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月の戦士  作者: BUTAPENN
剣闘士
32/62

剣闘士(2)



 緑茂るパラティヌスの丘に向かって、玄武岩を敷きつめた坂を上っていくと、崖からこぼれ落ちそうなほどにり出して建つ巨大な皇帝宮殿が見えてくる。

 ローマの下町を一望できる屋上庭園を抜け、美しく磨かれた色大理石の柱廊を上がると、宮殿の公邸部分、王の間と呼ばれるひな壇のある広間や大小のホールが連なる。

 だが、そこは無人だった。漂う静けさ、さびれた気配は、もう久しく宮殿で謁見や会議など行われたことがないように思われた。

 八角の貯水池を囲む大理石の回廊をさらに奥へ進んだところに、ひとりの男が待っていた。

「ようこそいらっしゃいました。ブリタニア属州総督クロディウス・アルビヌスさま。北ブリタニア第七辺境部隊二百人隊長クレリウス・カルスさま」

 うやうやしく頭を下げた男は、侍従のエクレクトゥスと名乗った。ギリシア人のとがった鼻。口が異様に大きく、媚びたような笑いはかえって下心を感じさせる。「陛下は、この奥の私邸でお待ちでございます」

 彼の後ろには数人の近衛兵が立ち、そこからよほど離れた位置に、関わりたくないとでも言うような素知らぬ顔で、ラエトゥスが立っていた。

 ポンペイアヌス将軍のウィッラで会った近衛隊長官。実質上、元老院からコンモドゥス帝暗殺計画をまかされた影の立役者である。

「わかった。ここからの案内はよろしく頼む」

 アルビヌスは身に帯びていた剣を彼の側近たちに預けると、彼らは入り口の控えの間へと戻っていった。皇宮の中に武器を携行することはできないらしい。

 レノスもそれにならい、剣をセヴァンに託しそうとした。「おまえも、ここで待っていろ」

 侍従は制した。「お待ちくださいませ。ブリタニアの奴隷も連れてくるようにとの、陛下の仰せにございます」

「なんですと?」

 あまりにも意外なことばにレノスは戸惑い、思わず上官を見た。総督アルビヌスはまっすぐに前を向いて、無言を保っている。

「しかし、お目通りがかなうとは知らず、こんな粗末ななりをさせたままです」

 セヴァンが身に着けているのは、いつもの色あせたトゥニカ。すりきれたサンダル。奴隷のしるしである鉄の腕輪。そして、ローマ兵のたくさんの血を吸ったオオカミのマントだ。

「だからこそ、ことさらよろしいのですよ」

 侍従は彼に近づき、毛皮のマントをすっと撫でた。「一応、身体検査だけさせていただきます」

 ふところに入っている青銅の短剣を見とがめられるかと、セヴァンは身をかたくする。

 だが、侍従は意味ありげな笑みを浮かべただけで、すぐに離れ、「では」と先導に立った。

 レノスとセヴァンは、すばやく視線を合わせた。互いの心中には、いくつもの疑問がわだかまっているが、口には出せない。

「ゼノ、ついてこい」

「はい」

 レノスは剣を近衛兵のひとりにあずけて、アルビヌスの後に続く。近衛長官も、少し離れてついてくる。

 噴水の音を聞きながら奥に進むと、色大理石で床に幾何学模様を描いた壮麗な広間に出た。中央に池をそなえているのは、一般のドムスと同じだ。

 さらに、いくつもの大小の部屋を抜けていくと、半月型に二層の柱廊が立ち並ぶ広いテラスへ出た。

 崖の下に戦車競技場キルクス・マクシムスが望める特等席。そのテラスに、皇宮の主が立っていた。

 ローマ皇帝、ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌス。

 レノスは、これほど美しい男を見たことがなかった。豊かな金色の巻き毛を戴いた、整った相貌。衣に包まれてもなお際立つ、たくましく均整のとれた肉体。深い藍色の瞳。

 だが、その美しさは、まがまがしい危うさに満ちている。

 皇帝がまとっているのは、赤紫の皇帝のトーガではない。白いオオカミの毛皮だった。

 左手に持つのは、王笏の代わりに、どす黒く土に汚れた棍棒だった。

 驚愕にすくみ上がるレノスたちを置いて、侍従は数歩前に進み出て一礼した。

「陛下。ブリタニア総督閣下と部下の方がお見えになりました」

 コンモドゥスは、とろりと眠たげな目を訪問客に向けると、ぺたぺたと裸足のまま入ってきた。

 ブリタニア総督と後ろに控えていたレノスは、すぐさま片膝をつき、拝跪する。

「風呂に入る」

「は?」

 彼らの横を、ぺたぺたと足音を立てながら、皇帝は通り過ぎてしまった。

「陛下」

 エクレクトゥスは、あたふたと後を追っていく。

「当分、帰ってこられませぬぞ」

 近衛長官ラエトゥスが、半ば愉快がっているような声で言った。「いつものことです。一日に六回、たっぷり一時間は風呂に入られる」

「六回……」

 セヴァンがレノスの背中で、苦痛のうめきを漏らした。

「どうなさいます」

「どうすると言って、待つしかないだろう」

 アルビヌスはさばさばした調子で言うと、壁に作りつけの石の長椅子にどっかりと腰をおろして目を閉じた。

(この人は、なんと辛抱強い)

 レノスが、これからもしばしば呟くことになる言葉だ。時には愚鈍と思えるほどの忍耐強さは、アルビヌスの最大の美徳でもあり、最大の欠点でもあった。

「あのギリシア人の解放奴隷めが、皇帝の寝室係として宮殿全体を取りしきっています」

 ラエトゥスが、わずかに嫌悪の念をにじませて説明した。「あいつが支配するようになってから、この宮殿全体が狂っていますな」

 レノスは総督にならい、じっと目をつぶることにした。

 よほどの時が経ってから、エクレクトゥスが急ぎ足で戻ってきた。

「陛下が、お戻りになられました」

 万座の拝跪の中、髪からぼたぼたと水滴を垂らしながら、湯あがりの皇帝が戻ってきた。

 壁の凹みにしつらえられた玉座に納まると、コンモドゥスはゆったりと足を組んだ。

「ゼウスの息子ヘラクレス神の化身、幸運なるお方、支配者にして勝利者」

 侍従長が立ち上がり、朗々と芝居じみた肩書を宣べる。その延々と続く口上が終わるやいなや、アルビヌスが朗々とした声を上げた。

「陛下の忠実な手足なるブリタニア駐留軍団は、その尊い御名に加える、もうひとつのの称号をささげに参りました」

「もうひとつの称号?」

 眠たげな皇帝のまぶたが、わずかに上がった。

「ブリタニア北部において、この十年くすぶっていた火種が爆発し、氏族の蜂起が起こりましたが、昨年それを第六軍団所属の辺境部隊が完全に鎮圧いたしました。ローマは、ようやくこの地に恒久の平和をもたらしたのです」

 総督の横顔は、誇らしげに見えた。

 恒久の平和?

 何が平和だ。大きな深手を負った辺境の兵士たちの悲痛な叫びを陛下に直接訴えるために、わたしたちははるばるブリタニアからローマに来たのではなかったのか。

(所詮、わたしたちの勝利は、皇帝の座をめぐる権力争いのために利用されただけなのだな)

 レノスは口の中の苦い味に耐えた。

「陛下。確かにこの謁見に先んじて、元老院からの書状が届いております」

 エクレクトゥスがもったいぶった調子で読み上げる。「『元老院にて、皇帝陛下に「ブリタニア・カプタ(ブリタニアの占領者)」の称号を贈るとの決議が、なされた』と」

「おめでとうございます。このことは全ローマ市民に宣言して、祝うべきことと存じます」

 アルビヌスは、畳み掛けるように提案する。「サトゥルナリア祭の最後の日に闘技場コロセウムでの御前試合を行うことを考えております」

「ほう?」

 コンモドゥスの声に、面白がるような響きが加わった。やはり、彼の心を動かすのは、闘技場という言葉だ。

「すばらしいお考えです」

 ラエトゥスが、すばやく同意を表わした。「祭の最後を飾る日に、陛下の武勇を記念する催しとなれば、民衆はさぞや熱狂することでしょう。ただ、金がかかりましょうな」

 アルビヌスは、「もちろん、わたくしの私費で」と念を押すことも忘れない。

「ブリタニアの氏族との戦いを再現する、大掛かりな模擬戦はいかがでしょうか」

「してそれは、どのようなものになるのですかな」

「幸いここに、その戦いを最もよく知る者をみまえに連れてまいりました。……カルス司令官」

 見えすいたことばの応酬が、不意に自分を名指したことを知って、レノスはあわてて顔を上げた。

 驚いたことに、皇帝が玉座から身を乗り出し、的を射る矢のような鋭いまなざしでレノスを睥睨している。

「そなたが、大勢の氏族をひとりで屠ったという、勇猛果敢な司令官か」

 先ほどの気だるい声ではない。人を支配する魔力をはらんだ声だ。

「陛下。このたびの勝利は、兵士ひとりひとりの武勲でございます」

 儀式的に答えて、ふたたび平伏の姿勢を取ったとき、思いがけぬことが起こった。裸足の皇帝は、先ほどまでの暗愚さが嘘のように、ひと跳びに玉座から降り、レノスの前に立っていたのだ。

「そなた、その戦いで何人殺した?」

 冷ややかに見下ろしながら、手に持っていた棍棒をぐいと突きだす。

「数えておりませんでした」

「人を殺したとき、どう思った。楽しかったか。胸がすく思いだったか」

「いえ、陛下、決してそんなことは――」

 コンモドゥスはおそろしい力でレノスの肩をつかんだ。とっさに身を引こうとしたが、間に合わない。皇帝は、耳もとに口を近づけて、聞こえるか聞こえぬかの低い声でささやいた。

「そなた、女だな?」

 耳たぶに吹きかけられた息から、毒を流しこまれたような心地がした。

「何千もの側女や娼婦と交わってきた余の鼻はごまかせぬぞ」

 わざと鼻を鳴らしながら、にたりと覗き込む。「そなたの体からは、芬々と女の匂いが立ち昇っておるわ」

 あからさまな侮蔑の微笑。真っ暗な虚無の穴の中に吸い込まれていくようだ。

(落ち着かなければ)

 落ち着け。決して、自分から事実を認めてはならない。

「何のご冗談でしょう」

 レノスは、平然を装って答えた。「ローマ軍に女が入れる道理はございません」

「ならば、その鎧を脱いで、証をたてよ」

「公の場でみずから鎧を脱ぐのは、退役するときだけ。わたしに軍を退けとお命じになるのですか」

「それもよいな。余の愛妾のひとりにしてやってもよいぞ。軍装のまま押し倒すのも、そそられる」

 皇帝の長い指が、レノスの肩から首筋をゆっくりと撫であげる。おぞましさに、膝が震えた。

「恐れながら、陛下」

 隣にいたアルビヌス総督が、こちらを見ぬようにして静かにたしなめた。「その者は、わたくしの腹心の部下でございます。これ以上の侮辱は、おやめください」

「はは」

 皇帝は身体を反らして、笑った。「そうか、そなたも承知の上か。これは愉快だ」

 レノスの顎に、棍棒を押し当てる。ローマ軍人の顎には誰でも、かぶとの留め金でできた固いたこがあるのだ。

「決めたぞ。その模擬試合には、余も出場する」

「陛下!」

「それは、あまりにも急でございます」

 しらじらしくも、口々に驚きの声が漏れた。この部屋にいる者全員が、皇帝の死を願って闘技会を計画したというのに。

 茶番だ。ローマの栄光の歴史の中で、これほどの茶番があるだろうか。レノスの目の端に怒りのあまり涙がにじみそうになる。

「そなたもだ。百人隊長」

 コンモドゥスは棍棒の先でいたぶるように、レノスの髭のない顎を撫でている。「おのれが男だと証明したいのなら、そなたも出場して、余とともに戦え。その腕前を見せてみろ」

「お断りいたします」

 レノスは直立不動のまま、まっすぐに皇帝を睨み返した。「ラリヌムの元老院議決にて、元老院議員や騎士が闘技に出場することは禁じられております」

「皇帝である余が出場せよと言っているのだぞ。そんな議決は何の意味もない」

「皇帝みずからが法を軽んじられるのですか」

「なに?」

「法を軽んじれば、国は滅びます。おやめください。陛下。剣闘士のまねごとなど。あなたにはもっとやるべきことがあるはずです」

 まるで何かに取り憑かれたように、レノスは瞳をぎらつかせて声を張り上げた。

 死んでいった大勢の部下たちが、死んでいったブリタニアの氏族たちが、そしてアイダンが、心の奥底で叫んでいるのだ。おまえは、こんな陰謀のためではなく、彼らの声を代弁するためにここに来たのではなかったかと。

「前線のすべての兵士の命が陛下にかかっているのです。ローマ帝国の全市民と属州民の幸福が、陛下の統治にかかっているのです。お父君とともにご幼少のときから前線におもむかれ、あなたはそれをご存じのはず。それなのに、なぜお忘れになったのですか。なぜ、あなたは逃げるのですか!」

 にやにやと緩んでいたコンモドゥスの顔が、みるみるひきつった。

「……逃げる?」

 皇帝は、右手でぐいとレノスの髪をわしづかみにした。「逃げるだと! 余が、この余が! あんな自分の身ひとつ守れぬほど軟弱で、頭でっかちで、思索にばかり耽っていたあの父より、ずっとずっと強い余が!」

「陛下!」

「逃げてなど……おらぬわっ!」

 髪を引っ張られ、思わずのけぞったレノスに、コンモドゥスは渾身の力で棍棒を振り下ろした。

 流血の惨事を誰もが予感したとき、疾風が走った。

 髪をつかんでいた手が離れる。床に崩れ落ちながら、レノスは何が起きたのかをようやく理解した。

 猛禽さながらの速さで、セヴァンが彼らのあいだに割り込んできたのだ。棍棒を自らの肩に受け、その下をかいくぐるように、短剣の切っ先を皇帝の喉元にぴたりと突きつけている。

「主のかわりに、俺が出場する」

 喉笛に短剣を押し当てながら、セヴァンは低く言い放った。「氏族の俺が、ローマ皇帝のおまえを殺す」

「う……」

 切っ先がコンモドゥスの喉から離れたとき、驚愕に半ば開いていた口から息が反射的に漏れた。

 その顔はみるみるうちに青黒く変わり、怒りと屈辱にゆがんだ。

「よかろう」

 凄絶な笑みが、ゆっくりと戻ってくる。「奴隷よ。余みずから、きさまを屠り、砂の上にきさまの血をまき散らす。闘技場で、ブリタニアで行われた虐殺を再現してやろう」



 その後は、すべてのことが一時に起こったような騒ぎになった。

「近衛兵」

 侍従長がわめき、たちまちセヴァンは捕えられ、連行された。しかし、コンモドゥス帝みずからが、彼の釈放を命じ、闘技試合の相手に彼を選ぶと宣言した。

 皇帝の翻意を哀願するレノスの声は、誰からも一顧だにされなかった。

 謁見の間を辞するとき、憔悴しきったレノスの肩を、アルビヌス総督がぽんと叩いた。

「だいじょうぶか」

「申し訳ありません」

 レノスは腹の底から声をしぼりだした。「激情に駆られて、後先を考えぬ行動をしてしまいました」

「いや、申し訳ないのはこちらのほうだ。隣にいながら、いざというときに指一本動かすことができなかった」

 「年だな」とアルビヌスは、自嘲ぎみに笑った。「あれは、良い奴隷だ。自分の命を顧みずに、主人の危機を救った」

「はい」

「怪我の功名ではあったが、われわれの計画は一歩進んだな」

 ああ、そうだったかと、レノスは思った。ことは、暗殺の主謀者が計画したとおりに、いや、計画した以上に運んだ。その筋書きに沿って、自分が動いてしまったのだ。

 だが、たとえレノスがあの場で動かなかったとしても、ほかの手段が用意されていただろう。

(もう後戻りはできない。わたしは軍人として、アルビヌスどのに忠誠をささげたのだ)

 それに、彼は皇帝の侮辱からレノスをかばおうとしてくれた。上官として、部下を思いやる心に嘘はない。

 総督一行と別れたあと、柱廊から屋上庭園へ降りる階段の下で、セヴァンはなにごともなかったような顔で待っていた。

「ゼノ」

 喉を、無数のことばがせめぎ合いながら駆け上ってくる。「……すまぬ」

「何を、あやまるのですか」

「おまえを、闘技場へと追いやってしまった」

「そんなことですか」

 セヴァンは、先立って歩き始めた。

「ローマに支配される辺境の氏族なら誰でも、ローマの皇帝を殺したいと願っています。こうなって、俺は本望です」

「だが――」

 彼らは同時に歩みを止めた。

 ひとりの侍女が、木の陰に立っているのに気づいたのだ。

「クレリウス・マルキス隊長さま、でいらっしゃいますね」

 人目をはばかる声で問いかけると、彼女は深々と頭を下げた。「陛下の愛妾マルキアさまがお呼びでございます。今から御方さまの館にいらしてはくださいませんか」



 庭園の遊歩道を避けて、木々の中を進む。

「マルキアさまが、なぜわたしを」

「ユニアから、あなたさまの紹介状が届いたのです」

 そう言えば、マルキアはクリストゥス信奉者の仲間だとユニアが言っていたことを、セヴァンは思い出す。

「あなたさまが近々宮殿にお越しになる予定なので、頼めばマルキアさまのお力になってくださるだろうと書状にはしたためてありました」

「それは光栄だが」

 レノスは、とまどって答えた。「わたしにお力になれることがあるのだろうか」

 彼らは屋上庭園を抜けると、楕円形の乗馬競技場へと続く道を下っていき、途中で左に折れた。

 マルキアの館は、美しい花の咲き乱れる花壇と神々の彫像に囲まれていた。ニンフをかたどった壺から流れ落ちる噴水が、花壇の中央にある。

 そのかたわらに、ひとりの女が立っていた。

 若くはない。小太りでたるんだ体型を豪華なストラで被い、お世辞にも美しいとは言えぬほくろだらけの顔、ごわごわの黒髪の頭にはきらびやかな宝冠を乗せている。

 それが、皇帝の愛妾マルキアだと知って、ふたりは内心驚いた。

「お待ちを」

 と侍女がぐいと、彼らの服を引っ張る。「隠れてください! お渡りです」

 木の陰にすばやく身を伏せると、庭の向こうから男が足早にやってくる。

「……陛下?」

 さっき謁見の間で別れたばかりのコンモドゥス帝だ。髪を振り乱し、うろたえた少年のように半ば口を開けて、「マルキア!」と叫びながら、彼女の足元にひざまずき、その衣にしがみついた。

「マルキア、マルキア!」

「どうなさったのです」

「余は来週、闘技場に出場することになった」

「まあ」

「また大勢の人間や動物を殺してしまう。どうすればよい」

「クリストゥスさまの父なる御神にお祈りください。きっと赦して下さいます」

「神などどうでもよい。そなたが赦すと言ってくれ。そなた自身のことばで」

 情けない声を出して、泣きじゃくる。まるで幼児だ。これが、謁見の間で会った尊大な皇帝と同一人物なのか。

「ええ、陛下。わたくしが赦します。すべての罪を赦します」

 マルキアは微笑みながら、皇帝のやわらかな金の巻き毛を何度も撫でた。

「辺境の百人隊長までが、余を悪しざまに責めるのだ。父が枕元に立つのと同じ言葉で。おまえはだめだ。おまえでは良い皇帝になれぬと」

「あなたは、りっぱな皇帝陛下です。民はみんな、あなたをお慕いしています」

「なぜ、余ひとりがローマ市民の機嫌を取らねばならんのだ。なぜ余ひとりに蛮族と戦えと強いるのだ」

「あなたは、何もしなくてよいのです。回りの者が全部やってくれますわ。どうぞ、お心を安らかに」

 レノスの膝が、ずぶりと土にめりこんだ。身体を支えようとした手が、ぎゅっと下生えの草を握りしめる。セヴァンには、主の考えていることがよくわかった。

――この男が。こんな男が皇帝なのか。全ローマ軍団が彼に忠誠を誓い、彼の名のもとに死んでいくのか。

 永遠に終わらぬように思えた時間も、やがて過ぎた。

 ひとしきり子どものように泣きわめいていた皇帝が帰っていき、レノスたちはマルキアの館の玄関の間に招じ入れられた。

「ユニアから手紙が届きました。司令官どの」

 マルキアは、ふくよかな腕を大理石の肘掛けに置き、静かに微笑んだ。淡い光の中であらためて見れば、愛らしい人だった。女の魅力というより、母性にあふれている。

「手紙には、あなたが勇気と分別を備えた真の武人でいらっしゃると書いてありました。どうぞ、陛下を助けてください」

 彼女は、はらはらと涙を流した。「この皇宮にも、味方はいません。皆が裏切りを図っているように感じて、陛下は心の休まる暇がないのです」

 わたしもその中のひとりなのだ。レノスはそう叫びたかったが、そうせずに目を伏せた。

「御方さま。あなたは、皇帝陛下のお味方ではないのですか」

「もちろんです。わたくしは、陛下を誰よりも愛しております。クリストゥス信者として、神の愛をもって」

 マルキアは涙をそっと袖で拭いた。「陛下は、クリストゥス信仰にご寛容な方です。きっといつか、神の恵みがくだされましょう。わたくしは、そのためにここにおります。教会がかつての迫害の時代に戻らぬように、陛下の安寧を祈り続けております」

「神の愛とはどのようなものか、わたしにはわかりませぬが」

 レノスは苦々しげに答えた。「間違っていることを間違っていると告げるのも、真の愛ではありませんか?」

「え……?」

「皇帝陛下があなたを寵愛なさっておられるのは、あなたがすべてを赦してしまわれるから。あなたは、陛下を甘やかし、陛下の背中を滅びの道へと後押ししておられるのです」

 マルキアは、真っ青になって立ち上がった。「わたくしが陛下を……滅びの道へと?」

「詮無きことを申しました」

 頭を垂れる。「お力になれず、申し訳ありませぬ」

 レノスは立ちあがって、きびすを返した。

「お待ちくださいませ」

 マルキアが力なく呼び止めた。「最後にもうひとつだけ……お伝えしたかったことがございます」

「なんでしょう」

「侍従のエクレクトゥスにはご用心なさいませ。何を考えているかわからない男です。あなたさまが女であることを、こっそり陛下に耳打ちしておりました」

 レノスは、ぐっと奥歯を噛みしめた。「ありがとうございます。ご忠告は肝に銘じます」

 宮殿からの坂道を降りるあいだ、主人はセヴァンを相手にずっと愚痴を言い続けた。

 ああ、そうだと思っていたよ。エクレクトゥスはこの暗殺計画に一枚噛んでいる。そもそも、おまえが隠し持っていた短剣が見逃がされたのが、まずおかしい。

 近衛隊長め、侍従の悪口を言うふりをして、わたしたちをだまそうとしていたな。

 宮廷全体が、じりじりと網をせばめて魚を追いつめる漁師のように、皇帝陛下を死へと追いつめているのだ。笑ってしまうじゃないか。わたしもおまえもいっしょに、その網にからめとられていたとは。

「わたしが女であることさえ、利用――」

 彼らの足が止まった。誰がそのことをエクレクトゥスに漏らしたのだ。

 ポンペイアヌスどのの屋敷に集まった方々は知らなかったはずだ。伯父上が打ち明けでもしない限り。そして、誇り高い伯父がそんなことをする理由はない。

 だとすれば、知っているのはただひとり。

「……アルビヌス総督」


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