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ツェリルは祭壇の前で跪いていた。
向かい合う前にはヤッフェが立っている。
いつものように背筋を伸ばし、毅然とした表情で自分を見つめてくるヤッフェの言葉を、ツェリルは緊張して待った。
ドゥラコンと、本当の意味で身も心も結ばれた翌日、ツェリルは改めてヤッフェに聖女の辞退を申し出た。
そしてその時、自分がドゥラコンに恋をしてしまったことも正直に告白した。
好きになってしまったのは自分から。
神を裏切ってしまったのも自分が望んだから。
ツェリルの言葉を最後まで聞いてくれたヤッフェの決断をこうして待っている間も、ツェリルは十年もの間導き、育ててくれたヤッフェに感謝をしていた。
「ツェリル」
「……はい」
どのくらい経っただろうか。
ヤッフェに名前を呼ばれ、ツェリルは緊張して顔を上げる。
「お前は、十年前に初めてここに来た時と少しも変わらないな」
「ヤッフェさま?」
「真っ直ぐに私を見てくる。
思えばその目に、私はバラッハ帝国の未来を見たのだった」
そうだとしたら、自分はヤッフェの大きな期待を裏切ってしまったのだ。
申し訳なくて、だが、どうしたらいいのかもわからなくて、ツェリルは組んだ指に力を込める。
「さて、お前の処遇だが」
いよいよ、処罰を与えられるのだ。
緊張して頬が引き攣りそうになった時、いきなり扉が開かれた。
その音に慌てて振り向くと、不敵に笑うドゥラコンがずかずかと入り込んでくる。
今回のことは自分だけの問題だと、今日のことをドゥラコンに言っていなかったツェリルは、突然現れたその姿に本当に驚いた。
「ツェリル」
ドゥラコンはツェリルの側まで歩み寄ると、側に片膝をつく。
中に入って自分しか見ない男に、困惑以上に気恥ずかしく思っている自分がいて動揺してしまった。
「どうしてここに……っ」
「お前は俺のものだからな。
お前の問題に俺が出てくるのは当たり前だ」
「な、何を言うっ」
祭壇の前で堂々と関係を口にしたドゥラコンは、そこでようやくヤッフェを見る。
「ヤッフェ殿、ツェリルだけを責めるな」
「ドゥラコン殿っ」
「ドゥラコン、だろう」
呼び方など今は関係ない。
ヤッフェは聖女として公正な立場でツェリルを罰しようとしているだけなのだ。
恋という感情のために、与えられた責任から逃げようとしている自分が悪い。
それに、こんなふうにヤッフェを非難したら、せっかく次期皇帝となったドゥラコンの立場が悪くなってしまうのではないか。
ツェリルはとっさにドゥラコンの前に立ち塞がった。
「悪いのは私だけですっ。
ヤッフェさまっ、どうか私だけを罰してください!」
何とかこの思いだけでも聞き届けて欲しいと必死で訴えると、ヤッフェはなぜかにんまりと口元を緩めた。
「誤解しているな」
「……え?」
「私がいつ、お前が聖女失格だと言った?」
「だ……だって、私はドゥラコン殿と……」
「それでも、お前は神託を受けただろう?」
「あ……」
確かに、初めてドゥラコンに抱かれた後、ツェリルはもう一度あの祭壇裏の秘密の部屋に入り、水瓶を覗いた。
その水鏡に腰に痣のある男の後ろ姿が映っているのを、ツェリルはその時もちゃんと見ることができた。
そのおかげで、ツェリルはまだ自分に聖女としての力が残っていたのだと安心したくらいだ。
(で、でも……)
普通、聖女という存在は清純無垢なのではないか。
男の身体を知り、ただ一人を愛してしまった自分に、もはや聖女の資格はないとツェリルは思い込んでいた。
「修行中は色恋にうつつをぬかすなって!」
「修業中の身では当たり前だろう。
だが、恋をすることが悪いとも、性交が禁止だと言った覚えもない」
「ばあばさまー」
確かに思い返せばそうだった気もするが、それなら今まで思い悩んでいた自分はいったい何なのかと落ち込む。
「私だとて、引く手あまたな身だった。
先々の皇帝や近隣の王にも望まれたぞ」
突然のヤッフェの告白に、ツェリルは声も出ない。
「はるか昔、初めて神託を受けたのは皇帝の妃だった」
「妃?」
「そうだ。
それから代々、皇帝の妃が神託を受け続けたが、やがて神の声を聞くことだけに集中したいという者が現れ、妃と聖女という存在が分かれた」
初めて聞く話だった。
勉強のために読んだ文献にも、そんな話は書かれていなかったはずだ。
「これはバラッハ帝国の秘中の秘の話だ。
代々の聖女に口述で伝えられている」
「それならば、ツェリルが俺の妃になることに何の問題もないな?」
側で聞いていたドゥラコンは声にも喜びを滲ませ、あろうことかツェリルの身体を抱きしめて頬に唇を寄せてくる。
ヤッフェの前で何をするのかととっさに手を上げてしまったツェリルのそれは、小気味良い音を立ててドゥラコンの頬を打っていた。
「私はまだっ、妃になるとは言っていない!」
ドゥラコンに恋したことを伝え、側にいることを約束したが、だからと言って結婚を承諾した覚えはない。
元は平民の出身の自分が皇后になるなんて、容易に覚悟ができるはずがなかった。
「何だ、まだ承諾を得ていなかったのか」
呆れたようにヤッフェがドゥラコンに向かって言えば、少し憮然とした口調でドゥラコンが答える。
「もう得たのも同然だ」
「……どうかな。
私の育てた娘はなかなかに手強いぞ」
「……わかっている」
ツェリルを置いて、まるで祖母と孫の喧嘩のように言い合いを続けている二人を見ているうち、ツェリルの頬にも自然と笑みが浮かんだ。
同じようにではなく、ドゥラコンとバラッハ帝国の民、それぞれをそれぞれの思いで思えばいい。
身勝手だと思っていたことをそのまま受け入れてもらえるのだと思うと本当に嬉しくて、ツェリルはまだ言い合いを続けている二人の向こうにいる神に向かって祈った。




