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月の戦士  作者: BUTAPENN
牙を抜かれた狼
19/62

牙を抜かれた狼(4)


 翌朝、司令官室に、ひとりの奴隷が立っていた。

 ローマ風のトゥニカから覗く手足は痩せこけ、痛々しいまでに無数の青あざに彩られており、あちこちに剣でできた傷跡が、醜くもり上がって見えた。

 奴隷であることを表わす鉄の腕輪がはめられ、手首は長い鎖で結ばれ、額には、やはり奴隷の印である刺青が彫られている。

 そして、背中まで伸ばしていた砂色の髪は、爪の先ほどにも短く刈り取られた。長い髪を誇りとするケルト人にとって、それは大きな屈辱だ。

 そして、もうひとつの誇りも、奪われようとしている。レノスは彼を値踏みするがごとく、部屋をゆっくりと一周してから、告げた。

「おまえの名前を取り上げる。代わりにゼノと呼ぶ――いいか。今までのおまえは死んだ。今日から、おまえはゼノだ」

 ローマの司令官の嘲るような語調で、ことばがわからないセヴァンにも、おおよそ何を言われているかは察しがついた。

 一瞬、薄い碧色の目が怒りに染まりかけたが、風にちぎれ飛ぶ雲のように、すぐに隠しおおせる。

 もはや、ここにいるのは、クレディン族の族長の息子で勇猛なる戦士ではない。一匹の家畜。鎖でつながれた犬なのだ。

「返事は」

「……はい」

「服従の姿勢を取れ。わたしの顔を見るな。目を伏せろ」

 指揮棒で机をバンと叩く。「わたしは主で、おまえは奴隷だ。いいな、ゼノ」

「はい」

 両手を胸に当て、頭を下げるセヴァンを、レノスはじっと見つめた。

「では、さっそく用事を申しつける」

 椅子に腰を下ろすと、レノスは書机の上からハンの木の木版を一枚取り上げた。

「これを、補給係将校のルスクスのところへ持って行け」

「……」

「これを持って行け。ルスクスだ。倉庫。ルスクス!」

 何度怒鳴っても、動こうとしないセヴァンに、レノスはとうとう癇癪を起こし、部屋から追い出した。

(この木切れをどうしろと言うんだ)

 ラテン語が理解できないのだから、何を命じられたのか、さっぱりわからない。

 捨ててこいと言われたのだろうか。そうではない、台の上に大切に置かれていたのだから。

 とりあえず、聞き取れたのは、『ルスクス』というローマ人の名前らしき言葉だけだ。

 セヴァンは、歩き始めた。

 砦の中は、この一ヶ月の喧騒がウソのように、静まりかえっていた。

 塁壁の門は開け放たれ、荷車が出たり入ったりしている。町の広場への大通りは、行き交う商人や住民でにぎわっていた。

 ひと月前、ここで血で血を洗うような凄惨な殺し合いがあったことを伺わせるものは、何もなかった。

 セヴァンは唇をきつく噛みしめた。

 クレディン族の村はどうなっているだろう。アイダンの亡骸は、先祖の墓に葬られただろうか。父親は。弟は。アイダンの妻と息子は。

 馬で走ればすぐの距離にあるのに、生まれた村は果てしなく遠い。

「なにしてるんだ。おまえ」

 気がつくと、ふたりの兵士が行く手をふさぐように立っている。

 兵士たちのあざけるような笑いに、セヴァンは本能的に木板をぎゅっと握りしめた。

「何を持ってるんだ。見せてみろ」

 手が伸びてくる。思わず隠そうとすると、「こいつ」と顔をしたたかに殴られた。

 ひるんだ隙に、あっけなく木板を奪われてしまった。

「なんだ。補給物資のリストか」

「なんで、こんなものを持ってるんだよ。ローマの機密を盗む気か。蛮族じゃ文字を読めもしねえだろうけど」

 セヴァンは兵士たちから木板を取り返そうとしたが、手の鎖がじゃまをする。

「くそ」

 体をひねって、思い切り肩で突きをくらわした。相手はよろめき、木板を地面に落とした。

 飛びついて拾おうとしたとき、もうひとりの兵士に後ろから引きずり倒された。

 殴る蹴るの容赦ない暴力のあいだ、セヴァンは、主から預かったものを身体でかばい続けた。

「やめろ!」

 大声が聞こえ、ふたりの兵士はあわてて立ち上がった。

 十人隊長のかぶとを被った男が、身体をゆするようにして歩いてきた。

「そいつは、今日から司令官付きの奴隷だ。司令官どのの命令で動いている。邪魔をせず、ほうっておいてやれ」

「だけど、メシウス隊長」

 兵士のひとりが、悔しさに顔をゆがめた。「こいつは、マローに剣を突き立てたんだ」

「いいから、早く行け!」

 敬礼するが早いか、ふたりは走り去った。

 地面に伏していたセヴァンの顔に、十人隊長はサンダルの先を突きつけた。

「起きろ」

 したたかに蹴られた脇腹がひどく痛んだが、セヴァンはよろよろと起き上がった。

「どこへ行く」

 南の氏族の言葉らしく、かろうじて意味はわかる。「ルスクス」と答えた。

「ルスクスなら、倉庫だ。あっちに見える建物だ」

 指で示すと、十人隊長は冷ややかな一瞥を残して行ってしまった。

 指し示された方向へ歩くと、窓のない大きな建物が見えた。

 中は薄暗く、穀物の袋が積んであり、にんにくや玉ねぎなど、食べ物の雑多な匂いがした。ひとりの男が背中を向けて、袋に向かって、ぶつぶつ独り言を言っている。

「……ルスクス?」

 太った男は振り向き、胡散くさげな表情をして、セヴァンをにらんだ。

「あ? ルスクスは俺だが、何の用だ」

「マルキスしれいかん」

 と言いながら、セヴァンは木板を差し出した。男はひったくるようにして、木板をつかんだ。

「小麦千二百モディウス、大麦千五百モディウス、ビール六百ガロン、塩百五十パイント、にんにく二十パイント……なんだ、こりゃ。春の配給まで全然足りねえぞ、こんなんじゃ! ひとけた間違ってる。俺たちを日干しにする気かよ、司令本部は!」

 唾を飛ばしてわめきちらし、何事かを罵っている。

「伝えてくれ。司令官どのに。もう一度要望書を出してくださいって」

「……」

「なんだ、おまえ、言葉がわからねえのか。ちょっと待て」

 ルスクスは、ふところから、携帯用のアシの筆とインク壺を取り出すと、木板の文字をいくつか消して、大きく数字を書き足した。

「これを司令官どのに持って行け。司令官どの。いいな。くれぐれも、これじゃ足りないって言うんだぞ」

 倉庫から追い出されて、セヴァンは、また木板を手に途方に暮れた。

 どうすればいいのだ。

 彼は木板をじっと見つめた。さっきの太っちょが書き加えた文字が黒々と踊っている。

(いったい、この文字に、何の意味があるのだろう)

 そもそも、セヴァンの属するクレディン族には、文字というものがなかった。ケルト人は、文字のない民族だ。たいていのものごとは、口承で伝えられ、だからこそ秘密は秘密として成り立ち、尊い教えは、より尊いとされる。

 だが、ローマ人は、文字を書く民族だ。将校だけではなく、下っ端の兵卒でさえ、文字を読みこなしている。

 アイダンがローマのことばを学んで帰って来たとき、彼が文字を書く様子を、セヴァンは恐ろしいものを見つめるように、遠巻きにしていたものだ。

 この島で暮らしていくのに、ローマ人のようになる必要はない。文字を書くなど、戦士として堕落することだと固く信じていた。

 司令官室に戻って、黙って木板を突き出すと、レノスは一目見て、「やっぱりな」と大きな吐息をついた。

 そして、ペンを取り、さらさらと草書で一文を書き加えると、「今度はこれを、ネポスに持って行ってくれ」

「……え」

「ネポスだ、ネポス。早く行け」

 また追い出される。

 さんざん苦労して尋ねて回り、ネポスが同じ建物、しかもすぐ隣の事務室にいることがわかったときは、ぼうぜんとした。

「ぎゃああ、またですか」

 会計係のローマ人文官はうなりながら、蝋板の上にあれこれ計算を書き散らしたあげく、また木板に数字を書いて「司令官に」と渡した。

 司令官室に戻り、三度目に木板を渡されたとき、とうとうセヴァンの我慢は限界に達した。

「なんで、自分で直接伝えないんだ。ちょっと歩けばすむことだろう」

 レノスは面倒くさそうに机から顔を上げて、彼を見た。

「こんなガキの遊びみたいなやりとりに、何の意味がある。人を馬鹿にするのも、いいかげんに――」

 叫び終わる前に、指揮棒が飛んできた。

 こめかみのあたりを、したたかに叩かれ、一瞬意識が遠のいた。気がつけば、壁ぎわまで吹っ飛ばされていた。起き上がろうとすると、ふくらはぎに焼けつくような痛みが走った。

「ゼノ。おまえは奴隷になったということが、まったくわかっていないようだな」

 指揮棒を手に立つ司令官の彫像のような顔は、冬の湖の冷ややかさを思わせた。

「奴隷は、人間ではない。話す道具だ。道具が、主のすることに口答えするな」

「……」

「返事は」

「はい……あるじよ」

 セヴァンは、ふたたび倉庫のルスクスのもとまで、痛む足を引きずった。

 伝令のほかにも、水を汲み、火鉢の火を熾し、主の食事の給仕をし、寝床をととのえ、陶器のランプに灯火を灯し、夜まで休みなくこき使われたあと、ようやく食事に行ってよいと言われた。

 砦には、同じ奴隷身分の者が十数名いた。将校食堂の調理場の裏手に木の器を持って行き、食べ物を入れてもらうことになっていた。

「なんだよ、今ごろ来て」

 下働きの女は、おおげさにため息をついてみせた。「もう、鍋はからっぽだよ。明日からもっと早く来な」

 壁にもたれて食べ物をむさぼっていた奴隷たちは、ある者は無関心に顔をそむけ、ある者は、にやにや笑いながらセヴァンを見る。

 ここは、新入りに食べ物を残しておいてくれるような場所ではないらしい。

 司令官室の前の通路が、彼の寝場所だった。

 冷たい床に、あちこち痛む体を海老のように折り曲げながら横たわる。

(生き延びてやる)

 寒さと空腹で目覚めるたびに、自分に言い聞かせた。生き延びて、いつかきっとこの手で、あいつを殺す。アイダンを殺し、俺にこんな辱めを与えた報いを受けさせてやる……呪いの言葉は、いつしか子守唄となって暗闇の中に溶けていった。



 それからも、セヴァンは奴隷仲間たちに、つまはじきにされ続けた。一日に、椀一杯の薄いスープを飲めればよいほうだった。

 来る日も来る日も、砦じゅうを駆けずり回り、木板の手紙を届ける。相手は、百人隊長のフラーメンやラールス。騎馬隊長のスピンテル、土木将校のカイウス、補給係将校のルスクス。あるいは軍旗持ちのウォレロ、ラッパ手のフィルス、会計係のネポス、医師のグナエウス……。

 いつのまにか、主だった将兵の名前を憶えていた。どの時間にどこへ行けば、彼らに会えるのかもわかるようになっていた。

 将校たちの役割、砦の兵士たちの任務、歩哨の交替時刻と警備の巡回時刻。

 砦のすべてのものごとが、歯車のように、規律正しく時間にもとづいて動いていることを肌で知った。

 その時期、砦の司令官はことのほか多忙だった。

 雪が溶け始め、いよいよ本格的な軍務が再開する時期が来たのだ。冬のあいだ中断していた、厄介な戦後処理ものしかかってくる。

 昼過ぎに司令本部からの伝令が訪れ、一枚の羊皮紙を手渡した。それを見たとたん、レノスは牡牛のように低くうなって、頭をかかえた。

「どうしたんです、司令官どの」

 会計係のネポスが、半分逃げ腰になって、おそるおそる訊ねた。

「総督どのの召喚状だ」

「総督どの?」

 属州ブリタニアの総督、デキムス・クロディウス・アルビヌスは、ハドリアヌスの長城の南の諸州を治めるだけでは満足できず、ついに北の氏族の地にも、本格的な侵攻の手を伸ばしつつあった。強硬派のファビウスが辺境部隊司令長官に任命されたのも、総督の後押しがあったのだろうと言われている。

 だが、今回の氏族連合の反乱で東の砦が壊滅したことで、ファビウスは面目を失い、窮地に立たされることになった。

「下手をすれば、すべての責任をなすりつけられそうだな」

「司令官どのが? なぜです。氏族どもを追い返したのは、司令官どのの手柄じゃないですか」

「今回の騒乱は、わたしがクレディン族と馴れ合っていたのが原因だとファビウスどのに面と向かってなじられたんだ。こちらの事情が敵に筒抜けになり、おまけに、今のローマ軍は弱腰だと舐められたんだ、と」

「冗談じゃない!」

「まあ、今から遺書でも書いておくさ。出立は来月だ」

 事務室から隣の司令官室に戻ったレノスは、うつろな目でついてくる奴隷に注意を留めた。

「顔色が悪いな、ゼノ」

 レノスは眉をひそめ、彼の額に手を当てた。「熱はないな。病気か」

 セヴァンはその手から逃れると、ぼうっとした頭で、半ば習慣となったラテン語をつぶやいた。「主よ、ご命令を」

「今はない。さがれ」

 一礼して部屋を出た。とたんに崩れるように壁にもたれ、床に座り込む。

 もう何日も、ろくに食べていない。立っているのがやっとだ。

 だが、弱音を吐くつもりはない。あいつにだけは、食べ物さえ満足に奪い取れない弱いやつだと思われたくなかった。

 レノスは、そのまま書きものに没頭し、日が暮れても、そのまま仕事を続けた。

 将校食堂から夕食を届けさせ、ぼそぼそパンをかじり、ワインを飲みながら、蝋板をぎっしりと文字で埋めていった。セヴァンは隅に立ちながら、何度も生唾を飲み込んだ。

 しばらくして、レノスはそっけなく命じた。

「もういい。下げてくれ」

 皿の上には、ほとんど手つかずの食べ物が残っていた。盆を手にしたとき、セヴァンの手が震えた。

 なんていい匂いなんだろう。小麦のパン。チーズ。ソラマメの煮物。ゆでたまごに干しイチジク。

(だめだ。よりによって、あいつの食べ残しだぞ。アイダンを殺した仇敵の)

 物心ついたときから、飢餓というものを経験したことがない。族長の息子として、他の村人よりは幾分、恵まれた待遇を受けていたからだろう。

 あのころの自分なら、一かけらのパンを盗むよりは、いっそ飢えて死ぬほうを選んだはずだ――あのころの、誇りに満ちた自分なら。

 とうとう空腹に耐えかねて、セヴァンは通路に座り込み、盆の上の食べ物を口に押し込んだ。

 人の食べ残しを、犬のように喜んで食っている。

(とうとう俺は、心まで奴隷になってしまったんだ)

 それでも、生きてやる。あいつを殺すまでは、どんなことをしてでも生きてやる。

 嗚咽に喉をつまらせながら、セヴァンは暗がりで食べ物をむさぼり続けた。



 その夜遅く、レノスは寝台から起き上がった。

「さすがに腹が減って、寝られんな」

 苦笑いを浮かべながら窓から仰ぎ見る月は、ローマで食べた、ふっくらと白い焼き立てのパンのようだった。

 





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