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月の戦士  作者: BUTAPENN
千の月夜
47/62

千の月夜(1)

 小高い丘の頂で馬の手綱を引いたレノス・クレリウス・カルスは、今から帰ろうとしている地を思うまま眺めた。

 去年のヒースが黒々とわだかまっているだけの色彩のない草原。人を寄せつけぬ禍々しさがただよう深き森、冷涼で荒れ果て、帝国が多くの兵力を投じて守る価値など少しもない土地。

 それでも、ここはレノスにとって、何にもかえがたい故郷なのだ。

「さあ、北の砦までもうひと息だ。急ぐぞ、アラウダ」

 腹をぽんと蹴ると、主の逸る気持ちを察した『ヒバリ』という名の愛馬は、たちまち軽やかに丘を駆け下りる。



『北ブリタニア辺境部隊の司令長官になってくれ』

 皇帝セプティミウス・セウェルスの再三の懇願を断りきれず、レノスはひとつの条件を出して、長官職を拝命することになった。

――北の砦を拠点とさせてください。あそこを離れたくありません。

 だが、勝ち得た承諾と引き換えに、レノスは港の司令本部と北の砦との往復の旅を余儀なくされることになった。加えて、第六軍団の本部があるエボラクムや、総督府のあるロンディニウムへの訪問も、重要な職務のひとつだ。

 セウェルス帝が送り込んできた新しいブリタニア総督は、ウィリウス・ルプスという名だった。アルビヌスを裏切りセウェルスに支持を移したゲルマニア防衛線の軍団長のひとりで、その功労を認められての人事だった。

 つまり、レノスとはガリアで死闘を演じた敵同士だが、そんなことに拘ってはいられなかった。

『軍団不在のあいだに乱れきった北ブリタニアの治安を、すみやかに回復せよ』

 皇帝からの厳命を、会うたびにルプス総督は繰り返した。セウェルス帝自身はパルティアへの遠征にかかりっきり、援軍が送られてくる可能性は薄い。激減した兵をやりくりして、荒れた砦や町を再建し、防衛を固めるしかない。レノスに与えられた任務は、最初から過酷と言えるものだった。

 北の砦に帰りついても、自分の席を温める暇もなく、配下の各砦を巡視する。そんな生活を続けて、もう二年になる。

 だが、レノスは、この暮らしが気に入っていた。

 誰と言葉を交わすこともなく、心をからっぽにして、空と大地、太陽と雨だけを友とする旅の毎日。春は草原を薄黄色に染めるヒメリュウキンカの花々、夏はゆったりと温む川のせせらぎと木漏れ日。秋は多彩に色づいた木々が深い奥行きを見せて、もうすぐ平板な白一色に覆われる冬の埋め合わせをしてくれる。

「ゼノ。おまえはどうしている」

 付き従う護衛兵がいないときは、誰はばかることなく、大声で空に向かって叫ぶことさえできる。



 この二年、レノスはセヴァンに一度も会っていなかった。二度めぐってきた刈り入れの季節には、徴税人たちの護衛でクレディン族の村を訪れたが、村の門の外に張られた天幕では、弟のルエルが徴税に立ち会っただけだった。

「父は、兄が帰ってきたひと月後に亡くなりました」

 ルエルが、強ばった顔で報告した。最後は、親子三人で穏やかに語り合う日々だったという。サフィラ族長は主だった戦士たちを病床に呼び集め、セヴァンが族長の位を継ぐことを、一族の前で宣言した。

「兄上には、カルス司令官がお悔やみを申していたと伝えてくれ」

 レノスは、心をこめて言った。もし落ち着いたら、北の砦に顔を見せに来てほしいとも。

「一応、伝えます」

 ルエルは、歯切れの悪い、あいまいな答えを返した。そして、その答えどおり、セヴァンがレノスに会いに来ることはなかったのだ。

――おまえに会いたい。会いたいのに。ゼノ。

 二年間貯めに貯めた思いは、こびりついた固まりとなって、レノスの喉を不器用にすべり落ちていく。

 行くべき道を知っているアラウダは、手綱であやつる必要もない。沼に架かった木橋をごとごとと鳴らして渡り終える頃には、木々の一本一本、岩の形さえ見慣れた景色が迎えてくれる。そして、レノスの涙も乾いている。

 砦の裏門からこっそり入ったつもりだったのに、門の後ろには、非番の兵がずらりと整列していた。

「北ブリタニア辺境部隊クレリウス・カルス司令長官どのに敬礼!」

 砦の司令官に昇進した赤毛のセリキウスは、早朝だろうが夜更けだろうが、レノスの帰還を真先に出迎えるのを自分の務めだと心得ている。

「いいかげん、その大げさな口上はやめろ」

 と言っても、聞かないのだ。くすぐったいが、彼の気遣いはとてもうれしかった。

 簡単な閲兵式を終えたあと、将校用宿舎の自分の部屋に入って旅装を解き終える前に、筆頭百人隊長のラールスと会計係のフラーメンがやってきた。

 このふたりが並んでいるのを見ると、レノスは心の底から、家に帰ってきたという心地になる。

「どうだ。様子は」

「平和ですね。一点の曇りもなく平和です」

 ラールスのむっつりした口調は、不服げに見えるほどだった。

「それは驚きだな。よそでは、まだ散発的にピクト人の来襲が続いているというのに」

「この一帯は、クレディン族ががっちりと守りを固めていることを、あいつらは知っているのでしょう」

 と、フラーメンがのんびりと言う。「現に、北のアントニヌスの長城周辺では、クレディン族とピクト人との小競り合いが何度かあったという噂です。うちの巡視隊が、戦闘の跡を見つけてきたから、確かな話です」

 自分の民を侵入者から守ろうと、あいつは必死に戦っているのだな、と胸がつまった。

「しかし、このままでは、われわれは給与どろぼうと言われてしまうな」

 茶化そうとしたレノスに応えて、フラーメンはにへらと笑った。「そろそろ給料が届きますね。楽しみすぎて、なくなった足が生えてきそうです」

 それまで、300デナリウスだった軍団兵の年給は、375デナリウスに増額された。しかも、退役まで積み立てられることなく、全額が支給される仕組みに変わったのだ。

 二年前、アルビヌスを倒して、皇帝の座を確立したセプティミウス・セウェルスが真先に着手したのが、この兵士の待遇改善だった。

『軍の増強を、ローマ帝国の最優先課題と位置づける』

 セウェルスのこの姿勢は、終生変わらなかった。正規軍団も補助軍も、大幅に増員されることが決まった。

「俺たちは、忘れられていない。皇帝陛下は、こんな辺境の地まで気を配ってくださるのだ」

 当然、兵士たちの士気も高まる。戦闘がない北の砦では、その活力は行き場を求めて、もっぱら土木方面に発揮されることになった。

 砦は増築を重ね、周囲の道はすみずみまで綺麗に舗装された。町は、周囲をぐるりと堅牢な防壁に囲まれ、その中には、大きな広場や、バシリカや公衆浴場が次々と建設されていく。その分、多忙をきわめる土木将校のカイウスの髪は、ますます薄くなっていく。

 北の辺境の地とは思えないほど豊かになった町には、大きな定期市が立ち、大勢の人々が集まるようになった。そして、ユピテルやディアナの神殿に混じって、クリストゥス信者の集会場が、スーラたちの手で目立たぬように建てられた。

「それでは、俺はこれで。長官どのの帰還祝いは、今から念入りに準備して、明日あたり盛大にやりましょう」

「今夜は、ローリアちゃんとの約束があるんだろう」

 ラールスが、ぐさりと鋭いところを突く。ローリアとは、新しくフラーメンの想い人になった女性だ。

 セウェルスの軍改革は、給与の増額だけではない。上級将校にしか認められていなかった結婚が、一兵卒にも認められるようになったのだ。

 そのため、若い隊員たちは、休みのたびに町に繰り出しては、娘たちに言い寄っている。

「は……はは。まあ、そのへんはご想像におまかせして」

 フラーメンは照れ笑いを残して、かたかたと器用に杖を操り、部屋を出て行く。

 レノスは笑いをこらえながら、その背中を見送った。「フラーメンのやつ、すっかり元気になったな」

「ひとことも口を利かなかった昔が、嘘のようですね」

「おまえは、いないのか?」

「は?」

 ラールスは面食らって、振り向いた。彼を見つめる上官の瞳がいたずらっぽい薄茶色を帯びている。「ひとりくらい、いいと思う娘は町にいないのか」

「俺は……そういうのはありませんから」

 顔を伏せて、ラールスはのろのろと答えた。「たぶん、俺は……」

 黒髪の百人隊長は、言葉を続けることなく、その場を立ち去った。



 北の砦に戻ってきたときは、巡り歩いて部下たちの話をじっくり聞くのが、レノスの務めであり、楽しみでもあった。

「くそったれなほど、倉庫は空っぽですぜ」

 まくしたてるルスクスは、思い切り悪態をつける相手がいることがうれしそうだった。「今年はちゃんと遅れずに、物資は届くんでしょうな。小麦は芽が生えていないでしょうな。けっ、もし不具合があれば、みんなで雪を掘って、冬じゅう草の根っこを食べることになりますぜ」

「今年は海も荒れていないと聞く。あと半月のしんぼうだ」

 苦笑を含みながら、ふたたび歩き出すと、

「長官どの。銅鍋に穴が開いてるんですが、新しいのを支給してもらえませんか」

 十人隊長のひとりが、手をすり合わさんばかりにして近寄ってきた。たぶんセリキウスに頼んだら、こっぴどく断られたのだろう。

「穴くらい、武器工廠でさっと治してもらったら、どうなんだ」

「それが、順番待ちの長い列なんですよ」

 兵站部に行くと、確かに長蛇の列ができていた。「無理ですよ。仕事が山積みなんですから。連日、町の連中まで農具の修理に押しかけている始末で」

「町にも、鋳掛け屋や鍛冶屋がいるだろうに」

「それが、そっちも超満員なんです。回りの町の鍛冶屋が店じまいしているらしく、あちこちから押しかけてるそうで」

「なぜ、鍛冶屋が辞めていくんだ?」

「さあ、もっと楽に儲かる商売があるんじゃないですか」

 頭をひねりながら坂を登る。厩舎の外で馬を洗っていた騎馬隊員たちは、レノスの姿を見ると、大きく手を振った。

「長官どの。おかえりなさーい」

「巡視ご苦労だったな。調子はどうだ」

「みな順調です」

 と、代表して騎馬隊長が答えた。ゲルマニアの南に位置するラエティアの生まれで、名をウォーデンと言う。

 根が静かな男で、あごひげもスピンテルに比べれば、ごく控えめだ。スピンテル隊長の後を継いで、個性の強い隊員を率いていくのは大変だったろうが、見事にその難役をこなしている。

「今回は、東の塔の向こうのほうまで巡ってきました」

「どうだ。あたりの様子は」

「平穏ですね。ピクト族が侵入した形跡も見当たりません。ただ……」

 ウォーデンは、少し言いよどんだ。「クレディン族がこの一帯の部族を集めて、ひそかに集会を開いていると思われます」

「集会を?」

 八年前に氏族の叛乱を鎮圧したとき、ローマ帝国は氏族に対して、『無許可での集会』を禁じている。

「なぜ、そう思う?」

「数ヶ月前に巡視に出たとき、隊員のひとりが偶然に、氏族の男たちがカシの森に入っていくのを見かけたのです。不審に思って、それからもたびたび、巡視に出るたびに隠れて見張ることにしました。ごぞんじのように、彼らは文字を持ちません。時間の観念もローマ人に比べれば曖昧です。集会を招集するときは、口伝えで知らせるので、全員がそろうまで何時間も何日もかかることも不思議ではありません」

 「しかし」と、騎馬隊長は落ち着いた声で続けた。「どうやら一ヶ月に一度、ほぼ同じ日、同じ時刻に氏族たちは集まり、二時間ほどすると帰って行くようなのです。昨日、人気のないのを確かめて森を調べたところ、これが落ちているのを見つけました」

 ウォーデンが差し出したのは、割れた木の板だった。ローマ人が使っている木簡にひどく似ている。そして、その断片には、数字を表わすラテン語が書かれていたのだ。

「氏族たちは、木簡をやりとりして、日時を決め、集会を招集しているのだと思われます」

 レノスの胸がざわざわと鳴った。日時計を使って時間を正確に知り、木簡の書状をやりとりする。ローマ人が使っている方法を、近隣の氏族たちに伝え、彼らの代表を招集して、ひそかに素早く秘密の集会を持つ。

 知る限り、そんなことができる人間はひとりしかいない。

「長官どの。どうしますか」

「捨て置け」

 少し考えて、レノスは答えた。「集会禁止令は、もう八年前のものだ。氏族同士で、ピクト人の侵入を防ぐ相談をしているのだとすれば、集会を禁じる理由はない」

「ローマに刃向かうための相談でなければよいのですが」

 ウォーデンは、少し含みのある答えを返した。「わかりました。これからも見張りは続けます」

「頼む」

 ローマに刃向かうための相談?

 丘を降る足は、せかせかと早くなる。ありえない。彼がローマに刃向かうことなど。

 長い塁壁に登って、哨戒兵たちに声をかけて歩いているうちに、レノスのみぞおちに突き刺さった針は抜け落ちて行った。

「ゼノ」

 今は、ときおり小さな声で名を呼ぶことだけが、ふたりの唯一の絆だ。

 ゼノ。おまえは今、何をしている。彼がいるはずの方角を見晴らしながら、心の中で語りかける。

 元気か。ピクト人との戦闘で怪我はしなかったか。砦の創立記念日の招待状を送ったのに、何の返事もないのはどうしてだ。

 おまえに会いたい。

 おまえも今、南の方角を見て、わたしの名を呼んでくれているのか。



 元剣闘士のリュクスは、二年前にクリストゥス信者に加わる洗礼の儀式を受けたものの、それにふさわしく神妙にしているというわけでもなく、相変わらず暇さえあれば遊び回っている。

 もちろん、ユニアとの仲は全く進展していない。

 慣れた足取りで司令本部に入ってきて、自分のものと決めている椅子にどかりと座る。

 ふたことみこと、レノスと陽気な世間話を交わしたあと、声ががらりと変わった。

「ゼノのやつ、人が違ってしまったんじゃないか」

 憤慨した調子でまくしたてる。聞けば、リュクスは行商人ガヴォの手助けという名目で、クレディン族の村を何度か訪れているらしい。

「盟友の俺が会いに行ってやってるんだぜ。それなのに、一度も会えたためしがねえ。居留守かなんか知らねえけど、あんまり水臭いじゃねえか!」

「昔のことは、忘れたがっているのかもしれないな」

 会計係の机の前で頭を抱えていたフラーメンが、くぐもった声で言った。机の上には、まだ計算の終わっていない蝋板が山積みになっている。

「忘れたがってる? なんでだよ」

「族長が元ローマの奴隷だなんて、村人の前で格好がつかないだろうが。族長の誇りってもんがあるだろう」

 指を一本ずつ折っては、不器用な鉄筆づかいで蝋板に数字を書きこんでいく。「氏族の中には、いまだにローマを敵視してるやつらも多い。信頼を勝ち得るまでは、ローマ人に近づくことも許されないんじゃないか……おい、おまえの指を貸せ!」

「信頼を勝ち得るまでって……いつまでだよ」

「知るか、そんなこと……お、ちょうどいい。おまえの指も貸してくれ」

 部屋に入ってきたばかりのセイグの指まで総動員して、フラーメンは、せっせと計算にいそしむ。

「……おまえ、よくそれで、会計係が務まるな」

「俺は自慢じゃねえけど、算盤アバクスが使えないんだ!」

「こりゃ、セリキウス司令官がげっそり痩せるはずだ…」

 微笑しながら、彼らのやりとりを聞いていたレノスは、ふと追憶に引きずり込まれた。

――そう言えば、ゼノはいつのまにか算盤の使い方を学んでいたな。

 ローマの下町スブラの子どもたちに教えてもらったのだと言っていた。

――あの頃は、何もかもが楽しかった。

 毎日、浴場の庭でカエサルのガリア戦記の巻物を少しずつ読ませた。子どもたちと泥だらけになって、ボール遊びに興じている姿を眺めた。娼婦と夜をともにしたと勘違いして、平手で叩いたこともあったな……

「……ちょうかん、カルス司令長官!」

 焦れたような声に、ようやく物思いから引き戻される。セイグが木簡を机の上に置いた。「隊長から、馬の餌代の追加の見積もりです。承認をお願いしますとのことです」

「あ、ああ、すまん、すぐに見る」

「外で待っていますので」

 レノスが木簡を手に建物の外に出ると、セイグは自分の馬のたてがみを撫でながら、途方に暮れたような顔で遠くを見つめていた。

「待たせてすまんな」

「司令長官どの」

 クレディン族出身のセイグの瞳の色は、セヴァンとよく似ていた。目を伏せると、暗雲を閉じ込めたような灰色になるところも。

「先ほどのリュクスの話ですが……俺も同意します」

「なんだと?」

「ゼノは別人になっています。もう、ここにいた頃のあいつではありません」

 レノスは、声が震えないように注意を払った。「なぜ、そう思う?」

「去年の徴税の季節に、クレディン族の村に司令長官どのと一緒に赴きましたね」

「ああ」

「あのときはお話ししませんでしたが、実は俺、ゼノの姿を見かけたんです」

「見たのか」

「はい。物陰に隠れ、じっと長官どのを見ていました。そのときの目が……」

 セイグは舌を焼く炭を吐き出すかのように、言葉を吐き出した。「あなたを心底から憎んでいる目でした」

「わたしを……」

 憎んでいる?

「残念です。やつはあなたに心から仕えているように見えたのに……」

 セイグは悔しげに唇をゆがめた。「いえ、ここにいたときは、本当にそうだったのかもしれない。でも、人間は変わります。生まれ育った村に帰って、氏族の言葉をしゃべり、氏族に囲まれて暮らしているうちに、古い生き方を思い出してしまったのかもしれない――ローマを侵略者として、仇として憎む心が、蛇のように鎌首をもたげてきたのかもしれない」

「話してくれて、ありがとう」

 冷静に答えようと努めたが、あまりうまくいったとは言えなかった。「今のことは、胸のうちに納めておいてくれ。誰にも話してはならない」

「承知しました」

 事務室の中からは、いまだにフラーメンとリュクスが冗談を言い合っている陽気な声が聞こえる。その部屋に戻る気になれずに、裏に回って自室に戻った。

 寝台に倒れこむ。

「そうなのか、ゼノ」

 腹の底からの吐息が、からからに乾ききった唇をくすぐる。

 フラーメンが言ったように、村人の手前、ローマに憎むふりをしなければならないのか。

 それとも、本当にわたしを憎む心が芽生えてきたのか。小さい頃アイダンと火に当たっていた炉端に座って、たくさんの思い出にひたっているうちに、おまえはわたしへの憎しみを思い出してしまったのか。アイダンを殺したわたしを、もう一度憎むことに決めたのか。

 指を伸ばして、唇に触れた。ふっと、笑い声が漏れる。だが、そんなことはありえないな。

 ありえない。わたしが一番、それを知っている。去り際に、おまえがこの唇に残した焼き印が、今もわたしの心に刻みつけられているのだから。おまえを疑うことなど、できるものか。

「ゼノ。おまえはいったい何を怒っている」

 族長として民を率いていく重責が、つらすぎるのか。もしや、まだローマの犬と陰口をたたかれているのか。

 わたしを憎むふりをするならば、それでいい。来て、わたしをなじれ、兄を殺した仇だと罵倒しろ。おまえに一目会えるなら、それで本望だ。

 おまえの焦りを、苛立ちを、わたしは全部受け止めてやる。

 だから、早く、会いに来てくれ。イヌワシが空を駆けるよりも早く。



 それからしばらくは、何ごともなく、晴れた穏やかな日々が続いた。港町の司令本部に行く日が来ていたが、レノスはその日を一日延ばしにしていた。

 空気に混じる焦げくささのような、ほんのわずかな予兆を感じ取っていたのかもしれない。

 その予兆のひとつは、司令本部から届いた報告書だった。

 鉄や銅の在庫が極端に減っているという。理由はわからないが、北ブリタニアに流通する金属の量が激減しているのだ。鍋や武具と言ったものから、ブローチやブレスレットなどの装身具に至るまで、金属という金属がすべて品薄なのだ。

「そう言えば、鍋をなおすのも順番待ちと言っていたな」

 とりとめもなく記憶をさぐっていたレノスは、座っていた椅子から思わず、腰を浮かした。

 金属の品薄。そして、次々といなくなる鍛冶屋たち。

 ローマは八年前の氏族との戦争以来、氏族の村で鉄を精錬することを禁じている。クレディン族の炉も完全に打ち壊された。だが、もし、彼らがひそかに各地の鍛冶屋を呼び集め、金属を大量に買い占め、村の中ではなく、どこかの山奥で大量の武器を作っているとしたら――。

 無論、ひとつの部族だけでできることではない。

 この土地の氏族たちは、互いに反目こそすれ、協力しようとはしなかった。八年前の戦いは稀有な例外だったが、それでも彼らの中にわだかまっていた不協和音のせいで、ローマはかろうじて勝利したようなものだ。

 だが、もし氏族を越えて団結しようと呼びかける指導者が現われたら。素早くものごとを決断し、広い知識を持ち、強く人心を惹きつけ、若者から老人までの信頼を勝ち取ることのできる、すぐれた指導者。


『なにせ、このおにいちゃんは、ブリタニアのウェルキンゲトリクスだからな』


 昔、スブラの子どもたち相手に、戯れに言った言葉を思い出し、レノスはぶるりと大きく身震いした。

「司令長官どの」

 赤毛の司令官が、申し訳なさそうに声をかけた。

「ルスクスがあまりに遅い、遅いと騒ぐので、騎馬隊を迎えに出してよいでしょうか」

「ああ、そうか」

 レノスは、蝋板を畳んで机に置いた。「今日は、輸送隊が到着する予定日だったな」

「いつものことながら、一度言い出したら聞かないもので。ときどきルスクスのやつを干し肉といっしょに天井からぶらさげたくなりますよ」

「重みで屋根が抜ける覚悟があるならな」

 セリキウスがぶつぶつ言いながら出ていくと、レノスは立ちあがった。ルスクスが騒ぐのはいつものことだが、今日は自分まで、なぜか落ち着かないのだ。

 なんだろう。何かがいつもと違う。

「司令長官どの!」

 若い兵士があわてた様子で飛び込んできたが、かろうじて敬礼を忘れなかった。「セリキウス司令官は、どこにいらっしゃいますか」

「厩舎だと思うが。どうした」

「それが……」

 兵士は口ごもった。「塁壁で哨戒の当番に当たっていたのですが……川が変なのです」

「川?」

「川の水量がどんどん減っていくのです」

 北の砦は、草原を南北に流れる川のほとりに立つ。取水口から取り入れた豊かな水は、兵士たちの飲み水、洗濯、便所や浴場まで賄っている。

 レノスが部下とともに塁壁に駆け上がると、果たして状況は兵士が説明したとおりだった。見守る間にも水位はじりじりと下がり、ほとんど川底が透けて見えるまでになっていた。

「今年は、雨が少ないせいでしょうか」

「ばか、そんなはずあるか」

 すぐに将校たちが、会議室に招集された。

「おそらく、誰かが上流で川を堰き止めているのです」

 土木将校のカイウスが、羊皮紙の地図を指差した。「そうだとすれば、このあたりです。川が蛇行し、片側の川底が浅くなっているところから石を積んで堰を築いたのだと思います」

「だが、そのあたりは巡視したばかりです」

 出払っている騎馬隊長の代わりに出席した副官のペイグが弁解した。「わずか一週間前です」

「まさか、連中はたった一週間で川を堰き止めたというのか」

 筆頭百人隊長のラールスがうなった。「蛮族どもが、ローマ軍の土木技術をしのいだというのか」

 一同は押し黙った。誰もが、ひとりの男の顔を思い浮かべている。

「くそう、ゼノのやつ!」

 とうとう、フラーメンが沈黙に耐えきれなくなった。

「まだ、そうと決まったわけじゃない」

「やつに決まってますよ。こっちの巡視の間隔まで、やつなら全部知り尽くしている。いつ巡視があって、いつ哨戒兵が交代して……こちらの手の内は全部読まれているんだ」

 そのとき、ペイグが「あ」と目を見開いた。

「ゼノなら、輸送隊が到着するのがいつかも……知ってますよね」

 戦慄に将校たちが顔色をなくしたとき、司令本部の外で、ひづめの音と馬のいななきが聞こえた。

「カルス長官どの!」

 飛び込んできたのは、輸送隊を出迎えに行ったはずの騎馬隊長だった。

「輸送隊が……襲われました!」

 ウォーデンは、汗と泥にまみれた真っ黒な顔に、目だけを白く光らせていた。

「谷底の茂みに、隊員たちが縛られているのを見つけました。森の中にひそんでいた氏族の大軍に襲われ、あっという間に……ひとたまりもなかったそうです」

 フラーメンがたよりにしていた杖が、ころころと床にころがった。「俺たちの半年分の給与と、冬の食糧が奪われた……だと?」

 「それだけではありません」と搾り出すような声で、ウォーデンは続けた。

「沼に架かる木橋が落とされ、大岩がころがされ、南に向かう道は完全に封鎖されています。信号塔も破壊され……見張り兵も殺されました」

 レノスは茫然と椅子に崩れこんだ。

 これでは、南へ向かう軍用道は使えない。のろしで窮状を知らせることもできない。救助を乞う早馬を飛ばしても、途中で捕まる。たとえ首尾よく着けたとしても、南の要塞から援軍が尾根づたいに迂回してやって来るには、何日もかかるだろう……だがそれも、氏族の待ち伏せがなければ、の話だ。

 その夜、塁壁の見張り兵がもうひとつの報告を持って来た。一頭の馬が砦に近づき、乗り手は矢を放って、走り去って行ったというのだ。

 門に突き刺さった矢には、丸めた羊皮紙が結びつけてあった。

 見覚えのある筆跡だった。大きく、少し角ばった、涙が出るほどなつかしい彼の筆跡。

 レノスは震える手で書状をセリキウスに渡し、セリキウスはうわずった声で皆の前で読み上げた。


『氏族連合の王、クレディン族のセヴァンが、北の砦のローマ軍に告ぐ。

 きさまたちローマ人が北ブリタニアともカレドニアとも呼び、不法に支配してきたこの一帯は、われわれ氏族が祖先から受け継いできた土地である。きさまたちのものではない。

 ローマの戦士の長は、明日の夜明けから数えて二日以内に、北の砦からすべての兵を引き上げて、南のハドリアヌスの長城まで撤退せよ。

 もし、この命に従わなければ、われわれはブリタニアの全氏族共通の自由を掲げて、最後のひとりになるまでローマと戦う』


 羊皮紙が司令官の手の中でくるりと丸まったとき、男たちの中から怒号の嵐が沸き起こった。

「氏族連合の王だと……元奴隷ふぜいが何様のつもりだ」

「ふざけるな! ローマ軍をこの地から追い出すだと?」

「裏切られた……あいつなら、ローマと氏族の橋渡しになってくれると信じてたのに」

 部下たちの罵声を、遠くの森のざわめきのように聞きながら、レノスは心の中で、ただひとつの名を呼んでいた――体をふたつに引きちぎられるような痛みとともに。

(ゼノ、なぜだ)

 おまえは、わたしをこの地から追い出そうというのか。

 おまえは氏族の心を取り戻し、ローマ人のわたしを憎むべき敵とみなすのか。

 いつか必ず迎えに来ると約束したのに、あれは偽りだったのか。わたしたちは、どこまでも相容れない存在なのか。

 ゼノ。

 おまえとわたしは、アイダンのときと同じ運命を繰り返してしまうのか。




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