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「お前の声は耳障りだ」と追放された令嬢——彼女の子守唄がなくなった夜、王宮の誰も眠れなくなった

作者: 歩人
掲載日:2026/04/09

 あの娘の歌がなくなってから、王宮の誰も眠れなくなった——。


 そんな噂があることを、セレナ・フォン・リーデルが知ったのは、王宮を追われてから半年ほど経った頃のことだった。




 始まりは、たった一言だった。


「お前の鼻歌が耳障りだ。出ていけ」


 カール王太子殿下は、執務室の書類から目を上げることすらしなかった。

 白磁のティーカップを持ち上げ、一口だけ紅茶を含み、それだけを告げた。まるで「窓を閉めろ」とでも言うように。


 セレナは口をつぐんだ。


 ——また、歌っていたのだ。


 廊下を歩く時。洗濯物を畳む時。花瓶の水を替える時。気がつくと、小さな旋律が唇からこぼれている。前世の記憶が残っているせいだと、セレナは思っていた。

 音楽療法士。

 それが、この世界に生まれ直す前の自分の仕事だった。病棟のベッドの間を歩きながら、眠れない患者のために歌を歌う。そんな毎日を、何年も。

 身体はなくなっても、喉が覚えている。指先が拍子を刻むように、唇が勝手に旋律を紡いでしまう。


「すみません、殿下。また歌ってしまって……」


「聞こえなかったのか。出ていけと言った」


 カール殿下の横顔は、窓から差す午後の光に照らされて、冷たいほど整っていた。あおい瞳が書類の上を滑る。セレナのことなど、もう視界にない。


「……かしこまりました」


 深く頭を下げて、セレナは執務室を出た。

 その足で、侍女長に辞意を伝えた。引き止める者は、いなかった。


 セレナ・フォン・リーデル。男爵家の三女。王太子付き侍女の中では最も位が低く、最も目立たず、最も替えの利く存在。


 ——替えが利く。


 その言葉は、かつても何度か聞いたことがある。音楽療法なんて、BGMをかけておけば同じことだと。お見舞いに来た家族が一曲歌えばいいだろうと。

 だから、驚きはしなかった。

 ただ少しだけ、喉の奥が詰まるような感覚があった。


 荷物は小さな革鞄ひとつに収まった。侍女の制服を畳んで返し、私物の楽譜帳と、あの頃の記憶を頼りに書き溜めた歌詞の束だけを持って、セレナは王宮を出た。


 振り返ることは、しなかった。

 ただ、門を出た瞬間——無意識に、また歌い始めていた。


 風に溶けていく小さな旋律を、誰も聞いていなかった。




 セレナが知らなかったことが、もうひとつあった。


 王宮の夜を、自分がどれほど深く守っていたか。


 侍女として三年間、セレナは王宮のあらゆる場所で歌った。決して大声ではない。聞こうとしなければ聞こえないほどの、小さな鼻歌。

 深夜の廊下を歩きながら。洗濯場でかごを運びながら。庭園の花に水をやりながら。場所が変わるたびに歌も変わった。無意識に——その場にいる人の呼吸に合わせるように、テンポが変わり、音の高さが変わった。

 けれどその旋律は、城の石壁に染み込むように広がっていた。


 厨房の使用人たちは、夜更けまでパン生地をねた翌朝でも、不思議とさわやかに目覚めた。「この城は寝心地が良い」と冗談を言い合っていた。

 夜勤の衛兵たちは、見回りの合間に仮眠を取ると、たった二時間で八時間分の深い眠りを得た。それが当たり前だと思っていた。

 カール王太子ですら、例外ではなかった。執務室で紅茶を飲みながら、遠くから微かに聞こえる鼻歌を——耳障りだと感じていた、その同じ歌声に、夜は安らかに眠らせてもらっていた。

 カールがそれに気づいていたかどうか——セレナには知る由もなかった。ただ、カールの安眠が当たり前のものではなかったと知るのは、もっとずっと後のことになる。


 その全てが、セレナの歌のおかげだったと——誰一人、気づいていなかった。

 セレナ自身を含めて。




 辺境の町ヴァルトブルクに、ノイシュタット療養院はあった。


 石造りの古い建物。壁にはつたが絡み、屋根にはこけが生えている。王都から馬車で八日の距離。男爵令嬢の就職先としては、これ以上ないほど地味な場所だった。

 王都の紹介所で「療養院の助手を募集している」という張り紙を見た時、セレナの足は自然と止まった。辺境であること、報酬が少ないこと、そのどちらもセレナには気にならなかった。むしろ——王都から遠い場所で、静かに歌える毎日が欲しかった。

 馬車を乗り継いで八日。車窓の風景が石畳の街並みから森と畑に変わっていくにつれて、胸の奥にあった重りが少しずつ軽くなっていくのを感じた。途中の宿場町では、馬車を待つ間に宿の裏庭で小さく歌った。宿の女将おかみが窓から顔を出して、「良い声だね、もう少し聴かせておくれ」と笑った。

 王宮を出てから初めて、歌を褒められた。それだけのことが、こんなにも胸に染みるとは思わなかった。


 けれどセレナにとっては、懐かしい匂いがした。

 薬草を煮出した浄水と、干した薬草と、少しだけ甘い蜂蜜茶の匂い。


「セレナさん、でしたね。王都から来られたと」


 療養院の院長アレクシス・フォン・ノイシュタットは、穏やかな人だった。深い茶色の瞳が柔らかく光っていて、薬師の長衣の袖は常に少しだけまくり上がっている。患者に触れることをいとわない人だと、それだけでわかった。


「人手が足りないのは事実です。ただ、ここは王宮とは違います。華やかさはありませんし、報酬も少ない」


「構いません」


「なぜ、ここを?」


 セレナは少し迷った。

 あの頃の記憶があるから、とは言えない。音楽が癒しの力を持つと知っているから、療養院が性に合うのだとも。


「……歌を、歌っていい場所を探していました」


 不思議な答えだと、セレナは自分でも思った。けれどアレクシスは笑わなかった。


「歌を?」


「はい。わたしは、歌うことしかできないので」


 アレクシスは少しの間、セレナを見つめていた。何かを測るような——けれど値踏みするのとは違う、静かな視線だった。


「では、歌ってください」


 そう言って、彼は中庭に面した病室の扉を開けた。




 療養院での最初の日々は、穏やかとは言い難かった。


 辺境の町の人々は、よそ者に——ましてや「王宮を追い出された女」に優しくはなかった。

 薬を配りに行けば、老人が渋い顔で顎をしゃくった。


「王都のお嬢さんが何しに来たんだか。院長先生に取り入るつもりかい」


 包帯を替えようとすれば、壮年の女性が手を引っ込めた。


「あんたの手は冷たいね。王宮で何もしてこなかったんだろう」


 セレナは唇を噛んで、それでも黙って働いた。反論はしなかった。彼らの言葉には、辺境で暮らしてきた人々の、厳しい冬と貧しさを耐え抜いてきた誇りがあった。王都から来た若い娘に何がわかる——その気持ちは、理解できた。


 ただ——夜だけは、セレナの領分だった。


 消灯後、眠れない患者のそばに座り、小さく歌う。

 かつて歌っていた子守唄。異国の歌詞は、この世界の言葉に置き換えた。旋律だけは、そのまま。


 翌朝、慢性の腰痛で夜通しうなっていた老婦人の顔色が違った。十年ぶりに朝まで眠れたのだという。


 戦場の悪夢にさいなまれていた元騎士にも、セレナは歌った。この患者には違う曲を選んだ。穏やかすぎる曲は、静寂を怖がる人にはかえって逆効果だと知っていたから。少しだけ拍子のある、けれど決して激しくない——森を歩くような旋律を、低い声で。

 元騎士は最初、目を閉じなかった。暗闇の中で目を閉じると、戦場の記憶が蘇るからだ。

 セレナは歌いながら、蝋燭のあかりをひとつだけ残した。完全な闇にしない。それが大事だった。

 三日目の夜、元騎士は歌の途中で瞼を閉じた。そのまま、朝まで——悪夢を見ることなく眠った。


「昨夜は久しぶりに朝まで眠れた」


 元騎士は目の下のくまを擦りながら、照れくさそうにそう言った。


 ——ああ、この感覚を知っている。


 患者の顔から強張こわばりが消えていく瞬間。自分の歌が、誰かの夜を守れたと実感する瞬間。

 セレナは嬉しかった。けれど不思議には思わなかった。音楽は人を癒す。それは経験が教えてくれた、確かな事実だ。


 だから——それが「普通ではない」ことに、セレナはまだ気づいていなかった。




 転機は、ある夜に訪れた。


 重症病棟に、もう二ヶ月も目を覚まさない患者がいた。高熱で意識を失った少年で、アレクシスの治療にも反応しない。家族は毎日面会に来ていたが、母親の目には諦めの色がにじみ始めていた。


「もう駄目なんでしょう……」


 母親がそう呟いたのを、セレナは廊下で聞いた。声は震えていたが、涙はもう枯れていた。泣き尽くした人の、乾いた諦めだった。


 セレナはその夜、少年の枕元に座った。

 蝋燭を一本灯し、少年の呼吸に耳を澄ませた。浅く、速い。熱に蝕まれた身体が、眠ることすらできていない。

 意識がないのに眠れていない——それは、身体が回復する力を使い切っているということだった。


 セレナは呼吸を整え、少年の呼吸のリズムに自分の歌を合わせた。最初はその速い呼吸に寄り添うように、短いフレーズを繰り返す。そして少しずつ——ほんの少しずつ、テンポを落としていく。

 呼吸誘導。かつての知識がそう呼んでいた技法だった。歌のリズムに引き込まれて、患者の呼吸が自然とゆっくりになる。

 少年の呼吸が、わずかに深くなった。荒い波が、少しだけなぎに近づいた。

 セレナはそこから、さらに低い音域に移行した。低い声は筋肉の緊張を緩和する。それも経験が教えてくれたことだった。

 蝋燭の灯が揺れた。夜風が窓の隙間から入り込んだのだろう。セレナはそれすら歌に取り込んだ。風の音、虫の声、遠くの川のせせらぎ——世界の音と自分の声を溶け合わせるように。少年を包む空気全体を、ひとつの大きな揺りかごに変えるように。


 歌い終えた後、すぐには何も起こらなかった。

 セレナは少年の額にそっと手を当て、まだ熱いその肌に小さくため息をついて、病室を出た。


 翌朝も、少年は目を覚まさなかった。けれど——アレクシスが検診に訪れた時、呼吸が昨夜より深くなっていることに気づいた。脈も、わずかだが安定していた。

 セレナはその夜も歌った。翌日の夜も。

 三日目の朝、少年の熱がようやく下がり始めた。四日目の夕暮れ——少年が、瞼をゆっくりと開けた。


「ア……レク、シス先生……」


 少年のかすれた声が、静まり返った病棟に響いた。

 知らせを受けて駆けつけた母親は、痩せ細った息子の手を握りしめ、声にならない声で泣いた。何度も何度も少年の名前を呼びながら、その小さな指が動くのを確かめるように。

 少年はまだぼんやりとした目で天井を見ていたが——母親の手の温もりには、微かに指を握り返していた。


 母親は泣きながらセレナのもとへ来た。


「あなたが、毎晩あの子のそばで歌ってくれたんですってね」


「いえ、わたしは歌っていただけで……」


「歌を聴いた、とあの子が言ったんです。暗くて怖い場所にいたけど、歌が聞こえて——そちらへ歩いていったら、温かい光があったと」


 母親の目から、新しい涙が落ちた。今度は諦めの涙ではなかった。


 セレナは言葉を失った。少年は意識がなかったはずだ。それでも——歌は、届いていた。深い闇の中にいた少年のもとまで、毎夜の子守唄が。


 容態を確認し、家族への説明を終えた後——アレクシスはセレナを呼んだ。


 中庭のベンチ。東の空がうっすらと白み始めている。


「セレナさん」


「はい」


「あなたが歌っている時、部屋の空気が変わるんです」


 アレクシスの声は落ち着いていたが、どこか熱を帯びていた。


「最初は気のせいだと思いました。けれど、数えてみたんです。あなたが夜に歌った病室と、そうでない病室の回復速度を」


 セレナは目をまばたいた。


「あなたが歌った病室の患者は、あなたが来る前の記録と比べて、平均して三割早く退院しています。あの少年も——あなたの歌が深い安らぎを与えて、身体が自ら治癒する力を取り戻したのだと、私は考えています」


「力……?」


「おそらく、精霊の加護です」


 精霊の加護。この世界では珍しくない。火を操る者、水を清める者、風を読む者。けれどセレナは、自分にそんなものがあるとは思ってもいなかった。


「安眠の精霊の加護——そう呼ぶのが一番近いと思います。あなたの歌声に、人を深い安らぎへ導く力が宿っている。質の良い眠りは、身体の回復を促す。あの少年も、あなたの歌で毎晩少しずつ安眠を得て、身体が自ら目覚める力を取り戻した——そういうことです」


 セレナは自分の喉に手を当てた。


「……わたしは、ただ歌っているだけです。昔から歌うのが好きで、それだけで……」


「それだけのことが、どれほど稀有けうなことか」


 アレクシスの瞳は真剣だった。

 ふと、彼の表情が柔らかくなった。


「ひとつ、興味深いことに気づきました。あなたが意識して歌う時と、廊下で何気なく口ずさんでいる時とでは——周囲への影響が違う」


「違う、のですか」


「ええ。あなたが無意識に歌っている時のほうが、病室全体に作用する範囲が広い。ただ、意識して歌う時のほうが、特定の患者への効果は深い。あなたの技術——歌い方の工夫が加わるからでしょう」


 セレナは驚いた。無意識のほうが広く、意識的なほうが深い。言われてみれば——王宮では何も考えず口ずさんでいただけで、療養院では患者一人ひとりの症状を見ながら歌い方を変えている。


「ここでは誰も、あなたの歌を耳障りとは言いません」


 不意に、目頭が熱くなった。

 声が、かすかに震えた。王宮を出る時に呑み込んだものが、喉の奥でせり上がってくる。


「すみません……っ」


「謝らないでください」


 アレクシスは何も言わず、長衣のポケットからハンカチを差し出した。それだけだった。それだけで——十分だった。




 療養院での評判は、少しずつ広がっていった。


 夜泣きが止まらない赤子を抱えた母親が隣村から訪ねてきた。長年の不眠に苦しむ商人が遠方からやってきた。セレナはその一人ひとりに歌い、静かな眠りを贈った。


 評判を聞いた領主が、療養院への支援を申し出た。遠方の患者が運ぶ謝礼もあった。療養院は少しずつ大きくなった。新しい助手を雇い、薬草園を広げ、セレナのために小さな音楽室まで作った。

 壁が厚く、音が外に漏れにくい部屋。けれど窓はひとつ開けてあって、中庭に面している。セレナが練習すると、中庭のベンチで日向ぼっこをしている患者たちが、いつの間にかうとうとしていた。


 かつて冷たい目で見ていた老人が、ある朝セレナに声をかけた。


「あんた、うちの孫のところにも来てくれんかね。あの子も夜が怖いらしくてな」


 壮年の女性も、包帯を替えるセレナの手を握って言った。


「あんたの手、温かくなったね」


 セレナは微笑んだ。手の温度は変わっていない。変わったのは——ここに自分の居場所ができたことだった。

 療養院の朝は、患者たちの穏やかな寝息で始まる。昼は薬草園の手入れと、アレクシスの診療の手伝い。そして夜——セレナの時間が来る。

 歌うたびに、少しずつ確信が深まっていった。わたしの歌は、ここで必要とされている。


 穏やかな日々だった。

 セレナの歌が、町の夜を静かに守り始めていた。




 そんな折——王宮から使者が来た。


「セレナ・フォン・リーデル殿。カール王太子殿下の命により、王宮への帰還を命じます」


 使者は若い騎士だった。その目の下には深い隈があり、肌はあお白く、声にも力がない。馬上で何度も意識が遠のきかけたのだろう、鎧の肩当てには泥がこびりつき、旅装は乱れていた。

 まるで、何日も——いや、何ヶ月も眠れていないかのように。


「……王宮で、何があったのですか」


 セレナが尋ねると、騎士は少し躊躇ためらってから、口を開いた。本来なら侍従長が参るべきでしたが、皆が不眠で倒れており……私が代理として参った次第です、と前置きした上で。


「あなた様が去られて一ヶ月ほど経ってから、お近くに仕えていた侍女たちが眠れなくなりました。次に、居室の廊下を警護していた騎士たち——あなた様が深夜に歌いながら通り過ぎていた、あの廊下に面した部屋の者から順に。交代の夜勤で居眠りが相次ぎ、ある夜、衛兵が城壁の階段から転げ落ちました」


 騎士は一度言葉を切り、乾いた唇を舐めた。


「殿下は騎士たちよりも早く限界を迎えられました。元よりお眠りの浅い方でしたので……一月半ひとつきはんで会議の判断を誤ることが増え、外交の場で失言を。宮廷医師が睡眠薬を処方しましたが効かず、魔術師の安眠の術は一時的に意識を落とすだけで、目覚めた後の疲労はむしろ悪化しました。安眠の加護を持つ歌い手も各地に探しましたが、ついに見つかりませんでした」


 セレナの心臓が、小さく跳ねた。


「高名な歌姫に子守唄を奏でさせもしました。技巧は見事でした。けれど——王宮の誰一人、眠りに落ちなかった。半年が経つ頃には、城は……。廊下ですれ違う侍女たちの顔は灰色に近く、騎士たちは訓練中に剣を取り落とし、文官は計算を間違え……。ある侍女が申したのです。『あの娘の歌がなくなってから、眠れなくなった』と」


 ——わたしの歌が。


 アレクシスの言葉がよみがえる。安眠の精霊の加護。歌声に宿る、眠りへ導く力。

 加護は、歌声の近くで繰り返し聴いた者ほど深く浸透していた。だから加護が消えた時も、最も近くにいた侍女たちから順に眠れなくなり、遠くにいた騎士たちには遅れて影響が及んだのだ。


「殿下は仰せです。『あの侍女を呼び戻せ』と」


 騎士は頭を下げた。


 セレナは——一瞬、返答に詰まった。


 広い王宮の廊下が目に浮かんだ。磨き上げられた石床。冷たいティーカップの触れ合う音。そして——夜ごと不眠に蝕まれ、蒼白になっていくであろう侍女たちの顔。

 自分が去ったことで苦しんでいる人がいる。その事実が、胸の奥にちくりと刺さった。

 あの侍女たちは、セレナに冷たくはなかった。ただ——セレナの歌を、気に留めなかっただけだ。洗濯場で一緒に働いた侍女。夜勤の時に蜂蜜茶を分けてくれた侍女。彼女たちが今、眠れずに苦しんでいるのだとしたら。

 ——戻れば、助けられる。


 けれど、とセレナは自分に問いかけた。

 戻ったら、また「耳障りだ」と言われた時——わたしは、歌い続けられるだろうか。

 歌うことを恥じかけたあの感覚が、まだ胸の底に残っている。あの場所に戻れば、もう二度と立ち直れないかもしれない。


 セレナは静かに、首を横に振った。


「申し訳ありません。お断りいたします」


 騎士が顔を上げた。驚きと困惑が入り混じった表情だった。


「しかし、殿下の命令です。王太子殿下が直々に——せめて再考の時間を。明日まででも、お考えを」


「いいえ」


「殿下は、わたしの歌を耳障りだと仰いました」


 セレナの声は穏やかだった。怒りではなかった。恨みでもなかった。ただ、事実を述べているだけだった。


「わたしは、歌うことしかできません。その歌を必要としてくださる方々が、ここにいます」


 使者の背後に、療養院の中庭が広がっている。洗濯物が風に揺れ、薬草の匂いが漂い、どこかの病室から患者の穏やかな寝息が聞こえてくる。


「わたしは、ここにいたいのです」


 騎士は何か言いかけて、やめた。

 深い隈の下の目が、中庭を見回して——少しだけ、うらやましそうな色を浮かべた。この人を無理に連れ帰れば、二度と歌ってもらえなくなるかもしれない。それに、殿下に正確に報告して判断を仰ぐのが騎士の務めだ。そう自分に言い聞かせた。


 ふと、セレナは騎士の顔色に胸が痛んだ。


「騎士様。もしよろしければ——今夜、ここでお休みになりませんか。明日の朝、出発されても遅くはないでしょう」


 騎士は驚いた顔をしたが——やがて、力なく頷いた。


 その夜、セレナは療養院の客室で騎士のために歌った。穏やかな旋律を、ただ静かに。

 騎士は三分で眠りに落ちた。蒼白だった顔から力が抜け、強張っていた肩が沈み、浅く速かった呼吸がゆっくりと深くなっていく。半年ぶりの、深い眠りだった。

 セレナは蝋燭の灯りをひとつ残して、静かに部屋を出た。


 翌朝——騎士の目の下の隈は消えていなかったが、顔色は少しだけ戻っていた。


「……承知しました」


 騎士は深く頭を下げた。それから、顔を上げて言った。


「殿下にはそのようにお伝えいたします」


 去り際、騎士は振り返った。


「セレナ殿。あなたの歌は——耳障りなどではありませんでした」


 騎士の唇が微かに震え、何かを堪えるように一瞬目を伏せた。それから背筋を正し、小さく頭を下げた。


 セレナは微笑んだ。胸の奥が、じんわりと温かくなった。


 騎士が馬に乗り、街道の向こうに消えていくのを、セレナは門の前で見送った。馬上の騎士の背筋は、昨日よりも少しだけ伸びていた。


 背後から、足音。


「断ったんですね」


 アレクシスの声だった。


「はい」


「後悔は?」


「ありません」


 即答だった。自分でも驚くほど、迷いがなかった。


「院長先生」


「はい」


「わたしの歌を——ここで、歌い続けてもいいですか」


 アレクシスは微笑んだ。茶色い瞳が、午後の陽光に温かく光った。


「ずっと聴いていたい」


 それは院長としての言葉だったのか、それとも——。

 セレナは頬が熱くなるのを感じて、慌てて視線を逸らした。




 その夜、セレナは療養院の中庭で歌った。


 月明かりの下、石のベンチに腰かけて。患者たちの病室の窓が少しだけ開いていて、夜風と一緒にセレナの歌が流れ込んでいく。


 この世界の言葉に乗せた、眠りの旋律。


 歌いながら、セレナは思った。


 王宮にいた三年間、わたしは毎日歌っていた。誰かに聞かせるためではなく、ただ——歌わずにはいられなかったから。

 喉が動く。指が拍子を刻む。音楽が人を癒すことを、身体が知っている。


 けれど——それを「耳障りだ」と言われた時、わたしは黙って出ていった。

 反論しなかった。怒りもしなかった。

 ただ少しだけ——歌うことそのものを、恥じかけた。


 あの日、門を出た瞬間に無意識で歌い始めた自分に、わたしは救われたのかもしれない。


 歌い終えた時、中庭にアレクシスが立っていた。

 いつからいたのか、長衣の上に薄手の上着を羽織って、壁に背を預けている。


「……聴いて、いらしたんですか」


「最初から」


 セレナは恥ずかしさでうつむいた。けれどアレクシスは、静かな声で言った。


「王宮で不眠が続いているのは、あなたの歌がなくなったからだ。それは確かでしょう。けれど——」


「けれど?」


「あなたが戻る必要はない。あなたの歌は、あなたのものです」


 涙があふれた。

 こらえなかった。月明かりの中、声を殺して泣くセレナの隣に、アレクシスは黙って座った。


 しばらくして——涙が止まった後、セレナは小さく笑った。


「院長先生」


「アレクシスと呼んでください。もうずっと前から、そう呼んでほしかった」


「……アレクシス様」


「それでもいい」


 セレナは涙の跡をぬぐって、月を見上げた。

 静かな夜だった。虫の音と、遠くのふくろうの声。療養院の窓からは、規則正しい寝息が聞こえてくる。

 その向こう——遥か西の王都では、今夜も誰かが眠れずに天井を見つめているのだろう。けれどセレナの胸に、もう痛みはなかった。あの場所の夜を救うのは、もうわたしの役目ではない。


「殿下に伝言を頼めばよかったと、今思いました」


「伝言?」


「はい」


 セレナは微笑んだ。穏やかで、けれどどこか——芯のある笑みだった。


「耳障りだったのは、わたしの歌ではなく——あなたの良心ですわ、と」


 アレクシスが、小さく目を見開いた。

 そして——穏やかに、笑った。


「セレナさんは、時々とても強いことを仰る」


「そうですか?」


「ええ。とても」


 夜風が中庭を渡り、薬草の葉を揺らした。


 セレナはまた、歌い始めた。

 今度は無意識ではなく——この場所に、この人のそばにいることを選んだ自分のために。


 辺境の療養院の夜は、静かに更けていく。

 病室の窓から漏れる穏やかな寝息。中庭の石畳を照らす月光。薬草園から漂う、かすかに甘い香り。

 この町の人々は、今夜もよく眠れるだろう。

 子守唄は、もう消えない。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 この話の裏設定として、安眠の精霊の加護は「歌い手が無意識であるほど広い範囲に作用する」という性質があります。つまりセレナが王宮で最も強力に加護を振りまいていたのは、誰に聴かせるでもなく、ただ癖で口ずさんでいた時だった。療養院で「自覚して歌う」セレナの加護は、範囲こそ狭いものの、一人ひとりへの効果は深い。前世の音楽療法の技術が組み合わさることで、無自覚の広がりとは違う形で人を救える。そんな構造を込めました。


 もうひとつの裏設定として、加護の効果は「歌声との距離と頻度」に応じて蓄積します。毎晩近くで聴いていた侍女たちには深く浸透し、遠くで時折しか聴かなかった騎士たちには薄い。だから加護が消えた時も、最も近くにいた者から順に眠れなくなった。王宮の不眠が段階的に広がったのは、この蓄積と減衰の構造によるものです。


 書いている最中、一番胸が詰まったのは「歌うことそのものを、恥じかけた」の一文です。得意なこと、好きなこと、自分の一部であるものを「邪魔だ」と言われた時——人はそれを捨てるのではなく、自分ごと否定してしまう。セレナが門を出た瞬間に無意識で歌い始めたのは、彼女の魂が「それでも歌いたい」と叫んだ瞬間だったのだと思います。


 アレクシスの「ずっと聴いていたい」は、院長としての評価なのか、それとも一人の男としての告白なのか——その曖昧さが、短編の余韻になればいいなと思いながら書きました。たぶん、本人も区別がついていません。




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