3 What dreams may come
一人となったブレインは、耳鳴りすら聞こえそうな静寂の中を歩く。
ある建物の前で立ち止まった。首都シェルヴの中でも豪邸と呼んで差し支えない、広々とした庭に囲まれた二階建ての館だ。
二階の一角に目を向けるブレイン。窓から明かりが見えるのを確認し、独りごちる。
「……まだ起きているのか」
ブレインはコートのポケットから何かを取り出した。――それは、真っ黒な革手袋だった。これから家に帰るというこの時に、ブレインは手袋はめる。次いでコートを脱いで畳み、腕にかけた。
庭の石畳を歩き、玄関にたどり着く。扉を開けると、その音に反応して、小さくも慌ただしい足音が階段を下りてくるのが聞こえた。
「お兄ちゃん!」
明るい声を上げた小さな影がブレインの胸元に飛び込む。ブレインは持っていた杖とコートを手放し、その影を受け止めた。十歳を少し過ぎたくらいの幼い少女だった。ブレインと同じ琥珀の瞳を持ち、同様に琥珀のような輝きを放つ、緩やか波打った髪を肩口に流している。
「ただいま、リセラ」
ブレインは少女を見て、珍しく優しげに目を細める。冷徹な彼の表情をほころばせるこの少女の名は、リセラ。ブレインの妹である。
「まだ起きていたのか?」
「今夜は帰ってくるって言ったのにお兄ちゃん遅くて、心配だった。なにか、あったんじゃないかって……」
話しているうちに、待つ間に募った不安がこみ上げてきたのか、リセラは涙ぐんだ。ブレインはその涙を、黒革に包まれた指で拭い、安心させるように微笑みかける。
「リセラが心配するようなことは何もない。何もだ。遅くなってすまなかったね。約束どおり、一緒に寝ようか」
「……うん!」
嬉しそうに返事をし、リセラは兄の手を引いて階段を上がる。そして、自室の扉を開け放ち、幼い少女には広すぎるベッドに潜り込んだ。
ブレインは部屋のランプを消した後、ベッドに入ってリセラの横に並んで寝転び、その胸に手を置く。手袋の革越しに、小さく、速い鼓動を感じた。
兄といられる時間が惜しいのか、明かりが消えてもまだ、リセラに眠ろうとする様子はない。弾んだ声でブレインに話しかける。
「今日はね? 演技の先生に褒められたの。将来の舞台の女王だって。次の公演に出してくれるって」
リセラは通っている劇団での出来事を伝え、褒めてほしいという期待のこもった目をブレインに向けた。
「本当か? さすがは女優の娘だ。母親の才能を受け継いでいるんだな」
「そうなのかな? お母さんの演技、見たことないから、わからない。どんなだったの?」
リセラの質問にブレインは少し言葉を詰まらせた。しかし、すぐに口を開き、母の演技を評する。
「……君のお母さんの演技は……そう、演技に見えなかった。もちろん、良い意味でね。作られた言葉の、表情のはずなのに、心の奥底からのものだと感じてしまうんだ。あの人の娘だ。君もそうなれるさ」
ブレインがそう伝えると、リセラは花開くような笑顔になった。
「うん、私、お母さんみたいになる!」
そう宣言したリセラは、一転して神妙な顔つきになり、ブレインに尋ねる。
「お兄ちゃんはもう、お父さんみたいになれたよね。劇作家さん」
再び言葉に詰まるブレイン。しばしの沈黙の後、ブレインは口を開く。
「……ああ、幸い、俺にも父親の才能が受け継がれたらしい――また新しい物語を書いてるんだ」
「物語? 書いてるの?」
眠気が襲ってきたのか、リセラは夢を見るように視線を虚空に移ろわせた。
「いつか、お兄ちゃんの劇で舞台に立ちたいなぁ……それで、お兄ちゃんに見てもらうの」
「……機会があればな。さぁ、もう時間も遅い。寝ようか」
「うん……わかった」
寝るように促され、リセラはしぶしぶといった様子で頷く。
「お休み、リセラ」
「お休み、お兄ちゃん……」
目を閉じたリセラの胸元を、一定の間隔で優しく叩くブレイン。やはり眠かったのであろう。すぐにリセラの呼吸は落ち着いていき、寝息を立て始めた。
しばらく胸元を優しく叩き、リセラが完全に眠ったことを確認すると、ブレインはそっとベッドから抜け出す。
「俺の劇に出たい、か……それ自体はいつか叶う。だが、それを俺が見届けられるかどうかは、別だ」
そう独りごち、窓の外に目を向けた。戦勝に沸く首都シェルヴ。大通りはいまだに賑わい続けている。きっと朝まで続くのだろう。その光景を見てブレインは呟く。
「敵に銃を向けられている時には、身を蝕む病魔を気にする者はいない。だが、戦争は終わった。外敵が消えた今、次に排除されるべきは、病魔だろう……」
街の灯りから目を逸らし、悲痛な面持ちをリセラに向ける。
「そこにどんな理由があろうと、悪は必ず報いを受ける。A Manは長くはない。この俺もだ」
ベッドのそばに膝をつき、リセラの小さな手を取る。
「……それまでにせめて、この子を」
祈るようにリセラの手を握り、ブレインはベッドの縁にうずくまった。




