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月の戦士  作者: BUTAPENN
牙を抜かれた狼
17/62

牙を抜かれた狼(2)

「ノウィウス、セスティウス、トゥベロ、ウァレリウス……」

 司令官室に、名前が読み上げられる平板な声が流れていた。

 今度の戦闘で死亡した兵士たちだ。

 名前のひとつひとつに顔が思い浮かぶ。そこに挙げられた名前の主は、レノスがこの一年、剣を合わせ、酒を酌み交わし、他愛ない冗談を言って笑いながら、苦楽をともにしてきた仲間たちなのだ。

 ラールスは無表情のまま蝋板を書机に置き、一歩下がった。直接の上官である彼のほうが、身を切り刻まれるような思いを味わっているだろう。

 フラーメンが一歩前に出て、彼の部隊の戦死者名簿を読み上げ始めた。

「ブリギオヌス、ロクス、バルド、マロー……」

 マローも死んだのか。ガルスと酒場で取っ組み合いの喧嘩をしたのは、まだ赴任してまもなくの頃だった。あの頃は、なんと平和で楽しかったのだろう。

 この二日間で、悲しみや怒りの感情を使い果たし、自分の内部が空洞になってしまったような気がする。レノスは絶えず、頭にかかった霞を追い払おうと努めなければならなかった。

 フラーメンも蝋板を机に置くと、付け加えた。「騎馬隊のスピンテル隊長から代理の報告を頼まれています。戦死者はタイグ。重傷一名、軽傷が二名です」

「わかった。ご苦労だった」

 低く答えながら、司令官は立ち上がった。

 砦の兵士たちの状態はかんばしくなかった。二百人のうち、十八人が死に、残りのほぼ三人にひとりが、なんらかの傷を負っている。足を切り落とした者も一名いる。グナエウスは不眠不休で重傷者の治療に当たっているが、その中から新たに戦死名簿に加わる者も出るだろう。

 レノス自身も腕を負傷しているし、百人隊長、十人隊長たちの中にも、無傷の者はほとんどいない。

 今日の夜更けには、南の要塞からの救援部隊が到着する。しかし、それまでに氏族のほうも援軍を得ているはずだ。もう一度戦闘になれば、半分になってしまった戦力で、防ぎきることができるのか。

「お待ちください」

 扉を出たところで、ラールスが後ろから声をかけてきた。「ほんとうに、あいつを生かしておくのですか」

 セヴァンの処遇について、また蒸し返してくる。

「もう、すでに決定したことだ」

「わたしは、やはり反対です。後に、取り返しのつかない禍根を残す気がします」

「捕えた敵は、できるだけ捕虜とすべきだ。捕虜は後に、戦後交渉のかけひきの材料になることもある。むやみに殺すだけが戦いではない」

「それは後づけの言い訳でしょう。司令官どのは、十八人の死んだ部下よりも、氏族ひとりの命のほうが大切だとおっしゃっている」

「違う」

 レノスは立ち止まり、力なく振り返った。「わたしは、敵にも味方にも、もう死んでほしくないのだ。わかってくれ」

 怪我をした足を引きずりながら追いついてきたフラーメンが、ラールスの肩をたたいた。

「やめとけ。司令官どのの命令を忠実に遂行するのが、おれたち百人隊長の役目だ」

 ちらりと薄い色の眼をレノスに向けて、ほほえんだ。「どうせ、そう長く生きられはしません。そのときに始末すればいいだけのこと。ねえ、そうでしょう」

 その言葉を聞き、ぞっとする。島生まれのフラーメンのほうが、氏族に対する憎悪は深いのかもしれない、と思いながら、レノスは塁壁の上に昇った。

 月が明るい。草原に、見渡す限り人影はなかった。眼下の町は、ところどころにランプが灯り、静かにざわめいていた。

 住民たちには、夜明けまでという約束で町に戻ることを許可した。実際、食糧も水も不足していたし、砦の外にころがっている氏族の遺体を剥ぎ取りたいと願い出る住民も現われた。氏族の戦士はたいてい、ケルト風の金の飾りを身に着けているからだ。

 野生のけものや猛禽が集まり始めたという問題もあり、死体の処理を住民にただで任せられるのは、都合がよかった。

 砦の外には、氏族が火をつけて放った荷車があちこちに燃え残っており、皮肉なことに、装備を剥ぎ取られた裸同然の死体はその中に放り込まれ、麦わらで覆われた。その中には、アイダンの遺骸もあるだろう。

 戦場には死者の尊厳などないというものの、やりきれない思いだった。

 土塁の修理はなんとか進んでいたが、材料も乏しく、間に合わせの工事はあまりにも心もとなかった。次に攻撃を受けたら、難なく突破されるだろう。

 兵士たちは土を積みながら、祈りの文句のように言い交わしている――今日一日だ、あと一日を持ちこたえれば援軍が来る。

 塁壁の階段を降りたところで、視線は自然に見張り塔へと向いた。

 見張り塔の地下の土台部分の物置きに、セヴァンが囚われている。

 両手に枷をはめたまま、土の床にころがしておくようにレノスが命じた。オオカミのマントもはぎとられ、沼の泥水に濡れたまま、この極寒の中にいるのだ。もちろん、怪我の手当をしてやる者などいない。

『どうせ、そう長く生きられはしません。そのときに始末すればいいだけのこと』

 フラーメンの言うことは正しいのかもしれない。

 レノスは、彼を生かして自分の奴隷とすると宣言した。だが、百人隊長以下、部下たちは誰も納得していない。

 復讐に燃えるローマ軍の砦で、氏族の捕虜が生き延びる確率は、百に一つもないだろう。おそらく、とどめを刺してやることのほうが、ずっと慈悲深いことなのかもしれない。

 だが、それでも。

(生きてくれ。セヴァン)

 見張り塔に背を向け、浴場の救護所へ向かう。むせかえるような血の匂いとうめきの中を、レノスは兵士ひとりひとりに声をかけて回った。

「司令官どの」

「ルスクス。もういいのか」

「くそったれ……こんな地獄のような場所で寝てられませんぜ」

 太っちょの補給係将校は、小柄な包帯兵の体をぎゅうぎゅう押しつけて、立ち上がった。

「からっぽの倉庫に小便でもひっかけてきます。けっ。怪我が治っても、わたしの仕事はあるんでしょうな」

 いつもはうんざりするようなルスクスの悪態が、不思議と今は心地よく感じる。もし彼が死んでいたら、この悪態すら聞きたいと心から願っただろう。

 浴場の裏手に、何十年も前の朽ちた兵舎跡があり、その崩れかけた柱のわきに、地下への入り口があって、ミトラ神殿に通じている。

 アーリアの太陽神の祭壇に供えられた蝋燭のかぼそい光は、安置された十八人の兵士たちを照らし出した。

 彼らは、おのおのが着ていた赤いマントに包まれていた。中には、首のない者もいた。ケルトの民は首を胴体から切り離すことで、霊魂を体から切り離せると考えるからだ。

 じわりと熱いものが湧いてくるのを感じ、手の甲で目をぬぐった。

 こいつらを死なせてしまった。昨日までは生きて、鼓動していたのに。わたしを信じて、ついてきてくれたのに。

 もっと他にうまい戦法があったのだろうか。わたしの指揮が巧ければ、こいつらは死なずにすんだのだろうか。だとしたら、どうすれば自分の過ちをつぐなうことができるのだろう。

 地下と変わらぬ闇夜の下へ戻ると、騎馬隊長が松明を手に、尋常ではない様子で駆け寄ってきた。

「司令官どの」

 彼は、低く鋭い声で耳打ちした。「偵察兵が戻ってきました。マヤカ族とカタラウニ族の大軍が、こちらに向かってきます」

「どれくらいだ」

「六百はくだらないでしょう」

 すっと膝の力が抜ける。それでは、援軍がたとえ到着したとしても、すでに数で圧倒されている。

(アイダン。死んだおまえがうらやましい。わたしもおまえのように、うまく逃げ出すべきだった)

 かろうじて、崩れる気持ちを支えた。まだこんなところで、死ぬわけにはいかない。今はまだ。

「スピンテル、手伝ってくれんか。ひとつ策があるのだが」



 その日、陽が顔を出すころ、東の丘に馬の猛るいななきの声とともに、氏族の軍旗が見えた。続々と到着するケルト人たちは丘に陣を構え、慎重にこちらの様子をうかがっている。

 すぐに攻め込んではこなかった。すでに、ダエニ族とクレディン族が敗退したことを彼らは知っている。砦に五百人の援軍が到着しているなら、うかつには仕掛けられないと用心しているのだ。

 おまけに、北の砦の東側には川が流れている。ごく浅い、徒歩でも渡れる川だが、土手の傾斜が天然の掘となっている。

 様子見の矢がときおり射られてきたが、さほどの威力はなく、こちらは無視を決め込む。

 しばらく、にらみ合いのときが続いた。

「そろそろ、しかけてきますね」

 塁壁の上で、干しイチジクを噛みながらフラーメンが言った。

「奴らも、籠城戦に持ち込む余裕はない。それに、この空模様」

 見上げると、黒い雲が北の空を覆い始めていた。「雲の動きが早い。すぐに雨かみぞれになります」

「西風だな」

 レノスは、人差し指を唾でぬらし、空中にかざした。

「この風なら、こちらの射手が放った矢は、遠くまで届くでしょう」

「声も届くだろうか」

「声?」

 レノスは、いきなり胸壁によじ登り、一足幅ほどしかない組み石のてっぺんに立ち上がった。

 隣にいたフラーメンは、悲鳴を上げた。

「司令官どの。何を」

 強い風が、レノスのマントを巻き上げ、思わず後ろから押されたように感じた。だが、足をしっかりと踏ん張り、痛むほどに肋骨を押し広げて叫んだ。

「氏族の諸君」

 力強いラテン語が、風に乗って、丘に囲まれた草原に響き渡る。

 町の土塁の防備を指揮していたラールスが、あんぐりと口を開けて、胸壁を見上げている。

「見てのとおりだ。われわれは氏族連合の第一の攻撃をしりぞけた。押し寄せてきた戦士どもを斬り、突き、蹴散らし、多大な損害を与えた」

 風で声が乱れても聞き取れるように、短い文章で、最大の効果を上げる演説を。

「司令官どの。矢に当たります」

 後ろから、ラッパ手のフィルスが震える声でささやいた。

「わずか二百人のローマ軍が、その数倍の氏族を、完膚なきまでに叩きのめしたのだ。すでに南からの援軍五百人を得、もうすぐ新たに千五百人が来る」

 「うそつき」とあきれたように、フラーメンがつぶやいた。「氏族のことばに通訳しましょうか、司令官どの」

「いらぬ。ひとりくらい、ラテン語がわかる氏族もいるだろう」

 と答えると、レノスはさらに爪先立ち、声を張り上げる。あわてて兵士のひとりが、しっかりと後ろから司令官のマントの端をつかんだ。

「千五百の大軍は、東の砦へと進軍している。われわれは諸君を引きつける役目だ。諸君は卑怯にも東の砦に奇襲をかけた、ローマはそれを奪還する。そして諸君の村々を焼く。報復がすみやかに行われる。よいか。こうしている間にも、刻一刻とローマ軍は近づいている」

 丘の上の氏族たちのあいだに、じわりじわりと動揺が広がった。ラテン語がわかる者の口から口へと伝えられていくとき、疑心と焦りが、言葉を少しずつ大げさなものに変えていく。

「全力で向かってきたまえ。われわれも、何度でも迎え撃とう。諸君にローマ軍の強固さ、おそろしさを味わわせてやろう。そうして時間を無駄に過ごせば過ごすだけ、諸君には帰る村がなくなるのだ!」

 反響が谷をこだまして、やがて消え去った。

 氏族の陣に動きはなく、じりじりするような時間だけが過ぎていく。

 突然、東の空に異変が起きた。灰色の煙が、風に掻き乱されながらも高く、長く、立ち昇っている。

狼煙のろしだ!」

 砦の見張り兵たちが、口々に叫ぶ。「援軍が到着した!」

 その声は、ほどなく軍団全体の叫びとなり、槍を突きあげながらの歓喜のうねりとなった。

 自分たちの故郷が、ローマに蹂躙される。その考えに襟首をつかまれた氏族たちは、右往左往した。

 そして、あたふたと陣をたたみ、一群また一群と丘の上から姿を消した。

 レノスはすかさず追撃隊を出したが、もちろん本気で深追いするつもりはなかった。氏族たちは背中に亡霊を背負ってでもいるような勢いで、東に走り去って行った。

「司令官どの。まさか、あの狼煙は」

 部下の助けを借りて慎重に胸壁から降りてきた司令官に、金髪の百人隊長は懐疑的にたずねた。

「スピンテルだよ」

 緊張が一息に解けたせいで、ひどく咳き込みながら、レノスが答えた。「太陽が真上に来たとき、東の信号塔から狼煙を上げるように命じた。いちかばちかの賭けだったが、奴らが援軍の到着だと信じ込んでくれたら、儲けものだと思ったんだ」

「やっぱり」

 フラーメンは、腹をかかえて笑い出した。「詐欺師ですな。われらの司令官どのは」

 陽気な笑いが、塁壁を守っていた兵士たちに広がっていく。

「ローマ、ばんざい!」

「マルキス司令官、ばんざい!」

 やがて「マルキス、マルキス」の大合唱が、砦じゅうから沸き起こった。



 夕闇とともに、みぞれは雪に変わった。とうとう、冬の初陣が訪れたのだ。

 待ち望んでいた二百の援軍が到着したのは、白いヴェールが地面を覆い始めた夜半だった。司令本部室で、双方の将校同士が相談した結果、夜明けを待って、彼らは氏族の討伐に東へ向かうことになった。

「すばらしいですな。二百人の砦が、千人以上の氏族の襲撃を退けてしまうとは」

 援軍の隊長は、手放しで褒めちぎったが、レノスには、すべてが綱渡りであったとしか思えなかった。一歩踏み出す足を間違えれば、この砦は今ごろ屍の山が積まれた廃墟となっていただろう。

 臨時のテントで埋め尽くされた広場は、遅くまでざわめきに満ちていたが、夜更けとともに静まり、動く者は塁壁の歩哨だけとなった。

 レノスは眠れそうになかった。身体はぼろきれのように疲れているのに、眠りの恩恵は訪れない。

 寝台から起き上がり、セヴァンが囚われている見張り台の地下に、足を向けた。

 真っ暗な物置の床に、泥と血だらけのかたまりがころがっている。それが死体でないことを示すものは、かすかな胸の動きと、ときおり襲う、痙攣したような震えだけだった。

「わたしは、わたしの役割を果たした」

 レノスは片膝をつき、捕虜を見下ろしながら、つぶやいた。

「おまえたちは敗けた。この後ローマは、氏族を屈服させる。おまえたちが築いてきたものを根こそぎ奪い取る。村々を破壊し、森の木を切り倒し、豊かな草原を荒野に変える。もう、いっしょに狩りをすることも――」

 地面に一粒のしずくが滴り落ちた。レノスの口が嗚咽にゆがみ、その舌は声にならない声で、ひとつの名を呼んだ。

 やがて、顔を上げ、しずくを振り掃う。

「今度はおまえが自分の役割を果たす番だ。わたしを憎め。そして生きろ」

 レノスは手を伸ばし、セヴァンの冷たく凍えた、泥だらけの手を握りしめた。

「おまえもわたしも、やすやすと死ぬわけには行かないんだ」



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