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月の戦士  作者: BUTAPENN
惑乱の都
28/62

惑乱の都(3)

 高層のインスラに押しつぶされた狭い空が、しらじらと明けるころ、セヴァンは起き上がって、眠たげに目をこすった。

 主は、筋向いの公衆便所を使っているらしいが、奴隷には、そんなところに払う金はない。自分の出したものが入っている壺を片手に抱え、階段を降りていく。

 通りのところどころに、大きな甕が備えつけてあり、その中に尿を捨てた。

 ときどき、甕の中身を集めに来る男がいるので、どうするのだろうとこっそり後をつけたことがある。行き先は、裏通りの洗濯屋だった。

 集めた尿を入れた水槽の中で、奴隷たちが洗濯物を踏んで洗っている。奥の部屋では硫黄を燻蒸して、高価な衣服を漂白しているらしい。ふたつが合わさった恐ろしいほどの悪臭に気が遠くなり、セヴァンは自分が洗濯屋の奴隷でなかったことを神々に感謝するはめになった。

 通りにしつらえられた水汲み場で顔を洗い、目を覚ます。この冷たい水は、はるか東の渓谷から巨大な水道橋で引いているのだという。

 だから水槽に流れ落ちる水は、朝も夜も尽きることがない。クレディン族の女たちの仕事である、水汲みの必要がないのだ。

 セヴァンは、顔をぼとぼとに濡らしたまま、背を伸ばして、石畳の通りを見やった。重そうな荷物をかついだ男や、壺をかかえた女が、朝もやの中でゆらゆらと歩いている。

 ほとんどが、彼と同じ奴隷だ。ゲルマニアやパンノニアから来た金髪の氏族。アフリカから来た黒い肌の氏族。シリヤやアラビアから来た東方の氏族。

 早朝から深夜まで、ローマの都を動かしているのは、奴隷なのだ。

 桶に水を汲み、階段を何度か往復して、台所の甕いっぱいに水を満たしたころに、主はしぶしぶと寝台から起き上がって、身支度をすませた。

 軽食堂の女主人エウドキアが届けてくれた焼き立ての平パンと果物をテーブルに並べ、主の給仕をする。テーブルの上には、もうひとつのパンが置いてあった。セヴァンがあとで食べるための、奴隷用のパンだ。

「このパンは、皇帝が月に一度、無料給付している小麦で作ったものだ」

 レノスは、固いパンを手にして、物憂げに眺めた。

「質が悪いから、たいていは奴隷に食べさせて、自分たちは市場で良い小麦を買う。皮肉なものだ。ローマ市民のための小麦を食べるのは奴隷なのだからな」

 ひとくち齧って、不味そうに飲み込む。

「皇帝は、市民にただで小麦を配っているのですか」

「ローマでは、『パンと見世物』(パネム・エト・キルケンセス)を与えられない支配者は、支配者ではないと言われる。属州で取り立てた税と、属州から連れてきた奴隷の労働のおかげで、ローマ市民はあくせく働かなくとも暮らすことができるわけだ」

 皮肉っぽく言葉を切ると、主人は、かじりかけのパンをぽんと放ってよこした。

「それを食べたら、従兄の邸宅ドムスに行って、返事はまだかと催促してきてくれ」

 レノスはこの数日、アウラスの返事を待ちわびている。伯父の面会の約束を取りつけ次第、彼から来るはずの知らせが、まだ来ないのだ。

「当たり前か。ただでさえ疎まれているというのに、今回の話は、伯父上自身の首をも危うくする」

 いらいらとつぶやく主に一礼して、セヴァンはそそくさと立ち去ろうとした。

「待て、ゼノ」

「なんですか?」

 テーブルの上を一枚の銅貨がころがってきた。

「アウラスの家に行く前に、床屋へ行って、髪を短く刈ってもらえ。アウラスの奥方がおまえを見ても、その髪でかつらを作ろうなどと思わぬようにな」



「旦那さまからのお返事は、まだ届いておらんのだ」

 玄関口に応対に出てきた家令のカペルは、残念そうに首を振った。

「アウラスさまも、二度目の手紙を出されたばかりだ。もう少し待ってはくれぬか」

「わかりました。主にそう伝えます」

「お嬢……げふんげふん、レノスさまは息災にしておられるか」

「病気ではないと思います」

 セヴァンは返答に困って、口ごもった。「けれど、ずっと不機嫌です」

「退屈しておられるのだよ」

 カペルは白いあごひげをしごきながら、何度もうなずいた。「あの方は、お小さいころから、じっとしているのが我慢できないご性分なのじゃ」

 「ちょっと、待っていなさい」と言い残して、カぺルは奥に入った。しばらくして、蓋つきの大きな甕を持ってくる。

「これを、レノスさまに」

「なんですか?」

「あの方の大好きなカタツムリに決まっておろう」

 家令の奴隷は、すまし顔で答えた。



 大きな甕を抱えてスブラに帰ってくると、ちょうど私塾が始まる時間だった。

 商店の並ぶ列柱廊の一画に、板を渡しただけのベンチがずらりと並んでいる。そこに毎朝集まってくる二十人ほどの子どもたちを、ひとりの教師が教えるのだ。

 柱の陰に甕を置き、その上に腰かけて耳をすませる。盗み聞きしているのが見つかると、教師に「授業料を払え」と鞭でぶたれるそうになるのだ。

 小さな子どもは蝋板のお手本をなぞりながら文字を練習している。他の子が声を出して読んでいるのはイソップの寓話だ。

 読み書きに関しては、セヴァンはもうほとんど彼らに教わることはない。フィオネラが短い間に、どれほど中身の濃い授業をしてくれたか、あらためてわかる。

 もう少し年上の子どもたちが、十二表法を唱和し始めた。


『裁判で双方が合意に達したときは、それを宣言すべし。合意しない場合は、昼までに広場フォルムあるいは市場で、法務官の前に双方の言い分を主張すべし』


(これが、法律か)

 もちろん、クレディン族にも、裁判に似たものはあった。人々の諍いや、水の権利や羊の放牧に関する村同士のもめごとを裁くのは、多くの場合、ドルイドと呼ばれる祭司たちだった。

 だが、それを文章で定めたものはなかった。ケルトには文字がないからだ。

 ドルイドたちは、神託と称して、訴えられた者を短剣で刺し、その血の流れ方で有罪か無罪かを決めることすらあった。

(果たして、あれは本当に正しい裁きだったのだろうか)

 島にいたときは疑いもしなかったことに、次々と疑問が湧いてくる。

 ローマを憎んでいるはずなのに、ローマのやり方のほうが優れていると感じることもあるのだ。ここでは、小さな子どもでさえもが、文字を書き、法律を学んでいる。

 自分という人間は、そこまで堕落してしまったのだろうか。

「さあ、算盤アバクスを持っている者は出しなさい」

 教師の声で、生徒たちはいっせいに足元の包みから、じゃらじゃらと音がする板を取り出した。蝋板の上に小石を並べる者もいる。

「それでは、足し算から」

 子どもたちは、教師が数を読み上げるたびに、小石を板の溝の上にころがしている。

(何をしてるんだ?)

 思わず身を乗り出したとき、「また、おまえかっ」と教師の怒声が飛んできた。「盗み聞きするなら、授業料を払え!」

 あわてて逃げ出そうとして、腰かけていた甕を倒した。石を敷きつめた通りに、大量のカタツムリがぶちまけられた。

 そのまま駆け戻り、軽食堂ポピーナに飛び込み、店主と雑談していたレノスの前に立った。

「どうした」

 びしょぬれで息を切らしている奴隷を、レノスは怪訝な顔で見る。

「いろいろ……ありまして」

「それで、どうだった?」

「……家令に会いました。伯父上さまの返事はまだだそうです」

「そうか」

「アウラスさまは、二度目の手紙を送ったとのことです」

「わかった」

 レノスの表情は変わらなかったが、落胆は隠せない。

「それから」

 とおそるおそる付け加える。「カペルから、カタツムリの入った大甕を預かりました」

「なんだと」

「ですが、途中であやまって甕を割り、中のカタツムリを逃がしてしまいました」

 主人は、ニヤリと笑った。「そいつは、今聞いた中で一番良い知らせだ」



 浴場での『ガリア戦記』の朗読は、ひと飛びに第七巻に進んでいた。

 トラヤヌスの大浴場ならいざしらず、小さな個人経営の浴場の図書室では、さすがに全巻はそろっていないのだ。

 第七巻の主題は、ガリアの雄ウェルキンゲトリクス率いるガリア同盟軍と、カエサル率いるローマ軍団との戦闘の記録だ。

「ウェルキンゲトリクスとは、どんな人物だ?」

 読んだことを理解しているかどうか確かめるため、レノスはときおりセヴァンを試した。

「彼は、アルウェルニ族の族長の息子でした。ガリアは氏族ごとにばらばらで、氏族の中にも争いがありました。ウェルキンゲトリクスは、彼らをまとめあげて、ローマと戦うことを呼びかけ、王となりました」

「なぜ、そんなことができたのだと思う?」

 セヴァンは、金色の眉をひそめて、しばらく考え込んだ。

「ウェルキンゲトリクスの決定がすばやく、すぐれていたからです。騎兵隊を中心に組織し、命令は厳しく、反対する者は容赦なく殺し、都市や畑をすべて焼き払いました。そのためローマ軍団は食糧の補給を絶たれ、消耗しました」

「なぜガリアの民は、彼に従ったのだろうか」

「ウェルキンゲトリクスはすぐれて影響力のある青年だったと、書いてあります。演説も巧みで、全ガリア共通の自由を呼びかけて、ガリア人の心を得ました」

 「ふむ」と満足げに、主はうなずいた。

 『全ガリア共通の自由』と、セヴァンは心の中で繰り返す。

 果たして、ブリテン島の氏族たちは、そういうものを求めて戦ったのだろうか。ただおのおのの土地からローマを追い出したいという、やみくもな怒りだけで、ばらばらに戦っていたのではないだろうか。

 もし、ひとりの王のもとに結集して、慎重に計画し、一斉に蜂起できていたら。全ブリタニア共通の自由という旗印のもとに団結できたら。

 長い沈黙のあいだも、レノスはじっと忍耐強く待った。

「では、なぜウェルキンゲトリクスは、カエサルの前に敗れたのか」

   その答えを得たとき、セヴァンは自分たちの蜂起が失敗した原因を知るだろう。そして、次は同じ失敗はしないと心に固く誓うだろう。

 そのときブリタニアは、未来のウェルキンゲトリクスを得ることになる。

 セヴァンが口を開こうとしたとき、

「マルキス隊長!」

 下町の子どもたちが、棒きれや球やブドウの蔓で作った輪を手に、大挙して駆けこんできた。この時間、浴場の庭園は、授業を終えた子どもたちの遊び場になる。

「ねえねえ、剣を教えてよ」

「僕も大きくなったら、軍団に入って、百人隊長になるんだ」

 目を輝かせた子どもたちに回りを取り囲まれ、辺境軍の司令官は弱りきって大理石のテーブルに頬杖をついた。

「まいったなあ。もう剣は教えたくないんだよ」

「どうして?」

「どうしてかな」

 レノスは、穏やかにほほえんだ。「わたしが、剣で大切な人を殺したからかな」

 一瞬、子どもたちは声をなくす。

「そうだ。そこに立っているおにいちゃんに教えてもらうといい」

 しめたとばかりに、指をまっすぐにセヴァンに向けた。「わたしよりずっと強い。なにせ、ブリタニアのウェルキンゲトリクスだからな」

「え、ええっ」

 セヴァンは度肝を抜かれて、主を見た。

「十人を相手にしても、負けないぞ。試してみるか」

「すごーい」

「じ、冗談じゃ……」

 語尾が終わる前に、セヴァンは脱兎のように逃げ出した。大勢の子どもがわっと歓声を上げ、その後を追いかける。

 レノスは長椅子にひっくりかえって、笑いころげた。



 さんざんな一日が終わろうとしていた。

 今日こそは、馬車の騒音が始まる前に寝ついてしまおうと、マントの下にもぐりこんだセヴァンは、眠りの穴に吸い込まれる寸前、足元で扉が開いたのに気づいた。

「寒いな、ここは」

 レノスはぶるっと身震いして、階上から聞こえてくる男女の睦言に耳をすませた。「おまけに、教育にも悪い」

 今日、床屋で刈り込んだばかりのセヴァンの頭に、ポンと温かい手が乗った。

「中に入れ、今夜から部屋の中で寝ることを許す」

「い、いえ。お、俺は――」

「いいから、入れ。命令だ」

 おずおずと中に入ると、トゥニカ一枚になったレノスの華奢なシルエットが月明りの中で動いている。

 これでは、よけいに眠れるわけがない。

「もっと火鉢のそばに寄っていいぞ」

 「はい」と消え入りたい気持ちでセヴァンは壁に体を押しつけ、うずくまった。

 レノスは寝台の上で、ごろりと仰向けになった。

「今日は、子どもたちも楽しそうだった。おまえは良い剣術の教師になれそうだな」

「風呂に行ったはずなのに、もっと汚れました。もう二度とやりません」

「ふふ」

 主は、くぐもった声で笑った。

「眠いのに、付き合わせてすまんな。ときどき何かを考え出すと、鬱々として、まんじりともできなくなる。持病のようなものだ」

 ごろごろと轍の音が響いてきて、通り過ぎる。荷車が解禁される夜が始まった。

「生きている人間がそばにいてくれれば、安心する。北の砦では、塁壁の上で夜明けまで歩哨と話しこんだな」

 セヴァンに話しているというよりは、自分と対話しているようだ。それとも、この場にはいない誰かと。

「剣が、握れないのだ」

 レノスは、暗闇の中に手をかざした。「腕の傷はとっくに癒えたはずなのに。あの戦いのあと、剣を持つと手が震える。フラーメンとラールスがすぐに気づいた。それ以来、剣の訓練はふたりに代わってもらっている」

 ふたりの百人隊長が、セヴァンに短剣を託したのは、それが理由だったのか。彼らはこのことを知って、レノスの身を案じていたのだ。

 セヴァンは何度も浅く呼吸して、息をととのえた。「剣で大切な人を殺したとおっしゃいました」

「アイダンは大切な友だった」

 うめくようにレノスは答えた。

「殺すつもりではなかった。本当だ。何度、日時計の針が戻ってほしいと願ったかわからない。もし時が戻るなら、わたしは……」

 ことばはそのまま途切れ、外の騒音が取って替わった。

(俺も、何度そう思っただろう。もし時が戻るなら、と)

 セヴァンはオオカミのマントの下にもぐり、じっと唇をかみしめる。

 追憶の夜が更け、いつのまにか、ふたりは静かな寝息を立てていた。



「お願いがあります」

 次の朝、セヴァンは朝食を終えたレノスの前に立った。

「クウィントス・ユリウス・スーラという人の居所を知りたいのです」

「ほう」

 レノスはテーブルの上に身を乗り出した。「これは、なつかしい名前を。北の砦の前任の司令官だ」

「兵士のひとりに、届け物をするように頼まれました。ローマに来ればなんとかなると考えていたのに、どうやって探せばよいか、全くわかりません」

「百万人の住む都市だからな」

「このままでは、その兵士との約束を果たすことができません」

「兵士ではなく、フィオネラだろう?」

 隠すまでもなく、とっくにバレている。

 セヴァンは観念し、自分の荷物の中から、布にくるんだ巻物を取って来た。

「妓楼に忘れていったものなので、ぜひ届けてほしいと」

「ガリア戦記の第一巻か。なるほど」

 レノスは巻物を見て、笑い出した。「自分の書いた戦記が恋文代わりに使われるとは、さすがのカエサルも想像もしなかっただろうな」

「……恋文?」

 レノスは顎に手を当てて、記憶をたぐりよせた。「確かスーラどのは、軍を引退してまもなく、第十四区に居を構えたと聞いた」

 主人は立ち上がり、いそいそと準備を始めた。この数日の無聊がウソのように。

「何をぐずぐずしている。行くぞ。テヴェレ川の向こう岸だ」



 ローマの市街地を包み込むように蛇行するテヴェレ川。

 細長い河谷には、巨大な戦車競技場キルクス・マクシムスが築かれ、皇帝の御住まいのある丘から観覧できるようになっている。

 川べりの港には倉庫が立ち並び、野菜市場と家畜市場がにぎわいを見せていた。

 幾重にも枝分かれした迷路のような坂道をうねうねと辿ると、アウェンティヌスの丘に登っていく。この上は、豪商たちの邸宅が建ち並ぶお屋敷町だ。

 そして、テヴェレ川の対岸が、第十四区だ。ローマの中心から外れていることもあって、昔からユダヤ人が多く住んでいた。だからなのか、何やらよそ者を寄せつけない空気が漂う。

 狭い通りの両側には、古い商店やインスラが雑然と立ち並んでいる。

「さて、どうやってスーラどのの屋敷を探すか」

 レノスは、水汲み場の縁に座り込み、黒髪をわしゃわしゃとかきむしった。

「商店に入って、聞いてみましょうか」

「そうだな……あっ」

 レノスは立ち上がり、坂道を登ってくる男に近づいた。男は大きく重そうな布のカバンを、たすきがけに背負っている。中には、長い筒や包みがたくさん入っていた。

「おい、ものを尋ねるが」

 兵士のしるしである赤いマントをひるがえしながら、レノスはいかめしく言った。

「退役軍人クウィントス・ユリウス・スーラどのの屋敷をさがしている」

「ああ、そこの次の通りを左に曲がった突き当たりですよ」

 こともなげに男は答え、カバンを背負いなおして去っていった。

「誰ですか、あれは」

国営郵便キルスス・プブリクスの配達人だ」

「郵便?」

「帝国内のどこにでも、郵便は届くようになっている。公文書を運ぶのがたてまえだが、ついでにいろいろ用事を頼めることも多い。配達人は、自分の受け持ち区域は、全部の家の名を覚えているというな」

 教えられたとおりの道を行くと、突き当たりにこじんまりとした古家があった。壁のクリーム色と、泥除けの赤の二色模様は、まだ新しい。

 扉にぶらさがる輪を叩くと、しばらくして掛け金がはずれる音が聞こえ、金髪の少女が、おずおずと顔をのぞかせた。

「どなたでしょう」

「属州ブリタニアの第七辺境部隊司令官、レノス・クレリウス・マルキスと言います。スーラどのはご在宅でしょうか」

「まあ」

 少女は、真っ青な目を丸くした。「ただいま、すぐ。お待ちください」

 扉の向こうで、「ご主人さま、ご主人さま!」と叫ぶ甲高い声が聞こえる。

 すぐに、ばたばたと走る音が聞こえた。

「レノス!」

 三年足らず前に北の砦で別れた初老の司令官は、泣き笑いの表情を浮かべながら、若者の肩を抱いた。

「元気だったか。ああ、言わなくとも知らせは聞いているよ。大変な戦争だったそうだな」

「スーラどのもお変わりなく。いや、むしろ若返ったのではありませんか」

「太ったよ。毎日を無為に過ごしているからな」

 書斎に引き入れられ、レノスは愛すべき老司令官と向き合って座った。

 酒が運ばれ、思い出話は尽きず、笑い声がこぼれ、やがて陽が落ちるころ、質素だが温かい夕食の席に招じ入れられた。

「家の奴隷は、このユニアひとりしかおらんのだよ」

 料理を運び、杯に酒を注ぎ、かいがいしく働く金髪の少女を、スーラはやさしい眼差しで見やった。

「それで充分なのだ。退役軍人のひとり暮らし、訪れてくる者もいない」

「静かでよいではないですか」

 いつもどおり足元に座っていたセヴァンに、レノスは命じた。「ゼノ、手伝ってやりなさい」

「はい」

 彼が部屋を出て行ったあと、この家の主は訊ねた。「あの子は、クレディン族かね」

「はい。サフィラ族長の息子です」

「息子は三人いたと聞いたが」

 レノスはうなずく。「二番目です。長兄のアイダンは死にました――わたしが殺しました」

「本当に、きみには苦労をかけてしまったな」

 スーラは、目をしばたいた。第七辺境部隊と氏族との戦いを伝え聞き、自分でも熱心に報告書を調べ、ほぼ正確な状況を知っていたのだ。

「きみの武勇は、ローマの軍団兵のあいだでも有名だよ。お父上の無念を息子が晴らしたと、美談にもなっておる」

「そんな……」

「だが、それだけに、きみがつらい思いをしているのではないかと心配でね」

 錫の杯は、北の砦で最後に酒を酌み交わしたときのものだった。鷲の文様を見つめていると、レノスは今でもまだ砦の司令官室にいるような錯覚に襲われた。まだ何も知らなかったあの頃に。

 突然、家の奥で不穏な物音がした。

 何かが壊れる音。少女の悲鳴。

 レノスは考える間もなく、部屋を飛び出していた。







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