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虫以下の扱いですが、姫の虫に嫉妬しています

作者: 藤江りこ
掲載日:2026/05/05



「私、虫が一番なんです」



女は俺の横で体を起こすと、白い肩に衣をひっかけた。

何か柑橘のような匂いがする。


「……虫?」


思わず聞き返したが、女は答えず部屋の隅の虫かごへいざり寄る。

髪を耳にかけ、中にいるらしい虫を覗き込む。


……おいおい。


こんな時にまで虫?

いや、好きなのは知ってたけど。

普通こういう時、女ってのはもうちょっとこう……

なんかあるもんじゃないのか?


睦言(ピロートーク)的なやつが。


(さっきまでのはなんだったんだ?)


さっきまでは、確かに俺を見ていた。

じっと、俺だけを見上げていた。

肌にはまだ、柔らかな感触が残ってる。


なのに今、目の前の女は別人のようになって、違う世界にいる。

虫の世界に。


「……」


何も言えず、彼女の小さな耳を眺めた。

俺の視線に気づいて、女は恥ずかしそうに微笑んだ。


「近いうちに羽化しそうです」


薄暗い部屋に、ふいに花が咲いたように見えた。

いや、見間違いだ。

花なんかじゃねぇ。

ただの女だ。変わり者の、虫好きの。



――なのに。



食い入るように虫を見つめる横顔から目を離せない。

どんな言葉も場違いな気がして――


俺はただ言葉もなく、虫を見つめる女の瞳を見ていた。



***



人と違うことはしない。

周りのノリに合わせときゃいい。

そうしてりゃ、上のジジイは納得するし、下のやつらは頼ってくる。


呼ばれたら行く。

断られたら引く。


それだけだ。

考える必要なんてなかった。


あの女に会うまでは、俺は俺だった。




***



「今日は帰ってください」


やって来た俺を見て、女はきっぱり言い切った。


今夜は来る気はなかった。

でも、どうしてだか女の顔がちらついて――。

だから訪ねた。

そしたらこれだ。


「……え?」


よくわからず、思わず間抜けに聞き返す。

女は、深刻な顔つきで説明し出した。


「今夜あたり、羽化するはずなんです」

「羽化――?」


(って蛹から虫が出てくるやつか?)


俺より「羽化」が大事?


それはつまり、えーと……俺は虫以下?

いや、そんなわけあるか。


横で女房が気の毒そうにこちらを見ている。


よせ。そんな顔で見るな。

まるで俺がかわいそうなやつみたいじゃないか。


「しっかり見たいのであなたのお相手はできません」

「姫様!せっかく来てくださったのに……」

「何度言わせるの」


女房が言うのをぴしりと退けた。

どうやら昼間からずっとこの調子だったらしい。


とはいえ、このまますごすご引き下がるのはダサ過ぎる。


「それは……」


思わず口をついたのが失敗だった。

黙って帰ってりゃよかったのに。


「あまりにも冷たい仕打ちじゃありませんか?姫――」


どうにかひねり出した俺の言葉に、彼女は眉を上げた。

こんなぺらっぺらな言葉に、なんの意味もなかったのに。


「どうして――?」

「『どうして』って……」


呆れて言い返そうとしたら――


「だって。私のことは遊びでしょう?」

「あそび……」

「姫様!」


女房が慌てて止めようとする。


「他にも通っておられる方が何人もいらっしゃるでしょう?」


清々しいほど率直だ。

でも、責めるような雰囲気はかけらもない。

ただ心底不思議そうに俺を見ている。


(この女、どうなってんだ?)


「それ、は――」


想定外の言葉にうろたえる。

詰められるとか泣かれるとかは慣れてる。

でもこんな顔してこんなこと言われたことがない。


「私は虫が大事、あなたは他の方が大事。同じでしょう?」

「姫様、もう――」


脇で女房が半泣きになって縋りついている。


(『同じ』……なのか?)


何がどう同じなのか、ちっともわからない。


彼女は虫が大事。

俺は他の女が大事。


うん。ここまではわかる。


ということは……?

彼女にとって「他の女」は俺にとって「虫」ということで――。



なるほど!



俺は虫に嫉妬してる!



って、んなワケあるか!!!



「……」



――俺はひょっとしてバカなのかもしれない。



「姫、話が見えないのですが……」

「どうしてです?」

「では昨夜はなんだったんです?」


畳みかけるように言うと、彼女は一瞬黙って目を伏せて――。

ほんのり頬を赤らめ、ちらっとこちらを向いてから、また目を泳がせる。


(ほら。まんざらでも――)


口をとがらせぼそっと言った。


「人間の交尾に興味があって――」

「ちょ、姫様!」


(は……?今なんて?)


開いた口が塞がらないって、本当にある。初めて知った。



その後どんなふうに邸を出たのか、まったく覚えていない。



***



「ずいぶん久しぶりじゃない?」


もう数年来の付き合いになる馴染みの女は、俺を覗き込んだ。

ぼんやり返事をせずにいると、クスクス笑う。


「誰のこと考えてるんだか」


言いながら胸に顔を擦り付けてくる。


(そうだよな)


普通はこうだろ?

虫だの、羽化だの。

どうかしてる。


なのに、あの顔ばかりが目に浮かぶ。


乱暴に女を抱き寄せると、甘ったるいにおいが鼻につく。

わざとらしい声が耳障りだ。

手触りも温度も、違うことにやけに苛立つ。



――あなたは他の方が大事。――



ふいに彼女の言葉が頭をよぎる。




どうやら俺はバカらしい。



***



「生きてる?」


物忌みにかこつけてゴロゴロしてたら、友人がやってきた。

――狩衣を着崩し、相変わらずチャラい。


「何しに来た?」

「内裏の女どもから」


草花に結ばれたふみをバラバラと取り出した。


「お前が遊ばなくなったって噂になってるけど?」


机の上の書きかけの文に勝手に手を伸ばす。

この男はいつも図々しい。


「おい」


取り戻そうとすると、ひょいと身をかわして文に目をやる。


「……え、マジなの?」


クソダサい書きかけの文から目を上げて、まじまじと俺を見る。

何がそんなに嬉しいんだ。


「うざ」


悪友はニタニタしながら、ヒラヒラと文を弄ぶ。


「なになに、この文の相手?どんな子?」

「ほっとけ」

「あ!あの虫の――ぅぐっ」


腹に肘鉄を喰らわせ、文を取り返した。


うっせぇんだよ。



***



クソダサい文は破り捨てて、数日ぶりに女を訪ねた。

今夜は羽化はないらしい。

女は何事もなかったように俺を迎えた。



「それで?!その虫、何でしたか?」


うっかり子供の頃の虫の思い出話をしたら、目をキラキラさせて食いついてくる。


「わかりません。角が生えてて黒くて固い感じの…」

「あぁ!ツノムシかしら?」

「ツノムシ?って名前なんですか?」

「知らないけど、そう呼んでて。男の子たちに人気です」



男の子たちと虫捕りするおかしな姫がいる――。



そんな噂を耳にしたのがきっかけだ。

友人と一緒にこっそり庭に忍び込み、虫捕りしている姿を見た。


(俺もどうかしてる)


何が気になったかはわからない。

ただ、虫を見ようと髪をかき上げた時に見えた耳と、張り詰めた眼差しがこびりついて――。


「ツノムシも、蛹から出てきますよね」


そんなこと、もちろん俺は知らない。


「知ってますか?蛹の中はドロドロなんです」


女は何もない一点を見据え、つぶやいた。


「溶けて、ぐちゃぐちゃになって――。もう一度生まれ直すんですって」


俺に振り向いて笑った。


「それってどんな感じでしょうね?」

「ぐちゃぐちゃに――」


ぽつりと繰り返した俺の声がかすれる。


「姫は……ぐちゃぐちゃになったこと、ありませんか?」


彼女は不思議そうに俺を覗き込んだ。

今まで向けられたことのないようなまっすぐな視線で――。


(くそ)


ぐちゃぐちゃなのは俺だけだ。



――人間の交尾に興味があって――



俺はただの観察対象じゃないか。


「ぐちゃぐちゃになったこと……?」


彼女は少し考えて、おかしそうに笑った。


「いつもぐちゃぐちゃです」

「――え?」


虫かごを見つめて小さく吐き出す。


「……でも、いいかなって 」


そう言った横顔が頼りなくて。俺は虫かごを押しやり、彼女の手を取った。



***



翌日も訪ねて行くと、彼女はまた虫かごに貼り付いていた。

嫌な予感がする――。


「姫様、お越しですよ」


女房がおずおずと声をかける。

女は俺を見て、いつかのように真剣な顔で言う。


「もうすぐ羽化します」


(げっ)


「青い蝶ですよ」


また追い返されるやつ――。



そう思って身構えると、立ってきて、俺の手を引く。

にっこり笑うと、やっぱり花が咲いた気がした。



「今夜はあなたも一緒に見ましょう」









<完>



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