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月の戦士  作者: BUTAPENN
ローマへ
23/62

ローマへ(3)

★ここまでの分を改稿いたしました。くわしくは、活動報告へ。★



 セヴァンに与えられた馬は、小ぶりだが悪い癖のついていない灰色の葦毛だった。彼は次の朝、まだ暗いうちから起きて、念入りに毛を梳いていた。

「元気だな」

「若いからな」

 二十四歳の百人隊長と二十歳の司令官は、前夜の深酒にあくびを噛み殺しながら、旅の支度を整えた。

 ブリテン島南部では、総督府のあるロンディニウムを中心に七つの舗装道路が網の目のように張り巡らされている。レノスたちが辿ろうとしているのは、ロンディニウムから第六軍団の要塞都市エボラクムを経て長城まで伸びる、三百マイルに及ぶ道だった。

 馬の背から、行く手にまっすぐ伸びる道路を見て、セヴァンは呆然とした。

(まるで、川だ)

 舗装のためにぎっしりと埋められた敷石は、表面が平らでなめらかで、陽光を受けて水のように光っている。

「さすがだな」

 レノスは、感心したようにつぶやいた。「補修が行き届いている。アッピア街道と比べても、まったく遜色ない」

「その補修のために、沿線の住民は高い税金を払わされていますけどね」

 フラーメンの答えには、ちょっぴり恨みごとが混じる。

 司令官は、「見ろ、ゼノ」と奴隷を振り返った。

「中央がわずかに盛り上がって道全体が弓型になっているのは、水はけのためだ。一個大隊がすれ違って行進できるだけの幅がある。その両側の広い歩道が、旅人たちの通る歩道だ。道路はわずかな隙間もなく完全に舗装され、馬も荷馬車を引く牛も、ひづめをひっかけることはない。軍団兵士は一日二十マイル進み、荷車を引く牛は一日八マイル進む。公文書用の早馬は一日五十マイル走るのが基準とされている」

 レノスは、誇らしげに笑った。「こういう道路がローマ帝国じゅうに張り巡らされている。わかるか。われわれローマ軍は、帝国のどこで戦乱が起きても、すぐに援軍を乞い、即座に兵糧と兵士を送ることができるのだよ」

 セヴァンの背筋を、ひやりとしたものが撫でたような気がした。ローマ軍が道路を作ることに血眼になっているのを見て、バカにしていた。だが、その意味がようやくわかったのだ。

 道路をきちんと整備することは、はるか後方の援軍を、近くに得るのと同じことなのだ。

 ローマ帝国というのは、なんと恐ろしい敵なのだろう。

「少し休もう」

 長旅で、馬に無理をさせるのは禁物だ。彼らは数マイルごとに、下草の生えたイチイの木陰に手綱をつなぎ、旅人用のベンチに腰をおろした。

 思い思いに水を飲み、干しブドウや固いパンなどの携行食料をかじる。

 酒のコップを伏せたような形をした石の塔を、レノスは指差した。「ゼノ。見ろ。あれがマイルストーンだ」

 ローマの一マイルは、およそ千歩である。路肩には、一マイルごとにこのような石塚が建っている。

「あれも?」

 その横に立ち並ぶ石塚の群れを、セヴァンは示した。「マイルストーンですか?」

「ああ……これは違う。墓だ」

 レノスはベンチから立ち上がった。

「はか……」

「死んだ者を記念するために建てる石の碑だ。ローマ人は、街道沿いに墓を立てる風習がある」

 墓を眺めながら、ぶらぶら歩いていたレノスは、「ゼノ、ちょっと来てみろ」と叫んだ。

 セヴァンは即座に従う。

「この石に書いてある碑文を読んでみろ」

「ひ……ぶん」

「フィオネラから、ラテン語の読み書きを習っているのだろう。少しは読めるはずだ」


 『亡き人の霊にささげる。

 アエリウス・パリスはリンドゥムの市民で、

 二十四歳と八カ月十四日生きた。

 最愛の妻がこれを建てる』


「に、にじゅう、二十四さい、きゅう……」

「バカ、八だろ」

 読みあぐねている少年の頭を小突きながら、フラーメンも墓碑をのぞきこんだ。

「二十四か、この男は、俺と同い年で死んじまったんですね」

「この近くの町に住んでいたのだな」

「最愛の妻だって。そう言ってくれる女がいるなんて、まだ幸せだ。ほら、こっちなんか」


 『第六軍団の百人隊長

 クラウディウス・セネキオの霊にささげる。

 彼は四十五年一ヶ月二十五日生きた。

 彼の解放奴隷がこれを建てる』


「軍人は女っ気がない。かわいそうに、解放奴隷に墓を建ててもらったんだ」

「そうか。わたしも、ゼノに墓を建てるように頼んでおかなければならんな」

「え、え?」

 彼らは冗談を言い交しながら、次々と墓碑銘を読み上げていった。

 夢中になって墓にかがみこんでいるセヴァンと、その横で読み方を丁寧に教えてやっているレノス。フラーメンは、むつまじげな主従の後ろ姿を見ながら、心の中でつぶやいた。

――この人はまるで、氏族の奴隷に、ローマのあらゆる英知を教え込もうとしているかのようだ。



 ブリテン島は、輝かしい初夏を迎えていた。気ままな旅をするには最高の季節だ。

 まっすぐな道路をひたすら馬で進み、川にぶち当たればはしけで渡り、また次の町を目指し、日が暮れたところで宿を取る。

 もちろん、ローマ軍の砦に、ただで泊めてもらうこともできた。町の門や橋で徴収される通行税も、ローマ兵士ならば当然のように免除された。

 沿道には、ほぼ十マイルから二十マイルごとに町が建っている。

 鉄鉱の町。川岸に穀物倉庫が立ち並ぶ町。陶器造りで栄えている町。

 第九軍団の要塞として建てられたリンドゥムやエボラクムなど、ほとんどの町は砦の周囲の町が発展して都市へと成長したものだ。

 草葺き屋根の氏族の家々があるかと思えば、石造りのローマ風の家がある。ローマの神の神殿もあれば、ケルトの神の神殿もある。

 草原の真ん中に突如、城壁で囲まれた堅固な町が現われるかと思えば、瀟洒なウィッラが陽光を浴びて、タイルを宝石のように光らせながら、なだらかな牧場の中に点在していたりする。

 わずか数か月前、血で血を洗う戦争が同じ島の北部で起きていたのだと、おそらく、ここの住民たちは知らない。

 街道が町に近づくと、徒歩の旅人や、飼い葉を積んだ馬車や、背中に大きな荷をかついだ行商が行き交って、にぎやかな騒ぎになる。砦の回りを巡回するローマ軍の兵士たちとすれ違うこともあった。彼らはダキアやゲルマニアから来た巨大な金髪の男たちだった。

 しかし、ふたたび町を離れると、自分たち以外の人間を見かけることもない静かな時間が戻ってきた。

 ひたひたと立ち昇る冷たい霧に包まれ、馬の背に揺られてどこまでも伸びている道をたどっていると、まるで終わらない夢の中を歩いているようだ。

「おい、見ろ」

 フラーメンの声が前方から聞こえた。物思いから引き戻され、霧の向こうに目を凝らしたセヴァンに見えたのは、なだらかな丘をつかむ巨人の指だった。

「ハドリアヌス帝の命によって、第六軍団が建設した長城だ」

 レノスが、先人に対する敬意を声ににじませて言う。「西の海岸から東の海岸まで、全長八十マイルにおよぶ。完成までに十年かかった」

 馬で近づくにつれ、その全容が丘から一望できた。緑の大地が、高い石壁でまっぷたつに分断されている。

「当時、長く続いた氏族たちの反乱がブリタニア全土に広がるのを防ぐために、この長城が必要だった。それがひいては、帝国全体を守ることになったからだ」

「つまり、ここからこっちはローマですよ、ここから先はローマではありませんよと宣言したわけだ」

 フラーメンは、茶化すように言った。「あっち側は、人間の住む世界じゃないって気分になるな」

「行こう」

 町の食堂で腹ごしらえをすませた一行は、司令官を先頭に高い石壁をくぐり、長城の両側に作られたローマ軍の砦の中を抜けた。

 砦の門を出たとたん、あたりを覆っていた霧が嘘のように晴れた。彼らの眼前に広がっていたのは、今までと何ら変わらぬ、荒涼とした平原だ。しかし何かが違う。空気の色も、空の色も、壁を境にすべてが変わってしまったかのようだ。ローマの内側から、ローマの外側へ。

 レノスは、胸いっぱいに息を吸い込んだ。

「やっと、我が家に帰ってきたな。なつかしい匂いがする」

「あー、やっぱり? 俺もなんだか、ほっとすると思いました」

「わたしたちは、つくづく人間の住む世界が合わない身体になってしまったんだな」

 腹の底から湧き出す笑いをそよ風に散らせて、軍人たちは軽やかに馬を走らせ始めた。

 セヴァンも遅れまいと、後を追う。自分たち氏族の土地を我が家のようになつかしいと呼ぶ、この奇妙なローマ人たちはいったい何なのだ。

 彼らの北の砦まで、あと、ほんの二十マイルだ。

 初夏を迎えた高地では、赤茶けた砂岩がおだやかな日の光を受けて温んでいた。

 ぼうぼうとヒースの生い茂る丘を越えて、谷へ降りることを何度か繰り返していくうちに、いつのまにかローマの道は途切れ、鬱蒼とした森に包まれた。

 息苦しいほど強い樹木の芳香が漂う。やわらかな湿り気を帯びた空気を、ときおりアカライチョウの鳴き声がつんざく。

「どうだ。旅は予定よりはかどっているし、このへんで狩りをしていかないか」

「異存ありません。腹をすかした砦の連中は、都会の土産話なんかよりは、ノロジカの肉のほうを喜ぶでしょう」

 レノスとフラーメンは、顔を見合わせて微笑んだ。

 規律正しい砦の生活に戻る前に、ほんのわずかのあいだ最後の自由を謳歌して、何が悪い? 彼らは嬉々として、投げ槍と弓を準備した。

「二手に分かれよう」

「わたしは、こっちの沢を降りてみます」

「では、わたしはこちらだ――来い、ゼノ」

 司令官は、先だって斜面を登り始め、奴隷は主の槍と弓を手に持ち、後に続いた。

 身体を低くすると、むせかえるような草の匂いが、彼らを包み込んだ。腕の産毛をちりちりと、興奮が駆け抜ける。

 かすかな物音に気づいたとき、ふたりはとっさに地面に伏せた。

 音の正体は、りっぱな角を持つ雄のアカシカだった。予想もしていなかった大物だ。

 獲物は、こちらの気配を感じたのか、立ち止まり、じっと耳をすませている。

 レノスは振り向き、小声でささやいた。「おまえひとりで、やってみるか?」

 セヴァンは黙ってうなずいた。

「友よ、いい狩りを」

 氏族の祝福のあいさつに送られて、セヴァンは藪から身を躍らせた。その瞬間、彼はローマの奴隷ではなく、森を住処とする野生の生き物に戻る。

 あわてふためき、谷をひととびに跳躍する雄ジカに、たちまち取りついた。木と木のすきまを巧みにすり抜け、並走しながら、じわじわと沢へと追いつめる。

 獣の必死のあえぎが、すぐ間近で聞こえたような気がした。

 シカが泥に足をとられたのを見計らい、セヴァンはぐっと腕をしならせて、槍を投げた。遠くでバシャリと水音がして、あたりに静寂が戻った。

 倒れた獲物にゆっくりと近づく。赤褐色の夏毛に覆われたシカの腹は、生命の名残にまだ震えていた。

 頸動脈を切ってとどめを刺し、八つに枝分かれした角に祈りの手を置いてから、セヴァンは引き抜いた槍を下生えの草でぬぐった。

 レノスが、ようやく沢へ降りてきた。

「しとめたか」

「はい」

「いい狩りだったか」

「いい狩りでした」

「ゼノ」

 レノスの顔に、抑えても抑えきれぬ笑みが浮かんでいた。「おまえが笑うのを見たのは、はじめてだ」

 たちまち溶け出すように、奴隷の身体から柔らかさが消えた。



 夏至が間近な季節、一日は白々といつまでも暮れない。気がついたときには、月の光が森に射し込んでいた。

 そのままの成り行きで、野宿をすることになった。

 セヴァンが焚き火を作り、今日捕ったチドリの羽根をむしったり、ウサギの肉をハシバミの枝に差して炙るあいだ、ローマ人たちは馬を草のあるところにつなぎ、鹿革の鞍をはずして、回りに落ち葉やシダの葉を敷きつめ、寝床を作った。

 準備をあらかた終えると、レノスは、ハンノキが生えている斜面をひとりで降りていった。

 この下に水きよらかな小川があることは、狩りの途中で確かめておいた。

 旅のあいだじゅう、レノスは思う存分に身体を洗えないことにへきえきしていた。

 北の砦の将校用浴場なら、人のいない時間を見計らって、胸の包帯をはずすこともできる。だが、男ふたりと連れ立っての道中では、そうもいかない。夏の暑いさなかのほこりまみれの旅は、そろそろ限界だった。みなが寝静まったころ、こっそり水を浴びに来よう。

 沢を降りていくと、木々の重なりの向こうに、目指していた浅い小川があった。

 そこには、セヴァンがいた。少年はそのほとりでひざまずき、まっすぐに空に向けて両腕を伸ばし、一心不乱につぶやいていた。

 レノスは、詰めていた息を吐き、「ゼノ」と呼んだ。

 奴隷ははっと振り返り、こわばった表情を浮かべて立ち上がった。

「今宵は、満月か」

 梢を仰ぎながら、レノスが言った。「そう言えば、クレディン族はオオカミの子孫で、満月の夜に最も力が強くなると言っていたな」

 セヴァンはひとことも答えずに背をかがめ、手に持っていた皮袋いっぱいに水を汲んだ。全身で、レノスを拒絶している。

(この旅で、少しは心が通じ合ったと思っていたが、そうではなかったのだろうか)

――いや、それは自分の身勝手な錯覚だ。アイダンを殺したわたしを、彼が赦すことは絶対にない。たぶん一生。

「肉が焼けている。早く来い」

 短く命じると、レノスはきびすを返した。



 ウィッラで食べた晩餐に勝るとも劣らぬほど、たらふく肉を食べたあと、彼らは寝床の上で思い思いにマントにくるまり、火の番をしながら交替で眠った。

 セヴァンもぐっすり寝入っていたが、しばらくして何かが動いたような気がして、目を開いた。

 焚き火のそばにレノスがいない。

 セヴァンはそっと起き上がり、フラーメンが寝息を立てているのを確かめ、寝床を離れた。

 淡い月の光が草露を光らせている中を歩きながら、この旅の日々を苦い気持ちで思い返す。

 いつのまにか、ローマ人たちに気を許してしまっていた。彼らのもたらした町や道路を嫌悪する一方で、心のどこかが受け入れようとしている。

 まさか、ローマ人との旅を楽しむ日が来ようなどとは、思ってもみなかった。――アイダンを殺した仇と一緒に狩りをすることを、喜びと感じるなど。

 自分の軟弱さが、ただただ情けなく、ぎりっと歯を噛みしめる。

(俺が息をする限り、ローマへの恨みを忘れることはない。絶対に)

 満月に向かって、改めて誓いを立てた。

 ただ今は、誰にも悟られぬように封印しただけだ。マルキス司令官をこの手で殺す好機が訪れるまで。

 小川のほうに、動くものの気配がする。

 セヴァンはとっさに身を屈めた。用心深く音をたてぬように斜面を降りる。

 きらきらと月光を反射して流れる小川の真ん中で、誰かが水を浴びているらしい。

(司令官?)

 闇に慣れたセヴァンの目は、川岸にローマの赤いマントとトゥニカが畳んで置かれているのを捉える。

 司令官は、一糸まとわぬ裸体だった。いつもは古傷が痛むと言って決して取ることのない胸の包帯も、全てはずしている。

 夜風で梢が揺れ、月の光がチカチカと瞬いて、光と影の連鎖を作り出す。

 セヴァンは、驚愕に心臓をわしづかみにされた。どうして大声を出さずにいられたか不思議なほどだ。

 銀の光を浴びて大理石のように輝く、くびれた腰、形の良い尻、そして胸――そこには、紛うかたなき女のふくらみがあった。




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