改名革命
良心ってなんだろう? なにが正しいの?
清麻呂はけっきょく何がやりたかったの?
そんなことを考えながら読んでいただければ嬉しいです。
※冒頭から歴史の話をしますが、短いのでそのままお読みください。
769年、「宇佐八幡宮信託事件」がおこる。
概要。(読まなくてもよい)
孝謙天皇の恋人、「道鏡」(←仏教僧)は皇位継承者になることを画策するが、本来であれば天皇家との血筋がなければ継承できない。そこで思いついたのが、神のお告げ。
当時、神の言葉は絶対だとされていたので、宇佐八幡宮の住職と結託し、「道鏡があとを継ぐべきだ」とのお告げがあったと住職に進言させる。
それにより、一度は軌道に乗り始めた作戦も、「和気清麻呂」によって妨害されてしまう。
以降、孝謙天皇は隠居生活を送るわけだが、それでは腹の虫がおさまらなかったので、「和気清麻呂」を「和気汚麻呂」(←正確にはちょっと違う)に改名させたのである。
「めんどくせぇ、回数券(JR等で販売される11枚つづりの切符のこと。10枚分の値段で11枚買えるお得な券である)1枚なくしちまったよ……」
酒井清麻呂は、鏡を見ながらそう呟いた。
むろん、さきほど説明した『和気清麻呂』とは無関係である。
冷酷無情な瞳に、情の厚そうなタラコ唇が、いかにも不釣り合いではあるが、それでようやく均整がとれている。
「あ~あ、そりゃまた残念だな!」
言葉とは裏腹に、嬉しそうな声で、安倍内斗は言った。
小便器に向かって用をたしている最中である。
――駅構内のトイレだ。そこで高校生くらいの青年たちは話をしていた。
「じょうだんマジキツイぜ! これじゃあ片道切符買うのと何にも変わらねーじゃん」
「朝三暮四。――目先の利益に目がくらみ、じっさいは同じであるのに気がつかないこと」
内斗は小指を鼻にツッコミながら、視線を落とし、放尿している。
「いやいや、お得だからね。回数券は」
清麻呂は慌ててフォローを入れた。
ここはJR職員も利用するトイレである。
もし聞かれていたとしても、不問に付されるだろうが、それでもなんだか気まずくなってしまう。だから弁明したのだ。
「だったら豚に真珠ってやつかい?」
「だれが豚だ。クラァ!」
清麻呂は牙をむき出して怒鳴った。内斗はのんきにあくびなどをしている。「最近は体脂肪にも気をつかってて、気疲れしてんだぞ」
「あっそ…………。5963」
「5963じゃねーよ。わかりづらいだろっ! 解説いるだろっ!」
『5963』とは、『ごくろうさん』の意である。要するに語呂あわせだ。
「02か03」
「いやいや、お疲れさんじゃなくて……」内斗の言葉に清麻呂は失笑して、「そういや、失笑って意味知ってる?」
「おもわず噴き出すことだろ? それがどうかした?」
内斗はようやく(!)小便を終え、ファスナーをあげたが、
「いてっ、チンコはさまった」と言って、下半身をもぞもぞさせている。
清麻呂はあきれながらも、
「公共の場で『チンコ』とか言うなよ。せめて『ポコちん』にしろよ。ザギンやシースーっぽく、業界用語でさ」
と、フォローした。
「ポコちんもチンポコもチンポもチンコもいっしょだろ。――っていうか、オフィシャルなところで下ネタ言うの、やめね?」
そうだった。これでは本末転倒ではないか。
自分が言ってどうする。しっかりしろ! 清麻呂。
「ごめんごめん。えーっと、チンコの話だっけ?」
「失笑の話だろ。どうでもいいけどさ」
「そうだった」
清麻呂は表情を引き締め、「失笑ってさ、誤用されること多くない?」
「例えばどんなふうに?」
「ますだおかだの岡田さんみたいに滑った人がいるとするじゃん」
「うん。それで?」
「普通は、しらけるじゃん」
「いや~、わからねーぞ。案外ウケたりして」
「それはいいけど――とにかくっ!」
清麻呂は大きな声で強調し、「だれも笑わなかったとしよう」とトーンを落とした。
「うん……」
内斗は気圧されたように、萎縮した声をしぼり出した。
よほど大きな声だったのだろう、顔がこわばっていた。
怖がっていた。――それはないか。
「そういうシチュエーションでも失笑って使う輩がいるんだよ」
「ふーん、そう」
内斗は早急に手を洗い、便所をあとにしながら、「興味ない」
自動改札前で、清麻呂は逡巡していた。
人通りは決して少ないわけでもないが、立ち止まっていても、邪魔にされることはなかった。
彼は悩んでいた。
――回数券をなくしたというのは、やはり少々痛手だったのだ。これではもとがとれない。
プラマイゼロ! むしろマーイ! というやつだ。
損得勘定は差し引きゼロだが、いろいろとマイナスなのだ。
困った……。
「なあ、ちょっといいか。内斗」
「なんだよ、まだ用事あんのか? バスの時刻差し迫ってんだけど……」
内斗は気色ばんだ表情で質問した。
「ああ。えーと、回数券を使うか、入場券で安くすませるか、思考している最中なんだ」
「かいしゅう券を使いなさい」
「かいしゅう券? なんだそりゃ」
清麻呂はいぶかしむように訊いた。
列車に乗ってるときに回収される券、なのかな。
ってなんだそりゃ。
そんなわけないだろう。
「失礼、回数券でした。ただの誤植でした」
「誤植ってなんだよ。マンガじゃないんだからさ……」
あきれながらも、「回数券はあと2枚しかないんだよ。今日使って、あしたの朝に使うのは良いけど、帰りはどうすんの?」
「片道切符買えばいいだろ!」
「金がめんどい!」
ズバリ、それが心理で真理なのだ。
「だからといって、入場料金しか払わない、無賃乗車犯を見逃すわけにもいかないなぁ」
「まだ乗ってねーし!」
「であれば、さっさと回数券を使ってホームに行けばいい」
「しかし……」
「行きなさい!」
やけに断定的な言い方が多いな。
清麻呂は反感を抱いてしまった。――内斗をうまくだまして、入場券を使って電車に乗ってやろうと画策したのである。
そうすればきっと、彼の屈辱にまみれた顔が拝めるであろう。楽しみだ。
「あのさ、電光掲示板を確認してきて。オレはあしたの片道切符を買っておくからよ」
「おいおい、それはおかしいぜ」
内斗は異論を唱えた。
「今日買った切符の有効期限は、指定がない限りは今日までだぜ!」
「じゃあ、いますぐ使う!」
「見てきてやる!」
内斗がいない間、清麻呂は作戦を遂行していた。
――入場券を購入していたのである。
内斗が戻ってきて、「もうそろっと時間ねーな。オレもバス乗るからこの辺で」
片手をあげて去ろうとする内斗を、清麻呂はひきとめた。
「せめて改札口を通るところくらい、見てってくれよ」
「なんでだよ」
内斗はめんどくさそうに顔をしかめたものの、黙ってついてきた。
清麻呂は切符を通して中に入り、穴のあいた切符を手にとる。――そして勝ち誇ったような顔をして、「目ん玉こすってよく見やがれ! コイツは…………入場券だぜ!」
内斗は刮目していた。どこか驚いたふうにも、哀れんでいるふうにもうかがえる。
清麻呂は前者であると信じて疑わず、それが快感で哄笑しはじめた、のだ――が、どこか顔が引きつっている。無理をしている。
「あはは……。――怒らねーのかよ……」
清麻呂は罵倒されることを覚悟していたので、どこか拍子抜けではあった。
「……むなしいなぁ、と思ってさ。それこそ朝三暮四だぜ! 大きかろうと小さかろうと、犯罪は犯罪だ。『渇しても盗泉の水を飲まず』っていうだろう? どんなに困窮していても不正には手を出さないのが人道的なんだ」
内斗は幼子に、幼児に、語りかけるようにして言った。
お母さんの子守唄のような、安心感のある声だった。とても静かな。
音楽でたとえるなら、バラードだ。やさしくしっとりとしてはいるが、芯が強く、辛辣な言葉。
とくに格下扱い、――年下扱いされたことは、清麻呂の心を深くえぐった。
ろうで固められていた自尊心が溶解していくのを、静かに感じるしかなかった。
「お前の積み重ねてきた善行は、いま現在の悪行によってすべて瓦解した」
そのようなことを言われている気がして、反論できない。
「いまならまだ戻れる」
そうとも考えられるが、清麻呂はプライドをずたずたにされた手前、退くことはかなわぬ夢だった。
もう戻れない。
進むしかない。
「じゃあな汚麻呂。バスが混む前にもう行くわっ!」
内斗はさっさと姿を消してしまった。
「オレも行かなきゃな。2番線だっけ……」
ぼそりと小言を言って、清麻呂は歩き出した。
ただし――、その足取りは鉛のように重いわけでも、後ろめたさに引きずられているわけでもなかった。
いつもどおり、普段どおりの歩調であった。
2番線には、「快速γ4号」(〇〇行き)がすでに入線済みだった。清麻呂は手早く乗りこみ、座席を確保した。
まだ乗客は少ないが、これからずいぶんと増えてくるのだ。さきに確保しておいて損はない。
彼はカバンからウォークマンを取り出し、音楽を流した。
しかし、なにかが、ちがった。
好きな曲をかけているはずなのに、全く気分が高揚しない。それどころか落ち込んでさえくる。
それが良心の呵責によるものなのか、内斗に見下された悔しさによるものなのかはわからない。
――次第に客が増えてきた。
近くの席がどんどんと埋まっていく。
「しゅいましぇ~ん。となりしゅわっても、いいでしゅか~?」
おそろしく滑舌のわるい男性が、通路をふさぐかたちで立っていた。キャリーバッグをひいている。
「きゃりー」といえば、「きゃりーぱみゅぱみゅ」もいっしょに想起されるが、それは置いておいて。
「はいどうぞ」と清麻呂はイヤフォンを外して答えたが、思いなおし、「やっぱりボクはおりますので、窓際のほう、ぜひよろしければ」などと言って、列車から出た。
それからの清麻呂には迷いはなかった。
やるべきことが決まったからだ。
改札口へ行って、入場券を通す。……切符は戻ってこなかった。
それでも走る。走らなければならぬ。
そしてあやまるんだ。
――この口で。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」と。
かたすぎるかな……。
じゃあいいや。
せめて感謝の気持だけでも伝えよう。
「貴様のおかげで、多少は聖者に近づけたぞ」とか。
ふざけているようだが、これでいい。
――清麻呂は内斗の乗っているバスに向かって懺悔したのであった。
ありがとうございました。
アドバイスのほうよろしくお願いします。
小説<山月記:(作)中島敦>をの文章をまるまる参考にして書いた描写も含まれています。良かったら探してみてくださいね。