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月の戦士  作者: BUTAPENN
戦雲
11/62

戦雲(2)


 ファビウス司令長官一行が砦を去って、砦には平穏な日々が戻ってきた。

 連日の帳簿の監査で、すっかり胃を悪くして寝込んでいた会計係のネポスも、ようやく復帰して、朝から書き物机に向かっていた。

 だが、心覚えのために書かれた木簡の束をながめているうちに、また、胃のあたりを押さえ始めた。

「今年はともかく、来年の監査は乗り切れないかもしれません」

「なぜだ」

 レノスはとぼけた口調で答えたが、もちろん理由はわかっていた。

「この『小麦三十袋』、どこから買い入れたと言えばいいんですか」

「どこの砦でも半分大っぴらにやっていることだ。配給の半ば腐った小麦だけでは、この冬を越さずにパンがなくなってしまう。これは兵士たちの士気にかかわる由々しき事態だ。ゆえに、砦の財政の許す限りの小麦を買った。しかし土地の商人から買ったゆえ、買い付け先はどこか、まったく知らない。以上だ」

「そんなことで、すむと思ってるんですかあ」

 確かに、すむとは思っていない。

 くだんの土地の商人とは、ガヴォ。以前クレディン族との話し合いを取り持った、あの男だった。小麦は、彼が直接クレディン族と交渉して買い付けたものなのだ。

 つまり、北の砦の司令官は、間接的にせよ、ローマ帝国と反目している氏族と小麦の取引をしたことになる。

「バレたら、わたしはクビだろうな」

 しかも、余分な金など1アスもない砦の金庫から、それだけの金を捻出するには、レノスは自分の給料のほとんどを返納せざるを得なかったのだ。

「クビのうえに、一文無しで飢え死にだ」

「そんな、ひとごとみたいに」

 司令官が無言に戻ったので、ネポスはあきらめて、木簡に穴を開ける作業に取りかかった。

 パピルスが豊富にある南の地方と違い、北の地で書類として用いられているのは、蝋板を別とすれば、この木簡が主だった。ハンノキを薄く切った木の板に文字を書けば、りっぱな手紙や報告書になる。ふたつに折って穴を開け、蛇腹式に綴り合わせることで、記録として残すこともできる。

――北の砦の記録に、わたしは、あとどれだけ自分の名を残せるのだろうか。

 レノスは頬杖をついたまま、事務室の窓から空を見上げた。

 秋風は性急に、ブリテン島の短い夏を追い出しにかかっていた。海から陰気な雲が押し寄せては、冷たい雨を落としていく。その一雨ごとに、木々や草原は鮮やかに染まっていく。

 やがて、一年で一番厄介な季節、徴税の季節が訪れた。

 北の砦の管轄区域の中には、クレディン族のほかに、氏族の村が四つあった。いずれもローマに友好的なダエニ族の村で、ふたつの村は大きく、あとのふたつは小さかった。

 五つの村をめぐって回る徴税官を護衛するのも、北の砦の大切な役割だ。

 クレディン族の村の前、川のほとりの岩場に、ローマ軍が大きなテントを設営し、村の主だった者たちがやってきて、テントの中で貢物の受け渡しを行う。族長サフィラは顔を見せなかった。

 税として支払われたのは、小麦、羊や馬、そして彼ら自身が鋳造した銀貨などだった。

 表面にはギリシャ神話の神々や馬の姿を刻んでいる。不揃いでいびつな形はローマの整った貨幣とは比ぶべくもないが、氏族の祖先が大陸から来たケルト人で、ギリシャ文明の影響を受けていたことがわかるのだ。

 受け渡しのあいだ、レノスは槍を持って立ちながら、あくびをこらえていた。

 もちろん、アイダンのほうは一度も見なかったし、アイダンもずっと素知らぬ顔を通していた。

 族長の家の長持ちの中には、彼が小麦の代金として自分で支払ったデナリウス銀貨がこっそり収められているだろう。そのことを想像して、ひそかに楽しんだ。

 横柄な徴税官たちの接待というつらい勤めが終わってしばらくは、おだやかな晴天が何日も続いた。

「司令官どの」

 百人隊長のラールスが部屋に入ってきて、一枚の木簡を机に置いた。「門衛がこれを持ってきました。クレディン族の使いが門の外まで来て、司令官どの宛ての手紙を渡していったそうです」

 木片の表面には、灰とにかわを混ぜたインクで、流麗なラテン語が書きつけてあった。


『明日、クレディン族の族長の息子たちはシカ狩りに行くつもりです。よろしかったら、砦の司令官どのもごいっしょしませんか。何人連れてきてもかまいません。もし不安でしたらの話ですが。当方は、わたしとセヴァンのふたりです。日の昇る時刻に、古い石垣のそばでお待ちしております』


「狩りか」

 いや、狩りという名の挑戦だ。おじけづいて、たくさんの兵士を伴って行けば、彼らへの不信を表わすことになる。

「司令官どの」

 黒髪のラールスは、採光用の窓のそばに立ち、逆光の作る暗がりからじっと彼を見つめていた。

「狩りなら、俺もいっしょについて行きます」

「おまえが?」

 珍しいこともある。この男は、他人とはなるべく関わらない主義だと思っていたからだ。

「向こうがふたりで来るなら、こちらがふたりで行っても、たいして臆病ということにはならないでしょう」

「ラールス、おまえ」

 レノスはあきれた顔で、彼を見た。「手紙の中身を読んだな」

「矢じりと投げ槍は、俺が研いでおきます」

 悪びれるでもなく、ラールスは大股で部屋を出て行った。「それでは明日の夜明けに」



 翌朝、最後の夜の巡回を終えた兵士たちと入れ違いに、レノスは、眠そうな百人隊長を引き連れて砦の門を出た。

 あとのことを託されたフラーメンは、ひどく機嫌をそこね、門を閉める瞬間まで、彼のぼやきが聞こえてきた――あいつには、司令官のお伴なんて似合わねえんだよ。そういうのは、俺の役目だろう。まったく。

 アイダンとセヴァン兄弟は、古い石垣に馬をつないで待っていた。その足元には、それぞれの猟犬がうずくまっていた。

 アイダンは、やわらかな微笑みで彼らを迎えた。セヴァンは相変わらず、無表情に黙りこくったままだった。

「どこへ行く」

「今日は少し遠出しましょう。ここから北、この草原をつらぬく川の源流にあたる場所です」

 クレディン族が先立ち、続いて彼らの猟犬、最後にローマの将校たちがそれに従った。

 沼地を避けて尾根伝いに進み、狭い渓谷を降りていくと、真っ赤に葉を染めたナナカマドの木の間から湖が見えた。エリカの薄紅色の花が露にぬれ、陽の光をきらきらと反射して頭を垂れていた。

 それは、よく晴れて乾燥した、すばらしい日だった。狩りに適しているというだけでなく、島全体が、生きとし生けるものすべてを祝福するような慈愛に満ちていた。

 四人は、湖のほとりに水を飲みに来たウサギやカモ、コブハクチョウを、投げ槍で次々と仕留めた。

 ローマ人たちもまずますの獲物をものにしたが、氏族の息子たちの比ではなかった。とりわけ、セヴァンの収獲は傑出していた。猟犬イスカが風下から近づき、必死で逃げ出そうとするアカシカの足に噛みつく。もう次の瞬間、セヴァンは、その頸にとどめを刺しているのだ。

「狩りの女神ディアナの申し子だな」

 感嘆してつぶやいた司令官は、アイダンが弟を見つめる眼に宿る暗い影に気づいた。

 それは、ほとんど憎悪と呼べるものだったので、レノスは驚いた。そして、その憎悪の理由をまたたくまに理解した。

 兄は弟に嫉妬しているのだ。生まれつき多くのものを背負わされた長男であるゆえに、どんなに望んでも、弟の自由奔放さは決して自分のものにならない。

 嫉妬は、あるべき人の姿をゆがめてしまう。それは、皇帝でも奴隷でも同じだ。人でも国の関係でも、同じなのだ。

 セヴァンは、兄の向けるまなざしに気づいているのだろうか。気づいていなければよいのにと、レノスは願った。

 狩りにじゅうぶん満足したころ、彼らは湖のそばの乾いた斜面に思い思いに座り、麦のビスケットと干した魚とワインで遅い昼食を取った。氏族たちは、大麦のパンと蜂蜜と凝乳だった。

「来年の春、畑に蒔く小麦を倍に増やすことに決まりました」

 アイダンは小刀で、野ウサギの皮をていねいに剥ぎながら、言った。「父もなんとか賛成してくれました」

 ラールスは「馬を見てきます」と、立ち上がって行ってしまった。

「そうか。それは良い知らせだ。クレディン族にとっても、ローマにとっても」

「だが、父は心配しているのです。ローマの貨幣を得て、ローマ人と交易をすることで、わたしたちの心まで帝国のものになってしまうのではないかと」

 アイダンが野ウサギの肉を放り投げたので、猟犬たちは喜んで飛びついた。

 セヴァンは、彼らから少し離れたところでパンを頬張りながら、理解できぬラテン語の会話に、じっと耳をすませている。

「それは、きみたちが決めることだ」

 レノスは固いビスケットをワインで喉に流し込むと、言った。「強制はしたくない。わたしは、そう願っているけれどね。現に島の南では多くの族長たちが、ローマの市民権を得ている」

「市民権……ですか」

「市民になれば、帝国の版図、どこへ行ってもローマの庇護と自由が保障されるんだ。悪くはない」

 アイダンは首を振った。「この土地の外の世界なんて、考えたこともありません。海の向こうのローマなど、黄泉と同じだ」

「でも、わたしは、そこから来た。幽霊なんかじゃない」

 アイダンとレノスは互いを見つめて、ほほえんだ。

「きみは、やがて多くの民を率いていく人だ。わたしも、二百人の兵士の安全に責任を負っている。わたしたちはずっと向こうの丘を見つめながら歩かねばならない。足元を見つめていてはダメだよ。氏族とローマ人が協力し合えば、この島はもっと豊かに、もっと平和になる」

 アイダンは目をすがめて、吐き捨てるように言った。

「ローマ人は信じられない。あなたのことは信じたいとは思うけれど」

 彼の目には、ファビウス司令長官の侮蔑の表情が焼き付いているにちがいない。

「信じてほしい。信頼を裏切るようなことはしない」

 午後の陽が傾き、谷がかげった。冷たい風がさわさわと、彼らの座っているワラビの原を揺らした。アイダンは小さく息を吐いた。

「わかりました。あなたを信じます」

「ありがとう」

「では、友情のしるしが必要ですね」

 彼は弟のほうに向いて、氏族のことばで言った。「セヴァン、そのアカシカを司令官どのに差し上げてよいだろうね」

 セヴァンはコブハクチョウの羽根をむしりながら、黙ってうなずいた。

「それは、ありがたい」

 レノスは、破顔した。「冬に着るマントを持っていなかったんだ。ローマではそんなものは必要なかったし、けっこう買うと高いしね」

「ローマ軍の司令官は、高給取りだと思っていたけど、違ったようですね」

「何を隠そう、砦で一番貧乏なのが、わたしだよ」

 レノスは、首にかけていたひもをはずした。「わたしからお返しできるものは、これしかない。きみがローマ人の風習を嫌いでなければよいのだが」

「なんです?」

「奇妙に思うかもしれないのだけれど、幸運のお守りだ。徴税官といっしょに司令本部のある港町に行ってきた。あそこには大きな神殿があるんだよ」

 ひもの先についた袋の中を覗いたアイダンは、目を見開いた。袋の中には、男根をかたどった本体に羽根がついたような形をしたものが入っていた。

「確かに奇妙なものですね」

「幸運と豊穣……もちろん、多産の意味もあるのだと思う」

 レノスは照れくさげに鼻の頭をかいた。「きみと細君のために祈ってきた……よい子に恵まれるように」

 アイダンは、袋をぎゅっとにぎりしめてから、口元をほころばせた。「ありがとう。わたしたちへの最高の贈り物です」

 その微笑を見たとき、レノスの心の底に小さな痛みが走ったが、それが何故なのか自分にもわからなかった。

「ああ、いい気持ちだな」

 レノスは、不可解な気持ちをふりはらおうと大きく伸びをして、後ろに倒れこんだ。乾いたワラビがちくちくと背中を刺した。

 アイダンは、彼の隣に肘をつきながら、ちぎった草を口に入れて、食んでいた。

 温められた空気は、ものの形と色をくっきりと見せ、遠くの丘の色づいた木々も手を伸ばせば触れるように思えた。

 セヴァンは緑の草むらの中で、しっくいの壁に描かれた絵のように動かずに、ときおりレノスをじっと見つめていた。



 とっぷりと秋の陽が落ちたころ、ローマの将校たちは馬の両脇にたくさんの獲物をぶらさげながら、砦への帰路についた。クレディン族の若者たちとは、谷の出口で別れた。

「嵐が来ます」

 アイダンは、上空の雲を見上げながら、古の祭司のような厳かな口調で言った。

「あっというまに、この島は冬に支配されるでしょう」

「今日は、本当に奇跡のような日だったのだな」

「はい。祝福されていました」

「また、春になったら狩りに行こう」

「ええ」

 ローマ人と軽く腕を触れ合わすと、アイダンは弟とともに馬に乗って去っていった。

 朝に待ち合わせをした石垣のところまで戻ってきたとき、レノスは今日一日をなつかしく思い、知らず知らず笑みを浮かべた。自分の馬に紐でくくりつけたずっしりと重いアカシカが、その証だ。

「司令官どの」

 一日じゅうほとんど押し黙っていたラールスが、いやいやという調子で口を開いた。

「普通なら、こういう面倒ごとはフラーメンにまかせるところだが、あいつはこの島の出で、役に立ちません」

「……何を言ってるんだ?」

「僭越ながら、忠告もうしあげます。俺には、司令官どのは、この島に取りつかれているように見えるのです」

「なに?」

 彼らは馬を停めて、互いに見つめ合った。

「確かに、このブリテン島は、何にもない島です。冬は手足が腐るほど寒く、作物は育たず、原住民は野蛮で迷信深く、進んだローマの文明を理解できず、毛嫌いするばかりだ」

 レノスは、当惑して部下を見つめた。

「でも、だからこそ、虜になってしまうんです――彼らの素朴さに。それまでの人生を家系や組織でがんじがらめにされ、息が詰まる思いをしてきた人間ほど、たやすく捕まる。何もない暮らしが、得がたく心地よいと思ってしまう」

 ラールスは、肩をすくめて笑った。「俺のような属州生まれの平民は、まだましですが、あなたのような貴族は、てき面にやられます。征服する相手への同情心にがんじがらめにされて、相手に肩入れするあまり、槍を向けられなくなる」

 レノスは、きっと奥歯を噛みしめた。

「わたしは、そんなことにはならない。任務と私情を混同したりしない」

「それならば、よいのですが」

 黒髪の百人隊長は、空の雲を見上げるふりをして、顔をそらした。「ちょいと身に覚えのある話でしてね」



 冬が訪れた。レノスがこの島に赴任して、はじめての冬だ。

 ローマからの海路は閉ざされ、ブリテン島は春まで、帝国から忘れられた属州となるのだ。

 北国の冬に、砦の駐屯軍のすべきことはほとんどなかった。騎兵隊の定期巡回も休止になった。

 一日のうちのほとんどが夜で、一歩戸外へ出れば鼻水さえ凍るような季節に、騒ぎなど起こす輩はいない。

 兵士も将校も、ときおり体を温めるために訓練に励むほかは、クマのように毛皮にくるまりながら、ランプの暗い明かりの下でサイコロをころがすか、火鉢のそばでワインや麦の酒をなめるだけが、唯一の楽しみだった。

 あのアカジカの毛皮は、町の皮なめし屋の手で、上等のマントになってレノスを温めてくれた。その新しい獣くさい匂いを嗅ぐたびに、あの湖でのすばらしい狩りの日を思い出すことができた。

 冬至が訪れ、サトゥルナリア祭の一週間を、砦を挙げてのどんちゃん騒ぎで過ごしたあと、太陽はようやく息を吹き返した。

 雪がきらきらと陽光に光る日、門衛が一通の木簡を持ってきた。子どもが持ってきたが、渡した人は誰だかわからないという。

 そこには、ひとこと。


『妻が身ごもりました。ローマの神々も捨てたものではありません。どうぞ一緒に祝ってください。夏には蛮族の人口がひとり増えます』


 レノスは大声で笑い出した。そして、水で薄めていない、とっておきのワインを開けて、ひとりで乾杯した。「今度、港の神殿に行ったら、石碑を建てなければな」



 不吉の前兆は、冬の終わりに訪れた。

 演習場の一面の雪のあいだから黒々とした地表が顔をのぞかせ、川に張った氷の下から、ちろちろと水の流れる音が聞こえるようになる、待ちわびていた春の訪れ。

 北の砦に、港町から使者が訪れた。冬のあいだ凍りついていた街道も、ようやく行き来ができるようになり、ローマ軍の軍務も徐々に動き始めたのだ。

「ご苦労」

 受け取りの印を返し、使者が司令官室の扉から出ていくと、レノスはふたつに折り合わせた蝋板を開いた。

 文面を三度読み返し、思わずうなり声をあげる。もう少しで蝋板を床にたたきつけるところだった。


 南部ですでに始まっている保護領制度を、島の北部一帯にも広げる。ついては、ダエニ族の若者を百名、クレディン族の若者を五十名、ローマ軍兵士として徴用し、新しい補助軍を設立する。同時に、今までの家畜税、穀物税を三倍に増やす――と。




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