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月の戦士  作者: BUTAPENN
剣闘士
34/62

剣闘士(4)



 わずかな休憩のあいだに、職人たちによって、アリーナにはまたたくまに仕掛けが組まれた。

 楕円の隅を切り取るように、直線状に柵と土塁が築かれ、みるみるうちに物見やぐらが建つ。闘技場の試合観戦に慣れたローマ人たちも、これには驚きを隠せない。

「まるで、ポンペイウス劇場の舞台のようだな」

 セプティミウス・セウェルス総督は面白がって身を乗り出している。

「これは……」

 レノスは、大理石張りのベンチをぎゅっと拳でつかんだ。

 土塁の上に立てられた防壁用の槍、分厚い門。柴垣。

「北の砦だ」

 この光景は、北の砦を模しているのだ。土塁の向こうが、北の砦の内部。こちら側が、氏族との激闘があった平原。

「きみがいた砦か。カルス司令官」

「はい。もちろん細部は違っていますが、おおよそこのとおりです」

「アルビヌスどのは、実際に行われた戦闘をできるだけ忠実に再現しようとしているのだな」

 セウェルスは大げさなほどの感慨をこめて、うなった。

「この装置の模型を作らせて、謁見の前の日に皇宮に送っていたそうだ。これだけの仕掛けを作れば、必ずコンモドゥス帝陛下は興味をそそられ、出場を承諾なさると踏んでいた。周到で綿密な計画だ。アルビヌスどのは、やはり手ごわい相手だ」

(手ごわい?)

 その言葉が頭の片隅に引っかかったが、鳴り始めたラッパの音に、考えは中断された。

 アリーナの中央に、ギリシア風の白い衣装をまとった男が進み出、よく訓練された朗々たる声で口上を述べた。

 この闘技試合は、昨年ハドリアヌス帝の城壁以北で起きた氏族の一斉蜂起を、ローマ軍が鎮圧した戦勝記念の試合であること。

 主催者は、ブリタニア属州総督デキムス・クロディウス・アルビヌスであること。

 コンモドゥス皇帝陛下が、最後の試合に出場なさること。

 それを聞いた観衆は、皇帝をたたえる追従まじりの歓声を上げた。もちろん皇帝の桟敷席にコンモドゥスの姿はない。きらびやかな衣装をまとった愛妾マルキアとお付きの侍女たちが、近衛兵に守られて座っているばかりだ。

 貴賓席ではブリタニア総督アルビヌスが立ち上がり、片手を上げる。ふたたびラッパが壮麗な音楽を奏で、シンバルが鳴り響いた。

 この闘技試合に関わる莫大な費用のすべてを支払うのが、主催者だ。勝者には月桂樹の冠をかぶらせ、ほうびの品を贈る。潔く戦わなかった敗者には死を命じるのも彼の役目だ。剣闘士がひとり殺されると、主催者は監督に相応の賠償金を払わねばならない。

 総督の合図を受け、舞台から最も遠い門がするすると上がり、数人の剣闘士がおたけびを上げながら、アリーナに走りこんできた。

 北の砦に突撃するケルト氏族の戦士たちを、演じているのだ。

 彼らを迎え撃たんと、砦の中から何本かの矢が放たれた。もちろん、戦場の雰囲気を盛り上げるための仕掛け。人には当たらぬように計算されている。

 砦のはりぼての門が開き、中からローマ軍に扮した剣闘士たちが飛び出した。

 広いアリーナのここそこで、激しい剣戟が始まる。

 投網剣闘士レティアリウスが片手に持った網を投げては、追撃剣闘士セクトルの足を止めて、三又の槍で刺そうとしている。魚の形をした兜を頭にかぶった魚人剣闘士ムルミロは、グラディウスでトラキア剣闘士トラクスの湾曲したシーク刀と切り結んでいる。

 剣を打ち合うカンカンという小気味よい響きが上がるたびに、男も女も、子どもも老人も、あらゆる音階の歓声にそれにかぶさる。

 だが、闘技場にいる誰もがわかっている。これは、前座試合だ。本当の殺し合いではない。

 今のあいだに喉を慣らし、気持ちを高揚させておくのだ。もうすぐ腹を駆け巡る興奮に酔いしれるための、いわば食前酒として。

 元老院議員から奴隷まで、皇帝コンモドゥスが出場する試合に戦々恐々としながらも、心のどこかで期待していた。皇帝は必ず勝ち、必ず相手にとどめを刺すからだ。

 民衆は血に飢えていた。肥大したローマ帝国は、平和を謳歌している。コンモドゥス帝の治世になってから、ブリタニア以外に大規模な戦争は起こっていない。

 怠惰に慣れきったローマ市民に武勇の尊さを思い出させるのが、剣闘試合の役目だ。安全な観客席に身を置きながら、血にまみれて戦う男たちに熱狂する。萎えていた闘争心に火をつけ、同時に、日々の生活で鬱積した不満のガス抜きをする。

 セウェルス総督は、アリーナを指差した。「ほら、また次の演目が始まるぞ」

 集団戦には、ほぼ決着がついていた。怪我をして倒れている者、網に捕えられ組み伏せられた者とさまざまだが、死者はいない。派手に立ち回りを演じて観衆を喜ばせながらも、そう簡単に命のやりとりはしない。剣闘士たちは、そのコツをよく心得ていた。

 最後の一組の勝敗が決したとき、がらがらと別の門が引き上げられた。

 うっすらと白い煙があたりに漂い始め、観客がざわめき出す。

「火事か?」

 アリーナに勢いよく飛び出てきたのは、数人の男に後ろを押された荷車だった。満載した藁がぶすぶすとくすぶっている。十分に加速したとき、藁は風を受けてぱっと炎を上げ、押し手たちはあわてて離れた。燃える藁を積んだまま、荷馬車は砦の門に突っ込む。

「ああ」

 レノスは、茫然と腰を浮かした。あの夜見たとおりだ。アルビヌス総督への報告書に、戦闘の一部始終を書いて提出したのは、レノス自身だった。

 あの、雪のちらつく夜。火と煙と死の匂いが立ち込めた戦場の光景が、瞳に二重写しになる。

 こんな張りぼての舞台で演じられるニセものではない。本物の戦い。本物の憎しみ。本物の死と苦悶。

(ゼノも……間近でこれを見ているのか)



 風通しの悪い円形闘技場で、白い煙はまっすぐに立ち昇り、しばらくあたりに漂い続けた。視界をさえぎられているうちに、裏方の男たちがすばやく出てきて、馬車の藁に水をかけ、門の中へと運び去る。

 煙は、場面転換のためのみごとな演出だった。観客たちが目や口を覆っているあいだに、怪我をした剣闘士たちが運び出され、血の上に砂がまかれ、アリーナはすっかり無人となった。

「出ろ」

 監督代理が、出番を待っていた剣闘士たちを促した。

 リュクスは隣にいる少年が、放心したように動かないことに気づいた。

「おい、ゼノ。行くぞ」

 ケルトの少年はうつろな目で、アリーナの方向を見たままだ。獣のひげのように顔を彩る青と白の戦化粧の不気味さは、死者の国から来た亡霊としか思えない。

(ちっ。ビビッてやがるのか。これでは、使い物にならない)

 リュクスは心の中で舌打ちした。

 そのとき、場内係のひとりが走ってきて、甕から水を汲んだ柄杓を差し出した。リュクスはそれを受け取り、少年の口にむりやり宛がったが、ほとんどは地面にこぼれた。

 リュクスは、残りの水を飲み干し、柄杓を場内係に突き返した。「しっかりしろ」と、びたびたとセヴァンの頬をはたく。「おまえはナルキッソスと対戦しろ。皇帝陛下の相手は、俺が務める」

 彼が盾を持っていないことに気づき、試合を終えたばかりの誰かの盾をひったくった。

「何を考えてる。相手の攻撃を素手で受ける気か」

 無理やり、左手に盾を持たせる。「とにかくアリーナを走り回れ。相手を疲れさせろ。もし敵わないと思ったら、盾を投げ捨てれば、降伏の合図になる。わかったか」

 相変わらず緑色の目はあらぬ方を見たままだったが、こっくりとうなずく。

「……あれは、俺が考えた」

「は?」

「藁に火をつけて、馬車ごと砦にぶつける。兄さんは、いい考えだと褒めてくれた」

 リュクスの背筋がぞっと凍える。少年の口元に、薄く笑みが浮かんでいる。

(こいつは……怖がっているんじゃない。それどころか)

 アリーナの上から煙が晴れると、五万の観衆がどよめいた。ブリタニアの草原を漂う霧の中から突如、四人の戦士が現われたように見えたからだ。

 対角線上の門から、それぞれふたりずつの剣闘士が入場してきた。

 ひとりは、ローマ軍団兵が装備するのと同じ長い盾と幅広のグラディウス剣を持った追撃闘士セクトル。ただし、普通と反対に、盾を右手に、剣を左手に持っている。

 ローマ皇帝コンモドゥスは、左利きなのだ。

 あえて兜はかぶらないのは、自信の表れか。神々の彫刻のように均整のとれた肉体。豊かな金髪を王冠のように戴いている。

 人々は、熱狂的な歓声を上げた。「ゼウスの息子、ヘラクレス神!」

 もうひとり、皇帝お抱えの剣闘士ナルキッサスは、切断闘士スキッソールのいでたちだ。右手にグラディウス剣、左手には、剣を仕込んだ籠手をはめる。二刀流だ。盾を持たない代わりに鋼鉄の鎧をつけている。重いが最強の強度を誇る。

 対して、ブリタニアの蛮族側に扮した剣闘士も、ふたりだ。ひとりはローマで知らぬ者のいない有名人、皇帝剣闘士養成所の筆頭トラキア剣闘士、リュクス。

 少女たちは、彼の戦いを描いた壁画を見るだけで胸を熱くし、貴婦人たちは前夜の晩さん会の切符を手に入れるために金をはたき、リュクスの汗を入れた香水というだけで、飛ぶように売れる。

 だが、彼は三十歳になろうとしていた。激しい戦闘に明け暮れる剣闘士にとって、三十は決して若くない。そろそろとうが立ってくる年齢だ。もうすぐ記念の木剣を受けて引退するのだという噂もささやかれるようになっていた。

 リュクスと組になっているのは、オオカミの毛皮をまとった少年。ケルト人のおどろおどろしい戦化粧を初めて見るローマ人もいて、嫌悪の声が漏れる。

 われらがリュクスには死んでほしくないが、この蛮族はローマの敵として、助命なしに殺すべきだ。そう思った者も多かった。

「目を配れ。ナルキッソスは二刀使いだ。どちらからでも均等に攻撃が来るぞ」

 最後に念を押すと、リュクスとセヴァンは離れ、対戦相手に向かい合う位置に立った。

 リュクスは曲刀を握りなおした。すでに手のひらに汗がにじんでいる。

 コンモドゥスの前に立ったとたん、いつもと違う緊張に心臓をわしづかみにされた。

(強い。本物だ)

 少しでも気を抜けば、やられる。

 左利きの対戦相手は厄介だ。剣闘士の養成所でも、まず右手に槍や剣を持つように仕込まれる。理屈ではなく、ただそういうものだと教えられた。軍隊でも、全員が右手に槍を持つから密集行動ができるのだ。左手で武器を持つことは絶対に許されない。だから、リュクスは左利きの敵と対戦したことがない。

 コンモドゥスは皇帝だからこそ、左利きを咎められることがなかったのだ。

 縮こまりそうな背筋をまっすぐに伸ばすと、リュクスは礼儀正しく頭を下げた。

「皇帝陛下。お相手を務めさせていただきます」

 試合開始のラッパが、高らかに吹き鳴らされた。



 等間隔で、深く強く息を吐く。

 セヴァンは昔、年寄りのドルイド僧から力を強くする呪文を教わった。

 何度も深呼吸して、頭をからっぽにする。すると、不安や恐怖が薄らぎ、かちこちに強ばった筋肉が解放される。

「あいつは、敵だ。殺す。敵だ。テキだ」

 目の前の相手を倒すことだけに集中しろ。それ以外の何も考えるなと、自分に言い聞かせる。

 るつぼの底のようなアリーナに立つと、観客の歓声が頭上で渦巻いて、重苦しいほどだ。

 雑念を振り切り、禿頭の剣闘士に目を据え、慎重に間合いをはかった。

 相手が片脚を踏み出すと同時に、仕掛けた。助走して一気に距離を詰め、剣を振り下ろす。

 だが、鉛の入った重い剣は途中で思わぬ方向へ軌道を変えた。体勢を崩しそうになり、あわてて踏みとどまる。

 観客は、その不格好な攻撃を見て、どっと笑った。

 ナルキッソスも胸をそっくり返し、耳障りなダミ声で嘲った。

「なんだ、おまえは。弱いな」

 剣とは、こう使うものだ。一声叫ぶと、巨体の剣闘士は剣を振り上げ、大上段から飛びかかってきた。

 大柄のくせに、速い。

 セヴァンはとっさに盾をかざして、グラディウスを防ごうとしたが、がんという重い衝撃とともに跳ね飛ばされそうになる。重心が揺らいだ瞬間を見透かすように、左の方向からは籠手が突きだされ、またあわてて避ける。

 まるで、サソリのはさみのように両手から次々と繰り出される攻撃に、ただよろよろと、後ろに退くことしかできない。

 たまに、こちらの攻撃が当たっても、鋼鉄の鎧はなんなく跳ねかえしてしまう。

 足がもつれ、体勢を崩した。右の肩口を鋭い籠手がかすめ、皮膚を食いちぎっていった。

 一撃離脱を信条とするナルキッソスは、深追いせずに、すぐに離れた。籠手についた血を振り払い、対戦相手の右肩が赤く染まる様子を満足げに眺める。

「蛮族め。森の陰に隠れて、こそこそ槍を投げるだけしか能がない野蛮人め。きさまなどローマの敵ではないわ」

 高らかに哄笑しながら、剣を持つ両腕を天にかざして、拍手を要求する。満場の客はそれに応えて、一斉に歓呼の声を上げる。

 ナルキッソスは、コンモドゥス帝のお抱え剣闘士になる前は、リュクスと同じ筆頭剣闘士だった。満場の観衆の心をつかむ術をよく心得ている。

 セヴァンは敵に目を据えたまま、大きく息を継いで、ゆっくりと立ち上がった。

 左手に持っていた盾を惜しげもなく地面に投げ捨てる。全身を包んでいた真綿が急に取り払われたかのように、体が軽くなった。

 思わず、空を仰ぐ。自分がブリタニアの草原に立っているのだと念ずる。観客の罵声も嘲笑も、どこか遠くの森で梢が鳴っているからだ。

 ナルキッソスは、大げさに眉をひそめた。「盾を捨てた? まさか、もう降参するつもりじゃないだろうな」

 セヴァンは剣の柄をしっかりと両手で握りしめた。この重く不安定な得物をあやつるには、こうするしかない。

「それで、どうやって俺の剣を防ぐつもりだ」

 高みから見下ろすように笑うと、ナルキッソスは両腕をふりかざして構えた。

「俺は慈悲深い。苦しませずに死なせてやるからな」

 セヴァンは挑発に乗らなかった。相手がじりじりと足の位置を変えても、じっと動かずに待つ。

 ついに、待ちきれなくなった禿頭の剣闘士は、鷹のように飛びかかってきた。まず右手の剣。左手の籠手。

 先ほどの撃ち合いでも、そうだった。まず右手を先に突き出し、左でえぐる。長年の癖はすぐに変えられるものではない。

 セヴァンは、すばやく身体をかがめ、左腕でグラディウス剣の斬撃を迎えうった。剣を斜めにすべらせるようにして勢いを殺しながら、籠手の攻撃が来る一瞬前に、渾身の力をこめて、剣の柄をナルキッソスの腹にもぐりこませた。

「ぐわ」

 大柄のナルキッソスは、後ろによろめいた。

 左の手甲がみるみる血に染まるが、頓着せずに、セヴァンは続けざまに斬撃を叩きつける。

 だが、ナルキッソスもさすがは歴戦の戦士、二度目の攻撃はみごとに防がれ、剣と籠手の逆襲が返って来る。

 盾がなくては、攻撃を防ぐことができない。セヴァンの裸の上半身は、無残にも血だらけになっていく。だが、痛みにひるむことなく、ふたたび攻撃に転じる。

「なんて戦いだ」

 観客席から、感嘆のため息が漏れる。

「あいつ、不死身か?」



 観衆のざわめきによって、リュクスは隣の試合が白熱しているのを知った。

(ゼノ。少しはやるじゃねえか)

 しかし、視線を少しでも逸らすわけにはいかない。

 コンモドゥス帝は、噂に違わず強かった。右手の盾で攻撃を防ぎ、左手でグラディウスを繰り出す。リュクスは左手の盾でその斬撃を防ぎ、右手の曲刀を振り下ろす。かと思えば、次は剣同士が火花を散らし、時には盾同士がぶつかる。

 流れるような動作は、一朝一夕で形作られたものではない。身体が覚えこむまで、血反吐を吐きそうな訓練を耐え抜いた者だけの持つ動きだ。息も切らしていない。

(皇帝さんよ。あんた、うちの養成所の剣闘士よりすごいぜ)

 剣闘士は奴隷だ。朝から晩まで木刀で叩かれながら、無理やり鍛えられる。ローマの頂点に立つ皇帝が、政治を放り出して、奴隷と同じ訓練に明け暮れていたわけか。

(国が乱れるわけだ)

 だが、こちらは筆頭剣闘士まで登りつめた男。そう簡単に皇帝のお遊びに負けるわけにはいかない。

 鉛入りの剣をあやつるのにも、すぐに慣れた。剣闘士は、与えられた剣で試合に臨むように、常に厳しい訓練をしている。

 あとは、集中力の勝負だ。

 どれだけ優れた技能を持っていても、どこかで集中力が途切れる瞬間が来る。それを見逃さず、一気に切り込む。

 リュクスは自信があった。幼い頃、ダキアの北で捕まって馬番の奴隷に売られてから、ずっと一点を見つめる訓練を欠かさなかった。

 馬の糞にまみれた敷きわらの上に寝ころび、割れた天井から見える星に何時間でも目を凝らしていた。それしかすることはなかった。

 集中力を切らさず、勝機を捕えてつかみとる。五年間の剣闘士生活を、奴隷としての人生を、そうやってリュクスは生き残ってきたのだ。

(今日も、俺が勝つ)

 突然、眼球がけいれんしたように、視界がぶれた。思わず後ろに飛び退り、目をつぶった。

(どうした。こんなときに)

 まばたきしても、焦点が合わない。

 盾と剣を構え直し、次の剣を受け止めて、反撃しようとした。

 が、信じられないことに大きく空振りした。思ったところに敵がいない。距離感がつかめないのだ。

 そのうちに地面が揺れ、対戦相手がぼやけ始めた。

 暑さにやられたのだろうか。いや、今は冬だ。事前に水も飲んだはずだ……。

(まさか、毒)

 あれか。アリーナに出る直前、セヴァンを落ち着かせようとしていたとき、誰かが柄杓に汲んで持ってきた、あの水。

 あの場内係が、ナルキッソスに買収されていたのか。それとも、監督がじきじきに命じたのか。

 膝から、すっと力が抜けていく。

 皇帝がコロセウムで試合をするときは、いつもこうなる手はずになっていたのだ。動物も人間も、試合直前に毒入り水を飲まされる。

 毒はすぐには効かない。十分戦ったころに、対戦相手は足をよろめかせ、剣をよけられずに倒される。これでは、誰も気づかないだろう。

「ふふっ」

 ばかばかしい。そうか。初めから勝てるはずのない試合だったのか。



 二組の死闘に人々は熱狂した。コンモドゥス帝とリュクスの試合を観戦していた者たちも、セヴァンたちの試合のすさまじさに思わず目を奪われる。視線は行ったり来たりと忙しい。

 血だらけになった蛮族の少年と、無傷のままの剣闘士。普通なら後者が有利なはずなのに、少しずつ押されているのは剣闘士のほうなのだ。

「なんというしたたかさだ」

 パンノニアの総督はレノスの隣でうなった。「誰しも相手の攻撃を恐れて、ぎりぎりの間合いで踏みとどまるもの。だが、きみの奴隷は、相手のふところにためらわず飛び込んでいく。攻撃は最大の防御と言うが、ひとつ間違えれば命はない。あの子は、死ぬことが恐くないのか」

「……ゼノ」

 レノスは、ぎゅっと目を閉じた。フラーメンの言葉が脳裡によみがえる。


『やつは狂犬です。兄を殺されたのを見て、たったひとりでうちの陣営の中に突っ込んできて、何人もぶった切られました。大勢で応戦したのに、かなわない』


 ゼノ。何のために奴隷に落ちてまで、生き延びたのだ。こんな見世物で死ぬためじゃないだろう。

 わたしといっしょにブリタニアに帰るのだぞ。あの美しい森で、もう一度いっしょに狩りをするのだぞ。

 レノスの目の縁を、じわりと涙が濡らす。

 死ぬな。

 命を無駄にするな。



 レノスの祈りも知らず、セヴァンは息をすることさえ忘れて、戦いに没頭していた。

 その俊敏で執拗な攻撃に、ナルキッソスは体力を奪われ、次第に防戦一方に追い込まれていく。まるで風を相手にしているようなものだ。いくら斬っても手ごたえがない。

「倒れろ!」

 ナルキッソスは、剣を振るいながら叫んだ。「もう倒れるはずだ。倒れろ!」

 呪文のような叫びが効いたのか、セヴァンは足をもつれさせ、片膝をついた。

「わ、はっ」

 勝利を確信した快哉を叫びながら、ナルキッソスは飛びかかり、グラディウスを相手の頭に目がけて振り下ろした。

   だが、その瞬間、セヴァンは彼の脚に組みつき、背負い上げた。勢いのまま、ナルキッソスの身体は宙を舞い、一回転して地面にあおむけに落ちた。

 大剣の柄をみぞおちに叩きこむと、ナルキッソスは完全に意識を手放した。

 セヴァンがふらふらと立ち上がると、五感が一時に戻ってきた。

 汗がどっと全身の毛孔から吹き出し、頬は火のように熱いのに、頭の中は青黒くて冷たかった。息を吸っても吸っても、肺は満たされない。心臓はいちどきに血管に血を流そうとして、破裂しそうだ。気を抜くと倒れそうになるのを堪え、隣を見た。

 リュクスが地面に突っ伏していた。

 近寄ろうとすると、彼は叫んだ。

「来るな!」

 うつろな目を凝らしながらも、リュクスは身を起こした。「手出しをするな……まだやれる」

 セヴァンは凍りついたように、足を止めた。

 剣を頼りに、ぶるぶると両膝を震わせながら、剣闘士は立ち上がった。

「これは……俺の戦いだ……皇帝と俺の……おまえは見ていろ」

 だが、その力ない声は死に瀕した者のうわごとのように響いた。見たところ、どこにも傷を受けていないのに、何が起こったのだ?

「だいじょうぶだ、おまえは飲まなかった……おまえは死なない。死ぬのは、俺ひとりで……」

 思わず駆け寄って、倒れこもうとするリュクスの身体を支えた。

「手を……出……な」

 セヴァンは、リュクスの持っている盾の端をつかみ、ぐっと後ろに押した。それだけでリュクスは砂の上に仰向けにあっけなく倒れこんだ。もう起き上がってくる力は残されていない。

 ことの成り行きを冷ややかに見つめている皇帝コンモドゥスを、キッと睨みつけた。


『手を出すな』


 それは、アイダンがあの戦場で叫んだ最後の言葉と同じだった。

 レノスとの一騎打ちを自分から望んだ兄。あれほど無邪気な喜びに満ちていたアイダンを、セヴァンは知らない。

 兄さんは、クレディン族の運命よりも、あの人との戦いを選んだ。弟である俺よりも、あの人を。だから俺は、邪魔しようとした。邪魔しなければならなかった。

 セヴァンは両足でアリーナの砂をしっかりと捉えて、皇帝と向き合った。

「皇帝陛下。ここからは、俺があなたと戦います」





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