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月の戦士  作者: BUTAPENN
戦雲
12/62

戦雲(3)

「納得できるご説明を求めます」

 北の砦の若き司令官は、押し殺した声で、机の向こうにいる上官に詰め寄った。それは、春の大気を震わせる遠雷の音に似ていた。

 ブリテン島辺境部隊の総司令長官ファビウスは、彼の手にある蝋板をちらりと見て、手元に視線を戻した。

「そこに記したとおりだよ。すでに島の南部十州では、石畳の道路が網の目のように張り巡らされ、神殿や円形闘技場を備えた大きな町がいくつも建設されている。その建設をになうのは、いまや氏族の若者を中心とした補助軍団だ」

「それはわかっております。だが」

「よいか。皇帝陛下は、北部諸州もそうなることをお望みなのだ。それも、できるだけ速やかに」

 痛いほどの沈黙が流れる。

「ハドリアヌス帝が長城を築かれて以降数十年、この島では、ほとんど何も変わっておらん。何もだ!」

 島の全ローマ軍兵士の受けるべき罵倒を、レノスひとりが受けることになった。

「遅々として属州化は進まず、野蛮な民に支配された荒れ野を、豊かな文明の地に変えるという使命は果たされぬままだ。さらなる拡大を、さらなる繁栄を。ローマ帝国はたゆまず前進しなければならないのだ」

(この男は、辺境軍の統率者よりは、よほど政治家に向いているであろうに)

 とレノスは残念に思った。

 前進。それはローマ帝国軍に課せられた最大の使命だ。魚の群れがひとときも休まず泳ぎ続けるように、ローマ軍は属州を勝ち取る戦いを決して休むことはできない。

 攻め続け、勝ち続けることが、国を安定させ、皇帝の地位を確固たるものにする最大の方法だからだ。

「よいか」

 ファビウスは両手を机にたたきつけ、ぐいと身を乗り出したので、レノスは思わずのけぞりそうになった。

「ブリタニア全島を征服せんとするあかつきに、皇帝陛下が最後に直々にご出陣になる。わたしは、そのみそばでお伴もうしあげるのだ」

(辺境の司令長官から、一気に皇帝の補佐官に飛躍する。さだめし、陛下とのあいだに密約でもあるに違いないな)

 苦いかたまりが腹の中でとぐろを巻く。(だが、そのために、この地に戦乱を巻き起こしてよいはずはない)

「おそれながら、今はまだ時期尚早です」

 理を尽くして訴えるしか、方法はない。「氏族たちとの信頼関係は、まだそこまで行ってはおりません」

「そうだったか。砦の記念日に、氏族を親しげに招いていたではないか」

「あれはまだ、ほんの手始めでした。今このような無茶な要求を突き付ければ、せっかくの友好関係に、修復しようのない溝がうがたれます。せめて、あと五年、いや、三年……」

 ファビウスは、彼の言葉をさえぎった。

「きみの力をもってしても、だめなのかね、マルキス司令官」

 その口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。「きみなら、あの純朴な若者を手なずけることができると思ったが」

 ねばつくような視線が、レノスの胸から腰のあたりを舐めた。

 背中に、すうっと氷柱が当てられた気がした。

(こいつは、わたしが女であることを知っている?)

 足元の床が傾き、すべてが滑り落ちていくような錯覚に陥る。いったい誰が密告したのか。前任者のスーラどの――いや、そんなことは絶対にありえない。

 では、帝都にいる軍関係者? ことによると、伯父上の側近あたりか。ありうる話だ。

「それとも、きみのほうが手なずけられる恐れがあるのか」

 短く息を吐き、レノスは軍靴のかかとを鳴らして直立不動の姿勢を取った。

「わたしは、帝国軍人です」

 務めて無表情に答える。「ローマ皇帝に忠誠を誓い、ローマのために一命を賭して戦うことを誓いました。手なずけられるなどという表現は、侮辱以外の何ものでもありません」

「それで、よい」

 ファビウスは傲岸に頭をそらし、満足げにほほえんだ。

 なんという男に、なんという弱みをにぎられてしまったのだ!

「見たまえ」

 司令長官は、おごそかにパピルスをかかげて、レノスに示した。

「これは、皇帝陛下の勅書による命令だ。北の砦の司令官の任務は、次の徴税の季節に、とどこおりなく徴税がすむように護衛することだ」

「はい」

「氏族によって結成された補助軍は、いったん司令本部に集めて訓練を行ない、徹底的に服従と規律を学ばせる。十年後には、島内すべての建設と警備を、補助軍団が担うことになるのだ」

「はい」

「すばらしい、平和と繁栄に満ちた未来ではないか!」

 もう、何も言い返すことはできなかった。ことは、すでに決まってしまっているのだ。

 レノスは悄然として、司令本部を出た。

 氏族の若者たちをローマ軍の補助部隊の兵士として徴用し、ローマの言葉や習慣を教えこむのは、ガリアやゲルマニアのような他の属州でも、すでに行われていることだ。

 現に騎兵隊のスピンテル隊長はゲルマニア人だし、百人隊長ラールスもガリア出身だ。軍をやめるときは土地や退職金ももらえる。多くの者が氏族の村ではなく、ローマの建てた町で余生を過ごすようになる。

 そうして、氏族は少しずつローマの文明を採りいれ、ローマの価値観に染まっていく。何世代もかけて、ローマに帰順させるのだ。

 だが、この北の地では、その政策はまだ早すぎる。十年前の戦乱以来、まだ反抗の火種はくすぶっている。

 今ここで急いては、多くの人々が長い時間かけて築き上げてきたものが、すべて無駄になってしまう。

(クレディン族は、このことを受け入れるだろうか)

 ――とても、無理だ。自分たちのことを『オオカミの子孫』と呼び、古くから伝わった生き方に誇りを持っている部族なのだから。

 考えあぐねながら、せわしなく行き交う人々を避けつつ歩いていると、いつのまにか神殿の参道へ来ていた。

 偉大なる皇帝クラウディウスの神殿だ。帝国の属州いたるところで、ローマや土地の神々とともに皇帝礼拝が行われてきた。しかも、皇帝の名による神殿がひとつ奉献されるたびに、原住民たちは寄進という名目で、多くの税金をむしりとられる図式ができている。

 供物やお守りを商う露店が両側にずらりと並ぶ中、一軒の石材店の前でレノスは足を止めた。

(ああ、そう言えば、今度ここに来たら、感謝の寄進をすると誓いを立てていたのだったな)

 ローマ人は、記念碑を建てることを好む。祈願成就のため、勝利の記念のため、建築物の奉献のため、軍団に忠誠を示すため、あるいは個人的な誓いのため。ありとあらゆる人生の節目に、碑を建てる。

「店主。石碑の値段は、いかほどか」

「はいはい」

 白く埃っぽい床を踏むと、揉み手をしながら奥の作業場から現れたのは、この島の氏族出身の男だ。

「ご希望はどういったものでしょう。土地の砂岩から、イタリヤから輸入した白大理石までいろいろ取り揃えておりますよ」

「一番安い石でいい」

「承知しました。碑文は、なんとお彫りしましょう」


  第七辺境部隊の司令官レノス・クレリウス・マルキスは、この碑を奉献する。大切な友アイダンとその一家の幸福を祈って――。


 そこまで考えて、レノスは苦く笑った。

 わたしに、彼の幸福を祈る資格があるのか。氏族の暮らしを粉々に破壊するために、つかわされているローマ軍人にすぎないのに。

「やはり、やめておく。金が足りなかった」

 呆れ顔の店主を残して、レノスは外へ出た。

 海から吹きつける風は、みるみる空にちぎれ雲を運んできた。すぐに雨が降り出すだろう。

 赴任して一年の間に、雲を見ただけで的確に天候が読めるようになった。

 この島は、これから長く暗雲におおわれるだろう――反目と憎悪という名の暗雲に。



 垂れ幕を開けると、弟が通り道をふさぐように立ちはだかっていた。

「どけ、セヴァン」

「悔しくないのか。俺たちは赤いカケスにだまされていたんだぞ」

「まだ、そうと決まったわけではない」

 押しのけるようにして歩き始めると、セヴァンはすばやく身をひるがえして、彼の行く手に割り込んできた。長い金色の髪が、まるでハイイロオオカミの背中のたてがみのように揺れる。

 ローマの使者が村の入り口に来たのは、一昨日だった。

 この村から五十人の若者を徴用して、ローマ軍の補助兵士とすること。穀物と家畜の税を三倍に増やすこと。

 氏族のあいだの会合は、年一回ローマの武官の立ち会いのもとに行い、無許可の集会を禁止すること。

 その布告は、戦士たちを憤怒のうずの中に巻き込んだ。この数十年、自治領としてあつかわれてきた北方氏族の領地が、ローマの属州に組み入れられようとしているのだ。

 ――まるで、おれたちは、もはやオオカミではなく、柵の中に追い込まれようとしている羊ではないか、と。

「だまされたんだよ、あいつに。増産した小麦を買い取ってやると甘いことばを並べて、結局ただで全部持って行かれるだけじゃないか。あいつは兄さんをローマの銀貨の力で釣ったんだ」

「俺は、釣られてなぞいない!」

 アイダンが声を荒げるのは珍しいことだった。洗濯をしていた女たちが驚いたように振り返る。

 セヴァンはうなだれ、喉の奥でうめいた。

「みんなは、兄さんを裏切り者だと思ってる。ローマに尻尾を振る犬だと言ってるんだ」

 アイダンは、傲然と顔をそむけた。「言いたい奴には言わせておけばいい」

「俺がイヤなんだよ。兄さんがそんなふうに汚く罵られるなんて、俺は我慢ならない」

 セヴァンは顔を伏せたまま、ぶるりと体を震わせた。

「……俺が、あいつを殺して来る」

「やめろ!」

 アイダンは、まとわりつくものを振り捨てるようにして、歩み出した。

 厩に行き、羊の群れを見回ると言い残して馬を引き出し、日の暮れるまで草原を走り抜けた。

(俺は、だまされていたのか)

 狭い氏族の領地の外に広がるという広大な帝国に、一抹のあこがれを抱いた。

 氏族にわけへだてなく接し、友と呼んでくれたローマ軍の将校に、心を許した。

 それは、やはり愚かなことだったのだろうか。

 その夜、家の炉辺で、先祖から伝わった盾を磨いていると、父の伝言がもたらされた。

 ――今宵、『戦士の集会』を催す。

 族長の大広間に入ると、中央の暖炉は明々と燃え、その回りを取り囲んで座る男たちの顔は、炎の暗い光を映して白い陶器のように見えた。

 弟のセヴァンは、集団から離れたところに、幽霊のように生気をなくして、うずくまっていた。

「アイダン。息子よ」

 父のサフィラは、かすれた低い声で呼びかけた。

「ダエニ族の使者が訪れた。『聖なる集会』が召集された」

 それを聞いて、アイダンは息が止まりそうになった。

 『聖なる集会』を召集するのは、ドルイドの祭司だ。そして、それは氏族たちにとって、戦のはじまりを意味していた。

「ダエニ族だけではない、カタラウニ族もマヤカ族もだ」

「この一帯の氏族すべてが、一斉に挙兵するのだ」

「もう、奴らのやり方には我慢ならぬ。ローマ軍をこの島から永久に追い出す」

「十年前の屈辱を晴らすときが、ようやく来た」

 男たちの声は、興奮と熱狂を帯びていた。

 アイダンは、口の中がからからに乾くのを感じた。ダエニ族は、長くローマと友好を保っていた。彼らさえもが、たまりかねて蜂起するほど、今回のローマの命令は、氏族の誇りを深く傷つけたのか――。

「おまえは、どう思う」

 父のことばに、はっと我に返る。

 集団は、静かで冷たい視線を、じっと彼に注いでいた。

「われわれは、どうすべきだと思う。聖なる集会へ行くと答えるべきか。それとも否むべきか」

 腕の産毛が毛羽立つのを感じる。

(俺は、試されているのだ)

 彼ひとりが遅れて呼ばれたことが、何よりの証拠ではないか。

 族長の後継者は、ローマの犬になりはててしまったのか。それともやはり、オオカミの仲間なのか。戦士たちはこぞって見きわめようとしている。

 そして、もし間違った答えをしてしまったら――彼はさばきを受けるだろう。族長と言えども、戦士の集会における決定をくつがえすことはできない。

 セヴァンが顔を上げ、懇願するように彼を見つめた。

 アイダンは何度も唇を湿してから、口を開いた。答えは、他にありようがなかった。



 レノスがアイダンと次に会ったのは、もう夏も過ぎようとしていた朝だった。

 眠れぬ夜を明かし、まだ東の空が白む前に起き出したレノスは、砦の塁壁に立った。しばらく夜明けの風に身をさらしていると、ハイタカの鳴き声が聞こえてきたのだ。

 ハイタカが砦のそばに来るのは、不思議なことではない。だが、その鳴き声があまりに悲しげで、レノスは思わず厩舎に駆け込み、自分の馬を引っ張り出した。柵のそばで大いびきをかいていたペイグが眠そうに目を開け、上官の気まぐれだと知って、また目を閉じた。

 この一年で、葦毛の馬は主の心がわかるかのように、命令しなくとも自在に動くようになった。

 逸る気持ちが伝わったのか、ヒースの茂みが勢いよく左右に倒れていくほど、馬は谷底を荒っぽく走り抜けた。

 欠けた石垣のところで、アイダンは待っていた。

 馬から降りるレノスをじっと見つめていたが、近づくと、目が合うことを避けるように地面を見た。

「子どもが生まれました」

 固くはっきりした発音のラテン語だった。

「そうか。男か女か」

「男です」

「おめでとう」

「ありがとうございます」

「父上は喜ばれただろう。族長の世継ぎだ。さぞ盛大に祝ったのだろうな」

「一族の場所で、感謝のいけにえをささげました。ここへ来たのも、祈りをささげるためです。クレディン族の言い伝えでは、ここは生と死を分かつ場所だとされていますから」

 ふたりは、丈の高い雑草に半分隠れた石垣を、ぐるりと見渡した。

「古からの聖地だそうだな。ケルトやピクトがこの島に来るよりも、もっと古い民族に起源を持つと」

「もともと、この石はすべて直立していたのです。長い年月のうちに倒れてしまったため、崩れた欠片を集めて、石垣に積みなおしたと言います」

「この巨大な石が直立していた?」

 レノスは、驚いて石を見つめた。崩れていなければ、三人分の背丈ほどもありそうな太く巨大な石だ。これを建てることは優秀な土木技術を誇るローマにもむずかしいかもしれない。

「昔の人々は、何を思って、これほどの石を建てたのだろうな」

「わかりません」

 つんと胸を突かれるような思いで、レノスは空にそびえ立つ幻の巨石を見上げた。

 ローマ人が記念の石碑を建てるように、彼らも何かを記念に残そうと望んだのだろうか。

 そして、今から何千年も経ったのち、後世の者はローマ帝国が営々と築いた町や道を見て、同じことを言うのだろうか――なんのために、彼らはこんなものを作ったのだろうと。

 東の空が赤みを帯び、アイダンの赤い髪を輝かせた。

「司令官どの」

 アイダンは、曙光の矢を避けて目を細めた。「あなたの任期はいつまでですか。この島を離れる時期は」

「さあ。皇帝陛下のご命令があれば動かねばならぬが、よくわからないのだ。前任者は五年だったから、まだまだ先だろうな」

「そうですか」

 氏族の息子は、唇をかみしめた。言いたいことがあるのに言えない苦しみに、じっと耐えているようだった。

「今朝、あなたに会えてよかった」

「ああ、ほんとうにそうだな」

「では」

 アイダンは、すばやく馬にまたがった。一刻も早く、その場を逃れたがっているのだ。

「アイダン、待ってくれ」

 レノスは、思わず叫び声をあげた。「きみは……ローマを憎んでいるか」

「いいえ」

 アイダンは、馬上でほほえんだ。「ただ、これは運命だったのです」

「運命……」

 レノスは、事態がもう人の力では引き戻せない、絶望的なものであることを悟った。

「セヴァンは、わたしのことを、ひどく怒っているだろう?」

「あいつは、いつも何かに怒っていますよ」

 ふたりは、声を合わせて弱々しく笑った。

「いつかまた、いっしょに狩りに行ける日が来るだろうか」

「ええ、いつかまた」

 背中を見送る間もなく、アイダンは丘の向こうへと走り去っていた。


 次に会うのが戦場であることを、レノスはまだ知らなかった。

 



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