「お前の声は耳障りだ」と追放された令嬢——彼女の子守唄がなくなった夜、王宮の誰も眠れなくなった
あの娘の歌がなくなってから、王宮の誰も眠れなくなった——。
そんな噂があることを、セレナ・フォン・リーデルが知ったのは、王宮を追われてから半年ほど経った頃のことだった。
始まりは、たった一言だった。
「お前の鼻歌が耳障りだ。出ていけ」
カール王太子殿下は、執務室の書類から目を上げることすらしなかった。
白磁のティーカップを持ち上げ、一口だけ紅茶を含み、それだけを告げた。まるで「窓を閉めろ」とでも言うように。
セレナは口を噤んだ。
——また、歌っていたのだ。
廊下を歩く時。洗濯物を畳む時。花瓶の水を替える時。気がつくと、小さな旋律が唇から零れている。前世の記憶が残っているせいだと、セレナは思っていた。
音楽療法士。
それが、この世界に生まれ直す前の自分の仕事だった。病棟のベッドの間を歩きながら、眠れない患者のために歌を歌う。そんな毎日を、何年も。
身体はなくなっても、喉が覚えている。指先が拍子を刻むように、唇が勝手に旋律を紡いでしまう。
「すみません、殿下。また歌ってしまって……」
「聞こえなかったのか。出ていけと言った」
カール殿下の横顔は、窓から差す午後の光に照らされて、冷たいほど整っていた。碧い瞳が書類の上を滑る。セレナのことなど、もう視界にない。
「……かしこまりました」
深く頭を下げて、セレナは執務室を出た。
その足で、侍女長に辞意を伝えた。引き止める者は、いなかった。
セレナ・フォン・リーデル。男爵家の三女。王太子付き侍女の中では最も位が低く、最も目立たず、最も替えの利く存在。
——替えが利く。
その言葉は、かつても何度か聞いたことがある。音楽療法なんて、BGMをかけておけば同じことだと。お見舞いに来た家族が一曲歌えばいいだろうと。
だから、驚きはしなかった。
ただ少しだけ、喉の奥が詰まるような感覚があった。
荷物は小さな革鞄ひとつに収まった。侍女の制服を畳んで返し、私物の楽譜帳と、あの頃の記憶を頼りに書き溜めた歌詞の束だけを持って、セレナは王宮を出た。
振り返ることは、しなかった。
ただ、門を出た瞬間——無意識に、また歌い始めていた。
風に溶けていく小さな旋律を、誰も聞いていなかった。
セレナが知らなかったことが、もうひとつあった。
王宮の夜を、自分がどれほど深く守っていたか。
侍女として三年間、セレナは王宮のあらゆる場所で歌った。決して大声ではない。聞こうとしなければ聞こえないほどの、小さな鼻歌。
深夜の廊下を歩きながら。洗濯場で籠を運びながら。庭園の花に水をやりながら。場所が変わるたびに歌も変わった。無意識に——その場にいる人の呼吸に合わせるように、テンポが変わり、音の高さが変わった。
けれどその旋律は、城の石壁に染み込むように広がっていた。
厨房の使用人たちは、夜更けまでパン生地を捏ねた翌朝でも、不思議と爽やかに目覚めた。「この城は寝心地が良い」と冗談を言い合っていた。
夜勤の衛兵たちは、見回りの合間に仮眠を取ると、たった二時間で八時間分の深い眠りを得た。それが当たり前だと思っていた。
カール王太子ですら、例外ではなかった。執務室で紅茶を飲みながら、遠くから微かに聞こえる鼻歌を——耳障りだと感じていた、その同じ歌声に、夜は安らかに眠らせてもらっていた。
カールがそれに気づいていたかどうか——セレナには知る由もなかった。ただ、カールの安眠が当たり前のものではなかったと知るのは、もっとずっと後のことになる。
その全てが、セレナの歌のおかげだったと——誰一人、気づいていなかった。
セレナ自身を含めて。
辺境の町ヴァルトブルクに、ノイシュタット療養院はあった。
石造りの古い建物。壁には蔦が絡み、屋根には苔が生えている。王都から馬車で八日の距離。男爵令嬢の就職先としては、これ以上ないほど地味な場所だった。
王都の紹介所で「療養院の助手を募集している」という張り紙を見た時、セレナの足は自然と止まった。辺境であること、報酬が少ないこと、そのどちらもセレナには気にならなかった。むしろ——王都から遠い場所で、静かに歌える毎日が欲しかった。
馬車を乗り継いで八日。車窓の風景が石畳の街並みから森と畑に変わっていくにつれて、胸の奥にあった重りが少しずつ軽くなっていくのを感じた。途中の宿場町では、馬車を待つ間に宿の裏庭で小さく歌った。宿の女将が窓から顔を出して、「良い声だね、もう少し聴かせておくれ」と笑った。
王宮を出てから初めて、歌を褒められた。それだけのことが、こんなにも胸に染みるとは思わなかった。
けれどセレナにとっては、懐かしい匂いがした。
薬草を煮出した浄水と、干した薬草と、少しだけ甘い蜂蜜茶の匂い。
「セレナさん、でしたね。王都から来られたと」
療養院の院長アレクシス・フォン・ノイシュタットは、穏やかな人だった。深い茶色の瞳が柔らかく光っていて、薬師の長衣の袖は常に少しだけ捲り上がっている。患者に触れることを厭わない人だと、それだけでわかった。
「人手が足りないのは事実です。ただ、ここは王宮とは違います。華やかさはありませんし、報酬も少ない」
「構いません」
「なぜ、ここを?」
セレナは少し迷った。
あの頃の記憶があるから、とは言えない。音楽が癒しの力を持つと知っているから、療養院が性に合うのだとも。
「……歌を、歌っていい場所を探していました」
不思議な答えだと、セレナは自分でも思った。けれどアレクシスは笑わなかった。
「歌を?」
「はい。わたしは、歌うことしかできないので」
アレクシスは少しの間、セレナを見つめていた。何かを測るような——けれど値踏みするのとは違う、静かな視線だった。
「では、歌ってください」
そう言って、彼は中庭に面した病室の扉を開けた。
療養院での最初の日々は、穏やかとは言い難かった。
辺境の町の人々は、よそ者に——ましてや「王宮を追い出された女」に優しくはなかった。
薬を配りに行けば、老人が渋い顔で顎をしゃくった。
「王都のお嬢さんが何しに来たんだか。院長先生に取り入るつもりかい」
包帯を替えようとすれば、壮年の女性が手を引っ込めた。
「あんたの手は冷たいね。王宮で何もしてこなかったんだろう」
セレナは唇を噛んで、それでも黙って働いた。反論はしなかった。彼らの言葉には、辺境で暮らしてきた人々の、厳しい冬と貧しさを耐え抜いてきた誇りがあった。王都から来た若い娘に何がわかる——その気持ちは、理解できた。
ただ——夜だけは、セレナの領分だった。
消灯後、眠れない患者のそばに座り、小さく歌う。
かつて歌っていた子守唄。異国の歌詞は、この世界の言葉に置き換えた。旋律だけは、そのまま。
翌朝、慢性の腰痛で夜通し唸っていた老婦人の顔色が違った。十年ぶりに朝まで眠れたのだという。
戦場の悪夢に苛まれていた元騎士にも、セレナは歌った。この患者には違う曲を選んだ。穏やかすぎる曲は、静寂を怖がる人にはかえって逆効果だと知っていたから。少しだけ拍子のある、けれど決して激しくない——森を歩くような旋律を、低い声で。
元騎士は最初、目を閉じなかった。暗闇の中で目を閉じると、戦場の記憶が蘇るからだ。
セレナは歌いながら、蝋燭の灯りをひとつだけ残した。完全な闇にしない。それが大事だった。
三日目の夜、元騎士は歌の途中で瞼を閉じた。そのまま、朝まで——悪夢を見ることなく眠った。
「昨夜は久しぶりに朝まで眠れた」
元騎士は目の下の隈を擦りながら、照れくさそうにそう言った。
——ああ、この感覚を知っている。
患者の顔から強張りが消えていく瞬間。自分の歌が、誰かの夜を守れたと実感する瞬間。
セレナは嬉しかった。けれど不思議には思わなかった。音楽は人を癒す。それは経験が教えてくれた、確かな事実だ。
だから——それが「普通ではない」ことに、セレナはまだ気づいていなかった。
転機は、ある夜に訪れた。
重症病棟に、もう二ヶ月も目を覚まさない患者がいた。高熱で意識を失った少年で、アレクシスの治療にも反応しない。家族は毎日面会に来ていたが、母親の目には諦めの色が滲み始めていた。
「もう駄目なんでしょう……」
母親がそう呟いたのを、セレナは廊下で聞いた。声は震えていたが、涙はもう枯れていた。泣き尽くした人の、乾いた諦めだった。
セレナはその夜、少年の枕元に座った。
蝋燭を一本灯し、少年の呼吸に耳を澄ませた。浅く、速い。熱に蝕まれた身体が、眠ることすらできていない。
意識がないのに眠れていない——それは、身体が回復する力を使い切っているということだった。
セレナは呼吸を整え、少年の呼吸のリズムに自分の歌を合わせた。最初はその速い呼吸に寄り添うように、短いフレーズを繰り返す。そして少しずつ——ほんの少しずつ、テンポを落としていく。
呼吸誘導。かつての知識がそう呼んでいた技法だった。歌のリズムに引き込まれて、患者の呼吸が自然とゆっくりになる。
少年の呼吸が、わずかに深くなった。荒い波が、少しだけ凪に近づいた。
セレナはそこから、さらに低い音域に移行した。低い声は筋肉の緊張を緩和する。それも経験が教えてくれたことだった。
蝋燭の灯が揺れた。夜風が窓の隙間から入り込んだのだろう。セレナはそれすら歌に取り込んだ。風の音、虫の声、遠くの川のせせらぎ——世界の音と自分の声を溶け合わせるように。少年を包む空気全体を、ひとつの大きな揺りかごに変えるように。
歌い終えた後、すぐには何も起こらなかった。
セレナは少年の額にそっと手を当て、まだ熱いその肌に小さくため息をついて、病室を出た。
翌朝も、少年は目を覚まさなかった。けれど——アレクシスが検診に訪れた時、呼吸が昨夜より深くなっていることに気づいた。脈も、わずかだが安定していた。
セレナはその夜も歌った。翌日の夜も。
三日目の朝、少年の熱がようやく下がり始めた。四日目の夕暮れ——少年が、瞼をゆっくりと開けた。
「ア……レク、シス先生……」
少年の掠れた声が、静まり返った病棟に響いた。
知らせを受けて駆けつけた母親は、痩せ細った息子の手を握りしめ、声にならない声で泣いた。何度も何度も少年の名前を呼びながら、その小さな指が動くのを確かめるように。
少年はまだぼんやりとした目で天井を見ていたが——母親の手の温もりには、微かに指を握り返していた。
母親は泣きながらセレナのもとへ来た。
「あなたが、毎晩あの子のそばで歌ってくれたんですってね」
「いえ、わたしは歌っていただけで……」
「歌を聴いた、とあの子が言ったんです。暗くて怖い場所にいたけど、歌が聞こえて——そちらへ歩いていったら、温かい光があったと」
母親の目から、新しい涙が落ちた。今度は諦めの涙ではなかった。
セレナは言葉を失った。少年は意識がなかったはずだ。それでも——歌は、届いていた。深い闇の中にいた少年のもとまで、毎夜の子守唄が。
容態を確認し、家族への説明を終えた後——アレクシスはセレナを呼んだ。
中庭のベンチ。東の空がうっすらと白み始めている。
「セレナさん」
「はい」
「あなたが歌っている時、部屋の空気が変わるんです」
アレクシスの声は落ち着いていたが、どこか熱を帯びていた。
「最初は気のせいだと思いました。けれど、数えてみたんです。あなたが夜に歌った病室と、そうでない病室の回復速度を」
セレナは目を瞬いた。
「あなたが歌った病室の患者は、あなたが来る前の記録と比べて、平均して三割早く退院しています。あの少年も——あなたの歌が深い安らぎを与えて、身体が自ら治癒する力を取り戻したのだと、私は考えています」
「力……?」
「おそらく、精霊の加護です」
精霊の加護。この世界では珍しくない。火を操る者、水を清める者、風を読む者。けれどセレナは、自分にそんなものがあるとは思ってもいなかった。
「安眠の精霊の加護——そう呼ぶのが一番近いと思います。あなたの歌声に、人を深い安らぎへ導く力が宿っている。質の良い眠りは、身体の回復を促す。あの少年も、あなたの歌で毎晩少しずつ安眠を得て、身体が自ら目覚める力を取り戻した——そういうことです」
セレナは自分の喉に手を当てた。
「……わたしは、ただ歌っているだけです。昔から歌うのが好きで、それだけで……」
「それだけのことが、どれほど稀有なことか」
アレクシスの瞳は真剣だった。
ふと、彼の表情が柔らかくなった。
「ひとつ、興味深いことに気づきました。あなたが意識して歌う時と、廊下で何気なく口ずさんでいる時とでは——周囲への影響が違う」
「違う、のですか」
「ええ。あなたが無意識に歌っている時のほうが、病室全体に作用する範囲が広い。ただ、意識して歌う時のほうが、特定の患者への効果は深い。あなたの技術——歌い方の工夫が加わるからでしょう」
セレナは驚いた。無意識のほうが広く、意識的なほうが深い。言われてみれば——王宮では何も考えず口ずさんでいただけで、療養院では患者一人ひとりの症状を見ながら歌い方を変えている。
「ここでは誰も、あなたの歌を耳障りとは言いません」
不意に、目頭が熱くなった。
声が、かすかに震えた。王宮を出る時に呑み込んだものが、喉の奥でせり上がってくる。
「すみません……っ」
「謝らないでください」
アレクシスは何も言わず、長衣のポケットからハンカチを差し出した。それだけだった。それだけで——十分だった。
療養院での評判は、少しずつ広がっていった。
夜泣きが止まらない赤子を抱えた母親が隣村から訪ねてきた。長年の不眠に苦しむ商人が遠方からやってきた。セレナはその一人ひとりに歌い、静かな眠りを贈った。
評判を聞いた領主が、療養院への支援を申し出た。遠方の患者が運ぶ謝礼もあった。療養院は少しずつ大きくなった。新しい助手を雇い、薬草園を広げ、セレナのために小さな音楽室まで作った。
壁が厚く、音が外に漏れにくい部屋。けれど窓はひとつ開けてあって、中庭に面している。セレナが練習すると、中庭のベンチで日向ぼっこをしている患者たちが、いつの間にかうとうとしていた。
かつて冷たい目で見ていた老人が、ある朝セレナに声をかけた。
「あんた、うちの孫のところにも来てくれんかね。あの子も夜が怖いらしくてな」
壮年の女性も、包帯を替えるセレナの手を握って言った。
「あんたの手、温かくなったね」
セレナは微笑んだ。手の温度は変わっていない。変わったのは——ここに自分の居場所ができたことだった。
療養院の朝は、患者たちの穏やかな寝息で始まる。昼は薬草園の手入れと、アレクシスの診療の手伝い。そして夜——セレナの時間が来る。
歌うたびに、少しずつ確信が深まっていった。わたしの歌は、ここで必要とされている。
穏やかな日々だった。
セレナの歌が、町の夜を静かに守り始めていた。
そんな折——王宮から使者が来た。
「セレナ・フォン・リーデル殿。カール王太子殿下の命により、王宮への帰還を命じます」
使者は若い騎士だった。その目の下には深い隈があり、肌は蒼白く、声にも力がない。馬上で何度も意識が遠のきかけたのだろう、鎧の肩当てには泥がこびりつき、旅装は乱れていた。
まるで、何日も——いや、何ヶ月も眠れていないかのように。
「……王宮で、何があったのですか」
セレナが尋ねると、騎士は少し躊躇ってから、口を開いた。本来なら侍従長が参るべきでしたが、皆が不眠で倒れており……私が代理として参った次第です、と前置きした上で。
「あなた様が去られて一ヶ月ほど経ってから、お近くに仕えていた侍女たちが眠れなくなりました。次に、居室の廊下を警護していた騎士たち——あなた様が深夜に歌いながら通り過ぎていた、あの廊下に面した部屋の者から順に。交代の夜勤で居眠りが相次ぎ、ある夜、衛兵が城壁の階段から転げ落ちました」
騎士は一度言葉を切り、乾いた唇を舐めた。
「殿下は騎士たちよりも早く限界を迎えられました。元よりお眠りの浅い方でしたので……一月半で会議の判断を誤ることが増え、外交の場で失言を。宮廷医師が睡眠薬を処方しましたが効かず、魔術師の安眠の術は一時的に意識を落とすだけで、目覚めた後の疲労はむしろ悪化しました。安眠の加護を持つ歌い手も各地に探しましたが、ついに見つかりませんでした」
セレナの心臓が、小さく跳ねた。
「高名な歌姫に子守唄を奏でさせもしました。技巧は見事でした。けれど——王宮の誰一人、眠りに落ちなかった。半年が経つ頃には、城は……。廊下ですれ違う侍女たちの顔は灰色に近く、騎士たちは訓練中に剣を取り落とし、文官は計算を間違え……。ある侍女が申したのです。『あの娘の歌がなくなってから、眠れなくなった』と」
——わたしの歌が。
アレクシスの言葉が蘇る。安眠の精霊の加護。歌声に宿る、眠りへ導く力。
加護は、歌声の近くで繰り返し聴いた者ほど深く浸透していた。だから加護が消えた時も、最も近くにいた侍女たちから順に眠れなくなり、遠くにいた騎士たちには遅れて影響が及んだのだ。
「殿下は仰せです。『あの侍女を呼び戻せ』と」
騎士は頭を下げた。
セレナは——一瞬、返答に詰まった。
広い王宮の廊下が目に浮かんだ。磨き上げられた石床。冷たいティーカップの触れ合う音。そして——夜ごと不眠に蝕まれ、蒼白になっていくであろう侍女たちの顔。
自分が去ったことで苦しんでいる人がいる。その事実が、胸の奥にちくりと刺さった。
あの侍女たちは、セレナに冷たくはなかった。ただ——セレナの歌を、気に留めなかっただけだ。洗濯場で一緒に働いた侍女。夜勤の時に蜂蜜茶を分けてくれた侍女。彼女たちが今、眠れずに苦しんでいるのだとしたら。
——戻れば、助けられる。
けれど、とセレナは自分に問いかけた。
戻ったら、また「耳障りだ」と言われた時——わたしは、歌い続けられるだろうか。
歌うことを恥じかけたあの感覚が、まだ胸の底に残っている。あの場所に戻れば、もう二度と立ち直れないかもしれない。
セレナは静かに、首を横に振った。
「申し訳ありません。お断りいたします」
騎士が顔を上げた。驚きと困惑が入り混じった表情だった。
「しかし、殿下の命令です。王太子殿下が直々に——せめて再考の時間を。明日まででも、お考えを」
「いいえ」
「殿下は、わたしの歌を耳障りだと仰いました」
セレナの声は穏やかだった。怒りではなかった。恨みでもなかった。ただ、事実を述べているだけだった。
「わたしは、歌うことしかできません。その歌を必要としてくださる方々が、ここにいます」
使者の背後に、療養院の中庭が広がっている。洗濯物が風に揺れ、薬草の匂いが漂い、どこかの病室から患者の穏やかな寝息が聞こえてくる。
「わたしは、ここにいたいのです」
騎士は何か言いかけて、やめた。
深い隈の下の目が、中庭を見回して——少しだけ、羨ましそうな色を浮かべた。この人を無理に連れ帰れば、二度と歌ってもらえなくなるかもしれない。それに、殿下に正確に報告して判断を仰ぐのが騎士の務めだ。そう自分に言い聞かせた。
ふと、セレナは騎士の顔色に胸が痛んだ。
「騎士様。もしよろしければ——今夜、ここでお休みになりませんか。明日の朝、出発されても遅くはないでしょう」
騎士は驚いた顔をしたが——やがて、力なく頷いた。
その夜、セレナは療養院の客室で騎士のために歌った。穏やかな旋律を、ただ静かに。
騎士は三分で眠りに落ちた。蒼白だった顔から力が抜け、強張っていた肩が沈み、浅く速かった呼吸がゆっくりと深くなっていく。半年ぶりの、深い眠りだった。
セレナは蝋燭の灯りをひとつ残して、静かに部屋を出た。
翌朝——騎士の目の下の隈は消えていなかったが、顔色は少しだけ戻っていた。
「……承知しました」
騎士は深く頭を下げた。それから、顔を上げて言った。
「殿下にはそのようにお伝えいたします」
去り際、騎士は振り返った。
「セレナ殿。あなたの歌は——耳障りなどではありませんでした」
騎士の唇が微かに震え、何かを堪えるように一瞬目を伏せた。それから背筋を正し、小さく頭を下げた。
セレナは微笑んだ。胸の奥が、じんわりと温かくなった。
騎士が馬に乗り、街道の向こうに消えていくのを、セレナは門の前で見送った。馬上の騎士の背筋は、昨日よりも少しだけ伸びていた。
背後から、足音。
「断ったんですね」
アレクシスの声だった。
「はい」
「後悔は?」
「ありません」
即答だった。自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「院長先生」
「はい」
「わたしの歌を——ここで、歌い続けてもいいですか」
アレクシスは微笑んだ。茶色い瞳が、午後の陽光に温かく光った。
「ずっと聴いていたい」
それは院長としての言葉だったのか、それとも——。
セレナは頬が熱くなるのを感じて、慌てて視線を逸らした。
その夜、セレナは療養院の中庭で歌った。
月明かりの下、石のベンチに腰かけて。患者たちの病室の窓が少しだけ開いていて、夜風と一緒にセレナの歌が流れ込んでいく。
この世界の言葉に乗せた、眠りの旋律。
歌いながら、セレナは思った。
王宮にいた三年間、わたしは毎日歌っていた。誰かに聞かせるためではなく、ただ——歌わずにはいられなかったから。
喉が動く。指が拍子を刻む。音楽が人を癒すことを、身体が知っている。
けれど——それを「耳障りだ」と言われた時、わたしは黙って出ていった。
反論しなかった。怒りもしなかった。
ただ少しだけ——歌うことそのものを、恥じかけた。
あの日、門を出た瞬間に無意識で歌い始めた自分に、わたしは救われたのかもしれない。
歌い終えた時、中庭にアレクシスが立っていた。
いつからいたのか、長衣の上に薄手の上着を羽織って、壁に背を預けている。
「……聴いて、いらしたんですか」
「最初から」
セレナは恥ずかしさで俯いた。けれどアレクシスは、静かな声で言った。
「王宮で不眠が続いているのは、あなたの歌がなくなったからだ。それは確かでしょう。けれど——」
「けれど?」
「あなたが戻る必要はない。あなたの歌は、あなたのものです」
涙が溢れた。
堪えなかった。月明かりの中、声を殺して泣くセレナの隣に、アレクシスは黙って座った。
しばらくして——涙が止まった後、セレナは小さく笑った。
「院長先生」
「アレクシスと呼んでください。もうずっと前から、そう呼んでほしかった」
「……アレクシス様」
「それでもいい」
セレナは涙の跡を拭って、月を見上げた。
静かな夜だった。虫の音と、遠くの梟の声。療養院の窓からは、規則正しい寝息が聞こえてくる。
その向こう——遥か西の王都では、今夜も誰かが眠れずに天井を見つめているのだろう。けれどセレナの胸に、もう痛みはなかった。あの場所の夜を救うのは、もうわたしの役目ではない。
「殿下に伝言を頼めばよかったと、今思いました」
「伝言?」
「はい」
セレナは微笑んだ。穏やかで、けれどどこか——芯のある笑みだった。
「耳障りだったのは、わたしの歌ではなく——あなたの良心ですわ、と」
アレクシスが、小さく目を見開いた。
そして——穏やかに、笑った。
「セレナさんは、時々とても強いことを仰る」
「そうですか?」
「ええ。とても」
夜風が中庭を渡り、薬草の葉を揺らした。
セレナはまた、歌い始めた。
今度は無意識ではなく——この場所に、この人のそばにいることを選んだ自分のために。
辺境の療養院の夜は、静かに更けていく。
病室の窓から漏れる穏やかな寝息。中庭の石畳を照らす月光。薬草園から漂う、かすかに甘い香り。
この町の人々は、今夜もよく眠れるだろう。
子守唄は、もう消えない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話の裏設定として、安眠の精霊の加護は「歌い手が無意識であるほど広い範囲に作用する」という性質があります。つまりセレナが王宮で最も強力に加護を振りまいていたのは、誰に聴かせるでもなく、ただ癖で口ずさんでいた時だった。療養院で「自覚して歌う」セレナの加護は、範囲こそ狭いものの、一人ひとりへの効果は深い。前世の音楽療法の技術が組み合わさることで、無自覚の広がりとは違う形で人を救える。そんな構造を込めました。
もうひとつの裏設定として、加護の効果は「歌声との距離と頻度」に応じて蓄積します。毎晩近くで聴いていた侍女たちには深く浸透し、遠くで時折しか聴かなかった騎士たちには薄い。だから加護が消えた時も、最も近くにいた者から順に眠れなくなった。王宮の不眠が段階的に広がったのは、この蓄積と減衰の構造によるものです。
書いている最中、一番胸が詰まったのは「歌うことそのものを、恥じかけた」の一文です。得意なこと、好きなこと、自分の一部であるものを「邪魔だ」と言われた時——人はそれを捨てるのではなく、自分ごと否定してしまう。セレナが門を出た瞬間に無意識で歌い始めたのは、彼女の魂が「それでも歌いたい」と叫んだ瞬間だったのだと思います。
アレクシスの「ずっと聴いていたい」は、院長としての評価なのか、それとも一人の男としての告白なのか——その曖昧さが、短編の余韻になればいいなと思いながら書きました。たぶん、本人も区別がついていません。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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