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月の戦士  作者: BUTAPENN
牙を抜かれた狼
18/62

牙を抜かれた狼(3)


 草原は見渡すかぎり、新雪に覆われていた。

 目に痛いほど白一色の景色の中を、盾と槍を持った赤いローマの軍団が、整然と降りてくる。

 クレディン族の男たちが、村の門の前に集まっていた。その半数以上は、まだ年端もいかぬ少年か、あるいは槍を息子に譲った老人だ。女子どもの姿はひとりもなかった。

 司令官を乗せた葦毛の馬は、堂々たる足運びで軍団の先頭に進み出、行進を制した。

「北の砦の司令官、クレリウス・マルキスだ。族長はいるか」

 族長のサフィラは、従者に脇を支えられ、一歩一歩ゆっくりと村の門を出てきた。

 双方のあいだには、十パッススほどの距離が置かれた。ひと月前に剣をまじえたばかりの敵同士は、それ以上近づくことはなかった。

「ローマの戦士の長よ」

 その距離でかろうじて聞き取れるか細い声で、サフィラが言った。

「立ったままでいることをゆるしてほしい。見てのとおり、わたしは膝をかがめることもできないのだ」

 レノスが冷ややかに答えた。「気づかいは無用だ。おまえにこれ以上の痛みを加えるつもりはない」

 その言葉からは、かつての訪問のときのような、相手に対する敬意は失われている。勝者は決して敗者と狎れ合わない。双方のあいだには、すでに明確な上下の差があるのだ。

 騎馬隊のセイグが、淡々と双方の通訳を務める。

「われわれが今日来たのは、総督からの宣告を伝え、その命令を遂行するためである」

 レノスは、鞍飾りからパピルスを取りだし、広げて見せた。


『ブリタニア総督デキムス・クロディウス・アルビヌスが、北方辺境の諸部族に告げる。

 なんじらは、さきにローマ軍の砦を襲い、帝国に逆らい、この地の秩序を乱した罪を問われる。

 よって、以下の命令を受諾し、ここにローマに対する恭順を示すべし。

 一つ。すべての武器を引き渡すこと。同時に、鍛冶の道具いっさいを破壊すること。

 一つ。すべての金品を引き渡すこと。

 一つ。許可があるまで、いっさいの集会を禁ずる。

 一つ。先に布告された、税および兵士召集の命令に粛々と従うこと。以上』


 クレディン族の中からは、しわぶきの音ひとつ返ってこない。風が新雪の上を吹き過ぎるのみ。

 レノスはパピルスを元通りに巻くと、無表情に自軍に命じた。

「かかれ」



 ブリテン島北部一帯を嵐のように襲った混沌は、この一ヶ月で沈静化しつつあった。

 北の砦は再建に向けて歩み始めた。崩れた土塁は、土台から新しく積みなおされ、戦死者は火葬され、重傷者は南の要塞付属の病院に移された。

 失ったものを数える暗澹たる日々の中、良い知らせも届いた。

 全滅したと思われていた東の砦だが、町の住民の一部が脱出し、近くの森に逃げ込んだという。数日後に救援隊が入って、生存者がいることを発見した。

 ローマ軍による氏族への報復はすみやかに行われた。南の要塞からは、さらに千五百の軍が差し向けられ、マヤカ族やカタラウニ族の討伐に当たった。

 各個撃破された氏族連合軍は、あっけなく降伏せざるをえなかった。

 皮肉なことに、島北部の属州化は、この反乱を機に一気に加速することになるのである。



 歩兵たちは整然と、有無を言わせぬ力で、村の門を押し入った。何人かの氏族の少年が前に出ようとして、跳ね飛ばされた。

「やめなさい。子どもたち」

 サフィラの声に、少年らは退いた。みな、歯を食いしばり、目を真っ赤にしている。

 ローマ兵は数人ずつ家々に入り、長持ちや寝台をひっくり返し始めた。鍛冶場では、がらがらと炉を打ち壊す音が聞こえた。

 レノスは、傲然と顔を上げて、兵たちの略奪を見つめていた。

 まるで、おのれの姿を、一生憎むべき相手として子どもたちの目に焼きつけようとしているかのようだ。

 百人隊長たちは、部下たちに指示を与えながら、すれ違いざま言葉を交わした。

「なんとか無事に終わりそうだな」

 フラーメンの安堵した声に、ラールスがぼそりと答えた。

「クレディン族には、もう反抗する力は残っていまい」

「そうじゃなくて、われらの司令官どののほうさ。要塞から命令を受け取って帰ってきたときの形相と言ったら、反乱でも起こすつもりかと思ったぜ」

 黒髪のガリア人は、ちらりと上官を振り返った。

「俺はときどき、そう考えることがある。この人は、いつかローマに反旗をひるがえすんじゃないかと」

「ま、気持ちはわからねえでもないけどな」

 フラーメンは、真顔になって緑色の目を眇めた。「ローマはいつだって、攻め取り、略奪して、肥え太ってきたんだ。山賊と何も変わらない。ここはまだマシなほうだ。よその村じゃ、男は鎖につながれて売られ、女は犯され、子どもは首の骨を折られてるだろう。氏族に指一本手出しをするなと命じる変わり者の上官がいるのは、うちくらいさ」

 ラールスは、まじまじと同僚の顔を見た。

「フラーメン。おまえはケルト人なのに、何でローマについてるんだ」

 金髪の隊長は、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「あ? 当たり前だろう。強い側についたほうが、人生得じゃねえか。おまえは?」

 ラールスは、首を振った。「自分でも、よくわからんのだ」



 族長サフィラは雪まじりの風の中、門のわきに立ち尽くしたまま、村が壊されていくのを見守っていた。

 もともと古い怪我のせいで、年齢よりずっと衰えて見えたが、今はまるで百歳の老人のようだった。

 彼は、族長のしるしである飾りのついた槍にもたれかかりながら、レノスに腰をかがめた。

「ローマの戦士の長よ。あなたには礼を言わねばなるまい。クレディン族の戦士たちの遺体を返してくれたこと、感謝している」

 戦死者の引き渡しは、すべての戦いが終わった翌日に行われた。あの崩れた石垣、いにしえの聖所と言われる遺跡に、荷馬車ごと置き去りにしたのだ。

 遺体は、町の住民たちに供出させた白い麻布にくるまれていた。

「弔いは、終わったのか」

「先祖たちの眠る洞窟に葬った」

「ならば、われわれの戦死者の首も返してもらいたいものだな。ローマ人は、アケロンの川の渡し守に払う貨幣を口の中に入れなければ、魂を弔うことができないのだ」

「申し上げたはず。それはわれわれではなく、ダエニ族のしわざだ。アイダンは、今度の戦いで首を狩ることを戦士たちに固く禁じた。首を狩る風習のせいで、われわれはローマに蛮族と呼ばれ、恐れられるのだと」

 族長は地面を見つめ、吐き出すように訴えた。

「氏族の集会でも、アイダンは声を上げた。この地の民に憎まれては、ローマを追い出すことなど夢のまた夢だ。だから決して、町の住民の命をかすめ奪ってはならぬと……あの子はすぐれた戦士だった。だが、あまりに優しすぎたのだ」

 レノスの手綱を持つ手が震えた。葦毛の馬は、それに応じて首をぶるりと動かした。

 またがっていた鞍から降りると、背を丸めた族長の前に立つ。

「アイダンを殺したのは、このわたしだ」

「存じておる」

「さぞ、憎んでいるであろうな」

 サフィラは、白く濁った瞳を吊り上げた。「ローマがわれわれの仇敵であることを、初めから忘れたことはない」

「もうひとりの息子、セヴァンのことは聞かないのか」

 レノスは、うっすらと笑った。

「わたしの奴隷にするつもりだ。従順に媚びへつらうことを教えこむ。もはや、オオカミではなく、ローマに尻尾を振る犬に仕立ててやるが、それでもよいか」

 サフィラの顔を、あきらめの陰がおおった。

「あの子は、もはや死んだ者と思っている」

「それならば、文句はなかろう」

 会話が冷たく途切れたとき、村の中から女の悲鳴が聞こえてきた。

 レノスは、「あとを頼む」と門を守っている騎馬隊長に言い残し、家並みへと走った。

 騒ぎが起きていたのは、ヘザーの藁で屋根を葺いた、大きな家の中だった。

 数人の女たちが隅で震え、ひとりの女が赤ん坊を取り返そうと、ふたりのローマ兵にむしゃぶりついているところだった。

「やめろ!」

 レノスが怒鳴りながら飛び込むと、びっくりした歩兵たちは赤ん坊を放し、あわてて敬礼した。

「民に手荒なことはするなと、命じておいたはずだ」

「し、しかしながら、箱の中身を検めようとしたところ、この女が激しく抵抗しまして」

「よいから、ふたりとも十人隊長のもとへ戻れ!」

「はっ」

 赤ん坊を腕に抱え、荒い息を吐いてうずくまっている女を一目見て、驚愕した。

「メーブ?」

 アイダンの細君だった女だ。――それでは、この赤ん坊は。

「この子が、アイダンの息子なのか」

 ラテン語を解さない女は、「アイダン」という名前に反応して顔を上げた。

 彼女が布に包んで抱いていた男の子は、赤い髪をしていた――アイダンにそっくりの髪を。

「名前は。この子の、名前は?」

 指を差しながら何度も問いかけると、メーブはおずおずと答えた。

「……アイダン」

 みぞおちに、蒸気がうずまいて破裂しそうだ。

「そうか。彼は、自分の名を息子につけたのだな」

 悲痛をこらえるレノスの様子を、女はじっとうかがっていたが、やがて、思い定めたようにコクンとうなずいた。

「しれい、かん、さま」

 たどたどしい言葉とともに、アイダンの妻は赤ん坊をかごに寝かせ、そのかごを横にいた少女に渡した。かごの下に敷かれていた黄色と緑のタータンを取りのけると、ブナの木箱が現われる。先ほどの兵は、この箱を見とがめたのだろう。

 箱の蓋が開かれると、中につまっていたのは、ローマの貨幣だった。

 レノスが、クレディン族から小麦を買ったときに支払ったデナリウス銀貨だ。おそらく、一枚も使われていない。

 そして、貨幣の一番上に乗っていたのは、小さなお守りだった。あの狩りの日に、レノスがアイダンに渡したローマのお守り。


 ――きみと細君のために祈ってきた。よい子に恵まれるように。

 ――わたしたちへの最高の贈り物です。


 捨てていなかったのだ。あれほど憎み合い、殺し合ったはずなのに。わたしの贈り物を、アイダン、おまえは捨てていなかった。

「……ありがとう」

 そっと蓋を閉めて、立ち上がった。

「奥方よ。この金は大切に持っておけ。この子の未来のために」

 外へ出て、まぶしい雪空を見上げたとたん、レノスの目から、抑えていた雫がこぼれ落ちた。



 見張り台の地下に降りるのは、もうほとんど毎日の習慣となっていた。

「まだ、あきらめぬのか」

 レノスの呼びかけに、セヴァンはかろうじて身を起こした。

 一ヶ月の虜囚生活で、鎖につながれた手足は、すっかり痩せ衰えていた。四つんばいで這うのがやっとだ。傷の手当も受けず、食べ物もろくに与えられず、身にまとうのは、ぼろひとつ。

 歩哨の交替のたびに、兵士たちに蹴られたり殴られたりしているのだろう、体じゅう至るところが、絶えず新しい血と青黒い痣で汚れている。

 この厳寒と絶望の日々の中、生きていること自体が奇跡だった。

 そばに寄ると、泥と垢にまみれた身体からは、獣の匂いがした。

 だが、その真っ黒に汚れた顔貌の中で、目だけはぎらぎらと光り、殺気を放っている。まるで、オオカミの目だ。

「おとなしく言うことを聞けば、温かい寝床とスープを与えてやると言っているのに」

 そばにレノスが近づくと、突然セヴァンは唸り声をあげながら飛びかかって、彼の足に噛みつこうとした。

「おっと」

 すばやく後ろに退き、レノスは嘲るように喉の奥を鳴らした。

「今日、クレディン族の村に行ってきたぞ。めぼしい食糧や金、それに剣や槍を根こそぎ奪ってきた」

 レノスが後ろを見ると、いっしょに入ってきた騎馬隊のセイグがうなずき、一語一語をクレディン族のことばに翻訳した。

「悪く思うな。なにしろ、兵士に褒美を与えねばならぬのでな。われわれもつらいのだよ。絶えず、新しい国を攻め取り、属州にしなければ、ローマはやっていけないのだ」

 レノスは歩き回りながら、饒舌にしゃべり続けた。セヴァンが怒りに身をよじるのを、目の端に確かめる。

「そうそう、サフィラ族長に会ってきた」

 セヴァンは、父親の名を聞いて、はっと顔を上げた。

「おまえをわたしの奴隷にすると言ったら、快く了承してくれたよ。『あの子はもはや死んだ者だ』と言ってね。おまえの父は、賢明だ。おまえが村人全員の命と引き換えであることを、ちゃんと心得ている。ふたつを秤にかけた上で、おまえを捨てたのだ」

 レノスは剣を抜き、セヴァンのうなじに剣先を当てた。

「もう一度聞く。わたしに屈する気がないのなら、おまえはもう必要ない。新しい人質を取ることになろう――確か、サフィラには、三人目の息子がいたはずだったな」

 少年の細い肩が、小刻みに震え始めた。

「奴隷の所作は教えたな。今ここで選べ。反抗の死か。恭順の生か」

 セヴァンは、何ごとかを口の中で低くつぶやいてから、膝立ちになり、両手を胸の前で交差させ、頭を垂れた。

 きつく噛みしめていた唇を開いて、かすれた声で言う。

「あるじ……よ……ごめいれい……を」

 レノスは、満足げに口角を引き上げた。

「まずは、その汚れをこそげとれ。髪を短く刈り、奴隷の焼き印を額に帯びよ。手の鎖は当分そのままにしておく。そして明日からは、わたしの命ずるとおりに動くのだ。朝から次の朝まで、夕から次の夕まで――ひとときも休むことはゆるさん」

 外に出て、ふたりの兵に彼を洗い場につれていくように命じてから、レノスは静かにため息を吐いた。

 セイグが、その後ろに立った。

「通訳をつとめるのは、これを最後に願います」

「いやか」

「自分を制することがむずかしいのです。あいつは、タイグを殺した張本人です。顔を見るたびに引き裂いてやりたい」

 「わかっている」と答えながらレノスは、遠くの空を見やった。

 タイグ。とうとう最後まで、本当の名前を聞けなかったな。

 名前を奪われるのは辛くなかったかと問うと、あの素直で明るい若者は静かに笑っているだけだった。

 失われた多くの部下の命を、レノスはこれから背負って生きていかねばならない。それはなんと苦しく、重い生だろう。

 苦しみの道連れがほしいと願うのは、罪深いことだろうか。

「通訳は今日でおしまいだ。これから、徹底的にラテン語を教え込む」

 レノスは、部下を振り返った。「そう言えば、さっき、あれは何と言っていたんだ?」

「さっき?」

「ぶつぶつ口の中で言っていた言葉だ。ときどき呪文のように呟いている」

 セイグは、しばらく息を詰めていた。それから、口を開いた。

「『いつか、おまえを殺してやる』です」





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