13 Out, damned spot!
ブレインはグラスの中の黄金色を、しばらく見つめていた。暖炉の火が揺れ、その光が液面の上で静かに砕けている。やがて彼は小さく息を吐き、口を開いた。
「俺は、名の知れた劇作家の父と、名の知れた女優の母の間に生まれた。はたから見れば、さぞ恵まれた家に見えただろうさ。父は言葉を紡ぐことに長け、母はその言葉に魂を与えることに長けていた。二人はよく似合っていたし、俺もそう思っていた。実際、幼い頃の俺は幸せだったよ」
ブレインはグラスを口元へ運び、一口だけ含んだ。香りを確かめるように目を閉じ、そして続ける。
「十五の年、俺の世界は大きく形を変えた。リセラが生まれたんだ。小さかったが、泣き声だけはやけに立派でね。……俺は嬉しかった。歳が離れている分、兄というより、半分は親のような気分だったのかもしれない。あの子の寝顔を見るだけで、何でもできるような気がした」
そこで言葉を切る。ブレインの目が、ジョンではなく暖炉の火へ向いた。
「……その同じ年だ。母が、舞台の上で父を告発した。涙ながらにな。家庭の中で暴力を受けてきた、名声を盾に従わされてきた、人生を奪われた――と。実に見事な告白だった。あの人は大女優だった。客席も、新聞も、社交界も、皆がその涙を信じた。父は一夜で加害者になり、母は一夜で悲劇の女になった」
ジョンが小さく眉を寄せた。
「それは……虚偽、だったんですね」
「無論だ」
返答に一片の迷いもなかった。
「父は欠点のない人間ではなかったろう。しかし、少なくとも俺と母に手を上げるような男ではなかった。あの人は自尊心が高く、いささか夢見がちなところはあったが、舞台と家族を本気で愛していたよ。……だが、世間はそんなことは知らない。皆が母を信じた。彼女の役者としての力量が、そうさせた」
ブレインは鼻で笑う。乾いた、苦い笑いだった。
「離婚はあっさり成立した。父は何一つ言い返せぬまま、名声も、仕事も、友人も失った。母はというと、すぐに別の男の家へ移ることになった。相手は貴族だった。横暴な夫から彼女を救い出し、添い遂げた貴族――そんな美談がいつの間にか広まっている様は恐怖そのものだったね。あの女はどこまで計算ずくだったのか、と。……その貴族の家に、母はリセラを連れていこうとした。小さな娘には、さすがに愛情があったのかな。きっと父に引き取られるよりは、ずっと良い生活が送れたろうよ」
ブレインの指先が、グラスの脚を僅かに強く握る。
「だが、俺は断った。断固として。……信じられなかったんだよ、あの女を。あの人は父を平然と捨てた。それどころか、人生そのものを壊した。そんな人間にリセラを渡せば、いずれあの子も苦しむかもしれない。そう思った。だから奪った。母からあの子を奪い、そして……あの子が送れたかもしれない、不自由のない暮らしを、奪ったんだ」
ジョンは黙って聞いている。ブレインもまた、誰に言い訳するでもなく、事実だけを並べていく。
「その選択を今でも正しかったと断言はできん。母のもとへやっていれば、少なくとも飢えはしなかっただろう。暖かい部屋も、まともな食事も、教育も与えられたかもしれない。俺は、その可能性を自分の手で切り捨てた。これで俺は、あの子を必ず幸福にする義務を負った。だから思ったよ――どんな手を使ってでも稼がなければならない、と」
暖炉の薪が小さく爆ぜ、その音が部屋に響いた。
「父は離婚後、表から消えた。劇作家としては終わりだ。仕事を失い、日雇いの重労働にしがみつくしかなかった。だが、長く名声の中で生きてきた人間にそれは堪えたのだろうな。次第に酒へ逃げるようになった。最初は夜だけだったものが、昼にもなり、やがて一日中へと変わる。俺も働いたよ。若造の身でできることなど限られていたが、それでも力仕事ならいくらでもあった。……リセラを母に渡さなかったのは俺だ。家計が苦しいのも、父が壊れていくのも、半分は俺のせいだと思っていた。だから、せめて稼がなければならなかった」
そこでブレインは自嘲気味に肩をすくめた。
「だが、人生というものは、そういう殊勝な決意に優しくはない。俺が十六になる直前、徴兵年齢が引き下げられた。十六で戦場へ連れていかれることになったんだ。最悪の時期だったよ。家計は崩れ、父は酒に呑まれ、リセラはまだ幼く、頼れる親類もない。そんな時に俺が抜ければ、家族は終わる。しかし、その程度の危機で、徴兵は逃してくれやしない。大いに迷った。だが、すぐに迷う必要はなくなった――」
ブレインの声が、そこでほんの僅かに低くなる。
「――ある日、燃え盛る我が家と共に、父が死んだ。道はただ一つになった」
ただ一つの道。それに思い至ったジョンは目を閉じた。自らの瞳に宿ったものを、ブレインに見せたくはなかったのだ。
「リセラを置いて徴兵になどいけない。避けなければならない。どんな手を使ってでも……! 最初に、足をへし折ることを思いついた。すぐに却下した。足を折れば働けなくなる。次に思いついたのは前歯を折ることだ。前歯がなければ、紙薬莢を素早く噛み切れないからな。だが、後方に回されれば関係ない。これも却下した。その後も次々に思い付いては却下していった。そしてたどり着いた――徴兵逃れの幇助を請け負う、あの組織に」
「……A Man」
ジョンがその名前を口にした。ブレインは深く頷く。
「そうだ。俺はすぐにA Manに接触した。なけなしの金と、僅かに残ったプライドを差し出し、懇願した。言うまでもないが金は足りなかったよ。しかし、A Manは俺の願いを叶えた。莫大な借金を背負う羽目にはなったが……」
ブレインはグラスを静かに置く。ジョンは黙ってブレインを見ていた。ブレインはその視線を真正面から受け止める。
「晴れて犯罪者となった俺は、すぐに金を稼ぐことに没頭した。妹の暮らしと借金の返済のために。だが、かつてした小さな決意は膨れ上がり、形を変えていった。五年ほどが経ち、俺のコートはいつしか常に血に染まることになった。人の道から外れ続ける日々。俺は……悪魔に成り果てようとしていた」
俯くブレイン。その顔を、黒革に包まれた手が覆った。
「――しかし、俺は、人に引き戻されることになる。ある男の言葉によって」
「ある男……?」
「復讐者だ。俺に大事な人間を奪われ、俺を討とうとした男だ。俺はその男を下し、殺そうとした。その時、彼はこう言った、『その姿が、妹を想う兄の姿か?』と。彼の指が鏡を示し、そして……俺は久方ぶりに、自分の姿を直視した」
黒革の指の隙間から琥珀の瞳が覗き、再び暖炉の火を見た。その炎の中に、かつての自分を見るように。
「血に染まっていたのはコートだけではなかった。俺の顔までもが血にまみれ、そして、そのことに俺は気づいてもいなかった。慣れすぎていた。頬に貼り付く粘ついた感触に。鼻先で香っているはずの血の匂いに。俺は自分の手を見た。もちろん、両手も血塗れだった。それは見慣れていた……しかし、そこで初めて俺は、この手でリセラに触れていたのだという当たり前の事実に気づいた」
ブレインの手が顔を離れ、自身の喉に向かう。
「その時に感じた吐き気が、今も俺の喉に付きまとう……! 穢れなきあの子に、この手で触れていたんだ……! 消えることは、きっとない。俺は後悔に苛まれた。罪を償うべきだと思った。しかし、償うにはあまりにも罪を重ねすぎた。では死ぬか? 何度もよぎった。だが、リセラを、リセラを一人にすることだけはできなかった。ただ一つ、それだけは……!」
黒い指が、ブレインの喉を締めた。細められた喉から引きずり出すように、『それだけは』と連呼する。見かね、ジョンが身を乗り出そうとするのを、首からようやく離れた手が制した。
「ハァ……ハァ……結局俺は、死ねなかった。罪を償うこともできぬまま、ただあの子のために生きてきた。だが今……俺にようやく機会が回ってきた。重ねすぎた業を、ほんの僅かにでも償う機会が……!」
「過激派との、抗争ですか」
「そうだ……しかし、考えてみればこれほど醜い所業もあるまい。自らの贖罪に、同胞の命を使おうというのだから。果たしてこれは贖罪と言えるのか……? 俺が罪の意識から逃れようとしているだけなのではないか……」
再び顔を手で覆い、項垂れるブレイン。しばしの無言の後、ジョンが重々しく口を開いた。
「確かに打算かもしれない。偽善かもしれない。ですが、あなたにもう正しき贖罪の道が残っていないというのなら――良いではありませんか、悪しき善でも。内心が悪だとしても、結果が善ならば、それは人々のためになります。そんな悪なら、僕はお手伝いができる」
ジョンは立ち上がり、ブレインへと手を伸ばした。顔を覆う黒い手をそっと外し、その手を握る。
「さぁ、まずは何をすればいいんですか? 指示をください――参謀」
露わになったブレインの琥珀の瞳が揺れていた。しかし、すぐに片方の手によって覆い直される。
「……はは、すまない。少し、待ってくれ。暖炉の灯りが、眩しくてね――よし」
次に瞳が露わになった時には、すでに普段の硬質さが戻っていた。その瞳で、ブレインはジョンの瞳を真っ直ぐと捉える。
「少々、準備がいる。三日後にまたこの家に来てくれ。そこで、これからのことを話そう」
「三日後ですね? 承知いたしました……では、そろそろお暇させていただきましょう。ワイン、ありがとうございました」
「どうせ倉庫の肥やしになるものだ。欲しければ、いくらでも持っていくといい」
「遠慮します。舌が肥えて、安酒で満足できなくなると困るので……」
二人は揃って応接室を後にした。エントランスに出たところでブレインが上階に声をかける。
「リセラ! ヴェンが帰るから挨拶を」
すぐに小さな足音が駆け下りてきた。
「ヴェン、帰るの? 今度は私とももっと話そうね」
「ああ、そうだね。また三日後に来るよ。お兄さんに用事があるんだ」
「え、三日後?」
リセラは焦ったような声を出す。そして、ジョンとブレインに対して申し訳なさそうな態度を示した。
「あのね……? 三日後に、初めて劇に出してもらえることになったんだ……できれば見に来てほしいんだけど……忙しい?」
いじらしく二人の様子を窺うリセラに、ジョンとブレインは顔を見合わす。
「ヴェン……用事のついでに観劇でもどうかな?」
「言われなければ、僕から言おうと思っていました。もちろんいいですよ」
二人が見に来てくれるとわかり、リセラは花咲くような笑顔になって飛び上がった。
「やった! ありがとう! お兄ちゃん! ヴェン!」




