第三話:価値の重さ
「医療技術の記憶を売ってほしい」
その依頼が来たのは、エリシアの件から二週間後のことだった。
依頼人は、この都市の医師会に所属する中年男性、ドクター・ハインリヒ。真面目そうな顔立ちで、礼儀正しい態度だった。
「具体的には、どのような医療技術を?」
「外科手術です。特に、腹部の手術に関する記憶が欲しい」
ハインリヒは、手元の資料を見せた。
「この都市では、年間百人以上が腹部の疾患で亡くなっています。私たちの技術では、助けられる命が限られているんです」
資料には、詳細な統計データが記されていた。死亡率、疾患の種類、治療法の限界。
「日本の医療技術なら、もっと多くの命を救えると聞きました」
「確かに、現代日本の外科技術は高度です」
僕は、慎重に言葉を選んだ。
「ですが、医療技術の記憶転写には、特別な審査が必要になります」
「なぜですか?」
「記憶だけでは不十分な分野だからです」
僕は、説明を続けた。
「医療は、知識と経験だけでは成立しません。設備、薬品、衛生管理。様々な要素が必要です」
「それは理解しています」
ハインリヒは、真剣な表情で答えた。
「私たちは、この三年間、日本の医療書を取り寄せて研究してきました。薬草を使った代替医療も開発しています。あとは、実際の手術経験だけが足りないんです」
彼の目には、強い意志があった。
「お願いします。一人でも多くの命を救いたいんです」
僕は、記憶管理局の医療部門に相談した。
「ハインリヒ医師の依頼ですね。資料は読みました」
応対してくれたのは、医療記憶の審査を担当する山岸主任だった。
「彼の要望は理解できます。ですが、問題があります」
「何でしょうか」
「記憶提供者の選定です」
山岸主任は、モニターに候補者のリストを表示した。
「現代の外科医は、高度な医療機器に依存しています。CT、MRI、内視鏡。そういった機器がない環境では、記憶があっても再現できません」
「では」
「より原始的な…いえ、基礎的な技術を持つ外科医の記憶が必要です」
山岸主任は、一人の医師の写真を表示した。
「橋本誠一郎医師。七十二歳。かつて国境なき医師団に所属し、アフリカや中東の紛争地帯で医療活動を行っていました」
写真の中の医師は、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「橋本医師は、医療機器がほとんどない環境で、無数の命を救ってきました。彼の記憶なら、異世界でも応用可能でしょう」
「わかりました。橋本医師に連絡を取ります」
橋本医師との面談は、東京都内の彼の自宅で行われた。
「記憶の提供、ですか」
橋本医師は、お茶を淹れながら穏やかに笑った。
「面白い時代になりましたね。自分の経験が、異世界の医療に役立つなんて」
「ご協力いただけますか?」
「もちろんです。ただ…」
橋本医師は、少し真剣な表情になった。
「私の記憶には、多くの『失敗』も含まれています。助けられなかった患者。間違った判断。そういうものも、全て転写されます」
「それは、むしろ重要です」
僕は、正直に答えた。
「成功だけの記憶では、リスク管理ができません。失敗から学ぶことの方が、多いこともあります」
「そうですか」
橋本医師は、窓の外を見た。
「私がアフリカで学んだのは、『完璧な医療』ではなく、『その場でできる最善』でした。限られた資源で、どう命を救うか」
彼は、僕を見た。
「それを、異世界の医師も学んでくれるなら、私の経験も無駄ではなかったということですね」
二週間後、ハインリヒ医師への記憶転写が行われた。
橋本誠一郎、四十年の医療経験。
その全てが、ハインリヒの中に流れ込む。
転写は、通常より長い十分間を要した。
ハインリヒが目を開けた時、彼の顔は蒼白だった。
「大丈夫ですか?」
「…ええ」
ハインリヒは、震える声で答えた。
「ただ、あまりにも…多くのものを見てしまいました」
彼は、自分の手を見つめている。
「戦場で、爆撃で、飢餓で。無数の人々が死んでいく。その中で、必死に命を繋ごうとする橋本医師の姿を」
ハインリヒの目には、涙が浮かんでいた。
「私は、医師として甘かった。清潔な病院で、整った設備で治療することしか考えていなかった」
「いいえ」
僕は、静かに言った。
「環境が違えば、医療のあり方も違います。あなたの医療が間違っていたわけではありません」
「でも、橋本医師は…」
「橋本医師の経験を、あなたの環境で活かせばいいんです」
ハインリヒは、ゆっくりと頷いた。
「そうですね。この記憶を、無駄にはしません」
一ヶ月後、ハインリヒから報告があった。
「三件の腹部手術を成功させました」
彼の声は、明るかった。
「橋本医師の記憶のおかげです。特に、限られた器具での止血技術が役立ちました」
「それは良かったです」
「ただ」
ハインリヒは、少し言いにくそうに続けた。
「一件、失敗もありました」
「…そうですか」
「患者は助かりませんでした。私の判断ミスです」
ハインリヒの声には、悔恨があった。
「でも、橋本医師の記憶の中にも、同じような失敗がありました。それを思い出して、何が悪かったのか、どうすれば良かったのか、考えることができました」
「記憶は、成功だけではありません」
僕は、橋本医師の言葉を思い出していた。
「失敗から学ぶことも、医療の一部です」
「ええ。だから、私は続けます」
ハインリヒは、力強く言った。
「一人でも多くの命を救うために」
報告書を書きながら、僕は考えていた。
医療技術の記憶。
それは、知識だけでなく、生と死の重みも含んでいる。
橋本医師の四十年。
そこには、救えた命も、救えなかった命もある。
その全てが、今、ハインリヒの中で生きている。
記憶は、単なる情報ではない。
人の人生そのものだ。
それを売買するということの重み。
僕は、改めて感じていた。
「葛西さん、次の転送時間です」
後輩の声に、僕は我に返った。
「ああ、わかった」
僕は立ち上がり、転送室に向かった。
今日も、誰かの記憶を届ける。
それが、僕の仕事だ。
記憶管理局の窓から、東京の夕暮れが見えた。
ビルの向こうに、小さく富士山のシルエットが見える。
ふと、異世界の空を思い出した。
あちらでも、今頃、誰かが懸命に生きているのだろう。
僕が届けた記憶を胸に。
「行くか」
僕は、転送室のドアを開けた。




