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七歳の時、馬車で故郷のアルシェクから王都に着くまで、五日ほどかかった。
迎えに来てくれたアリイェは初めて故郷から外に出るツェリルを気遣い、各地を見物させてくれるようなゆっくりとした旅路だった。
しかし、今のツェリルにそんな余裕はない。
一刻も早くアルシェクに着くため、雨の中馬を走らせ続けている。
神殿の敷地内で一通りの乗馬は習ったが、もちろん遠乗りできるほどの腕ではない。
多分、無茶苦茶な走りだ。
勢いだけで突っ走っている自覚はあったが、今のツェリルにはどんな行動ももどかしいものでしかなかった。
ただ、気は急くものの、身体は簡単に順応するものではなく、尻を打つ痛みや股の擦れに泣きそうになる日々だった。
それでも、ツェリルはできるだけ休みなど取りたくなかったが、同行したナメルが野宿は許してくれず、しかたなく三泊の宿をとることになってしまった。
実際、進むごとに酷くなる雨の申、野宿などできないと理性では思うものの、温かな寝床に横になるだけでなんだか涙が出てしまう。
今も、短い休憩をとる中、昨夜の宿で作ってもらった握り飯を手に、なかなか食も進まない。
「ツェリル殿、食べなければ体力が続きませんよ」
秀麗な美貌のナメルは、一見体力を使うことが苦手のように見えるが、ここまでツェリルを守り、先導して馬を走らせていた。
多分、ナメルがいなければ、ツェリルはアルシェクに着くどころか途中で力尽きていただろう。
「……雨、どんどん激しくなっています」
「ええ。
雷も鳴っているようですね」
「……川は……」
(もう、氾濫してしまった?)
口にすればそれが事実になりそうで、ツェリルは口を引き結んで言葉を飲み込んだ。
ナメルが言うように、激しい雨だけでなく雷も頻繁に鳴っている。
これはもう、嵐だ。
「既に軍は到着して、ドゥラコンの指示のもと対策を施しているはずです」
「……」
「雨季の被害は、これまでにも報告があがってきていました。
皇帝もその都度対策をされていましたが、バラッハ帝国は広い。
すべての領土を守るのは難しいものです」
「でもっ」
「ええ、それでも、今回のことは国の手落ちです。
中枢を担う一人として謝罪します」
ナメルに謝られても、ツェリルは心の中のもやもやを消し去ることができなかった。
ナメル一人のせいだとはもちろん思わないが、だからと言ってもっとちゃんと洪水対策をしてくれていたらと恨む気持ちもある。
聖女の自分がそんな私怨を抱くことだって良いことではないのに……ツェリルは大きな溜め息をついて空を見上げた。
(早くやんで……っ)
短い休憩を終え、再び急いで馬を走らせた。
そしてようやくツェリルは、翌日の昼前にアルシェクに着くことができた。
この時点でも雨は一向に止まず、むしろ酷くなっている。
故郷に着いてからの地理は当然のことながらツェリルの方が詳しいので、ナメルを先導するようにして川へと急いだ。
川は村から少し外れた場所にあり、その周りは畑もない広い草地だ。
昔増水し、畑が泥水を被って駄目になった上、その後数年はまったく使い物にならなかったらしいので、だんだんと農地として使う者が減っきたのだと聞いたことがある。
きちんと整備されれば、川沿いで日当たりも良いこの地は農作物を育てるのに好条件な土地なのだが、国境に近いアルシェクを監備する手はなかなか伸びてこないのが現状だ。
「あっ!」
降りしきる雨の中、馬を走らせていたツェリルは雨音以外の音を聞き取った。
やがて、それは目の前に突然現れる。
「すごい……!」
川辺に、無数の人間がいた。
アルシェクの人口は僅か二百人、その何倍もの兵士が川沿いに人力で土嚢を積み上げている。
川は既に増水していて、濁った色の水が凄まじい勢いで流れている中、男たちは大声で声を掛け合いながら、統率された動きで着々と今にも氾濫しそうなのを防ごうとしているのだ。
「……ドゥラコン」
「え?」
ナメルの声に慌てて視線を巡らすと、川辺に作られた簡易な木の櫓の上に探す姿があった。
全身ずぶ濡れで、泥だらけの姿のドゥラコンは、大きく響く声で何事か指示を出している。
(こんなにも早く……っ?)
ドゥラコンが川のことを聞いたのはツェリルと同じ日で、多少の時間の差はあったが同じ日にこのアルシェクに向かって王都を出立したはずだ。
ツェリルここまで来るのに約四日、それもかなりの強行軍だったのに、ドゥラコンはそれよりもさらに早く到着し、既に指揮を執っていることに純粋に驚いた。
ツェリルは馬から降り、早足で自分の脇を通り抜けようとした兵士をとっさに呼び止める。
服装から王都の部隊ではなく、元々このツァフォンの地区に配属された者のようだ。
「あのっ」
兵士は訝しげに振り向いたが、すぐに驚いたように目を瞠ってその場に膝をついた。
ツェリルはどうしてそんな行動を取られたのかわからなかったが、
「皇家の御方がわざわざこのような場所までお越しくださったとはっ」
感極まったように言われ、初めて合点がいった。
今回、ツェリルとナメルが乗ってきた馬の鞍には皇族所有の印であるバラッハ帝国の紋章が刻まれていたので、ツェリルとナメルも皇族だと勘違いして慌てて礼を取ってくれたのだ。
恐れ多いが間違いを指摘するよりも先に、ツェリルは櫓を指さした。
「あの、あそこで指揮を執っているドゥラコン殿は、いつこの地に到着されたのですか?」
「皇太子さまは昨夜遅くこの地にいらっしゃって、休む間もなく土嚢作りの指揮をされていらっしゃいますっ。
私たち以上に自らの御手も汚されて、兵士も村人も皆感激して……っ」
「昨夜遅く……」
まさか、そんなにも早い到着だったとは。
最速で馬を走らせ、その上、一睡もせずに指揮を執っているなどと、精力的なあの姿を見てもとても信じられなかった。
「……」
見つめていると、ツェリルは胸が苦しくなってきた。




