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月の戦士  作者: BUTAPENN
戦雲
15/62

戦雲(6)

 太陽が森の向こうにゆっくりと体を沈めていく。濃い灰汁のような薄暮の中に見える黒ずんだ影は、藪や地面のこぶか、それとも人間の死体なのか、もうそれすら判然としない。

 本当にひどい一日だったと、レノスは空を仰いだ。

 自分が生きていることさえ、もう定かではなかった。砦を歩き回る亡霊になっていたとしても、気づかなかっただろう。

 記憶も順序だっているとは、言いがたい。

 タイグが落馬したあと、戦場は一気に混沌の渦となった。騎馬隊の馬がタイグを守ろうと回りを取り囲み、軽装歩兵たちもそれに加わり、町を警護していた歩兵のうち数十人が門から出て、槍で応戦した。

 それと前後して、氏族の松明が荷車の薪に燃えつき、門が燃え上がり、消火作業に追われることになった。

 何時間かの攻防の末、夕闇が訪れ、潮が引くように氏族たちは退却していった。

 氏族の死体が土塁の外側に折り重なり、生き物が燃えたひどい匂いが漂っていた。ローマ兵の負傷者を運び、燃え残った町の門を補強する作業があらかた終わると、兵士たちは砦の地面に、襤褸きれのように座り込んだ。フィオネラ率いる町の女たちが、間を縫うようにして、水や食べ物を運んだ。

 だが、司令官は座り込むわけにはいかなかった。点呼をし、負傷者が出た部隊では予備兵を配備し、兵士にできるだけの休息を取らせ、そしてこれからの作戦を練らなければならない。

 顔をすすで真っ黒にした百人隊長たち、副官たち、そして騎馬隊隊長を、塁壁の上に集合させた。

「敵さんも、相当な数の死傷者が出ているはずですが、ちっとも減った気がしませんね」と言ったのは、フラーメン。「まるでアブみたいに次から次へと湧いて出てくる」

「しかたない。初めから三倍の戦力差があるんだ」

「カタラウニ族とマヤカ族が到着するのは、いつになる?」

「今、部下を偵察にやっています。明日の昼より早くなることはないでしょう」

「くそ、なんとか、それまでに目の前の氏族をひとりでも減らしておきたいところだが」

 妙案はなかった。

 負傷者は二十余人、幸いなことに死者はいないが、兵士たちも馬も疲弊しきっている。たった半日の戦闘の結果だ。これがあと三日続くのか。

「倉庫を襲ったやつは、どうだ」

「結局、最後まで仲間の名前は言いませんでした」

 取り調べを仕切った十人隊長のメシウスが暗い顔で答えた。死ぬまで拷問したのだろう。『どんな手を使っても吐かせろ』と命じたのは、レノス自身だ。

「町役たちに命じて、自警団を作って見張らせています。とりあえずは、動揺もなく静かにしています」

「わかった。みんな今のうちに、できるだけ寝ておけ」

 いくつかの命令を残し、気を抜くと足を踏み外しそうな虚脱感を抑えて、レノスは階段を降りた。下でスピンテルが待っていた。

 「タイグの容態は」と問うと、騎馬隊長の顔は奇妙にゆがんだ。

 浴場の脱衣場が、臨時の救護室になっていた。

 敷きわらの上に横たわるタイグは、胸に巻かれているさらし布よりも真っ白な顔色をしていた。

 レノスがそばに腰を下ろしたとき、彼は緑色の眼を開いて、虚空を見ていた。

「司令官……どの」

「しゃべるな」

「戦況は」

「こちらが優勢を保っている。心配はいらんから、からだを休めろ」

 タイグは目を閉じたが、またすぐに開いた。

「ねえ、司令官どの」

「なんだ」

「司令官どのと俺とは……この砦で一番長い付き合いですよね」

「ああ、そうだな」

「最初に、砦へ案内したときから、わかっていたんです。この人とはきっとうまくやれる……とね」

「そうか」

「前の司令官どのも、いい人だったけど……友だちではありませんでした。名前を取られて、つらかっただろうなんて、言ってはくれませんでしたよ」

 一回息を吐くごとに、かろうじて残っている生気がどんどん出ていくような気がして、レノスは胸が痛んだ。

「おまえの本当の名を、まだ聞いてなかったな」

 タイグは、力ない声をあげて笑った。

「俺は第七辺境部隊の騎馬隊、タイグです」

 わら色の髪の若者の手をぎゅっと握りしめた。そのとき、レノスの体の奥深くに、何か熱いものが生まれた。それは、みぞれの中で火の粉を散らして燃え上がる焚き火に似ていた。

 外へ出ると、兵士のひとりが息せき切って走ってきた。

「敵襲です!」

「敵?」

 塁壁の上に戻ったレノスに続いて、砦の警護に散らばっていた将校たちも駆け戻った。

「……なんてことだ」

 東の丘から、磨きぬいた錫のような満月が昇ったところだった。

 その冴え冴えとした月明かりに照らし出されたのは、こちらへ向かってくる氏族の群れだ。

 彼らの持つ松明が、鬼火のように揺れながら、草原のあちこちに広がっていく。

「夜に総攻撃をかけようっていうのか。正気の沙汰とは思えん!」

 ラールスがうめくと、フラーメンが首を振った。「ダエニ族はともかく、クレディン族は自分たちをオオカミの子孫と呼んでる。満月の夜に一番の力をさずけられると信じているんだ」

「あの人数で一斉に火をつけられたら、土塁が持ちません」

 土木将校のカイウスが、悲痛な声でうめいた。

「土塁の防御を捨てて、全員砦に撤退するか」

「町を氏族に占領されてしまう。建物の陰から矢でも打ちこまれたら、やっかいなことになるぞ」

「そのときは、こっちから火をつけてやる。どのみち、町は捨てる気だったんだ」

「……待て」

 レノスが、議論を制した。

「松明が、動いていない」

 草原の中央で、氏族の進軍がぴたりと止まった。

 戦士の集団の中から、ひとりの男が進み出た。月に照らし出されたのは、青銅のかぶとを被り、一族の長の印である長大な槍を持つ。オオカミをかたどった旗印が、高々と掲げられている。

(アイダン――)

 レノスは彼の姿を見たとたん、背筋に刃を当てられたような心地になった。

「どういうことでしょう」

「誘っているんだろう」

 ラールス隊長が苦々しい口調で、自分の副官とことばを交わしている。

「氏族は、市街地でちまちま攻めるよりも、平原のほうが戦い慣れている。俺たちを砦から引っ張り出そうとしているんだ」

「じゃあ、みすみす出ていくことはないですね」

「だからと言って、土塁を破られ、町に攻め入られるのは、もっと困るな」

 フラーメンが話に割り込み、ぺっと塁壁越しに唾を飛ばす音がした。「夜遠し籠城戦をやって、へとへとになった後は、カタラウニ族とマヤカ族が遊びに来てくれる。守るも攻めるも、地獄しか待っていないのさ」

 それを聞いたとき、レノスの腹の底で、ふたたび冷たい炎が燃え上がり始めた。

「……ふざけるな」

 その語気の激しさに、塁壁にいた歩哨たちまでもが、はっとこちらを振り向いた。

「平原の戦いが得意なのは、ローマ軍のほうだ。オオカミの子孫だと? ローマを築いたレムスとロムルスこそが、本物のオオカミの子孫であることを見せてやる!」

 意外なことに、文句垂れの部下たちが、ひとことも反論しなかった。

 松明に照らされた彼らの顔は、どれも強い興奮と同意に輝いていた。

 ゆうべから砦に籠って防戦一方だった兵たちは、ずっと身を削られるような無力感に苛まれていたのだ。

「全軍、正面門より打って出る」

 レノスは、大きく息を吸い込んだ。「わたしが直接指揮を執る」

「司令官どの!」

「これは、北の砦の存亡をかけた戦いだ。司令官の仕事だ」

 レノスは、部下たちの顔ひとつひとつを強いまなざしで見つめた。「百人隊長のどちらかひとり、わたしの代わりに砦から指揮してくれ」

「司令官どのの両脇を固める役を、ほかの誰かに譲ると思いますか?」

 にやつきながら、フラーメンが答えた。「わたしが司令官どのの右、ラールスが左ってのは、食堂の席順で決まっていたはずですが」

 「なあ?」と同意を求められたラールスは、こっくりとうなずく。

「では、砦から指揮をする者がいなくなってしまう」

 レノスがため息を吐くと、百人隊長たちはひとりの男を見た。

「カイウス、頼む」

「え、わ、わ、わたし?」

 戦闘経験のない土木将校が、情けない声をあげた。



 整列した第七辺境部隊歩兵中隊は、一糸乱れぬ正確な歩幅で前進を始めた。

 『三列の陣』と呼ばれる隊形だ。

 先頭の長槍兵が、卵型の赤い盾をぴったりと並べ、隙間から槍を突き出して歩く。そのかたわらに百人隊長、そして旗手とラッパ手と副官が立ち、軍団を鼓舞する。

 満月が照らし出した草原には、彼らのサンダルの鋲が鳴る音だけが響く。

 最後尾の兵たちは、大きなかがり火を高く掲げていた。敵にとって目くらましになり、先頭兵の動きが見えにくくなるのが狙いだ。

 だが、暗闇で戦い慣れているオオカミの氏族に、その手が通用するかどうかは疑問だ。

 鬨の声を上げて、一番に攻め込んできたのは、やはりクレディン族だった。

 彼らの勢いを止めるべく、砦の塁壁からは、射手がひっきりなしに矢を射かける。

 いったん激突が始まると、戦場は一気に盾と槍のぶつかり合う音、人間のうめきと叫びで満たされた。

 満月の下、戦っている兵たちには、自分の周囲しか見えない。戦場全体でいったい何が起こっているかはわからないのだ。それを見極めるのは、後方の指揮官の役目だ。

 右が押されたかと思うと、その方向に後方からバラバラと援護の矢が飛んでくる。カイウスはうまくやっているようだ。土木工事で鍛えた編成能力は、戦場でも如何なく発揮されている。

 敵味方が入り乱れ、血の匂い、肉が切れる音、断末魔の悲鳴がいったいどちらのものかもわからなかった。崩れ落ちた兵士は、後列の仲間によって後ろに引きずり出される。じりじりとこちらが押され始めたのがわかる。

「ラッパ手!」

 レノスの隣に控えていた兵士は、高らかにラッパを吹き鳴らした。

 二列目の主力兵が前列と入れ替わる。レノスは剣帯の剣を抜き放った。それに呼応して右のフラーメン、左のラールスも剣を抜くのを感じる。見たのではなく、感じるのだ。

 飛んでくる矢も、うなりを上げる剣も、手に取るようにわかる。今こそが戦場の雌雄を決するときだ。

 レノスは、陣形を整えた自軍の横を回り込み、敵の側面から襲いかかった。

 目の前に立ちふさがった敵を剣で突いた。横からの斬撃を、盾で払いのけた。すね当てに噛みついてきたクレディン族の猟犬を蹴飛ばし、切り裂いた。

 北国の夜の極寒の中で、男たちの体から蒸気が吹き上がっていた。

 耳元を擦るような音がして、隣にいたローマ兵が喉に矢を受け、悲鳴もあげずに崩れ落ちる。

 手はかじかみ、腕はしびれ、自分の動悸と激しい息以外には何も聞こえず、何も考えられず、ただ本能が向かわせるまま、まわりを取り囲む敵意に剣をふるい続ける。

 いったいどれだけの氏族を斬ったのか。

 気がつくと、目の前に、青銅のかぶとを被った男が静かに立っていた。

「マルキス司令官どの」

「アイダン」

 ふたりが互いを見つめたとき、望月が草原を白銀に染め、あたりは完全な静寂に陥ったように思えた。

 光の造り出す影の中で、アイダンは笑ったように見えた。レノスは何か言おうとしたが、声にならなかった。

 手に持っている盾と剣を地面に投げ捨てて、仔犬のように笑いころげたい――だが、それは戦場にあっては、抱いてはならない幻想だった。

 次の刹那、ケルト人とローマ人は怒号を上げて、ぶつかり合った。

 アイダンは両手で大槍を振り回し、レノスはヒスパニアの剣でそれを迎え撃った。

 二度、三度と、剣と槍が打ち合わされた。

 アイダンが両腕を振り上げた瞬間、レノスはふところに剣先をもぐりこませた。

 だが、相手は攻撃をかろうじて躱した。逆に空隙を突かれて、レノスは右の手甲をしたたかに撃たれた。ひじが痺れて、思わず剣を取り落としそうになる。かろうじて持ち直すと、するどく横なぎにはらった。

 アイダンがそれを避けて飛び退くと、叫んだ。「手出しをするな!」

 それは、弟に向けられたことばだと知った。セヴァンが、すぐそばにいるのだ。

「こっちも、加勢はいらん!」

 負けずに、レノスも怒鳴った。すぐ後ろにいるはずのフラーメンとラールスへのものだった。

 回りの戦闘がいつのまにか退き、音も耳から絶えていた。

 夜露に濡れた草むらが月に照らされて、ふたりが立っているのは銀色の円盤のように見えた。小さな円形闘技場だ。

 レノスは、用心深く間合いをはかると、低く足元への攻撃をしかけた。アイダンの大槍が斜めから振り下ろされると、すばやくわきに飛び退く。槍は地面に激突するすれすれで軌道を変え、あたりに土くれを散らした。

 不思議なほど、落ち着いている。だが、体内では依然として、激しい炎がとぐろを巻いていた。

 なぜ戦うことを選んだ、アイダン。氏族とローマがともに生きる道を語り合ったではないか。平和を、繁栄を、私の伸ばした手をなぜ退けたのだ。

 セヴァン、なぜ、タイグをあんな目に会わせた。砦での最初の仲間だったのに、なぜ。くそ、くそっ。

 杯のふちにあふれるワインのように、憎悪が魂を焦がしながら伝い落ちる。――おまえたちを、赦さん。

 突き出した剣の先が、アイダンの脇腹をえぐった。

 同時に、右から来たアイダンの槍が、レノスの肩を打っていた。

 激痛が走る。血しぶきに染まった体がふらりと泳ぎ、視界の端に、闘技場の松明のような明るい月が目を射た。

 ――なぜ、審判は勝負を止めてくれないのだ。もう、いいだろう。ここまで戦ったのだから、いいだろう。

 かろうじて膝をつく前に体勢を立て直したとき、追い打ちをかけるように横から飛びかかってきたものがあった。

 獣の匂いとともに、熱い息が首筋にかかる。固い毛の肌ざわり。黄色いふたつの瞳がすぐ間近に見えた。

「イスカ!」

 叫んだのは、誰の声だったろう。

 喉笛を噛みちぎられる予感に、レノスはとっさに盾をセヴァンの猟犬にぶつけ、剣を突き出した。

 肉を斬る手ごたえがあった。内臓と汚物のいやな匂いがした。

 レノスは盾を落とした。彼のヒスパニア剣はアイダンのふところに、深々と突き刺さっていた。

 腹に生えた異物を除けば、友はいつもの、おだやかな微笑みを浮かべているようにさえ見えた。だが、その灰色の瞳は、もう何も見ていなかった。

 そのまま、凍えた地面を寝床と定めるように、アイダンはゆっくりと仰向けに倒れていった。



 



     第三章 終

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