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月の戦士  作者: BUTAPENN
剣闘士
36/62

剣闘士(6)

 コンモドゥス帝の愛妾マルキアから急使が来たのは、その三日後のことだった。

『皇帝陛下が、あなたがたに会いたいとおっしゃっておられる。至急、わたくしの館に来てほしい』と。

「いったい何だろう」

 レノスは眉をひそめた。「今さら負けたことを恨んで、仕返しをなさるとも思えないが……おまえは行かないほうがよいだろう」

 どうせ、その体では当分動けまいと、まだ肩から胸にかけて包帯が取れないままのセヴァンを、レノスはちらりと見た。「わたしひとりで行って来る」

「いえ、俺も行きます」

 セヴァンは寝台から起き上がる。「あなたひとりでは、心配です」

「心配せずとも、自分の身くらい自分で守れる」

「そういう心配ではありません」

「どういう心配だ」

「わからないのですか」

 そのとき扉が開いて、「何のケンカだ」とリュクスが入ってきた。『ゼノの子分になる』と宣言してから三日。街のどこかに宿を取って、毎日やってくる。様子からすると、どうも日替わりで女性の部屋に泊まっているらしい。

「お、ゼノ。もう起きてだいじょうぶなのか」

「いいから、手伝え」

 バルコニーに干してあったトゥニカをリュクスに取らせ、セヴァンは苦労して腕を通しながら、皇帝から呼び出しがあったことを手短に告げる。

「なんだと。その身体で行くつもりか」

 元剣闘士はうれしそうに胸を叩いた。「よし、俺がパラティヌスの丘を負ぶって行ってやる。心配するな、いざとなったら代わりに戦ってやるからな」

 レノスはうんざりした顔でリュクスを見た。「……少しは事態を鎮めようという気がないのか」



 マルキアの館の庭に招じ入れられた三人は、とまどって足を止めた。以前来たときは花が咲き乱れ、光にあふれていた庭に、寒々しい風が吹いているかのようだった。

 噴水の縁に腰かけていた皇帝の愛妾マルキアは、彼らが近づくのも気づかず、彫像と化したかのように動かなかった。

「御方さま」

 レノスがかたわらに膝をつくと、彼女は泣きはらした目を向けた。

「司令官どの」

「ご書状を受け取り、急ぎまいりました。いったいどうなさったのですか」

「陛下の……ご様子が変なのです」

「どのように?」

「わたくしが話しかけても何もお答えにならず、お好きだった風呂も入らず、ただ無言で玉座に座って、あらぬ方をご覧になっているばかりなのです」

 彼女は、美しいドレープのついたストラの袖で顔を覆う。「わたくし、必死にお慰めしましたわ。神が陛下を愛しておられ、赦しを与えられることを、何度もお話ししましたわ。なのに、いつものように、わたくしにすがりついて赦しを乞われることもなく、ただひとこと、ブリタニアの司令官と奴隷のふたりを呼んでこいと……」

 顔を伏せたまま、何度もいやいやをする。「わたくしではダメなのでしょうか。陛下のお心がわたくしから離れてしまったのでしょうか」

「御方さま。どうぞ落ち着いてください」

 レノスは立ちあがり、傍らに落ちていたショールを拾い上げて、そっと彼女の肩にかけた。

「陛下にお会いしてまいります。全力を尽くして、できることをするつもりです」

「どうか……どうか、お願いいたします」

 侍女の案内を受けて、レノスは館の玄関をくぐった。その後ろに、リュクスの肩を借りて、セヴァンも付き従った。

 肘掛け椅子に座していた皇帝は、赤紫のトーガをまとっていた。白いオオカミの毛皮もかぶらず、ヘラクレスを模した棍棒を握ってもいない。

 その藍色の瞳は、決してうつろな穴ではなかった。入ってきた彼らには見向きもしないが、その表情は思いつめたものを感じさせた。

「陛下。お召しを受け、馳せ参じてまりいました」

 コンモドゥスは、玉座の前に平伏している彼らの上にちらりと視線をすべらせ、もとどおり天井を睨み上げた。

「聞きたいことがある」

「なんなりと」

「なぜ、その奴隷は余を殺さなかった?」

 もの憂げな声で言う。「試合では、完全に余が負けていた。剣で突き殺すことができたはずだ。いや、途中までは迷いなく殺すつもりだったはずだ。それが突然に、余の前にひざまずいた。なぜだ」

 レノスが振り返る。主人の眼差しを受けて、セヴァンは低く答えた。

「あのとき、主がやめろと叫ぶ声が聞こえたからです」

「何万の群集の声の中から、たったひとりの声を聞き分けたというのか」

「はい」

「手を止めれば、自分が殺されるとは考えなかったのか」

「考えませんでした」

「そなたは、なぜやめろと命じた」

 そっぽを向いていた目が、レノスの上にひたと据えられた。「余を殺せと命じられていたであろうに。元老院からか。それともブリタニアの総督からか」

 レノスは、驚きのあまり一瞬、息ができなかった。

 この方は、すべてをご存じだったのだ。元老院とローマ軍によって、皇帝暗殺のために、あの剣闘試合が仕組まれたことを。

 なんと鋭く、澄んだ目だろう。本当にこれが、頽廃と快楽に身を委ねた狂気の皇帝なのか。

「わたしは、何も命じられてはおりません」

 レノスは真正面から睥睨を受け止めた。「わたしのすべきことは、ただひとつ。辺境の一司令官として、ブリタニアの現状を陛下にお伝えすることです。陛下に目を覚ましていただき、労苦している兵士たちを勇気づけ、平和をもたらしていただくことです」

「余にそんなことができると思うのか」

「おできになります」

「ふふっ。もう誰も余には期待しておらぬと思ったのに」

 コンモドゥスは立ち上がった。その立ち姿は凛として寂しい。

「余は11歳のときに、父にダヌビウス川の防衛線へ呼び寄せられた。川を渡って来る蛮族と戦うためだった。打ち払っても打ち払っても、怒涛のように押し寄せてくる蛮族たちが、子ども心に恐ろしくてたまらなかった。理解できなかった。なぜ、彼らはローマをそれほど憎むのか。ローマがもたらす平和とは、彼らにとって何なのか」

 金髪の皇帝は、広間の優美な円柱をひとつひとつ素手で触れながら歩いた。「結局、帝国のもたらす平和と繁栄など、彼らは求めていないのだ。自分たちの生き方を守ることこそが、彼らにとって命よりも大切なのだ。それを脅かすものに対しては、命を捨てても刃向かってくる」

 頭皮が逆立つような心地がした。

 それは、ずっとレノスが自問自答してきたことと同じだったからだ。

「ローマが強くなればなるほど、支配を嫌って蛮族たちは抵抗する。豊かになればなるほど、富を狙って攻め込んでくる。その図式に終わりはないであろう。五十年後、百年後、この国は保たれているだろうか。繁栄の陰に芽吹いた滅亡の萌芽は、大木に育ってはいまいか」

 コンモドゥスは昏い影を瞳に宿らせて、レノスを見た。「ブリタニアの司令官。そなたはどう思う」

 唾を飲もうとしてかなわず、かすれた声で答える。

「わたしも、同じことを考えておりました」

「そなたも?」

「ケルトの氏族は決して凶暴な民ではありません。ただ、彼らはおのれの生き方に誇りを持つあまり、ローマに侵されることを拒むのです。互いを理解し合い、尊重し合えれば、友情を結ぶことは必ずできます」

 アイダンとはじめて腕をからませて握手を交わしたときの感触が、手のひらの皮膚をじわりと熱くする。

「だが、そのためには、われわれローマ人も生き方を変えるべきです。絶えず他の国を攻め滅ぼして、富を集め、住人たちを奴隷に駆り出していかねば国家が成り立たない、そういう矛盾を解決しなければ」

「不可能だ」

 コンモドゥスは柱のひとつの前で立ち止まり、がんと拳を叩きつけた。

「余は蛮族どもと講和を結び、帝都に戻った。だが、ローマに帰れば、民衆は帝国のもたらす富と安寧に身をゆだねきっている。元老院の連中は、指一本動かさぬくせに余をいくじなしと馬鹿にし、姉ルキッラでさえ余を見限った」

 血のにじみ始めた拳を口に含んだ姿は、まるで泣くのを堪えている少年のようだ。若い皇帝にとって、最愛の姉から命を狙われた経験は、心をずたずたに引き裂いただろう。

「皇帝など、奴隷だ。奴隷以下だ。辞められるものなら、すぐにでも辞めたかった。しかし、ローマの法は皇帝の退位を許さぬ。余は一切の政治から手を引き、剣闘試合に夢中になった。同じ奴隷なら剣闘士となって、民衆に自ら娯楽を提供することに決めたのだ」

 肩を揺らして、力なく笑う。「なのに、余が対戦した剣闘士は、ことごとく鉛入りの剣を持たされていたという。ナルキッソスを問いつめて、ようやく認めた。それどころか、試合前に眠り薬まで飲ませていたことも白状した。ライオンを槍で突き殺し、ダチョウを弓で射殺したときも、実力で倒したと思い込んでいたとは……余はまるで道化ではないか」

「陛下。それは違います」

 リュクスが、場違いな大声で叫んだ。「あなたは、俺が対戦した中で一番強い相手でした。ただ、俺やゼノのほうが数段強かっただけのことです」

「誰だ。この男は」

 コンモドゥスは胡散臭そうに金色の眉をひそめて、彼を見た。「あのトラキア剣闘士か。なぜ、ここにいる」

「俺はゼノの奴隷になりました。命を救われた礼に、地の果てまでもついていくと決めたんです」

「せっかく得た自由を他人のために使うのか」

 皇帝は唇をゆがめて、凍てついた笑みを浮かべる。

「お言葉ですが、せっかくの人生、自分のためだけに使っちゃもったいないでしょう?」

 リュクスは、憤然と言い返した。「誰かといっしょに生きるのが、一番いい生き方ってもんです」

 コンモドゥスはのろのろと玉座に登り、力尽きたかのように腰を落とした。

「そなたらはなぜ、他人にそれほど自分を委ねることができるのだ」

 その瞳は、目の前の三人を透かして、ぼんやりと虚空を見つめている。

「どうすれば、大勢の中からたったひとりの声が聞こえるようになる? どうすれば、それほど人と心を通わせることができる? 余は、そんなことはできぬ。余の回りにいるのは、暗殺者か、奸臣どもばかりだ」

 レノスはモザイクの床についた手を、ぎゅっと拳の形に固めた。

「陛下……あなたの目は節穴ですか!」

 火を吹くような咆哮だった。「わたしたちブリタニアのローマ軍兵士は、陛下のために命を捨てているのです。たとえ自分が死んでも、陛下がローマを平和に導いてくださるからと……信じて戦ってきたのです」

 怒りのあまり、身をよじる。「なぜ、それがおわかりにならない」

 そのとき、空気を貫くような鋭い声が響いた。

「皇帝など、やめてしまえばいい」

 セヴァンが顔を上げ、燃えるような瞳で皇帝を見据えていた。「やりたいヤツはたくさんいる。いやなら、やめればいい」

「おまえ、さっきの話を聞いてなかったろ」

 リュクスが、横から肘で小突く。「辞めたいんだけど、ローマの皇帝は死ぬまで辞めるわけにはいかねえって法律で決まってるんだよ」

「いや、お待ちください」

 レノスが噛みつくように叫んだ。「方法はあります。共同皇帝コ・インペラトルを立てればいい」

「共同皇帝?」

「陛下は正帝アウグストゥスのまま、副帝カエサルの名を、元老院の推薦する誰かにお与えになるのです。その方に内政を全て委ね、陛下は帝都を出ればよい……そう、外征という名目で、いずれかの地にご自分の宮廷を構えればよいのです」

 レノスは、自分のことばに自分で興奮して、皇帝のもとににじりよった。

「ブリタニアにおいでください。エボラクムは、第六軍団の駐留する大きな町です。ハドリアヌスの長城に守られており、安全です。みなこぞって、陛下を歓迎するでしょう」

「なにを勝手なことを」

 コンモドゥスは、呆れたように笑い出した。「それも、元老院の差し金か。それともアルビヌス総督の入れ知恵か」

「わたしひとりの思いつきです」

 心をこめて、レノスは言った。「わたしたちの北の砦に一度おいでになれば、どれほどわたしたちがローマを愛し、陛下をお慕いしているか、よくおわかりになるでしょう」

 互いが互いを思いやり、どんな苦難のときも助け合って歩んできた第七辺境部隊の部下たち。なつかしさにレノスは涙ぐみそうになる。

「寒さはきびしく、ローマに比べれば何もないところです。けれど、陛下の捜しておられるものは、きっと見つかるでしょう。マルキアさまとごいっしょに、あの美しい森をご覧になっていただきたい」

「そうか。ブリタニアはそんなに良いところか」

 リュクスが満足そうにうなずいた。「俺は良い選択をしたことになるな」

「その通りだ、なあ、ゼノ」

 セヴァンは、コンモドゥスを睨みつけながら、ほんの少しだけ唇の端を緩めた。

「あんなまがいものでなく、本物のオオカミの毛皮を自分で手に入れたいというなら、俺が狩りに連れていってやる」

 ローマ皇帝は、しばらくの沈黙に落ちた。

「余は、父の遺した玉座を自ら捨てるのか」

 大理石の椅子の腕をぐっと握りしめる。「……それも、悪くないな」



 広間の外には、マルキアが涙を目にいっぱいためて、立っていた。

「陛下のご様子は、どうでしょうか」

「進むべき道を思い悩んでおられます。しばらくは、そっとしておいて差し上げるのがよいでしょう」

「ここにいて、中の声が聞こえました。陛下があれほど話されるのは久しぶりです。いったいどうして」

 愛妾はうなだれ、小さな唇をきゅっと噛みしめた。「どうして、陛下はあなたには心を開かれるのでしょう。わたくしではダメなのです。いつものように神の愛と赦しを語ろうとしても、聞いてくださらない……」

「御方さまは、心の底から陛下のことを大切にお思いなのですね」

 同じ女だというのに、レノスはか弱いマルキアが、いじらしく思えてならなかった。

「どうか、そのお気持ちをぶつけてごらんなさい。神の使いではなく、ありのままのひとりの女として」

「ひとりの女?」

「神の愛など、人の目には見えません。陛下の心に届くのは、あなた自身の陛下に対する熱情です」

 彼女は力なくつぶやいて、うなだれた。「そんなこと、無理です……わたくしは陛下にとって女ではありません。母親なのです。どんなわがままでも受け入れ、すべての罪を赦し……慰めと励ましを与え続ける存在でいなければならないのです」

 レノスは首を振った。

「でも、子どもはいつか、母親から巣立っていくものではありませんか?」



「皇帝は、本当にブリタニアに来るつもりでしょうか」

 レノスの前に皿を置きながら、セヴァンが尋ねた。

「わからぬ。だが、『それも悪くない』とおっしゃった……そんなに動いてだいじょうぶなのか」

「これくらい」

 皇宮から辞した後、リュクスは今夜の寝所に帰っていき、レノスとセヴァンはいつもの貸し部屋にようやく落ち着いた。

 エウドキアが届けてくれた平パンとチーズと冷めた肉団子、安ワインの壺を並べると、レノスは「座れ。いっしょに飲もう」と杯を差し出した。

「皇帝陛下の健康を祈って、乾杯」

 勧められるままに、おそるおそる酒を口に含んだセヴァンは、ひどく咳きこんだ。

「なんだ、酒は初めてか」

「海水で薄めたような、ひどい味がします」

「ぐいぐい飲むんだ。酔っぱらってしまえば、味などわからん」

 レノスは立て続けに杯を干すと、ほうっと息をついた。

「皇帝陛下が外征なされば、ブリタニア全体に金が回る。氏族にとっても悪い話ではあるまい」

「悪い話です。ローマの金の力で氏族の暮らしが変わっていくのを見たくありません」

「そうか」

 これだけローマの壮麗な建築を見て、ラテン語で記された叡智の数々に触れても、セヴァンは昔から続いてきたケルトの生き方が恋しく思われるのだ。ローマ人と氏族のあいだには、まだ越えがたい障壁があると思うと、レノスは悲しくなった。

「そう言えば、なぜ陛下にあんなことを言った?」

 ようやく空になったセヴァンの杯に、酒を注ぎ入れる。「狩りへの誘いは、友情の証だろう。ローマ皇帝を殺したいほど憎んでいたくせに」

「皇帝は嫌いです。でも」

 酒に酔っているのだろうか。ランプの中でセヴァンの瞳は和らぎ、森の淡い木漏れ日のように見えた。

「あの人を見ると、なぜだかアイダン兄さんを思い出します」

「アイダンを?」

 レノスは、ランプの作り出す光と暗闇の境あたりに視線をたゆたわせた。

 生まれつきクレディン族の族長になることを定められていたアイダン。その重圧に耐え、奔放な弟に対する妬みを必死に押し殺していたアイダン。

「確かに、そうかもしれないな」

 なつかしく痛みをともなう思い出が次から次へとあふれ、ふたりは酒を口に含んだ。

「年が明けたら、アルビヌス総督に相談に行こう。迷っている陛下をもうひと押ししてもらうのだ」

 ブリタニアにコンモドゥス帝をお迎えするのは、総督にとってもこのうえない名誉だ。帝位争奪戦も有利になり、兵士たちも熱狂するだろう。

「帝都を離れれば、陛下は堕落と頽廃を断ち切り、お父上のような賢帝になられるはず」

 そして、ローマは良くなる。きっと良くなる。

 レノスは杯を掲げて、椅子から立ち上がった。

「明後日は、新年だ。ローマの全軍団とともに、皇帝に忠誠を誓おう」



 次の日の夜半、部屋の扉を激しく叩く音がした。

 セヴァンが扉を開けると、そこに立っていたのは蒼ざめた顔のリュクスだった。そしてその後ろには泣きはらした顔のユニアも。

「どうした」

 レノスが問いかけると、リュクスはユニアを中に押し入れて、扉を閉めた。

「皇帝陛下が亡くなられた」

「は?」

「亡くなられたんだ。コンモドゥス帝が」

「何を、馬鹿な。昨日会ったばかり――」

 語尾が力なく消えた。「まさか……暗殺か」

「俺は今夜、スーラどののところで飯を食わしてもらっていた。クリストゥス信者がユニアを訪ねてきたんだ。マルキアさまから教父あてに急使が来たそうだ」

「ほ――ほんとうか」

 ユニアは、こっくりとうなずいた。「確かにマルキアさまの字で、皇帝が亡くなられた、助けてほしいと書いてあったそうです」  語尾が終わるのを待つことなく、レノスは長持を押し開け、かぶとやマントをつかみ出した。

「ゼノ……手伝え!」

 その声は、小刻みに震えている。

「俺も行くぜ」

「どうか、わたしも連れて行ってください!」

 人通りの絶えたローマの街を、四人はパラティヌスの丘へとひた走った。

 宮殿への道は近衛隊の兵士たちによって封鎖され、あたりに異様な雰囲気が漂っていた。

「司令官、こっちだ」

 リュクスがマルキアの館への道を指し示す。

 枝が顔に当たるのも構わず、樹木のあいだを駆け抜け、灯の消えた館の玄関に着くと、中からマルキアが髪を振り乱して出てきた。

「司令官さま……ああっ、ユニアも。どうしよう。わたくし、どうしましょう」

「落ち着いて、姉さま、落ち着いて」

「わたくし、陛下を殺してしまった……」

 大理石の床に、皇帝の愛妾は泣き崩れた。

 彼女は嗚咽を混じえながら、事の次第を語った。

「昨日、みなさまがお帰りになった後、陛下の様子がおかしくなったのです。わたくしはおろか、侍従のエクレクトゥスをも寄せつけず、部屋の調度を倒し、打ちこわし……まるで、狂ってしまわれたようでした。お静かになったかと思い、覗いてみると、一心不乱に何かをパピルスに書きつけておられました。そして、『明日の元老院会議で、演説する。父の築き上げたもの全てを粉々に打ち砕いてやる』と。わたくし、恐ろしくて恐ろしくて……」

 マルキアは手の甲で目をぬぐった。「陛下が眠っておられる隙に、その書きつけを覗いてみたのです。そこにはわたくしの名前が書いてありました。エクレクトゥスの名も、ナルキッソスの名も、元老院の主だった方々の名もありました」

 彼女は身震いした。「明日、元老院で全てを粉々に打ち砕くと言われた。陛下は明日、ここに名の上がった者たちを処刑するおつもりなのだと悟りました。どうすればよいかわからなくなって……エクレクトゥスに相談すると、陛下に薬を飲ませて、静かに休んで……いただこうと……まさか、まさか、ナルキッソスが」

 とぎれとぎれの言葉は、意味をつかむのに苦労した。

 マルキアの手で眠り薬を飲まされたコンモドゥスは、意識朦朧としたまま、浴場でナルキッソスに首を絞められ、抵抗むなしく息絶えた。ナルキッソスがリュクスに飲ませたものと同じ薬だったのだろう。

 侍従は皇帝の死を確かめると、すぐに近衛隊長官ラエトゥスを呼び、近衛兵たちが皇宮を占拠した。

「陛下の亡骸は、今どこに?」

「宮殿の中庭の土の……下です」

「土の下!」

 ユニアが悲鳴を上げ、泣き出した。

「火葬もされなかったというのか」

 レノスの喉から、怒りの叫びが迸った。「ローマ帝国の皇帝が、犬のように土に埋められたのか!」

 猛然と走り出した司令官の前に、セヴァンは両手を広げて立ちふさがった。

 ふたりはもつれ合い、ともに地面にころがった。

「行かせてくれ」

「行って、今さらどうなるというんですか」

「陛下のお心を確かめるんだ」

「もう死んでいるのに、どうやって?」

 レノスは押さえつけられ、息を荒げながら、両手で我とわが身を抱きしめて震えている女性に問い正した。

「御方さま、あなたは、確かに見たのですか。その名簿が処刑される者のものだと、どこに書いてありましたか」

「だって……」

「その名簿は、陛下がブリタニアに連れて行くために選んだ随行者の名だったのではないですか?」

 一同の口から、「あっ」という驚愕の声が漏れた。

「わたくし……まさか……陛下が」

「目に見えない神が信じられるのに、どうして目の前にいる愛する者が信じられなかったのですか!」

 レノスは地面にうずくまって、ガンと拳を叩きつけた。「あと少しで……あと少しだったのに」

 主の頬に流れる涙を見つめながら、セヴァンは赤いマントの端を固くつかみ続けていた。



 紀元192年12月31日、ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌス皇帝死す。享年31歳。

 その夜のうちに、近衛隊長官ラエトゥスは元老院の主だった議員たちに、コンモドゥスの死を報告した。

 そして、新しい年の朝が明ける前に、新皇帝が決まった。首都長官であり、その年の執政官でもあるプブリウス・ヘルヴィウス・ペルティナクスである。ペルティナクスは、老将軍ポンペイアヌスこそ皇帝にふさわしいと最初は固辞していたが、ラエトゥスの説得により、受諾することになった。

 明くる1月1日、元老院はペルティナクスを正式に皇帝として承認した。また、全会一致で、前帝を『記録抹殺刑』に処することを決めた。

 暗殺の実行犯である剣闘教師ナルキッソス、侍従エクレクトゥスは、その夜のうちに姿を消した。ラエトゥスが、ひそかに殺したとも噂された。コンモドゥスの愛妾マルキアは宮殿から逃れ、ユニアの勇気と機転によってクリストゥス信者のひとりの家にかくまわれた。後に、人目を避けるようにして故郷のギリシアに帰ったと言う。



 往来で球投げをして遊んでいた子どもたちは、レノスとセヴァンの旅装を見ると、一斉に駆け寄ってきた。

「レノス、ゼノ、もう行っちゃうの」

「もっと剣を教えてほしかったよ」

「今度は、いつ帰ってくる?」

「さあ、いつだろうな」

 レノスは、ひとりひとりの子どもの頭を撫でた。「生きていれば、きっといつか戻ってくるよ」

 後ろでは、スタティウスとエウドキアがセヴァンの手を握りしめ、涙にくれている。

「達者で暮らすんだよ。レノスさまをしっかりお世話しておくれ」

 レノスは空を見上げた。インスラのバルコニーには、いつものように洗濯物が日光を求めて旗のようになびいている。

 皇帝が変わっても、街は何も変わらない。

「行こう、ゼノ」

 見送りの人々を背に、ふたりはアラウダとエッラの手綱をつかんで歩き出した。朝早く二頭を厩舎から引いて、従兄のアウラスと家令のカペラがお別れに来てくれたのだ。

「クラウディアからも、くれぐれもよろしくと言われている」

「奥方は、わたしがいなくなって、さぞせいせいしておられるだろうな」

「そう言うな。あれでもなかなか、可愛いところがあるのだ」

 奥方との仲は、まんざらでもないようだと、レノスは重荷が降りたような心地がした。去り際になって、アウラスは教えてくれた。

「ポンペイアヌス将軍が、ウィッラから市内に居を移して来られたぞ。皇帝と元老院の関係もすこぶる良好、すべてが順調に進んでいる」

 言葉の端々から、滞っていた政治がようやく動き出したという喜びは隠せなかった。

 レノスとセヴァンは、通い慣れたスプラの細い坂を登り、諸皇帝の広場を抜け、フォルム・ロマヌムに立った。壮麗な神殿、バシリカ、神々の像。

「記録抹殺刑か……」

 ローマ市内のすべての建造物からコンモドゥスの像が除かれ、すべての碑文からその名が削り取られることになる。

「早めに出立することにしてよかった」

 もうローマにはいたくない。そんな光景を見たくはない。あの美しい皇帝の姿は、人々の記憶の中から永久に消え去るのだ。

 ひとり苦々しく笑うレノスの横顔を、セヴァンはいたたまれぬ思いで見つめていた。

「おーい、司令官」

 元剣闘士のリュクスが、大きな行李をかついで走ってきた。

 杖をついたスーラ元司令官が、懸命に後から歩いてきた。

「すまない。遅くなった」

「よろしくお願いいたします」

 奴隷のユニアも大きな袋を抱え、分厚い毛織物のマントに身を包んでいる。

「馬車は、城門の外に待たせてるぜ」

「ああ」

 リュクスはあたりを見回した。「道連れは、五人だけか」

 アルビヌス総督は早馬を使って、すでにブリタニアへと発った。ブリタニア三軍団の新皇帝に対する忠誠の誓書を、急ぎローマに送らねばならない。少しでも遅れれば、謀反を疑われる。今は息をひそめて、勝機をうかがうのだ。おそらく、パンノニア総督セプティミウス・セウェルスも同じことを考えているだろう。

 将軍たちの帝位争奪戦は、ひとときの休みを得ることになる。

「ああ、五人だ。来たときはふたりだけだったのにな」

 レノスは、かたわらにいるセヴァンに顔を向けて、ほほえんだ。

 ヒバリがさえずりながら広場の上を飛び回り、神殿の屋根に舞い降りた。

――陛下、あなたの魂も、わたしたちとともに。

 心の中でつぶやくと、レノスは振り向いた。

「さあ、ブリタニアに出発だ」




   第七章 終

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