第四話:闇の影
「葛西さん、ちょっと話があります」
局長室に呼ばれたのは、いつもの業務を終えた夕方だった。
記憶管理局の局長、藤堂康夫は六十代の初老の男性だ。温厚な人柄だが、今日の表情は硬い。
「何でしょうか」
「異世界で、違法な記憶売買が行われているという報告が上がっています」
藤堂局長は、手元の資料を僕に渡した。
「ここ三ヶ月で、記録にない記憶転写の痕跡が十五件確認されました」
資料には、転写の痕跡が検出された人物のリストが記されていた。
「違法、ということは」
「我々を通さずに、直接記憶を売買している組織がいるということです」
藤堂局長は、深刻な表情で続けた。
「問題は、その内容です。戦闘技術、暗殺術、爆発物の製造方法。明らかに、我々が認可しない種類の記憶が流通しています」
僕は、資料を読み進めた。
確かに、これらは記憶管理局の審査を通るはずがない内容だ。
「葛西さん、あなたに調査をお願いしたい」
「僕が、ですか」
「ええ。あなたは現場を最もよく知っている。異世界での人脈もある」
藤堂局長は、僕を見据えた。
「この違法取引を止めなければ、異世界との記憶流通そのものが危うくなります」
翌日、僕は異世界に転送された。
今回の目的は、違法な記憶売買の実態調査。いつもの「販売業務」とは違う、緊張感がある。
「よう、葛西。今日は販売じゃないんだってな」
ガルドが、いつもの調子で声をかけてきた。
「違法な記憶売買について、調べている」
「ああ、それか」
ガルドは、顔をしかめた。
「最近、妙な連中が増えてるんだ。やたらと戦闘技術を持ってる奴らが」
「詳しく聞かせてくれ」
「一ヶ月前、街の酒場で喧嘩があったんだ。普通の若造が、まるで歴戦の兵士みたいな動きをしてた」
ガルドは、腕を組んだ。
「俺は元傭兵だ。素人と玄人の動きの違いくらいわかる。あいつは、明らかに『誰かの経験』を持ってた」
「その若者は、どこで記憶を買ったと?」
「知らねえ。だが、街の裏通りに怪しい店があるって噂は聞いた」
ガルドは、地図を広げた。
「ここだ。『記憶の館』って看板を出してる」
裏通りは、昼間でも薄暗かった。
狭い路地の奥に、確かに小さな店があった。「記憶の館」という看板が、錆びついた鎖で吊るされている。
僕は、店の中に入った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、中年の男が現れた。痩せた体に、鋭い目つき。
「記憶を、お探しで?」
「ええ」
僕は、慎重に言葉を選んだ。
「戦闘技術の記憶が欲しいんですが」
「ほう」
男は、ニヤリと笑った。
「お客さん、よくわかってるね。そういう記憶は、役所の連中は売ってくれないからね」
男は、奥の棚から小さな箱を取り出した。
「これがうちの商品だ。元傭兵、元兵士、元暗殺者。色々揃ってるよ」
箱の中には、無数の記憶媒体が並んでいた。
「どうやって入手を?」
「それは企業秘密だ」
男は、媒体の一つを取り出した。
「これなんかどうだい?元特殊部隊の記憶だ。ナイフ術、格闘術、暗殺術。一通り入ってる」
「いくらです?」
「金貨五十枚」
それは、正規の記憶転写の十倍の価格だった。
「高いですね」
「価値相応だよ」
男は、媒体を僕の目の前に掲げた。
「役所の記憶は、お綺麗すぎるんだ。『倫理審査』だの『平和利用』だの。馬鹿馬鹿しい」
男の目が、鋭く光った。
「世の中には、汚い記憶を必要とする人間もいるんだよ」
店を出て、僕は考えていた。
男の言葉には、一理ある。
記憶管理局は、確かに厳しい審査基準を設けている。
戦闘技術、暗殺術、犯罪に関わる知識。そういったものは、原則として販売を認めていない。
でも、それは本当に正しいのか。
異世界には異世界の事情がある。
生き延びるために、戦う技術が必要な人もいるだろう。
「考え込んでどうした?」
ガルドの声に、僕は我に返った。
「いや、少し複雑でな」
「そうか」
ガルドは、煙草に火をつけた。
「葛西、お前は真面目すぎるんだ。世の中、白と黒だけじゃねえ」
「それは、わかっている」
「だったら、もっと柔軟に考えろ」
ガルドは、煙を吐き出した。
「違法な記憶売買を全部潰せば、それで万事解決か?そうじゃねえだろ」
「…どういう意味だ」
「需要があるから、供給がある。それだけの話だ」
ガルドは、僕を見た。
「お前らがもっと柔軟に記憶を提供すれば、違法業者なんて必要なくなる」
僕は、何も答えられなかった。
報告書を書きながら、僕は悩んでいた。
違法な記憶売買の実態は把握できた。
だが、それを止めるべきかどうか。
その答えが、まだ出せない。
「葛西さん、大丈夫ですか?」
後輩の声に、僕は顔を上げた。
「ああ、大丈夫だ」
「報告書、進んでいませんね」
「…そうだな」
僕は、ペンを置いた。
記憶は、商品だ。
でも、すべての記憶を商品化していいのか。
その線引きを、誰が決めるのか。
窓の外では、東京の夜景が広がっていた。
どこかで、誰かが記憶を求めている。
合法的な記憶も、違法な記憶も。
僕は、その狭間で悩んでいた。




