第二話:織りなす誇り
「織物の記憶を購入したいのですが」
記憶管理局の応接室で、僕は目の前の女性を観察していた。
エリシア・フォン・ブルーメンタール。自己紹介した時の名前から察するに、貴族の令嬢だろう。年齢は十八歳くらいか。整った顔立ちだが、どこか疲れたような影がある。
「織物、ですか」
「ええ。具体的には、絹織物の技術です」
彼女は背筋を伸ばしたまま、僕を見据えた。
「我が家は代々、この地方で最高品質の織物を生産してきました。しかし、十年前に父が亡くなってから、技術が衰退してしまって」
「お母様は?」
「母も五年前に。今は私と、年老いた職人が数名いるだけです」
エリシアの声には、わずかな震えがあった。
「このままでは、ブルーメンタール家の織物は消えてしまいます。それだけは…絶対に避けなければなりません」
僕は、彼女の手元を見た。白い手袋をしているが、その下に小さな傷跡がいくつも見える。
「あなた自身も、織物を?」
「ええ。ですが、見様見真似では限界があります。だから…」
エリシアは、僕を真っ直ぐ見つめた。
「私に、本物の職人の記憶をください」
記憶の選定には、時間がかかった。
日本国内で提携している織物職人は十数名いる。その中から、エリシアの要望に最も適した記憶を選ぶ必要がある。
「西陣織の職人、田中絹江さんの記憶はいかがでしょう」
僕は、候補の一つを提示した。
「彼女は六十年のキャリアを持つ伝統工芸士です。特に、絹の扱いに長けています」
エリシアは、資料を真剣に読んでいた。
「この方の作品を見ることはできますか?」
「もちろんです」
僕は、タブレット端末で田中さんの作品画像を表示した。
繊細な文様。深みのある色彩。一目で分かる、圧倒的な技術力。
エリシアの目が、わずかに見開かれた。
「…美しい」
彼女は、画面に見入っている。
「こんな織物を、私も作りたい」
その声には、切実さがあった。
「わかりました。では、田中絹江さんの記憶で手配します。転写の準備に三日ほどかかりますが」
「待ちます」
エリシアは、きっぱりと答えた。
「三日どころか、三ヶ月でも待ちます。これは、私の家にとって最後の機会なのですから」
三日後、エリシアは約束通り現れた。
記憶転写室で、僕は彼女の額に装置を当てた。
「では、始めます。転写中は、様々な感覚が流れ込んできますが、驚かないでください」
「わかりました」
エリシアは目を閉じた。
僕がスイッチを入れると、装置が作動し始めた。
田中絹江、六十年の織物人生。
それが、これから彼女の中に流れ込む。
最初の一分間、エリシアの表情に変化はなかった。
だが、二分を過ぎた頃から、彼女の顔に様々な感情が浮かんでは消えていく。
驚き、困惑、そして…感動。
五分後、転写が完了した。
エリシアはゆっくりと目を開けた。その瞳には、涙が浮かんでいた。
「見えました…感じました」
彼女は、自分の手を見つめている。
「糸の重さ。織機の音。絹の手触り。すべてが…すべてが、私の中にあります」
「ただし、忘れないでください。それはまだ——」
「記憶ですね。わかっています」
エリシアは、涙を拭いて立ち上がった。
「これから、この記憶を本物の技術にします。必ず」
彼女の目には、強い決意があった。
それから一ヶ月後。
僕は、エリシアからの連絡を受けて、彼女の工房を訪れた。
「よく来てくださいました、葛西さん」
エリシアは、以前より明るい表情で僕を迎えた。
工房の中では、数名の職人が織機に向かっている。以前よりも活気があるように感じられた。
「これを見てください」
エリシアが差し出したのは、淡い青色の絹織物だった。
繊細な波の文様。均一な織り目。確かな技術が感じられる。
「…素晴らしいですね」
「田中さんの記憶のおかげです」
エリシアは、織物を愛おしそうに撫でた。
「最初は、記憶と実際の体の動きが一致しなくて苦労しました。頭ではわかっているのに、手が追いつかない」
「それは誰でも通る道です」
「でも、諦めませんでした。毎日毎日、記憶を反芻しながら練習しました。そして、ようやく…」
エリシアは、僕を見た。
「ようやく、記憶が私の技術になったんです」
彼女の手には、小さな傷が増えていた。
だが、その目は以前とは違う。自信と誇りに満ちていた。
「葛西さん、本当にありがとうございました」
「いえ、技術を形にしたのはあなたです」
僕は、正直な感想を述べた。
「記憶は、あくまでスタートラインです。そこから先は、本人の努力次第。あなたは、それをやり遂げた」
エリシアは、少し照れたように微笑んだ。
「でも、正しい道を示してくれたのは、あなたです」
工房の窓から、午後の日差しが差し込んでいた。
織機の音が、静かに響いている。
記憶は、確かに人を変える。
でも、それを形にするのは、やはり人なのだ。
工房を出る時、エリシアが声をかけてきた。
「葛西さん、一つ聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「あなたは、なぜこの仕事を?」
予想外の質問だった。
「記憶を売る、なんて仕事。普通じゃありませんよね。どうしてこの仕事を選んだんですか?」
僕は、少し考えてから答えた。
「…特別な理由はありません。たまたま配属されただけです」
「そうなんですか」
エリシアは、意外そうな顔をした。
「てっきり、何か強い動機があるのかと」
「期待に添えず、すみません」
僕は苦笑した。
「僕は、ただの公務員です。与えられた仕事を、淡々とこなしているだけで」
「でも」
エリシアは、真剣な表情で言った。
「あなたの選んだ記憶は、私の人生を変えました。それは、ただの仕事以上のものだと思います」
僕は、何も答えられなかった。
「また来てください。次は、もっと素晴らしい織物をお見せします」
エリシアは、そう言って笑った。
工房を後にして、転送ポイントに向かう道すがら、僕はエリシアの言葉を反芻していた。
「人生を変えた」か。
そんな大げさなものだろうか。
僕はただ、記憶を提供しただけだ。
それを活かしたのは、エリシアの努力だ。
でも。
もしかしたら、僕の仕事も。
ただの「商品の販売」以上の何かなのかもしれない。
そんなことを、少しだけ考えた。
異世界の空は、どこまでも青かった。




