配されるとは。

「すまない」

 セヴァンが口を開いた。

「なぜあやまる?」

「俺は、嘘をついた」

「嘘とは?」

 意味もなく灰をていねいに均していたセヴァンは、火掻き棒を置いた。

「あなたを守る力を得るために、望んでもいない王の地位についたんだと言って、心を開いてくれないあなたを責めた。あれは、半分嘘だ」

 手が肩に回され、そっと引き寄せられた。

「俺が村に戻って、父に再会したとき、父は病み衰えた不自由な体でひれ伏した。『どうか、跡目を継いでくれ。おまえしかいないのだ』と泣いて頼んだ」

 静かな声が、雨のように心地よく耳朶を打つ。

「俺は、俺は証人たちの前で誓いを立てて約束するしかなかった。族長の座など、いつでも捨てられると思っていたのに。村が豊かになり、北からの侵入を押し戻すだけの力を持てば、すぐにでもルエルに全部譲って、あなたのもとに戻ろうと決めていたのに」

 レノスは黙ってうなずいた。ずっと父親から疎まれていると思い込んでいた彼にとって、それは最初で最後に結んだ父子の絆だったろう。

「父の喪が明けるとすぐ、俺はさまざまな改革に着手した。川から引いた水路に豊かに水が流れ、麦が育ち、羊が草を食んで肥え太るのを見ているうちに、突然、自分のすべきことに目覚めた」

 彼は天井を仰ぎ、小さな吐息をついた。

「いや、まだ足りない、もっとだ。もっと豊かになって、飢える者がひとりもいない国を作りたい。ローマへの隷属から抜け出し、ひとりの王のもとに氏族をまとめあげる。氏族の息子として、先祖から受け継いだこの土地を守って、俺は生き、死んでいくべきなのだと」

 肩を抱く手に、ぎゅっと力がこもった。

「俺は、自分には不相応な野心を抱いてしまった。王になる器などではないことは、わかっている。でも、俺はもう自分が止められないんだ。そのせいで、とうとうあなたの生きる道筋をゆがめてしまった」

 セヴァンは、レノスの髪に顔をうずめた。「いつか、あなたはローマを捨てたことを後悔し、俺を憎むようになるだろう。その日が来るのが、おそろしい」

「違う。わたしは後悔などしない」

 レノスは、彼の背中に手を押し当てた。

 肉がもり上がった傷痕が、幾本もの筋となって指先に触れる。その傷痕の理由をレノスはよく知っている。ゲルマニアの森で、ルグドゥヌムの戦場で、彼はレノスをかばうために、敵の剣を背中に受け続けてきたのだ。

 涙があふれて、レノスの頬を伝った。

「ここは、わたしの故郷だ」

 おまえがわたしのために自分の身体を傷つけてきたように、わたしもおまえのために、いくらでも傷つこう。

「おまえがいつくしんできたこの村で、わたしは、おまえの民とともに生きると決めたのだ」



「今夜は夏至の祭があるのです」

 ずっと族長の家に閉じこもったままのレノスを、ルエルが誘いに来た。

「兄は戦士の会議に出ています。僕が代わりに、あなたの身支度を頼まれました。今から、良いところにお連れします」

「良いところ?」

「ローマ人が何よりも好むところです」

 村人たちのまとわりつくような視線を避け、うつむきながら歩く。屋根からもくもくと湯気を立てている家の前に来たとき、ようやくレノスは顔を上げ、「うわ」と立ち止まった。

「……ローマの浴場か」

「はい。と言っても、蒸気風呂しかありませんが」

「セヴァンが、これを?」

「そうです。兄が建てました。あなたがここで暮らすためにはどうしても必要なものだからと」

「わたしの……ために」

「ローマ人は、こんな場所、どうして必要なんでしょうか」

 世話係のユッラが、涙目になりながら訴えた。「おれ、一度入って、息を三回して、すぐ逃げ出しました。まるで地獄のようだったです」

「ルエル、きみは?」

 セヴァンの弟は、頭を掻いた。「男たちは誰も入りたがりません。ときおりセヴァン兄さんが使っているだけです。……あと、もの珍しさに、若い女たちが」

「そうか」

 レノスは笑いをかみ殺して、答えた。セヴァンも風呂が大嫌いだったくせに。「ローマ人にとって、何よりの贈り物だよ」

「あの、これ」

 ユッラがおずおずと、布の包みを取り出した。「これ、死んだ母さん、形見の晴れ着です」

「そんな大切なものを、わたしに?」

「いいんです。おれ、たぶん一生着ない」

 照れくさげに突き出すユッラに、レノスはほほえんだ。「ありがたくもらうよ、ユッラ」

 そして、ルエルに向きなおった。「ルエル、きみにも礼を言いたい」

 彼は、はっと目を見開いた。「僕は何も……」

「尾根伝いに行くというわたしの言葉を兄さんに伝えてくれただろう。そうすれば、兄さんがわたしを追いかけると、きみにはわかっていたはずだ。そしてわたしが彼とともに戻ってくると」

 ふたりが轡を並べて村の門をくぐったとき、ルエルが全く驚いた素振りを見せなかったことを思い出す。

「さりげなくメーブとの結婚の話をしたのも、わたしを逆の方向に焚きつけたかったからだという気がしていた。だから、わたしはきみに、あの伝言を託したのだ」

 ルエルはうなだれた。その顔には、激しい懊悩が表われている。

「僕は……」

「何も釈明する必要はない。きみは、言葉で人を動かすすべを知っている。それは得がたい才能だと思うよ」

 レノスは、彼らを残して、中に入った。

 トゥニカのまま部屋に入ると、むっとする熱気が襲ってくる。そう大きくはない円い部屋の中央に、焼けた石が積んであった。ピクト人らしき男がひしゃくを手に入ってきて、水槽の水を何度もかける。そのたびに焼けた石はじゅっと音を立て、もうもうと湯気が立ち昇った。

 ほどなく、毛穴という毛穴から汗が沁み出してきた。奴隷を身振りで下がらせると、レノスはトゥニカを脱ぎ捨てた。もう胸を隠す包帯はない。

 鉄のヘラで垢をこするのは、過去をすべてこそげ落とすのに似ている。水を浴び、また熱心に肌をこする。おそるおそる乳房の先端に指を触れた。

 何をこわがっている。何をたじろいでいる。わたしは、女だ。

 受け入れろ。わたしは女だ。女として生きるのだ。

 ローマ軍の司令官レノス・クレリウス・カルスではなく、クレディン族のセヴァンの妻として、生きるのだ。

 垂れ幕が上がり、ひとりの女が入ってきて、反対側の長椅子に腰かけた。

 長い金髪をかきあげ、白い湯気を通して、じっとレノスを見つめる。

「ローマは嫌い。だけど、ここだけは別。肌がつやつやになるもの」

「メーブ」

 レノスは、思わず立ち上がった。「ラテン語がずいぶん、巧くなったのだな」

「あなたのせい。セヴァンの命令で、しかたなくラテン語を学んだの」

「そうか。本来ならわたしがクレディン族の言葉を学ばねばならないのにな」

 彼女は、露わな肌を隠そうともしない。豊満な胸、細くくびれた腰、あまりにも自分と違う女らしい裸体に、いやでも目が吸い寄せられる。

「わたしもあなたと話がしたかった。ひとこと、謝りたいのだ」

「何を」

「それは……」

「私とセヴァンの結婚のこと?」

 メーブは顔をそむけ、くすくすと笑いだした。濡れそぼった長い金髪が、細い絹糸のように頬に張りついた。

「安心して。私、セヴァンのこと何とも思ってない」

「そうか」

「私の夫は、今もアイダンだけ」

 レノスは、彼女のそばに腰をおろし、赤々と輝く焼けた石を見つめた。

「アイダンは、わたしがこの手で殺した」

「そう」

「もっと以前に話すべきだった。前にあなたと会ったときに、きちんと謝るべきだった。わたしには、その勇気がなかった……すまない」

「知っていたわ」

「え?」

 メーブはガラスのような青い瞳でレノスを見つめ、氏族のことばで続けた。

「夫は、あなたにあこがれていた。あなたのことをすばらしい人だと、いつも話していた。だから、アイダンがあなたに殺されたと知ったとき、きっと夫は喜んで死んだと思ったの。あなたと戦って死ねて、満足だったと」

「……」

 すべての意味はわからなかった。ただ、喉がつまって、息ができなくなるような心地がした。

「あなたは……わたしを赦してくれるのか」

「いいえ。赦さない」

 メーブは、立ち上がった。「あなたが男だったら、赦せた。でも、今は赦せない。アイダンはあなたを友だと信じていたのに。裏切った。女だったなんて!」

 彼女は、水を張った水槽に近づくと、ひしゃくの水をレノスに向かって、ぶちまけた。

「あなたはアイダンの心を盗んだ。あなたが大嫌い!」

 ひしゃくを放り投げ、メーブは出て行った。

 おそるおそる部屋を出ると、彼女はまだ怒りを引きずった真っ赤な顔で、服を着ているところだった。

 途方に暮れて立ち尽くしていると、メーブがつっけんどんに言った。

「どうして、服を着ないの?」

「……どうやって着たらよいか、わからんのだ」

 ややあって、メーブの軽やかな笑い声が聞こえた。



 村の広場の中央には、薪が高く組み上げられて、火がつけられるのを待っていた。

 気の早い男たちは、もう昼すぎから周囲に陣取って、麦酒でしたたかに酔っている。女たちは、スイバの葉にくるんだバターを出してきて、小さな硬いパンに塗って口いっぱいに頬張りながら、にぎやかなおしゃべりに興じる。

 炙られた羊の肉が、ジュウジュウとよい匂いをまき散らして、村じゅうの家から次々と人々を誘い出した。

「族長どの。聞いているのか」

 戦士長のクーランはついに堪忍袋を切らして、杯を敷物の上にどんと置いた。

「あなたは、本気であのローマ人の女と結婚するというのか」

 隣に座っているルエルは、何の助け舟も出してくれない。とうとう、セヴァンが口を開く。

「本気だ」

「わしの娘の、どこが気に入らぬ」

「メーブには、きちんと理由を話して、あやまった」

 うんざりした口調で、セヴァンは答えた。「彼女が気に入らないわけではない。ただ。俺の妻になる人は、もう決まっていただけだ」

「まさか……あの司令官が!」

 口の端に泡を溜めて、クーランはののしる。「ありえん! いくら女だと言われても、わしには信じられん!」

「事実だ。もう黙ってくれないか」

 セヴァンは、苦い酒を一口飲んで、手の甲で唇を拭いた。「今から太陽をことほぐ浄化の炎が灯されるのだ。夏至祭の宴の席で、言い争いをしたくない」

 戦士長がようやく口をつぐんだそのとき、群集のざわめきがにわかに高くなった。

 広場の向こうから、ひとりの背の高い女が歩いてきたのだ。

 カバノキの葉で黄色に染められた晴れ着をまとっている。すらりと伸びた手と足には銀の飾り輪をはめ、短い黒髪には、キンポウゲの花が編みこまれている。

 唇には薄く紅が引かれ、大きな薄茶色の瞳は不安ととまどいに揺れ、濡れたように輝いていた。

「誰だい、あの別嬪は?」

「あれが、族長がめとると言い出したローマ人の女だよ!」

 騒然とした空気の中で、セヴァンは族長の席から立ち上がり、呆けたようにレノスを見つめた。

 ルエルも立ち上がり、レノスの後ろに付き添って来た女に駆け寄った。

「ありがとう、メーブ。助かったよ」

「しかたないでしょう。あんなにひれ伏さんばかりにして頼まれたら」

 レノスはセヴァンの前で立ち止まり、恥ずかしさに消え入りたい気持ちでうなだれた。「す……すまん。変な格好で……その、われながら似合うとは思えなかったのだが……」

 我に返ったセヴァンは、その手をぐいと引っ張った。

「俺の隣に」

 それから、座に向きなおった。

「みんな、聞いてくれ」

 人々は静まり返り、立っていた者はそれぞれに地面に腰をおろした。丘の上へと傾き始めた陽の光が、薪の回りを取り囲む群集の輪を舐めている。

「俺は今日、ここにいるレウナと結婚する。今日の祭を、披露目の宴としたい」

 広場に、驚きのざわめきがあふれた。この結婚が戦士の会議で猛反対を受けたことを知っている者も知らない者も、それぞれに今の知らせは予想外のことであった。

「その人は、ローマ人だぞ」

「しかも、敵の司令官だ」

「あなたの兄上であるアイダンさまを殺したのは、そいつだと聞いている!」

「冗談じゃない! そんな女を妻にめとるのか」

 怒号の渦が収まるのを、セヴァンは忍耐強く待ち続けた。

「この人は、もうローマ人ではない。二度とローマには戻らず、この村で俺の妻として生きることを誓った」

「そんなことばを、信じられるものですか」

「あなたも兄上と同様、寝首をかかれるぞ」

「俺は、もう決めたのだ!」

 セヴァンの雷鳴のような激昂に、叫んでいた者はぱたっと口をつぐみ、決まり悪そうにしゃがみこんだ。

「薪に火をつけろ」

 席についたセヴァンの拳が怒りに震えているのが、隣にいても察せられた。

 戦士長のクーランが立ち上がり、冷たく言った。

「好きなようにすればよろしかろう。だが、覚悟しておくがよい。カシの聖者がいずれ、このことに裁定をくだすだろう」

 彼は立ち去り、仲間の戦士たちの輪の中に消えた。

 炎は勢いよく燃え上がり、まだ暮れ切っていない空は、一気に夜の色に変わった。

 最初は居心地悪げにしていた村人たちも、羊の肉が切り分けられ、チーズや干し肉とともに麦酒が運ばれてくるにつれて、次第に気づまりな雰囲気は消え、なごやかさが戻ってきた。

 吟遊詩人たちが入ってきて、リラに木の笛、動物の骨を打ち鳴らしたにぎやかな音楽が始まると、人々は弾かれたように立ち上がって火の回りに集まり、踊り始めた。

 身の置きどころのなさに項垂れていたレノスも、ようやく顔を上げて、その楽しげな光景に見入った。

「だいじょうぶか」

 セヴァンが視線を前に定めたまま、言った。

「わたしか? もちろんだ」

「こらえてくれ。時間がかかる」

「わかっている。皆もう、わたしのことは忘れて楽しんでいるようだ」

「一年に一度の祭を、台無しにするわけにはいかないからな」

 セヴァンは振り向き、手を差し伸べた。「俺たちも踊ろう」

「お、お、踊る?」

 ローマ人には、男女が組になって踊るという文化がない。踊りは見るものであり、神殿の巫女や踊り子、舞台の俳優だけのものだ。

 セヴァンに引きずられるようにして前に進み出たレノスは、周囲の男女に混じって、見よう見まねで踊った。日時計が回る向きに、三歩前へ進み、一歩下がる。男に手をとられて、女はくるりと回る。

 くるくる回るうちに、息があがり、頭の中がうっとりとしてくる。

 音楽がやみ、人々は大声で笑い、手を打ち叩きながら、火のそばから離れた。レノスも、セヴァンの腕の中で息をはずませ、笑い声を上げた。

 席に戻ると、ひとりの少年が彼らを待っていた。

 メーブがそのかたわらで、硬い表情で告げた。「息子が挨拶を」

「アイダン?」

 レノスは、目を見開いた。「そうか。もうこんなに大きくなったのだな」

 八年前にまだ赤子だったアイダンの忘れ形見は、もう戦士の家に入る年頃になっていた。

 父親にそっくりな赤毛の少年は、けわしい眼差しでレノスを睨んだ。

「ぼくは、あなたを赦さない」

「アイダン!」

 メーブはまなじりを吊り上げ、異口同音にルエルもたしなめた。

「父を殺したあなたを、絶対に赦さないからな!」

 セヴァンはものも言わずに、彼の顔を拳で殴った。少年は吹き飛ばされるように地面に倒れた。

「戦士の家に帰れ。明日の朝まで寝床から出てくるな」

 低く命じると、アイダン少年は起き上がって唇をぬぐい、よろよろと広場を出て行った。

 セヴァンは席に戻って、麦酒の杯を一息に仰いだ。人々はその成り行きを、遠巻きに見つめていた。

 吟遊詩人の長が、機転を効かせて両手を広げ、進み出てきた。

「さあさあ、みなさん、お待ちかねの時間ですぞ」

 おおげさに一礼し、敷物の上に座る。村人たちはあわてて席に戻り、「しーっ」と互いに言い交した。

 いよいよ、宴の最高潮、詩人の詠唱が始まるのだ。

 詩人は、広場のすみずみにまで届く豊かな声で、朗々とクレディン族の歴史を歌った。

 祖先が遠い地から海を渡り、この島にたどりついたこと。この地を支配するオオカミと戦い、和して、混じり合ったこと……

 文字を持たないケルトの民にとって、吟遊詩人の詠唱を毎年聞くことが、歴史を学ぶことであり、氏族の誇りを身に刻みつけることでもあった。

 歌が終わるころには、夏至の太陽はようやく丘の端に傾き、やぐらのように高く積んだ薪も燃え尽きて、地面に崩れ落ちた残骸が、まだ力ない炎を上げていた。

 若い男女たちが手をつなぎ、次々とその残骸の上を跳び始めた。『亜麻よ、亜麻よ。高くなれ』と歌いながら。

「何をしているのだ?」

「夏至祭の火の上を跳ぶと、一年間病気をしないという言い伝えがあるんです」

 レノスの問いに、ルエルが答えた。「さらに、恋人同士で手をつないで飛ぶと、ふたりはかたく結ばれるとも言います」

 レノスはそれを聞いて、立ち上がった。

「行くぞ、セヴァン」

 甥を殴った後ずっと黙りこくっていたセヴァンは、驚いたようにレノスを見上げた。

 レノスは、ぐいとスカートの裾をまくりあげると、中央の火に向かって歩き出した。

 かたわらに積み上げてあった薪の残りを両腕に抱えると、燃え残りの中にぶちまけた。

 村人たちは、固唾を飲んで成り行きを見つめている。火はめらめらと燃え盛り、ほどなく高さと勢いを取り戻し始めた。

「セヴァン。わたしたちも跳ぼう」

「この上を? 無理だ」

「わたしを誰だと思っている?」

 にっこりとほほえみ、手を差し伸べる。セヴァンもようやく表情を緩め、その手を取った。

 ふたりは手をつないだまま、並んで炎の前に立った。

「呪文のことばは、何と言う?」

「亜麻よ、亜麻よ、高くなれ、だ」

「アマヨ、アマヨ、タカクナレ……行くぞ!」

 ふたりは、燃えさかる炎の上に跳躍した。



 薪の火が消え去ると、にわかに暗くなった広場からは、人々のざわめきが潮のように引いていった。

 炎の上を跳んだ恋人たちは、しっかりと手をつないだまま、それぞれに木立の陰へと消えて行った。そして、レノスもセヴァンに促されて、暗い森に分け入った。

 沼のほとりでは、ヤナギが枝垂れ、キンポウゲやランの群生がしとどに濡れている。歩を進めるたびに地面から滲み出す水は、素足に心地よかった。

 下生えの草の上では、蛍が蒼白い光を放っている。羽根のないメスは、飛び回るオスを引きつけるために、こうして光るのだ。その命は短く、数週間しかない。

 木の根元のやわらかな苔の上に、ふたりは腰をおろした。

「どうやら、酔っぱらってしまったな」

 焚き火の炎が体内に移されて、今もなお燃えているようだ。レノスは火照る体を冷たい地面に横たえ、仰向けになって、木々の梢を仰いだ。

 透けるように淡い月は、夜の訪れとともに中天で輝きを増していく。

「いつのまに、わたしはこれほど酒に弱くなったのだ」

「実は、夏至祭の麦酒には、特殊なハーブが入っている」

 セヴァンがとうとう打ち明けた。「今宵は、男と女にとって……つまり、特別な夜なんだ」

「驚いたな」

 レノスは吹き出した。「それで、氏族は多産なのか。ローマが勝てないはずだ」

 こみあげる笑いに身をゆだねてしまうと、全身を硬くこわばらせていた力がすっと抜けていくのを感じる。

「こわいのだ。セヴァン」

 今なら、自分の弱さが素直に認められる。「これからいったい何が待ち受けているのか。想像するだけで、恐い。本当に、わたしは女として生きていけるのか。おまえの妻となれるのか。わたしに対する村人たちの憎しみは消えることはあるだろうか。わたしはいつか、おまえを窮地に陥れてしまうのではないか」

 セヴァンは身を起こし、レノスの上に覆いかぶさった。まるで、親鳥が雛を翼で覆うように。

「だいじょうぶだ。レウナ」

 優しくレノスの髪を撫でる。「俺があなたを守る。月が千回満ち欠けを繰り返しても、オオカミが百回子を産み、ハクチョウが百回海を渡ってきても、俺はあなたを離さない」

 彼の手が秘めた場所に触れると、激しいうずきがレノスを震わせた。

「お願いだ。もっとわたしの名を呼んでくれ」

 彼にしがみついて、叫んだ。「わたしがずっと、おまえの隣にいられるように」

「……レウナ」

 セヴァンが名前を呼ぶたびに、乾いた地に水が染み出すように、体のすみずみまでが満たされていく。初めて味わうその感覚に酔いしれながら、レノスは彼の胸に幾度も口づけた。





    第10章  終

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