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月の戦士  作者: BUTAPENN
炉端で
41/62

炉端で(5)



 雨は、夜通し降り続いた。空がうっすらと明るくなるころ、レノスとセヴァンは尾根のふもとを回り込む長い道のりを歩き、ついに盗賊の砦に辿りついた。

 遠目からでも、わが軍が勝ったことはわかった。高々と軍団旗を掲げたウォレロが、誇らしげに砦の門の上に立っていたからだ。金の月桂冠を頭にいただいた赤いドラゴン。ローマ広しと言えど、この軍団旗を掲げることを許されたのは、ブリタニア第七辺境部隊だけなのだ。

「司令官どの!」

 レノスたちを真っ先に見つけたのも、軍旗手だった。やがて門が大きく押し広げられ、部下たちがわっと飛び出てきた。

「司令官どの、どこへ行ってたんです」

「心配したんですよ。今もみんなで手分けして、森を捜し回ってます」

「フィルス、ラッパを吹け。捜索隊を呼び戻すんだ」

 どの顔も泥まみれで、笑うと歯だけが白かった。

「あのとき飛んできた矢で、すぐわかりましたよ」

 フラーメンが褒めてほしいと待っている犬のように、レノスの前に立った。「叫びながら戦ったんです。『カルス司令官の矢だ。われわれの戦いを上から見守っておられるのだ』と。いやあ、みんな張り切ったのなんのって」

「そうか……よくやった」

 首の後ろが妙にむずがゆい。本当は見守っていたどころか、崖から転げ落ちて、無様に泣きわめいていたというのに。

「大勝利です。生き残った盗賊どもは、大将以下、とりあえずは奥の小屋にふんじばって閉じこめてあります」

「案内してくれ」

 レノスが足を引きずりながら歩き出すと、部下たちのあいだから驚愕の声が上がった。「司令官どの。その足は!」

「ああ、たいしたことはない。それより」

 と振り向く。「わたしの奴隷をグナエウスのところに連れて行ってくれないか」

 セヴァンは、力なく砦の柵にもたれて座り込んでいた。唇は青黒く、顔色がない。折れたあばら骨で相当無理をしていたのだろう。

 ふたりの兵士に両脇を抱えられて運ばれていくセヴァンを見送りながら、レノスはつぶやいた。

「それで、こちらの損害は」

「いやあ、五百人足らずでこれだけの戦果を挙げるなんて、末代まで誇っていいですよ」

「フラーメン」

 フラーメンは笑みを消し、のろのろと視線を地面に落とした。

「死んだのは八人。十一人が重傷です」

 あたりには死臭が漂っていた。盗賊たちのなきがらは、砦の片隅にひとかたまりに積み上げられていた。そして、ローマ軍の兵士は少し離れた草むらの上に、布に包んで並べられていた。

 士官の赤いマントに包まれた死体の前に、ラールスが立っていた。

「メシウス」

 十人隊長の遺骸を一目見て、レノスはうめいた。

「いいヤツでしたよ。こいつは」

 ラールスがどこか遠くを見ながら、つぶやいた。「いつも全体に気を配ってくれて、俺にとっては最高の片腕だった」

 レノスは片膝をつき、血糊でごわごわに固まったメシウスの髪をなでた。「ブリタニアに帰してやれなくて、すまん」

 小屋の中には、ざっと百人ほどの捕虜が縛られ、ぎゅうぎゅう詰めに押し込まれていた。

「生き残っているのは、これで全部か」

 見張りをしていた若い百人隊長のアルブスクラが敬礼した。「全部です。戦闘で逃げた者もいますが、多くはありません」

「首領は」

「この男です」

 縮れた茶色の髪を編んで垂らした巨漢が、まっすぐに睨みつけていた。レノスは、痛みをこらえて足を踏みしめ、男の前に傲然と立った。「司令官の、クレリウス・カルスだ」

「……ウォルムスだ」

「おまえたちが、ローマ軍の脱走兵だというのは本当か」

「そんなことを聞いて、どうする?」

 敵の首領は、嘲笑うように口の端をゆがめた。「どっちにしろ主謀者は斬首、残りの者は奴隷になると決まっているのだろう、優男の司令官さん」

 レノスは腰に差していた指揮棒を抜き、男の首のつけねに力の限り振り下ろした。男は息を詰まらせて、しばらくもだえ苦しむ。

 見かけで相手に舐められることの多いレノスにとって、威圧的にふるまうことが、まずは交渉の第一歩になる。

「これだけの人間が一度に降伏したというのは、首領のおまえが命じたということなのだろうと思ってな」

 指揮棒の先を男の鼻先に突きつける。「確かに主謀者は死刑と決まっている。おまえは自分の死を覚悟して、仲間を助けることを選んだ。そうだろう?」

 ウォルムスは沈黙している。

 レノスは苦痛を見せずにどっかと床に胡坐をかき、首領の顔を真正面から見据えた。「どうだ。わたしの部隊に入らないか」

「なんだって」

 小屋の中にいる者がひとり残らず、驚愕に目を見張った。

「この砦の普請。勇敢な戦いぶり。罠の巧妙さ。どれをとっても見事だ。一流のローマ軍だ。殺すには惜しい。敵にしておく限りは、徹底的に殲滅すべき相手だが、味方にすれば、これほど頼もしい者もおらぬ」

「冗談でしょう、司令官」

 ラールスは怒りに拳を突き上げた。「こいつらは、メシウスを殺したんですよ!」

「そうだ。こいつらは、メシウスたちを殺した」

 レノスは立ち上がった。「八人も殺された。みんな、ブリタニアに帰りたかっただろうに。あそこには、生んでくれた父や母が待っているのに」

 そして、自分を見上げるウォルムスから目をそらさずに見つめ返す。「だが、メシウスに親がいたように、この男にも親がいるのだ。ひとりで生れ出たのではない。故あって、この世に生まれ出た命だ」

 復讐は何も生み出さない。レノスとセヴァンが長いあいだ互いを苦しめ合ったように。

「どちらかを選べ」

 レノスは声を引き締めた。

「もう一度、わたしとともにローマのために働くか。それとも、今ここで、残りの生をドブに捨てるか」



 第七辺境部隊が高らかに凱歌を上げながら森から降りて来たとき、砦で待機していた騎馬隊の隊員たちは踊りあがった。二日間、何の音沙汰もなかったものだから、頭の片隅では覚悟を決めていたのだ。

 しかも、降伏した賊軍が司令官への恭順を示し、一気に百人もの兵士が加わったというのだ。喜ばないはずはない。

「まずは、風呂でそいつらの垢をこそげ取ってくれ。そばにいるだけで臭くてかなわん」

 木の枝で作った杖をたよりに歩いてきたレノスは、馬の飼い葉の山に座りこんだ。捻挫と診断された足首は、医者のグナエウスによって包帯で手当されていた。同じく、あばら骨を折った司令官づき奴隷も、胸をぐるぐる巻きに固められていた。

 いつもは、一番臭いと言われている筆頭の騎馬隊長スピンテルは、ぼりぼりと頭を掻いた。

「あいつら、よく投降しましたね」

「せっぱつまっていたんだろう。もう冬も近い。われわれがここに陣を張っていたせいで、一ヶ月略奪に出られず、食糧も底をついていたからな」

「ところでお留守のあいだ、近隣の住人たちがこの陣を襲いに来ましたよ」

「なんだと?」

「誰もいなければ、テントや食糧を根こそぎ奪うつもりだったんでしょう。俺たちがいるのを見て、あわてふためいていましたけどね。試しに二、三人、ふん捕まえたら」

 顔に見覚えがあった。ここへ来る途中に会った村の男たちだったのだ。

「さんざん脅かしてから、放してやりました。懲りて、もう二度と来ないでしょう」

 騎馬隊長が去ったあと、レノスは、セヴァンと視線を合わせた。

「さて、どうするかな」



 大軍を率いて来たローマ軍の司令官は、谷の集落の男たちを全員集めろと、馬上で荒々しく言い放った。

「昨夜はご丁寧に、私の留守中に挨拶に来てくれたそうだな」

 酷薄に微笑む美丈夫に、村人たちは肝を縮み上がらせた。「一ヶ月前、われわれがこの村を訪れてすぐ、盗賊の偵察が現われた。かと思えば、われわれが盗賊の討伐に出払ったとたん、おまえたちは略奪隊を寄こした。なんと、間合いの良いことよ。まるで、盗賊どもとつるんでいるとしか思えぬではないか」

「そ、そんな大それたことをするわけはありません」

「本当にそう言えるのか」

 巡らせた生垣のかげから、ひとりのぼろぼろになった男が引き立てられてきた。

「盗賊団の首領ウォルムスがすべて白状したぞ」

 通訳の若者は絶句して、力なく年長の男たちを見た。

「ローマ軍に逆らえば、どうなるかわかっているだろうな。この村の家々をすべて焼き払い、婦女子を略奪することもできるのだが」

 レノスは拳を固めて突き出し、それを彼らの目の前でふわりと開いた。「だが、それはわれわれの本意ではない」

 その魔術のような手の動きに、ラテン語を解さない者たちも一斉にレノスの口元に目を注いだ。

「聞けば、おまえたちカッティ族と、テンクテリ族とのあいだには、岩塩鉱をめぐって戦いが絶えないそうだな」

 そこにローマ軍の逃亡兵たちがやってきた。この周辺のカッティ族たちは寄り集まり、テンクテリ族との戦いに力を貸してくれることを条件に、彼らに森を住処として与えると決めたのだ。

「どうだ。逃亡兵の代わりに、ローマ全体を味方につけないか」

 レノスは、ゆっくりと村人たちを見回し、誰にでもわかるような仕草で人差し指を胸に当てた。「盗賊たちよりもずっと強いわれわれが、おまえたちを守ろう。岩塩鉱をめぐる部族同士のいさかいを収めてやろう。ローマなら、それができる」

「お待ちください」

 後ろの列から、ひとりの大柄の男が進み出た。屈強で目つきが鋭く、この村の戦士の長であると思われた。

「ローマにいったん与すれば、ローマは根こそぎ俺たちのものを奪っていく。われわれが先祖から伝えてきた生き方を堕落したものに変えてしまう」

「そんなことにはならない」

 レノスは、通訳を介したやりとりの間も、じっと彼の目を見つめ続けた。「われわれは、協力することができるはずだ。互いの生き方を守りながら、平和を保つことができるはずだ」

「欲しいものは戦いの中で勝ち取る。それがわれわれにとって、名誉を重んじる生き方だ」

「子どもや女が飢えることがなく、岩塩のために争い合って血を流すこともない。名誉ある生き方とは、そういうものではないか」

 少し待ってほしいと戦士の長は言い、彼らは議論を始めた。しばらくして、「この集落の一存では決められない。カッティ族の集会で話し合わせてほしい」という答えがあった。レノスは「それまで待つ」と答えた。

「せっかく風呂で洗ったのに、また泥だらけになったな」

 村の門を出ると、フラーメンがウォルムスを助け起こした。

「おい、おまえたちの司令官は、頭が変だぞ」

「うーむ。うすうす気づいてはいたけどな」

「本気でカッティ族に肩入れする気か。何を考えてるかわからん」

「俺にもわからんけどな」

 百人隊長は、そばかすの浮いた鼻を誇らしげにふくらませた。「あの人は、ローマ人だのブリタニア人だのゲルマン人だのと、いちいち区別していないんだよ。みんなが同じように幸せになってほしいと思ってるんだ」

 盗賊の首領は、困惑して頭を振った。「それは、良いことなのか」

「さあ。賢い生き方じゃないことは確かだけど」

 フラーメンは笑った。「これだけは言える。俺たちは、そんな司令官が大好きなのさ」



 黒々としたゲルマニアの森が雪に白く染まり始めるころ、第七辺境部隊は堅牢な冬の陣営を建て終えていた。材木を組んで漆喰を塗り、藁で屋根を葺くゲルマニア式の兵舎。これならば、彼らがこの地を去るときも、この地の民に譲り渡すことができる。

 さらに、ローマ式の浴場に便所。簡素な円形闘技場まで備えた。

 門のわきの広場には、近隣のゲルマニア人がやってきて、リンゴや小麦、塩漬け肉や凝乳、馬の飼料となるカラスムギを売る声でにぎわった。

 カッティ族の戦士の集会では、すったもんだはあったものの、レノスたちとの同盟を結ぶことに最終的に同意した。この近隣の部族たちのあいだで長年争われてきた岩塩鉱の所有権について、ローマ軍が本格的に調停に乗り出すことになったのだ。

 武力による調停は、決してきれいごとではない。だが、刃をまじえた果てに、レノスはカッティ族とテンクテリ族の双方に対して、岩塩鉱を共同で使用する協定を結ぶように提案した。

 血の気の多いゲルマニア人の男たちは、最初は聞く耳を持たなかった。

「戦いで奪うことばかりが、名誉ではない」

 レノスはあきらめずに、何度も熱心に説いた。「食物に満ち足り、民が増え広がることで、もっと多くの土地を開墾し、さらに豊かになる。族長の務めとは、そういうものではないか。平和を作り出すことこそが、民の長としての最大の名誉だと思わぬか」

 交渉は長びき、そうこうしているうちに冬は深まり、雪があたりを覆い尽くすと、兵士たちは幾日も兵営の中に閉じ込められた。



 厩舎を見回って司令官用の宿舎に戻ってきたレノスは、雪まみれのマントを脱いで、セヴァンに渡した。奴隷は暗闇の中、雪を掃ったマントを手探りで薪架の鉄の棒にかけ、炉のそばにしゃがみこんで熾火を掻き立てた。

 昼間は大勢の将校が出入りする広い部屋も、夜は無人だ。

「干し草を作ることを思いついたのは、おまえたちケルトの民だそうだな」

 レノスは、炉端の長椅子に腰をおろした。簡素な木製の椅子に藁と干し草が敷き詰めた袋を乗せて、夜は寝床として使っている。

 炉では勢いよく炎が上がり始め、ようやく部屋の中が明るくなった。トウヒの薪がぱちぱちと音を立てて爆ぜ、心地よい香りが漂う。なべが白い湯気をふわりと立ち昇らせる。

「夏のあいだに作った干し草を地下に貯め、雪にふりこめられる冬に使う。確かに南国の人間には決して思いつかんことだ」

 温めたワインをセヴァンから受け取ると、一気に飲んだ。暖かな液体が喉から胃に伝い落ち、凍えていた体の隅々にまでゆっくりと熱が広がる。

「豊かさを享受しながら、来たるべき厳しい時代の備えをする。北の民は、そのことを肌で知っているはずなのだ」

「くだらないことばかり言っていないで、もう寝たらどうですか」

 主人の饒舌に混じる眠気に気づいていたセヴァンは、冷たく答えた。

 空の杯をひったくって床に置くと、オオカミのマントを頭からかぶり、寝台の足にもたれかかる。

 レノスも、分厚い格子縞の羊毛布にすっぽりくるまると、おとなしく横たわった。

 ふたりの距離は、いつでも手を伸ばせば触れ合えるほどに近い。冬の厳しいこの土地で、大けがに苦しむセヴァンには、炉端の暖かさを分け合うことが必要だった。

 だが、それだけではない。レノスにとって、セヴァンの息づかいを聞きながら眠ることが、何よりの慰めになっていたのだ。ふと夜中に目を覚ましたときに彼のぬくもりを間近に感じると安心する。彼の身じろぐ音を聞きながら、不意打ちのように幸福感に襲われる。

(わたしは、どうかしているな)

 目を閉じていると、藁の屋根にしんしんと雪が降り積もる重みが伝わってくる。

 夜の哨戒の交替のラッパの音も聞こえない。すべての物音は雪に吸い取られてしまい、ゲルマニアの深い森のただ中で、まるで彼らふたりしか生きている者はいないかのようだ。

「ゼノ……起きているか」

 夢と現の狭間でもがきながら、レノスはささやいた。

「なんですか」

 ややあって、すぐ近くで答えがあった。

「おまえは怒っているのだろうな。カッティ族の争いに首をつっこんだことを」

 「何を今さら」と言わんばかりのため息が聞こえた。

「あなたは、それが最善の方法だと思ったのでしょう」

「ああ」

 ローマはゲルマン人を武力で従えようとして、幾度となく失敗してきた。だが、彼らが戦いをしかけてくるのは、根が好戦的だからではない。貧しいからなのだ。寒く土地の痩せた北の民は、温かく作物の豊かな南の国をうらやんでいる。そして、隙あらば攻め込んでくる。

 だから、ゲルマニアが豊かで平和になることが、ローマのためになる。そのために、まず互いの信頼関係を築くのだ。

 ゲルマン人たちは部族に分かれて、相争っている。当面の問題は、岩塩の所有権をめぐる争いだ。それをローマが間に立って調停することで、彼らの信頼を勝ち取ることができれば。

 ローマと氏族が互いの生き方を尊重する。武力による支配隷属の関係ではなく、対等な交易によって互いに豊かになる。

「でも、たぶんそれは無理です」

 セヴァンの押し殺した固い声は、レノスの耳朶を打った。

「そんなきれいごとを唱えても、誰も聞いてはくれません。俺たちは戦って勝ち取ることに、ずっと慣れてきたから」

 強い敵がいるから、民の結びつきは強くなる。自分の貧しさも忘れられる。勝てば戦利品を得て、勝利に酔うこともできる。

 だが、戦いがなくなれば、たちまち民の心は為政者から離れていく。

「アイダンもそうでした」

 炉に積み上げた薪が、燃え尽きて赤黒く変わり、音もなく崩れた。

「兄さんは、あなたの抱いていた理想を実現しようと努力しました。けれど、クレディン族は誰も、そんなものは理解できなかった……村人たちからローマの犬、裏切り者と罵られ、戦いの先頭に立つことで、汚名をすすぐしかなかった」

「アイダンは……さぞ悩んだのだろうな」

 天井を仰ぎながら、ぼんやりとつぶやくレノスを、セヴァンはじっと見つめた。

「さあ、もう寝ましょう。起床ラッパが鳴っても起きられませんよ」

 長いあいだ、ふたりは黙りこくっていた。レノスがうとうとと微睡み始めたとき、セヴァンは言った。

「ずっと聞きたかったことがあります」

「……なんだ」

「兄さんは、あなたが女であることを知っていたのですか」

「知らなかった……はずだ。わたしから教えたことはなかった」

「そうですか」

 規則的な寝息が聞こえ始めたとき、セヴァンはもう一度つぶやいた。

「でも、あなたは、自分が女であることを知っていた」

 オオカミのマントの下に隠れた翡翠色の双眸が、狂おしい光を宿す。

「あなたは、兄さんを……愛していたのですか?」



 長い冬が去り、春の息吹が野山の雪を溶かし、そこここに淡い緑が芽吹き始めた。

 一度、冬営を引き払って長城リメスの砦に戻った第七辺境部隊だったが、準備を整えると再びゲルマニアの地に旅立ち、カッティ族の地から順にテンクテリ族、ケルスキ族の領地へと北進した。

 彼らは同じ氏族の中でも、さらに少数の部族に分かれていて、全体で行動することはあまりなかった。

 レノスは、ひとつひとつの小部族ごとに交渉した。敵意で迎えられれば、ローマ軍の示威行動を見せつけ、受け入れられれば、村に水路を引いてやり、沼地に橋をかけてやった。族長の宴会に招かれて行って、杯を受けた。

 旅人や商人に扮したウォルムスたちを、あちこちの村に派遣し、「あそこの部族は、もうすぐローマと好を結ぶだろう」という噂を広めた。「だから、こっちも早く同盟を結ばないと」

 北国の短い夏、陽が昇ってから暮れるまでの長い時間を、真っ黒に日焼けしながら、第七辺境部隊の兵士たちは毎日行軍し、任務に勤しんだ。

 こうして、ゲルマニアの氏族たちと次々に同盟関係を結ぶことに専念しているうちに、またたくまに日々は過ぎ去り、気がつけば、ハイイロガンが南に渡っていく季節になっていた。

 レノスがモグンティアクムの軍団本部へと赴いたのは、そのころだった。馬を止めては湿原の黄リンドウを眺め、高い空を仰いでは再び決意を新たにして進むという、セヴァンひとりを従えての旅だ。

「閣下。お久しぶりです」

 第22軍団の軍団長ブレヌスは、一年前とまったく同じ姿勢で、大卓の向こうから大儀そうにレノスを迎えた。

「活躍しているな、カルス司令官。長城付近は、すっかり平和が保たれているそうではないか」

「おそれいります」

「略奪を繰り返していたゲルマニアの盗賊どもを、自らの部隊に編入したそうだな」

「彼らは、元々はコンフルエンテスの砦で補助軍に属していた脱走兵です。ふたたびローマに忠誠を誓い、今はわが軍のために役に立ってくれます」

「ふむ。それはともかく」

 軍団長は、待てと言わんばかりに片手を上げた。「きさまの活躍のせいで、また別の種の略奪が始まったぞ」

「は?」

「先日、テンクテリ族の部族の王が使者を寄こした。挨拶の口上を長々と述べて行ったが、要するに贈り物を寄こせというわけだ。これが、体のいい略奪でなくて、なんだと言うのだ」

「ですが、閣下」

 レノスは眉間にしわを寄せた。「報告書にも書いたとおり、彼らは儀礼を重んじる民です。贈り物を求めるのは、彼らなりのローマに対する忠誠の儀式なのです。いったん信頼を勝ち取れば、誓いを破るようなことはしません」

「ばかばかしい。どうして蛮族の身勝手な要求に、いちいち答えなければならんのだ」

「彼らは名誉を重んじます。使者を手ぶらで追い返したりすれば、恥を掻かされたと思うでしょう」

「きみは、やつらの仲間のような物言いをするのだな」

 ブレヌスは、鼻を鳴らした。「きさまは、ローマの味方か、それともゲルマニアの味方か」

「……わたしは、ローマの軍人です」

 レノスは、しゃがれ声で答えた。

「ならばよい。やつらが不平を言い出したら、武力でねじ伏せればよいのだ」

 軍団長が乱杭歯をむき出すと、怒っていても笑っているように見える。「きさまは、そのためにブリタニアから派遣されてきたのだろう」

「わたしは、この地域の治安を回復するために派遣されてきたのです。ゲルマニアで部族同士が小競り合いを起こせば、玉突きのように、豊かなローマに押し寄せてくる。まずは、部族間の平和を図ることが先決と考えます」

「そのような小細工が、ローマ軍人たるものの務めか?」

 レノスの腹の底で、ぴんと張りつめていた糸が震えている。今にも切れそうだ。

「軍人の最上の務めは、自分の兵士をひとりも失わずにすむ方法を考えることです」

 ふたりが挟む大卓の上には、羊皮紙でできたゲルマニアの地図が置かれていたが、この人がそこを巡り歩いたことはないのだと思えた。

「まあ、よい」

 ブレヌスは椅子から立ち上がった。「で、話というのは、いったい何だ」

「お時間を取らせて、申し訳ありません。内密の相談ごとがあるのです」

 レノスは、他に誰もいないことを確かめてから、卓ににじり寄り、声を低くした。

「先ほどの盗賊たちとの話で、奇妙なことがわかったのです」

「奇妙、とは?」

「連中は、長城を越えてこちら側の村を襲ったことはない、と言っています。もっぱら旅の商人を襲うか、長城の向こうの村で盗みを働いていたと言うのです。それでは、連中のしわざとされていた略奪は、誰が行なっていたのでしょう」

 軍団長は、ゆっくりと重々しく部屋を歩きながら、ちらとレノスに視線を投げかけた。その目に暗い影が宿っていた。



「どいてください」

 セヴァンは、立ちふさがる門番をいぶかしく思った。いつもなら軍本部の中庭で待たせてくれるのに、馬を厩舎に入れたとたん、門の外に追い出されたのだ。「俺は、カルス司令官の奴隷です。司令官の用がすんだら、すぐに馬を準備しなければなりません」

「当分は、用のすむことはなかろうよ」

 門番は、槍の房飾りをもてあそびながら、にやにやと笑う。

(何かがおかしい)

 セヴァンはみぞおちにしびれるような痛みを感じた。

 無理やり入ろうとしたものの、詰所から飛び出てきた門衛たちに取り囲まれ、槍の柄でしたたかに頭を殴られた。



「それで?」

 軍団長に促されて、レノスはふたたび口を開いた。

「わたしの奴隷に調べさせたところ、長城の村々から略奪された財宝の一部が、この近くのモエヌス川の上流の町で売られていたということがわかったのです」

「ほう」

「実は、われわれがブリタニアから持ってきた船荷が奪われたときも、その町の倉庫で見つかったのです。ことによると、このふたつは同じ一味によるものではないか」

 レノスは大きく息を吸い込み、ことばを継いだ。「一年前の船荷の横流しには、第22軍団の内部の者が関わっているのではないかという疑念を持ち、そのことを閣下にご報告し、調査をお委ねいたしました。そして、今にいたるまで何のお返事もいただけませんでした」

 上官の横顔を、まっすぐに見据える。「部下を処罰せねばならぬ苦渋のお気持ちはお察しいたします。しかし、村々の略奪となると、もうこれ以上は放っておけません。すみやかに犯人を捜し出して、厳重に処罰してくださいますように、お願いしに参ったのです」

 そして、さりげなく付け加える。「この件については、ルグトゥヌムにおられるアルビヌス総督にも、すでに報告を送ってあります」

 ブレヌスはようやく立ち止まり、レノスに向きなおった。

「話はわかった」

「ありがとう存じます」

「ところでだ。こんな話があるそうだ。あくまでも噂にすぎぬが」

 ゆっくりと含みのある調子で、ブレヌスは言った。「きさまがゲルマニアで自兵を集め、ローマに楯突くことを目論んでおると」

「え?」

「とても清廉潔白な司令官とは思えぬからな。盗賊を自分の軍に加えるなど。おそらくは、ゲルマニアの蛮族どもと結託し、叛乱を起こすための準備なのだろう」

「あなたは……」

 レノスは、ようやく軍団長の真意に気づいて、振り向いた。いつのまにか、逃げ出せないように、入り口は数人の兵士によって固められていた。

「あなただったのか」

 レノスは、ぎりっと歯を噛みしめた。「あなたがすべての不正の張本人だったのか」

「間違ってもらっては困る。わたしは、このライン川防衛に関するすべての軍務に責任のある立場なのだよ。その責務は、一介の補助軍の司令官などには、及びもつかぬ。わたしの指揮に支障を来たすような余計なことをしてくれるとは、きみも困った男だよ」

「わたしを捕えても、アルビヌス総督がすぐに真相を突き止めてくださいます」

「おお、そう言えば、きさまが総督にあてた報告書を運んでいた郵便配達人だがね。ちょっとした手違いで、馬替えの宿駅で止められてしまってね」

 ブレヌスは、高笑った。「とうとうルグドゥヌムの総督のもとには、報告書は届かなかったよ」

 レノスは、素早く体を翻して逃亡を試みたが、兵士たちにたちまち進路をふさがれた。

「くそっ」

 剣は抜けない。同じローマ軍の兵士を剣で斬るわけにはいかない。わたしはローマの軍人なのだ。たとえ、何があろうとローマに忠誠を誓った軍人なのだ。

「ゼノ!」

「いくら総督のお気に入りだとは言え、少し増長していたのではないかな。分を過ぎた行いは人を滅ぼすものだよ」

 兵士たちの手で取り押さえられ、ついにレノスは抗うのをやめた。

 思わずセヴァンの名を呼んでしまったことを悔いた。来てはだめだ。すぐに逃げて、このことをフラーメンやラールスに知らせてくれ。

「カルス司令官。謀反の計画をめぐらせた罪で、きさまを投獄する」

 こんなところで。

「こんなところで、終わってたまるか。わたしは部下たちを、無事にブリタニアに連れて帰らねばならないんだっ!」

 その悲痛な叫びは、石造りの壁に遮られて、外に届くことはなかった。



        第八章  終



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