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とっさに伸ばしたツェリルの手は、最後まで麻布を握っていた方の手首を掴む。
だが、焦ったせいでツェリル自身身体の均衡が取れず、子供に引きずられるようにして濁流の中に落ちてしまった。
(誰か……っ!)
恐ろしいほどの勢いの水が、ツェリルと子供の身体を一気に下流へと持っていく。
この川で幼い頃何度も泳いだはずなのに、まったく身体が動かない。
とにかく必死で、子供から手を離さないようにするのが精一杯の状態の中、
「ツェリルっ!」
ツェリルの名を叫ぶように呼ぶ声が微かに届いた気がした。
それは、助かりたいという自分の心が聞こえさせる幻聴かもしれない。
それで必死にツェリルは助かるためにもがき、抱き上げている子供と共に濁流の中に沈んでしまわないように必死に泳ごうとする。
何度か口の中に水が入ってきて嘔吐しそうになっても、諦めたりしなかった。
「ツェリル!」
そんな中、再び名前を呼ばれた。
今度は幻聴ではない証拠に、次の瞬間痛いほど強く腕を掴まれる。
「ドゥ、ドゥラコン、殿っ?」
「このじゃじゃ馬めっ!」
怒ったような、それでいて愛情のこもった声が耳元でして、今度は懐を抱かれた。
「そいつを離すなよっ!」
「はいっ!」
子供を抱いた状態のツェリルはこんな濁流の中でかなりの重量になっているだろうに、一度ツェリルを抱きしめたドゥラコンの腕はビクともしなかった。
ドゥラコンが来てくれたことに安心したせいか、ツェリルはようやく周りを見る余裕も出てくる。
すると、こちら側に真っ直ぐ伸びている長い綱が目に入った。
(……っ、これで?)
何の策も講じず、無防備に子供を助けに行った自分とは違い、ドゥラコンはちゃんと命綱をつけて飛び込んできたらしい。
案の定、濁流に流されているはずの身体が徐々に土嚢の側へと寄せられていく。
そして、間もなく濁流から引き揚げられたツェリルは、途端に飲んでしまった泥水を吐き出してしまった。
そうしながら振り向いた濁流は、恐ろしいほどの速さで流れている。
あのまま流されていたら、確実に自分は死んでいた。
改めて恐怖が襲ってきて、身体が震えてしまった。
「馬鹿っ!」
「……」
「どうしてあんな無茶をしたっ?」
「……」
「ツェリルっ」
「……」
「おいっ、大丈夫かっ?」
「……ドゥラコン、殿」
何度も名を呼ぶドゥラコンを見上げると、不思議と震えは収まってくる。
「あ、ありがとう、ございました」
何とか礼を口にすれば、一瞬苦しげに眉を顰めたドゥラコンに次の瞬間強く抱きしめられていた。
「馬鹿が……っ。
俺がどんなにっ」
「……っ」
呻くような言葉は最後まで発せられなかったが、抱きしめてくる腕の強さでどれだけ心配をかけてしまったのかが良くわかる。
ツェリルも、おずおずと伸ばした手でドゥラコンの背中を抱きしめた。
(……熱い)
命綱をつけていたとはいえ、あの濁流の中をツェリルと子供を救うために自ら飛び込んでくれたドゥラコン。
その優しさと勇気に、ツェリルは自分の体温が上昇するのがわかった。
(私は……)
いや、それだけではない。
唐突に気づいてしまったのだ、自分の中にある想いに。
以前、女官たちとの会話の中で、自分はアリイェのことが好きなのかもしれないと思ったことがあった。
あの時は自分の知る男の中で誰よりも信頼でき、尊敬できる相手だからと思っていた。
しかし、あの時の自分の気持ちが恋心でなかったと今ならわかる。
優しくて、穏やかなアリイェに対する思いは親愛だ。
意見がぶつかり合って、怒って、心がかき乱されて。
それでも目が離せず、気づけばその相手のことばかり考えて。
自分で自分の感情が制御できないこの思いこそ、恋だ。
身体から始まったと思うのはいたたまれないが、それでも確かに生まれていた愛情。
(好き……)
まさか、自分がこんな感情を持つなんて考えもしなかった。
その上、相手は未来の皇帝だ。
聖女としては当然、そうでなくても、けして想いが叶うことのない相手。
(ちゃんと、指名しなければ)
王都に戻った時、きちんとヤッフェに報告するのだ。
それが、自分の聖女として最初で最後の仕事になると、ツェリルは漠然と考えていた。




