虫以下の扱いですが、姫の虫に嫉妬しています
「私、虫が一番なんです」
女は俺の横で体を起こすと、白い肩に衣をひっかけた。
何か柑橘のような匂いがする。
「……虫?」
思わず聞き返したが、女は答えず部屋の隅の虫かごへいざり寄る。
髪を耳にかけ、中にいるらしい虫を覗き込む。
……おいおい。
こんな時にまで虫?
いや、好きなのは知ってたけど。
普通こういう時、女ってのはもうちょっとこう……
なんかあるもんじゃないのか?
睦言的なやつが。
(さっきまでのはなんだったんだ?)
さっきまでは、確かに俺を見ていた。
じっと、俺だけを見上げていた。
肌にはまだ、柔らかな感触が残ってる。
なのに今、目の前の女は別人のようになって、違う世界にいる。
虫の世界に。
「……」
何も言えず、彼女の小さな耳を眺めた。
俺の視線に気づいて、女は恥ずかしそうに微笑んだ。
「近いうちに羽化しそうです」
薄暗い部屋に、ふいに花が咲いたように見えた。
いや、見間違いだ。
花なんかじゃねぇ。
ただの女だ。変わり者の、虫好きの。
――なのに。
食い入るように虫を見つめる横顔から目を離せない。
どんな言葉も場違いな気がして――
俺はただ言葉もなく、虫を見つめる女の瞳を見ていた。
***
人と違うことはしない。
周りのノリに合わせときゃいい。
そうしてりゃ、上のジジイは納得するし、下のやつらは頼ってくる。
呼ばれたら行く。
断られたら引く。
それだけだ。
考える必要なんてなかった。
あの女に会うまでは、俺は俺だった。
***
「今日は帰ってください」
やって来た俺を見て、女はきっぱり言い切った。
今夜は来る気はなかった。
でも、どうしてだか女の顔がちらついて――。
だから訪ねた。
そしたらこれだ。
「……え?」
よくわからず、思わず間抜けに聞き返す。
女は、深刻な顔つきで説明し出した。
「今夜あたり、羽化するはずなんです」
「羽化――?」
(って蛹から虫が出てくるやつか?)
俺より「羽化」が大事?
それはつまり、えーと……俺は虫以下?
いや、そんなわけあるか。
横で女房が気の毒そうにこちらを見ている。
よせ。そんな顔で見るな。
まるで俺がかわいそうなやつみたいじゃないか。
「しっかり見たいのであなたのお相手はできません」
「姫様!せっかく来てくださったのに……」
「何度言わせるの」
女房が言うのをぴしりと退けた。
どうやら昼間からずっとこの調子だったらしい。
とはいえ、このまますごすご引き下がるのはダサ過ぎる。
「それは……」
思わず口をついたのが失敗だった。
黙って帰ってりゃよかったのに。
「あまりにも冷たい仕打ちじゃありませんか?姫――」
どうにかひねり出した俺の言葉に、彼女は眉を上げた。
こんなぺらっぺらな言葉に、なんの意味もなかったのに。
「どうして――?」
「『どうして』って……」
呆れて言い返そうとしたら――
「だって。私のことは遊びでしょう?」
「あそび……」
「姫様!」
女房が慌てて止めようとする。
「他にも通っておられる方が何人もいらっしゃるでしょう?」
清々しいほど率直だ。
でも、責めるような雰囲気はかけらもない。
ただ心底不思議そうに俺を見ている。
(この女、どうなってんだ?)
「それ、は――」
想定外の言葉にうろたえる。
詰められるとか泣かれるとかは慣れてる。
でもこんな顔してこんなこと言われたことがない。
「私は虫が大事、あなたは他の方が大事。同じでしょう?」
「姫様、もう――」
脇で女房が半泣きになって縋りついている。
(『同じ』……なのか?)
何がどう同じなのか、ちっともわからない。
彼女は虫が大事。
俺は他の女が大事。
うん。ここまではわかる。
ということは……?
彼女にとって「他の女」は俺にとって「虫」ということで――。
なるほど!
俺は虫に嫉妬してる!
って、んなワケあるか!!!
「……」
――俺はひょっとしてバカなのかもしれない。
「姫、話が見えないのですが……」
「どうしてです?」
「では昨夜はなんだったんです?」
畳みかけるように言うと、彼女は一瞬黙って目を伏せて――。
ほんのり頬を赤らめ、ちらっとこちらを向いてから、また目を泳がせる。
(ほら。まんざらでも――)
口をとがらせぼそっと言った。
「人間の交尾に興味があって――」
「ちょ、姫様!」
(は……?今なんて?)
開いた口が塞がらないって、本当にある。初めて知った。
その後どんなふうに邸を出たのか、まったく覚えていない。
***
「ずいぶん久しぶりじゃない?」
もう数年来の付き合いになる馴染みの女は、俺を覗き込んだ。
ぼんやり返事をせずにいると、クスクス笑う。
「誰のこと考えてるんだか」
言いながら胸に顔を擦り付けてくる。
(そうだよな)
普通はこうだろ?
虫だの、羽化だの。
どうかしてる。
なのに、あの顔ばかりが目に浮かぶ。
乱暴に女を抱き寄せると、甘ったるいにおいが鼻につく。
わざとらしい声が耳障りだ。
手触りも温度も、違うことにやけに苛立つ。
――あなたは他の方が大事。――
ふいに彼女の言葉が頭をよぎる。
どうやら俺はバカらしい。
***
「生きてる?」
物忌みにかこつけてゴロゴロしてたら、友人がやってきた。
――狩衣を着崩し、相変わらずチャラい。
「何しに来た?」
「内裏の女どもから」
草花に結ばれた文をバラバラと取り出した。
「お前が遊ばなくなったって噂になってるけど?」
机の上の書きかけの文に勝手に手を伸ばす。
この男はいつも図々しい。
「おい」
取り戻そうとすると、ひょいと身をかわして文に目をやる。
「……え、マジなの?」
クソダサい書きかけの文から目を上げて、まじまじと俺を見る。
何がそんなに嬉しいんだ。
「うざ」
悪友はニタニタしながら、ヒラヒラと文を弄ぶ。
「なになに、この文の相手?どんな子?」
「ほっとけ」
「あ!あの虫の――ぅぐっ」
腹に肘鉄を喰らわせ、文を取り返した。
うっせぇんだよ。
***
クソダサい文は破り捨てて、数日ぶりに女を訪ねた。
今夜は羽化はないらしい。
女は何事もなかったように俺を迎えた。
「それで?!その虫、何でしたか?」
うっかり子供の頃の虫の思い出話をしたら、目をキラキラさせて食いついてくる。
「わかりません。角が生えてて黒くて固い感じの…」
「あぁ!ツノムシかしら?」
「ツノムシ?って名前なんですか?」
「知らないけど、そう呼んでて。男の子たちに人気です」
男の子たちと虫捕りするおかしな姫がいる――。
そんな噂を耳にしたのがきっかけだ。
友人と一緒にこっそり庭に忍び込み、虫捕りしている姿を見た。
(俺もどうかしてる)
何が気になったかはわからない。
ただ、虫を見ようと髪をかき上げた時に見えた耳と、張り詰めた眼差しがこびりついて――。
「ツノムシも、蛹から出てきますよね」
そんなこと、もちろん俺は知らない。
「知ってますか?蛹の中はドロドロなんです」
女は何もない一点を見据え、つぶやいた。
「溶けて、ぐちゃぐちゃになって――。もう一度生まれ直すんですって」
俺に振り向いて笑った。
「それってどんな感じでしょうね?」
「ぐちゃぐちゃに――」
ぽつりと繰り返した俺の声がかすれる。
「姫は……ぐちゃぐちゃになったこと、ありませんか?」
彼女は不思議そうに俺を覗き込んだ。
今まで向けられたことのないようなまっすぐな視線で――。
(くそ)
ぐちゃぐちゃなのは俺だけだ。
――人間の交尾に興味があって――
俺はただの観察対象じゃないか。
「ぐちゃぐちゃになったこと……?」
彼女は少し考えて、おかしそうに笑った。
「いつもぐちゃぐちゃです」
「――え?」
虫かごを見つめて小さく吐き出す。
「……でも、いいかなって 」
そう言った横顔が頼りなくて。俺は虫かごを押しやり、彼女の手を取った。
***
翌日も訪ねて行くと、彼女はまた虫かごに貼り付いていた。
嫌な予感がする――。
「姫様、お越しですよ」
女房がおずおずと声をかける。
女は俺を見て、いつかのように真剣な顔で言う。
「もうすぐ羽化します」
(げっ)
「青い蝶ですよ」
また追い返されるやつ――。
そう思って身構えると、立ってきて、俺の手を引く。
にっこり笑うと、やっぱり花が咲いた気がした。
「今夜はあなたも一緒に見ましょう」
<完>




