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月の戦士  作者: BUTAPENN
惑乱の都
27/62

惑乱の都(2)




 広場フォルムの中央に立つと、まるで井戸の底から空を見上げるような目まいを感じた。

 列柱から見下ろす神々の像、皇帝の凱旋門、神殿、バシリカ。圧倒されるような高さの建造物に四方を囲まれている。

 まごまごしていると、せわしく行き交う人々に突き飛ばされそうになった。トーガをまとった男たちが、立ち話で商談をしているかと思えば、演台に立って声高に政治的な主張を訴える者がいる。たくさんの庇護民を引き連れて、さっそうと肩で風を切る貴族に、屋台で食べものを売っている商人まで。

 元老院議員、貴族、自由民、奴隷が混然一体となって、それらの人間の作り出す音の、海鳴りのような絶え間ない反響が、セヴァンの耳の奥をひっきりなしに掻き回し、平衡感覚を失わせる。

「どうした」

「……気持ちが悪いです」

「人ごみに酔ったのだろう」

 レノスは、からかうように笑った。「まったくおまえは、船には酔うし、人には酔う。それでも、オオカミを先祖に持つクレディン族の戦士か」

「そんなことを言われても」

 セヴァンは力なく反論する。生まれて十五年のあいだ、平原や森を駆けることしか知らずに育った辺境の少年にとって、このローマの街は、あまりにも刺激的すぎるのだ。

 バシリカの石段に座るように命じて、レノスもその隣に座り、屋台で買ったりんごを、かりっとかじる。

 広場を埋め尽くす人の群れをぼんやりと見つめながら、セヴァンは訊ねた。

「なぜ、ここは、こんなに人が多いのですか」

 答えの代わりに、レノスは右の方向を指差す。「その隣に見えるのが、元老院議事堂」

 そして、左。「凱旋門の隣にあるのが、ユリウス神殿だ。元老院に登院する途中だったユリウス・カエサルが暗殺されて、火葬された場所に建てられた神殿だ」

 レノスはりんご片手に、壮大な建物を次々と指し示した。

 「真向いの大きな建物が、ユリウスのバシリカで、裁判が行われる。その隣が、サトゥルヌス神殿、帝国の金庫が置かれている。そして、その左、向こうのパラティヌスの丘に、皇帝の宮殿がある」

 今回の旅の目的地。コンモドゥス帝がおわすところ。いずれ、アルビヌス総督とともに、あの丘に登らなければならない。

「ここフォルム・ロマヌムは、共和政時代からずっとローマ帝国にとって、政治と法律の中心なのだ」

「……せい、じ、ほう……つ?」

「市民の代表がものごとを決めることを政治と言い、もめごとを裁く決まりを法律という」

「……政治、法律」

「覚えておくがいい」

 半分かじり終えたりんごを奴隷に渡すと、二百人隊長は軍用マントを肩から掃いのけて、立ち上がった。

「そろそろ、行こう」

 石段を軽やかに降りていく主の背中を追いながら、セヴァンは手の中のりんごに目を落とし、少しためらってから歯を立てた。



 バシリカと元老院議事堂のあいだの通路を抜けると、ふたたび大きな広場に出た。フォルム・ロマヌムが手狭になったため、歴代の皇帝たちが東へどんどん広げていったのだという。

 丘の斜面を削って作った、おそろしく巨大な半円形の建物、「トラヤヌスの市場」が広場に立つ者を見下ろしている。

 左手には、大きなカエサルの立像。右手には、四頭立ての馬車をあやつるアウグストゥスの像と神殿。

 神殿の背後は、高さ70キュビトはあろうかという高い壁に守られていた。その壁のわきの薄暗い坂を下っていくと、両側に商品を置いた平台が並び、参拝客を待ち構えていた。

 神殿のお守り。銅の鍋や水差し。テラコッタの壺や優美な形のアンフォラ。ろうそくや燭台。さらに、パピルスや羊皮紙の巻物を商う書店がずらりと続く。

「ここから先が、スブラ、ローマの中でも、とりわけ貧しい庶民の街だ」

 書店街を抜けると、小さな広場に出た。

 中央の噴水を取り囲むように、さまざまな種類の店が軒を並べていた。鮮やかな色の反物が、店の壁を隙間なく埋めているかと思えば、その隣は、さまざまな野菜が積み上げられ、店主が大声で客を呼びこんでいる。肉屋の店先には、大小の頭のない鳥や豚がぶらさがっている。

 食べ物や香辛料に混じって、饐えたゴミや糞尿の雑多な匂いが鼻をつく。

 どこかの店に銅細工職人でもいるのか、鍋をがんがん叩いているらしき音が、四方八方にこだました。

「ああ、この音、久しぶりだな」

 頭が割れんばかりの喧騒を、レノスは天上の音楽のように感じているらしい。

 広場から二又に伸びる通りの両側には、延々と積み木細工のような共同住宅インスラが林立する。どれも高さは五階か六階。おそろしいほどの圧迫感だ。

 上を見上げると、細い青空を背景に、見渡す限り洗濯物の波がひるがえる。

 口を開けっぱなしのセヴァンを置いて、レノスは慣れた足取りで通行人をかわし、店の平台やぶらさがっている看板を器用にすり抜けながら、軒下の列柱廊を進んだ。

「ま、マルキスさんじゃないの」

「ひさしぶりだな。おかみさん」

「うわっ。クレリウス・マルキスだ。本当に?」

「本物さ。幽霊だとでも思ったか」

「だって、ブリタニアで戦死したってナソーが言ってたぞ」

「床屋のおしゃべりは当てにならないって、身に染みてるだろうに」

 おはじき遊びをしていた少年たちが、わっと駆け寄ってきた。

「レノス。おかえり。剣を教えてよ」

「ああ、また今度な」

 赤いマントを着たローマ軍の司令官を、こわごわと遠巻きにしている子もいる。属州へ行っていた二年のあいだにここへ引っ越して来た子どもたちだ。

 騒ぎを聞きつけ、一軒の店の中から、中年の痩せた男と小太りの女が転がるように飛び出てきた。

「レノスさま!」

「スタティウス。エウドキア」

 ようやく追いついたセヴァンの目の前で、三人は親しげに抱き合った。

「おかえりなさいませ。こっちに戻れることになったんですか」

「いや。軍の一時休暇で帰ってきた。春まではいるよ」

「じゃあ、さっそく元の部屋を開けておきますよ」

「もうとっくに別の人が住んでるんじゃないのか」

 女は前掛けで涙をぬぐうと、「だいじょうぶです。まかせてください」と胸を張った。

「そうだ。紹介する」

 レノスは振り返り、セヴァンを柔らかい眼差しで見た。「わたしの奴隷、ゼノだ」

 セヴァンは胸に手を当て、ていねいに礼をした。女主人は目をぱちくりさせ、やがて満面の笑みで「よく来たね」と言った。

「とにかく、中にお入りください」

 ぷんと、平パンを焼くいい匂いが漂ってきた。店の中には、テーブルと椅子がいくつか。壁にしつらえられた大理石の棚には食器が並び、その奥にかまどがある。穴をくりぬいた木のカウンターには、料理の入った壺が湯気を立てている。

 ローマ市内に何百軒とある軽食堂ポピーナは、庶民にとってなくてはならない場所だ。

 朝食には遅すぎ、昼食には早すぎる時間で、店はまずまず空いていた。

「何か食べなさるかい」

 エウドキアが訊ねた。

「いや。軍隊で、朝晩二食に慣らされた」

「じゃあ、ワインをお飲みください。あたたまりますよ」

 レノスに酒のコップを渡すと、女主人は、外に立っているケルトの奴隷に声をかけた。

「あんたもお入り」

「いや、俺は――」

 遠慮するセヴァンを、中に引っ張り入れる。「あたしも亭主も、昔はマルキス家の料理奴隷だったんだよ。レノスさまの奴隷なら、あたしたちにとっても家族ファミリアさ」

 むりやり隅のテーブルに座らせると、肉団子をいっぱいに盛った皿を、でんと彼の前に置いた。

「さあ、食べな。あんたの年頃の男にゃ、胃袋はふたつあるんだからね」

 セヴァンは、おそるおそる料理を頬張る。

――美味い。こんなうまいものを食べたのは、はじめてだ。昨夜の晩餐のような、香辛料のごたまぜではない。飾り気のない素朴な味だ。

 次々と手づかみで口に押し込んでいると、ドスンという大きな音が聞こえ、パラパラと埃が落ちてきた。

「こっそり夜中に窓から小便を捨てやがって、店の真上でなんてことしてくれたんだ。さっさと出ていけ。二度と顔見せるな」

 スタティウスの大声とともに、階段を何か重い荷物が、どさどさと落ちてくる音がする。

「いいのか、エウドキア」

「かまやしませんよ。油商人のどら息子が女と逢引きするのに使ってんだから、追い出してやったほうが親切ってもんです」

「それなら、好意に甘えよう」

 レノスは、セヴァンを見た。

「聞いたな。食べ終えたら、部屋の掃除だ。大仕事になるぞ」



 インスラの奥の、狭く急な階段を上がっていくと、驚いたことに、階段の踊り場にも人が住んでいた。一角を布で仕切って、日雇い労務者らしい男が体を折り曲げて眠っている。手すりには、汚れたトゥニカや、パンやチーズを入れた袋がぶらさがっている。さらにその上の階にもおおぜいの人間の気配や、煮炊きをする煙が充満していた。

 裕福な一家が住んでいるらしい二階を過ぎ、その上が空けてもらったばかりの貸し部屋だ。

 板戸を開けると、中は二間続きになっていて、奥の間には寝台があり、布でくるんだわら布団が乗っていた。手前はテーブルと椅子、水を入れる甕と、火鉢が置いてある。壁の折り戸を開け放つと、外は露台が張り出していた。

「ごみだらけだ」

 レノスは顔をしかめ、がらくたを蹴り飛ばしながら露台に立った。「いい景色だぞ。来いよ」

「ふ、ふたり立っても、落ちませんか?」

「ここはまだだいじょうぶだろう。この上の階は、何度も建て増してるから、いつ崩れてきても不思議じゃないが」

 セヴァンは足で床を確かめながら、びくびくと出てきた。

「なにもかも、むちゃくちゃです。この街は」

「無茶なのは、みなわかってる。こうでもしなければ、住めないんだ。この帝都には百万の人間が住んでいると言われている」

「百万人」

 千の百倍の十倍。セヴァンの今までの人生で、考えたことも感じたこともなかった数字だ。

 壁を這うツタを、レノスはいとおしげに撫でた。

「このツタは、昔わたしが植えた。すごいな。もう屋根のあたりまで広がっている」

「ここに住んでいたのですか?」

「最初は伯父上のドムスにいたのだがな。……いろいろあって、十五のときに家を出て、入隊までここで暮らした」

 こわごわ木製の手すりから身を乗り出せば、さっき通ってきたフォルムの神殿が白く光り、その向こうの丘には、ユピテル神殿の赤い屋根と白い円柱が暖かな午後の光に輝いている。

 下を見下ろせば、買い物客が狭い通りを埋め尽くし、子どもたちが歓声を上げながら柱のあいだを走り回っている。

 生まれた土地も人種も、身分も違う人間たちが、百万人ひしめいているローマの都。もし氏族の村で暮らしていれば、一生知ることのなかった景色。



 昼の混雑が終わったばかりの軽食堂にレノスが降りてくると、エウドキアが近づいた。

「片づけは終わりましたか」

「ああ。ゼノが今、床を磨いている。わたしより綺麗好きで、助かるよ」

「いい子ですね」

「賢い子だ。わずか一年で、ラテン語を完璧に覚えた」

「あなたにも、とてもよくなついて」

「そうかな」

 レノスは、口の端をゆがめて笑った。「わたしは、あの子の兄と仲間を戦いで殺し、村を根こそぎ略奪した。捕えて奴隷にしたときに、『いつか、おまえを殺してやる』と言われたよ」

「わざわざブリタニアくんだりまで出かけて行って、戦争などしなければよいんです!」

「軍人にそんなことを言われても、困るな」

 女主人は、外の明るい往来をぼんやり見つめ、すんと鼻をすすった。「憎しみはいつか消えます。時間さえかければ、きっと互いに分かり合えますよ」

「そうだといいが」

 レノスは、真顔になって身を乗り出した。「エウドキア、このごろ帝都はどうなっている?」 「ええ。あんまり、景気はよくありませんね」

 エウドキアは、あたりを見回してから、小声で言った。「あなたが発ってからすぐ、大きな暴動がありました。小麦の配給が止まっちまって。大騒ぎの責任で、皇帝陛下がクレアンデルという名の近衛長官を死刑になさったそうです」

「ああ、聞いた」

「それ以来、みんな落ち着かないんですよ。何かが少しずつ狂って来ているという不安が消えないんです」

「コンモドゥス帝陛下の評判はどうだ」

「ちょっと前までは、みな熱狂的に支持していたんです。由緒正しい血筋で、お小さいころからお父上といっしょに前線で指揮を取られた勇敢な皇帝陛下だと評判でしたよ。貴族の財産を没収しては、気前よくお金をばらまいてくださいましたしね、けれど……」

「けれど?」

 ポピーナの女主人は、ますます声をひそめた。「このごろは毎日、宮殿を抜け出ては、コロセウムで剣闘士のまねごとをなさっておられると聞きました。うわさでは、千二百人の剣闘士をおひとりで殺したとか。数十頭のヒョウを投げ槍で次々に射殺したとか」

「まさか」

「男娼や側女を何十人となくはべらせて、昼となく夜となく、いかがわしい遊びにふけっておられると聞いたこともあります」

 なんということだ。

 噂には、おそらく長い尾ひれがついていることだろう。だが、市民たちにそうささやかせるということは、皇帝の権威は、すでに完全に地に落ちているのだ。

 ぼんやりと考え込みながら店を出ると、ちょうどセヴァンが、ぐったりして階段を降りてくるところだった。

「掃除は終わったか」

 頭から足まで埃まみれになった奴隷を見て、レノスは笑い出した。

「よし、浴場へ行こう」



「ローマ市内には、何千人も入れるような大浴場テルマエがいくつもあるが、ほとんどは、近くに行きつけの小さな浴場バルネアを持っていて、そこで湯を浴むんだ」

 上機嫌で歩を進める主の後ろに、セヴァンはしぶしぶ付き従った。これだけ長くローマ人とともにいても、理解できない。体を洗うことの何がそんなに楽しいのだろう。

 窓からもくもくと白い湯気を上げている赤屋根の大きな建物に入る。モザイク床の円柱廊を抜けると、広い中庭に出た。

 客から1クォドランスを集めていた男がていねいにお辞儀した。男の前を通り過ぎたレノスは、「兵士は無料になるんだ」と目配せする。「もちろん、奴隷もな」

 大きな広間に入ると、むっと湿った暖かい空気が押し寄せてきた。高い天井はアーチ型で、壁は細かい装飾で埋め尽くされている。

「まずこの部屋で服を脱ぐ。脱いだものはその壁の穴に置いてもよいが、盗まれることもあるから、おまえが持っていてくれ」

 レノスがためらわずにトゥニカを脱ぎ始めたので、セヴァンは「わっ」とあわてふためいた。この人は自分が女であることを知らないのか?

「どうした」

「お、俺は外で待ってますから」

「そうか。浴場は初めてだったな」

 レノスは、垢すりの器具を持った屈強な奴隷に呼びかけた。「フィリポス」

「なんでございましょう」

「こいつは辺境の出身で、入浴の作法を知らない。丁寧に教えてやってくれ」

「承知いたしました」

「それから、キュラを呼んでくれ」

 セヴァンが男に引きずり出されていくのを見送ると、レノスは服を預け、布を腰に巻きつけて、熱浴室に入った。

「お久しぶりでございます。レノスさま」

 毛の縮れたエジプトの女奴隷が待ち構えていて、深々とお辞儀した。

「もう来てくれたのか」

「お入りになるのを、のぞき穴から見ておりました。おなつかしい」

 彼女は、垂れ幕で仕切った貴賓室にレノスを導いた。

 女奴隷はレノスの胸の包帯を慎重にはずし、押し込めていた乳房をあらわにした。青銅製の長椅子にうつぶせに寝ころぶと、秘していた場所にじわりと熱を感じる。

「ブリタニアで、おまえのマッサージがどれだけなつかしかったか」

 温めたオイルを背中に塗られる心地よさに、レノスは思わず吐息をもらした。

「まだ内緒にしておられますの?」

「そうでなければ、ローマ軍の二百人隊長は務まるまい?」

 キュラは軽やかな笑い声を立てた。「あの奴隷にだけは、知らせているのですか」

「いや。なぜ?」

「あなたが服を脱ぐのをじっと見ていましたわ。好いた女を見る男のような目で」

 誰もかれも同じことを言うと、レノスは思った。

 今朝のアウラスの言葉が、妙に心の隅にひっかかっていた――『僕に殴りかかってきたときのヤツの目が、オスの目だったからさ』

 だから、浴場に連れてきて、わざとセヴァンを試したのだ。レノスが女であることを感づいているかどうかを。

「いや」それでもなお、否定する。「気づいているはずはない。あれは、まだ子どもだ」

「まあ、お気をつけなさいませ」

 美貌の女奴隷は、笑いながらレノスの耳元に息をふきかけた。「子どもはいつまでも、子どもではありませんのよ」



 中庭の大理石の像にもたれて待っているセヴァンは、全身の汚れをこすり落として、見違えるばかりになっていた。レノスは一瞬、かける声を失った。

「ゼノ、どうだった」

 さりげなく近づくと、彼は憤慨して「死ぬかと思いました」と訴えた。油を塗られ、砂をかけられ、変な板で体をこすられ、冷たい水に放り込まれたかと思えば、熱い湯に放り込まれたのだという。

「それが、ローマの正しい入浴のしかただ」

 とレノスは笑った。「少し散歩しよう」

 オリーブの木や月桂樹のあいだを遊歩道が続いている。ワインや軽食の屋台。運動場で訓練をする者。膝を突き合わせて、商談にいそしんでいる者。晩餐に招待してくれる金持ちを探す者。

「ローマ人にとって浴場とは、人生のあらゆる楽しみを見つけられる社交の場だ。ほら、図書館がある」

 丸屋根の小部屋に入ると、壁のひし形の棚に、たくさんの書物が納められている。

 レノスは係の奴隷に命じて、ひとつの巻物を取り出させた。

「読んでくれないか。ゼノ」

 列廊に並べられた大理石の長椅子に腰かけ、主人は目を閉じた。


『カエサルが……ガリア・キサルピナの……冬の陣営にいたとき』


 たどたどしくそこまで読んで、セヴァンは顔を上げた。

「ガリア戦記の第二巻だ。一巻はもう読み終えたのだろう?」

 目をつぶったまま、レノスは答えた。「ともかく読め。読み方がわからなければ、教えてやる」

 巻物をぐっと握りしめ、セヴァンは必死に文字をたどった。ローマの冬の風も、火照った体には涼しく感じた。



 ポピーナで腹ごしらえをすませ、新しい部屋の寝台にもぐりこむと、主人はすぐに寝息を立て始めた。

(無防備な女だ)

 セヴァンは、心の中で横暴な主人へのうっぷんを晴らした。(短剣をふところに隠し持った奴隷がそばにいるとも知らないで)

 なかば習慣になった呪詛が終わると、扉の外の一番暖かそうな場所に、オオカミのマントを被ってうずくまった。

 上の階のどこかで男と女が交わっている喘ぎ声が、階段を伝わってくる。あわてて両手で耳をふさいだ。浴場で服を脱ぐレノスの姿が、頭に浮かびそうになる。

 苦労してやっと寝入りかけたとき、耳を聾するばかりのガラガラという大音声が、地鳴りとともに襲ってきた。

 セヴァンは、扉を開け放ち、寝台に駆け寄った。

「主よ。建物が崩れてきます」

「あ?」

 ねぼけまなこで、レノスは起き上がった。

「なんだ、荷馬車の音じゃないか」

「荷馬車?」

「ローマは、法律で昼間は荷馬車の乗りいれが禁止されている。だから、夜になると市内に入ってきて、荷を運んで回るんだ」

「……一晩じゅう?」

「慣れれば、どうってことはない」

 すぐに眠りの中に戻っていく主人に、茫然とセヴァンは立ち尽くした。

 ラールス隊長の言うとおりだった。本当にローマというのは、恐ろしい魔物の住む街だ。

 氏族の少年に眠りの恩恵が訪れるのは、ようやく明け方になってからだった。






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