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月の戦士  作者: BUTAPENN
流転
44/62

流転(3)

 ブリタニアの三軍団は、セウェルスに恭順の意を示した。

 彼らが擁立していたアルビヌスは、もはやこの世にいない。抵抗する意味は失われていた。

 レノスのもとに皇帝からの召喚状が届いたのは、終戦から一ヶ月が経ったときだった。

 ルグドゥヌムの町を覆っていた混沌は、大通りを歩いている限りは収まっているように見えた。一般の住民はおずおずと元の暮らしに戻りつつある。だが、港のほうからは、木や石がひどく焼け焦げた匂いが風に運ばれて漂ってきて、下町の破壊と略奪がすさまじかったことを物語っている。

 丘の上にある集会所バシリカは、門が痛々しく壊されているほかは、ほぼ原型をとどめていた。

 奥の広間の大きな卓の向こうでは、軍装のままのセウェルスがきびきびと動いていた。

「ああ、カルス司令官。よく来てくれた」

 名実ともにローマ唯一の正帝となったセウェルスは、敬礼するレノスに屈託ない笑みを見せると、中に入るように促した。

「具合はどうだ。足にひどい怪我をしたそうだが」

「なんとか、手を借りずに歩けるまでには回復いたしました」

「そうか。ひどい戦いだったからな」

 セウェルスは椅子に深々と腰かけ、座るように手で合図した。レノスは丁重にそれを辞した。

「さすがに疲れたよ。くたくただ」

 セウェルスはあご髭をもてあそびながら、弱音を吐いた。「だが、ぐずぐずもしておられん。残りの処理が終わり次第すぐにローマに戻って元老院での演説だ。それから再び東方への遠征が待っている」

 頑なに沈黙を守って立つレノスを見上げて、皇帝はふふっと苦笑を漏らした。

「わたしはきみのことを、以前から高く買っているのだよ。わたしの親衛隊に入ってもらいたいとひそかに願ってもいた。だが、今となってはもう、昔のように腹を割っては話せないのだろうな」

「モグンティアクムで牢から出していただいた恩を忘れるつもりはありません」

 レノスは視線を合わせず、固くかすれた声で答えた。「ですが、陛下。あなたのなさりようは、とうてい理解ができません」

「アルビヌスにしたことを言っているのだね」

 実際にレノス自身の目で見たわけではない。噂話というのは、長すぎる尾ひれがつくものだ。しかし、セウェルスがアルビヌスの遺体を裸にし、馬で足蹴にしたうえ、首を切り離してローマに送ったという話が兵士のあいだに広まっていたのは、事実だった。

「わかっているよ。きみの言いたいことは。わかっている」

 セウェルスは疲れ果てたように、深々と椅子に沈み込んだ。

「できることなら、手を下したくはなかったよ。だが、わたしは、このような悲惨な戦いを二度と繰り返すつもりはないのだ。尊いローマ軍の精鋭たちが互いにむごたらしく殺し合う内戦など、もう二度と見たくない」

「それなら、なぜ」

「憎悪を消し去るには、憎悪を持つ者がこの世から消し去るのが、一番手っ取り早いのだよ」

 レノスは、喉にせりあがってくるものを感じた。

「そのために、アルビヌスどのの奥方やご子息まで、処刑されたのですか」

「不穏の芽は早めに摘み取らなければならないのだ」

 セウェルスは、苦悩の入り混じった微笑を返した。「アルビヌスとその家族を厳罰に処したのは、彼の配下にあったブリタニア三軍団とヒスパニア軍団の罪を不問に付すためだった。軍団長までも処罰しては、軍は大混乱に陥る。もうこれ以上、ローマを守る兵士がいなくなる事態だけは避けねばならない」

 ローマ皇帝は重々しく立ち上がった。「政治とは、危うい均衡の上に成り立つものなのだ。わかってほしい」と言いながら、レノスに腕を差し伸べる。レノスは、どうしてよいかわからなかった。

 果たして、この方の言っていることは正しいのか。

 いったい、何が正しいことなのか。

 正しいことなど、果たしてこの世に存在するのか。

 混乱したまま、レノスは「承知いたしました」と頭を下げた。

 説得が成功したと見てとるや、セウェルス帝は、表情を冷たく引き締めた。

「カルス司令官。春になってブリタニアへの航路が開いたら、すぐに帰還してもらいたい。北方のピクト人や海の向こうの民が、ハドリアヌスの長城をおびやかす勢いで南下し、町や村を荒らし回っているという報告が届いたのだ」

「……なんですと?」

「軍団がブリタニアから去り、守りが手薄になったことを聞きつけたと見える。ゲルマニアでも不穏な動きがいくつも起きている。今は残されたローマ軍団の全力を挙げて、国境線の守りを固めねばならん」

 レノスは、食いしばって蒼白になった唇を開いた。

「わかりました。配下とともに、ただちに飛んで戻ります」

「もうひとつ、頼みたいことがある」

 敬礼して部屋を出て行こうとする司令官を、セウェルスは呼び止めた。「戦死したファビウス司令長官の代わりに、北ブリタニア辺境部隊を全てきみに任せたいのだが、どうだろう」

 レノスは振り向き、表情を緩めた。

「身に余る光栄ですが、そのお話はなかったことに」

「司令長官への大抜擢だぞ。断るというのか」

「どうかお赦しください。今は、任地である北の砦を守ること以外考えられません。わたしという小さな器には、それが相応です」

「ふん、では、今はそういうことにしておこう」

 セウェルスは元通り、深々と椅子に座った。「奴隷くんによろしく。マントを大切にしろと伝えてくれ」

 皇帝が最後に発した意味ありげな言葉を、レノスは理解できなかった。



 船べりに立ち、白亜の岸壁が近づいてくるのを見て、レノスは身震いした。

 なつかしいブリタニア。最後にこの島を離れてから、有に四年という歳月が経つ。

 ガレー船はゆるりと港に入り、がりがりという櫂の大きな音を立てて、桟橋に停泊した。鉛入りの木碇が降ろされ、もやい綱が桟橋に投げられたとたん、四年前とはみちがえるほど背が高く、たくましくなった司令官づき奴隷が、真先に船べりから飛び降りた。

(以前は、船に乗るだけで青くなってガタガタ震えていたのにな)

 なつかしい思い出の中にたゆたいながら、レノスは兵士たちの下船を見守った。

 最後に、太い杖をコトコトと鳴らしながら階段を降りてきたのは、元百人隊長のフラーメンだった。

 その顔には故郷に帰ってきた喜びは一欠片もなく、わら色の金髪はぼさぼさで、老人のように白く見えた。

 戦場で片脚をなくして除隊となった彼は、ここで彼らと別れ、ロンディニウム近郊の父と兄が住むウィッラに身を寄せることになっている。

「元気でな」

 司令官の呼びかけにも頑なな沈黙で答えると、フラーメンは、おぼつかない歩みで去って行った。

「まるで、人が違ってしまったな」

 その痩せた背中を見送りながら、ラールスがつぶやいた。彼は、盟友の変わりように、ひどく心を痛めていた。長年苦楽をともにした自分の隊の兵士たちに対してさえも、フラーメンはついに、ひとことも口を利かなかったのだ。

――司令官どの、やめさせてください。

 脚を切断されたときの彼の悲痛な叫びが、今でもレノスの耳の中で木霊している。

「みんな、準備はできたか」

 すぐに百人隊の隊長たちが、司令官のもとに駆け寄ってきた。どの隊も人数が激減しているので、整列を終えるのも早いのだ。

「いつでも、出発できます」

 フラーメンの代わりに筆頭百人隊長に就任したラールスが、代表して答えた。レノスは、愛馬アラウダにまたがった。

「よし、出発」

「おうっ」

 背中に当たった兵士たちの鬨の声は、四年前よりずっと小さく、弱々しく聞こえた。



 街道沿いの町々は、どこも心なしか寂れているように見えた。無理もない。ブリタニアに駐留していたローマ軍団のほとんどが、わずかな防衛を残してガリアに遠征していたのだから。治安は悪化し、盗賊も各地に出没しているらしい。街道を行き交う人々も、不安におびえているかのように、肩をすくめて小走りに急いでいた。

 ハドリアヌスの長城が見えてきたのは、十日間の陸路の旅を経た後だった。

 褐色のヒース、緑のワラビ、黄色のハリエニシダの花が、なだらかな丘を縞模様に染め上げている。そして、石の長城は日差しを受けて白っぽく、傲然と輝いていた。見渡す限り大地を横切る防壁の連なりは、ブリタニアにまだローマの支配が及んでいることを、誇らしげに示している。

 レノスは馬を止めて、美しい春の景色に見入った。

「ここは、何も変わらないな」

 みぞおちが痺れるような思いで、セヴァンは馬上の主人を見つめていた。

 レノスが今のような穏やかな笑みを彼に見せることは、もう何か月もなかったような気がする。ずっとふさぎこみ、何かを考え込んでいた。

 だが、彼らはついに帰ってきたのだ。疲れた心も体も少しずつ元気を取り戻すだろう。

「急ぎましょう」

「ああ」

 レノスはうなずき、手綱を握りなおした。

「見たところ、このあたりは被害はないようですね」

「砦で聞けば、様子がわかるだろう」

 砦の司令官に訪いを入れると、すぐに部屋に招き入れ、北の情勢を話してくれた。

 二年ほど前から、顔をおどろおどろしい色に塗った、ローマ人が「ピクト人」と呼んでいる北方部族が町や村を襲うようにになった。

 海の向こうからやってくるサクソン人に押し出されるように南下するのだと言う。サクソン人も、ローマの内乱を聞きつけ、食糧と富を求めて渡ってきたのだろう。

「去年の刈り入れどき、きみの北の砦がピクト人の襲撃を受けたという報告が届いたよ」

 初老の司令官は先輩めいた、宥めるような笑いを浮かべた。「でも、心配するには及ばん。たいした攻撃ではなかったそうだ。冬になると退却し、二度目の来襲はないという」

 それ以上の、詳しいことはわからなかった。

 長城をくぐって、『ローマの外』に出ると、防壁が作った長い日陰には、融けきらない根雪が、まだ冬のなごりを残していた。

 畝で区切られた耕作地も緑の牧草地もない、荒涼とした風景。

 氷河の作り出した起伏の多い大地。広大な森林と、凍りついた湖と、ヒースの生い茂る不毛な湿地。これが、第七辺境部隊が四年のあいだ、夢にまで見た故郷だった。

 もうすぐ、なつかしい砦に着く。休もうとしても足が止まらないと言い交わしながら、兵士たちが足早に急いでいると、はるか向こうの尾根に、手を振っている騎馬隊が見えた。

 北の砦から、迎えが差し向けられたのだ。彼らが到着することは、はるか南から順繰りに送られてきた信号塔ののろしで、いち早く彼らに伝えられたらしい。

 双方は歓声を上げて、抱き合った。

「四年間、仲間の帰還を指折り数えて待っていたんですよ」

 騎馬兵たちの陽気な近況報告は、砦までの行軍のあいだ、絶え間なしに続いた。仔馬が三頭も生まれたこと。町の女との仲がこじれた兵士のひとりが、箒で追いかけ回されたこと。帰還兵たちは、他愛のない話に笑いころげ、もっと話してくれとせがんだ。

 そして、ついにピクト人の攻撃のことに話は及ぶ。

「こちらの大勝利です。奴らはこてんぱんになって逃げていきましたとも」

「なあに、怪我など、ほんのかすり傷でした」

「スーラさまが義勇軍を募って、町の防衛に尽力してくださったのです」

「スーラどのが?」

「悪い脚を引きずりながら、剣闘士のリュクスとともに、大活躍されました」

 レノスは安堵のあまり膝の力がすうっと緩み、もう少しで馬から転げ落ちそうになった。

 そうだ、北の砦には、彼らがいたのだ。このあたりのことを知り尽くした北の砦の元司令官と、勇猛果敢な剣闘士が、主力軍の留守のあいだ、砦を側面から支えてくれたのだ。

 北の砦の町じゅうが、まるで凱旋将軍を迎えるように沸き立っていた。ブリタニア軍団が敗北し、アルビヌス総督が死んだことを知っているだろうに、彼らはそんなことには全く頓着していないように見えた。

「司令官! ゼノ!」

 通りの両側を埋める群集の中から、金髪の大柄な男が飛び出して、隊列のわきを猛然と走ってきた。

「リュクス!」

「おかえり! 無事でよかった。ひどい戦いだったらしいな」

「この町をピクト人から守ってくれたそうだな。礼を言う」

「なあに。ゼノの言いつけどおりにしたまでさ。スーラさんもフィオネラさんもユニアも、あんたたちに会いたがってるぜ。いろいろ積もる話もあるし、落ち着いたら会いに来てやってくれや」

「ああ」

 レノスは、手を振りながら人ごみの中に消えて行ったリュクスから目を転じて、横を歩いている奴隷を見た。

「今のは、どういう意味だ」

「さあ。何のことかわかりません」

 砦の門をくぐると、興奮は最高潮に達した。ラッパ手は高らかにラッパを吹き、兵士たちは盾や槍やありとあらゆるものを打ち鳴らして、本隊の帰還を祝った。

 中央広場では、司令官代理として留守を担っていた百人隊長セリキウスが、将校たちとともに整列し、敬礼して彼らを出迎えた。

「おかえりなさい。ご覧のとおり、砦は無事です」

 赤毛の百人隊長は、大役を果たし終えて、ほっとしているようだった。「春になっても、ピクト人の姿はとんと見かけません。どうぞ安心して風呂につかり、旅の疲れを癒してください」

「よくやった。セリキウス」

 金の月桂冠をかぶった赤い竜、第七辺境部隊の軍旗が四年ぶりに広場に立てられたとき、笑い声とすすり泣きが同時に湧き起こった。

   長い旅だった。長い、はるかな旅だった。とうとう彼らは、北の砦に、なつかしい故郷に帰ってきたのだ――大きな代償と引き換えに。

「司令官どの!」

 太った男がダミ声を上げ、隊列を掻き分けて、レノスに近寄ってきた。

「ルスクス!」

「遅かったな。待って待って、待ちわびたぜ。あんたらに食べさせてやろうと、とぼしい配給やワインを、思いくそ切り詰めて、あのくそったれな倉庫をいっぱいにして待ってたんだぜ」

 腹をゆすって笑う巨漢に、兵たちのあいだから、どっと笑いが起きる。

「会いたかったよ。ルスクス。おまえの、そのくそったれな倉庫から出てくるご馳走が楽しみだ」

「ああ、楽しみにしててくれ。それはそうと」

 補給係は、何かを探し求めるように、あたりをきょろきょろと見回した。

「なんだ。残りの連中は、別行動なのか」

「え?」

「スピンテルも見当たらないし、第一、フラーメンがいないじゃねえか」

 場の空気がゆっくりと凍りついた。皆の沈黙の意味に、ルスクスはようやく気づき、顔をひきつらせた。

「スピンテルは戦死した」

 レノスは、一本調子の声で答えた。「フラーメンは片脚を失って、除隊した。ここにいるのが、帰還した部隊の全員だ」

「ま、まさか」

 ルスクスは、ぼうぜんと兵士たちの顔を見渡した。「ちょっと待ってくれよ。スピンテルは殺したって死ぬようなタマじゃねえ。何かの間違いだろ。それに、……ネポスだ。あいつもいねえ。俺のところに来て、いつも在庫に難癖つけてたネポスが……。冗談だろ、あいつは会計係だ。剣なんか持てやしねえ。司令官どの、まさか」

「ネポスも死んだ」

 うなだれるレノスの胸倉につかみかからんばかりの勢いで、ルスクスは詰め寄った。「なぜ――司令官どの、あんたがついていながら、なぜ、死なせたんだよ」

「すまん」

「大隊が半分しかいなくなっちまったじゃねえか。どうすんだよ、俺がどんだけ苦労して、五百人分の食糧を貯めこんだと」

「……すまん」

 他の兵士たちが動くより一瞬早く、セヴァンが後ろから飛び出し、ルスクスの腕をねじりあげた。

「それ以上、口をきくと――」

 獣が、噛み殺す相手に向かって低くうなるようだった。「二度としゃべれなくなると思え」

「やめろ、ゼノ」

 レノスは穏やかにたしなめ、首を振った。「放してやれ」

 しかたなく腕を放すと、ルスクスはその場にへたへたと座り込んだ。「まさか……何でだよ」

「ルスクスの言っていることは間違っていない。部下の死は、司令官であるわたしの責任だ」

 周囲はしんと静まりかえる。二度と砦の門をくぐることがかなわない仲間たちを思い浮かべて、誰もが押し黙った。

「今日はこれで解散する。それぞれ宿舎に入り、ゆっくりと疲れを癒してくれ」

 命じ終えると、レノス自身も将校宿舎に向かう。その後ろ姿は、まるで幽霊が歩いているように、生気がなかった。



「司令官どの」

 間近で自分を呼ぶ声に、レノスははっと我に返った。

「あ、ああ。どうした」

「模擬戦が終わりました。次はどうしますか」

 日焼けと埃で顔を真っ黒にしたラールスが、いぶかしげにこちらを見ている。

「ご苦労だった。今日はこれで訓練を終了する」

「承知しました」

 土ぼこりを上げながら、兵士たちがきびきびと十人隊ごとに整列する。解散を見届けてから、レノスは演習場から立ち去った。

「司令官どのは、このところ元気がないな」

 後ろ姿を見送りながら、ラールスは脱いだ兜をくるくる回した。「いくら頼んでも、稽古をつけてくれない」

 使われずじまいだった主人の剣や槍を片付けていたセヴァンは、からかうように言った。

「俺でよければ、相手を務めましょうか?」

 ラールスは笑みを浮かべそうになって、あわてて口元を引き締めた。「馬鹿言え。奴隷なんか相手にできるか」

 相棒のフラーメンがいなくなってから、ラールスも寂しいのだ。

 以前に比べて、ずっと明るく饒舌になったのは、無意識にフラーメンの言動をまねているからだろう。今のラールスは、二人分の荷を背負っているのだ。

「ゼノ。司令官どののそばにいてやってくれないか」

 セヴァンは目をまばたいた。「言われなくても、それが俺の仕事です」

「そうだな。俺は何を言ってるんだろう」

 ラールスは、色褪せた青空を見上げてぽつりと言った。「ただ……とりわけ今は、そうしてほしいんだ」



 一ヶ月ほどして、スーラ元司令官がレノスとセヴァンを家に招いた。

 四年前の美しい夏の夕暮れ、新しい花嫁を迎えて華やかに装っていた家は、歳月を重ねた分だけ落ち着いた風情でたたずんでいた。

 玄関広間は南国ローマの様式を模していたが、明かり取りの天窓はなく、その代わりケルト風の暖炉が設えられ、座り心地のよい長椅子がその周囲に配置されていた。

 スーラとフィオネラは、客が身も心を安らげるように気を配ってもてなした。あえて戦争の話は避け、軽やかな笑いを誘う話題を選んだ。

 フィオネラは、以前のような高く結った髪型をやめ、ユニアとおそろいの質素な毛織の服に身を包んでいた。スーラと結婚してすぐに妓楼をたたみ、そこにいた女性たちとともに、羊毛を紡いで商っているのだと言う。

 夫妻が、目配せをするだけで互いの考えを通わせていることが、セヴァンの目には不思議に映った。

 食事はローマ風に寝そべるのではなく、椅子に座って食卓を囲んだ。スーラ夫妻、レノス、リュクス、そして驚いたことに、ユニアとセヴァンも同じ食卓につくように言い渡された。

「神の御前には、自由民や奴隷の区別はないのだよ」

 スーラの口から出る言葉に、レノスは首をかしげた。

「どういう意味でしょうか」

「わたしたち夫婦は、ユニアと同じくクリストゥスさまの弟子になったのです」

 フィオネラが微笑みながら、言葉を添えた。「今はこの場所をささげて、家の教会として使っています。だから、奴隷や自由人の区別なく、同じ食卓につくのですよ。それに、ユニアはもう奴隷ではありません」

 ユニアは恥ずかしそうに微笑み、うなずく。「スーラさまは、神の御名において、わたしを奴隷から解放してくださいました」

「そうそう、実は俺も今度、洗礼ってやつを受けて、仲間になるんだ」

 剣闘士が、骨つき肉を噛みちぎりながら、うれしそうに言った。

「おまえが? クリストゥスの仲間に?」

「ああ。俺が信者になれば、ユニアが結婚してもいいって言うからよ」

「私は、そんなこと言ってません!」

 ユニアは、頬を真っ赤に染めて反論する。

「そんな不純な動機で、信じられるものなのか?」

 セヴァンが疑わしげな眼つきで、リュクスを見た。

「動機なんぞ、どうでもいい。結果が大事なんだ」

「結果も、目に見えてる。ユニアの嫌そうな顔を見ろ」

「くく……げほげほ」

 レノスが水を飲み込みそこねて、苦しんでいる。

 ろうそくの温かなサフラン色の灯の下で、なごやかな団らんは夜が更けるまで続いた。

「そろそろ、おいとましよう」

 レノスが頃合いを見計らって立ち上がったとき、部屋の空気にぴんと緊張が張り詰めた。

「最後にひとつだけ、内密に耳に入れておきたいことがある」

 スーラが口火を切り、フィオネラがすぐに話を引き継いだ。「クレディン族の村が、ピクト人の襲撃を受けたのです」

 レノスは真顔になり、ふたたび椅子に腰を落とした。「いつのことですか」

「昨年の秋、刈り入れのすぐ後だったそうです。商人のガヴォの話では、家が焼かれ、収獲したばかりの麦も奪われたそうです。かなりの戦士が亡くなり、傷つき、族長さまも――」

 夫人は、悲しみをたたえた瞳でセヴァンを見た。

「父が?」

「戦いで深手を負われたと……それ以来、床に臥せっておられるご様子で、ガヴォは固く口止めされた上で、薬を届けるように頼まれたのです」

「クレディン族は、このことをひた隠しにしている。ローマに知られるともっと悪いことが起きると思っているのだろうし、何よりも彼らの誇りがそれを許さないのだ。われわれも、今まで誰にも相談することができなかった」

「今年も刈り入れどきを狙って、やつらがまた襲ってくるのではないかと、村人はびくびくしながら暮らしているそうです。ローマ軍に若者を取られて、村にはもう戦える者がいないのです」

「わかりました」

 とレノスは、途方に暮れたような口調で答えた。

 セヴァンはきりっと唇を噛みしめると、何も聞かなかったかのように平然と立ち上がった。

「さあ、砦へ帰りましょう」

 スーラたちの懸念のまなざしに見送られながら、彼らは家を辞した。

 砦への坂道を登るあいだ、ふたりは無言を通した。せっかく笑みを取り戻しかけたレノスが、ふたたび肩を固くこわばらせている。

 門番の敬礼を受け、砦に入った。

 司令官室に入ると、セヴァンが明かりを点け、いつものようにレノスのマント留めのブローチをはずし、マントを脱がせた。水甕の水を桶に移し、寝台に座ったレノスのサンダルを脱がせ、足を洗う。

 洗い終えた足を布でぬぐうセヴァンの金色の睫毛の動きを、レノスはじっと見つめていた。やがて、ぽつりと言った。

「村に帰れ」

「いやです」

「父上はきっとおまえに会いたがっている。村は今、おまえの助けが必要だ」

「俺はどこへも行きません」

 乱暴に布を桶に突っ込むと、セヴァンは主を睨んだ。

「こんな状態のあなたを残しては、行けません。悪夢にうなされて、夜もろくに寝ていない。いつも苦しそうに考え込んで――何をしていても、うわの空で」

 レノスは彼の燃えるような視線を避けて、顔をそむけた。

「あのひどい戦いの中では、部隊が全滅してもおかしくなかった。そのことは、あなた自身が一番よく知っているはずです。ルスクスの言ったことなど、なぜ気にするのですか」

「違う、ゼノ」

 レノスは膝をかかえ、顔を伏せた。

「……ルスクスがああ言ってくれたとき、本当はうれしかったんだ。誰も、そんなふうにわたしを責めてくれる人はいなかったから……おまえでさえも」

 くぐもった声で続ける。「部下たちをここに無事に連れ帰るという約束を、わたしは果たせなかった。もっと生きたかっただろうに。どんなにか、ここへ帰りたかっただろうに。スピンテルも、アルブスクラも、フィルスも、ネポスも、それにフラーメン……あいつらを犠牲にして、司令官のわたしがおめおめと生き残ってしまった」

 セヴァンは寝台の下にひざまずき、レノスの手に自分の手を重ねた。「あなたが苦しむ必要などない。責められるべきは、ローマの皇帝たちだ。ローマそのものだ」

「はなしてくれ」

 レノスは叫んだ。「わたしから離れろ。おまえがそばにいると、安らぎに浸ってしまう……女に戻ってしまう」

 レノスの目から落ちた雫が、セヴァンの手の甲を濡らす。

「次の刈り入れどきには、ピクト人が攻めてくる。もう誰も死なせたくない……わたしは男でいなければならないのだ。出ていけ。もう二度とわたしに優しくしないでくれ」

 寝台の上に突っ伏したレノスを残して、セヴァンは荒々しく部屋を出た。

「くそっ」

 兵舎の軒先に並べられていた槍を、蹴り飛ばした。槍はがらがらと崩れ、何が起きたのかと寝ぼけまなこの兵士が戸口から頭を覗かせた。

「どんなときも、あの人のそばにいると誓ったのに、そばにいても何もできない」

 ようやく夏の長い日が沈み、つかの間の藍色の夜空に、触れれば切れる糸のような三日月が現われる。

「……いったい、俺はどうすればいい」



 明け方早く、胸壁の哨戒に当たっていた当番兵が、司令官室の扉を叩いた。

「どうしても、司令官にお目にかかりたいという氏族の若者が来ています」

 レノスは寝台から起き上がり、すばやくマントと剣帯を身に着けた。

「どこの部族だ」

「クレディン族です。いくら追い払っても帰ろうとしないのです」

「クレディン族?」

 レノスは、セヴァンと顔を見合わせた。

「すぐに、ここに通せ」

 夜明けの雨に濡れそぼって入ってきたのは、十四、五歳の、まだあどけなさを残した少年だった。レノスと出会ったころのセヴァンを思わせる面立ちをしていた。

「司令官さま。お邪魔して、すみません」

 たどたどしいラテン語でそう言うと、頭を下げる。

「ルエル?」

 薄暗がりに立つ少年に目を凝らして、セヴァンは叫んだ。六年前にはわずか九歳だった末の弟は、見違えるほど大きくなっていた。 「兄さん、セヴァン兄さん」

 ルエルは、すぐに兄の顔を見分けて、走り寄った。そして、レノスにはわからないクレディン族のことばで、こうまくしたてた。

「帰ってきて、兄さん。父さんが死にそうなんだ。今すぐ帰ってきておくれよ。そして次の族長になると、父さんの前で誓ってよ」




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